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国営昭和記念公園で出会った花々

 国営昭和記念公園へ行きました。
_昭和記念公園は、立川基地でしたが、昭和20年に米軍の基地となるその前は 鉄道の町、飛行場の町として、多摩地区の中心地でした。
 昭和52年に基地が全面的に返還されてから、昭和天皇在位50年を記念して造られた国営公園です。東京ドーム39個分の広さがあります。
 昭和記念公園には、毎年この時期行っているのですが、今年はいちだんときれいでした。
昭和記念公園 チュウリップ
昭和記念公園 チューリップ バレリーナ
 チューリップ、少し生成期を過ぎましたが、まだまだ大丈夫です。ここには106品種、21万球もあるどうです。
昭和記念公園 アイスランドポピー
 アイスランドポピー、これも、ここの目玉。今、見ごろです。シベリア地方を中心に自生する寒さに強いケシの仲間です。
昭和記念公園 ボタン
昭和記念公園 日本庭園のボタン
 ボタン(牡丹)。これもちょうどの見ごろです。牡丹園と日本庭園で咲いていました。中国北西部原産です。日本には平安時代に渡来しました。ここには、30~40品種あるそうです。
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上野清水(きよみず)堂 月の松

 上野の山は、江戸一番の桜の名所でした。
 徳川家の菩提寺である寛永寺の開基であった天海僧正が、大和の吉野山のように桜見物が出来る場所にしようと、吉野桜、山桜、ハ重桜などを、時機を長く見せようと、工夫してして植えたので、2月末から3月半ばまで桜の花が絶えることがなかったと言われます。そして、桜の時期は、黒門を開き、庶民の入山を許しました。
 広重画・上野清水(きよみず)堂不忍ノ池
広重画・上野清水(きよみず)堂不忍ノ池
 歌川広重の名所江戸百景に「上野清水(きよみず)堂不忍ノ池」があります。
 約150年前に描かれた、上野・清水堂です。満開の桜と不忍池が描かれています。
 上野の清水堂は、京都の清水寺を模倣して舞台の上に建てられました。この舞台からは不忍池、中島弁財天、さらには本郷台地の大名屋敷町を一望することが出来ました。
 その清水堂からの絵です。
 その絵の中に、ぐるっと円を描いた、奇妙な枝ぶりの松の木が描かれています。この末は、やはり広重の名所江戸百景のなかで「上野山内月のまつ」としても描かれています。 人気があったのでしょうか。
広重 上野山内月のまつ
 その松を復活させようと、枝振りをそのようにはからった松が植えられています。似てはいますが、すごい!見事!とはちょっと言えません。なんだか松がかわいそうな気がしました。
上野 清水堂 月の松
上野 月の松

フェンディもうひとつのアート

 長いタイトルになりますが、「FENDI-UN ART AUTRE Another Kind of Art, Creation and Innovation in Craftsmanship ~フェンディもうひとつのアート、クリエイションとイノベーションの軌跡~」を見に、東京藝術大学大学美術館 展示室へ行ってきました。
『FENDI UN ART AUTRE』パンフレット
 まったく期待しないで行ったのですが、びっくり、すごいと思いました。
 FENDI フェンディ、聞いたことがあるという程度です。だから何も分かってないですが、
まず展示が素晴らしかったです。
 最初、暗いですから注意してくださいと言われて開けてくれたカーテンをくぐって入ると、スクリーンに60年から80年までの作品が映し出されます。ファッションショーです。見ていたくなります。
 そして、もうひとつゴージャスな毛皮のカーテンをくぐるとそこにあらわれた美術品のような展示にまず驚かされます。展示されているのは1970年からいままでまでに制作された代表作約30点ばかりを、円筒状の真鍮のショーケースに飾ってあります。照明が万華鏡のようで、豪華な毛皮のコートが浮かび上がっています。とにかく本物はすごい、素晴らしいと思います。こんなのを着る人がいるのだと思うと、自分の存在も疑いたくなります。
 壁面には、展示されたコートの部分を切り取ったような毛皮のパネルが、まるでモダンアートのように展示されています。チラシやチケットを見て、FENDI のモダンアート展かと思っていました。ファー工房の技術の粋を尽くした、本当に美しい毛皮です。
 タッチパネルもあり、ファションを360度回して見ることができ、毛皮のデザイン画なども楽しむことができます。
 もうひとつ奥の部屋に入ると、ファー工房の様子を見ることができます。毛皮にもじかにさわれます。テーブルがまた映像が映る仕組みで、インタビューなどを見、聞くことができます。
 フェンディは、すべて手仕事で作品を作っているようです。そのこともよく分かりました。皮や毛皮の材質を選びながら、望むものを形にしていく、その作業自体が芸術のようでした。
 こうした一歩進んだ展示、まずなにより楽しかったです。

稲荷鬼王神社のさくら草

稲荷鬼王神社さくら草の鉢壇
 新宿歌舞伎町の稲荷鬼王神社に行くと、さくら草が飾ってありました。鎮花祭(はなしずめのまつり)というのだそうです。
 桜の花が終わるころに散りゆく花に悪霊がはびこるとされていて、そのため、疫病の流行を鎮める祈りをこめて鎮花祭が行われる風習があります。そのような趣旨で、薬草として知られる「忍冬(にんどう)」や「百合根」などを供え、式典を行う神社もあるようですが、稲荷鬼王神社では、さくら草を神前に供えて鎮花の祭典を行っています。
稲荷鬼王神社 さくら草の鉢
 たまたま宮司のお母さんが出てこられ、少しお話をうかがいました。
 江戸時代、神社周辺は植木屋がたくさんいた町で、さくらが散ったころ植木屋が自分が育てたさくら草を神社に持ち寄ったということです。この稲荷鬼王神社の近くに小諸から出て来た、島崎藤村が家を借りて住んでいましたが、その家の家主も植木屋さんでした。
 しかし、その風習も何時しか廃れていきました。みんな西洋の花にあこがれ、またさくら草は種ができないため、次のシーズンまで大事にしまっておかなくてはいけないので、場所を取るし面倒だったのでしょう。
 そういえば花に香りがありません。蜂や蝶が寄ってこないのです。自然では受精しないのですね。
 それを、先代の宮司が、1960年代にさくら草を復活させました。
 そのさくら草を、萌子と宮司の奥さんが、株分けして増やす江戸時代の栽培法で、社務所の屋上で250品種、600鉢を育てています。どうしても、枯れたり花が育たなかったりすることがあるので、1種の品種に2鉢は必要なのです。展示会へは、花の咲いた鉢から順番に入れ替えて出しています。
 ところが今年は、異常に花の咲くのが早く、出せる花が少なくなったということです。「こんなことは初めて」と言われました。
稲荷鬼王神社 さくら草の葉を見てください。
 桜草の栽培は寛文年間(1661~1672)から始まったと言われています。先ず旗本や御家人などに広まり文化・文政時代(1804~1830)にはさくら草の愛好家のグループが幾つもできてたくさんの品種を生みました。だから、花にはいろいろな名前がついています。苦心して栽培し、名前をつけて認めてもらう。江戸時代、朝顔も有名です。この地域は元は大久保で、つつじの名所として知られていましたが、つつじもたくさんの品種を誕生させていました。
 江戸時代は1000種とも3000種とも言われたさくら草ですが、現在では約300種ぐらいだそうです。鬼王神社 ではそのうち250種もあるとのことです。
 よく見ると、花の形や色は違いますが、葉はすべて同じです。「楕円形でしわが多く、縁に浅い切れ込みがあり、葉や茎に白い軟毛が生える」
 可憐で見飽きないです。

「せき口上水端はせを庵椿やま」

 広重の名所江戸百景に「せき口上水端はせを庵椿やま」があります。
せき口上水端はせを庵椿やま
「せき口 」とは、いろいろな説がありますが、「関口」と書き、絵にある神田川の下流に大洗堰(せき)があることから生じた地名です。
「上水端」 神田上水沿いということです。
「はせを庵」は、ばしょうあん 、 芭蕉庵です。
「椿やま」は、 この絵の右に見える崖のような所のことで、椿山荘という名前にそれが伝えられます。
関口芭蕉庵
 関口芭蕉庵は、胸突坂の左側、神田上水に沿った小高い傾斜地に位置しています。松尾芭蕉は延宝5年(1677)から、延宝8年(1680)、有名な深川芭蕉庵に移るまでの4年間をこの地に住んで、上水の改修工事に関係したと伝えられています。
 後年、芭蕉の流れを汲む俳人達が遺吟「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」の真蹟をここに埋め墓を建て記念としました。
 「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」
 芭蕉がこのあたりで、早稲田のたんぼを琵琶湖に見立てて詠んだ句と言われます。
 芭蕉庵と胸突坂をはさんだ所に水神社(すいじんじゃ)があります。
関口 水神社のイチョウの木
 大きなイチョウの木がそびえ、明美な風景です。
 『江戸砂子』には、「上水開けてより関口水門の守護神なり。」とある。
 わが国最古の神田上水は、徳川家康の命により、大久保主水が開いた。井頭池からの流れを、目白台下野現大滝橋のあたりに、堰(大洗堰)を築き、水位をあげて上水を神田、日本橋方面に通じた。
 文京区教育委員会の案内には次のようのあります。
 <伝えによれば、水神が八幡宮社司の夢枕に立ち、「我水伯(水神)なり、我をこの地に祀らば堰の守護神となり、村民を始め江戸町ことごとく安泰なり」と告げたのでここに水神を祭ったという。
 上水の恩恵にあずかった神田、日本橋方面の人たちの参詣が多かったといわれる。また、このあたりは田園地帯で、清らかな神田上水が流れ、前には早稲田田んぼが広がり、後には目白台の椿山を控え、西には富士の姿も美しく眺められて、江戸時代は行楽の地であった。>
 広重の名所江戸百景「せき口上水端はせを庵椿やま」を見ると、行楽の地であった風景が偲ばれます。

東京カテドラル聖マリア大聖堂のルルドの洞窟

 東京カテドラル聖マリア大聖堂へ寄りました。
 カテドラルとは、”カテドラ”のある教会のことです。
 カトリック教会には、教会の行政、司牧のための地域的区分があり、それを「教区」と呼びます。それぞれの「教区」には教区長である司教または大司教がいます。
 この司教が、自分の教区内にいる信徒を教え、導き、司式するための“着座椅子”をギリシャ語で《カテドラ》といいます。
 聖マリア大聖堂という名称は聖堂が「無原罪の聖母(マリア)」に捧げられていることに由来し、教会敷地内には聖母マリアが聖女ベルナデッタに無原罪の御宿りを告げたとされる、フランスのルルドの泉の洞窟の岩場が再現されています。
ルルドの泉の洞窟の岩場
 1858年2月11日、村の14歳の少女ベルナデッタ・スビルーが郊外のマッサビエルの洞窟のそばで薪拾いをしているとき、聖母マリアが現れました。ベルナデッタは当初、自分の前に現れた若い婦人を「あれ」(アケロ)と呼び、聖母とは思いませんでした。しかし出現の噂が広まるにつれ、その姿かたちから聖母であると囁かれ始める。
 ベルナデットが見た「聖母」は、ルルドの泉に関して次のような発言をしました。
 まずベルナデットに「泉に行って水を飲んで顔を洗いなさい」。
 近くに水は無かったので、近くの川へ行こうとします。
 しかし「聖母」は洞窟の岩の下の方へ行くように指差します。
 そこには、泥水が少し湧いているだけでしたが、次第にそれは清水になって飲めるようになりました。これがルルドの泉の始まりです。
ルルドの洞窟
 写真は、東京カテドラル聖マリア大聖堂のある関口教会の庭の奥の、ルルドの洞窟の模型です。フランスの実物とほぼ同じ大きさだということです。

江戸川公園 関口大洗堰

 新江戸川公園へ行きました。
 この公園は、神田上水の関口大洗堰があった場所として重要な場所です。
 神田川は井の頭を水源として、この文京区の椿山下の場所まで流れて、関口大洗堰でせき止め、流れを二分させます。ひとつは、飲料用水として江戸市中に供給し、もうひとつは、江戸川という名称に変わって飯田橋の舩河原橋へむかいます。
 神田上水は、白堀(堀割)で、江戸川橋から小日向の崖線下を、後楽の水戸徳川家の上屋敷から水道橋へとつづき、千代田城内へと給水され、さらには神田、日本橋、京橋、銀座界隈、また上野や秋葉原へと広がり、少し遅れて本所、深川、浅草方面までと水道網は拡がっていきました。
「江戸名所図会」の関口の項に「承応年間、官府より井頭の水道を開かせられ、初めて神田に引給ふ。故に神田上水の称あり」とあります。
江戸名所図会 目白下大洗堰」 
 名所図会の流れは、江戸川になります。江戸川は、飯田橋(舩河原橋)まで流れ濠に入ります。
 濠から大川(隅田川)へ流入する柳橋までは神田川と呼ばれていました。
 江戸川公園には、取水口の石柱のミニチュア版が作られています。これは、水量調整のための板(角落)をはめ込むためのものです。
 関口大洗堰
関口大洗堰 案内板
神田上水は、江戸の人たちの飲料水であったこともあり、井の頭から大洗堰までの区間は、いうならば御留川として立入禁止でした。随所に水番を置いて厳しく取り締まっていました。
 この大洗堰からは、江戸川の方では、釣りをしようが舟遊びをしようが、泳ごうがかまわいませんでした。
 江戸川が流れ込んでいた飯田橋の舩河原橋近くに、揚場町という町名が残っています。「揚げ場」、つまり荷物の揚げ下ろしをする河岸(かし)のあった場所です。
 大川(隅田川)の柳橋から神田川をさかのぼって来た荷舟は、この揚場町で一度陸揚げされます。さらに、小さな荷物は、小型の舟で江戸川をさかのぼって行きます。そして、大洗堰の少し下流、現在の江戸川橋あたりで再度陸揚げされました。それより上流にある高田村や戸塚村、落合村へなどへの荷物は、そこから陸路で運ばれました。
 関口大洗堰は、現在の大滝橋から数メートル下流にありました。

中村彝のメーヤー館が見える風景

 新宿区立中村彝アトリエ記念館の公開に合わせて、新宿歴史博物館特別展で「中村彝展 ― 下落合の画室 ―」が開かれています。
 中村彝の作品としては、「人物」が一番魅力があります。レンブラントとか、ルノワールとか本で学んで、それを自分のものしている、それがすばらしいです。そして、相馬家の長女俊子をモデルにした作品には、エピソードと画家の心の奥の葛藤といったものがうかがえ、感動します。「静物」は、セザンヌ的な感じですがじっくり見て、深みがあります。
中村彝『風景』(制作年不詳)
 そして「風景」も素晴らしいです。セザンヌ、ルノアール、ゴッホといったものから学んだものが生かされている気がします。
 しかし、中村彝は、肺結核のため、あまり遠くには出て行かれませんでした。アトリエの近くで描いた風景があります。精神性を感じます。
中村彝『目白の冬』(1920年)
 大正9年(1920)に制作した『目白の冬』、あるいは大正8~9年(1919~1920)に描いた『風景』です。そこには、アトリエの北側にあった日本聖書神学校のメーヤー館が描かれています。メーヤー館の右側に描かれているのは旧・英語学校の建物です。
 メーヤー館は現在、保存のために下落合から千葉県へと移築されています。
 明治の初め、外国人の居住は築地の外国人居留地と決められていて、布教活動などもなかなか大変だったようです。やがて、築地以外にも、教会を建てることが許され、明治45年(1912)下落合に、メーヤー宣教師夫妻が住まう、メーヤー館(宣教師館)が建設されました。その屋根には、煙突が3本あったようで、それが描かれています。
 メーヤー館の手前には、一吉元結工場の干し場が描かれています。元結い工場、時代を感じます。
そこには、元結工場の麦わら帽子をかぶった職人たちも描かれています。何をどのように、天日干ししているのでしょう。気になりますがわかりません。
 ニワトリが何羽かいます。卵をとっていたのでしょう。
 教会との敷地境界にある板塀沿いには、花が咲く生垣の低木群が描かれています。
 さらに、物置きのようなものも描かれています。
中村彝『風景』(1919~1920年)。
 こうしてみると、当時の生活が偲ばれ、気持ちがジンとします。
 今はそうした風景は見られません。大正、昭和の落合風景です。

わが家の関山(カンザン)

関山と空
 わが家の関山(カンザン)がもう満開になりました。今年の桜の速さ。
 「花は大輪、八重咲きで濃紅色。開花期は4月下旬」こういった説明がされますが、今年の開花は4月上旬になってしまいました。
関山 アップ
 婚式などのお祝いの席に付き物の「桜茶」つまり桜の塩漬け「桜漬け」はこのカンザンが原料として多く用いられます。家でも昨年は作りました。お花が7分咲き位の時に収穫し塩漬けにするのですが、今年はアッというまに咲いてしまいましたので作りませんでした。
 関山 花びら裏

春の花 スミレ・タンポポ

 わが家の前の道のスミレ
春の花と言えば、スミレ、タンポポ、レンゲでした。レンゲ畑で、レンゲは昔ふんだんに見られたのですが、東京にいると見られません。スミレとタンポポは、見ることができます。
 中でもタンポポは、自動車の走る道ばたで目にすることがあります。
 でも今街で見るタンポポは、ほとんどがセイヨウタンポポです。
 日本のタンポポは、ほとんど見ることができなくなっています。
シロバナタンポポ
 それが、先日、新宿中央公園を歩いていると、シロバナタンポポが目に入りました。
 シロバナタンポポは、本来、関東地方以西に分布するタンポポです。東京にあっても良いのですが、珍しいなと思いました。
 日本には約20種類のタンポポはあると言われます。関東では、せいぜいこのシロバナタンポポとセイヨウタンポポに、カントウタンポポが咲いています。どこかで見つけたいのですが、なかなか見つかりません。
セイヨウタンポポ
 日本のタンポポとセイヨウタンポポとの見分け方としては、花の下にある総苞片(そうほうへん)が反り返っているのがセイヨウタンポポで、反り返っていないのが在来種ということで見分けます。
 気にして探しても、ほとんどがセイヨウタンポポ。セイヨウタンポポは強いです。

目黒の庚申塔

 目黒には庚申塔がたくさんあります。
 庚申塔は、庚申塚ともいい、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことです。
 庚申講を3年18回続けた記念に建立されることが多いと言われています。庚申の年に建てられたものが多いので、確たる決まりは無かったのでは、と思います。
 庚申講(庚申待ち)とは、60日ごとに一巡ずる十干十二支の庚申(かのえさる)の日に、人間の体内にいるという三尸(さんし)の虫という虫が、天帝にその人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、庚申の日に徹夜して過ごすのです。
 道教の教えでは、人間の体内には3つの霊が宿っているとされます。それは、魂(コン)、魄(ハク)、三尸(さんし)の3つです。
 人が死ぬと、魂(コン)は天に昇り、魄(ハク)は地下に入ります。
 三尸は自由に動き回ることができます。
 庚申の日の夜、眠りに入った人の体を抜け出して、天に昇り、天帝にその人の日頃の行状を報告します。その報告によっては寿命を短くされます。翌朝目を覚ます前には元の体に戻って来ます。
 天帝にあることないこと告げられ寿命が縮まってしまっては大変です。それで、庚申の日には徹夜をして、三尸が体内から出られないようにしました。
 しだいに、お米や野菜、あるいはお金を持ち寄り、皆で飲食・歓談して過ごす楽しい集まりになって行きました。またさまざまな情報を交換し、農作業の知識や技術を研究する場にもなったようです。江戸時代には全国の農村などで大流行しました。
目黒 大円寺の庚申塔
 目黒、行人坂の途中にある大円寺の山門のそばには、庚申塔が3基並んでいます。
目黒大円寺の三猿の庚申塔 
 ここの庚申塔は「見ざる 聞かざる 言わざる」の三猿です。一般に庚申塔に刻まれた猿の性別は、はっきりしないのですが、大円寺の寛文7年塔の三猿は、向って右から牡・牝・牡の順に並んでいます。
目黒 田道の庚申塔
 目黒川田道橋の近くには、素朴な、「庚申塔」と刻まれた、ひいらぎ庚申(田道橋庚申塔)があります。
 その近く田道町内会館のそばには、お地蔵さんとりっぱな6基の庚申塔が並んでいます。
 庚申塔の形には色々ありますが、ここの庚申塔は、一般的な形式です。
 病魔・病鬼を払い除くといわれる青面(しょうめん)金剛像正面が彫ってあります。そのなかには、青面金剛像が邪鬼を踏みつぶしている像もあります。上部には月と日(太陽)が彫られ、下の方には、謹慎の態度を表すという三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)と、ニワトリが台座に彫ってあります。
一般的な庚申塔の形
 道祖神との関連もあり、庚申塔は非常に興味深いです。

目黒行人坂に伝わる「お七と吉三」のその後の物語

 3月末日、目黒川周辺を歩きました。寒日曜日でした。お花見の人は、例年より少ないようです。
 目黒駅を出て、行人坂を下ると途中に大円寺があります。
 ここには、八百屋お七が慕った吉三(あるいは吉三郎)の伝説が残っています。その伝説は、実は大円寺の隣にあった明王院に伝わったのですが廃寺となったため、大円寺に移されました。
 吉三はお七が鈴ヶ森で処刑された後、西運(さいうん)という僧になり全国を行脚し、明王院に入りました。そしてお七の菩提を弔う念仏堂を建立するため、明王院から浅草観音までの往復十里(約40km)を夜から明け方にかけて鉦(しょう)を叩き念仏を唱え日参する一万日の行をしました。そして、27年5ヶ月かけて成し遂げ念願の念仏堂を建立しました。また、そのとき、お七が夢枕に立ち成仏したことを告げたので「お七地蔵尊」も作ったと伝わり、その像が大円寺にあるそうです。
目黒大円寺 西運の像石碑
 大円寺には、西運に深い関心を持っていた大円寺の住職、福田実衍(じつえん)師は、昭和18年、同寺に念仏堂を再建した際、万葉集出画撰を描いた大亦観風画伯に「お七吉三縁起絵巻」を描いてもらいました。
その一部、木枯らしが吹きすさぶなかを、鉦をたたき、念仏を唱えながら、日参する西運の姿を刻んだ碑が境内に立っています。
 明王院は明治初めごろ廃寺になりましたが、その明王院があった雅叙園の入口には、お七の井戸が残されています。この井戸は、西運が念仏行に出かける前に、お七の菩提を念じつつ水垢離(みずこり)をとったと伝えられる井戸です。
目黒 雅叙園のお七の井戸
 さらに行くと目黒川に着きます。そこにはかつて太鼓橋が掛かっていました。 
この太鼓橋は。西運が念仏行の途中に多くの人々から浄財を寄進され、これを基金にして、行人坂に敷石の道を作ったり、目黒川に石の太鼓橋を架けるなど社会事業を行ったのだと伝えられます。
 行人坂、大円寺に入る前の道脇に、目黒区分化財になっている、目黒川架橋供養勢至菩薩石像がありますが、その台座、像両側面に、西運が、宝永元年(1704)に、目黒川に橋を架けたことが記されています。
目黒川架橋供養勢至菩薩石像
 こうした、お七と吉三(西運)の伝説、真偽のほどは分かりませんが、こうして物があると、夢を誘います。
目黒 元太鼓橋
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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