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青梅駅からの旧青梅街道沿いに、映画看板のあるお店

青梅駅からの旧青梅街道のお店には、数々のなつかしい邦画・洋画の映画看板で彩られています。看板はよく撮れていませんが、映画看板のあるお店を並べます。
昭和レトロ商品博物館
「昭和レトロ商品博物館」丹下左膳と弁天小僧の映画看板です。左隣は「青梅赤塚不二夫会館」です。
青梅街道 祭り用品の店
「リオブラボー」と「無法松の一生」です。
青梅街道 傘屋さん
傘屋さん。マークも工夫があります。映画は「雨に歌えば」、まさに傘屋さんにぴったりです。
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ホキ美術館 光と風をかんじて……展

千葉市最大の公園である「昭和の森」に隣接し、窓からの光を取り入れた回廊型ギャラリーとして注目されているホキ美術館の「光と風をかんじて……展」に行きました。
ホキ美術館「光と風を感じてのポスター」
上は展覧会のポスターですが、美術館の展示室内がよく表現されています。女の人が見ているのは写実絵画の作品です。
今回は、「光と風」をテーマに、23名の人気作家の約60点で構成した展覧会です。
作品群を次のテーマで分類されると、わかりやすいです。
<室内の光―静物 >
静かな時が流れていきます。手に触れることができるかのような、花、布、パン、磁器などその質感をじっくり味わいます。
<窓からの光>
画家が好む北窓は、光が常に安定しているといいます。やわらかな光を受けて、おだやかな時が流れる室内の情景を描いた作品です。
<人物にあたる光 >
あるときは劇的に、あるときは象徴的に、光の生み出すさまざまな表情が感じられます。
<モノトーン >
セピア色の懐かしさ。まぶたの裏の光景が目の前に広がります。音楽も聞こえてきそうです。
<屋外の風 >
画家が選び、切り取った風景。心地よい風が吹き抜けていくのを感じます。
という構成の展示です。
会場で、絵を見始めると、そのリアルな表現に圧倒されます。思わず、「すごい」、「写真みたい!」とつい声を出してしまいます。
ほんとうにすごいです。ものすごくリアル。発する感嘆の言葉は、描く技術に対する賛嘆なのですが、「写真のよう!」というのは、まずいです。写真では、このようにいきません。
別のリアルさです。
同じようにリアルといっても、そのスタンスは、人によってかなり違います。それは単にものを写しているのとは違うということです。その微妙な差異を感じるだけでも、感動です。
絵を見て、入り口にある、レストラン「はなう」でランチをとりました。ホキ美術館は、今回で3回目です。ここに来ると、この「はなう」で食事をします。窓から昭和の森が見えます。それに美味しいのです。
写実絵画ばかりの美術館。そういう意味で、ホキ美術館はユニークで、遠方から多くの人がやって来ます。

「印象派を超えて―点描の画家たち ゴッホ、スーラからモンドリアンまで」

「印象派を超えて―点描の画家たち ゴッホ、スーラからモンドリアンまで」を国立新美術館に見に行きました。
19世紀末から20世紀前半のヨーロッパ絵画では、色彩が外界の事物を再現するという役割から開放され、ひとつの表現として確立していったとみられます。
色彩の独立は、印象派の筆触分割に、その萌芽を見出すことができ、新印象派の代表的な画家とされるスーラは、印象派の感覚的な筆触分割には飽き足らず、科学的な知識をもとに独自の点描を開拓。色彩を小さな純粋色の点に還元する、点描という斬新な技法は、シニャックによる理論化にも後押しされて、フランスを超えてヨーロッパ各地に瞬く間に広がったようです。
オランダからパリに出てその点描技法を目の当たりにしたファン・ゴッホは、その作品から、大きな着想を得て色彩を探求します。でもその技法は大変な忍耐力を必要とし、ゴッホの性格にはむいていなかったので、彼はその技法を独自の表現で開花させました。
点描を通過して、抽象宇絵画へと進むモンドリアンは、水平と垂直の直線のみによって分割された画面に、赤・青・黄の三原色のみを用いるというストイックな原則を貫いた一連の作品群でよく知られています。
印象派を超えて―点描の画家たち ゴッホ、スーラからモンドリアンまで
展覧会の構成は
Ⅰ 印象派の筆触
Ⅱ スーラとシニャック 分割主義の誕生と展開
Ⅲ ゴッホと分割主義
Ⅳ ベルギーとオランダの分割主義
Ⅴ モンドリアン 究極の帰結
となっています。
Ⅳのオランダとベルギーの分割主義を採用した画家達を紹介したコーナーは、知らない作家のばかりでしたが、作品に惹かれるものが多かったです。
この展覧会は、ファン・ゴッホの優れたコレクションで知られるオランダのクレラー=ミュラー美術館の特別協力で開催され、展示の主要作品は、その美術館のものです。ビデオで見たのですが、とてもすてきな公園の中にあり、ゴッホの南仏の街アルルのはね橋を描いた「ラングロアの橋」や「夜のカフェテラス」、サン=レミ時代の「糸杉と星の見える道」などの代表作も持っているようで、行ってみたいなと思いました。

