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芝の増上寺のすごい樹木

 芝の増上寺へ行って樹木を見ました。
 銀世界の梅芝公園の梅屋敷(梅祭りの日)
 まずは、西新宿三丁目の新宿パークタワーの所にあった、「銀世界」と呼ばれる梅屋敷の梅です。
 「銀世界」は江戸時代から梅の名所でしたが、明治44年ガスタンク建設のため、芝公園に移されました。今、ちょうど盛りです。
 芝東照宮の境内にある大イチョウ(港区の天然記念物)
芝東照宮の境内にある大イチョウ
 寛永16年(1639)芝東照宮再建のとき、三代将軍家光が植えたと言われます。
 高さ約25.5m、目通り幹の周囲6.45m、根もとの周囲約9.5m。
 樹齢374年です。見事なイチョウでした。
 昭和20年(1945)の戦災で増上寺の社殿は全焼してしまいましたが、このイチョウは残ったのです。当然火の粉もかぶったと思われますが、それに耐え今もその勇姿を見せています。
 増上寺のカヤ(港区の天然記念物)
増上寺のカヤ
 もっとすごいのが、増上寺南東端の慈雲閣の裏手にあるカヤの木です。
 目通り(地上1.5mの高さ)の直径約1.3m、周囲約4m、樹高約25mの独立樹で、推定樹齢600年を超える雄株です。
 なんですか、増上寺建立時の記録をはじめ、現在まで記載された文書がないので、増上寺が建てられるその前からこの地に自生していたと考えられるのだそうです。ですから樹齢は実に600年以上。
 自然木ということは特に貴重です。 ちなみに、増上寺は、もとは江戸貝塚(千代田区紀尾井町;平河町から麹町にかけて)に真言宗の寺院としてつくられていて、当時は光明寺と呼ばれていた。
 明徳4年(1393)浄土宗に改宗。以降、戦国から室町にかけて浄土宗の東国のかなめとして機能しました。
 江戸にはいり、徳川家康の庇護を受け、徳川家の菩提寺となり、慶長3年(1598)には、現在の芝の地に移転してきました。
 カヤは増上寺の歴史をすべて見てきたということです。
 グラント松(ヒマヤラスギ) 増上寺三門前の グラント松
明治12年(1879年)、アメリカ合衆国第18代大統領グラント将軍が訪日の際、参拝記念に植樹されたものです。松が正しいようです。
 ブッシュ槇(コウヤマキ)
増上寺のブッシュ槇
米国第41代ブッシュ大統領が副大統領として昭和57年(1982)4月24日来日の際、増上寺に参詣し、記念としてこの樹(コウヤマキ)を手植しました。
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山吹伝説 「紅皿欠皿」

 新宿6丁目に西向天神がありますが、並びにある元この別当寺の大聖院の一角に、紅皿の墓と呼ばれる中世の板碑があります。その板碑の前には、十二代守田勘弥の銘のある石燈篭などがあります。
紅皿の碑(墓)
 この「紅皿」は、有名な太田道灌に山吹を差し出した伝説の娘だと言われます。
 傍らにある新宿区教育委員会の解説プレートによると、この中世の十三仏板碑と推定されている板碑ですが、それが紅皿の墓とされたのは、江戸時代も中期以降のことで、「新編武蔵風土記稿」に「紅皿欠皿塚 塚は崩れて断碑のみあり、文字湮滅(いんめつ)して読得ず、世俗に語伝ふる紅皿欠皿の旧蹟なりと云」と書かれています。
 紅皿、欠皿というのは、姉妹です。その姉妹、器量、気立ての良い継子と、そうでない実子で、継子いじめと高貴な求婚者の出現といった、シンデレラとも通ずる類型的な物語があり、これに山吹伝承が絡んで歌舞伎の演目ともなりました。
 まず、山吹伝説というのは、太田道灌の逸話としてよく知られた話です。
 太田道灌が鷹狩りに出て、鷹が逃げたので山吹の里まで追ってくると、雨が降ってきました。そこで、ある家で、蓑を借りたいというと、出てきた若い娘は、物も云わず山吹の花を折って差し出しました。道灌は「花を求めたのではない」と帰ってしまいます。後で家臣の聞くと、それは、『七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞあやしき』という古歌に、簔がないということを託したのだと言います。驚いた道灌はこれを機に歌の道に精進することになります。
 最近は、ほとんど聞かれませんが、落語に『道灌』などあって、その落語でも多くの人の記憶に残りました。
 そして、この後、道灌は、その山吹の花を差し出した娘を城に側室として呼び入れ、和歌を学び合いました。
 これが山吹伝説です。
 これに、話を差し出した娘の話が入ります。
 その娘は、京家の武士で、戦乱の京から豊島の郡高田村に移り来ていました。この武士は、妻に先立たれ、1人の娘がありました。 やがて、後妻をむかえ、一女をもうけます。大きくなるにつけ、姉は性格もよく、美しく、ことに歌を好んでいました。妹は容姿よくなく意地も悪い娘でした。
 近辺の者が、その善悪を皿に譬へて、姉を紅皿、妹を欠皿とあだなしました。
 母はこれを聞いて、姉を憎み、いじめました。
 それでも、姉は、気持やさしく育ち、太田道灌と出会います。
 このように、紅皿欠皿というのは、器量、気立ての良い継子と、そうでない実子、継子いじめと高貴な求婚者の出現といった、シンデレラ物語とも通ずる類型的な物語です。
 これをもとに、歌舞伎の演目が生まれています。
 守田勘弥の燈篭があるのも、その歌舞伎の縁によるものです。
 この伝説に出て来る古歌は、後醍醐天皇の皇子兼明親王かねあきらしんのうの歌で
    なヽへ八重 花は咲けども 山咲の        
         みのひとつだに なきぞあやしき (後拾遺 1154)
         (江戸時代の流布本などでは「かなしき」になっています)
 これに詞書きがあります。
「小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける日、蓑借る人の侍りければ、山吹の枝を折りて取らせて侍りけり、心も得でまかりすぎて又の日、山吹の心得ざりしよし言ひにおこせて侍りける返りに言ひつかはしける。」
 ここでもう物語の芯はできていて、それに合わせたように道灌の山吹伝説が生まれたように思います。

雑司ヶ谷 鬼子母神

 朝、テレビの「ゆうゆう散歩」をつけたら、雑司ヶ谷の鬼子母神が出ていました。そこで「鬼子母神」の鬼という字には頭の上にある点(角と行っていましたが)ありません、という話をしていました。
 実は昨日、雑司ヶ谷鬼子母神にお参りしました。その時ぜんぜん気がつきませんでした。
雑司ヶ谷 鬼子母神
 鬼子母神の話は有名です。
 鬼子母神のホームページから、鬼子母神の話を引用させてもります。
<その昔、鬼子母神はインドで訶梨帝母(カリテイモ)とよばれ、王舎城(オウシャジョウ)の夜叉神の娘で、嫁して多くの子供を産みました。
しかしその性質は暴虐この上なく、近隣の幼児をとって食べるので、人々から恐れ憎まれました。
 お釈迦様は、その過ちから帝母を救うことを考えられ、その末の子を隠してしまいました。その時の帝母の嘆き悲しむ様は限りなく、お釈迦様は、
 「千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん」と戒めました。
 そこで帝母ははじめて今までの過ちを悟り、お釈迦様に帰依し、その後安産・子育の神となることを誓い、人々に尊崇されるようになったとされています。
 当山の鬼子母神像は、鬼形ではなく、羽衣・櫻洛をつけ、吉祥果を持ち幼児を抱いた菩薩形の美しいお姿をしているので、とくに角(つの)のつかない鬼の字を用い と尊称しております。>
 
 なるほど、ここの鬼子母神の鬼の字には角のないことが書かれています。
雑司ヶ谷 鬼子母神 ザクロの絵馬
 ところで、もうひとつ、気になることがありました。ここは「きしもじん」と発音するのです。
 もともと、下町では、鬼子母神は「きしもじん」と言い、山の手では「きしぼじん」という言い方だったようです。
 私は、「きしぼじん」と言っていたので、雑司ヶ谷でも「きしぼじん」と言っていたのですが、ここでは、「きしもじん」が正解のようです。
 写真に絵馬がたくさん写っていますが、描かれているのは、「吉祥果」と書かれていますが、イチジクです。

もうすぐ春ですね。

 梅のむこうでサザンカが満開です。
 梅の向こうはサザンカ
 
梅ほころびました。
 鉢の梅は咲いています。
鉢の梅は咲きました。
 もうすぐ春ですね。

スイセン(水仙)

スイセン・ペーパーホワイト
 新宿御苑の新宿門の前に、スイセン「ペーパーホワイト」が咲いていました。白くてきれいです。花の札がが「ペーパーホワイト」となっていて、手前の花を写真に撮りましたが、そのスイセンは、真ん中にある副冠といわれる杯状の部分が黄色いので、ニホンスイセン(日本水仙) のようです。ペーパ・ホワイトは、全体が白です。
日本スイセン
 花の札には、ペーパーホワイトは、地中海沿岸地方原産の球根植物という説明がありますが、ニホンスイセン(日本水仙) の祖先は地中海沿岸で、それが中国南部にわたり、日本に来たということなので、地中海沿岸のペーパーホワイトといっしょに植えられていたのかもしれません。
日本スイセン 2

正受院願光寺の針供養

 2月8日は針供養。新宿の正受院願光寺へ行ってきました。
 このお寺の針供養の儀式は、昭和32年に針塚が建立され、従来の針供養法にお練りを加えてから現在のような針供養行事になったものなので、そんなに古いものではないのですが、古式豊かで、華やかで、心のしみる針供養になっています。
正受院 奪衣婆尊
 正受院の門を入ってすぐ右手に奪衣婆尊(子育て老婆尊)があります。この像は小野篁作と伝えられています。 子供の咳封じ、虫封じに霊験があると言われ、幕末当時咳止め祈願のお参りに綿を奉納し、お像に冠綿をかぶせました。そのため、別名「綿のお婆さん」と呼ばれます。幕末、奪衣婆尊の参詣に、多くの人が引きもきらず来て、大変な賑わいをみせたということで、錦絵にも描かれています。
正受院 「甘酒献上」
 針供養は、和裁関係の方が作った甘酒を本堂、針塚にお供えする「甘酒献上」で始まりました。
正受院 「納針の儀」
正受院 「納針の儀」で針を納める所
次に、「納針の儀」では集まってきた古い針を土中に納めます。
正受院 百味香行列と稚児行列
正受院 小さな奪衣婆像
それから稚児行列を先頭に、奪衣婆尊を小さくした像をお厨子にまつり8名の女子に担がれた花見堂行列が出立します。かつては靖国通りからお寺を一周していましたが、現在は、交通事情によるのでしょう、境内で終わります。
 針塚の前で止まり、針塚に供える供物百味香を供え、大法要となります。
正受院 針供養
 境内では、甘酒の接待もあり、模擬店もでていて賑やかです。
正受院 豆腐にさされた針たち
 みなさん、針塚の前にお供えした横約60センチの大きな豆腐に折針や古針をさし労をねぎらいます。そして、ハリネズミのようになった豆腐は夕方、僧侶の手により丁重に針塚に葬られるということです。

「福は内、鬼は内」

2月3日は、節分ということで、四谷の須賀陣社と歌舞伎町の稲荷鬼王神社に行きました。
須賀陣社は豆まきめあてに子どもがいっぱい来ていました。ダンボールや袋を広げて豆を取ろうと意気込んでいる人も多くいました。
須賀神社の豆まき
年輩の人がまいたこともあって、後ろの方には豆が届きませんでした。
稲荷鬼王神社には昨年も行きましたが、式は午後6時からです。昨年は5半を過ぎてから行ったので、儀式が見られませんでした、今年は5時に行って、前の方で見ました。
「鬼王」という名前がついている日本で唯一の神社です。
神社の話では「古来鬼は神であり力の象徴でした。鬼にはすべての災禍を払う力が備わっています」ということで、節分に登場する鬼は、春の神様みなし、「福は内、福は内、福は内、鬼は内」と唱えて福と春の到来を祈願します。
 小学生からお年寄りまで年男の人が社殿の中にはいり、社殿の中で祝詞・お払いがされ
神主さんが外へ出てきて、参拝客にお払い。もう一度入って、その後「鳴弦の儀」。
鬼王神社 「鳴弦の儀」
かがり火を焚いての中で、とても風情がありました。
そして、いよいよ豆まきが始まりました。
鬼王神社 神主さんの豆まき
神殿の中で「福は内、福は内、福は内、鬼は内」。そして、神主さんが1人で「福は内、福は内、福は内、鬼は内」。そして、全員、神殿の外に出て、最年少の年男・年女の小学六年生を前にして、元気一杯豆まきました。
鬼王神社 豆まき
そうした儀式が終わると、順番に「福袋」をくださいました。福袋には、福豆・みかん・インスタントラーメン・エコバックなどが入っていました。
今年も健康な年でありますように。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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