FC2ブログ

深光寺に滝沢馬琴の墓

 地下鉄丸ノ内線茗荷谷駅の南、深光寺に滝沢馬琴の墓があります。
 茗荷坂の斜面からさらに一段小高く伸びた坂を上ると深光寺です。正面に本堂があり、馬琴の墓とその一族の墓が本堂の前、左側にあります。
 馬琴は明和4年(1767年)に生まれ嘉永元年(1848年)に没し、江戸時代に活躍した戯作者です。本名は滝沢興邦(たきざわ・おきくに)といい、後には滝沢解(とく)と改めました。多数の別号を持っていた人物でもあり、晩年には髪をおろして曲亭馬琴(きょくていばきん)と号します。
 滝沢馬琴墓
馬琴の墓碑には法名「著作堂隠誉蓑笠居士(ちょさどういんよさりゅうこじ)」とあり、その左には馬琴より先に没した妻・お百の法名「黙誉静舟到岸大姉(もくよせいしゅうどうがんだいし)」の文字が見えます。
 台石に刻まれている家型の模様は、馬琴の蔵書印だといわれているものです。
馬琴 蔵書印
 馬琴は67歳で、右眼に異常を覚え、まもなく左眼もかすむようになりました。そして、73歳で馬琴は失明してしまいます。
 何人もの代筆者を頼みますが、気に入る者が見つからず、最終的に助け、『南総里見八犬伝』を完成に導いたのが馬琴の長男・宗伯(そうはく)の妻であったお路でした。
 この当時、宗伯はすでに故人となっていました。当初、お路は文字を書くことすらできなかったようす。
 『南総里見八犬伝』の大尾「回外剰筆」にはその時血の滲むような苦労が記されています。1字ごとに字を教え、1句ごとに仮名遣いを教えていきました。何度か途方に暮れ中止も考えますが、全98巻の大長編を完結します。それは、天保12年(1841)馬琴74歳の秋でした。『南総里見八犬伝』は天保13年(1842年)正月に刊行されました。「南総里見八犬伝」は実に28年にも渡って書き続けられたものです。
 お路の尽力は計り知れないものがあります。お路に対して妻のお百が嫉妬し、家庭内の波風は絶えなかったとも言われます。
 お路の墓が馬琴の墓の左後方に建っており、法名は「操誉順節路霜大姉(そうよじゅんせつろそうだいし)」と刻まれています。
滝沢家墓 路霜大姉
スポンサーサイト



「貴婦人と一角獣」展

 六本木、国立新美術館に「貴婦人と一角獣」を見に行きました。
 フランス国立、パリ・クリュニュー中世美術館から、6枚のタペストリーが「奇跡」の初来日ということで話題です。
貴婦人と一角獣展チラシ
 何も知らないので、中世の、500年も前のタペストリーの展示か、といった程度の浅い期待で行ったのですが、感動しました。
 フランス国立クリュニー中世美術館の至宝「貴婦人と一角獣」は、西暦1500年頃の制作とされる6面の連作タピスリーです。国立新美術館の天井高のある企画展示室に丸く、6枚飾ってあります。
 大きいです。大作のうち5面は、「触覚」「味覚」「嗅覚」「聴覚」「視覚」と人間の五感を表わしています。
 残る1面が「我が唯一の望み」です。このタピスリーが一体何を意味するかについては、未だ解明されていないとかで、「美しく謎に満ちた」作品という言われ方をします。
 "愛""知性""結婚"など諸説あるようです。
 6つのタペストリーはそれぞれ若い貴婦人がユニコーンとともにいる場面が描かれ、ほかに獅子や猿や犬などが描かれているものがあります。背景にはは千花模様(複雑な花や植物が一面にあしらわれた模様 ミル・フルール)が描かれ、そこにウサギや鳥などの小動物が一面に広がって小宇宙を形作っています。
 びっくりなのは、次の会場で、こうしたタペストリーの構成の細かな解説が、デジタルの大型画面に美しく映し出され、解説されていたことです。タピスリーに描かれた貴婦人や動植物などが、モティーフごとに、分類して分かりやすく映し出されました。しっかり勉強しました。
 さらに次の会場では、関連する彫刻、装身具、ステンドグラスなどの作品展示があり、より深く、読み解いていかれるようになっています。
 タペストリーの中に描かれた旗や、ユニコーンや獅子が身に着けている盾には、フランス王シャルル7世の宮廷の有力者だったジャン・ル・ヴィストの紋章(三つの三日月)が織り込まれています。そうしたことで、ジャン・ル・ヴィストが、このタペストリーを作らせた人物ではないかと見られています。
 1841年、歴史記念物監督官で小説家でもあったプロスペル・メリメが現在のクルーズ県にあるブーサック城で発見しました。ただ、タペストリーは保存状態が悪く傷んいました。
 小説家ジョルジュ・サンドがその作品の中でこのタペストリーを賛美したことで世の関心を集めることとなります。1882年、フランス国立クリュニー中世美術館に移されました。
 「貴婦人と一角獣」がフランス国外に貸し出されたのは、1974年、アメリカのメトロポリタン美術館の1回だけだそうです。今回は、フランス国立クリュニー中世美術館が、展示室を改装するにあたって、そのクリュニー側が、日本でどうかと言ってくださったことで、実現した、まさに奇跡の展覧会なのです。

