FC2ブログ

天上の舞 飛天の美

サントリー美術館に「平等院鳳凰堂平成修理完成記念 天上の舞 飛天の美」展を見に来ました。
空を飛び、音楽を奏で、舞い踊る天人「飛天(ひてん)」は、インドから中央アジアそして、日本にわたってきました、
この展覧会では、地域・時代を超えて展開 した飛天の姿を、彫刻・絵画・工芸の作品によってたどっていきます。
第一章 飛天の源流と伝播―インドから日本
第二章 天井の光景―浄土図から荘厳具
第三章 飛天の展開―来迎聖衆
第四章 平等院鳳凰堂―飛天舞う極楽浄土世界
会場は 4章で構成されていました。
天上の舞 飛天の美 大
インドから中国への第一章から、すごくインパクトがありました。
本当に飛んできただと感じます。
飛天を見ると、この井上靖の詩を思い出します、ということで、以前に井上靖の詩を「飛天・讃」をこのブログにひいたことがあります。
井上靖には、もう一つ「飛天と千仏」という作品があります。
『二十年程前に、一度飛天の夢を見たことがあります。深夜でした何百かの天女が衣の袖をひるがえして、天の一角に上がって行きました。最後の天女が消えるまで、遠くから微かに風鐸の音と、駱駝の鈴の音が聞こえていました。
    __(略)__ 
私は息をのんだ。天女の飛翔と、千仏の出動。長い人生に生起する出来事で、このように重厚、且厳粛に語られた例を知らない。』
飛天の像
「平等院鳳凰堂平成修理完成記念」とありますが、宇治の平等院鳳凰堂は、大修理を敢行中です。 その間に、堂内を彩っていた彫像が(表情豊かな国宝「雲中供養菩薩像」も全52体のうち14体が)東京へと飛んできていたのです。
寺外では初公開となる《阿弥陀如来坐像光背飛天》や《雲中供養菩薩像》などが、並んでいます。とにかく、鳳凰堂堂におられるときはこんなに近くでお目にはかかれません。
さらに、今回は、実際に像に触れて、「結縁(けちえん)」(=仏と縁を結ぶ行為)をしていただくことができました。私も、そっと触れさせていただきました。
スポンサーサイト



江戸城跡でみつけた玉川上水の石枡

上水の枡(ます)は、木で作った枡が多かったのですが、江戸城の周りは、清水谷公園の麹町通りにあった石の枡のような石で作った枡が多かったようです。
いくつか掘り出されて、見ることができます。
竹橋の壕近くにある石枡
まず竹橋のそばにある石枡です。紀野国坂に向かって、橋を渡る前の左側にあるのが下の枡です。土で埋まっています。
竹橋、近代美術館側にある石枡
橋を渡って、右側にあります。外側にすだれ状の縞の彫りがありますが、掘り出されてから彫られたものでしょうか、せっかくの模様も、少し隠れた位置に置いてあります。
二の丸庭園の石枡
二の丸公園にもあります。水をたたえて、紅葉を載せ、なかなか風情があります。いかされています。
和田倉門の噴水近くの石枡
和田倉門の噴水側の石垣のそばにもあります。一番下の石のようですが、真ん中に穴が彫られていました。雨で水がたまるを避けるためなのでしょうか。
石のどこかの面の下の方に半円形の出っ張りがあるのですが、動かす時に綱をかけるとろです。
どれも、約1メートルの穴を鑿(のみ)と金槌(かなづち)だかであけるのですから、とても大変だったと思います。もう少し大事にしてあげてほしいです。

江戸時代の麹町通りの玉川上水

麹町の現在
麹町に出てみました。
半蔵門から四谷見附を経て新宿へ通ずる新宿通 (旧甲州街道)に面する麹町は、江戸のはじめから商い町として開け、大工・左官 などの職人から、米屋・菓子屋 ・薬屋・人形屋・下駄屋などあらゆる業種の店が軒を連ねていました。麹町へ行けば何でも間に合うと云われていたようです。
清水谷公園 の大きな石桝が出てきたのは、千代田区麹町3丁目2番地先でした。
麹町3丁目2番地には、江戸時代、大きな呉服屋がありました。
岩城枡屋〔いわきますや〕です。
1677年に創業した呉服木綿問屋で、旗本屋敷を得意先とし、奉公人は200人余りもいたそうです。間口7間(約13m)の店構えを誇り、最盛期には間口35間( 約65m)まで拡がっていました。
いわきますや店前之図 菊川英山
「いわきますや前の賑わい」という菊川英山が描いた錦絵があります。
 制作時期は文政(1818〜I830)の半ばと判断されています。
画面右端には、大きな桶があり、そこから水を飲んでいる人物が描かれています。上水の水を振る舞っていたのでしょうか。あるいは、このあたり、井戸がたくさん掘られていたので、井戸の水だったのかもしれません。
傘を持つ男の衣装には反古染(ほごぞめ)風に文字が書かれています。これは「いわきあゐはん(=岩城合版)」と読むことができ、描かれている岩城升屋が制作費用を出資していることがわかります。
ところで、四谷見附から麹町通りに通じていた玉川上水の木樋は3本ありました。そのうちの南側の樋が武家、町家への本館でした。岩城升屋もここからひいたのでしょうか。
はっきり、上水記にははっきり4本の樋が、南にわけて、永田町の方へ向かっています。
大きな大名がそれぞれ、その本管から屋敷にひいていました。このうちの1本が松江藩(島根県)松平出羽守の屋敷に通じていました。その屋敷は、現在の衆議院議長公邸と赤坂東急ホテルがあるあたりです。屋敷には庭園があり、上水は滝になって落ちていました。この滝は玉川の滝と呼ばれ、町の評判だったそうです。
麹町切り絵図_edited-1

清水谷公園の玉川上水の大きな石枡

壊された赤坂プリンスホテルの隣にある清水谷公園に玉川上水に使われた大きな石桝があります。
昭和45年(1970)の麹町通り拡幅工事の際に千代田区麹町三丁目二番地先の道路で出土しました。このとき、もう一組、麹町警察署の前あたりにも出土しましたが、こちらはそのまま埋められたようです。なお、石桝とともに木樋も出土しています。
清水谷公園 の石桝 全体
発見された水道は、四谷門をわたり江戸城内に給水された玉川上水幹線です。
現在、2段ずつ積まれていますが、これは、4段に一緒に積まれていなければいけません。
でも、比留間博先生は、この積み方は、間違っていると指摘されました。そう言われればおかしいです。さらに、もう1段石碑があったのではないかとも言われました。
この石枡、きれいに四角に彫られていますが、大きな石を切り抜いて作るのですから、すごい技術です。
つなぎ目は凸凹に彫ってはめ込むようになっています。はめ込むとずれないし、水漏れも防げます。もちろん、一番下の石は底があります。そうして積みあげるとその深さは、4メートル近くになります。
四角に空いている穴には、木樋がはめ込まれます。この石枡では、その木樋をはめ込む穴の高さが入る口と出る口では違います。出口になる方の穴が高くなっているとのことです。
清水谷公園 の石桝 右側から
正しい積み方で、もう少し分かりやすく、展示してくれると良いなと思いました。
とにかく、この大きな石枡を見るだけで、江戸水道幹線の巨大さにただただ、驚かされます。

「紀の国坂赤坂溜池遠景」にみる玉川上水

昨年、玉川上水跡を、四谷大木戸(四谷4丁目)から江戸城へと歩きました。その最後の本丸の所を書きました。
玉川上水は、羽村から四谷大木戸まで43キロにわたって流れ、四谷の大木戸の所に来ます。上水は、ここから江戸に入り、地下に潜ります。四谷見附の橋までは石樋を通って流れ、それからは木樋になります。
市内にはいった上水の主流は、江戸城内と赤坂、虎門一帯、南は一部古川を超えて給水されたようです。
四谷見附から壕に沿って赤坂の方に向かった上水は、食違見附を過ぎたあたりから、白堀、つまり、地下でなく上を流れました。
これについては、長年玉川上水の研究にたずさわっておられる肥留間博先生から、フェリックス・ベアトの明治時代の写真と、広重の「名所江戸百景」の絵を見ながらお話を聞きました。
ここが地下でないのは、玉川上水以前にあった、溜池上水の遺構を使ったのではないかということでした。
溜池(ベアト撮影・部分)
写真はフェリックス・ベアトの「溜池」という写真です。実際は溜池でなく、赤坂見附の御門の前から現在の弁慶壕の方を撮ったものです。写真右手川に、堀に向かって緩やかに傾斜する土手が竹矢来で仕切られています。この竹矢来は紀伊徳川家中屋敷と井伊掃部頭の屋敷を仕切る境界線で、現在でいえば、弁慶橋が架かっているあたりです。
わかりにくいですが写真に、玉川家が祀った、玉川稲荷が写っていて、そこまでが白堀の玉川上水の流れがありました。
「紀の国坂赤坂溜池遠景」
広重の絵は、紀の国坂上から、坂下のお堀端を望むものです。名所江戸百景「紀の国坂赤坂溜池遠景」。
この絵には玉川上水の流れそのものは描かれていませんが、「玉川上水」の高札が描かれています。
元赤坂町よりの「江戸町方書上」(文政10年=1827)に、高札が町内に一か所、紀伊国坂下御上水端にあったことが記されています。
「定 この上水道にて魚を取り、水をあび、塵あくた捨てる輩あらば、曲事(くせごと)たるべきものなり。元文四己未年十二月 奉行」
この「紀の国坂赤坂溜池遠景」の絵は、どの位置から描かれたものだろうかと言えば、坂上ではなく坂を少し下ったあたりではないかということです。その位置で写真を撮ってみました。面影はないです。
現在の紀の国坂あたりから赤坂を見た

江戸東京博物館の体験コーナーの駕籠

「津山藩」参勤交代での藩主の駕籠
写真の大名駕籠は「津山藩」の参勤交代での藩主の駕籠です。
江戸東京博物館の体験コーナーで、乗ることができます。
これは、津山藩参勤交代図(津山郷土博物館所蔵)正式には「拾万石御加増後初御入国御供立之図」を参考に作られたものです。
津山藩参勤交代の図 殿様の籠
乗って見ました。ちょっと乗るだけでは乗り心地がよいですが、180里、何日間も乗るとどうでしょうか。
津山藩松平家は、津山藩を作った森家改易の後を受け、元禄11年(1698)に津山10万石の藩主として入封します。しかし、享保11年(1726)、2代藩主松平浅五郎が幼くして亡くなり、継嗣がいなかったため、5万石に減知されてしまいました。
それから、長く津山藩5万石の時代が続きますが、文化14年(1817)、50人もの子どもを作った将軍家斉の14子銀之助(後の斉民)を養子として迎えることにし、そのことで、5万石の加増を求め、10万石に復帰することができました。
この絵図は、加増の翌年の文政元年(1818)、当時の津山藩主松平斉孝が参勤を終えて津山に入国する際の行列を、明治17年(1884)に描いたものです。
描かれた人数は、5日前出発、3日前出発、前日出発、本隊、出迎えを合わせて812人。
参勤交代の行列図で、役職や氏名が書き込まれているものは少なく、貴重な資料とされています。
ちなみに江戸の津山藩邸は鍛冶橋にありました。

江戸東京博物館の「えどはくでお正月!2014」

両国の江戸東京博物館へ「えどはくでお正月!2014」に行きました。
6階入り口では、金屏風で、正月飾りが迎えてくれます。
えどはくでお正月 謹賀新年
からくり人形の実演「夢からくり」の公演をはじめ、「獅子舞」、「筝の演奏」、「新春!書初め体験」など 正月気分が盛り上がります。
ここでは1点、江戸歌舞伎の粋『助六』で登場する揚巻の打掛です。
「助六」の正月の衣装
『助六』冒頭、大勢の若い衆や禿を伴って登場する揚巻が纏うのは正月の縁起物をあしらった豪華な打掛です。
この打掛は年の最初の節句、1月7日「人日の節句」をモチーフにしていると言われています。
門松に羽子板、そして水引、うらじろ、伊勢海老、昆布、干し柿などが見られます。
豪華なお正月飾りそのものです。
干し柿については、「鏡もち」のいわれから。
正式な鏡もちには柿が飾られています。二つに重ねられたお餅とその上に、串に刺した干し柿、それにみかん(だいだい)です。
鏡もちは元来、年神様へのお供えとした餅のことで、その形は「 三種の神器 」鏡・玉・剣を表しています。
鏡が餅、みかんが玉、 干し柿 が剣です。
ちなみに餅を二重に重ねているのは「重ね重ね」という願う気持ちを表しているとか、陰(月)と陽(太陽)を表しているとも言われています。
ということで、干し柿は、「 三種の神器 」の剣でした。

東京国立博物館の「博物館に初もうで」のチラシの模様

博物館に初もうで チラシ
東京国立博物館の「博物館に初もうで」のチラシです。
なかなかユニーク、おもしろいなと思っていました。展示作品を観ていたら、この鯛の図案の大きなふくさがありました。
袱紗 紺繻子地鯛模様

