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内田吐夢監督、中村錦之助(萬屋錦之介)主演「宮本武蔵」

 内田吐夢監督、中村錦之助(萬屋錦之介)主演で、1961年から公開された映画「宮本武蔵」。全5部作。言うまでなく原作は吉川英治。(井上雄彦の『バガボンド』も吉川英治の『宮本武蔵』が原作)。
 映画は
 宮本武蔵 (1961年)
 宮本武蔵 般若坂の決斗(1962年)
 宮本武蔵 二刀流開眼(1963年)
 宮本武蔵 一乗寺の決斗(1964年)
 飢餓海峡(1965年)
 宮本武蔵 巌流島の決斗(1965年)
 「飢餓海峡」は宮本武蔵と関係はないですが、最初に見たときすごく衝撃だったあの名作も内田吐夢監督で、宮本武蔵5部作の最後の年に撮られていたのかと思うとなんだか感無量です。
 この内田吐夢監督、中村錦之助(萬屋錦之介)主演の宮本武蔵が今、NHKBSで放送されています。
 見逃せないと思ってDVDに撮り、毎回見ています。もちろん、この映画封切りされて時もきちんと全作見ています。なにせ作州牢人宮本武蔵ですから。
宮本武蔵
 先週の「宮本武蔵 一乗寺の決斗」は、5部作の中でも特に名作ということで、別売りのDVDを持っているのですが、放送も見ました。やはり、すごいと思いました。
 今回見ていて、一番見応えがあったのは、扇屋の茶室で武蔵と吉野太夫(岩崎加根子)が対話をする場面でないかと思いました。
 常に緊張の中にあり張りつめている武蔵には死相があると、吉野太夫が言います。武道については何も知らないがとい言いながら、自らの琵琶の胴を鉈でたたき割って、琵琶の音色に喩えた彼女なりの考えを語り始めます。
 琵琶の音色の微妙な変化は胴の内側に張られた一本の横木によって生み出されるもので、この横木はただ堅く強く張られているのではなく、微妙なゆるみがつけられており、そのゆるみ、しなりによって音色は千変万化に奏でられる。琵琶がもしゆるみやしなりをもたないとするとおそらく微妙な変化の音色が出ないばかりでなく、糸は切れ、胴は避けてしまうにちがいないと、吉野太夫は言います。
 つまり緊張の糸で張りつめた、まるで心の余裕のない武蔵が、果たして敵に勝つことが出来るのであろうかと、諭したのです。(岩崎加根子さんも良かったな)。
 決闘のシーンも迫力があります。
 まず、吉岡道場の汚名返上ため、討たれた清十郎の弟、伝七郎(平幹二郎)は武蔵に洛中、蓮華王院での、果たし合いを申し込みます。その舞台、蓮華王院こと三十三間堂。舞台がすばらしい。平幹二郎も若です。
 そして有名な一乗寺下がり松での決闘。
 何度見ても鬼気迫るものがあります。
 吉岡道場との最終決戦。 73対1の日本映画史上に残る名殺陣シーン。
 第4部の最後の場面です。18分30秒。
 1体73人の大殺陣は12月の厳寒の中、水田が煌めく日の出の時、ぶっつけ本番の短時間で撮影されたと言われています。もちろん十分に計算された準備があってのことでしょうが。このシーンは、白黒で撮影されています。それがまた印象深いです。
 NGの許されない緊張感の中で作り上げられました。
 私は長く、この決闘の場面は、映画の最初の方に出ていたと思い込んでいました。DVDを見て最後だったのでびっくりしました。
 日の出に映える、一乗寺下がり松が、水墨画の名画のようにとてもきれいに写っていました。
 ロケ地は、饗庭野(あえばの)の原野だったようです。そこに松を建てたのです。人工の松を建てることで一乗寺下がり松の再現をはかったということです。
 見事な松のショットでした。
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滝沢馬琴

 文京区の深光寺に滝沢馬琴の墓にお参りして、少し書きました。
 その滝沢馬琴終焉の地が新宿区の地域文化財に今年の4月新たに指定されました。そこに行ってきたので、もう一度滝沢馬琴のことを書いてみます。
滝沢(曲亭)馬琴 『滝沢馬琴肖像並古稀自祝之題詠』早稲田大学
 滝沢馬琴は、明和4年(1767)6月9日・江戸深川の武士の家に生まれました。
 馬琴は初め医者を志しますが、24歳の時、草紙作家になろうと、戯作者の山東京伝に弟子入りをします。
 寛政5年(1793)、馬琴27歳の時、伊勢屋という下駄屋の後家、3歳ほど年上のお百と結婚し、武士の身分を捨て町人となります。
 馬琴は、下駄屋の婿に入ったのですが、仕事はせず、もっぱら執筆に専念して、『椿説弓張月』がヒットでようやく注目をあびます。
 結婚した翌年に誕生した一人息子の興継(おきつぐ)は、山本永春院に就いて医術を修め、文化11年(1814)には宗伯と名乗ることを許されます。
 文政元年(1818)、馬琴は神田明神下石坂下同朋町(現・秋葉原の芳林公園付近)に家を買い、ここに滝沢家当主として宗伯を移らせます。
 宗伯は、文政3年(1820年)には陸奥国梁川藩主(のち旧領に復帰し蝦夷地松前藩主)松前章広出入りの医者になります。そして、文政10年(1827)、紀州藩家老三浦長門守の医師岐村元立(ときむらげんりゅう)のお路と結婚します。
 このように見ると、滝沢家の生活は順調のように見えますが、なかなか大変でした。
 宗伯は虚弱多病だったため、天保6年(1835年)に死んでしまいます。38歳の若さでした。あんなに大事の育てたのに、馬琴もさぞ無念だったと思います。
 さらに、馬琴自身も、その2年前天保4年(1833年)、67歳でしたが、右眼に異常を覚え、まもなく左眼もかすむようになります。だんだんと目が見えなくなっていきます。
 馬琴は、孫の太郎に滝沢家再興の希望を託し、天保7年(1836)には四谷鉄砲組の御家人株を金130両で買い求めています。再び武家に戻ることを切望したのです。御家人株購入のため、馬琴は蔵書を売り、気の進まない書画会を開きました。さらに神田明神下の家も売却して四谷信濃仲殿町に1件屋を求めます。
 この時、妻のお百は、宗伯の嫁、お路との同居を拒み、飯田町の長女の幸の所で暮らしています。
 天保10年(1839年)、73歳となった馬琴はとうとう失明してしまいます。このため、嫁のお路が口述筆記をしました。
 天保11年(1840)お百が亡くなります。
鏑木清方画「曲亭馬琴」
そして、天保12年(1841)8月。『南総里見八犬伝』の執筆が完結します。馬琴すでに74歳でした。天保13年(1842)正月に刊行されました。
『南総里見八犬伝』は、全106冊、文化11年(1814)から天保13年(1842)まで、実に28年を費やしました。
 これも前に書きましたが、馬琴は『回外剰筆』で、自らの失明を明かすとともに、お路との口述筆記の辛苦を書き記しています。
 「仮名づかひ、てにをはだにも弁(わきま)へず。偏、つくりすら心得ざるに、ただことばのみを教えて書かするわが苦心は言ふべくもあらず。まいて、教を受けてかくものは、夢路を辿る心地して困じれ果てはうち泣くめり。」
 難しい漢字の多い八犬伝の代筆は並大抵のことでなく、言葉のみにて1字ごとに字を教え、1句ごとに仮名遣いを教えるが偏旁さえも心得ぬ者に教え書かせる焦れったさ。教えられる者も困り果てて泣き出す始末。
 途方に暮れ、幾度か中止を考えるが、互いに励まし励まされて、ついに巨編は完結したのです。
 その後も、馬琴は、お路を筆記者として、『傾城水滸伝』や『近世説美少年録』の執筆を続けますが、これらの完結を見ないまま、嘉永元年(1848)82歳で死去しました。
 そして、嘉永2年(1849)には、馬琴が家の継続にたよりとしていた太郎も22歳の若さで亡くなります。
 今回、調べているうち、お路が「てにをは」も弁えず、偏と旁も知らないというのは、少しおかしいと思いました。これは、少し大げさに書いているのではないかと思います。
 お路は、紀州藩家老三浦長門守の医師土岐村元立の娘です。それなりの教養はあったものと思われます。文字にしても、まったく何も知らなかったとはどうも信じられません。
 お路は、安政5年(1858)53歳で亡くなります。詳細な日記を残しています。
日記は家の記録です。滝澤家を守る者の義務として馬琴に命じられたのでしょう。
滝沢馬琴終焉の地の碑

新宿区指定文化財
【史跡】「滝沢馬琴終焉の地」(霞ヶ丘町14-1、明治神宮外苑信濃町休憩所)
『南総里見八犬伝』『椿説弓張月』で知られる江戸時代後期の戯作者・滝沢馬琴(1767年~1848年)が、最期の約12年をこの地で過ごした。失明などを乗り越え、口述筆記で天保13年(1842年)に『南総里見八犬伝』を完成させた場所である。
終焉の地から信濃町を望む

ヒレナガニシキゴイ

 皇居・東御苑内の二の丸庭園内の池にかわった鯉がいるというので、のぞいて見ると、確かに、ヒレが長い鯉がいました。
ヒレナガニシキゴイ 1
ヒレナガニシキゴイ
 この鯉は、ヒレナガニシキゴイと言われ、外観はニシキゴイと同じですが、胸ヒレ、尾ヒレが普通の鯉に比べ2倍長くなるニシキゴイの改良品種ということでした。
 宮内庁によると、天皇陛下が皇太子時代の1962年、訪問先のインドネシアで「ヒレナガゴイ」を見て、日本のニシキゴイとの交配を発案されたとのことです。1977年に埼玉県水産試験場(現、埼玉県農林総合研究センター水産研究所)を視察した際に、その温めていたアイデアを提案され、1982年からニシキゴイとインドネシアゴイの交配を開始して、新種の開発に取り組まれました。
 そして、交配が成功し、1991年に、二の丸庭園で放流したのですが、数が減ったため、昨年の2012年11月9日に、天皇、皇后両陛下がその後の改良種を含めて、再度放流されました。
 そのことは、調べてみるときちんと新聞に出ていました。
 外国の人の方が熱心にこの「ヒレナガニシキゴイ」を見ていました。

東京国立近代美術館工芸館(旧近衛師団司令部庁舎)

 東京国立近代美術館工芸館の建物は、明治43年近衛師団司令部として建てられました。建設が決定した明治40年ごろは、日露戦争が終結し、朝鮮半島や満州における戦後の経営をどう進めるかを決める時期でした。
 陸軍も海軍も増強を計画し、近衛師団も増強を図り、同時に司令部庁舎の新設を計画します。建物の設計は明治38年に工部大学校を卒業したばかりの陸軍技師田村鎮(やすし)が担当しました。新進気鋭の技師で、大きなプロジェクトは初仕事という登用でした。
 レンガ造りの二階建て、屋根はスレート葺というゴシック風建築で、関東大震災や弟二次大戦をくぐりぬけ、ほぼ当時の姿をとどめて現在に至ります。
東京国立近代美術館工芸館(旧近衛師団司令部庁舎)
 この近衛師団司令部庁舎は、師団長、師団参謀長など師団の中枢が執務し、近衛師団の動向は全てここから指令を出しました。
 この建物を舞台にしたドラマが敗戦の日に起きています。
 昭和20年8月15日未明、若手将校の決起で森赳(もりたけし)師団長が2階の師団長室で射殺され、偽の指令が出されたその舞台になったのです。
 その様子は「日本でいちばん長い日」という映画の中で描かれていました。
日本のいちばん長い日ポシター
 8月15日未明、陸軍省軍務局の畑中中佐らは終戦を阻止しようとして、近衛師団長森赳中将を殺害し、偽の命令を出して近衛師団を出動させます。彼らは皇居を占拠して玉音盤を奪おうとしますが、目的を達成できないまま、鎮圧され、あの歴史的玉音放送が行われたのです。
 昭和52年11月15日近衛師団司令部庁舎は、東京国立近代美術館の分館として、に内装を改修して開館しました。
 終戦後は、近衛師団も解散になり、近衛師団司令部庁舎は皇宮警察の寮として利用されていましたが、昭和38年国昭和天皇の喜寿を祝う事業として北の丸地区にあった旧近衛師団の建物群を撤去し、森林公園として整備されることとなり、昭和39年4月に武道館、科学博物館、国立公文書館がその中に設けられることになります。
 そして、近衛師団司令部は解体されることに決まりました。
 この頃より近衛師団の戦友会が中心となり建物の保存運動が動き始めます。
 昭和46年6月旧近衛師団司令部庁舎処理要領が作成され、関係省庁と協議を行い、同47年9月庁舎の保存について閣議の了解を得、同時に国の重要文化財としての指定を受けるとともに東京国立近代美術館工芸館としてその活用を図ることが正式に決定しました。
 工芸館では、明治以降の日本と外国の工芸およびデザイン作品を収集しています。特に多様な展開を見せた戦後の作品に重点が置かれ、陶磁、ガラス、漆工、木工、竹工、染織、人形、金工などの各分野にわたって、3000点近くの作品を収蔵しています。

北白川宮能久親王

 東京国立近代美術館工芸館には、時々行っています。その時、そばの馬上銅像も見たのですが、それがどういう人か、気にしていませんでした。今回少し調べてみました。
北白川宮能久親王銅像
 銅像の人は、北白川宮能久親王です。その足跡を年表風に追ってみます。
 弘化4年(1847)2月16日に伏見宮邦家親王の第9子に生まれ、翌年嘉永元年(1848)青蓮院(しょうれんいん)宮を相続します。
 安政5年(1858)に輪王寺(りんのうじ)宮を御相続し、得度して公現と称します。
 万延元年(1860)初めて日光山に登るが、その後は上野で、仏典修行の日を送り、慶應3年(1867)日光山第66世、輪王寺門跡第12代慈性法親王の跡を継いで門跡となり、天台座主に就任します。
 ちなみに、日光宮門跡は天皇の親王が就任し、天台座主を兼ねます。そして比叡山・東叡山(上野寛永寺)・日光山を統治します。
 日光輪王寺門跡の皇族、という立場にあったことから反薩長勢力の象徴となり、奥羽越列藩同盟の盟主に祭り上げられます。
 万延元年(1860)9月7日、初めて日光山に登りますが、その後は上野に居て、仏典修行の日を送り、慶應3年(1867)日光山第66世、輪王寺門跡第12代慈性法親王の跡を継いで門跡となり、天台座主に就任します。
 翌慶應4年(1868)4月には、22歳で旧幕軍「彰義隊」に担ぎ出されますが、敗戦の色濃く、榎本武明の艦隊で江戸を脱出します。そして、奥羽越列藩同盟の擁立する盟王となり、新政府に敗れます。
 奥羽越列藩同盟についたため謹慎処分。
 明治3年(1870)還俗げんぞくして伏見宮に復帰、軍籍に就きます。
 そして、軍事研究のためドイツに留学。明治5年(1872)北白川宮を相続。
 明治28年(1895)近衛師団長(当時陸軍中将)として、ドイツより割譲された台湾の征討任務で海を渡りますが、現地で病となり亡くなりました。49歳でした。
 征討作戦中の死で、外地で皇族が戦没した初めての例でした。
 死後陸軍大将に特進し、大勲位菊花章頸飾および功三級金鵄勲章を賜り、国葬で豊島岡陵に埋葬されました。
 銅像は、明治36年(1903)1月26日、北の丸に駐屯していた近衛歩兵第1・第2聯隊正門前(現在地より東方約60メートル)に建立されました。
北白川宮能久親王像 絵はがき
 制作は、新海竹太郎。新海竹太郎は軍人を志して近衛騎兵大隊に入隊し、北白川宮が台湾にあった当時もその近くに仕えていたということです。
 昭和38年(1963)北の丸公園整備計画に従い現地点に移されました。
 エピソードとしてこんなことがありました。
 明治3年に、ドイツに留学している時のことです。ドイツ貴族の未亡人であるベルタという女性と恋愛をして、婚約をしてしまいました。そして、それから明治政府に結婚の許可を求めました。当時としては、留学先でしかも皇族が外国の夫人と婚約することは、とても無謀なことだったのでしょう。驚いた政府は慌てて親王に帰国を命じます。しかし、北白川宮能久親王は、当地の新聞などに自らの婚約を発表するというちょっとして暴挙を演じます。しかし、結局は、呼び戻され、謹慎させられたとのことです。
 まわりに振り回された人のようであり、強い意志を持つ強靱な人のよでもあり、なかなかつかみにくい人物です。

奥羽越列藩同盟

 NHK大河ドラマ「八重の桜」は、会津を中心に幕末を描いています。このところよくでてくるのが、 奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)です。
 この列藩同盟、元々は奥羽諸藩京都守護職の会津藩と幕末に江戸市中取締に任じられて「薩摩藩邸焼き討ち事件」を起こした庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を目的として結んだ同盟(奥羽列藩同盟)でした。
 慶応4年(1868)正月の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いののち、維新政府は徳川勢力の一掃と全国平定を開始、2月には九条道孝(みちたか)を奥羽鎮撫(ちんぶ)総督に、薩摩(さつま)藩士大山綱良(つなよし)、長州藩士世良修蔵(せらしゅうぞう)を参謀に任命して仙台に派遣します。
 総督府は東北諸藩に会津征討を命じるのですが、仙台、米沢を中心とする諸藩は白石に会議して、戦争を回避し会津救済を図るため、嘆願書を提出します。
 しかし、その嘆願書は却下され、列藩同盟は、新政府軍との対決の姿勢を強めます。
 5月3日東北25藩は仙台に会合し、仙台藩を盟主として同盟を締結、ついで長岡など6藩がこれに加入し、31藩による奥羽越列藩同盟が成立します。
 会津藩、庄内藩の赦免嘆願が拒絶された後は、新たな政権(北部政権)の確立を目的とした軍事同盟に変化します、
 同盟は白石に公議府、福島に軍事局を置きます。旧幕臣、新選組、彰義隊残党など佐幕派も合流します。
 6月には輪王寺宮(りんのうじのみや)公現法親王{後の北白川宮能久(きたしらかわのみやよしひさ)親王}が上野を退去して会津に入ると、諸藩は輪王寺宮を盟主にいただき、白河(しらかわ)に公議府を移します。
 その時、ひとつの構想として、大政の元号を用い、宮を東武皇帝とし、九条道孝を関白太政(だじょう)大臣、仙台藩主伊達慶邦(だてよしくに)を権征夷大将軍、会津藩主松平容保を副将軍とする東国政権の構想があったとも言われています。
 維新政府は5月同盟諸藩への攻撃を開始します。戦局は白河、二本松などを奪い、久保田藩(秋田)を初め同盟諸藩の離脱、降伏があい続いて新政府軍有利に進みます。。
 そして、9月に入ると仙台、会津が降伏し、列藩同盟は名実ともに崩壊します。
 八重の桜はいよいよ会津戦争に入ります。
 じつはここで取り上げたいのは、列藩同盟盟主となった、輪王寺宮公現法親王です。
 北の丸公園、東京国立近代美術館工芸館の近くに木々に囲まれた所に、馬に乗った軍人の銅像があります。北白川宮能久親王銅像です。
北白川宮能久親王銅像 遠望
 北白川宮能久親王については、次にような説明があります。
「1847-1895 幕末-明治時代の皇族,軍人。
 弘化(こうか)4年2月16日生まれ。邦家親王の王子。安政5年親王となり,得度して公現と称し,慶応3年輪王寺門跡(もんぜき)をつぐ。戊辰(ぼしん)戦争の際,奥羽越列藩同盟についたため謹慎処分。のち軍事研究のためドイツに留学。明治5年北白川宮を相続。28年近衛(このえ)師団長となり,台湾支配の指揮にあたり,同地で10月28日病没。49歳。没後,陸軍大将。幼称は満宮。」
 稿を改めます。

皇居・東御苑内「二の丸庭園」の花菖蒲

皇居・東御苑内「二の丸庭園」の花菖蒲を見ました。以前も載せたので2度目です。
「二の丸庭園」の花菖蒲 とそのまわり
栽培されている面積は狭いのですが、よく整備されていて好きな菖蒲園のひとつです。
ここの花は「江戸の花菖蒲」の系列で、草原に自生する花菖蒲を親として江戸時代に改良されたものということです。もうそろそろ終わりですね。
「二の丸庭園」の花菖蒲

「『もののあはれ』と日本の美」展

 サントリー美術館の「『もののあはれ』と日本の美」展へ行きました。
 今回の展覧会のキーワードは「もののあはれ」でが、その「あはれ」というのが重要です。
「『あはれ』は、『哀れ』という漢字を当てると、その語感は何か物悲しく儚いイメージに偏るが、本来は、賛嘆や愛情を含めて、深く心をひかれる感じを意味していた」と会場に説明がありました。
 深いですね。『もののあはれ』を理解することが日本の文化を知り、しいては、自分の生き方も考えることになるのだ、という思いを、この展覧会で感じました。
 展覧会は、雅な貴族、季節感あふれる植物や鳥、そして月の満ち欠け、などに注目し、それに関わる絵画や工芸品が展示されています。古典の楽しみを教える展覧と言えます。
尾形光琳の‘秋草図屏風’(右隻 18世紀)
 会場の構成は次のようです。
第一章 「もののあはれ」の源流  貴族の生活と雅びの心
第二章 「もののあはれ」という言葉 本居宣長を中心に
第三章 古典にみる「もののあはれ」 『源氏物語』をめぐって
第四章 和歌の伝統と「もののあはれ」 歌仙たちの世界
第五章 「もののあはれ」と月光の表現 新月から有明の月まで
第六章 「もののあはれ」と花鳥風月 移り変わる日本の四季
第七章 秋草にみる「もののあはれ」 抒情のリズムと調和の美
第八章 暮らしの中の「もののあはれ」 近世から近現代へ
 特に印象に残ったのは第五章でした。
 新月から有明の月へ、と副題があるように大型ディスプレイにそれぞれの月の形を示していました。銀色に輝くリアルな月で、名称と月齢の話が書かれています。
 昔は、月が大きな意味を持っていたのだと感じます。暗い夜を持たない現代人が失ったものがそこにあります。
 今年私は旧暦のカレンダーを飾っています。月の満ち欠けが書かれ、月の満ち欠けの周期を1ヶ月とするものです。そこには二十四節季、七十二候などが書かれています。
 今年の6月15日は陰暦で皐月7日です。そこには「梅子黄(うめのみきばむ)」とあります。なるほどと思います。この思いが『もののあはれ』に通じるのかな、と思います。
 会場の話になりますが、この月の満ち欠けを記した大型ディスプレイの前の絵画、田中訥言の金屏風の「日月図屏風」でしたが、作品の何も描かれていない金の地に、ディスプレイの月が写っていました。これも演出だったのでしょう。
 楽しかったです。

長谷寺山門左前にある「椨の木(タブノキ)」

 鎌倉をもうひとつ、長谷寺のことを少し書いておきます。
鎌倉 長谷寺
 寺伝によれば、天平8年(736)、奈良の長谷寺の開基、徳道を藤原房前が招請し、十一面観音像を本尊として開山したということです。実はその十一面観音像は、寺伝によればですが、奈良の長谷寺の十一面観音像と同木から造られたものだということです。
 養老5年(721)、徳道は楠の大木から2体の十一面観音を造りました。その1体を本尊としたのが奈良の長谷寺で、もう1体は、祈請の上で海に流しました。15年後にその十一面観音像は、相模国の三浦半島に流れ着き、それを鎌倉に安置し、開いたのが、鎌倉の長谷寺であるということです。
 詳しい資料は残ってにようです。実際に十一面観音像は同じ木ではありません。大きさも奈良の長谷寺の方が少し大きいようです。そういったお話を像の下で聞きましたが、2番目と言っても、見上げて大きかったです。
 長谷寺については、またゆっくりお参りに行きたいと思っています。
 さて、ここで記しておきたいのは、長谷寺山門左前にある「椨の木(タブノキ)」です。その形が印象に残りました。タブノキはクスノキ科タブノキ属の常緑高木です。葉は蚊取り線香に、樹皮は線香や染料に利用されます
「椨の木(たぶのき)」
 『万葉集』の大伴家持の歌に次の歌があります。
 「磯(いそ)の上の都万麻(つまま)を見れば根を延(は)へて 年深からし 神さびにけり」(巻19-4159)  訳すと次のようになります。
 磯の上に立つ「つまま」を見ると、根を岩にしっかりおろしていて、何年も年を経ているらしい。なんと神々しいことか
 この都万麻(つまま)がタブノキといわれています。神々しいというか、少しなまめかしく写真が撮れました。

清澄公園、花菖蒲田のハナショウブ

 清澄公園、庭園奥の花菖蒲田のハナショウブが、見ごろでした。
清澄庭園の花菖蒲田
 清澄公園は、元禄期の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えらています。享保年間以後は下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となります。明治初期には近代郵便制度の設立者前島密の屋敷でしたが、明治11年(1878)、三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園の造成に着手。明治13年(1880)に竣工して、「深川親睦園」と命名されていました。
 その「回遊式築山林泉庭園」の写真を撮ってこなあったので、別の機会に書くとして、今回は清澄庭園の花菖蒲田です
清澄庭園の花菖蒲田のハナショウブ

鎌倉 光則寺

 光則寺
行時山光則寺は、もともとは、北条時頼の近臣宿谷光則(やどやみつのり)の邸でした。山号は光則の父の名、宿谷行時からとり、寺号は光則 (みつのり) から取ったということです。
 建長5年 (1253) 日蓮聖人は鎌倉に来て布教をし、当時の社会の不安や天災の原因を幕府や他の宗派のせいとし、激しく非難しました。文応元年(1260)には、『立正安国論』を執権北条時頼に提出します。この提出は、幕府の寺社奉行であった宿谷行時・光則 親子の手を経て北条時頼に奏進したと言われます。日蓮聖人はこの内容によって幕府から迫害を受けます。
 文永8年(1271)捕らえられます。龍の口の法難です。その時、日蓮聖人の高弟である日朗上人など、弟子、檀那を含め300人ほどが法難に会いました。日朗など6人は光則にあずけられ、牢に幽閉されます。光則寺の裏山に洞窟があります。この洞窟が、日朗上人が幽閉された土牢といわれています
光則寺 日朗上人の幽閉されていた土牢
 日蓮聖人は、龍の口の法難のあと、佐渡流罪に際して、日朗上人らが宿谷光則の邸の土の籠の幽閉されているのを気遣い、「土籠御書(つちのろうごしょ)」を書きます。 それは、「明日佐渡の国にいくけれども、今夜の寒さにつけても、牢の中の有様は思いやられ、いたわしい」 といったと弟子を思いやる内容でした。
 実は、宿谷光則は密かに、捕らえられた人を優遇し、ついには、日蓮宗に帰依していきます。日蓮聖人は佐渡流罪を許され、その後鎌倉を経由して、文永11年(1274))身延山に入るのですが、宿谷光則は、この場所に光則寺を創立します。
  庫裏の右手から、山の中に向かう石段があります。途中には、日蓮に帰依した宿谷光則の墓があり、その奥の開けたところに、日朗上人の幽閉されていた土牢があります。
光則寺 あじさい
 この光則寺は、樹齢百余年と言われる海棠の花で有名ですが、今時期は、あじさいの花が飾られ、花菖蒲が咲いていて、季節の花を鑑賞するために訪ねるお寺となっています。 入口近くに見事なトケイソウ(時計草)が咲いていて目をひきました。トケイソウ(時計草)の名は、3つに分裂した雄しべが時計の長針、短針、秒針のように見える花を咲かせることに由来します。
トケイソウ(時計草)

追伸 鎌倉大仏 

鎌倉大仏後ろ
 鎌倉大仏については、不明な点が多いようです。これまで、あまりに有名で、それだけ、あまり気にしなかったのですが、今回、少し大仏について知りたいという気持ちになりました。
 だいたい鎌倉開府から半世紀も経って、これほどのものを作った、その理由はどこにあったのでしょうか。長谷寺の北、かつては大仏殿があり、そこにたどり着けば、大扉の内に、全身が金色に輝く巨大な阿弥陀仏が鎮座していました。
 この大仏が出来たのは、健長4年(1252)、頼朝の死後53年後で、鎌倉時代も中期に入っています。
 そのころは、鎌倉幕府も北条時頼を中心に安定期に入り、これだけのものが造れる余裕が生まれたということは言えます。でもなぜこうし大仏だったのでしょう。
 さらに大事なのは、なぜこの場所が選ばれたのか、です。
 このあたりは、京都から来た場合の表玄関にあたると言われます。葛原岡から大仏坂へ入った所で下を望むと大仏様の背中が望めると聞きました。
 葛原岡から下りた所が化粧坂で、西からの来た場合の正面玄関にあたります。そこの大仏、何か意味がありそうです。歩いて確かめるしかありません。

国宝 鎌倉大仏

 鎌倉大仏様に行きました。たくさんの人が来ていました。
鎌倉の大仏さま全景
 鎌倉大仏は、長谷の高徳院の本尊です。
 鎌倉幕府第三代執権・北条泰時が晩年になってから作り始めました。
 「吾妻鏡」によれば、北条泰時の時に、淨光という僧が諸国を勧進して浄財を集めて歩き、暦仁元年(1238)3月から大仏と大仏殿を造り始めたとあります。北条泰時もその建立に援助をしました。
 大仏開眼は5年後の寛元元年(1243)6月11日に行われました。ただ、この時建立した大仏は木造でした。
 そして4年後の宝治元年(1247)、大仏が暴風雨の為に倒壊したため、建長4年(1252)にあらためて金剛の大仏が造営されます。その時、大仏殿もできましたが、建武2年(1335)と志安2年(1369)の台風で倒壊。更に明応4年(1495)の大地震による津波で流されてしましました。それ以来、現在の様な露座の大仏となったと言われています。
 大仏は阿弥陀如来。高さは12.38m、総重量は121トン。

 大仏の細部を、いただいた資料により見ていきます(ほぼそのまま引用させてもらいます)。
鎌倉大仏の顔
○大仏の額にある白毫(びゃくごう)
仏には常人と異なる「三十二相」(32の身体的特徴)があると考えられています。眉間の白毫(右巻きの白い毛のかたまり)もそのひとつで、ここからは人々を照らす光が発せられるといわれています。
○真青眼相(しんしょうげんそう)
紺青色とされる目も仏の「三十二相」のひとつとされます。瞼の下から垣間見ると、大仏像の目は伏し目をなすよう顔面とほぼ垂直に刻まれていることが分かります。
○頬
創建当初、大仏像の表面は塗金で覆われていたものとおもわれます。大仏像の両頬には今日なおその痕跡が認められます。
○口
穏やかに結ばれた口元に大仏像の慈愛を感じ取られる向きも多いことでしょう。彼のLafcadio Hearn(小泉八雲)氏も、その口元にたたえられた笑みを「東洋的微笑」と賞賛されました。唇を縁取る髭はギリシャの彫像のそれをも連想させます。
○鼻
一見して気づく「三十二相」のほか、仏は「八十種好」(80の微細な特徴)も持つと考えられています。「高くて真っすぐな、鼻孔がみえない」鼻もそのひとつに当たります。大仏像の鼻筋も額からまっすぐ伸びており、鼻孔は仏像の真下から見上げないと見えません。
鎌倉大仏の耳
○耳
肩に達するほどの福耳、孔の開いた耳朶も、「八十種好」のひとつに挙げられます。大仏像の耳にもそうした特徴が表現されています。
鎌倉大仏 印を結ぶ手
○手
阿弥陀如来の印相(いんそう 手の形、組み方)は、親指と小指を除く三指のいずれかを合わせ、両手に輪をつくる点に特徴づけられます。親指を人差し指の上に乗せない組み方こそやや特殊といえますが、大仏像は9種類あるとされる阿弥陀仏の印相の中でも最も格式が高い「上品上生印(じょうぼんじょうしょういん)」を結んでいます。また、指の間には「三十二相」のひとつである縵網相(まんもうそう 鳥の水掻きのようなもの)も表現されています。
鎌倉の大仏は、胎内に入ることができます。
鎌倉大仏の中
○胎内
内壁に見られる大きな格子模様からは、大仏像が約40回にも分けて鋳上げられた様子も窺えます。また分割・鋳造されたパーツのつなぎ目に、部位に応じ3種の「鋳繰り(いからくり)」が使い分けられていることも確認できます(「鋳造法」参照)
▼くぼんだ部分が大仏の頭部です。

鎌倉文学館でシモツケの花を見ました。

 久しぶりに鎌倉に行きました。まず行ったのが鎌倉文学館でした。
鎌倉文学館
 この建物は、加賀百万石前田家の別邸として建てられましたが火事で焼けたので、16代当で侯爵 前田利為が昭和11年に洋風に全面改築して建てた建築物です。
 昭和11年、この先日本は戦争に突入するだろうと先を読んでいた前田利為は、この別邸を本邸にしてもよいようにと大きく作ったようです。
 昭和58年、前田家より、鎌倉市に寄贈され、昭和60年、「鎌倉文学館」として開館しました。春と秋にバラ咲き誇る洋風の前庭、背後に鬱蒼と茂る森、見事な風情です。
鎌倉文学館 バラ園
 バラはそろそろ終わりです。「鎌倉」という黄色のバラがありありました。このバラには刺がなにのだそうです。
鎌倉文学館 シモツケの花
 横にシモツケが咲いていました。シモツケはユキヤナギやコデマリの仲間です。あじさいの季節に咲くので、あじさいのようにも見えます。
 シモツケの名前は栃木の旧地名である下野で最初に見つかったことによるというのが定説です。だから漢字で書くときは「下野」と書きますが、ここでは「繍線菊」と書かれていました。バラ科シモツケ属の落葉低木なのですが、菊を入れての漢字です。これでシモツケと読むのかなと見つめました。
鎌倉文学館 シモツケの案内板

文殊菩薩騎獅像および侍者立像

 平成館から博物館彫刻室へ寄ると、文殊菩薩騎獅像および侍者立像にお会いすることができました。
文殊菩薩騎獅像および侍者立像
 以下会場の案内などから、この像のいわれなどまとめてみます。
 獅子の頸部矧ぎ目の銘文と体内に納入されていた文書から,文永10年(1273)、康円の作と知られ,のちに興福寺勧学院本尊となったことがわっています。
この一群の像は五台山文殊(ごだいさんもんじゅ)とも渡海文殊(とかいもんじゅ)とも呼ばれ、中国における文殊の聖地五台山信仰を背景に産まれた図像に基づくもとづきます。
 この像では、台座の框(かまち)の上面に海の波が描かれているので獅子に乗った文殊菩薩に4人の侍者が従う「渡海文殊」の作例です。また、このように海を渡る表現は日本に独特のものということです。
文殊菩薩騎獅像
 文殊菩薩は髻(もとどり)を5つ結う形です。ちなみにこの髻の数は像によって一、五、六、八の四種類があり、それぞれ一=増益、五=敬愛、六=調伏、八=息災の修法の本尊とされていうりょうです。
 少年のような容姿に造るのは、経典に「童子相」とあるのにより、文殊の知恵が子供のように清らかであることを示します。
善財童子
 侍者のうち幼い子供の姿は善財童子(ぜんざいどうし)です。
 善財童子には次のような物語があります。
 むかしむかし、印度に善財童子という少年がいました。
 お金持ちの子供でしたので、なに不自由なく過ごしていました。
 頭も良かったのですが、毎日遊んでばかりいました。それで、みんなからは馬鹿にされていました。
 ある日のこと、善財童子は、心を入れ替え勉強しようと思い立ち旅に出ました。
 そして、名も無い人たちに会い、教えをうける旅でした。
 善財童子は気がつきました。
「名のない普通の人たちでも、何か一つは立派なものを持っているものだ」
 善財童子は、真剣に、多くに人から教えを受け、心を磨き、人に馬鹿にされないように、人に笑われないようになりたいと、旅を続けました。
 こうして善財童子は「53人」の人々からたくさんの知恵や経験を学びました。
 『華厳経入法界品』には、善財童子はインドの長者の子に生まれたが、ある日、仏教に目覚めて文殊菩薩の勧めにより、様々な指導者(善知識)53人を訪ね歩いて段階的に仏教の修行を積み、最後に普賢菩薩の所で悟りを開くという菩薩行の理想者として描かれています。 善智識の中には比丘や比丘尼のほか外道(仏教徒以外の者)遊女と思われる女性、童男、童女も含まれているので、「名のない普通の人たち」の会ってというお話ができたのでしょう。
 江戸時代に「東海道五十三次」の宿場が作られましたが、実は五十三次、この善財童子の53人の人から学んだ素直な心を見習うために、五十三次になったということです。
 五十三というのは大事な数字なのです。

「国宝大神社展」

 上野の国立博物館平成館で開かれている 「国宝大神社展」に行きました。
大神社展ポスター
 神社を考えると不思議です。神様をお祀りする社、恐れ多くて近づきがたいかと思えば、時には、子どものころの遊び場でもありました。またいにしえが残る場所として、歴史散策には欠かせない場所です。そこには、大きな木があり、古式豊かなお祀りがある。時には、困ったときにすがりに行く所。それでいて、あまり神社のことは知っていません。
 でも、このところ、神社や神様について、そして、お寺や仏像について知りたいという気持ちがつのっています。
 そもそも、日本の神さまは目には見えず、自然の中にごく当たり前に御座していて、我々の生活をそっと護ってくれている、そんな存在だったようです。
 それだから、山や大きな岩、もしくはたった一本の木が、「神」であったことがあります。今でもそのような祀られ方をしている所もありますが。
それがやがて、大陸から仏教が伝来して、大きなお寺が出来、仏像が彫られると、同じように神社の建物も立派になり、神像を作ることも始まります。
 「山の神」として写真も展示されていた、大神神社(おおみわ)、若い頃、暑い夏、大和路散策でお参りしたことがあります。そのころの気持ちまで思いだします。
 「海の神」も展示されていました。
 九州北部で海を生業にした宗像氏一族は、玄界灘に浮かぶ沖ノ島を神体島として崇拝。
とても神秘的です。「山の神」「海の神」写真で見ても、引きつけられます。
 この展覧会、国宝・重要文化財が160件。それが一堂に介しているのです。驚きです。
 神のための調度品としてつくられ、古くから伝えられてきた「古神宝」や、神社に奉納され、伝えられた名宝です。神社に、こんなに国宝があったのかと思いました。とても大切に保存されていたようで、古い時代の刀剣や衣類など、きれいな状態で見ることができます。
 神像がつくられ始めたのは8世紀ということですが、現存しているのは9世紀以降のものです。9世紀末になると、脚部の奥行きがない神像独特の表現が確立します。
 平安後期になると豊満で威厳に満ちた宮廷女性を思わせる優雅な女人の像が造られます。仏像と異なる点として、その作り方、木の扱い方があります。仏像は、ひびが入らぬように木の節の部分は使いませんが、神像では、木そのものも神と同じく神聖なものと捉えたため、たとえ節があってもそのままの状態で彫り出しているようです。また、神像には子供の姿で表されることもあります。
 像の中に、春日大社の使いである鹿をかたどった金銅製の作品がありました。「春日神鹿御正体」です。
 解説によると、「白雲の上に立ち、鞍に立てた榊には春日の本地仏5体が線刻されています」。線刻を単眼レンズで見てみました。線できちんと仏様が彫ってありました。この像も実は神様だということです。
 春日大社の祭神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)が、常陸国鹿島から春日の地へ移座したときの様子を表しているとのことです。
この像をデザインした印を買って帰りました。
春日神鹿御正体
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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