慈眼院澤蔵司稲荷

 慈眼院に入ります。
 慈眼院澤蔵司稲荷 本堂
お参りして、少し右の方へ行くと、「霊窟 おあな 参道入口」と記された石碑があります。こちらに向かうと澤蔵司稲荷のようです。
慈眼院澤蔵司稲荷 おあな 案内
 澤蔵司稲荷は伝通院の塔頭の一つで、慈眼院内の稲荷です。
 創建は「徳川秀忠」治世の元和6年となっていて、その由来は、伝通院の学寮(関東壇林という修行所)にいた修行僧が、「我はまことの千代田の城の稲荷大明神である。学寮に入ったのは、かねがね浄土宗の学問を志したいと願っていた。今、大願をはたした。今より元の神にかえり、永久に当山を守護し、恩を報いよう」といって、白狐の姿に変じ、暁の雲に隠れため、伝通院の住職、郭山上人が、澤蔵司稲荷を境内に祀り、慈眼院を別当寺としたというものです。
 「江戸砂子」によれば、「多久蔵主稲荷社、境内にあり、霊験のやしろ也。多久蔵主という狐ありて、八、九十年前まで、夜な夜な学寮に来りて法を論ずるという。これを稲荷に合せ、まつれりとぞ」とあります。
 石の案内、「おあな」は赤く塗られています。
 「東京名所図会」には、「東裏の崖下に狐棲(狐の棲む)の洞穴あり」とあります。
 また新撰東京名所図会には、「賽客多く、門前には納幟林立す。東裏の崖下に狐棲の洞穴あり。其の磴道には小形の鳥居列植して門を成せり。」と記されています。
 崖のようになっていて下を見ると、赤い鳥居がたくさん見えます。
慈眼院澤蔵司稲荷 1
慈眼院澤蔵司稲荷 たくさんのおきつね様
 降りていくと、窪地に稲荷が祀られていて、狐の置物がたくさんあります。この窪地は「霊窟」と言われます。境内を掃除していた人が、少し横の小さな洞穴を指さして「ここから狐が出入りしているのだ。出てこないかな」と言いました。
慈眼院澤蔵司稲荷 今も出入りしている? おあな
 しかし洞穴は暗く静かでした。
 なんとも印象深いお稲荷さんです。

