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荒木町をまた歩きました。

車力門通りにある案内塔
荒木町を歩いていて、荒木町の地名のおこりに、荒木志摩守政羽の名前を記した張り紙がありました。
しかも、あの忠臣蔵の赤穂城明け渡しの時、下検聞をした旗本荒木十左衛門ゆかりの人だというので、二度びっくりしました。
その案内は次のようです。
荒木町町名由来の張り紙
一般的には、美濃国高須藩 松平摂津守の屋敷があった前は、小栗氏の屋敷があり、それから、松岡藩松平家の中屋敷になっていたと聞いています。
この、小栗氏というのがよくわからないのですが、坂の案内に「津の守坂を小栗坂とも言い、それは、摂津守の屋敷前に小栗氏の屋敷があったから」だという説明があります。
この小栗は「小栗主計」という旗本のようで、荒木志摩守とは関連はないようです。
天和3年(1683)に美濃国高須藩藩主・松平義行が拝領し、幕末まで続きました。
荒木町の町名由来に、荒木志摩守政羽が、どこから出てきたのかわかりませんが、そうだと私としては、もっと荒木町に関心を持つと思います。忠臣蔵にも興味があるからです。
しかし、地名ゆかりで言えば、その案内の下に書いてある新木町から来たというのを信じたいです。
それは、かつて、このあたりに横町があり、そこには、植木屋が多く住み、近在より新木を買い入れ、ここで枝振りを直してまかなっていました。そこで、「新木横町」と呼ばれていたのですが、いつのころか「新」が「荒」の字に間違われ、荒木横町になりました。この荒木横町があったことで、ここを荒木町と呼ぶようになった、というものです。
荒木町の存在については、地元の案内がなるほどと思います。
<歴史と伝統と人情とにぎわいの町です。路地が多く油断して歩いているとすぐ道に迷います。いつの頃か「奥の細道」ならぬ「奥の細い道」と言われるようになりました。
町の中ほどに小さな公園があり。片隅に開運・防火・防犯・交通安全・商売繁盛等「ナンデモコイ」のわりには小さな金丸稲荷神社があり、さらに奥に足を進めると静かな池「策の池(むちの池)…通称カッパ池」のそばに近年「縁結び」が評判の「津の守弁財天(つのかみべんざいてん)」があります。
食べて良し、飲んで良し、歌って良し、そして住んで良しのこの町に一度足をお運びください。>
荒木町 金丸稲荷
ナンデモコイのお稲荷さんは、良いですね。でも、弁天様が縁結びというのは、少しひっかかります。弁財天の縁結び、ここだけかもしれません。弁天様は、やきもちやきだったはずですから。
津の守弁財天
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「迎賓館」参観

 迎賓館参観に行ってきました。昨年11月に、前庭だけは見せていただきました。今回は応募して、建物の中、南側の噴水の見学をすることができました。
迎賓館の正面側
 地上2階、地下1階、延面積15.000平方メートル。
迎賓館は、明治時代に片山東熊以下、当時の一流建築家・美術工芸家が一丸となり、ヴェルサイユ宮殿を模したネオ・バロック様式の建物です。片山東熊は、コンドル博士が教授だった工部大学校造家科(現、東大工学部建築学科)第一回卒業生です。辰野金吾・曽禰達蔵などと並ぶ日本人初の建築家の一人です.
皇太子殿下・嘉仁親王(後の大正天皇) のご成婚後の新居として建築されたのですが、ほとんど使用されなかったそうです。
 建物内部は残念ながら撮影禁止でした。
「彩鸞の間」。「さいらん」と読みます。左右の大きな鏡の上と、グレーの大理石で作られた暖炉の両脇に「鸞」(らん)という架空の鳥をデザインした金色の浮き彫りがあることからこのように呼ばれます。
「花鳥の間」。部屋の壁には30枚の七宝の花鳥の絵が飾られていることからその名前がついているそうです。この部屋は国・公賓主催の晩餐会が行われる部屋です。
3つ目のお部屋の前に中央階段・2階大ホールです。階段下の入口が迎賓館正面の真ん中の扉になります。ここからお客様を入れるので、このホール及びその先に続く「朝日の間」は迎賓館の中で最も豪華で格式の高い部屋です。小磯良平の「絵画」「音楽」が飾られていました。
「朝日の間」。朝日の間の名称は、天井に描かれた「朝日を背にして女神が香車を走らせている姿」の絵に由来します。絨毯は47種類の糸で織られた薄紫系の桜模様の最高級の緞通だそうです。
天井の下の部分には海軍の象徴の船や、陸軍の象徴の甲冑などの絵の中にライオンが描かれていて、そのライオンの目はどこから見ても自分を見ているように感じるだまし絵技法で描かれているそうです
最後の部屋は「羽衣の間」。ここは当初ダンスルームとして使うために作られた部屋で、オーケストラピットもありますが、実際にダンスルームとして使用されたのは2回だけだったという話です。
この建物内部だけで1時間かかりました。大勢の人で、疲れました。
迎賓館南の噴水
迎賓館の噴水
 迎賓館の建物を出て、裏になるのでしょうか、南側の庭に出ます。噴水がありました。
 ゆっくりと噴水と、樹木を眺めました。空も大きく拡がっていました。とても、東京とは思えません。

「四谷見附公園」のプラタナス

 永井荷風は「赤坂離宮のいかにも御所らしく京都らしく見える筋塀に異国種の楓の並木は何たる突飛ぞや」と嘆いて書いています。これは、鮫川橋坂沿いのことだと思います。そこにはユリノキやトチノキが並木になっています。着物が消えて洋服になってしまったように、今違和感を覚える人はいないでしょう。すっかり風景に溶け込んでいます。
 四ッ谷駅から迎賓館へのユリノキの並木はいつ見ても見事です。
 四谷中学校の隣に「四谷見附公園」があります。
 以前、四ッ谷駅で「四谷見附公園」はどこですか、と聞かれました。四谷見附跡の石垣あたり、あるいは麹町側の駅前トイレのあるあたりのことをいうのかな、と迷ったのですが、ずっと離れて、迎賓館近く、四谷中学校と学習院初等科との間にありました。
 迎賓館のそばにあり、ギリシャの円形劇場を想起させる公園で、しゃれていますが。
四谷見附公園の2本のプラタナス
 ここで有名なのは、プラタナスの大木です。
 大正10年(1921)に赤坂離宮前記念公園として初めて一般公開されましたが、そのときすでにあった木だと言われています。
 公園の中央と四谷中学校の校舎側の2本がありますが、中央のほうは新宿区立公園最大の木といわれています。幹周りは4.8m、高さは32mあります。
四谷見附のププラタナスに近づいて
 ちなみに、プラタナスは、果実の形が、山伏が着る法衣「篠懸(すずかけ)」に付いている房に似ていること、 また、鈴がぶら下がっているように見えることなどから、「スズカケノキ」とも呼ばれます。スズカケノキは、モ ミジバスズカケ、アメリカスズカケ、スズカケと大きく3種ありあますが、街路樹でよくみかけるのは、モミジバスズカケです。
 プラタナスが日本に入ってきたのは明治になってからで、初めて移入されたうちの1本がこの樹だということです。
 四谷見附公園は、公開当初は、「赤坂離宮前記念公園」として当時の東京市に委託管理・開園されましたが、美術館を建てるとか、いろいろあって 最終的に新宿区の公園に落ち着いたようです。でも、どうして四谷見附公園なのでしょうか。少し気になります。
四谷中学校のプラタナスのデザインの校章
 もう一つ大きく3本に枝を伸ばしたユニークなプラタナスが四谷中学校の校舎をのぞんでいますが、この四谷中学校の校章が、プラタナスの葉をデザインしたものです。学校の案内には、校舎前のプラタナスにちなんでとありますが、ここのプラタナスを意識したのではと思います。

四谷本塩町のあったスダジイ

明治公園に、樹高はないのですが、横に葉を茂らして丸みを帯びた木があります。スダジイです。
幹周りは3.6mあり、樹齢は350年ぐらいと鑑定されています。
明治公園のスダジイ 1
明治公園のスダジイの根元 左は台場石
元は、四谷の駅近く、防衛省の方へ向かった、本塩町にありました。
私がよく見ていたのは、その本塩町の雪印の会社の前でした。
このスダジイの木の説明によると、江戸時代、柳沢吉保の父安忠の屋敷付近にあったスダジイの木と書かれています。
新宿区の文化財の資料では、江戸時代、椎の木屋敷と言われていた村松備中守邸だったように出ています。手持ちの切り絵図にはその名前は出てきませんでした。
四谷界隈では有名な木だったのでしょう。この木に因んで坂町の方へ通じる脇道は「椎の木横丁」と呼ばれていたようです。
明治公園のスダジイは、前はここにあった
昭和39年(1964)に建築工事のため、雪印本社前に移植された後、平成8年7月、都市計画による外堀通りの拡幅にともない、この都立明治公園へ再度移植されました。
昭和59年(1984年)に、新宿区の天然記念物に指定されています。
本塩町には、旗本高力家の屋敷があり、ここの松が高力松と呼ばれ有名でした。この木は戦災で焼けてしまいました。外堀通りを本塩町と外堀公園沿いに南へ上る坂は今でも高力坂と呼ばれます。
明治公園のスダジイの痛み
明治公園のスダジイ、久しぶりにお目に掛かりましたが、かなり傷みが大きいです。大事にしてほしいです。そして、スダジイ、元の本塩町に帰りたいのではないかなとも思いました。

鮫ヶ橋せきとめ神

 みなみもとまち公園のわきを左に進むと、高速・中央線のガード手前右側に小祠があります。せきとめ稲荷です。
鮫ヶ橋せきどめの神 碑
 ここには、「大願成就 鮫ヶ橋せきとめ神」の石碑と「四谷鮫河橋地名発祥之所」の石碑が立っています。
 下記の文字が記されていました。
 沙美津川 千どり来なける古の 里の名ごりを伝ふ石ぶみ
 昭和50年(1975)3月建立 長尾保二郎 登女 建碑
 須賀神社の下あたりにある日宗寺の湧水を源流として、現在の若葉町の低地を通り、この鮫谷橋を抜け、東宮御所に入り、さらに溜池から東京湾へと流れる桜川(鮫河)が流れていました。ここには、さらに信濃町駅南側の「千日谷」からの流れが合わさって沼地のようになっていたようです。
鮫ヶ橋 せきどめ稲荷
 そして、ここには、桜川(鮫河)のゴミ芥を堰止める堰があり、これが、堰止め=咳止めに通じ、いつの頃からか沼池の周囲の木の枝に名前や年齢を書いた紙を紅白の水引で結び付けて「咳止め」のお願いをする風習が流行ったといいます。沼地は、その後埋め立てられてしまいましたが、信仰は残り、昭和5年、小俣りんという近所の老女が埋め立て跡地に「大願成就 鮫ヶ橋(鮫河橋)せきとめ神」と彫った石碑を建てたそうです。この碑は戦後一度取り除かれましたが、昭和46年に再建されました。
 鮫河橋の地名は、鮫河橋の由来については、「江戸名所図会」には、昔この地が海につづいており、鮫があがったことによる。「江戸砂子」には、牛込行元寺の僧がさめ馬(白い馬)に乗って橋を通る時、落馬したので、さめ馬橋となり、それが転訛したという説。それに桜川は雨後にだけ水量が増すので、雨が降るときだけの橋、「雨が橋」といわれて、それが訛ったという説、などがあります。しかしいずれも通説の域を出ていません。
 鮫河橋については、『御府内備考』文政12年(1829)には、「鮫河橋は紀伊国坂の下に大溝あり、その所にかかる橋なり、今は此の辺の地名となりて、すべて鮫ヶ橋といえり。世の人鮫河橋を四ッ谷中の小字とするは誤りない。此辺古へ山中村と称せしを、家康御入国の後、伊賀者の知行に賜はりしより、一ツ木村と改めた。然るに橋の名殊に高かりければ、後年町並と成し時、橋名をおはせて町の名に唱へ来りしより、遂に此辺の惣名となれり」とあります。
鮫ヶ橋 稲荷隣の子育て地蔵
 現在、鮫河橋の下を通っていた川は、完全になくなったのではなく暗渠になっているということです。もちろん鮫河橋はありません。この橋、もともと5m足らずの板橋だったようです。いつのころかわかりませんが、石造りの橋の写真が残っているようです。「鮫ヶ橋せきとめ神」の隣の子育て地蔵に掲げてある掲示板にかつて貼ってあったと思うのですが、今回見たらありませんでした。
 江戸名所図会の「鮫が橋」をみてみましょう。
江戸名所図会 鮫ヶ橋
 橋の上で人が、向こうから来た老人と何やら話をしています。橋の長さは5mくらいということですから、小さな橋です。
 しかし、堤は、石垣で固められていて、かなりしっかりとした造りになっています。
川に木の杭があるのは、ゴミを止めるためです。建物に何か書いて貼っています。読みにくいですが「御誂向染物所」と書かれているようです。格子越しに土間に見えるのは、かめです。おそらく染料が入っているのでしょう。そのような風景です。
後ろには大きな鯛を持ってる男がいます。
「鳥の跡 寂しさや 友なし千鳥 声せずは 何に心を なぐさめがはし」
 何度も書いたように、鮫河橋という地名は現在では坂道の名前とか石碑とか東宮御所の門程度しか残っていません。それは、昭和の初めまで貧民窟だったからです。もちろん現在はそんな様相はまったくなく、目の前は東宮御所ですし、みなみもと町公園も愛子様が公園デビューした場所で有名になりました。もう少し四ッ谷駅の方に行くと、学習院初等科です。近くには、オテル・ドゥ・ミクニがあり、むしろセレブなイメージが生まれています。しかしこの界隈から若葉町に向かって歩くと、道は曲がりくねり、崖のようなものが見えたりします。スリバチ地形がしっかり残っています。

永井荷風が歩いた鮫河橋

みなみもと町公園
荒木町の谷から、新宿通りを挟んで反対がわ、現在の若葉町界隈の谷を見てみたいと思います。迎賓館の左側、学習院初等科の前の緩やかな坂を明治神宮外苑の方に下ると、交番のある公園があります。公園は「みなみもと町公園」です。
永井荷風がこの公園あたりにたたずんで夕映えを眺めたことが、『日和下駄』(大正4年、1915、出版)に出ています。当時荷風が住んでいた大久保余丁町とは新宿通りの台地を挟んだ位置にありました。
永井荷風 「日和下駄」
『日和下駄』第8章『閑地(あきち)』です。
「四谷鮫ヶ橋と赤坂離宮との間に甲武鉄道の線路を堺にして荒草萋々(せいせい)たる火避地(ひよけち)がある。初夏の夕暮私は四谷通の髪結床へ行った帰途または買物にでも出た時、法蔵寺横町だとかあるいは西念寺横町だとか呼ばれた寺の多い横町へ曲って、車の通れぬ急な坂をば鮫ヶ橋谷町へ下り貧家の間を貫く一本道をば足の行くがままに自然とかの火避地に出で、ここに若葉と雑草と夕栄(ゆうばえ)とを眺めるのである。」
歩いてきたのは、迎賓側からでなく、現在の若葉町の方からです。寺町の通りを歩いて来ました。荷風が、「若葉と雑草と夕栄を眺めた」火避地は、当時赤坂御用地で火災の延焼を避けるための広場でした。その広場が現在の「みなみもと町公園」となったのです。
 文中、「鮫ヶ橋谷町」とあるのは、今の若葉町のことです。実は、若葉町内の谷筋一帯は戦前まで鮫河橋(さめがはし)と呼ばれ、東京への人口流入が顕著になった明治期から昭和初期頃まで、東京有数の貧民街と呼ばれていました。
 荷風の『日和下駄』を読み進めます。
「この散歩は道程の短い割に頗る変化に富むが上に、また偏狭なる我が画興に適する処が尠(すくな)くない。第一は鮫ヶ橋なる貧民窟の地勢である。四谷と赤坂両区の高地に挟まれたこの谷底の貧民窟は、堀割と肥料船と製造場とを背景にする水場の貧家に対照して、坂と崖と樹木とを背景にする山の手の貧家の景色を代表するものであろう。四谷の方の坂から見ると、貧家のブリキ屋根は木立の間に寺院と墓地の裏手を見せた向側の崖下にごたごたと重り合ってその間から折々汚らしい洗濯物をば風に閃(ひらめか)している。初夏の空美しく晴れ崖の雑草に青々とした芽が萌え出(い)で四辺(あたり)の木立に若葉の緑が滴る頃には、眼の下に見下すこの貧民窟のブリキ屋根は一層汚らしくこうした人間の生活には草や木が天然から受ける恵みにさえ与(あずか)れないのかとそぞろ悲惨の色を増すのである。また冬の雨降り濺(そそ)ぐ夕暮なぞには破れた障子にうつる燈火の影、鴉(からす)鳴く墓場の枯木と共に遺憾なく色あせた冬の景色を造り出す。」
 鮫河橋は谷になっているのです。「鮫ヶ橋谷町」です。それに地名として語っている「鮫河」と「橋」についても触れなくてはいけませんが、それについては後にします。
 ただこうした「貧民窟」といったブリキ屋根の家などの風景、今では、まったく感じることもできません。こうして書かれた文章から想像するしかないのです。荷風は「貧民」に対しても偏見を持っていないので、素直に読めイメージすることができます。
 長くなりますが、もう少し引用させてもらいます。
「・・・・僅に鉄道線路の土手一筋を越えると、その向にはひろびろした火避地を前に控えて、赤坂御所の土塀が乾の御門というのを中央にして長い坂道をば遠く青山の方へ攀(よじ)登っている。日頃人通りの少ない処とて古風な練塀とそれを蔽う樹木とは殊に気高く望まれる。私は火避地のやや御所の方に近く猫柳が四、五木乱れ生じているあたりに、或年の夏の夕暮雨のような水音を聞付け、毒虫をも恐れず草を踏み分けながらその方へ歩寄った時、柳の蔭には山の手の高台には思いも掛けない蘆の茂りが夕風にそよいでいて、井戸のように深くなった凹味(くぼみ)の底へと、大方御所から落ちて来るらしい水の流が大きな堰にせかれて滝をなしているのを見た。夜になったらきっと蛍が飛ぶにちがいない。私はこの夕ばかり夏の黄昏(たそがれ)の長くつづく上にも夕月の光ある事を憾(うら)みながら、もと来た鮫ヶ橋の方へと踵(きびす)を返した。」
鮫河橋門
東宮御所と鮫谷橋はまさに道一つ隔てただけです。なんたる対比かと思います。現在「みなみもと町公園」の目の前には、鮫河橋門という、その忌まわしい思いから町名も変え、消していった「鮫河橋」の名をそのまま冠した門があります。

「生誕250周年 谷文晁」展

 サントリー美術館の「生誕250周年 谷文晁」展に行きました。
谷文晁展チラシ
 谷文晁(1763~1840)は、江戸時代後期の絵師です。狩野派や円山四条派、土佐派、洋風画をなど学び、その各派の画法の折衷に努めて、一家をなしました。
だからその作風も幅広く、何でもござれといった感じで、とても一人の絵師が描いたものだとは思えません。それにとにかく多作です。今までも、江戸の関連の展示会で絵画があると必ずその名前を目にしましました。交友関係も目を引きます。
 展覧会の構成は以下の通りです。
1.様式のカオス
2.画業のはじまり
3.松平定信と『集古十種』― 旅と写生
4.文晁と「石山寺縁起絵巻」
5.文晁をめぐるネットワーク ― 蒹葭堂・抱一・南畝・京伝
 どうしても、その略歴と交友関係が気になります。
 文晁の祖父は、経済的手腕に優れ、民政家として聞こえ、徳川御三卿の一つ田安家に抜擢され治績を残しました。父麓谷も田安家家臣となり漢詩人として名を知られました。
 谷文晁は、26歳で、田安家に奥詰見習として仕え、近習番頭取次席、奥詰絵師と出世します。30歳のとき 田安宗武の子で白河藩主松平定邦の養子となった松平定信に認められ、その近習となり定信が隠居する文化9年(1812年)まで定信付として仕えました。
 谷文晁 人物相関図
松平定信といえば「寛政の改革」です。前任者である田沼意次の重商主義政策から、朱子学に基づいた重農主義により、とても厳しい倹約政策をとりました。旧里帰農奨励令、七分積金令、出版統制令、風俗匡正令、異学の禁等々次々と発令しています。
そういた政策から、谷文晁とも交友のあった大田南畝の作ではないかと言われた狂歌「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」などに代表される文芸で揶揄された人です。
 松平定信、谷文晁、いったいどういう関わり方をしたのか、とても気になりました。
寛政五5年、定信が伊豆沿岸を見回りに行った時同行して描いたのが、 代表作「公余探勝図」です。
 また全日本文化財カタログとも言える「尚古十種」も松平定信、谷文晁のなしとげた大きな仕事です。肖像画が源頼朝でこれが足利尊氏だとかいう通説は、この本で一応の決定がなされたのです。
 全国各地をよく歩いているし、何せ、勉強のしかたがすごいです。分厚い画帳を見ると勢力的な人だなと思います。
 谷文晁は自分が教鞭をとった塾で、まずは模写をして優れた人の絵を学びなさい、
 次に自然のもの・目の前にあるものを忠実に描きなさい、そして、やっと自分の個性を探るスタート地点に立つことができるのです、
 というようなことを説いたそうです。生き方ですね。
谷文晁 青緑山水図
 作品をひとつ借ります。山水図下部の橋に小さな人がいます。一説に、昔の中国では横になりながら絵を鑑賞していて、絵の中にいる小さな人物を通じて、山水の景色を楽しむようにしていたらしい、ということです。見逃しそうな本当に小さな人物です。

「花開く 江戸の園芸」展

 江戸東京博物館へ「花開く 江戸の園芸」展を見に行きました。
花開く江戸の園芸チラシ
 かつては、庭園といえば、京都に限るといった状況でしたが、いやいや江戸の造園もすばらしいということが言われています。江戸の造園は、相当のデザイン力と構想力で構成されています。えどの庭園を見直したいと思っています。そいうことで、この展覧会ぜひ見たいと思っていました。
 会場に入ると、1860年に来日したイギリスの植物学者、ロバート・フォーチュンの言葉がありました。
「日本人のいちじるしい特色は、下層階級でもみな生来の花好きであるということだ」
 当時江戸では、草花の栽培に丹精をこめ、鉢植えの草花で生活を飾る豊かな園芸文化が開していました。この時代の園芸文化がいかに高いレベルに到達していたのか、フォーチュン
は次のように続けています。
 「もしも花を愛する国民性が、人間の文化生活の高さを証明するものとすれば、日本の低い階層の人びとは、イギリスの同じ階級の人達にくらべると、ずっと優って見える」。
展示は次の構成になっていました。少し長くなりますが、展示の趣旨がよく見えるので記しておきます。
1章 花と緑の行楽文化
 第1節 四季折々の楽しみ
 第2節 植木屋伊兵衛の登場
 第3節 メディアの発達と行楽文化
 第4節 梅屋敷と花屋敷-民間庭園の登場-
2章 植木鉢の普及と高まる園芸熱
 第1節 植木鉢のインパクト
 第2節 暮らしを彩る草花
 第3節 商品となった草花
 第4節 伝統文化に浸透する草花
3章 武士の愛した不思議な植物たち
 第1節 武士の園芸
 第2節 奇品栽培の情熱
4章 江戸園芸三花 -朝顔・花菖蒲・菊-
 第1節 朝顔の変化を追い求めて
 第2節 花菖蒲に魅せられた人びと
 第3節 菊花のたのしみ
終章 園芸文化の明治維新
 どのような花がどんな風に珍重さたか、このタイトルからでも想像できます。
また、植木鉢の普及というのは、植木鉢あたりまえのように思っているので、鉢を壊して、水の捌けをはかるところから始まったこと、それから鉢のデザインのすばらしさ、そういう文化の流れも印象的でした。
 江戸時代を通して、大名から町人まで幅広い階層の人びとが、身分の垣根を越えて草花の栽培に喜びを見いだし、時には、鉢植えの草花を持ち寄ってその美しさや珍しさを競い合う独自の園芸文化を展開していたことが、多くの浮世絵などで手に取るように見えてきます。
 そして最後の言葉が、気持ちをつかみました。
「江戸時代のゆっくりとした時間観念は次第に現在の感覚に近づいていきます。・・・見た目の美しさも重視されたのです。」
その代表がバラです。
「西欧から輸入された洋薔薇の美しさは文明開化の日本において急速に受け入れられていきます。これと対極的に斑入りの常緑植物にあれほど惚れ込んでいた奇品栽培家の姿は次第に影を潜めていきました。植物に注がれる審美の基準は、近代化の過程で逆転したまま現代に至っています。」
 手にかけた、ということより、見た目がまず重視されてきたということなのかな、と思いました。時間感覚と園芸という関わりも考えさせられる問題点です。

荒木町 大名屋敷から花街

 尾張徳川の分家である美濃高須藩松平摂守義行が、現荒木町に屋敷地を拝領したのは天和3年(1683)のことで、以後幕末まで同家の上屋敷がここに置かれました。
 義行の父尾張藩2代藩主徳川光友は、江戸随一の庭園を有する尾張藩下屋敷「戸山荘」を造営した人物で、美濃高須藩上屋敷における大規模な泉水の造営にあたっては、光友の影響と支援によって可能となったと考えられています。
 高須藩十代義建は、二男が尾張藩主徳川慶勝、三男が石見浜田藩主松平武茂に、五男義比は高須藩主となったのち尾張宗家を継いで尾張茂徳となりさらに一橋茂栄となり、七男が会津藩主松平容保、九男は伊勢桑名藩主松平定敬に、十男義勇が高須藩主となっています。
高須四兄弟
高須四兄弟として、幕末史に欠く事が出来ないこうした人物が、この地から生まれたことを考えると、また別の感慨があります。
明治16年 荒木町付近の図
 明治16年に測量された地形図を見ると、池は南側に丸い池が一つ、そして北側に大きく細長い池が伸びています。現在残っている池は、明治時代の地図でいえば北側の大きい池が西にすこし出っ張っているところの先端のところです。そして、おそらくここに滝があったと思われます。
 明治に入り、荒木町となってからは、都会には珍しい滝があるということで、周辺に茶屋、料理屋ができ、やがて三業地、花街として栄えることになります。ただ、その頃までには池の規模は縮小し、滝の水も枯れてしまいました。(「明治42年測図」には池は描かれていません。)
 現在、まわりは、もうほとんど住宅地となっていますが、石畳の道があり、かつての花街の気配が残っています。この池も、以前は、周囲は駐車場でしたが、整備されました。
荒木町 石畳の道
荒木町 策の池の上の料亭
 策の池の津の守弁財天の石畳をあがると、料亭の感じが残っている一角があります。ここは神楽坂にも負けない風情があります。
 荒木町内の区道が鍵の手状に曲がる角地にある荒木公園は、金丸稲荷神社の敷居であった土地を、地元住民からの要望を受け新宿区が買収し開園した公園です。平成13年12月に公園として開園しました。
金丸稲荷神社
 金丸稲荷神社の周部分の石柱に記される寄進者名は注目にあたいします。伊勢丹の名前もあれば、料亭の屋号などが刻まれています。一番右側には「四谷三業組合」の文字があります。三業組合とは、芸妓置屋・料亭(茶屋)・待合(貸座敷)の「三業」です。花街であったことがよくわかります。
金丸稲荷

スリバチ地形の荒木町

東京は坂の多いことで知られています。砂礫の層の上に、火山灰が降り積もった関東ローム層が堆積してできた武蔵野台地は、水の浸食で「スリバチ状」の谷地を作りやすかったので、「スリバチ」地形があちらこちらで見つかります。
四谷・市ヶ谷・渋谷・茗荷谷など、「谷」のつく地名も多いです。「谷」は東京のまち歩きのキーワードのひとつです。そして、坂と谷に囲まれた地域は、「スリバチ地形」として注目されています。
 その代表格として、よく取り上げられるのが、新宿区の荒木町です。
荒木町から北の方を望む
 新宿通りから津の守坂を下って途中で左に曲がり、荒木町に入ると、深い谷への階段があります。まず、右手側を、家の間をおじゃまするようにしてのぞくと、靖国通りの方が低い谷になって建物が密集しています。
荒木町は、江戸時代、松平摂津守のお屋敷がありました。そこに湧き水があり、滝もあり、それに玉川上水の水を取り込んで、水をせき止める「ダム」が築造されました。ここがその谷戸をせき止めた土手の位置にあたります。「ダム」の土手は現在一般道路になっています。
左側の階段が「荒木町」、スリバチ地形への入り口になります。
明治になって、松平摂津守のお屋敷が払い下げられた後は、風光明媚な池畔を囲んだ三業地として発展しました。
現在でも複雑に入り組んだ石段路地に小料理屋などが軒を連ねていて、往時を偲ぶことができます。
荒木町 階段を降りて上を望む
階段を降りて、進むと、スリバチの底にあたるあたりにかつての池、笞の池が現存しています。そこには、津の守弁財天の祠があります。策の池の周りは、4方向、ほぼ台地に囲まれて1級のスリバチ地形です。
江戸時代、この一帯は松平摂津守の上屋敷でした。元々南向きの斜面の高台に屋敷があって、斜面や窪地の池が庭園に活かされていました。
荒木町 策の池 弁財天
明治になってからは、池のまわりには、滝もあり、お茶屋さんや芝居小屋がならぶようになります。
さて、この真性スリバチ地形ですが、元々は谷口(開口)のある谷戸だったものを、江戸期に、先に降りてきた階段のところに「ダム」を造って谷口を閉じたことにより、出来上がったといわれます。
 そう考えると、せき止められた水はどうなったのか、気になります。
平成9年7月のことです。荒木町で下水道の再構築工事があり、その時、地下10m余りのところから、江戸時代に、松平摂津守義行が池の排水用として設けた石組みの暗渠が見つかりました。下水管で、現在の靖国通りを走っていた紅葉川の方に流していたのです。
ちなみにこの下水施設は、現在でも公共下水道として十分に機能を発揮するということで、その場に残されています。ただ、一部は撤去する必要があったため、その部分は、落合水再生センターの敷地内に復元、展示されています。
図で見ると大小2つの大きな池だった名残の「策の池」です。
現在の長さは10m弱、幅は5m弱の小さな池ですが、かつては長さ130m、幅も20〜40mある大きな池でした。
「策(むち)の池」の名前の由来は、徳川家康が鷹狩りに来て、ここで「馬の策」を洗ったことが由来とされています。
滝は落差4mほどあったと言われますが、周囲の急速な都市化で明治後期にはほとんど枯れていたそうです。一方で町自体は歓楽街として発展し、数百人の芸者を擁する花街となったのです。

内藤町の「欅」

 緑被率ということを聞きます。ある地域又は地区における緑地(被)面積の占める割合のことですが、空中写真を用いて、地域、区内の緑被地(樹木・樹林・草地・屋上緑地)を判読し、新宿区の全面積における緑被の割合を調査するものです。東京都23区内の区域の緑被率は平均で約20パーセント台です。
 その緑被率は、高くなっていると、各地で発表されます。でも本当に「緑」は増えているのでしょうか。
 私は「緑」は減少していると思います。その一番の原因は、屋敷内の樹木、庭木が切られていることにあります。
 近所でも、最近庭に大きな木があった家が壊され、マンションが建ちました。家主が亡くなって、相続が大変だったようです。本当に景気が良くなったのか、あるいは、消費税が上がる前に建てようというのか、どんどん家が建て替えられています。同時にかろうじて残されていた庭木は消えていきます。
 そうでなくても、庭木があって陰になる、落ち葉が舞い込むそうした、近所のトラブルで、木を切ってしまう人もいます。
 人工の芝生とか、サツキのようなものを植えて、緑被率が増えたというのでは、本当の緑が増えたとは言えないと思います。
 大竹昭子氏の『日和下駄とスニーカー』(洋泉社)を読んでいたら、「東京で目にする緑は、街路や公園や寺社や人家の庭など、人の手で植えられたものだが、中でも散歩の道すがらに出会ってうれしいのは庭木の緑ではないだろうか。」と出ていました。この本は、永井荷風の『日和下駄』を手に東京を散策する楽しい本ですが、荷風も、瓦屋根の間に見える緑を愛でています。瓦屋根の家が少なくなり、庭がなくなり、そうした風情もなくなっていきます。
保護された内藤町の欅
 その『日和下駄とスニーカー』(に、内藤町の「欅」のことが出ていました。
 新宿御苑のすぐそばに、けやき公園という小さな公園があり、そこに1本の大きな欅の木があります。その欅の話です。この欅、元は、ここにあった広い屋敷内の庭木でした。代代わりで、屋敷が売られ、不動産屋が木も切って、更地にすると言う時、近くの住人が反対運動をしました。そのおかげでこの欅が残ったという話は、知っていました。
 この本によると、反対運動をしたのは、この地に代々住んでいる、7、80代の古老でした。道の入り口にピケをはり工事を阻止しようとがんばったのですが、不動産屋が、偽の印鑑を使って届け出た許可申請がおり、工事が進められ、おおかたの木は切り倒されていきます。しかし、この大きな欅だけは、倒すが大変だったようで残りました。あとは、その土地を買った人がその木をどうするかということになったのですが、なかなかその区域は売れませんでした。そうこうしているうちに、その不動産屋が倒産してします。
 それでその土地をどうするか、新宿区の区議会で審議され、新宿区がその土地を購入し、欅を保護することが決まります。
 それで、ここに120㎡の小さな公園ができ、大きな欅が残りました。
 本を読んで、もう一度、その欅を見に行きました。「良かったね」と話しかけたくなります。また、この近くには6本も大きな欅があると出ていましたが、御苑の方に1本見えました。大きな欅いつまでも元気でいてとすぐ近くの多武峰神社に向かって祈りました。
 大きな木を残してほしいと思います。
内調町の欅2本

緑の実を結んでいる樹木

林試の森で、樹木を見ました。今回はその中で実をつけている樹木です。
エゴノキ
エゴノキ
実の味がエグイからこの名がついたとのこと。別名のチシャノキは、実の成りかたを動物の乳に見立てた、乳成り(チナリ)ノキから転化したとされます。
果皮に有毒なサポニンを多く含んでいて、これを利用し、果実や根を水の中で叩き潰し、魚を麻痺させて採取する、魚毒に利用されました(この漁法は、現在では禁止されています)。
マルバチシャノキ
マルバチシャノキ
和名は丸い葉をもつチシャノキという意味で、チシャノキという名前は、若葉がキク科の野菜であるチシャのような味がすることからきたと言われます。
広楕円形の葉に特徴がありますが、枝の先端に房状になる実は秋には黄色く美しいです。
樹皮は、チシャ染めの染料として利用されます。
ハクモクレンの実
ハクモクレンの実
果実の付け根部分をよく見てみると、小さな丸い痕跡がたくさんあります。これはおしべが付いていた痕です。
イヌビワの実
「イヌビワ」は、じつはビワのなかまではなく、イチジクのなかまです。 傷をつけると、白い液が出てくるのも同じです。
8月になると、イヌビワの木では、緑から、赤く美しい状態を経て、黒く熟した実のようなものを見ます。じつはこれは、「花嚢(かのう)」といいます。 
タラヨウの木
タラヨウの木です。日本では葉の裏面に経文を書いたり、葉をあぶって占いに使用したりしたため、その多くは寺社に植樹されています。
また、郵便局の木として定められており、東京中央郵便局の前などにも植樹されています。
写真では見にくいですが、実がたくさんなっています。

「防火樹」 イチョウ

「防火樹」という言葉があります。火災の延焼を食い止めるための樹木です。
イチョウ・サンゴジュ・シイ・カシ等がそのように言われます。いずれも葉が厚く、枝や幹もコルク層が厚いです。また、多量の水分を含むと言われます。
荒木町のイチョウ全景_edited-1
イチョウは、江戸時代から火事に備えて寺や神社によく植えられました。江戸は火事が頻発した町でした。
火がイチョウ木に迫ると、太い幹や枝から水を噴き出して枝葉へ火が燃え移るのを阻止するといわれてきました。これは審議が確かめられません。
第2次世界大戦の空襲で焼け残った「防火樹」はあちらこちらで見かけます。間近でよく見ると、幹に黒焦げの痕跡が残っています。時にはコールタールのようなもので塗り込められたものもあります。
神社には湯島聖堂、赤坂氷川明神など神社にはよくその戦災にあったイチョウをみかけます。
荒木町のイチョウの焼けた跡
新宿区の荒木町の近く、津の守坂の浅沼組本社の前にあるイチョウはにもその傷跡があります。
痛々しいですが、毎年見事に、銀杏を実らせます。
気になる樹木の一つです。

四谷見附跡の石垣の上のムクノキ

これまでも、下落合の近衛家のケヤキとか、など”気になる”樹木について少し書いていますが、少し集めていこうと思っています。
ムクノキ
四谷駅のそば、四谷見附跡の石垣の上に大きく枝をはっている樹木があります。
本をみると、よくエノキと書かれています。千代田区の案内では、ムクノキのようです。
ムクノキはムクノキ属で、エノキはエノキ属です。だた、樹形がよく似ているので、混同されやすいようです。文京区で天然記念物になった幸田露伴邸前の木もムクノキですが、この木も幸田露伴はエノキだと思っていたようです。
 ムクノキとエノキとの違いは葉の手触りでわかります。ムクノキの葉の表面には、剛毛があり、さわるとザラザラします。これは、トクサなどと同様に、植物の表面がケイ酸質の物質で覆われているからです。この性質を利用して漆器や鼈甲細工、象牙などの表面研磨にも実際使われていました。いわば自然が作ったサンドペーパーです。
 よく10円玉を磨きます。きれいになります。
このムクノキは、四谷見附のシンボルの木です。昔の写真にも載っているので、樹齢もかなりあるいるのではないかと思います。
四谷見附門は、寛永16年(1639)長州藩毛利秀就(ひでなり)(輝元の長男)によって造られました。
「見附」とは城を守るための番兵の居場所という意味です。
甲州街道に至る場所に据えられており、一説には甲州街道は、幕府の万一の際の退却路でもあったので、非常に重要な門でした。
形式は、枡形門です。桝形門とは、四方に石垣を巡らした四方形の広場の外側に「高麗門」という門を作り、内側には「渡櫓(わたりやぐら)門」を「高麗門」に対し直角に配し、その他を塀や多門櫓で囲むのである。門が「コ」の字の枡の形に開けているところからこの名があります。
城門には常時警備の武士がいて、暮れ六ツ(午後6時)に門の扉は閉められ、夜間は通行出来ませんでした。
明治5年に撤去されましたが、かろうじて石垣の一部が残されました。その上のムクノキ、枝振りがすばらしいです

「生誕140年記念 川合玉堂 ―日本のふるさと・日本のこころ―」

 山種美術館に「生誕140年記念 川合玉堂 ―日本のふるさと・日本のこころ―」を見に行きました。会期がこの4日までということもあり、大勢の人が来ていました。
 川合玉堂は、青梅の方へよく行っていたころ、時々、奥多摩の御岳(みたけ)の玉堂美術館のあたりを歩き、寄ったりもしていたので、いくらかは知っていましたが、こんなに多くの作品を見るのは初めてでした。
 作品はどこか懐かしく、見る者の心をなごませます。
川合玉堂 「早乙女」
 今回チラシとかチケットのデザインにも使われている、代表作になるのでしょうが、田植えを描いた「早乙女(さおとめ)」、近くで見ていて本当にこころ和みます。
 田植えの衣装に身を包み、腰を曲げてひたすら苗を植えていく。時折、体を休めるために立ち上がっては腰を伸ばす。絵ので、一人の若い女の人が立ち上がって腰を伸ばしています。     昭和20年の作品です。
 奥多摩の御岳には、戦争中、疎開していました。そこで見た風景なのでしょうか。そして、戦争が終わっても焼けた都心の家には戻ることはなく、その御岳に残って、自然を描き続けました。
 「自然が好きだ」と会場に言葉がありましたが、自然を描きますが、その自然の中の必ずといっていいほど人が描かれています。馬と一緒にいる場面が多かったかな、どれもゆったりと働いている人の姿です。人間が本来働くというのは、本当はこういう境地なのかもしれないな、と感じました。
 今回スケッチも展示されていましたが、玉堂は、大量にスケッチしたのち、それを改めて再構築し、最高の心象風景を作り上げていきました。見ないと描けないとも書いています。数多くのスカッチを重ね、人と自然が共存する心温まる風景画を描き続けたのです。
 玉堂は、明治6年、愛知県生まれです。14年、一家で岐阜市に移住。20年、京都の画家、望月玉泉に入門しました。亡くなったのは、昭和32年。83歳でした。
私が、玉堂で覚えていたのは、鵜飼の絵でした。
川合玉堂 「鵜飼」
 玉堂は、少年時代を岐阜で過ごしています。岐阜は長良川の鵜飼で有名です。玉堂は、鵜飼は好きな題材で繰り返し描いたと言われています。今回は、3点の「鵜飼」が展示されていました。
 書や俳句や短歌の作品も興味深かったです。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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