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三崎稲荷神社

JR水道橋駅の東口を出て、駅に沿って歩いてゆくと三崎稲荷神社があります。この神社は鎌倉時代初期に創建されたとされている古社です。
三崎神社
もとは、駿河台の山麓・武蔵国豊島郡三崎村の鎮守でした。日比谷入江に突き出した「岬」だったためにその名がついたともみられます。
徳川家康は江戸の町造りの際、駿河台の山を削り,その土砂でもって日比谷入江を埋め立たました。そのため現在の鎮座地に近い文京区に移転させられたようです
さらに万治2年(1659)、江戸城の外堀になる神田川の改修工事が持ち上がり、再度移転させられます。
そして、万延元年(1860)には、講武所(こうぶしょ)の設置に伴って水道橋の現在地に移転しました。
講武所とは、幕末に江戸幕府が諸役人、旗本・御家人、およびその子弟を対象に設立した武芸訓練機関です。 築地鉄砲洲に置かれ講武場として発足、神田に移転しました。
さらに、明治38年には甲武鉄道(今のJR中央線)を通すために再度移転を迫られましたが、当時の総代が境内地が減っても構わないので移動させないでほしいと願い出て、現在の地にとどまったそうです。このときにお宮が現在のように小さくなりました。
三崎神社拝殿
もともとは将軍家光が「参勤交代の大名は城内に入る前に三崎神社でお清めを済ませ、帰りは道中祈願をするように」と言われるほど広い境内を持っていました。
そういうことで、江戸時代、参勤交代で諸大名が登城する中、この三崎稲荷神社で祓い清めることを恒例としたことから「清めの稲荷」と称されていました。また、道中の安全を期したことから、「旅行安全」の神として崇敬を集めたと言われます。
道中祈願という意味では、明治28年に白瀬中尉を団長とする南極探検隊が出発する際に、大隈重信侯が隊員全員に三崎稲荷神社のお守りを贈っています。
社号は三崎稲荷神社ですが、金刀比羅神社を合祀しているため、三崎神社とされます。
この稲荷神社には、狐でなく、狛犬がまつられています。
百度石
境内にあるお百度石の空洞部分の支えには、お百度石が描かれた絵馬がくくりつけられて奉納されていました。
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中井御霊神社 備射祭絵馬

落合台地の八の坂をのぼり切ったところに中井御霊神社があります。創建はいつかはっきりとはしていないようですが、かなり昔から落合村中井の鎮守でした。
祭神は仲哀天皇・応神天皇・神功皇后・仁徳天皇・武甕槌神の5柱です。
中井御霊神社
中井御霊神社の本殿・幣殿(へいでん)・拝殿は最近有形文化財になりました。「区内でも数少ない江戸時代~明治時代の神社建築。簡素な構えの社殿、神社の森の面影をとどめる境内など、江戸近郊農村の鎮守社としての景観を伝える建造物である」というのがその指定理由です。本殿は、江戸時代。幣殿(へいでん)拝殿は明治時代のようです。
かつては茅葺きでしたが、維持ができず、軽い瓦になっています。本殿の鬼瓦には、弓のセットがはめられています。
中井御霊神社の備射祭絵馬
拝殿に入れていれていただきました。中には、江戸時代に奉納された備射祭絵馬(区指定文化財)が掲げられています。「縦95cm、横140cmの額で、備射祭の絵馬は享保頃より3度にわたり奉納されたが、この絵馬は、文政13年(1830)に修復して奉納したもの」という説明です。
左上に社殿、右下に鳥居を措いた構図で、社殿の前には僧侶が描かれ、その背後には弓矢が置かれています。また鳥居の近くには的があります。当時の備射祭の模様や風俗を措いた絵馬として高く評価されています。
なお、この備射祭は現在も毎年1月13日に行なわれています。豊作と安産を祈った神事で、神社では弓弦の麻を小さく切ったものを安産のお守りとして希望者に貸授しており、現在も遠くから妊婦の参詣が多いようです。
備射祭の的
的には、中心に2羽のカラスが描かれています。カラスは、蒔いたタネを穿り出し畑を荒らすので、それを射るわけです。熊野の3本足「八咫烏」とは違うようです。
的の円は「分木」という竹を2つに割り、先端に穴をあけ、ふちに切り込みのある、一種の「コンパス」で描かれます。
分木
分木は二本あり、一本は表に漆銘で「永禄癸亥」あります。「永禄癸亥」は永禄六年(1563)で、この分木の存在は江戸時代以前にすでに備射祭が行なわれていたことを示しています。
落合には、もうひとつ、葛ヶ谷御霊神社があり、そこでも、備射祭が行われます。
備射祭は正月の弓神事(歩射)として弓矢で的を射て、その年の豊凶を占ったり、悪霊を駆除して豊作を祈る行事です
「びしゃ」とは「ぶしゃ」、すなわち「歩射」が転訛したといわれます。「歩射」に対する弓技が、高田馬場の流鏑馬で有名な「騎射」です。それに物の怪を払い怨霊鎮めの効果があると古くから伝えられています。そこで、正月の清めや五穀豊穣の祈願に結びつけられます、たとえば「破魔矢」は、邪気払いのお守りとして、多くの神社で正月に出ます。それと通じるものがあるのでしょう。
中井御霊神社境内

新宿区落合 月見岡八幡神社

月見岡八幡宮
月見岡八幡神社は、新宿区上落合にある八幡神社です。旧上落合村の鎮守社で、もとは区立八幡公園周辺が境内地でした。しかし、現・東京都下水道局落合水再生センターが建設され、境内がその用地に組み込まれることになったため、昭和36年~37年に、現在地へ遷座しました。
祭神は応神天皇・神功皇后・仁徳天皇で、境内社として明治39年(1906)に北野神社、昭和2年(1927)には浅間神社と富士塚を合祀しました。
創建年代ははっきりしていませんが、社伝に源義家が奥州征伐の時参詣し、戦勝を祈念して松を植えたとの伝承があります。社名の由来は、旧境内地に湧井があり、その水面に月光がきれいに写ったので村人が自然にそう呼んだということです。
境内には旧社地からの石造品がそのまま移されており、正保4年(1647)の宝篋印塔型の庚申塔(新宿区指定文化財)は、新宿区内で最古のものです。宝篋印塔型というのも大変珍しいです。高さ184.5cm、石質は安山岩です。
中は見えないのですが、 塔身部の四面にはそれぞれ金剛界四仏の種子が、また基礎部の四面には造塔銘が刻まれているようです。(新宿区教育委員会掲示より)
また、月見岡八幡神社には、天明5年(1785)の銘をもつ鰐口と、旧社殿の格天井の板絵の一枚であった谷文晃の絵が、ともに新宿区登録文化財となっています。
宝篋印塔型の庚申塔の先にある富士塚は、もともとは、前述の浅間神社にあり、大塚という古墳を利用して造られたもので、「落合富士」といわれていました。
落合富士
寛政2年(1790)に現在の下落合駅付近にあった浅間神社の境内に造られましたが、昭和2年(1927)の同社の移転時にとりこわされて、月見岡八幡神社の旧社地に移築されていました。かつては、上落合・下落合・中井・西落合(葛谷)などに広がる月三落合惣元講という講中がありましたが、現在は活動していません。
富士塚の烏天狗
富士塚(落合富士)の元の所在は現在の中井駅付近に浅間神社があり、その境内だったようです。
山手通り拡張の折、取り崩されたようなので、これを八幡旧境内(現八幡公園)に移築、さらに現境内に移築したのだと、思われます。

金毘羅橋の南西にある金比羅山

金比羅山
見影橋から向かって右手、金毘羅橋の南西には高さ15mほどの金毘羅山と呼ばれる小山があります。中腹には火伏せの秋葉大権現、頂上には金毘羅大権現と富士浅間神社が祀られ、金毘羅橋の名前の由来となっています。 
この山がいつ頃築かれたのか、はっきりしていませんが安政年間(1854~1860)に砂川村の名主砂川家が願主となり、頂上に富士浅間神社、中段に金比羅神社、下段に秋葉神社を勧請したと伝えられています。また、金毘羅山は玉川上水を掘削したときの土砂を持って作られた塚であると思われ、江戸時代に流行した富士塚との説もあります。
秋葉神社
秋葉神社は遠州(静岡県)秋葉山にある火難・水難よけの神として古くから知られています。近世になって徳川家康の命によりご神体(三尺坊権現)が小田原に移され、その土地の富士浅間の神として合祀され富士信仰との融合がはかられたわけです。
秋葉神社と金毘羅神社とが並べて祀られる例は各地に見られ、富士、金比羅、秋葉の三神は互いに関係を持ちながらこの山に置かれたわけです。
金比羅神社
特に金毘羅神社は玉川上水で舟運(巴河岸は近くです)が行われた頃、舟神様として祀られそれから、この山は特に、金比羅山と呼ばれるようになったとも言われています。 
富士浅間神社
金比羅神社の左側が浅間神社です。その左には溶岩が一つ置いてありました。本来、富士塚は富士山の溶岩で築かれます。これは富士さんの溶岩なのでしょうか。
浅間神社横の溶岩

玉川上水通船・「巴河岸」

 玉川上水に船が通ったことがありました。
 明治3年4月15日のことです。舟には荷物や人が乗って青梅から多摩川を下り、羽村の堰を通って、四谷大木戸(新宿)まで、1日がかりでした。
帰りは、舟に綱をつけて、船子が上水の両側の堤の上から引っ張ったようです。
だが、この玉川上水の通舟は、玉川上水の汚濁が問題になって、明治5年5月30日で終わりになります。
再会運動が続けられましたが、受け入れられませんでした。
巴河岸のあったあたり
しかし、それが廻りに巡って、甲武馬車鉄道~甲武鉄道~JR・中央線につながっていきます。
18世紀の初め、江戸市中には人口があふれましたが、江戸への主要な交通路としては甲州道中(街道)、青梅道(街道)、五日市道(街道)が通っていました。
 江戸市中の生活物資の需要は高まる一方で、村々からの人と馬と大八車による輸送手段では追いつかなくなってきていました。また、街道筋の宿駅に整備された問屋や伝馬から、それぞれの権益の主張がされて、運送料が次第に高値を付けてきました。一方で、送る側の村では、人口も少なく、送りきれない生鮮食料は、滞留して腐敗する状況になっていました。
巴河岸

 一般的に、舟による運送の方がはるかに安価だと、物流は街道から河川へと変わろうとしていました。
武蔵野では舟を浮かべる川がなく、玉川上水そのものを利用して舟運を開きたいとのぞみましたが。幕府は、当然許可をおろしません。そういういきさつがありました。
やがて、維新の組織変更を迎えると、そのどさくさに紛れたのでしょうか、玉川上水利用の舟運が実現したわけです。
「玉川上水通船」と呼ばれました。当然、反対もあり、石や土塊が投げつけられたりしましたが、事業が繁盛した時には、舟の折り返し地である「新宿」界隈の盛り場は、一時、船頭が大もてになったとも言われています。
しかし、飲料水の水源である用水を利用しての事業です。水質汚濁の問題が指摘され、明治5年5月30日、廃止されました。約2年1ヶ月の運行でした。
 そこを走ったのが「甲武鉄道」でした。こうして現在のJR・中央線になりましたが、その過程は、武蔵野の歴史の面白さを堪能するのに十分です。
 「巴河岸」(ともえかし)があります。船溜場(ふなだまりば)の跡で、通船廃止によって埋め戻されたので、痕跡は何も残っていません。(写真は現在の巴河岸があったであろう場所あたりです)
  曳舟のため船子が苦労したであろう「足場」は、現在散歩道として、我々が歩いています。

玉川上水遊歩道で見た自然

拝島から、玉川上水駅まで、玉川上水にそって歩く遊歩道は、木々や草花に囲まれたすてきなコースです。
センニンソウ(仙人草) Clematis terniflora
センニンソウ(仙人草)があちらこちらで咲いていました。
つる性の多年草。きれいな真っ白な4弁花をつけます。近くに行くと、とてもいい香りがするそうです。仙人草という名前は、実の先端につく白い羽毛状のものを仙人のひげに見立てたことからこの名前がつきました。
黄色い彼岸花
黄色いヒガンバナ(ショウキズイセン 鍾馗水仙)が咲いていました。
赤と白の彼岸花はよく見かけますが、黄色は初めてのような気がします。

ジャコウアゲハの案内
ジャコウアゲハ.がいますという案内が貼ってあるところで、ジャコウアゲハ.が飛んでいました。ウマノスズクサがあるところにいるのだそうです。
ゆっくりと飛んでいるのですが、写真を撮ることはできませんでした。
玉川上水の自然を守ろうとしていう人がたくさんいます。その活動の一環が案内に出ています。

源五右衛門分水と砂川(村野)家

玉川上水の流れ
見影橋という橋があります。
その傍に立てられている説明板によると、見影橋は江戸時代から架かっていた古い橋で、砂川村内を流れる玉川上水の上流から数えて4番目の橋だったので、『四ノ橋』 と呼ばれていました。
また、名主の砂川家に近いこともあって『旦那橋』とも呼ばれた。玉川上水水見回り役も務めていた砂川家のために架けられた橋だとも言われている。
大正末期に橋が改修された時に『御影橋』と改称され、その後さらに『見影橋』と書き改められました。
その見影橋手前の右岸窪みに小さな水栓が立っています。源五右衛門分水口です。見影橋手前右岸です。この分水は、当地の名主砂川源五右衛門の屋敷内にある水車を動かすために引かれました。
砂川家は砂川新田(後の砂川村)の開発名主で、江戸時代後半から上水の見まわり役を続けていました。源五右衛門分水のように個人屋敷への引水が許された例は大変珍しく、他には田村家(福生市ですでに書いた)の田村分水があるのみです。その源五右衛門分水のマンホールがありました。「分水」と刻まれています。
原五衛門分水のマンホール
砂川家のことを少し記しておきます。
砂川家は、もとは「村野」でした。明治に砂川家と改称しました。
 この地域の開発をした家は2つありました。砂川新田を指導した村野氏、そして、約50年後に小川新田を開発した小川氏です。この両氏とも土着した武田の家臣とされます。
 村野氏は、中世の武蔵七党・村山党の流れを名乗り、「箱根ヶ崎諸旦那」の一人でした。小川氏は日奉氏の系図を持ち、後北条氏に仕え、村山の地に土着したとされます。
いずれも、徳川政権以前、この地域に活躍した武士で、両者ともに帰農し、岸村で規模の大きな耕地を持つ在地土豪であったと想定されています。
 地域の資料によると、「村野家の屋敷の後に狭山の谷合から流れる川があり、砂川と名付けた、その川の左右の原野に地味が良いところがありそこを新田開発の場とした」と伝えます。
 少し行くと、グランドが見えます。その先は公園です。ここは、砂川家が開発して「水田跡」です。そこに立つと玉川上水の方が高い位置で流れていることがわかります。
少し歩くと、砂川家があります。
砂川家屋敷

残堀川と立体交差

玉川上水の続きです。
玉川上水は、天王橋の下流400m程の所で残堀川と立体交差しています。
玉川上水と残堀川の交差地点
残堀川は玉川上水と交差する唯一の川で、かつては、「狭山池助水」として上水に合流していました。
しかし、明治になって川が汚れてきたため改修工事が行われ、現在は残堀川の下を上水が潜っています。当時、残堀川は「すなの川」とも呼ばれ、「砂川」の地名はここから付けられたとも言われています。
説明版
その後、サイホンの原理を応用した「ふせこし」と呼ばれる工法で再改修され、現在では川の下を上水が潜っています。
潜り込む玉川上水
昔の残堀川跡も見ました。水は流れていませんでした。
残堀川跡

エノキとトチノキ

エノキ
井の頭公園です。エノキが実を実らせていました。実は、緑から赤へ、赤から赤褐色に変化します
甘い実を小鳥がよく食べるので雑木林などでよく見かける木です。実は小さく90%は種ですが甘くて美味しいです。実は木にいっぱい付くので質より量で挑戦する木の実の代表格です。
トチノキ
トチノキの葉です。葉が5枚か6枚集まっているように見えますが、これはすべてで、一枚の葉です。このような形を掌状複葉(しょうじょうふくよう)と呼び、小さな葉の部分は小葉(しょうよう)と呼びます。
手のひら状に裂け、長さが50センチにもなる大きな対生する葉をもつ木は珍しいと言えます。葉をつくるパーツである小葉は狭い楕円状ですが、それには中脈の両側にほぼ平行に走る20から30対もの側脈が刻まれています。

井の頭公園にて「自然観察」

神田上水の源泉を訪ねということと、生物多様性をテーマに井の頭公園を歩きました。
歩いた記録を少し期しておきます。
神田川上流にて
まず、神田川の水門を出て少し歩いてよしきり橋と夕焼け橋の間の神田川。カモが何羽かいました。神田川最上流の流れです。
カモは、カルガモでしょうか、冬にはオナガガモ、ハシビロガモなどが来るようです。
井の頭公園の水生園に行ったのですが、そこのオシドリです。めずらしくオスがかたまっていました。
オシドリ
オシドリは漢字では「鴛鴦」と書き、鴛がオスを、鴦がメスを表しているそうです。そう聞くとオシドリは、「おしどり夫婦」の語源にふさわしくいつも一緒に寄り添っている印象を受けますが、実際にオシドリが一緒にいるのは、繁殖期の限られた期間だけということです。寄り添っているというよりはオスが一方的にメスのそばにくっついているのが現状のようです
メスは卵を産むと、ヒナが孵るまで卵を温めますが、オスは子育てには一切参加せず、メスから離れてしまいます。そして、実はオシドリに限らずカモの仲間一般的に言えるようですが、繁殖のたび、毎年のように相手を変えるのだそうです。
オシドリは決して「おしどり夫婦」ではないという、のが真実のようです。
それから、赤松の幹に、日本ミツバチが巣を作っていました。井の頭公園の中にはいくつかこうした日本ミツバチの巣があります。
日本ミツバチ群

玉川上水 砂川・柴崎分水取水口

松中橋南詰西側に分水取水口が並んで2つあります。
砂川・柴崎分水取水口
左側は砂川分水です。明暦3年(1657)の開通ということで、野火止用水の次に古い分水で、上水開削と同時期に完成しています。
砂川村の新田開発に役立ち当時は下流に架かる天王橋脇にありましたが、明治3年(1870)の天王橋付替え工事で、こちらに移設されました。
ここから砂川分水はしばらくの区間、玉川上水と平行に流れます。そして住宅街が見えてくると暗渠になってしまいます
砂川用水の案内
砂川の新田開発を急速に推し進めた砂川分水は、もともとは「呑用水」として認められたもので、7寸4方(21㎝四方)の取り入れ口でした。あくまで「呑用水(飲み水)」として使われることが前提になっていました。新田開発といえば、「水田」と思いますが、砂川の場合、分水はあくまで「畑」の開発だったようです。

右側にあるのが、柴崎分水です。元文2年(1737)の開通で、柴崎村・芋窪新田(現立川市)の飲用水や農業用水として使われていました。昭和記念公園内を流れて中央線を渡った後、甲州街道日野橋交差点付近の水田の灌漑用水として使われています。
振り返って見たので左が砂川用水 右に玉川上水
写真は玉川上水と砂川用水の間の遊歩道です。振り返って写真を撮ったので、左が砂川用水、右に玉川上水が流れています。

昭和飛行機工業の跡地

玉川入水の向こう側に昭和ゴルフ場がある
拝島駅から歩いて、少し高地になっている「こはけ橋」を抜け、上水公園のところにくると遊歩道は左側になります。
それは右側に昭和の森ゴルフコースがあるからです。
この昭島のゴルフ場近辺は、戦前から、昭和飛行機工業の本社、工場、飛行場があった場所です。
昭和20年(1945)、第2次世界大戦が終了し、この昭和飛行機工業の本社、工場・飛行場は米軍に正式に接収され、「米国空軍昭和基地」となりました。
それから25年後の昭和45年(1969)米軍の接収施設全面返還となり、「米国空軍昭和基地」内の米国軍 技術部の設計によって作られていた18ホールのゴルフ場施設も日本(昭和飛行機工業)へ返還されることになりました。
このようなわけでここのゴルフコースは米国軍施設の中の米国軍のためのゴルフ場として米国軍自らがコースを設計し開設したのがはじまりです。
木々の間からゴルフを楽しむ人の姿も見えました。
そして、玉川上水が一度切れます。約300メートルの暗渠が続きます。戦中に、飛行場の滑走路が延長された際の名残です。
元滑走路は暗渠となっています。



「玉川上水を歩く」  拝島分水・殿ヶ谷分水

「玉川上水を歩く」の第2回目、拝島駅~玉川上水をこの日曜日に歩きました。雨の予報だったので、レインコートなど万全の雨対策をしていったのですが、雨は降りませんでした。

玉川上水は、羽村市で多摩川の水を取り入れ、四谷大木戸まで全長約43キロにわたって掘られた、素掘りの上水路でした。
玉川上水は江戸市中の飲み水であるとともに、沿岸の各村々へも分水が認められました。上水完成の翌年に野火止用水への分水、ついで小川、砂川、国分寺分水などが開かれていきます。
羽村で取水された水量の約半分は途中の村々に分水として流されたといっていいでしょう。飲み水や田用水として沿岸の村々や多くの新田開発などにも使われました。さらに、分水は江戸時代後期から明治期にかけては、精米や製粉用の水車の動力源にも使われました。幕末ごろには、分水の数は30を超えていました。

なお、明治初期にはわずか2年間ですが玉川上水に船が通り、荷物や人が船で運ばれました。すぐに上水が汚されるとの理由で中止されましたが、その当時の船溜跡の遺構等が残っていて、今回はその船溜跡も見学しました。

手前 拝島分水口
 玉川上水が西武拝島駅北口広場の前にある横田基地への貨物引込線をくぐると、すぐ先に2つの分水口があります。手前右岸が拝島分水口、その先左岸が殿ヶ谷分水口です。
拝島分水は江戸時代中頃の元文5年(1740年)に開削され、拝島村民の生活・農業用水として利用されました。当時の拝島村は日光街道(現奥多摩街道)の宿場として栄え、日光を往来する人々で賑わっていました。
I殿ヶ谷分水口
殿ヶ谷分水は、享保の改革(徳川吉宗)による新田開発の奨励によって江戸時代中頃の享保5年(1720年)に開削され、現在の立川市西砂地区の生活・農業用水に利用されていました。享保年間に多摩郡下でも40余りの新田が開発されましたが、これらの大部分は玉川上水からの分水によって開くことができたのです。昭和60年代以降、水路は畑と宅地にはさまれ、埋め立てられました。現在は分水口が残るのみで、埋め立てられた水路の一部は殿ヶ谷緑道になっています。
玉川上水

今回のコースは玉川上水にそって、木々や草花に囲まれた遊歩道になっていて、とてもすがすがしかったです。

「生誕90年 池波正太郎展」

銀座松屋で、「生誕90年 池波正太郎展 ~鬼平犯科帳、剣客商売、仕掛人・藤枝梅安を創った男~」を見てきました。
池波正太郎展nチラシ
池波正太郎の作品は、鬼平犯科帳、剣客商売を少し読んだ程度です。仕掛人はテレビでよく見ました。
新国劇が好きで、その関連の人から話を聞いたことがあります。
池波正太郎の生き方があこがれでした。あれだけの小説を書いていて、映画は月に30本から40本も見て、外国を旅行して絵を描いて、食通でもあり、音楽も好きというのですから、もう達人です。
着物を着て、おしゃれですてきに年をとられたと思っていたのですが、亡くなったのは67歳でした。若いです。
亡くなったころから、私が江戸に興味を持ち、鬼平犯科帳と剣客商売を時々読みます。物語ですが江戸が見えるような気がします。
本当にたくさんの作品を書かれました。
私は、挿絵が好きなので、風間完や中一弥の原画も飾ってあって、とても嬉しかったです。
また、本で読んだことがかる池波正太郎の年賀状も、見られて良かったです。裏面はご自身の干支の絵で、春には作って、宛名を1000という単位に書いていったようです。律儀な人でもあったようです。
小説ではないですが、内藤新宿について書いたエッセイのような作品を持っています。家に帰って読み返しました。

ゴーヤーの木 モクレイシ

ゴーヤのカーテン
この数年、緑のカーテンでゴーヤーを育てています。今年はうっかりして、黄色くしてから取り、それをカルピスと混ぜてジュースにしています。
モクレイシ ゴーヤの木
目黒の林試の森を歩いていたら、あれがゴーヤーの木だと教えてくれました。
正式には、モクレイシ(木茘枝)です。
『牧野新日本植物図鑑』には、 「木茘枝であろう。牧野晩成氏によれば果実が割れて、赤い種子が見えるのをツルレイシの果実にみたて、それが木質であることからついたという。おそらく当たっていよう。」とあります。
ツルレイシ は「ニガウリ( 苦瓜 )、つまりゴーヤー) 」のことです。
黄色くなったゴーヤの赤い実
モクレイシの赤い実
つまり、モクレイシは、果実が割れ赤い種子が見え、それがゴーヤー(ニガウリ)の実の種と似ているので、ツルに対してモク(木)と名付けられたわけです。わかりやすい言い方で、ゴーヤーの木とは面白いです。
白い小さな花が咲くようです、探したのですが、もう遅かったのか見付けられませんでした。1月ごろしっかり赤い実を観察したいと思います。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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