<袱紗 紺繻子地鯛模様
江戸時代・18~19世紀 アンリー夫人寄贈>

りっぱでした。

東京国立博物館へ「博物館に初もうで」

今年も、恒例の新春企画「博物館に初もうで」に東京国立博物館へ行きました。
玄関でくり広げられる、和太鼓や紙切り芸、そして獅子舞など伝統芸能イベントも楽しいです。
大黒様の舞
博物館に初もうで 紙切り 林家二楽
もちろん展示もすばらしい。今年は、国宝では水墨画の至宝「松林図屛風」(長谷川等伯筆)や、中国清時代に描かれた作品をもとに独自の作品に転生させた「桜閣山水図屏風」(池大雅筆)などが特別公開されていました。
展示を拝観して、寛永寺根本中堂にもお参りしました。
寛永寺 根本中堂
もとの寛永寺根本中堂は、かつて、現在の噴水広場から東京博物館あたりにかけてありました。
元禄11年(1698)、現上野公園内大噴水の地に建立された根本中堂は、慶応4年(1868)彰義隊の戦争の際に焼失してしまったのです。
現在の根本中堂は、明治12年に川越喜多院の本地堂を山内子院の大慈院から移築し再建されました。
四天王像、十二神将像などの像と德川歴代将軍の肖像画が拝観でしました。

もう少し、多武峯内藤神社で。

多武峯内藤神社にお参りしたら、注連縄(しめなわ)がやや緑がかって新しく飾られていました。
この多武峯内藤神社の注連縄は、馬の形だと以前、聞いたことがあります。なるほど、右が頭で、左がしっぽで、足で4本、馬に見えるな、と思いました。
多武峰内藤神社 注連縄
しかし、どうも、この注連縄は「牛蒡注連」というしめ方のようです。
ごぼうのような形をしたしめ縄です。だんだんと細くなっています。
古来より左を神聖、右を俗(日常)と考えるので、神様からみたときに元の太い部分が左側になるように飾ります。
注連縄は、神道における神祭具で紙垂(しで)をつけた縄をさします。縄連縄、標縄・七五三縄とも書きます。
(ここでは、紙垂があまり目立たないと思ったのですが、それは足に見せたいからかな・・・?)
注連縄の種類には、
①真ん中が太く両側が細い「鼓胴注連(こどうじめ/つつみどうじめ)」
②太さが一定の「注連縄」
③だんだんと細くなって行くしめ縄、「大根注連(だいこんじめ」」、「牛蒡注連(ごぼうじめ)」(大根締めは両端がつぼまり、牛蒡締めは片側のみが細い)
があります。(
多武峯内藤神社の注連縄は、牛蒡注連です。(馬に見ても良いと思いますが)
輪飾りの縄も結びが梅の形になっていてすてきでした。
縄の結び方

ついでながら、「神馬」のこと。
神馬殿
奈良時代の『続日本記(しょくにほんぎ)』(797年完成)には「神の乗り物として生きた馬を奉納していた」と記されており、神社に馬(神馬=しんめ/じんめ)を奉納する習慣が奈良時代ごろから生れたようです。でも、それは大変で、平安時代には、簡素化されて、境内には馬の彫刻を飾り、奉納は馬から神馬を絵に書いたものに供え物を添えて奉納するようになりました。これが現在の、境内に彫刻の白馬が入った神馬殿(舎)を建てたり、絵馬を奉納するようになった起源であるといわれます。

新宿御苑のそばの多武峯内藤神社

新宿御苑のそばに、多武峯内藤神社があります。
多武峰内藤神社本殿
この神社は、もともと信州高遠の内藤家の屋敷神社で、現在の新宿御苑の中にありましたが、明治時代に新宿御苑の中から現在地に移り、現在は、内藤町の鎮守として守られています。
江戸時代の初め、高遠藩内藤家初代にあたる内藤清成が德川家康の江戸に入りの時先陣を努め、新宿御苑を中心にした土地を貰いうけた時に、内藤家の先祖は藤原鎌足と言うことで、藤原氏の氏神を勧請しました。
内藤氏が拝領した広大な屋敷地については伝説があります。
内藤清成は家康に仕えていましたが、天正18年(1590)、家康の江戸入府の際に、鉄砲隊を率いて名誉ある先陣を勤めました。
そして、鷹狩の際に、家康から「馬で乗り回した土地を全て与える」と言われ、白馬に乗って、東は四谷、西は代々木、南は千駄ヶ谷、北は大久保におよぶ範囲を一気に駆け巡り、広大な土地を拝領したのです。白馬は家康の元へ駆け戻った直後に倒れて、まもなく息絶えた、という「駿馬伝説」です。
新宿区内藤町の多武峯内藤神社には、この伝説をたたえる「駿馬塚の碑」が残っています。
その駿馬塚の碑と並んで、神馬殿があります。そこには、木造の白馬がいます。
神馬殿の白馬
正月、初詣に行ってみると、いつもは閉まっている神馬殿の扉が開いていました。
にんじんなどのお供えもあり、足下にはかいば桶もありました。
神馬殿 お供え
かいば桶
今年は午年、良い年でありますように。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR