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特別展「和様の書」

 東京国立博物館で開かれている特別展「和様の書」に行ってきました。
和風の書展 看板
「書」は少しだけ勉強したことはあるのですが、「書」はどのように鑑賞していいかよくわかりません。
 かなり昔のことですが、京都に、賀茂の祭りを多くの人を誘って見に行ったのですが、その時、あいにくの雨で、祭りが途中で中止になりました。時間ができたので、京都博物館で開催されていた、「本願寺本三十六人家集」の展覧会を見に行きました。私は、そのころまったく書に興味はなく、みんなの希望で行きました。
鑑賞が終わって、バスに乗ったのですが、多くの人が、とてもすばらしかった、すごいと、大きな写真を買ってきて、それを抱えて、毎日眺めるのが楽しみ、とおっしゃいました。
 その時私はその気持ちを理解できませんでした。
 今回の「和様の書」にも、その「本願寺本三十六人家集」の一部が出展されていました。すばらしいです。見とれました。それだけでも、見に行った価値があると感じました。
 「書」の展示会は書道の勉強をしている人向きと思えることがありますが、この展覧会は、「一般」にもわかりやすい展示がしてあり、私でも十分楽しめました。
 「書を鑑賞する際、文字が読めてその内容がわかればより深い理解ができます。ただ、意外に思われるかもしれませんが、たとえ読めなくても、理解できなくても、全体の調和、筆の線の美しさなどは楽しめるものです」と案内にありましたが、納得です。
「和様」とは、日本の風土や国民性にあった日本独自の文化をさす言葉です。 日本の文化は、特に中国の文化の影響を多く受けて発展してきましたが、 平安時代中期になると、和歌や文芸を中心に「和様」が誕生します。中国から伝来した漢字も、日本オリジナルの仮名に変化して形成されます。
でもここで言う「和様の書」は仮名に限りません。漢字でも、「和様」が感じられる。それが確かめられる展覧会です。
 入り口、横のビデオの中で、<国宝 白氏詩巻(部分) 藤原行成筆 平安時代>の中の「書」という字で「和風」の説明がありました。
白氏詩巻(部分) 藤原行成筆 
 柔らかさ、癒し感、なんとなく和風を感じることができます。
 四大手鑑が揃っていて、これは初めてで、感動でした。
「手鑑」とは、手(筆跡のこと)のアルバムです。」という説明がありました。
台紙に、1枚から3枚ほどの古筆切(こひつぎれ)が貼り付けられています。その台紙を50枚ほどつなげて、帖(じょう)に仕立ててあります。手鑑を作ることは、江戸時代に流行しました。
これひとつあると、多様な書がじっくりと鑑賞できるなと、長く続く展示を見て歩きました。
 後で、家でも眺めてみようと、分厚いカタログを購入して帰りました。
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「ショーシャンクの空に」

NHKBSプレミアムで,『プリズン・ブレイク』を見ています。最初、何気なく見たのが良くなかったです。毎週、夜、遅いのですが、忘れず見ています。
知らなかったのですが、この作品は、2005年8月29日~で古いのです。日本テレビでで2006 年に放送されたようです。
シーズン1は視聴率、良かったのですが。それから落ち続け、シーズン4で打ち切りになったとか。
主人公マイケルの兄リンカーンは、無実の罪を着せられ刑務所へ。しかも死刑判決まで受けています。その兄を救うため罪を犯 して兄のいる刑務所に入って、兄をつれ脱獄をはかろうといういう物語です。毎回とても怖いです。
それを見ていて、「ショーシャンクの空に」という映画を思い出し、見たくなり、DVDで見ました。
製作年は 1994年です。刑務所が怖くて、最後、無事脱獄を果たした、と、なんだかほっとした映画だった記憶でした。
「希望は良いものだよ。多分一番のものだ。良いものは決してなくならないんだ」
脱獄に準備の場面は全然ないのです。刑務所で、元銀行員としての優秀な腕を見せて、まるで、そこで生き抜くような生活です。
刑務所は怖いです。監視員はいつも悪人です。男に狙われるということもあるのですかね。男への輪姦です。
刑務主任のハドレーは暴力によって囚人たちを支配し、絶対的な権力を握る自分自身に満足し、それを楽しんですらいます。所長は、はそれを黙認しているというか、利用します。
犯罪は、社会的正義に反する行為であるがゆえに、罪を犯した者に生じる問題はすべて葬り去られる。そこで殺人でも平然と行われます、もう「人間」ではないのです。
「ショーシャンクの空に」
銀行の若き副頭取、アンディ・デュフレーン(ティム・ロビンス)は、妻とその愛人を殺したという罪を着せられ、処罰されながらも、希望を持ち、過酷な刑務所暮らしを切りぬけていきます。鉱物採集の趣味があるからと“調達係 ”のレッド(モーガン・フリーマン)にから手に入れたロックハンマーで、20年近くかけて、こつこつと穴を掘りながら。
最後は、気持ちが高揚します。「希望」について考えます。
ちなみにこの「ショーシャンクの空に」はこの11月に舞台になるようです。

釜寺の「笠付型庚申塔」

東運寺 案内石造
入り口近くにある石の案内です。なかなか風情があります。
釜寺、東運寺には、田村右京太夫江戸屋敷の脇門(浅野内匠頭が通ったと伝えられる)が寄進保存されています。また、中国山東省の孔子家より頂いた銘木「楷樹」が植えてあります。
私が気に入ったのは、寛文8年(1668)の銘がある笠付型庚申塔です。
東運寺 庚申塔
中央に邪鬼を踏む青面金剛が彫られています。
青面金剛については「陀羅尼集経」にあり、その恐ろしい姿から、邪気や悪病を払うご利益があるとされました。多くは、四または六臂(二臂や八臂のものもあるという)で、手に、輪宝、鉾、羂索、蛇、弓矢、金剛杵、日月、劒などを持っています。ここはでは手は2本で、剣を持っているようです
 足元のほうには、『聞かざる・言わざる・見ざる』の3猿です。
東運寺 庚申塔 青面金剛
 庚申信仰は道教に由来する信仰で、十干と十二支を組み合わせた暦の60日ごとに巡ってくる庚申の夜に、三尸(さんし)という虫が睡眠中に体から抜け出して、帝釈天に人の罪行を報告して命が奪われるという信仰があって、庚申の夜は三尸が体から抜け出さないように、眠らずに徹夜をする「庚申待ち」という風習がありました。
庚申塔は、庚申待ちを3年18回続けた記念に建立されることが多かったようです。塚の上に建てるということで庚申塚とも言われます。

念仏山東運寺 「安寿と厨子王」

東慶寺 屋根にお釜
神田川・環状七号線地下調節池の見学をする下見に、地下鉄方南町駅から神田川、善福寺川の周りを歩きました。
神田川の近くに念仏山東運寺があります。ここには、「安寿と厨子王」の伝説が残されています。
東運寺は、本堂の屋根の上にお釜が乗っているので「釜寺」とも呼ばれています。
このお釜が「安寿と厨子王」に関わりがあると言われています。
由緒には、備前の僧一安上人が、安寿と厨子王の守り本尊「身代わり地蔵尊」を奉じてこの地に来たとき、これに帰依した方南の大地主鈴木伊兵衛が屋敷を寄進して念仏堂としたことに始まるとあります。
安寿と厨子王を助けた「身代わり地蔵尊」。それは、15㎝位の黒いお地蔵さまで、本堂で厨子に入れられているとのことです。毎年4月8日にはご開帳されるようです。
この「身代わり地蔵尊」は、山椒太夫に釜ゆでにされそうになった厨子王を、お坊さんの姿になって助けたという言い伝えがあり、それにちなんで当寺本堂の屋根に釜を置いたといわれます。
現在の屋根にある釜は、昭和20年の戦災で本堂焼失後、昭和28年に再建した時、地元の人がが寄進しました。下から見上げると、そんなに大きくは見えないのですが、直径1メートルで、米一俵を炊くことができると言います。これは実際に使われていたもので、かつてここが農村さったころ、共同で作業するとき、炊き出し用に使ったり、餅つきの蒸し釜として使われていました。江戸時代、野菜作りの激しい激しい労働に耐えるため、10時、3時の間食にお餅を習慣があったようで、共同作業では、このような大きな釜が必要だったのです。
屋根のお釜
安寿と厨子王が釜ゆでにされたという話を調べてみたいと思いました。
安寿と厨子王の父は 岩城判官政氏と言い 現在の福島市に あたる「岩代(いわしろ)の信夫郡(しのぶごおり)」に住家があったとされているのでした。
岩城判官正氏の一族は、讒言によって筑紫に流されてしまいます。残された妻と、2人の子供ー安寿と厨子王は、筑紫の正氏を訪ねて旅に出て、越後の直江津にたどり着いたとき、人買いの山岡太夫の手に掛かり、母は佐渡二郎の手で佐渡に、安寿と厨子王の姉弟は宮崎という人買いの手で丹後由良湊の長者である山椒太夫に売り渡されてしまいます。
森鴎外が「山椒大夫」という小説にした「安寿と厨子王」の悲しいお話です。
山椒大夫のもとで姉弟は酷使され、逃亡を図ります。安寿は、弟の厨子王を都へと逃して、自分は山椒館の近くの沼に身を投げて亡くなります。
そのお話の中で、安寿と厨子王は地蔵菩薩を信仰していて、逃亡を計画していることが見つかって焼けた火箸を額に当てられるということがあり、そこに地蔵菩薩を当てたところその傷が治ったといった夢を見たというエピソードが出てきます。
ただ、釜ゆでにされたといった話は見つかりませんでした。
「安寿と厨子王」は元は説話ですから、釜ゆでも言い伝えの一つにあったのかもしれません。
門前の身代わり地蔵
お寺の前に「身代わり地蔵尊」があります。石のお地蔵です。
これは、別に作られたもので、話にちなんで「身代わり地蔵」にしたのでしょう。守り本尊の10センチぐらいの小さな地蔵です。表の地蔵は、伝えられる本尊の「身代わり地蔵」ではありません。
森鴎外の「山椒大夫」では、最後に厨子王が佐渡に母親を探しに行って、佐渡で目が見えなくなっていた母の目をあける御利益がこのお地蔵さんいはありました。
大正11年、下谷入谷町にあった東運寺(慶安4年1651年茂山上人開山)と合併し、現在の念仏山東運寺と改称しました。

玉川上水失敗の地 福生市水喰土公園

拝島駅近くに福生市水喰土(みずくらいど)公園があります。
水喰土(みずくらいど)公園
このあたりの土地は「水喰土」(みずくらいど)と呼ばれ、水が地中に吸い込まれてしまう土地で、玉川上水工事において、開削に失敗したところでその後が残っていると伝わります。
八王子千人同心の小島文平によって書かれた「上水紀元」(1803年・享和3年)によれば、「玉川兄弟は最初、日野の渡しのそばの青柳村(現国立市)から掘り始めた。しかし府中八幡下のほうへ掘り進んだところで、高低差に見誤りがあったのかで水が流れず、失敗し、福生村から水を引き入れることとしました。
二つ目の失敗箇所は福生市の水喰土みずくらいど公園周辺といわれています。この公園の説明板には、玉川上水の掘削に失敗した箇所と明記されており、現在でも掘削した地形がそのまま残されています。ここで玉川上水の水が地中に吸い込まれていったといわれています。
玉川上水開削跡
しかし、水喰土公園に隣接して現在、玉川上水が流れていて、この地域での地盤の違いは見られないのではということも言われています。武蔵野台地の基盤となっている砂礫層が集中していたとは考えにくいということで、ここに残された堀跡は玉川上水が完成した後に掘られた、分水のための堀跡ではないかとする説も示されています。
でも、このあたりの地名としての「みずくらいど」とか「みずくれぇど」とか、ほかにも「ほりけぇ」とよぶ地域があったとかで、やはり玉川上水掘替えにかかわりのあるのではにかと思わせる伝承もしっかり残っています。
水喰土公園脇を流れる玉川上水

田村酒造 田村分水

田村酒造
羽村から新堀橋、堂橋、と歩き宮本橋に至ります。こんもりとした林の中を流れていた上水ですが、一変して町にひらけます。この橋を境に上水は福生市内を流れていきます。
少し進むといかにも由緒あるという感じの黒塀の家並みが目に入ります。文政5年創業の田村酒造場です。
田村酒造を見学させてもらいました。
田村家は江戸時代初期から福生村の開拓にあたり、代々名主を務めてこられました。玉川上水が引かれて約40年過ぎた、元禄年間(1688~1704)に分水が認められ、個人で分水を作りました。
個人が作った分水ですから、呼び名も田村分水が正しいのでしょうが、下流の福生村の水田開発・農業用水にも利用されたので福生分水とも呼ばれています。
田村家では九代目半十郎の時代に邸内に井戸を掘り当て、あまりの良い水に「嘉泉」と呼び、その井戸水で酒造りを始めました。今も名高い「幻の酒 嘉泉」です。
玉川上水を引き入れて 水車を回していた
かつては、分水で水車を回して精米製粉をしていました。今はその水車はありません。がその水車があったところは昔のまま残っています。石垣が見えますが、福生市の文化財にしていされています。
現当主が、広大な敷地にある酒造蔵の中を丁寧に案内してくださいました。
田村分水 玉川上水からの取り入れ口
家の裏になるのでしょう、玉川上水から水をくみ取る場所があってそこにも案内してもらいました。その場所の少し先にある橋のようの見えるものは、橋ではなく、かつてはそこに板をはめて、水を貯めていたようです。
屋敷内には、樹齢700年とか1000年とかの、大人3人が手をつないでやっとほどの幹回りがある大きなケヤキがあります。
田村酒造の樹齢700年以上のケヤキ
その昔は、砂川街道(五日市街道)はケヤキ並木で、昼なお暗く生い茂り有名だったようです。田村家では、こうした巨木を大事にされているようです。
屋敷内の大木はたとえば落ち葉など、対応が大変なようです。でもとても大事にされています。敷地が広く、落ち葉がよその庭に落ちるといったことがないのが良いのだ、とお話くださいました。落ち葉をトラックかなにかで運び出すようです。
田村分水は田村家の邸内を出た後、500㍍位で暗渠となり金掘公園付近で市の下水路と合流していているとのことでした。
田村酒造を出た田村分水 田を潤す

玉川上水 羽村堰

玉川上水を踏破してみようと、まず、羽村から拝島まで歩きました。
まず、羽村堰です。
羽村堰は、多摩川の水をせき止め玉川上水に取り入れるための堰です。羽村堰は、その美しさから「羽衣の堰」とも呼ばれることがあったようです。
玉川上水は承応2年(1653)、江戸の人口増加に伴う水不足解消のため、江戸幕府が松平伊豆守信綱を総奉行として造られた用水です。総延長は、羽村から新宿の四谷大木戸まで約43kmです。
羽村大橋から羽村取水堰の方を見ました。
多摩川 
羽村堰は、右岸側が固定堰、左岸側が投渡堰(なげわたしせき)と呼ばれる構造です。投渡堰は、川に鉄の桁を渡し、これに松丸太、そだ(木の枝を束ねたもの)、砂利などを取り付けて作ります。大水の際は、この支えを取り払って投渡木ごと多摩川に流すことで、玉川上水の水門の破壊と洪水を回避しています。
承応2年(1653)の建造以来、明治31年(1898)、大正12年(1923)と改修が重ねられましたが、江戸当初からの方法が今でも活かされています。
また、上流の材木を筏で下流に流す要所でもあり、そのための場所も確保されていました。魚道もあります。
第一水門は二種類の構造形式で構成されていて、手前の水門は、昭和になってからと推察されるRC造のものと、明治のものと思われるレンガによる組積造りの櫛形アーチで掛け渡されたものが並んでいます。吐出門も古い取入れ門と同じアーチ形式の石造です。
羽村堰第一水門は、多摩川の水を玉川上水に取り入れるための水門です。大水の時などはこの第一水門を閉めて土砂などの浸水を防ぎます。
羽村の堰
羽村堰第ニ水門は、第一水門で取り入れた水を一定の水量にして玉川上水に流すための水門です。余った水は、脇の小吐水門から多摩川に戻ります。
玉川上水は現在、羽村堰から小平監視所までの間約12kmが上水路として利用されています。
第ニ水門から羽村橋の方を見ました。先が玉川上水の流れになります。
玉川上水の始まり
玉川庄右衛門・清右衛門兄弟は、約43kmの水路をわずか8ヶ月余り(1説には1年半)で完成させました。その功により「玉川」の姓が許され、武士と同身分の扱いになりました。
この銅像は、2人の功績をたたえ、昭和33年(1958)に建てられたものです。立って指さしているのが、兄の庄右衛門です。
玉川兄弟の像
玉川上水は羽村の堰から四谷大木戸まで水平距離約43km、高低差約92mという緩やかな勾配を淀みなく流れます。そしてこの流れが多摩川と荒川に挟まれた武蔵野台地のほぼ分水界(尾根)を流れる経路を取ることで、台地の表面排水を上水に注ぐことなく江戸に導かれていました。そうしたことを考えると、当時の測量を初めとした様々な土木技術には驚かされます。それがどんなものだったのか、史料が残されていないのが残念です。

墨田区「勝海舟フォーラム」と勝海舟の銅像

隅田川 吾妻橋から
 7月15日、海の日、第10回勝海舟フォーラムが墨田区役所すみだリバーサイドホールで開催されまました
行ってきました。
 フォーラムでは、10周年を記念して、勝海舟、坂本龍馬、榎本武揚、ジョン万次郎のご子孫のパネルディスカッションがありました。
 まず、勝海舟の玄孫(やしゃご)の髙山(こうやま)みな子さんの基調講演から始まり、高山さんのコーディネートでパネルディスカッションが行われました。
榎本武揚のひ孫である榎本隆充さん、龍馬の兄の子孫・坂本登さん、坂本龍馬の姉の乙女のひ孫・岡上汎告さん、ジョン万次郎の玄孫・小西圭さん。
 いろいろなエピソードを交えて楽しいお話を聞かせていただきました。特に、榎本隆充さんは東京農大客員教授で、武揚に関する著書を出版されておられますが、榎本武揚をもっと知りたいと思うようなお話でした。
勝海舟像
 勝海舟は、本所亀沢町(現・墨田区亀沢)で生まれました。隅田川に面する墨田区役所「うるおい広場」に建つ像は、海舟生誕180周年を記念して「勝海舟の銅像を建てる会」が募金活動を経て2003年7月に建立し、同区に寄贈したものです。ちょうど今年が10年になります。
 台座を含めた高さは約5・5メートル(像は約2・5メートル)。制作者は彫刻家、木内礼智さんです。
きっかけは、元日大副総長の故鵜沢義行さんが講演会で「江戸無血開城功労者のうち西郷隆盛の銅像はあるのに、海舟の像がないのは寂しい」と発言したことでした。
勝海舟像 指さす姿 結ばれた刀
 海舟の銅像の、右手が指さす方向については「海、すなわち太平洋を指している」と言われます。刀は、こよりでかたく結ばれて、人を殺さないという意思を示しています。
東京スカイツリーもすぐ近くにできました。東京スカイツリーに訪れた人が、勝海舟にも出会うことを期待したいと思いました。

羽村「まいまいず井戸」

 玉川上水の出発点を訪ねて羽村に行きました。少し時間があったので、JR羽村駅の東口を少し行歩いていると、五ノ神社があって、そこの境内に大きくすり鉢型に掘られた、その中央に小屋が建てられている場所がありました。案内には、「まいまいず井戸」とありました。
羽村「まいまいず井戸」
後で調べてみるとなかなか由緒のある井戸で、もっと丁寧に見ておけばよかったと思いました。
 この井戸は、その昔、まだまっすぐ縦に掘っていく井戸掘り技術が発達していなかったころ,このようなすり鉢のように掘り込む込んでいく方式が使井戸堀で行われていたようです。
 「まいまいず」とはカタツムリのことで、その名のとおり地面から渦巻き状に掘られています。
ここは、大同年間(806~810年)のものといわれています。直径約16m、深さ約4m。昭和37年(1962)まで利用されていたようです。
羽村「まいまいず井戸案内板」
 関東で「まいまいず井戸」と表記があるのは、この羽村市五ノ神社と府中市府中市郷土の森博物館等で、ほかでは、「堀兼井」「すり鉢状の井戸」「漏斗状の井戸」という呼び名で知られているようです。
 そういうことで、「まいまいず井戸」は、武蔵野の歌枕として知られる「ほりかねの井」(堀兼之井、堀難井之井)ということだ、という意味もわかります。
   いかでかと思ふ心は堀かねの井よりも猶ぞ深さまされる(伊勢)
   はるばると思ひこそやれ武蔵野の ほりかねの井に野草あるてふ(紀貫之)
   清少納言の『枕草子』にも出てきます。
  「井はほりかねの井。玉ノ井。走井は逢坂なるがをかしきなり」
 この近くの多摩川が、江戸の水道の水源となり、少し離れたここには、こうした井戸があったというのは、地形の不思議さを思います。

ムラサキホコリ

 玉川上水を散策するため、羽村から福生の方を歩きました。一緒に歩いた人に自然観察の達人がいました。自然観察ができる人は、素晴らしい感覚の持ち主です。一緒に歩いていて、「ニイニイゼミの声が聞こえますね」と言われて、私は分からなくて、どこですか、と聞くしまつです。木を見て「あちらに見える榎は立派です。このあたりだとオオムラサキが来るかもしれません」とか、一緒に歩いていると風景が違ってきます。
 その人が、「あっ!ここで見つけた、良かった。このところ毎朝、井の頭公園でこれ探しているのです」と言ったのが、ムラサキホコリでした。
ムラサキホコリ
 私は、初めて見ました。
 カビともキノコとも違う“変形菌”の仲間ということです。
 子実体になる前、変形菌は巨大なアメーバのような姿で倒木の上などをはい回るのだそうです。これを“変形体”と言います。
 少し詳しい説明を読むと、胞子からスタートしてアメーバになり、合体を繰り返しながら大きく、しかも単細胞の変形体になり、あちこち動き回りながらバクテリアを食べてさらに成長していき、その変形菌独自の姿・形の子実体を一夜で作っていく、ということです。白っぽいしみは、変形体の名残。
 朝には完成した子実体が、陽の光に当たって乾くのを待っている、そして最後には、新たに出来た胞子を飛ばして一生を終えます。触ると胞子がほこりのように飛びます。ホコリはそこから来ているのでしょうか。
 とにかく、アミーバーのような動くいきものなのですね。
 自然界は不思議いっぱいです。

目黒の林試の森で自然観察

 久しぶり、目黒の林試の森に行きました。
林試の森の七夕飾り
 広場では、七夕飾りがありました。左側飾りの向こうの大きな木はコウヨウザンです。漢字で書くと、広葉杉です。中国南部から台湾原産の杉です。
 花は、金糸梅 (きんしばい)があちらこちらで咲いていました。金糸梅という名前は、いっぱいある黄色のおしべを「金の糸」に、5弁の花を「梅」にたとえところからということです。同じく黄色の花でもっとおしべが長いと、ビヨウヤナギです。
金糸梅 (きんしばい)
 金糸梅は中国中南部原産で、日本へは宝暦10年(1760)に渡来しました。
トウネズミモチ 
 トウネズミモチも花を咲かせていました。ネズミモチに似ていますが、葉がやや大きく、裏から葉を透かしてみると、葉脈の細脈が見えるなどで区別できます。高い所の写真なので、花がよく見えません。
ブナの木の葉
 ブナの葉です。葉に特徴があります。ほとんどの樹木では筋(葉脈といいます)の先端部のところが出っ張っていますが、ブナの仲間だけが凹んでいるのです。葉脈の先端が波状のへこんだところへ向かっている、と言った方がわかりやすいかもしれません。
キハダ
 キハダの木です。樹皮はコルク質で、外樹皮は灰色です。木の皮をむくと、鮮やかな黄色が見られます。この樹皮からコルク質を取り除いて乾燥させたものは、生薬の黄檗(おうばく、黄柏)として知られ、薬用のほか染料の材料としても用いられます。

「日本美術協会創立125周年 有栖川宮・高松宮ゆかりの名品」展

 上野の森美術館で開催中の「日本美術協会創立125周年 有栖川宮・高松宮ゆかりの名品」展に行って来ました。
有栖川宮・高松宮ゆかりの名品展
 この展覧会の一番の見どころは、一般人には観ることの出来ない、宮家の雅趣に富んだ暮らしぶりが垣間見られるという所でしょう。こんな生活があるのだ、違うな、とそういう思いをいだきました。
 展覧会の構成は以下の通りです。
 第一章:有栖川宮家と明治維新
 第二章:高松宮宣仁親王と喜久子妃のあゆみ
 第三章:宮家の饗宴
 第四章:高松宮家ゆかりの品々
 第五章:日本美術協会
 貴重な写真や史料などとともに、明治から昭和に宮家のために作られた美術工芸品が展示されていました。中でも興味をひかれたのは、象牙細工の「蜜柑」でした。むきかけのみかんがひとつ。そのむかれた中を覗くと、リアルにみかんの実もきちんとあります。びっくりです。本物が置いてあるのかと思いました。これだけの色も難しいのではと思いました。
安藤緑山「蜜柑」
 ただ、その時はすごいなと思ったのですが、後で調べていると、それが先頃のテレビ「美の巨人たち」で取り上げられていた、伝説の牙彫師・安藤緑山の作品だと分かり、そうか、なるほど、まさに天才牙彫師、もっと丁寧に見てくるべきだったと思いました。
 「ボンボニエール」がたくさん並んでいました。
明治以降、天皇家や皇族のご慶事で、銀製の小箱(ボンボニエール)が引出物として使われてきたことは、かつて東御苑の三の丸尚蔵館でボンボニエールを拝見して、引出物だということは知っていましたが、その数から圧倒されます。
 また。高松宮喜久子妃がおこし入れの際に持参された、豪華な「内裏雛飾り」も大きく展示されていました。高松宮喜久子妃は、徳川慶喜の孫にあたられます。
 会場には、錦の御旗も飾られていました。有栖川宮家9代熾仁(たるひと)親王は慶応4年(1868)、王政復古の大号令によって新政府総裁に就任され、戊辰戦争に際しては東征大総督として錦旗を奉じて江戸に向かいました。徳川慶喜とのことを思うとなかなか複雑です。
 ついでに、話は逸れます。
 宮家で言えば、大正天皇と貞明皇后の第一皇子が昭和天皇で、第二皇子が秩父宮雍仁親王。そして第三皇子が今回の展示の高松宮宣仁親王です。
その秩父宮の后、宮勢津子妃は最後の会津藩主・松平容保の孫でした。
 ご成婚にあたり、秩父宮妃は、伊勢の「勢」と会津の「津」を取り、節子から「勢津子」と改名し、秩父宮勢津子となりました。伊勢は、会津の基礎をつくった蒲生氏郷が会津の前におさめたところです。
 秩父宮は、昭和3年(1928)に結婚しました。この結婚は、戊辰戦争以来60年間、朝敵とされていた会津藩の名誉回復につながるというので、会津人は感涙にむせんだと言われています。そんなことも思い出していました。
 最後の部屋は、日本美術協会の展示でした。

NHK大河ドラマ『八重の桜』 八重、決戦の時

 NHK大河ドラマ『八重の桜』が会津戦争に入りました。ドラマ前半のまさにクライマックスといえる6月28日の放送は釘付けになりました。
 このドラマは、少なくてもここまでは、「会津藩」が主役でした。「会津藩」がどのような藩であり、藩主の松平容保をはじめとして、会津の武士はどんな生活をしていたのか、どんな行動を取ったのか、とても丁寧に追っていました。
 幕末、薩長中心西軍から会津藩と庄内藩を助けようと奥羽越列藩同盟ができ、やがて西軍との全面戦争へと向かいます。しかし、白河城が陥落した時を境に、奥羽越列藩同盟は瓦解していきます。
いよいよ会津戦争に突入し、鶴ヶ城も全面包囲されてしまいます。連日、数千発もの砲弾が鶴ヶ城に降り注ぎ、会津藩士の命を奪っていきます。
 会津若松城
山本八重は着物も袴もすべて男装し、麻の草履をはき、両刀をたばさみ、元込め七連発銃を肩にかついで城に入ります。弟の三郎が鳥羽伏見の戦いで戦死しており、その仇をとらねばならないと、命の限り戦う覚悟でした。
この回もドラマは、八重だけを追ったりしません。
京都にいる八重の兄山本覚馬も出てきます。
覚馬が、看病を得ています。日本の取るべき道を獄中から示した建白書「管見」がこの後生かされること思わせました。私は、この『八重の桜』で山本覚馬がしっかり描かれているので、見逃さないようにしています。覚馬のことは一度書きたいと思っています。
照姫も城の中に出てきました。
 実は、大混乱に陥った会津城内を取り仕切ったのは、容保の2歳年上の義姉・照姫だったと言われています。照姫の松平容保への思慕を思うとどこか哀れです。
会津藩の筆頭家老の西郷頼母も忘れられません。度々恭順論を唱えて主戦派と対立してきました。 その西郷頼母の家では、2歳の季子をはじめ頼母の家族、居合わせた親族の家族、譜代の家臣ら全員が自害します。土佐藩兵が西郷の屋敷に入ったとき、17、8歳の息絶えだえの女子がいて身を起こすと、「そなたは敵か味方か」と尋ねます。「味方なり」と答えると、懐刀を刺し出し、土佐藩兵は、介錯します。
有名なエピソードですが、胸がつまります。
おなじく哀れなのは白虎隊です。隊長が戻らない白虎隊士中二番隊の20名は、リーダーの安達藤三郎と篠田儀三郎に率いられ、飯盛山の裏側にたどり着きます。はうようにして飯盛山の山頂に登ると、城下は、火の海。火炎に包まれた鶴ケ城の天守閣が見えました。そこで自決をします。
 会津の悲惨さはとても重いです。その悲惨さが見事に描かれていました。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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