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聖徳記念絵画館

 明治神宮外苑へ、聖徳記念絵画館の壁画を見に行きました。
 聖徳記念絵画館、明治天皇と昭憲皇太后のすぐれた知徳、つまり「御聖徳」を後世に伝える壁画を展示するために建てられた建物です。この豪華な建物が美術館なのです。
 壁画と言われますが、明治天皇・昭憲皇太后の御在世中の御事蹟を伝える壁画(縦3m横2.5~2.7m)が、明治天皇の誕生から、年代順に展示されていて、絵本、あるいは絵巻物のように時代を追って見ることができます。勉強になります。
 小さいですが、ネットでも明治神宮外苑聖徳記念絵画館「壁画集」として載っています。実物を観て、このネットでみると良いですね。(2点お借りします)
聖徳記念絵画館 壁画「岩倉邸行幸」
「岩倉邸行幸」
1883年(明治16年)7月19日、明治天皇は右大臣岩倉具視邸に臨み親しくその病床を見舞います。その翌日に亡くなったということです。あの岩倉具視の最期、感慨深かったです。
「江戸開城談判
「江戸開城談判」
これは有名な場面です。歴史の本で何度も見た気がします。
1868年(慶應4年)3月9日、まず、山岡鉄舟が駿府城の西郷隆盛を訪れます。西郷は予定を変更して駿府を発足、3月12日江戸高輪の薩摩屋敷に入りました。そして、その翌日のお午頃、勝海舟自ら高輪の藩邸に出向いて西郷に会見します。そして、江戸城無血明渡しの協約が成立します。
 さて、明治神宮外苑の桜、枝垂れ桜が多いです。そして、ここでもハナモモ源平に出会いました。
外苑 枝垂れ桜
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早足で来たサクラ。新宿中央公園と新宿御苑

早いサクラです。新宿中央公園(3月21日)と新宿御苑(3月22日)の春を記録として載せておきます。
新宿中央公園の都庁がすけて見えるソメイヨシノ
新宿中央公園の桜
同じく新宿中央公園、3.11の震災以降、登れなかった六角堂、やっと修理ができました。
新宿中央公園 六角堂とサクラ
新宿御苑は玉藻池のサクラです。タカトオコヒガンサクラを見に行ったのですが、かなり散っていました。
新宿御苑 玉藻池
いろいろな色で春満開の新宿御苑でした。
新宿御苑 色々な春

ハナモモ 源平

新宿御苑 満開の桜
今年の桜は駆け足でやって来ました。
梅やハナモモには、一本の木に白、ピンク、赤など複数の色の花が咲くことがあります。ハナモモ源平は、江戸時代からあるモモの品種で、環境やその年の気候によって、白が咲かなかったり、赤が咲かなかったり、ピンクになったり、まるで、競うように3色咲いたりします。つまり、源平の合戦のごとく、競うように3色咲くことから、ハナモモ源平になりました。
ハナモモ 源平
ハナモモ源平 花アップ
今年は12日も早い、桜が満開の新宿御苑で、桜に勝る人気があるのが、ハナモモ源平です
そして、今日、千住大橋の荒川区側にある、素盞雄神社(すさのおじんじゃ)に寄ってみたら、ここには、ハナモモがたくさん咲いていて、源平もありました。
素盞雄神社のハナモモ源平
素盞雄神社では、4月はじめに疫神祭が開かれますが、そのお祭りに、境内にたくさんのハナモモが咲いているようです。桃は、邪気を祓う霊木とされているのです。
それと、たくさんもお雛様が飾られていました。
素盞雄神社に飾られたお雛様

サントリー天然水白州工場

 サントリー天然水白州工場に行きました。
サントリー天然水白州工場の碑
 甲斐駒ケ岳の麓に広がる25万坪もの広大な敷地は樹木におおわれています。多くの野鳥がいるとのことで「上をよく見て歩いてみてください」と言われたのですが、残念ながら鳥には出会えませんでした。巣箱がいっぱいありました。
 工場は2010年の春に工場を建替えたばかりだそうです。
サントリー天然水白州工場
 敷地が広いので、建物が小さく見えますが、ここでは、製造からボトリング、そして出荷する製品の倉庫まで、そなえているので大きいのです。
 説明で何度も言われたのは、「森とともにある工場なので、環境面に配慮しています」。
 工場の屋根にはソーラーパネルを設置して、工場の使用電力の約20%をまかなっているとのことでした。見学の移動に乗ったバスも電気バスでした。
 サントリー天然水白州工場の水は甲斐駒ヶ岳などの南アルプスからの水が20年にわたって地下で濾過された水です。花崗岩層に磨かれ、硬度30の軟水です。それを、工場の敷地内9カ所に設置された井戸からくみ上げています。
そいて、この天然水工場で行われる行程は、まず、原水検査、濾過、殺菌 、ペットボトル作り、ボトリング、包装、検査、出荷 になります。
 ペットボトル作りは詳しく説明されました。
 ペットボトルを工場で作るのは、使う直前にペットボトルを工場内部で作れば、異物混入の可能性を少なくすることができ、そのほうが衛生的です。ペットボトルは水が飛び出さない程度にできるだけ薄く、そして細かくつぶせるように作られています。ペットボトルのたたみ方も教わりました。
 ただ、少し感じたのは、私たちは工場見学に行ったのですが、多くは写真や映像での説明です。それは非常の高度に組み立てられて、素晴らしいのですが、もっと作業現場をじかに見たいと思いました。
工場見学ができたのは、ガラス越しにクリーンルームの中の製造ラインを見るところだけでした。残念ながら、その様子は写真を撮ってはいけないとのことでした。
 見学後には、ウイスキーと天然水の試飲をさせてもらいました。見学ツアー所要時間は1時間でした。
南アルプスを望む自然の中で

「北杜サイト太陽光発電所」

 山梨県北杜市にある太陽光発電所と、南アルプスの豊かな自然を満喫できる、森に囲まれた天然水白州工場「サントリー天然水(南アルプス)」を訪問しました。
「北杜サイト太陽光発電所」と八ケ岳
 まずは、北杜市のメガソーラー。
 北杜市は、人口約5万人で、雨が少なく、日照時間日本一という土地柄を生かし、大規模な電力供給用太陽光発電の系統安定化などの実証実験を行っています
(独)新エネルギー・産業技術総合開発機構の委託事業として2006年から5か年の実証研究を行い、2011年に実証研究を行い、その後、北杜市営「北杜サイト太陽光発電所」として、2011年4月から今の形で、スタートしたものです。
「北杜サイト太陽光発電所」
 この北杜サイトでは、国内外の9カ国から27種類の太陽電池を導入しています。一つのサイトでこれだけの種類がそろっているのは、世界でもここだけだそうです。
 原発事故以降、自然エネルギーへの関心が大きく高まったのに、最近は、やはり原発がなければ、という声が現実論として堂々と聞かれるようなりました。
北杜サイトに来ても、これだけ大きくても原発1基分にははるかに及びませんと言われると、ちょっと困ってしましました。もっと太陽光発電の意義を高めてもらいたいと思ったのですが、北杜市は、市立明野中学校への太陽光発電システム(発電電力20kw)の導入とか、環境教育とか、住宅用太陽光発電システム設置費補助事業など、太陽光発電への理解と普及につとめておられます。
 まだ雪をかぶった八ケ岳山麓のメガソーラー、なかなか見事な景色です。

中村彝のアトリエの再現  屋根

 中村彝のアトリエの再現は、中村彝がアトリエとして使用していた時代の部材の中で、そのまま活用できるものはできるだけ活かしながら、初期型アトリエを再建していくというコンセプトで進められました。
 アトリエだけでなく、外観から言えば屋根の瓦も、戦前に焼かれたフランス瓦なので、一枚ずつ調べ、ひびが入ったもの以外はそのまま使ったとのことです。それはほぼ表側で、裏側の面の屋根瓦は、幸いにも同じ瓦を使っていた人が保存していた瓦があって、その瓦を使って、復元されています。今では、当時の瓦は作れないのだそうです。
中村彝アトリエ 屋根
 そして屋根をよく見ると 鴟尾(しび)のようなものがあります。
中村彝のアトリエのフィニアル
 フィニアル(飾り立物)というのだそうです。
 そして今回復元された屋根に使われたフィニアルは、元のものとはいくらかデザインが異なっているのだそうですが、よく似たフィニアルを探してきたと言われました。このように復元には、いろいろご苦労があったようです。
 それにしてもこのフィニアルは何を形どったのでしょうか。 鴟尾(しび)は、魚の尾をかたどったものといわれ、防火のまじないとしていました。
 中村彝の屋根のフィニアルも防火のおまじないだったのでしょうか。先が丸くまとめられ、波頭のような形です。波で火を消すとか、気になる屋根です。
中村彝『落合のアトリエ』(部分)。
 おそらく、中村彝が描いた『落合のアトリエ』も研究対象になったと思います。絵の中にフィニアルも描かれています。オレンジがかった赤色系です。壁面も同じような色で描かれていますが、復元建物では少し黒っぽい、焦げ茶色に塗られていました。

新宿区立中村彝アトリエ記念館が公開されました。

 3月17日(日)、新宿区立中村彝アトリエ記念館が公開されました。
 中村彝は、水戸の出身で、明治末から大正期に活躍した洋画家です。
 一時、新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻の好意で中村屋裏のアトリエにいましたが、大正5年(1916)、新宿区下落合にアトリエを新築し、そこに住まいました。
 この下落合に残る彝のアトリエを新宿区が当時の部材も一部再利用して建築当初の姿に復元して、「新宿区立中村彝アトリエ記念館」として開館したのです。
 庭には彝が眺めたアオギリやツバキなどを植え、アトリエ内部には、彝が使用したイーゼルや家具のレプリカを展示し、パネルや高解像度の写真と映像で、彝の生涯や主な作品を紹介しています。
中村彝アトリエ記念館外観
 このアトリエが「中村彝アトリエ記念館」になるまでには、多くの時間がかかっています。中村彝は大正13年(1924)に37歳で亡くなっていますが、その後、この家は、画家の鈴木誠氏が住んでいたため、アトリエはそのまま残っていたわけです。
 1970年代から何度か、地元の方とかが保存を求めて新宿区へ働きかけてこられましたが、
いろいろな理由で実現されませんだでした。
 当初の話として、本当かどうかはわかりませんが、担当者が洋画家・中村彝の名前さえ知らなかった、と言われます。実際、中村彝をどれだけの人が知っているか、特に名前の彝(つね)は読めないし、書けません。
中村彝 エロシェンコ氏の像
 しかし『エロシェンコ氏の像』という作品の写真を見ると、どこかで見たと思うと思います。そして、新宿中村屋のいわゆる後に言われる中村屋サロンの中心的人物で、相馬愛蔵・黒光夫妻の長女俊子と恋心、結核に病んで若くして亡くなったことなど、注目してくると忘れられない人物になってきます。私もその1人です。
 そうなると、そのアトリエは必見になってきます。
 実は、アトリエは、中村彝が生まれた水戸の茨城県近代美術館に再現されています。そこも見学して、このブログに書きました。
 水戸に作る時、下落合のアトリエの移設も検討されたようですが、途中で立ち消えになりました。それは、地元の方たちが、新宿に中村彝たちが集った新宿中村屋が残るのと同様に、下落合の地で保存してこそ中村彝アトリエの意味があるとの、主張があったということです。(下の写真は水戸のアトリエの裏側です)
水戸 中村彝アトリエ裏
 茨城県近代美術館に再現されたアトリエは中村彝が亡くなった大正13(1924)現在の姿を表現しています。そして、それとの差別化をはかるため下落合のアトリエは「最初期(大正5 年)を極力復元する」というコンセプトで復元されました。
 その他、「整備にあたり大切にしたいこと」として4つあげられていました。
1. 代表作を描いた最初期(大正5年)のアトリエを復元する
2. 回遊性を持たせ、彝が眺めたアトリエ・庭が伝わる整備とする
3. アトリエ以外に展示室を設ける
4. 残ってる部材を活用し、画家の匂いが感じられる整備とする
 そして、中村彝のアトリエは「新宿区立中村彝アトリエ記念館」として復元、公開されました。

「白隠展」

 これもすでに終わった展覧会ですが、Bunkamuraザ・ミュージアムで開催されていた「白隠展」にも行きました。
 白隠は、白隠慧鶴(はくいんえかく)(1685~1768)と言い、江戸中期の禅僧です。
 富士山のふもと、駿河国原宿(現在の静岡県沼津市)に生まれ、地元の松蔭(しょういん)寺で生涯にわたり住職を務めました。
 人に禅の教えを説くために絵を描き、与えていたと言います。その数は1万を超えると言いますから、すごいです。
 「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」という歌が地元に伝わっているとのことで、富士山とともに広く愛されていたということです。
 白隠の禅画はほとんどが絵と言葉がセットになっています。
 たとえば「すたすた坊主」という絵。
白隠 「すたすた坊主」
 口上を述べて物ごいをしながら商人の代わりに寺社に代参(だいさん)する僧の図です。裸同然の姿で、右手に笹、左手におけを持ち、両足を広げたひょうきんな格好をしています。賛には「来た来た、又きたきた…」と書かれています。
 白隠は、芸術作品として描いたわけではありません。楽しんで好き勝手に描いていて、それを人に与えていました。
白隠 「南無地獄大菩薩」
 この書を見ても、太い筆致でどっしりとしている字が、漢字を書き進むうちに徐々にスペースがなくなり最後は小さく窮屈に記されています。
白隠 「半身達磨(朱達磨)」
 白隠はたくさんの達磨像を描いています。若い頃から晩年まで数百点も描いた達磨像ですが、描いた時期によってその作風はまるで違います。この達磨像は、背景の黒、衣の赤、大きな白い目と色彩のコントラストが見事です。賛には「直指人心 見性成佛」とあります。これは「自分の心をまっすぐに見つめ、元々持っている自分の仏性(既に仏であること)に気付きなさい。」という意味があるそうです。白隠83歳ころの作品です。
 とにかくまずユーモラスで、迫力があり力強く、たくさんの元気がもらえました。
 写真を買って帰ってのは、これです。
白隠 「百寿福禄寿」
 福禄寿と百の寿の字です。

特別展「書聖 王羲之」

 3日に終了してしましましたが、東京国立博物館で開催されていた、日中国交正常化40周年記念、特別展「書聖 王羲之」を見ました。
 昔、短期間でしたが、書道に凝っていた時期があり、臨書のテキストとして、『集字聖教序』を買ったりしました。
 ただその時は、書を見ることはしましたが、その生涯など詳しくは知りませんでしたが、王羲之の書を見たいと思って行きました。
 4世紀の中国・東晋時代に活躍した王羲之、「書聖」と言われますが、その真跡、本人が書いたものは残っていないというのが、驚きです。
 王羲之の地位を書聖にまで押し上げたのは、唐の太宗皇帝です。太宗は王羲之の書を崇拝し、全国に散在する王羲之の書を収集し、宮中に秘蔵するとともに、精巧な模本(写し)を作らせ臣下に下賜して、王羲之を賞揚しました。
 そして、王羲之の最高傑作である蘭亭序は、太宗皇帝が眠る昭陵に副葬され、後世の人は、見ることが出来なくなってしまったのです。
蘭亭図巻(万暦本)(部分)
 蘭亭序とは、蘭亭というところで曲水の宴をひらいた王羲之が、その時の詩集の巻物に書いた序文です。
 この展覧会でも、展示第二章で「さまざまな蘭亭序」として展示され、最も見応えがありました。
 永和9年(353)3月、王羲之は会稽山陰(かいけいさんいん)の蘭亭に41人の名士を招き、詩会を催しました。蘭亭の雅宴です。
 王羲之を含め42人が曲水の畔に陣取り、上流から觴(さかずき)が流れ着くとその酒を飲み、詩を賦(ふ)します。
 詩が出来上がらなければ、罰として大きな觴の酒を飲まなければなりませんでした。
 この「曲水の宴」は日本でも催され、各地にその遺跡が残っています。
 また、資料の大半が手紙というのも興味深いです。
 展示に訳がでていましたが、その内容は、個人的な感慨で、グッと身近です。
 例えば、草書の臨書をするとき用いられる法帖に「十七帖」があります。
十七帖
 これには、王羲之が晩年に書いた29通の手紙が収められています。
 、「十七帖」という名は「十七日先書す(十七日に先の手紙を出しました)」という書き出しに始まることに由来しています。そして、そこには、友人や親類に宛て、漢方薬の効能、贈り物のお礼など日常の出来事が書かれているのです。
 大勢の人で、前に行ってじっくり見ることができない箇所もありましたが、久しぶり、すばらしい書を堪能しました。

エル・グレコ展

 51点のグレコ作品を海外の10の国や地域から集めて上野、東京都美術館で開催されている、話題のエル・グレコ(1541年~1614年)の大回顧展に行ってきました。
私のエル・グレコ体験は、倉敷の大原美術館です。喫茶店の名前もあってか、エル・グレコとその作品は覚えています。大原美術館の作品はこの「受胎告知」です。
エルグレコ 受胎告知 大原美術館
 そういうこともあって、今回のエル・グレコ展は、ぜひ見たいと思っていました。
 エル・グレコという名前は、古いスペイン語で「ギリシア人」を意味しているのだということは、今回初めて知りました。驚きでした。エル・グレコ(1541-1614)は、ギリシアのクレタ島の出身で、本名は、ドメニコス・テオトコプーロスでした。
 それともうひとつ驚いたのは、エル・グレコが活躍した年代のこと。もっと近い年代の人だと思っていました。とても16世紀だとは思えません。日本で言えば、戦国時代から江戸時代の始まりころです。
 エル・グレコはヴェネツィアやローマで修行を積んだ後、スペインに移り活躍しました。だからスペインの作家というイメージがあります。
ほとんどが宗教画なので、そこに何が描かれているのかは、ある程度の知識がないとわからないのですが、「受胎告知」とか「マグダラのマリア」とか「聖衣剥奪」とかは、なんとなく分かるつもりで鑑賞しました。
エルグレコ ろうそくに火を灯す
会場の始めの方にかざってある「ろうそくに火を灯す少年」(1575年頃)は解説に印象派の画家たちに多大な影響を与えたと書かれていましたが、光に照らされたその表情はまさに生きています。
エルグレコ  聖衣剥奪
「聖衣剥奪」はそのエピソードとともに印象に残ります。
 エル・グレコ37歳の時に大聖堂からの発注で、新約聖書からキリストが十字架かけられる直前の衣服を剥がれる姿を主題に制作したものです。
完成後、キリストの頭より群衆の位置が高く描かれていること、それはキリストに対する冒涜ということ、それにマリアが3人揃って登場していることで、大聖堂からは、絵の報酬を払えないと通達を受け、裁判で争いました。
 結局、大聖堂側から異端審問をかけると持ち出され、エル・グレコは妥協し、調停案として本来エル・グレコが提示していた額の約1/3でおさまったようです。それも、かなりの高額だったようですが。
 3人のマリアは左から小ヤコブの母、聖母、マグダラのマリアと言われています。
 奇跡的な展覧会とだれかが書いていましたが、世界各国から、これだけの作品を集めての展覧会、まさに奇蹟だと思いました。

南蔵院の弁財天石像

面影橋の近くに南蔵院(なんぞういん)というお寺があります。
室町時代の創建です。真言宗。
三遊亭円朝が南蔵院旧本堂天井の龍の絵を見て創作した講談「怪談乳房榎」のゆかりの地ということでも有名です。
この「怪談乳房榎」、ちょうど、中村勘九郎、七之助の兄弟が、東京・赤坂ACTシアターの「赤坂大歌舞伎」でやっています。新聞の出ていて見たいと思ったのですが、ほとんどの日程が満員でした。勘三郎が生前何度も上演したようですね。いつか新歌舞伎座で演じられたらぜひいきたいと思います。
「死んだ絵師が、幽霊となって龍の絵の目を入れ完成させた」という言い伝えがありますが、現在、龍の絵は残ってないようです。
この南蔵院の境内には、この近くで死に絶えた上野彰義隊の隊士9人の首を埋めて葬られた首塚や、庚申塔、六地蔵などの石造物があります。奥の墓地には、相撲年寄である片男波、粂川、雷、音羽山,二子山、花籠などの墓があるとのことです。
今回見たいと思ったのは、「山吹の里弁財天」です。案内に元禄9(1696)年に神保長賢により寄進されたという説明があります。古いものです。
それで境内、探したのですが分かりません。子どもをつれたお地蔵さんのような像がそれだという資料もありましたが、納得できません。それでさらに探すと、1つありました。
この石像、8本の手を持った八臂像で、頭上に宇賀神を載せ鳥居を冠しています。鳥居がしっかり鳥居です。これは確かに弁財天です。
正月から、弁財天を追っています。ここの石像弁財天はとても良い弁財天です。正面はやさしいですが、上からは少し恐いです。
弁財天石像 全身
弁財天石像 上から
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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