三崎稲荷神社
JR水道橋駅の東口を出て、駅に沿って歩いてゆくと三崎稲荷神社があります。この神社は鎌倉時代初期に創建されたとされている古社です。

もとは、駿河台の山麓・武蔵国豊島郡三崎村の鎮守でした。日比谷入江に突き出した「岬」だったためにその名がついたともみられます。
徳川家康は江戸の町造りの際、駿河台の山を削り,その土砂でもって日比谷入江を埋め立たました。そのため現在の鎮座地に近い文京区に移転させられたようです
さらに万治2年(1659)、江戸城の外堀になる神田川の改修工事が持ち上がり、再度移転させられます。
そして、万延元年(1860)には、講武所(こうぶしょ)の設置に伴って水道橋の現在地に移転しました。
講武所とは、幕末に江戸幕府が諸役人、旗本・御家人、およびその子弟を対象に設立した武芸訓練機関です。 築地鉄砲洲に置かれ講武場として発足、神田に移転しました。
さらに、明治38年には甲武鉄道(今のJR中央線)を通すために再度移転を迫られましたが、当時の総代が境内地が減っても構わないので移動させないでほしいと願い出て、現在の地にとどまったそうです。このときにお宮が現在のように小さくなりました。

もともとは将軍家光が「参勤交代の大名は城内に入る前に三崎神社でお清めを済ませ、帰りは道中祈願をするように」と言われるほど広い境内を持っていました。
そういうことで、江戸時代、参勤交代で諸大名が登城する中、この三崎稲荷神社で祓い清めることを恒例としたことから「清めの稲荷」と称されていました。また、道中の安全を期したことから、「旅行安全」の神として崇敬を集めたと言われます。
道中祈願という意味では、明治28年に白瀬中尉を団長とする南極探検隊が出発する際に、大隈重信侯が隊員全員に三崎稲荷神社のお守りを贈っています。
社号は三崎稲荷神社ですが、金刀比羅神社を合祀しているため、三崎神社とされます。
この稲荷神社には、狐でなく、狛犬がまつられています。

境内にあるお百度石の空洞部分の支えには、お百度石が描かれた絵馬がくくりつけられて奉納されていました。

もとは、駿河台の山麓・武蔵国豊島郡三崎村の鎮守でした。日比谷入江に突き出した「岬」だったためにその名がついたともみられます。
徳川家康は江戸の町造りの際、駿河台の山を削り,その土砂でもって日比谷入江を埋め立たました。そのため現在の鎮座地に近い文京区に移転させられたようです
さらに万治2年(1659)、江戸城の外堀になる神田川の改修工事が持ち上がり、再度移転させられます。
そして、万延元年(1860)には、講武所(こうぶしょ)の設置に伴って水道橋の現在地に移転しました。
講武所とは、幕末に江戸幕府が諸役人、旗本・御家人、およびその子弟を対象に設立した武芸訓練機関です。 築地鉄砲洲に置かれ講武場として発足、神田に移転しました。
さらに、明治38年には甲武鉄道(今のJR中央線)を通すために再度移転を迫られましたが、当時の総代が境内地が減っても構わないので移動させないでほしいと願い出て、現在の地にとどまったそうです。このときにお宮が現在のように小さくなりました。

もともとは将軍家光が「参勤交代の大名は城内に入る前に三崎神社でお清めを済ませ、帰りは道中祈願をするように」と言われるほど広い境内を持っていました。
そういうことで、江戸時代、参勤交代で諸大名が登城する中、この三崎稲荷神社で祓い清めることを恒例としたことから「清めの稲荷」と称されていました。また、道中の安全を期したことから、「旅行安全」の神として崇敬を集めたと言われます。
道中祈願という意味では、明治28年に白瀬中尉を団長とする南極探検隊が出発する際に、大隈重信侯が隊員全員に三崎稲荷神社のお守りを贈っています。
社号は三崎稲荷神社ですが、金刀比羅神社を合祀しているため、三崎神社とされます。
この稲荷神社には、狐でなく、狛犬がまつられています。

境内にあるお百度石の空洞部分の支えには、お百度石が描かれた絵馬がくくりつけられて奉納されていました。
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