青梅 金剛寺の「将門誓いの梅」

青梅天ケ瀬にある真言宗豊山派金剛寺は、青梅山無量寿院と号し、本尊は白不動画像です。承平年間(931~938)の創建と伝えられ、開山は寛空上人とされています。
金剛寺境内
金剛寺は、しっとりした感じの良いお寺でした。
本堂右手前にあるのが、天然記念物に指定されている青梅(あおうめ)です。
将門がある時この地にきて、馬の笞(むち)代わりにしていた梅の枝を地面につきさし、「わが願いがかなわないならば枯れよ」といわれたが、枝は根づいて枝葉が繁茂したといいます。 秋まで青いままの実をつけているという珍しい梅で、「青梅」という地名の元になったとも言われています。「将門誓いの梅」と呼ばれています。
金剛寺の青梅
この青梅は3代目といわれ大正11年(1922)に東京都の天然記念物に指定されています。
青梅市周辺では、江戸時代から、梅の栽培が盛んに行われてきました。この青梅は植物学的には突然変異であるとされているようですが、梅が食用に品種改良される前の原種かも知れないとも言われます。
大きな桜の木もあり、春にもう一度来てみたいと思います。

青梅駅から青梅街道・青梅宿

JR青梅駅周辺は、「昭和」で町おこしをしています。青梅駅を下車すれば、駅からなつかしい邦画・洋画の映画看板で彩られ、町には当時の生活雑貨を集めた博物館もあります。この町に入ると、ゆったりと時間が流れる、不思議な感覚に包まれます。
青梅駅ホームの閉店したお店
駅を出てまっすぐ進むと、青梅街道に出会います。
青梅街道
青梅街道は、江戸時代には新宿の伊勢丹前の追分で甲州街道と分かれ、中野、田無、小平、青梅、大菩薩(だいぼさつ)峠、塩山(えんざん)を経て、甲府東郊でふたたび甲州街道に合します。
青梅街道は、青梅に近い成木(なりき)村の石灰を江戸城の白壁などの材料として運んだので成木街道ともよばれました。
また、御嶽山への参詣や、甲州街道の裏街道として利用され、江戸末期には志士や凶状持ちがよく通ったといいます。薪炭などの林産物や武蔵野新田の農産物の輸送にも利用されました。距離は約167km。
青梅街道沿いの町並みは、今でも、連子格子や二階が蔵造りの古い家や蔵が残っていて、青梅宿の趣を伝えています。
ますは、大正元年創業の蕎麦屋「大正庵」に入り、そこで昼食のそばをいただきました。
市民会館を過ぎ、左手には、宿場時代をしのぶ古い造りの家が続きます。米穀商だった明治27~28年築の玉川徳太郎家。青梅坂下信号すぐの瀧島家は織物問屋だった明治初年築の蔵造りの家。はす向かいの柳屋米店小林又右衛門家は、明治9年築。初代は元禄13年(1700年)で、現在は13代当主で今も米屋、お茶屋を昔の店造りで営業しています。
旧稲葉家住宅
そして、江戸後期に母屋が造られたと言う旧稲葉家住宅が右手にあります。
青梅宿の町年寄を勤め、材木商を営み青梅縞の仲買問屋となり、最盛期には江戸に支店を持つほどの青梅でも有数の豪商でした。保存されている蔵造りの母屋は、店舗と住宅を兼ねた江戸末期の建物で、都指定文化財です。
熊野神社とカシの木
もう少し歩くと、熊野神社があります。ここは、森下陣屋跡です。八王子代官大久保長安が多摩川の中・上流域支配と同時に設置した陣屋で、延享元年(1744)に廃止されるまで約150年間続きました。熊野神社のカシの木は、市内最大級とのこと。ここは、右に左に鍵の手のように曲がる枡形になっており、この先は裏宿と呼ばれ、青梅宿は、ここまでです。

アザミ(薊)

アザミの花
アザミ(薊)は、日本の秋を代表する植物の一つです。私たちにとってとても身近な花です。それは古くから私たち日本人に親しまれてきました。アザミはそれこそ、北海道から沖縄まで日本全土に広く分布し、また海辺から高山の頂にまで咲き、ありとあらゆるところでアザミは目にすることができるからでしょう。実際、日本には150種を越えるアザミが生育しています。しかし、普通に山野に見られるのはノアザミがほとんどです
アザミの多くの種類は、食べられます。新芽や根は、天ぷらなどにして山菜として食べます。根は煮たり、漬物やキンピラにします。「山ごぼう」や「菊ごぼう」などといわれることもあり、味噌漬けなどの加工品として山間部の観光地・温泉地などで販売される「山ごぼう」は多くは、栽培されたモリアザミの根だということです。
アザミの名前の由来はとしては、「植物名の由来」(中村浩・1980)には、「アザムという言葉は、アサマから転訛(てんか)したもので、傷むとか傷ましい、の意である」という解説があります アザミに触ると刺があり痛いので、アザム草が転訛してアザミと呼ばれるようになりました
アザミの開いた花
こういう言葉があります。「薊の花も一盛り」 あざみのはなもひとさかり 。
薊の花も一盛りとは、器量のよくない女性であっても、年頃になるとそれなりの魅力や色気が出るものだというたとえです。同じような言葉に、南瓜女も一盛り、蕎麦の花も一盛り、娘十八番茶も出花 があります。
少し小ぶりのノハラアザミ
歌で思い出すのは「あざみの歌」です。

「あざみの歌」 横井弘作詞・八洲秀章作曲
山には山の 愁(うれ)いあり
海には海の 悲しみや
ましてこころの 花ぞのに
咲しあざみの 花ならば

高嶺(たかね)の百合の それよりも
秘めたる夢を ひとすじに
くれない燃ゆる その姿
あざみに深き わが想い

いとしき花よ 汝(な)はあざみ
こころの花よ 汝はあざみ
さだめの径(みち)は はてなくも
香れよせめて わが胸に

「ミケランジェロ展 天才の軌跡」

「神のごとき」と称されたイタリア・ルネサンスの巨匠、ミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564)の創造の軌跡に迫る展覧会「システィーナ礼拝堂500年祭記念 ミケランジェロ展 天才の軌跡」を、東京・上野の国立西洋美術館に見に行きました。
この展覧会は、ミケランジェロの子孫のコレクションを引き継ぐイタリア・フィレンツェの美術館「カーサ・ブオナローティ」の所蔵作品で構成されています。
もちろん、ミケランジェロ展と言っても、システィーナ礼拝堂の天井画などが、運ばれることは絶対にできないわけで、今回の展覧会は、そうした偉大な作品の創造的プロセスを、デッサン、下絵などを通して、その制作の秘密に迫る展覧会といえるでしょう。  
と言っても、ミケランジェロは作品制作の過程で描いた素描や下絵の多くを自ら処分してしまったそうです。それは、技術流出を恐れてということです。それでも残されていた貴重な、システィーナ礼拝堂天井画のために描いたデッサンが、今回の展覧会では紹介されています。
システィーナ礼拝堂の天井画は、イタリアで実際に見ていたので、すごく感動しました。若いころイタリア旅行をして、見ていて良かったと思いました。
今回の目玉の作品は特に、次の2点でしょう。
まず1点は、ミケランジェロ15歳前後で制作した、(日本初公開の)大理石のレリーフ「階段の聖母」1490年頃です。もう1点は89歳でこの世を去る1年前に制作された「キリストの磔刑(たっけい)」1563年頃です。これは、ミケランジェロが遺した木彫作品の2点のうちの1点ということです。(因みにもう1点もキリストの磔刑です)。
ミケランジェロ「階段の聖母」
「階段の聖母」は、初期の大理石浮き彫りの傑作で、長期間貸し出しされるのは史上初だそうです。サイズは小ぶりですが、赤子のすべすべ肌のような大理石の彫刻。マリアの腕に抱かれた幼子イエスの肌をそのまま表現したかのようです。
「腰かけるマリアのまなざしは幼子の未来の受難の吉兆を感じさせ、『聖母』というテーマに対するミケランジェロの熟考の表れを感じることができる」と解説されていました。たとえば、幼子イエスを抱えるマリアがイエスの顔が見えなくなるほど服で覆い隠しているのは、イエスの最後を暗示している、ということです。
「キリストの磔刑」
「階段の聖母」が15歳という若さなら、「キリストの磔刑」はミケランジェロ最晩年89歳の木彫です。写真ではわかりにくいと思いますが、30㎝にも満たない小さな作品です。
こちらは、鑿(のみ)跡を見せて、日本で言えば、円空仏のような木彫ですが、円空とは対象的に鑿運びが非常に精密です。深くえぐれた腹、荒削りな顔など素朴な表現が印象的です的そして、背面は彫られていません。
会場の中で、大型画面の4Kシアターにスティーナ礼拝堂が映し出されていました。
4Kとはハイビジョンの4倍の高解像度を誇る最新鋭の映像フォーマットです。
今回システィーナ礼拝堂の中に、日本の放送局として初めてTBSの超高精細4Kカメラが入り撮られたものです。これはきれいでした。ミケランジェロの力強いそして精緻な表現が、圧倒的臨場感で映し出されました。

虚無僧の寺「鈴法寺(れいほうじ)」

新町の旧吉野家から少し先に「鈴法寺跡」が公園となってあります。鈴法寺は廓嶺山虚空院鈴法寺」という「普化宗括総派」の総本山で、全国に120のお寺の末寺を持つ普化宗諸派の触頭(ふれがしら)でした。千葉県の一月寺と並んで関東普化宗の総本寺格の扱いを受けるようになりました。
鈴法寺跡碑
鈴法寺の成り立ちは、新町村を開拓した吉野家の古文書に次のように書かれています、「慶長18年(1613)、吉野家の先祖が、この辺 一帯を新田開墾し、井戸堀人足を探しに川越に行った折、忍城落城の時討死にした同僚の秋山氏の倅に会い、彼のために、敷地内に鈴法寺を建ててやった」
吉野織部之助は、行田市の忍城主に仕えた武士でしたが、落城後、村の土豪として身を立て、名主となりました。新田開拓にあたり、井戸を掘る技術者を探すために行脚の旅に出たところ、川越で、かつて忍城での戦死した同士(秋山惣右衛門)の子(惣太郎)に出会います。惣太郎は「月山養風」と号して、現川越市の葦草村(いぐさむら)の「鈴法寺」の住職となっていました。惣太郎は、織部之助の新田計画に協力し、新町村にその寺が移設されることになるのです。
新町の鈴法寺跡は、いまは見る影もなく、跡の碑が建つだけの公園になっています。
明治4年(1871)10月28日の太政官布告で普化宗は廃宗となり、寺も廃寺になりました。そして、残された伽藍も明治28年(1895)の火災で焼失してしまい、現在は鈴法寺公園となり、公園の奥に歴代住持(住職)の石塔が10基並べられ、それが、唯一鈴法寺のありかを知らせます。
歴代住持の石塔
普化宗は、普化禅宗と呼ぶのが本来の呼び名で、禅宗から生まれた一派です。
唐の時代に普化禅師という人がいて、この人が、竹の切り口に風が当たって音を発する調べを聴いて悟りを開いたことから始まったと言われます。
また、普化禅師が入滅する際に、鈴を振り続けて昇天し、鈴の音色だけが虚空に残ったことから、寺の名称に鈴法とか虚空とかを用いたのだそうです。そして、竹の切り口に当たる風の音を再現するために尺八が生まれたのだと伝えられます。
日本に広まったのは、鎌倉時代に和歌山の興国寺の法灯円明国師という人が、宋に渡り、普化禅師から16代後の張参という坊さんから「虚鐸」という尺八の曲を授けられたことから始まり、江戸時代には隆盛を誇りました。
虚無僧になれるのは、武士で、浪人とか武者修行の武士関係が多かったようです。
かつての時代劇にはよく虚無僧が登場しました。テレビ創世記に人気のあった、「隠密剣士」、大瀬康一の虚無僧姿が目に浮かびます。
虚無僧は、必ず三印三具を身につけます。三具とは、尺八、天蓋、袈裟です。三印は、免許状、虚無僧証明書、諸国往来自由の通行手形です。「無檀無縁」の虚無僧は、これを持ちながら、家々を廻り布施を受けながら、尺八を吹く修行を重ね全国を放浪しました。
「虚無僧」を宗徒とし、無檀無縁の自力本願を旗印にした宗派です。彼らには、幕府の保護もあり、虚無僧が門前に立てば米かお金を喜捨しなければいけないとか、日が暮れれば泊めてやらなければいけないというようなお達しまで出ていたようです。
そうした幕府の保護が、明治になって廃宗となる一因であったかもしれません。
鈴法寺井戸跡の石碑
前の青梅街道に道には、「鈴法寺井戸跡」の石碑がありました。ここにも井戸が掘られていたのです。

新町の「大井戸」

新町御嶽神社南側の雑木に囲まれた大きな窪地があります。古くから近在の人々に「新町のおいど」と呼ばれてきた井戸です。一般的に、かたつむりのようなほりかたから「まいまいず井戸」と呼ばれます。
青梅新道の大井戸
現在残る「まいまいず井戸」の中では大型のもので、東西約22m、南北約33m、深さ7mほどあります。
掘られた時期ははっきりしませんが、武蔵野の原野を走る「古青梅街道」と「今寺道(秩父道)」の2本の古道が交差する位置にあることから、江戸時代の開発以前からあった井戸と見られています。
ただ、一説には、この大井戸は、新町の開村と密接なかかわりを持っているとみられています。
新町は、江戸時代初期、吉野織部之助によって開かれたと言われていますが、開村について織部之助が記録した「仁君開村記(じんくんかいそんき)」に「開村当初、生活用水を得る井戸がなかったため、五基の井戸を掘る計画を立てた。」と記載されています。その中の「塩野仁左衛門井」と書かれている井戸が、この大井戸だということです。
この塩野の井戸は、慶長19年(1614)1月15日に工事を開始し、56日をかけ、3月10日に完成しています。
ただ、同時期に掘られた他の井戸は、筒井戸で、大井戸とは形態が大きく異なります。このことからこの大井戸は、開村以前から存在していて、擂り鉢状の井戸だったものを改修して使用したのではないか、ということです。
大井戸は18世紀中ごろまで使用されていたようです。東京都指定史跡となり、大井戸公園として整備されています。

新町桜株の石灰岩の庚申塔と馬頭観音

徳川家康は、慶長11年(1606)から江戸城の大改修を開始しました。
その江戸城大改修のため、八王子陣屋に詰める代官大久保長安に、青梅の成木村で採れる石灰を供給するよう命じます。大久保長安は、石見銀山・佐渡金山をはじめとする鉱山開発、それに付随する交通網の整備を任されていた人物だったようです。
そこで、まず、成木から江戸城まで石灰を運ぶ道を造られました。これが成木街道、別名石灰街道・あく(灰汁)つけ街道であです。当初は、青梅を通っていませんでしたので、成木街道と呼ばれていたのでしょう。やがて、青梅を結ぶ、青梅街道となります。この青梅街道は、石灰を産地である武州多摩軍上成木村・北小曽木村(現青梅市)から石灰を運ぶために作られた街道で、成木を起点に江戸城の半蔵門を結んだ道です。中野~田無~小川~箱根ケ崎~藤橋等に継送りのための宿駅が設けられていました。
庚申塔
馬頭観音
新町桜株の交差点には、庚申塔(文化14年(1817))と頭観音があります。
庚申塔には「右ハ江戸道」とあります。この江戸道は、青梅街道です。馬頭観世音には「左ハ川越道」とあります。
この石像は、石灰岩で造られています。まるで、石灰を固めて形作ったような感じです。石灰の道の道標です。

「庚申信仰」は、人の身中に宿る三尸(し)九虫が庚申日の夜昇天し天帝に当人の罪過を告げて命を縮めるので、庚申の夜には眠らずにすごして天帝に罪を訴えられないようにし、健康長寿を願うによって講を組織し、行事をおこないます。この信仰は江戸時代ころから、一般の人たちに一気に広まります。そしてあちこちで庚申塔が作られるようになります。村の人たちみんなでお金を出しあったりもしています。
馬頭観音は「六観音」のひとつで、宝馬が四方を駆けて四魔を承伏し重障を食い尽くすことから信仰されました。また、頭に馬頭をのせていることから、時代が下るにしたがい庶民から馬の守護神のように思われ、大切な馬の健康、そして死んだ愛馬の冥福を祈る対象とされます。馬を飼う家や、馬を利用する職業の人たちが、馬頭観音像や馬頭観音の仏名「馬頭観音」「馬頭観世音」「馬頭尊」などと刻んだ供養塔をたてました。その建立場所はたいてい死馬を葬ったところか、山道などの交通の難所、追分などで、道標を兼ねたものも多いようです。

青梅市新町

青梅の新町に行きました。
新町桜株のさくら
昔の新町集落の入口、新町桜株交差点は、吉野織部之助をしのんで株立ちの吉野桜を植えたのが始まりと言われています。道標を兼ねた庚申塔(うしろに「右ハ江戸道」)と馬頭観音(うしろに「左ハ川越道」)が建っています。また、となりには「桜株井戸跡」と刻まれた大理石の小さな角柱があります。こうした井戸跡の碑はこの地にはたくさんあるようで、道路の拡幅工事で埋められた新田当時の井戸を記念して作られたようです。
桜株井戸跡の碑
庚申塔の場所から交差点を渡った所には「青梅東部新町土地区画整理事業完成記念広場」があり、大きな桜が植えられ、その下には、道が向かった地区が分かる碑が作られています。さらに角の案内版には区画整理事業の前後の地図などが示されています。とてもおもしろい造りです。
後で調べたのですが、この新町は、江戸初期にこの新町を開拓した吉野織部之助という人を中心に町が生まれたという感じです。
旧吉野家住宅があります。
この建物は明治に火事があり、その時、吉野家が妻の実家守屋氏の住宅を移築したものだそうです。江戸時代末期の名主階級民家の多室間取で、都指定文化財になっています。茅葺き屋根のどっしりした建築で、風格があります。
旧吉野家の井戸
庭には慶長16年(1611)に掘られたつるべ井戸があります。この井戸は、慶長18年(1613)10月に完成しています。
この地域で最初に彫られた井戸で、井戸が掘れるということで、地域で井戸の開発が進みます。吉野家のすぐ近くにも「大井戸公園」があり、その公園の中に「大井戸」があります。
この井戸は、蝸牛状に掘った、いわゆる「まいまいず井戸」で、慶長19年(1634)の3月にできています。
吉野家の井戸の完成のすぐ後です。
この井戸の少し北には新町御岳神社があります。元和2年(1616)に吉野織部之助が新町村を開墾した際に創建したものです。新町開拓完成の元和2年(1614)、大和の国吉野金峯山権現を勧請して、村内鎮守として祀ったものです。
こうしてみると、この新町は、吉野織部之助があっての町だとつくづく感じます。
新町御岳神社を入ってすぐの左に<武蔵野開拓の祖吉野織部之助顕彰会>が建てた「公徳碑」があります
それには次のように書かれています
「武蔵野開拓の祖吉野織部之助正清は大和国吉野の生れで武蔵忍城主成田長泰の家臣であった 天正十八年豊臣秀吉に攻められ落城の折師岡村に来り土着して村の里正となった 当時武蔵野の台地は一望無限の荒漠たる原野であったが織部之助はこの開拓を志し代官の許を得て慶長十六年近傍十八箇村より同志を募り血と汗の努力と六年の歳月を費し元和二年遂に一邑開拓の大業をなしとげたのである その後武蔵野の開拓は江戸幕府の奨励により八十余の新田が開かれたがこの新町村の開拓こそはそのモデルケースであり我が国開拓史上特筆すべき事績である 昭和三十五年は新町開村三百五十年にあたるので当時の先覚者の苦難を偲び開拓精神を昂揚し併せて大青梅に寄與すると共にこれを後世に伝うべく茲に織部之助の事績を顕彰し頌徳碑を建立する次第である」
武蔵忍城主成田長泰とあります。なんと『のぼうの城』ではありませんか。
『のぼうの城』は、和田竜による歴史小説で、1212年には映画化されヒットしました。
吉野織部之助は、その<のぼうの城>の家臣だったのです。
この成田長泰の家臣であったことは、もう一つ、この地にとって大きな役割をします。
吉野織部之助は、水のない武蔵野での新田開発を始める最初の関門は井戸掘りの成否でした。慶長18(1613)年8月、井戸掘り職人を求めて、各地を行脚していたのですが、偶然、忍城落城の時に戦死をした仲間(秋山惣右衛門)の子秋山惣太郎と出会ったのです。父を亡くした惣太郎は、虚無僧となっていました。この惣太郎がこの町に来て、吉野織部之助の手助けをします。
そして、この地に(現在の吉野家の先に)虚無僧寺を作ります。鈴法寺です。
この鈴法寺は、普化僧を優遇した徳川幕府の庇護を受け、全国にある普化宗括総派の触頭(ふれがしら)となり、千葉県の一月寺と並んで関東普化宗の総本寺格の扱いを受けるようになります。
このため、新町村には諸国から来る人も多くなります。
しかし、その鈴法寺は、明治4年の太政官布告により、「普化宗」は廃宗となったため、廃寺になってしまいます。明治28年、伽藍も火災に遭い、現在は石の標識と歴代住職の墓石が残るだけになっています。
新町のまちづくりは、寛文8年(1668)幕府の検地を受けるまでになります。また、毎月6日に「六斉市」が立つまでになりました。綿織物や農産物の集散地となり、成木から江戸へ搬出された「石灰」の運搬路にも当たり、人の流れ、物流ともに賑わったことが伝えられ、江戸中期には商屋も多く旅籠屋や問屋もできたと云われます。
しかし、新町村から4キロほどしか離れていない「青梅」に市がたちます。文政年間(1800年代始め)市立ての日付けの問題で争いが始まりました。
天保3年(1832)、青梅側から奉行所に提訴されます。新町村の市立ての横暴を訴えるものです。新町村は新田村で、市立ての場合は、競合を避けるため、どこかの村の「市」の権利を買うことによって成立していました。それをしていないということです。そして新町村は敗訴し、しだいに新町村の市は衰微し、宿場としての機能も失っていきました。
新町の夕焼け

「竹内栖鳳展 近代日本画の巨人」

西洋近代美術館の「竹内栖鳳展 近代日本画の巨人」を見ました。
「東の大観、西の栖鳳」と並び称された日本画家・竹内栖鳳(1864-1942)、近代の京都画壇を牽引したということですが、関東では大観に比べると馴染みの薄い画家だと思います。
宮尾登美子の作品に『序の舞』がありますが、モデルは、上村松園で、竹内栖鳳はその松園の2人目の師匠にあたります。その小説から、竹内栖鳳に関心を持つという、絵画鑑賞には、いくらかゆがんだ気持で、竹内栖鳳の名前を知っていた、そんな所もあります。
この展覧会の担当の方のお話を事前に聞いたのですが、その時、「竹内栖鳳展」でたくさん来てもらえるか心配でという話も聞きました。
しかし、行ってみると、最終の近いせいもあってかもしれませんが、大変な人で、入り口付近の絵は、もう絵を見ることができません。
竹内栖鳳の絵で説明されたのは、円山応挙を祖とする「円山派」と呉春を祖とする「四条派」の流れを受け継ぎ、徹底した写生に基づく作品や水墨表現、そして、自らのヨーロッパ遊学体験で得た西洋画の画法も積極的に取り入れたこと、その「多様性」が最大の魅力です、ということでした。
確かに、ライオンから、すすめにいたる生物、イタリアから中国までも含めた風景、そして、仏画から人物と多様です。それに展示が、栖鳳が写生を重んじていたということで、スケッチも多数展示されて、作品によっては下絵も並んで展示され、とても奥深い展覧会でした。
作品を2作お借ります。
 「班猫」
「班猫」です。
これは、テレビ「美の巨人たち」で取り上げられていました。
栖鳳が60歳のときの作品です。モデルの猫は、沼津の町で八百屋から譲り受けたものです。ある初秋、栖鳳が沼津の町で、八百屋の前に置かれた荷車の上で寝ていた猫を見て、無意識に中国の徽宗皇帝が書いたとされる猫の絵が目に浮かんだといいます。飼い主の八百屋と再三交渉を重ね、一枚の絵と交換して、その猫をもらい受けて、京都に連れて帰りました。栖鳳は猫の一瞬の仕草を捉えようと、何度もスケッチを繰り返しました。
背中の複雑なまだら模様を大きく見せ、突き出した右前足の絶妙な位置。毛づくろいの一瞬、投げかける緑の視線…。
画像更に近づくと、濡らした絹地に墨を塗ってにじませ、毛並みの柔らかさを表現し、更に毛描きという伝統的な技で猫の毛並みを一本一本丁寧に描きこんでいきます。
「絵になる最初」
「絵になる最初」これは裸婦モデルが脱ぐ時の恥じらう一瞬を描きました。
この作品は、じつは偶然の賜物。東本願寺山門の天井画を依頼された栖鳳が、天女を描くためにヌードモデルを使いました。ところが、最初のモデルが不幸にも亡くなってしまい、
急きょこの絵の女性に頼むことになりました。その時見せた恥じらいが、栖鳳の絵心を刺激したのでしょう、その結果生まれたのがこの傑作です。
「実際のモデルを使い、女性の優美な身体のラインや衣の表現などに注視。細い金泥線が引かれたシルエットに裏彩色(肌部分)等々、栖鳳の細部へのこだわりと共に、常に新たな境地を開拓せんとする前向きな気持ちが汲み取れる貴重な一枚です。」
これもよく言われることですが、写生を大事にしていましたが、写生にとらわれてはいません。そこに描かれているものが、実物とかけはなれていることもしばしばあります。「班猫」もまさにそうで、このような形にはならないそうです。それは、丹念な実物観察を行いながらも、その目的は外形写生ではなく、あくまでも対象の本質をつかむことにあったことを表している、と言われます。
とてもすばらしい展覧会でした。

こぶしの実 モクゲンジの実(袋状態)

こぶしの実(辛夷の実、拳の実)
水道歴史博物館の後ろ側のバラが美しい公園で見ました。
辛夷(こぶし)の実
ピンクの実は集合果であり、でこぼこ状です。「こぶし」という名前はデコボコの形が子供の握りこぶしに似ていることに因むという説がありますが、蕾が子供の握りこぶしに似ているとの説もあります。
コブシやハクモクレン、タイザンボクなどのモクレン科モクレン属の集合果はいずれも似た形をしており、弾けると、中から大きめの赤い種子が糸を引いて出てくることが多い。

モクゲンジ
モクゲンジ (ムクロジ科)
東大で見ました。
10月~11月、枝先の円錐花序に、袋状の淡紅色の実がたくさんなります。
モクゲンジの実
モクゲンジの果実は、果皮が3片合わさって、「袋状」になっています。中に、黒色の種子が入っており、数珠などにも加工されます。
「センダンバ(ノ)ボダイジュ」(栴檀葉菩提樹)と云う呼び名でも知られています。此れは、葉っぱの感じが 「センダンの葉」に似ていて、種子は「菩提樹」のように、「数珠」に利用する事に由来します。
名前は、中国の「本草綱目」に、「木患子」と記されていた「ムクロジ」の木の名前を、誤って本種に充てて、其のまま「日本語読み」モクカンジとしためと言われています。

カラスノゴマ 小さな黄色い花

東大の構内を歩いていた時、黄色い小さな花が咲いていました。「これは珍しい。カラスノゴマだ」と声がかかりました。
関東ではあまりみかけない花だそうです。
カラスノゴマ
カラスノゴマ(烏の胡麻) シナノキ科カラスノゴマ属
茎をほぼ直立させて、初秋に茎葉の腋から長さ3cmほどの花茎を出して花径2cmほどの黄色い5弁の花を、数個ほぼ平開させます。
ゴマの名はありますが、ゴマ(胡麻)はゴマ科ゴマ属の一年草で全く別種です。名前は、種子の色や形が「ゴマ(胡麻)」に似ているところからきていそうです。だから、食用にはなりません。
ゴマのように弾けた種は取れるが何の役に立たないことから、カラス(烏)の名を付けられた、とあります。イヌと同じですね。植物でイヌがつく、イヌシデ、イヌビワなどは人にあまり役立たないものを表現しています。
シナノキ科の特徴ですが茎の繊維が強く、昔、麻の代用にされたことがあるそうで、「田麻(でんま)」の名がありました。
名前がユニークなので、覚えられそうです。

東京大学キャンバスの大きなクスノキ

東大のキャンバスを歩きました。東大と聞いて思い浮かべる樹木はまずイチョウですが、たくさんお樹木がありました。ウバメガシもよく目にとまりました。
東大の巨木 大クスノキ
今回、東大キャンバスで、気に入った、忘れられない木が写真のクスノキです。
このクスノキは、まったく剪定をしていなとのことです。枝振りが見事です。びっくりしました。
東大大クスノキの幹部分
東大大クスノキの幹2
クスノキは常緑樹ですが、葉は1年たつと赤くなって落ちてしまいます。落ちたところにはもう葉はつかないので枝だけが残るのですが、その枝が年月とともにどんどん太くなって、このような見事なクスノキになったのです。
本郷にはもう一本、太い上に伸びているクスノキがあります。
本郷弓町の大楠
春日通り・真砂坂上の交差点から一歩入った所のクスノキです。こちらの樹齢はおよそ600年で、幹の直径は270cmもあるということです。文京区一の太い木ということでした。
東大のクスノキはとにかく枝振りがすばらしいです。また見に来たいと思いました。

キンモクセイとギンモクセイ

雨の中、本郷を歩いたのですが、壱岐坂(壱岐殿坂)で、キンモクセイとギンモクセイが並んで咲いていました。
キンモクセイ
ギンモクセイ
「木犀」は幹の模様が犀に似ているとして、木犀の字が当てられたと言います。普通モクセイといわれる木は、キンモクセイ、ギンモクセイ、ウスギモクセイ、ヒイラギモクセイの4種類があるそうです。
日本ではキンモクセイが広く栽培されています。キンモクセイの方が多花性で、色が鮮やかな上に香りが強いからでしょうか。
キンモクセイは葉がほとんど全緑で花は橙黄色、ギンモクセイは葉がやや厚くて細かい鋸歯(のこば)があり、花は白いです。
日本には、雄木のみが渡来していて、果実は実らないといことです。その理由として、モクセイは中国原産で、日本に導入されたとき、雄株だけが入ってきたので、日本には雌株がないということです。これが日本では実がならない理由のようです。
しかし、いまだに、雌木を持ってくる人がいない、というのは、不思議だなという気がします。

水道橋付近

水道歴史博物館へ見学に行くので、水道橋の北側を少し歴史散策してみました。
水道橋から見た神田川上流
水道橋という地名は、橋の少し下流で神田川にかかっていた「神田上水を立体交差させるための懸樋―お茶の水の懸樋」にちなんだ名前です。
文京区関口で現神田川から分流した旧神田上水は、ゆるやかな勾配のルートをたどって旧水戸藩邸内(=後楽園)を抜け、この付近で再び神田川と出合います。
この時点では水面が神田川より数メートル高く、上水は神田川の上に橋をかけて渡り、そこから先は木樋で、地下にもぐり、神田、八重洲、日本橋、銀座方面へ水を送っていました。
水道橋は昭和3年(1928)、震災復興橋梁のひとつとしてアーチ型の橋が架けられました。
現在の橋は白山通りの拡幅のため、昭和63年(1988)に架けられたもので、平坦な橋となっています。
市兵衛河岸
水道橋から少し上流に少し張り出したものが見えます。『市兵衛河岸』です(写真は水道橋の駅から見たものです)。
江戸時代、物資搬送のために造られた荷揚場で、このあたりに「岩瀬市兵衛」の屋敷があったことから、市兵衛河岸と名づけられました。
明治以降は、ここ後楽園にあった、砲兵工廠の荷揚場として利用されていました。
現在は、災害等の非常時に水運での物資輸送を確保するための船着場になっています。
都立工芸高校
水道橋北前方にりっぱな都立工芸高校があります。明暦の大火まで、このあたりに「吉祥寺」がありました。
明暦の大火、通称「振袖火事」。明暦3年(1657)1月18日、若い娘3人を死に至らしめた因縁ある振袖を、本郷の本妙寺で焚き上げ供養している途中、突如振袖が舞い上がり、寺に火がついて…という説が古くから語られていました。けれど当の本妙寺では、近隣の阿部家(幕府重役)の失火の罪を被ったと説明していますし、幕府転覆を目的とした連続放火であるとか、江戸の都市計画をやり直そうと、幕府自体が放火をしたとか、さまざまな説が出ています。が、この明暦の大火で、江戸市中は焼け野原、「吉祥寺」も焼けてしましました。
幕府は江戸を都市計画に基づいて復興することに着手します。その計画により水道橋の所にあった吉祥寺は本馬込に移転させられることになります。
当然、寺の前には門前町が形成されています。水道橋の吉祥寺の門前にも多くの人々が住んでいましたが、彼らも大火で罹災。本駒込への吉祥寺移転に際して、幕府はそうした人々を駒込には移住させず、お寺の領地(吉祥寺学寮の賄い地)であった、多摩郡牟礼野の新墾地に移住することを命じました。万治2年(1659)のことです。
その人たちが開拓した新しい村は、寛文4年(1664)には検地が行われるほどの田畑がつくられるほどの村になります。この村こそが、「吉祥寺村」現在の中央線の吉祥寺です。

白牛がいた江戸時代の牧場

「古文書」の講座を受講しています。「牧場」がテーマでした。
牧場は延喜式にも出てくます。歴史は古いのです。江戸も吉宗の時代に盛んになりました。
その中で、「徳川実記」第8篇、享保10年(1725)の5月7日に、「(日記)代官内山七左右衛門高永美作國の地より、白牛引かせて大納言殿に献ず。これは薬用にも備ふべきをもて。ことに褒せられ時服二を下さる」という文が出てきます。
つまり、享保10年 美作の代官内山七左衛門高永が、薬用のために白牛を大納言徳川家重に献じたということです。
このことはまったく知らなかったので、びっくりしました。美作は今でも、牛の産地です。
ここに出てくる牛は、白牛です。「ハクギュウ」と読みます。名前の通り模様のない白い牛です。正面から見ると、耳が大きく横に広がっています。背中にらくだのようにこぶがあります。現在では、「千葉県酪農のさと」千葉県南房総市の嶺岡牧場にだけいる牛のようです。写真をお借ります。
白牛
嶺岡牧場は、江戸時代の牧場のおもむきを伝える貴重な牧場ということです。ここには「日本酪農発祥の地」という石碑があります。
白牛について少し書いておきます。
享保13年(1728)にインド産の白牛が3頭輸入されて、寛政4年(1792)には70頭までに増えたという記録があります。 その間に、白牛酪という乳製品も作られ販売されるようになります。当時の牛乳乳製品は薬用が主体でした。
嶺岡牧場は11代将軍家斉の時代に入ってますます充実し、家斉は白牛酪を造らせ、侍医である桃井源寅(もものいのみなもとのいん)に命じて我国最初の牛乳・乳製品についての単行本である「白牛酪考」を書かせています。
そこには、「腎虚や労症、労咳をはじめ産後の衰弱や各種の栄養不足状態を恢復せしめ、さらに大便の閉結、老衰からくる色々な症状を駆逐する」といった内容が記され、白牛酪の効用について紹介している。 
とにかく牛乳乳製品は食べものというより、薬のイメージで拡がっていったことがわかります。
 また、前野良沢、杉田玄白らにより蘭学が盛んになります。その前野良沢の弟子に宇田川玄随がいます。玄随は美作国、津山藩の出身で、津山藩は洋学の発祥の地といわれるほど、優秀な蘭学者が育った土地柄です。玄随の弟子である宇田川玄真が翻訳した「遠西醫方名物考」は、わが国最初に、西洋のチーズ作りを翻訳した本です。
嶺岡牧場は、戦国時代の里見氏の軍馬育成場を経て、第8代将軍吉宗により白牛導入、白牛酪を製造し、その後明治になってホルスタイン種の改良、練乳工場の設立、優良素牛の全国への供給基地として発展し、北海道に次ぐ千葉県酪農の中核的役割を担ってきたようです。牧場といえば、北海道と思うのですが、伝統的な牧場が千葉にあることも驚きでした。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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