沢藏司稲荷と椋の木

 「幸田・青木」の小石川の家と、椋の木とに隣あうように、沢藏司稲荷があります。
 沢蔵司稲荷の伝説について、青木玉さんの『上り坂下り坂』「小石川ひと昔」をお借りします。
『・・・椋の木を通り過ぎると左側に、沢蔵司稲荷がある。昔、伝通院の学僧に、沢蔵司というお坊さんが居た。おそばが好きで、ちょいちょい表通りのおそば屋さんにおそばを食べにくる。食べ終って帰っていった後で、気がつくと確かに受け取ったはずのお金が、木の葉に変っている。主人はおかしいと思ったが、気が付かないふりをして、おそばを作りつづけた。
 或る夜の夢に沢蔵司が現れ、長年の修行が満願に達し、元の姿に還ることを告げ、そばの供養にあずかったことを謝して、商売繁盛を約束したという言伝えがある。それ以来、今もこのそば屋さんは朝一番に作りたてのおそばを供えに、自転車でお稲荷さんにやってくる。二十世紀に生きているなかなかたのしいお伽噺である。』(青木玉 『上り坂下り坂』小石川ひと昔)
青木玉 上り坂下り坂
 私はお稲荷さんだから、お狐様だろうと思っています。その傳通院の学童沢蔵司(たくぞうす)が通ったといわれるおそば屋さんは、傳通院前交差点の付近の「稲荷蕎麦 萬盛」だと言われています。このお店は開創以来その日最初に茹でた蕎麦を澤蔵司稲荷に奉納し続けているのだそうです。
 もっとも、このお話の主役は、稲荷社です。
 傳通院の学寮に学び、たった3年で浄土宗を極めた澤蔵司という学僧、実は千代田城の稲荷大明神であったという伝説が慈眼院澤蔵司稲荷(じげんいんたくぞうすいなり)の起源なのです。(ちなみに、「伝通院」は、正式には傳通院で、「でんずういん」とよびます)。
 江戸時代、伝通院の学寮で修行した澤蔵司、修行を終えた夜、学寮長の枕元に立ち、「私は千代田の城内にある稲荷である。修行を受けた恩返しに今後もこの寺を守る」と告げ、寺内に稲荷を祀り、御神木としてムクノキを植えたとされています。
 慈眼院澤蔵司稲荷が祀られ、椋の木には、澤蔵司稲荷の魂が宿っているのです。
 慈眼院澤蔵司稲荷は、傳通院の塔頭でした。
 この伝説は元和6年(1620年)の出来事とされています。
 そのころからお蕎麦屋さんがあったとするとすごいです。
 また、そうだと、椋の木の樹齢は、400年近くになります。
 よくあることですが、道の中にある椋の木、じゃまで、伐採されようとしたのですが、工事関係者に不慮の事故が続き、「これは澤蔵司の祟りだ」と、伐採はとりやめになったという話があります。
江戸名所図会の「無量山境内大絵図」にも「椋の木」は大きな木として画かれています(左側中下)。木のそばにはお茶屋が描かれています。慈眼院澤蔵司稲荷は階段を登ってかなり大きいです。
江戸名所図会の「無量山境内大絵図

小石川の椋の木

 飯田橋や後楽園方面から安藤坂を登って、伝通院前を曲がっても、地下鉄春日駅方面から千川通り、えんま通り、すずらん通りを経て、善光寺坂に来ても大きな椋(むく)の木が目に入ります。
小石川の椋の木
 推定樹齢300年。ワイヤーで支えられています。
 昭和20年5月の空襲で近隣の住宅が焼け、この椋の木も、北側と上部が焦げてしまいした。それで上部が伐採されてしまいました。
 万が一を考慮してみどり公園課はワイヤーで三方から支える手だてをしています。
 年末には「注連縄 しめなわ」を付け替えているようです。
 この椋に木、戦後の道路拡幅で伐り倒されるところでしたが、住民の反対で生き残りました。
 この椋の木のすぐそばに幸田露伴の屋敷(蝸牛庵)がありました。この幸田邸も戦災で焼けてしまいました。戦後、幸田文さんが、家をたて、現在、青木玉さん、奈緒さんがお住まいです。
 この椋の木のことは、青木玉さんの書かれた本にたびたび登場します。
 
 「母の幸田文の家の前に、胸の高さで測ると太さ4メートルの大きな木がたっている。
 祖父の露伴は榎(エノキ)だと言っていたが、椋(ムクノキ)だという人がいて、結局よくわからなかった。母の文は六十歳になってから木の勉強を始め、それに自分(青木玉)も巻き込まれて、勉強するようになった。
 あの木はどうも榎ではなく椋らしい。」(青木玉『こぼれ種』)

「・・・二階の祖父の書斎に座れば、まるで木の枝の上に居るような感じで
廊下のガラス戸を開ければ枝先がさわれそうだ。・・・」(青木玉『小石川の家』)
「小石川の家(うち)」青木玉
青木玉さんの『小石川の家』の表紙は、安野光雅の絵で飾られています。あとがきに、その時の様子が書かれています。
「こんな大きな木が道の真ん中に生えていて面白いですねぇ}と楽しそうに椋を見上げられ、白い紙に柔らかな線が動いてみとれる間に、その頃の家の前の懐かしい景色が現れた。
 この椋の木が今年の4月文京区指定文化財の「天然記念物」第一号に指定されました。
小石川の痛ましい椋の木

近衛邸車寄せのケヤキ

下落合を歩きました。
 もともと、下落合あたりは、豊島台地の南端、目白から妙正寺川・神田川に向かう斜面に広がる一帯で、「落合崖線」と呼ばれる自然の宝庫でした。大正時代から昭和時代にかけて郊外住宅地として開発され、高級住宅街として認知されるようになりました。
 下落合地域は、まだまだ豪邸があるお屋敷街だという思いがします。
 下落合の大屋敷といえば、旧・下落合全体の東側(目白駅寄り)一帯を所有し、大正の半ばまで、広大な屋敷をかまえていたのが、近衛篤麿(続いて文麿)です。
 そして、もうひとつ、落合で有名なのは、いまの御留山(おとめやま)とその周辺一帯に屋敷をかまえていたのが相馬孟胤(たけたね)です。
 近衛篤麿が下落合に広大な敷地を購入したのは、明治33年(1900)のことです。学習院院長をしていて、下落合が便利だったことも下落合を選んだ理由のひとつだったのでしょう。
 近衛家とは、摂関家すなわち公家のトップとして明治期に活躍した貴族政治家、近衛篤麿のことです。近衛篤麿(1863年~1904年)は公爵。貴族院議員、貴族院議長、学習院院長を歴任しました。
 落合二丁目周辺は、近衛家の邸宅があったところです。
下落合 近衛邸のケヤキの木
 下落合2丁目。目白通りから高田馬場方面へ南下する途中、道のほぼ中央に、大きなケヤキの木があります。
 これは、邸の玄関先にあったと言われる近衛邸車寄せのケヤキです。
 ケヤキは、近衛篤麿が深く愛した木でした。馬車に乗って出勤する時はこの木の回りを巡らせてから出かけたと言われます。
 近衛邸が取り払われた時は木も切られる運命でしたが、住民の運動があって、残されました。
 ここのケヤキは、双子のケヤキだと言われているそうで、片方に落雷し、うち1本がのちに20mほど南へ移植された言われています。少し離れたところにそれらしいケヤキがあります。
 樹齢100年を越すと言われています。
近衛町のご神木 ケヤキ
 明治37年(1904)に篤麿が没します。邸宅とともに大きな借財を継いだのが息子の近衛文麿です。その文麿の手により、大正11年(1922)より、邸宅が「近衛町」と銘打ち分譲されます。

『マイ・フェア・レディ』(My Fair Lady)

          マイフェアレディチラシ
 日生劇場で、日本初演から50年目を迎えた言われる、ミュージカル『マイ・フェア・レディ』を観ました。
 ヒロイン役は、真飛聖で、ヒギンズ教授役は寺脇康文、ピッカリング大佐は田山涼成、そしてドゥーリトルは松尾貴史でした。
 あまり舞台は観ていないので、『マイ・フェア・レディ』と言えば、オードリー・ヘップバーン主演の映画です。調べてみると昭和39年の作品です。ただ、映画では、オードリー・ヘップバーンの歌は、吹き替えだったというので、ちょっと残念だった思い出があります。
 舞台は、どんどん背景が動いて替わり、途中で幕を降ろすことがなく、気がそがれず、すごいなと思いました。今はこんな展開あたりまえなのでしょうが。
 幕後に真飛聖、田山涼成、松尾貴史のトークがあり、とても楽しかったです。
 時々こうした舞台観られると良いなと思いました。

目白駅の裏側にある階段

 目白駅を出て、学習院側でない方向に少し行くと、交番横に下り坂があります。そこを降りて、左を見上げると、金網に囲まれてコンクリートの階段があります。先は行き止まりのようになっていて現在は使われていないようです。
目白駅後ろ側にある階段
 かつてこの階段の先に改札口があって、そこから降りてくる階段ではないかと言うことでしたが、どうもこの階段急で狭いです。
 目白駅が開業したのは明治18年(1885)だということです。現在の山手線は、(株)日本鉄道によって、赤羽、品川間がひかれました。当初もうけられた駅は、板橋、新宿、渋谷でした。そしてまもなく(約半年後)、清戸道(現在の目白通り)との交差点、そして二子街道の交差点に目黒駅を増設しました。
 少し考えると、目白駅とはどうしてつけられたのでしょう。この地域は目白ではないです。地名で言えば、高田、あるいは下落合ということになるでしょう。目白台、目白不動は少し離れています。目黒駅と目白駅、対で作ったと考えられないこともないです。目黒駅は品川区です。
 階段の話に戻ります。
 いろいろ調べていると、開設当初は、目白駅の改札口(駅舎)は、線路の西側、つまり下落合側の金久保沢の谷間にあったようです。改札を出て、現在の目白通りに行きたい人は、この今は使えない、コンクリートの階段を登っていったようです。
 現在の目白駅改札口は、目白通りに面して、目白橋の上へ直接出られるような構造となっていますが、それは後にそうなったということのようです。
 当初の金久保沢の谷間にあった目白駅は、崖に面して、低い谷間にあったため、洪水には悩まされたようです。
 それで、いつ頃今のように、目白通りに面して駅舎が出来たか、それは分かりませんでした。ずいぶん前からこの形だったということですから、昭和の初めごろだったのでしょうか。
 それにしても、この階段よく残りました。

「源氏絵と伊勢絵-描かれた恋物語」展

 出光美術館で開催中の「源氏絵と伊勢絵-描かれた恋物語」展に行ってきました。
源氏絵と伊勢絵
 在原業平と目される男の一代記とされる『伊勢物語』と『源氏物語』は物語としても深い関連がありますが、それぞれの物語を描いた絵画でも、深い結びつきがあります。それを優雅に見せてくれる、あでやかな展覧会でした。
 今年は、桃山時代、優れた源氏絵を残した土佐光吉(1539~1613)の没後400年に当たるということで、光吉とその時代の源氏絵を中心に、伊勢絵との比較によってとらえ直してみる試みがされています。光吉は源氏物語の、それまでに描かれたことのないシーンをはじめて絵画表現したとのことですが、その際「伊勢絵」が参照されたということです。
 展覧会は、次のように構成されています。
1 貴公子の肖像 -光源氏と在原業平
2 源氏絵の恋のゆくえ -土佐派と狩野派
3 伊勢絵の展開 -嵯峨本とその周辺
4 物語絵の交錯 -土佐光吉の源氏絵と伊勢絵
5 イメージの拡大 -いわゆる<留守模様>へ
それぞれのコーナーの解説が丁寧で分かりやすかったです。
最後の「留守模様」という言葉がとても気に入りました。
「留守模様」は人物を描かず、情景や物だけを描いて、観る者に想像させる手法というこで、私は初めて知りました。
 《宇治橋柴舟図屏風》《八ツ橋図屏風》が飾られていました。
 《宇治橋柴舟図屏風》は、『源氏物語』の総角(あげまき)の記述と符合し、匂宮と中君が宇治の山荘から眺めた景色なのだそうです。
酒井抱一《八ツ橋図屏風》(右隻)
 《八ツ橋図屏風》は有名なので、分かります。酒井抱一の作です。
 『伊勢物語』第九段を題材にしています。京を離れ、東下りの途中、三河の八ツ橋(川に橋を八つ渡したのでこの名があります)に咲いていたカ・キ・ツ・バ・タを各句の頭に織り込んで読みました。
 「からころも 着つなれにし つましあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ」
 その場面を橋とカキツバタで表現しています。《八ツ橋図屏風》のカキツバタは、濃淡を描かずべったりとし、空に伸びています。「旅をしぞ思ふ」心持ちが表現されているのでしょうか。「留守模様」、表現の奥行きを感じました。
 絵画鑑賞の後は、出光美術館のお堀が見える展望休憩スペース、ここもお宝です。皇居の緑がとてもきれいでした。
出光美術館窓から皇居を見る

桐の花

 下落合の目白通りを歩いていたら、道ばたで桐の花が咲いていました。
 こんな所でと思いましたが、みごとに花を咲かせていました。
桐の花
 薄紫の筒形の花を重ねて塔のように咲き聳える。なるほど、気品が感じられます。ただ場所がちょっとかわいそうでした。
 20代の終わり頃、北原白秋は監獄に入ります。 罪状は姦通罪。
 明治43年9月、原宿に住まいしていた、25歳の白秋は、隣家の人妻の俊子に心を寄せていきます。俊子は、夫から暴力を受けていました。 京橋越前堀に移転した白秋の元に離縁を宣言された俊子が訪ねて来て、二人はそこで結ばれます。しかし、俊子の夫は法的には離婚が成立していないことを楯に、姦通罪で訴えったのです。
 そんな事件の直後に編まれた、白秋の第一歌集が『桐の花』でした。
 その冒頭、「桐の花とカステラ」。
 <「桐の花とカステラの時季となつた。私は何時も桐の花が咲くと冷めたい吹笛(フルート)の哀音を思ひ出す。五月がきて東京の西洋料理店(レストラント)の階上にさはやかな夏帽子の淡青い麦稈のにほひが染みわたるころになると、妙にカステラが粉つぽく見えてくる。さうして若い客人のまへに食卓の上の薄いフラスコの水にちらつく桐の花の淡紫色とその暖味のある新しい黄色さとがよく調和して、晩春と初夏とのやはらかい気息のアレンヂメントをしみじみと感ぜしめる。>
 <私の詩が色彩の強い印象派の油絵ならば私の歌はその裏面にかすかに動いてゐるテレビン油のしめりであらねばならぬ。その寂しい湿潤(うるほひ)が私のこころの小さい古宝玉の緑であり、一絃琴の瀟洒な啜り泣である。
 私の新しいデリケエトな素朴でソフトな官能の余韻はこの古い本来の哀調の面目を傷けぬほどの弱さに常に顫へて居らねばならぬ。
 而((そ))してしみじみと桐の花の哀亮をそへカステラの粉つぽい触感を加へて見たいのである。>
 清少納言の『枕草子』第37段の「木に咲く花は」の中に桐の花をあげています。
 桐の花が紫に咲くのはみごとだ。ひろがった葉のつきぐあいがぶざまのようにも思えるが、格別の来でもあるらしく、唐では鳳凰がとまる木であるそうな。また琴はこの木でつくり、さまざまな音をかきならすのだから、やはりふつうの木ではないのだろう。(大庭みな子訳)
 もうひとつ、500円硬貨の模様も桐の花が刻まれています。
500円硬貨
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR