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六義園「紅葉と大名庭園のライトアップ」

六義園 ライトアップ 2
六義園「紅葉と大名庭園のライトアップ」に行ってきました。
秋の夜に朱色や黄金色に色づく木々が浮かび上がり、水面にまばゆく映し出されます。
六義園は、五代将軍徳川綱吉の信任が厚かった柳沢吉保によって造られた和歌の趣味を基調とした回遊式築山泉水庭園です。
江戸時代に造られた大名庭園の中でも代表的なもので、明治期には三菱の創業者である岩崎彌太郎の別邸になりました。
さまざまな樹木が植えられ、その中にモミジやイチョウといった木々が鮮やかな秋の彩りを添えています。ライトに浮かび上がった、常緑樹の緑とあるいは大きな樹木と紅葉が織りなす幻想的な美しさは、気持ちをぞくぞくさせます。
六義園の紅葉ライトアップ 1
六義園 ライトアップ 3
六義園 ライトアップ 4
六義園 ライトアップ 5
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「徳川園」

徳川園の紅葉
「徳川美術館」へは何度か行ったことがありますが、「徳川園」は今回初めてでした。紅葉がきれいでした。
「徳川園」と「徳川美術館」がある地は、尾張徳川家第二代光友が元禄8年(1695年)に大曽根屋敷と呼ぶ別荘を営んだ地です。。
当時の敷地は約13万坪(約44ha)と大変な広さでした。庭園内の泉水には16挺立の舟を浮かべたという記録もあります。
徳川園の滝
徳川園の池
池泉回遊式の庭園で、清流が滝から渓谷を下り、海に見立てた池へと流れる土地の高低を利用したつくりになっています。
光友の没後、大曽根屋敷は、尾張藩家老職の成瀬、石河、渡邊三家に譲られましたが、明治22年(1889年)からは尾張徳川家の邸宅となりました。
その地に、現在、「徳川園」と「徳川美術館」が設定され、公開されているわけです。

名古屋城の石垣

美しい石垣
名古屋城の石垣は、徳川家康から命じられた20名の助役大名たちによって工事が進められました。土台となる石垣に使われた石の総数は10万個から20万個。それらの石は、石崎山・篠島・幡豆(はず)をはじめ、紀伊・讃岐地方から集められました。
石垣の全体の構造は乱積み(らんづみ)と打込接(うちこみはぎ)ですが、出隅部分には石材の長辺を交互に向けて積み上げる積木積技法・算木積み(さんぎづみ)を利用して積まれています。
天守の石垣の案内
城内の石垣には多種多様の記号を刻んだ石があります。
今回気に入った刻印は、名前が刻まれた石です。
天守台の石垣に「加藤肥後守内小代下総」と刻まれています。
刻印 「加藤肥後守内小代下総」
(土木工事)の助役を命じられた加藤清正は、天守閣の基礎である天守台を自ら進んで受け持ちました。天守台は、20 メートルもの高さに美しく積み上げた高石垣です。
ほかに、表二之門の近くには「た中ちくご守石」という刻銘もあります。
刻印「た中ちくご守石」
筑後の田中忠政 32.5万石です。

名古屋城、天守の雄姿

名古屋城に行きました。紅葉の中にさえる、お城の散策、とても良かったです。
名古屋城 天守閣
名古屋城は、徳川家康が九男義直のために天下普請によって築城されました。
天守は層塔型で5層5階、地下1階、その高さは55.6メートル(天守台19.5メートル、建屋36.1メートル)と、18階建ての高層建築に相当する高さでした。慶長17年(1612)に完成し、以来300年以上、何度かの震災、大火から免れ、明治維新後の廃城の危機も切り抜けてきました。しかし、昭和20年(1945)の空襲で残念ながら焼失してしまいました。
昭和32年(1957)名古屋市制70周年記念事業として、天守の再建が開始されます。
このとき、大天守を木造とするか否かで議論がありましたが、焼失で傷んだ石垣自体に建物の重量をかけないよう配慮するため、天守台石垣内にケーソン基礎を新設し、その上に鉄骨鉄筋コンクリート構造(SRC造)の大天守を載せる「外観復元」としました。
竣工は昭和34年(1959)10月1日でしたが、あいにく伊勢湾台風襲来直後だったため、竣工式は、簡素な形で行われました。
再建大天守は5層7階、城内と石垣の外側にはエレベータが設置されており、車椅子でも5階まで上がることができるバリアフリー構造となっています。
外観はほぼ忠実に再現されています。
天守閣 2
天守閣 3
天守閣 4

「横山大観展 ー 良き師、良き友」

横山大観 ポスター
横浜美術館の「横山大観展 ー 良き師、良き友」に行きました。
横山大観は、だれもが認める近代日本画壇を代表する巨匠です。「良き師」岡倉天心に教えをうけ、大正期に共に歩んだ「良き友」、今村紫紅(いまむらしこう)、小杉未醒(こすぎみせい、後に放菴と改号)、小川芋銭(おがわうせん)、冨田溪仙(とみたけいせん)との交流から、その作品の変貌をさぐる試みです。
特に、今回は、大観がさまざまな挑戦をしながら、作品を生み出した大正期に焦点を当てながら、明治から昭和初期までの大観芸術の魅力を約140点の作品で紹介しています。
展示の構成。
第1章:良き師との出会い:大観と天心
・天心との出会い
・日本美術の理想に向けて
第2章:良き友ー紫紅、未醒、芋銭、渓仙:大正期のさらなる挑戦
・水墨と色彩
・構図の革新とディフォルメ
・主題の新たな探究
第3章:円熟期に至る
良き友といわれる人の作品も多く展示され、ただ、眺めていると、意図がつかめません。
丁寧に何度も、見返しながら、考えながら見なければいけないでしょう。
横山大観「夜桜」
今回のポスターにも使われている横山大観の代表的な作品「夜桜」は、溪仙の「祇園夜桜」作品から刺激をうけて描かれたようです。その「祇園夜桜」は大観がちゃんと所蔵していたそうです。そうした関係性がつかめると、さらに深い印象を受けます。
また、この芋銭という人は、イノシシの頭を手に、万歳をしているお坊さんとか、ユーモラスな絵を描いていて、もっと見たくなります。
富士を中心にした、大きな大観の作品展というより、何か身近に感じられ、親しみを覚えました。

玉川上水と公園樹木を切り裂く28号線

西武鉄道国分寺線の鷹の台駅の近く、玉川上水流れに接して小平中央公園があります。
もともとは、日本蚕糸科学研究所の研究桑園と蚕種研究室があった所だということです。
小平中央公園
現在は、総合体育館、野球場、400mトラック、テニスコートなどの体育施設を備えている公園です。
きれいな銀杏並木、噴水、「じゃぶじゃぶ池」、そして保存樹林があり、保存樹林にはカブトムシやコクワガタなどが生息しているのだそうで、子どもが夏休みには集まります。400mトラックの周りにはソメイヨシノが植えられていて、春は花見客が大勢来るだろなと想像できます。
この、小平中央公園を、玉川上水を横切って、28号線が通ることになっています。その道路の建設によって、玉川上水は一部埋められ、雑木林の481本の木が伐採されます。
今年の5月26日にその建設に対して合否の住民投票がされました。話題になりましたが、市長の「投票率50%以上でないと住民投票は無効」とする改正案により、投票率が50%に達しなかったので、建設は続行されることが決定されました。
せめて開票を、の声もつぶされました。
私は、ひどいなという感想を持ちました。
そもそも、この小平都市計画道路は50年も前に計画されたものです。4車線で、幅が36m。府中街道の3倍以上の大きな道路です。玉川上水の遊歩道が分断され、小平中央公園の雑木林のほぼ半分が切断される。そんなこと、本当に良いのか、と思います。
建設費用は、約250億円。そして、約220世帯が立ち退きとなると聞きます。(小平都市計画道路に住民の意思を反映させる会 Webサイトより)。道路は車のためです。車のための道、という発想は、反省されているのではないでしょうか。
東京都は、このところ、道路の必要性を説明するために、震災時に延焼を防ぐために広い道路が必要と主張しているようです。
これは、納得できる説明ではありません。樹木の延焼防止効果の方が信用できます。
愛読している「アースダイバー」の中沢新一氏は「50年前に計画された道路計画が長らく凍結されていたが、今回の政権交代後に計画が一気に再燃した。そのトップランナーが小平市。これを放置しておくと、いろいろな形で公共事業が復活してしまう」と話しています。
これまで、なんとか押さえられていたことが、好き勝手な形でどんどん推し進められきて、不安になります。
玉川上水の遊歩道

胎内堀

玉川上水を歩く
しばらく右側に玉川上水、左側に小川分水が並行して通っていました。
小川橋から先は新堀用水となって玉川上水と並行して続きます。
看板に案内が記してありました。分かりやすいので、引用します。
小川分水と新田開発の看板
<小川分水と新田開発>
承応(しょうおう)2年(1653)の玉川上水の開通は、江戸市民ののどを潤しただけではなく、武蔵野台地をも活気づけました。玉川上水からの分水によって飲み水が得られ、それまで原野だった場所が開拓されて人が住めるようになったのです。
小川村の新田開発が明暦(めいれき)2年(1656)に許可され、最初に行われたのが小川分水を掘る工事でした。分水口は現在の東小川橋付近に設けられ、その大きさは一尺四尺(30.3cm x 30.3cm)でした。
文化4年(1807)には小川橋上流のこの地に分水口が付け替えられ、明治3年(1870)には玉川上水の北側に新堀用水(北側新井筋)が掘られます。野火止用水の取水口に接して新しい分水口が開かれ、小川分水から千川上水までの7つの分水口が埋められて1つの水路に統合されます。新しい分水口からここまでの900メートルは地下水路で、胎内掘(たいないぼり)とよばれています。
平成16年(2004)3月
小平市教育委員会
小平市生活文化部産業振興課
胎内堀(新堀用水)
この辺りの玉川上水は深かったので、新堀を掘るにあたって、地表から掘り進めるのは大変だったので、地下トンネル水路を掘りました。これを胎内堀と言います(明治3年竣工)。

玉川上水を歩く 小平監視所(旧称:小平水衛所)

11月3日玉川上水を歩きました。羽村から開始しての3回目です。
玉川上水駅前10:30出発⇒小平監視所・上水小橋・清流復活の碑⇒足湯⇒新堀用水・胎内堀⇒小川橋⇒東京都薬用植物園(昼食)⇒きつねっぱら公園⇒小島水車跡⇒小平市中央公園樹林帯(都市計画道路3・2・8 号線予定地)⇒小平市中央公園丘(西武国分寺線鷹の台駅東隣15:00 解散) 〈歩行距離 約6KM〉
小平監視所
小平監視所(旧称:小平水衛所)は、羽村取水堰から引き入れた多摩川系表流水を東村山浄水場、および現役の農業用水路である新堀用水の双方に送水しています。ここでは、主に表流水中に含まれる土砂やゴミの沈殿・除去及び水質監視を行います。また、以前は、野火止用水が玉川上水から分岐する場所(取水口)でした。現在は、野火止用水の小平監視所から西武拝島線東大和市駅前までの区間は廃止されて埋め立てられ、東大和市駅前から下水処理水が野火止用水に放流されているとのことです。
またこの小平監視所が「玉川上水を歩く」という視点で見て特に大切なことは、現在の羽村からの玉川上水は、この小平監視所で終えてしまうということです。ここより下流は多摩川上流水再生センター(昭島市に所在する下水処理場)で処理された下水処理水が放流されているのです。
その放流地点には「上水小橋」と呼ばれる橋(人道橋)が架けられていて、玉川上水本流まで降りることができる数少ない場所となっている。
復活水の放流口
玉川上水清流復活記念碑
小平監視所より下流は、かつては多量の水が新宿区の淀橋浄水場まで送られていたものの、昭和40年(1965)の淀橋浄水場廃止とともに送水を停止し、以降は水道施設としての利用はありません。 その後長いあいだ“空堀”状態でしたが、昭和61年(1986)以降、都の策定した「清流復活事業」により水流が復活しました。昭島市宮沢町にある多摩川上流水再生センターで、高度二次処理を施した下水が、このために送水されてきています。
岩場から水が湧き出ているように演出されている清流復活“の源頭は、小平監視所のすぐ下手にありました。
上水小橋から見た玉川上水

ターナー展

上野の東京都美術館で開催されている「ターナー展」を11月のはじめに見たのですが、その後、いろいろと仕事が重なって記録できませんでした。
この「ターナー展」は、世界最大のターナー・コレクションを誇るロンドンのテート美術館から、油彩画の名品約30点以上に加え、水彩画、スケッチブックなどを加え約110点が展示されています。それこそ初期のアカデミックな作品から晩年の実験的な作品まですべてをたどることができます。見応え十分の展覧会でした。
ターナーは19世紀前半に活躍した英国の画家です。そのころは、ちょうどナポレオンが活躍した時代で、しばしば海戦が勃発していたこともあり、ターナーも海を描いた大作を多く残しています。ターナーは、生涯を通して「海」は重要なテーマでした。海を眺めても、晩年には抽象画を思わせる独自の画風に変化していく様子が見られ、とても興味深いです。
英国では、現在、国民画家としてだれもが知っていて、人気投票では常に1位にあるようです。
私がターナーの名前を意識したのは、夏目漱石からです。つい最近も「夏目漱石の美術世界展」が東京芸術大学大学美術館で開かれていましたが、そのとき、ターナーの作品も展示されました。夏目漱石の「坊ちゃん」の中に出てきます。その有力な作品の候補といわれる「チャイルド・ハロルドの巡礼―イタリア」も出品されていました。
傘のように伸びた一本松が印象的で、夏目漱石の「坊っちゃん」の中で、赤シャツが、幹が真直で上が傘のように開いた松を見てターナーのようだと言ったのは、漱石がターナーの絵を印象に残していたからでしょう。
ターナー 『金枝』
「あの松を見給え、幹が真直で、上が傘のように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だにいうと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから黙っていた。――『坊っちゃん』より
ターナーと言えば風景画です。当時の画壇の風潮として、風景画は低く見られていたために、
いろいろ苦労し、風景画を認めさせようと、いろいろ挑戦していったようです。それもきちんと感じられる展示でした。
さらに、水彩とかデッサンとか、挿絵とか、そうした小品もたくさんあり、私としては、そした作品はとても好きで、会場は混んでいたのですが、待ってじっくり見ました。
ターナーが使っていた絵の具箱も置かれていました。チューブが発明される前には、豚の膀胱に絵の具を入れていたようで、黒ずんだ小さな袋や瓶が並べられていました。その中で、チューブが一つだけあり、解説によるとこれがクローム・イエローということで、ターナーの黄色は注目されていた色だったようです。
ヴァティカンから望むローマ
《ヴァティカンから望むローマ、ラ・フォルナリーナを伴って回廊装飾のための絵を準備するラファエロ》 1820年

「東京都薬用植物園」見た薬用としてのキク

玉川上水を歩く会で、途中、小平市にある「東京都薬用植物園」によりました。
薬用植物を収集・栽培している研究機関です。昭和21年(1946)の設立以来、薬用植物の収集、栽培、研究、見本の保持などをしている施設です。都内で唯一「ケシ」の栽培をしています。
その庭園でキク(菊)を拾ってきました。
キク
キク
まさにそのままキクです。薬用部分は頭花。漢方処方用薬。頭痛、眩暈などを呈ずる疾患・原産は中国です。

シマカンギク
シマカンギク
これもキクと同じ薬効です。日本、中国、朝鮮半島、インド。

リュウノウギク
リュウノウギク
薬用部分は地上部。民間療法で、冷え性、神経痛、凍傷、浅い切り傷などの治療に浴料とする、とありました。
原産は日本で福島以西。

アワコガネギク
アワコガネギク
薬用部分は葉、花。入浴剤。花を漬けた食用油をやけど、切り傷、打撲などによる外傷の添付する。
日本(本州、九州北部)、中国北部。

シロバナムシヨケギク
シロバナムシヨケギク
いわゆる除虫菊です。薬用部分は頭花、蚊取り線香など殺虫剤の製造原料。
バリカン半島

そして、もう一つ、リョウリギク
リョウリギク
別名 ショクヨウギク
キクの園芸種から選別された栽培品種で、頭花うぃ食用とします。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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