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上井草ゆうゆう散歩 「ちひろ美術館・東京」

 上井草の「ちひろ美術館・東京」へ行きました。切符をいただいて、昨年から行こうと思っていたのですが、TV朝日「若大将 ゆうゆう散歩」を見たら、「まちづくり上井草」の活動が紹介され、「ちひろ美術館・東京」が出てきました。
 これはまちを見ながら、美術館に行こうと思いました。あいにく、連れ合いが、足を痛めてしまい、まちはあまり歩けませんでしたが、楽しい散策になりました。
 ちひろ美術館の今回の企画展の1つは「ちひろスタイル ― くらしのいろどり ― 」。いわさきちひろは、自ら庭でたくさんの草花や樹木を育て、アトリエや食卓に花を飾って楽しんでいて、絵にも子どもといっしょによく出てきます。庭仕事も好きで、くらしのなかにきちんと草花を取り入れて、ちひろの絵そのままのイメージです。
 旅のスケッチが素敵でした。旅に出たら、私もスケッチしなくては、と思いました。
 もうひとつの企画展は「― プラハでつむぐ幻想 ― 出久根育の絵本展」です。出久根育さんは知りませんでしたが、とても幻想的で奥の深い絵で、絵本が欲しくなりました。
 もうひとつの企画展は「子どものための工芸展」。さわれたり、写真が撮れたりして、ここも童心に帰れます。
「ちひろ美術館・東京」子どものための工芸展より
 いつ来てもこの「ちひろ美術館」は心が休まります。カフェがあり、図書館があり、ゆったりとしたソファがります。それに、きちんと授乳室もつくってあって、細やかな心遣いに打たれます。
 帰りは、「ゆうゆう散歩」に出てきた植栽の道を歩きました。木に名前を吊していたお店の前も通りました。「株立」の雑木林っを沿道に植えようという試みがされています。
「株立」というのは、切り取られた株にもう一度何本もの枝が伸びてくることを言うようです。
上井草 株立
 上井草 テレビの出たレストラン
そして、上井草駅前に設置されているガンダムモニュメントもきっちりと見て来ました。 上井草駅にはアニメーション関連会社が集まっているのだそうで、上井草商店街振興組合のよびかけで"アニメのまちかみいぐさ"のシンボルとして、ガンダムモニュメントが設置されたのです。定休日で、閉まったシャッターにもガンダムの絵が描いてありました。 緑とガンダムでのまちつくり、その一環は見ることができました。
上井草 ガンダムモニュメント
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代田橋へ行って、玉川上水を眺めました。

代田橋に行きました。
帰って、いろいろ調べているうちに知ったのですが、「代田」の地名の由来に、伝説の巨人・ダイダラポッチから、との説が出ていました。ダイダラポッチの伝説は日本各地にあり、例えば、富士山を作ったのも彼で、その足跡が浜名湖になったという伝説があるぐらいスケールも大きい巨人伝説です。
ダイダラポッチ足跡は、水の涸れることのない肥沃な窪地となると伝えます。
そのダイダラポッチの伝説がここにあり、ダイタの名前がついたのです。  柳田國男の『ダイダラ坊の足跡』(昭和2年)に次のように出ています。
「ダイタの橋から東南へ五六町、その頃はまだ畠中であつた道路の左手に接して、長さ約百間もあるかと思ふ右片足の跡が一つ、爪先あがりに土深く踏みつけてある、と言つてもよいやうな窪地があった。内側は竹と杉若木の混植で、水が流れると見えて中央が薬研になつて居り、踵のところまで下るとわづかな平地に、小さな堂が建つてその傍に湧き水の池があつた。即ちもう人は忘れたかも知れないが、村の名のダイタは確かにこの足跡に基いたものである。」
そのダイダラポッチが一晩で橋を架けたとの伝承が、足跡といわれる窪地とともに残されていたようです。
代田橋は玉川上水が甲州街道を越えるあたりに架かっていました。『新編武蔵風土記稿』には、「わずかにしてさしたる橋にはあらざれど、甲州海道の内にて旅人ここを目当てとして往来すれば、その名も世に聞こえし橋なり」、とあります。そして代田橋の袂には水番所があったようです。
代田橋 玉川上水
玉川上水が、代田橋駅北、甲州街道の南に街道から離れ、幅2mほどの開渠となって復活しています。流れはすぐに京王線の下をくぐり、ゆずり橋へと進みます。
その流れを見てきました。距離としては150m程度ですが、ちょっとした渓谷の風情を漂わせています。明治風煉瓦造りの護岸もありました。
橋を潜った先には赤煉瓦のアーチ橋。ここは和田堀給水所からの配水管が渡る「玉川上水第一号橋」と呼ばれる橋でしたが、老朽化に伴い掛け替え、その時、橋名を公募して「ゆずり橋」となりましたが、その名前は「譲り合いの精神」から来た、ということです。その橋から玉川上水を眺めました。
代田橋 代田橋駅下を通る玉川上水

金閣寺(鹿苑寺)

 先日の京都旅行で「金閣寺」にも行きました。「金閣寺」初めてでした。写真でよく見るし、あまりに観光の王者という感じで、積極的に見たいという思いがなかったのです。冬の旅で、仁和寺に行くそのバスの途上だったので、寄ってみました。
その金閣寺の話を、BS歴史館でしたいたので見ました。
BSプレミアム 1月24日 BS歴史館 「足利義満 空前の混乱に立ち向かった権力者」
見ていて、足利義満をもっと知らなくてはと思いました。
 和風、日本風と言われる「日本の文化」の始まりは、平安時代ではなく、実は、この義満の室町時代からです。世阿弥、観阿弥で知られる能を初めてとして、生け花、茶の湯、といった芸道。水墨画といった美術。書院造りもここからあたりから始まっています。
 その後ろ楯となったのが、足利義満です。
 それにしては、頼朝や信長や家康ほど知られているとは言えません。金閣寺ももっと知っておくべきだと思いました。
 足利義満は、山名氏など有力守護大名の勢力を押さえ、南北朝の合一をし、幕府権力を確立させた人物です。そして、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させ、室町時代の最盛期を築きました。
 義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。のちに足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった。
 義満は邸宅を北小路室町へ移し、室町第を造営しそこに幕府を移しました。そして夢窓国師の弟子であった春屋妙葩禅師について参禅弁道にはげみ、幕府の隣に相国寺を建てました。この相国寺を中心に五山文学が生まれ文化の中心地としても栄えたのです。(今回の旅行では、ただ通り過ぎただけだった相国寺もそいった意味でもとても大切な寺院だったのです)。
金閣寺 舎利殿
 金閣寺は、義満により創建されました。
 正式名称を鹿苑寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つです。
 舎利殿「金閣」が特に有名なため一般に金閣寺と呼ばれます。
 金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世にあらわしたと言われ、中国との貿易を盛んにし、ひいては、文化の発展に貢献した舞台でもありました。
 舎利殿は、一層に釈迦三尊が安置され、二層目は観音殿、三層に仏舎利がおさめられました。そして、それまで室町殿で行われていた行事などは北山殿で行なわれるようになります。対明貿易をはじめた義満は明の勅使を北山殿に迎えています。
 こうして得た中国のさまざまな文化が集められ、北山文化が築かれたのです。
  義満の死後北山殿は将軍の邸としての資格を失いますが、義満の遺言により禅寺となり、義満の法号である鹿苑院殿より鹿苑寺となります。
 金閣(舎利殿)の2層目、3層目には漆に金箔が押されています。屋根はこけら葺きでその頂には鳳凰が輝いています。
金閣寺 鳳凰
 この金閣は、「貴族」「武士」「寺」それぞれの文化を取り入れた建物になっています。
一層に戸を吊り上げ、光や風を取り込む「しとみ戸」があります。これは貴族の建物で主に使われていたものです。
二層は「引き戸」です。これは扱いやすく場所をとりません。武士の家で使われていました。
三層の丸みを帯びた窓は寺の建物のつくりです。
 これには貴族も武士も僧もすべて私の支配下にあるという意味が含まれていると言われます。
 この金閣寺、昭和25年(1950年)に放火により焼失し、昭和30年(1955)に再建されました。そして平成6年(1994)にユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録されています。
鏡湖池に映る「逆さ金閣」
金閣寺(鹿苑寺)鏡湖池
庭園・鏡湖池
金閣を映す鏡となる鏡湖池の周りに、大小の島々や名石が配されています。室町時代の代表的な池泉回遊式庭園。舟遊びを楽しんでいました。衣笠山を借景としてその風景は美しく、国の特別史跡及び特別名勝にも指定されています。
まったく見事でした。やはりここは観に来たい場所です。外国の人がとても多かったです。
龍門滝(りゅうもんのたき)
金閣寺 龍門滝
2.3mの高さから流れ落ちる龍門滝です。中国の出世を意味する故事「登竜門」にちなんで、滝の下には鯉魚石(りぎょせき)が置かれています。鯉が滝を登っているように見えます。
 義満のお茶の水
金閣寺 義満お茶の水
 <「銀河泉」義満お茶の水>とあります。義満がお茶をたてた水なのでしょうか。茶道もここから生まれてきました。

一条戻橋

 一条戻橋は、延暦13年(794)の平安京ができた時から架橋されています。一条通は平安京の一番北の通りであり、戻橋は洛中と洛外を分ける橋でもありました。そして、それは、この世とあの世との間に架けられた橋という意味もありました。
 「いづくにも 帰るさまのみ 渡ればや 戻り橋とは 人のいふらん」
 平安時代の歌人 和泉式部の和歌にも詠まれています。
「戻橋」という名前の由来については『撰集抄』巻七で、延喜18年(918)12月に漢学者三善清行の葬列がこの橋を通った時、父の死を聞いて大急ぎで帰ってきた、熊野で修行中の子の浄蔵が棺にすがって祈ると、清行が雷鳴とともに一時よみがえり、父子が抱き合ったということです。戻橋という名はその事跡で付いたとされています。
 死んだ人がよみがえったのです。蘇るは「黄泉(あの世)からかえる」ということです。
『今昔物語』」には、安倍晴明の橋占いのことが出ています。
 安倍晴明が、式神を石びつに入れて戻り橋の下にしまっていたというのです。
晴明は式神と呼ばれる使い魔を、 自在に操ることが出来たそうです。
 『源平盛衰記』には、中宮(建礼門院)がお産の時に二位殿(平清盛の妻)が一条戻橋で橋占を問う話しがありますが、その次に「この橋は昔、安倍晴明が天文を極め十二神将を使役していたけど、彼の妻は識神(式神)の顔を怖がったので、晴明は十二神将をこの橋の下に呪し置いて、必要な時には召喚して吉凶の橋占いを尋ね問うと、識神は人の口に移って善悪を示した」と記されています。
 晴明神社の入口には、以前の一条戻橋が実際の部材を使って再現されていますが、そのそばに奇妙な像があります。それが式神だということです。(写真撮り忘れました。晴明神社のHPをみてください)。
『平家物語』剣巻には次のような話がでています。
 摂津源氏の源頼光の四天王だった渡辺綱が夜中に戻橋のたもとを通りかかると、美しい女性が恐ろしいので家まで送ってほしいとたのみます。綱はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思いながらも、それを引き受け馬に乗せました。すると女は鬼に姿を変え、綱の髪をつかんできます。綱は鬼の腕を太刀で切り落としました。鬼は愛宕山の方向へ飛んで行きました。腕は摂津国渡辺の渡辺綱の屋敷に置いていましたが、綱の義母に化けて取り戻しに来たということです。
 なお、戦国時代には細川晴元により三好長慶の家臣和田新五郎がここで鋸挽きにされ、安土桃山時代には豊臣秀吉により島津歳久と先に書いた千利休の首が晒されました。
 そういう恐ろしい話とともに、嫁入り前の女性や縁談に関わる人々は、この橋に近づかないという慣習があるようです。それは「戻橋」という名前からきているのでしょう。嫁が実家に戻って来てはいけないということから、今でも京都の花嫁は嫁入り前には、この戻り橋橋に近づかないのだそうです。
 しかし、逆に太平洋戦争中、応召兵とその家族は無事に戻ってくるよう願ってこの橋に渡りに来ることがあったということです。
戻橋
 現在の橋は平成7年(1995)に架け直されたものです。今は川もなく、ただ戻橋と彫られた橋があるだけで、車も多く通ります。少し恐い伝説のもつ風情は、今のこの橋からは感じられませんが、ここにはぜひ来てみたかったです。

晴明神社 「千利休居士聚楽屋敷趾」

 これは驚きでした。晴明神社あたりに千利休の京の屋敷があったとは。
帰って、晴明神社ホームページの境内案内を見ると次のように書かれていました。
<数年前に、江戸時代の茶書から、当神社の境内に当たる「葭屋町通元誓願寺下ル町」に利休屋敷があったことが確認されたため、利休の遺徳をたたえ茶道 武者小路千家家元が石碑を奉納されました。境内の「晴明井」の水は利休が使ったとされています。正面には、千宗守家元筆の「千利休居士聚楽屋敷趾」の文字が刻まれています>
千宗守家元筆の「千利休居士聚楽屋敷趾」
 利休の最期については、秀吉の勘気にふれて堺の帰っていた利休が京に呼び戻され、切腹を命じられます。切腹をしたのが、京の聚楽第の屋敷ということになっています。
 その日は朝から雷が鳴り天候が荒れていました。利休は使者に最後の茶をたてた後、一呼吸ついて切腹をしました。
 その前に、勘気の元になったとされる大徳寺の利休像は山門から引き摺り下ろされ、一条戻橋のたもとで磔にされていました。利休の首はその磔にされた木像の下にさらされた。と言われます。一条戻橋は、晴明神社のすぐそばです。自分の屋敷の目と鼻の先に首がさらされたことになります。
 ここから表千家、裏千家も家元の屋敷も近いし、そうだとするともっと話題になっていて良いと思うのですが。利休の最期、できれば調べてみたいなと思いました。

京都 晴明神社

 京都の旅行は、興味が後を引きます。安倍晴明を祀る晴明神社にもお参りしました。
晴明神社
 晴明神社は、京都市上京区にある神社です。一条戻橋のたもとにあった晴明の屋敷跡ということになっています。つまり、晴明神社がある場所は、もともとは晴明が住み、御所の鬼門を守っていた場所という説明です。
 しかし、安倍晴明の屋敷は、例えば平安時代後期の『今昔物語』では土御門大路(現在の上長者町通)から北、西洞院大路(現在の西洞院通)から東とありますので、現在の京都ブライトンホテルのある一角の南西部分辺りのようです。
 でも、一条戻橋そばということでこの場所がよいです。
 寛弘2年9月26日(1005年10月31日)晴明が亡くなると、時の一条天皇は晴明の遺業を賛え、晴明は稲荷神の生まれ変わりであるとして、寛弘4年(1007)その屋敷跡に晴明を祀る神社を創建しました。その当時はそうとう広大なものでしたが、応仁の乱はじめ、火災もたびたびあり、長くあれたままになっていました。現在の本殿は、明治38年に建てられたものです
 「晴明井」があります。
晴明神社「晴明井」
 晴明公が念力により湧出させた井戸がこの晴明井です。ここから湧く水は晴明水と呼ばれ、晴明の陰陽道の霊力より、湧き出たといわれ、無病息災のご利益があるといわれています。
 この井戸は五芒星(晴明紋}を描き、その取水口がその星型の頂点の一つにあり、立春には、晴明神社の神職がその晴明井の上部を回転させるのですが、その年の恵方を向くと吉祥の水が得られるということで、恵方に取水口を向けるのが慣わしとなっています。
 また、伝承によれば千利休が茶会において、この井戸から汲んだ水で茶の湯をたてたと言われます。豊臣秀吉が晴明神社の南方に聚楽第を建てた頃にはこの場所が、千利休の屋敷だったということです。さらに利休終焉の地で、このあたりで自害したといわれています。このことはまた書きたいと思います。
「厄除桃」です。
晴明神社「厄除桃」
 桃は、中国古来、また陰陽道においても、魔除、厄除けの果物と言われています。
 昔話の「桃太郎」もこれに由来するもので、鬼退治ができたのも桃から生まれたからだそうです。

大雪の後2日目もまだ雪景色

 1月14日、東京も大雪でした。16日、新宿中央公園と都庁に行きました。残り雪を眺めました。
大雪から2日目、まだ雪はとけない
雪はまだとけていません。
中央公園 椿 雪の時きれいだったろうな
少し雪が乗っていたので椿の写真を撮ったのですが、雪はうまく写っていません。雪が積もった時はきれいだっただろうなと思いました。
都庁32階から見た新宿中央公園
都庁に行って、32階食堂で食事をしました。その後、窓から新宿中央公園を見ました。
もっと向こうを見たのが次の写真です。
都庁から西を見る。中央公園、十二社、中野

新宿山の手七福神めぐり

 今年は、都七福神めぐり前の1月8日(火)に新宿山の手七福神めぐりをしました。
何度か行っているので、今回は、少し欲張って、道筋の新宿の歴史的土地の記憶も見て回りました
 というのも今年は巳年。蛇は蛇行するので、寄り道蛇行こそ今年の歩き方、と決めていたからです。
 太宗寺(布袋和尚)を出発点として、9時半から歩き、めぐり終わると、もう1時になっていました。 歩いたコースは次の通りでした。
 霞関山太宗寺(布袋和尚)→末広亭→花園神社(芸能浅間神社・三光町富士)→稲荷鬼王神社(恵比寿神・西大久保冨士)→西向天神(大久保西向天神富士)→大聖寺(紅皿の墓)→まねき通り商店街→春時山法善寺(寿老人)→大久保山永福寺(福禄寿)→厳嶋神社(弁財天)→大久保の犬御用屋敷→若松地域センター(トイレ休憩)→団子坂→夏目坂通り→法身寺→幸國寺→大乗山経王寺(大黒天)→焼餅坂→宮城道雄記念館→地蔵坂→天文屋敷跡→光照寺→鎮護山善国寺(毘沙門天)そして神楽坂加賀で昼食をして解散。
(太字が七福神です。写真は太宗寺・布袋和尚)
 今回は10名の人を案内して歩きました。(そのため写真が撮れませんでした)。
 蛇行の一番目の目的としてコース上の冨士塚を3箇所めぐりました。新宿には6箇所あるので、半分めぐったことになります。正月に富士山(実際は本物ですが)を拝むと大変縁起がよいとされているのでそれに少しあやかれればと、思いました。
(写真は西向天神の東大久保冨士)
また、高低差のある道が多いので、「坂」の名称を確認しながら歩きました。
 途中、幸國寺には、樹齢500年のイチョウがあります。新宿区の天然記念物に指定されています。境内奥にはそれより少し若いイチョウがあり、こおお寺には、雌雄2本の大木が並んでいます。
 ところが、行ってみると、木の芯が空洞になってきて危機に瀕しているのだそうです。その手当のため枝が大きく切られていました。大変貴重な木といえます。大切にしてほしいと思いました。
 昼食に加賀さんに行きました。1時を過ぎていたので、個室でゆっくりできました。おかげで、正月から神楽坂の料亭気分を味わいました。
 新宿山の手七福神めぐりをして、各お寺、神社で購入できる宝船に人形です。
山の手七福神 宝船
 宝船の絵を1月2日の夜枕の下に敷いて寝ると、良い夢が見られると言われます。
 そして、昔の宝船の絵には、歌が書かれています。
「ながきよのとをのねぶりのみなめざめなみのりふねのおとのよきかな」後ろから読んでも同じ音になる回文歌です。
 初夢に、この歌を3度唱えて寝ると吉夢になると信じられていました。

出町柳 青龍妙音弁財天

 都七福神めぐりの前、京都に来た日ですが、賀茂川と高野川の合流地点の「出町柳」、川のすぐそばにある妙音弁財天にお参りしました。このあたり地名は青竜町です。正式には青龍妙音弁財天です。あるいは「伏見御所の弁財天」といわれています。こちらの名称の理由は後で述べます。
出町柳 妙音弁財天
 「妙音」とは「良い音、妙なる調べ」です。弁財天は「琵琶を弾く女神 」ですから、まさに「音楽の神様または、芸能の神様 」である、ということです。
出町柳 妙音弁財天 六角堂
拝殿の後ろに六角堂が建っているのですが、ここに弘法大師筆と伝える妙音弁財天の画像が祀られています。この画像が御本尊です。
 琵琶演奏の名家とされる西園寺家が鎌倉時代に皇室に持参し、これが北朝の崇光天皇から皇子で伏見宮家の始祖となられる栄仁(よしひと)親王へ伝えられ,伏見殿内に建立されたのが始まりということでした。
 江戸時代になって14代貞建(さだたけ)親王の時,宮家の移転により河原町今出川下る東側に遷座しました。18代貞敬(さだよし)親王によって邸内が一新され,妙音堂も改築され,庶民の参拝も許されるようになりました。
 明治になって一旦東京の宮邸へ移されますが,明治34年,地元の人々の請願により旧宮邸に近い現在の地に鎮座されるところとなりました。
 ここは、相国寺の飛地境内になっています。宗旦稲荷と同じくお寺の境内に神社があることになります。なお、相国寺は伏見宮家の菩提寺です。
 実はこの御堂の裏手の六角堂が本堂です。妙音弁財天ではその六角堂(本堂)を歳の数だけ回りながらおまいりすると、願いがかなうともいわれています。
 また妙音弁財天では拝殿の内側にも外側にも、たくさんの蛇の絵馬が飾られています。
 モダンなものから、古いものまでいろいろです。
出町柳 妙音弁財天 古い絵馬
出町柳 妙音弁財天 蛇の絵馬
 白蛇は弁財天のお使いで、妙音弁財天に飾られたのです。こんなに蛇の絵馬があるのははじめてです。
 今年は巳年で、この妙音弁財天にお参りの人がとても多かったようです。
妙音弁財天は、江の島の琵琶を抱えた全裸体の座像も裸弁財天」ともいわれますが、妙音 弁財天が正式名称です。やはり音楽芸能の上達を願う人々が多く訪れます。

「都七福神」めぐり

 七福神は、恵比寿神(えびすじん)、大黒天(だいこくてん)、毘沙門天(びしゃもんてん)、弁財天(べんざいてん)、福禄寿神(ふくろくじゅじん)、寿老神(じゅろうじん)、布袋尊(ほていそん)という7神で構成されいます。そのうち恵比寿神だけが日本の神様で、大黒天、毘沙門天、弁財天はインドの神様、福禄寿神、老寿神、布袋尊は中国の神様です。
 室町時代、禅と茶道が流行したとき、中国の竹林の七賢人が人気を博し、書院や茶室の床掛けになったりしていました。その七賢人になぞらえて福神を七人にして七福神が誕生したということです。吉兆天、稲荷明神、猩々などが入ったこともあったようですが、江戸時代には、現在のメンバーで固まったようです。
 そして、七福神めぐり、京都が発祥の地で、その中の「都七福神」めぐりが日本で最初のものと言われています。
 その都七福神めぐりを、観光バスでめぐりました。そうでないととても1日ではとても回りきれません。京都駅烏丸口を9時50分に出発し、終了は16時30分でした。とても楽しい一日でした。
めぐった順に簡単に記載します。
●松ヶ崎大黒天 〔京都市左京区松ヶ崎東町31〕
都七福神 松ヶ崎大黒天
 元和2年(1616)に建立されました。松崎山妙円寺が正式な寺名ですが京都の人々からは「松ヶ崎の大黒さん」として親しまれています。本尊の大黒天像は伝教大師の作とも伝えられます。
大黒天は打ち出の小槌を持ち笑みを浮かべる姿から財福の神といわれますが、もともとは軍神でした。けっこう恐い神様です。日本では商売繁盛の守り神とされています。
五山の送り火「妙法」の 「法」の字が点火される松ヶ崎山のふもとにあります
●赤山禅院 〔京都市左京区修学院赤山町〕
都七福神 赤山禅院
この赤山禅院は、先に鬼門の所で少し書きました。
慈覚大師遺言によって、平安時代に創建された天台宗総本山・比叡山延暦寺の塔中です。京都・修学院離宮近くの閑静な地にあり、紅葉の名所ということでした。
本尊の赤山大明神は、陰陽道の祖神とされる中国の神 泰山府君を勧請したもので、前にも記したように、鬼門除けの猿が祀られ京都御所の表鬼門を守護しています。
比叡山の千日回峰行とも関わりが深く「赤山苦行」で知られます。
福禄寿神は、幸福・高禄・長寿の三徳をあたえられるとされ,商売繁盛・延寿・健康・除災を祈願します。
●革堂 行願寺 〔京都市中京区寺町通竹屋町上る〕 
都七福神 革堂
平安初期、行円上人によって開かれました。開基当時、一条通にあったものを「天下大平福寿円満」を祈る大閤秀吉により現所に移築されました.
行円は仏門に入る前は猟師だったのですが、ある時、雌鹿を射たところ、その腹に子供がいたことを知り、殺生の非を悟って仏門に入ったといいます。そして、行円はその鹿の皮を常に身につけていたことから、皮聖、皮聖人などと呼ばれ、寺の名も革堂と呼ばれました。
寿老神は中国の老子が天に昇ってなったという仙人の姿。三千年の長寿を保つ玄鹿を従え、人々の難を払う団扇を持っていることから,福財・子宝・諸病平癒・長寿の功徳ありといわれています。
●東寺 〔京都市南区九条町1〕
都七福神の東寺
平安京造営にあたり国家鎮護のために空海が創建したもので,五重塔は現在するわが国、
最大の木造建築物とされています。
毘沙門天は弘法大師が入唐の際感得されたもので、元々は羅城門の楼上に置かれ、外敵の侵入から平安京を守る役目を果たしていました。嵐による羅城門倒壊の際、助け出されて近くの東寺に置かれていたものだと言われています。
菅原道真もこの毘沙門天に祈願したことから後に文章博士になるなど道が開けたと言われています。無量の智恵で学業成就を、またその理由は聞き忘れましたが、女性には安産の信仰を集めています
毘沙門天は四天王の中では多聞天として表わされ、四天王から独立してからは毘沙門天として表わされることが多くなります。。
都七福神 七福神弁当
▼ここでお昼でした。東寺の洛南会館に入り食事です、特製の七福神弁当をいただきました。お正月のおせち料理の中身と同じ様に、鯛とか数の子や海老、黒豆など福をいただける内容になっていました。
●六波羅蜜寺 〔京都市東山区松原通大和大路東入る2丁目〕 
都七福神 六波羅蜜寺
天暦5年(951)、醍醐天皇第二皇子である空也上人により開創されました。
空也上人立像や平清盛像をはじめ平安・鎌倉時代の優れた彫刻(重要文化財)が多数納められています。
弁財天は七福神の中で唯一の女神。水を神格化したものであり,言語や音楽の神として尊信されています。また、金運・財運の神として福徳自在のご利益とされています。
●えびす神社 〔京都市東山区大和大路四条下る〕
都七福神 えびす神社
京都ゑびす神社は、兵庫県・西宮神社、大阪府・今宮戎神社と並んで日本三大えびすと称され、「京のえべっさん」の名で親しまれています。
鎌倉時代初期に建仁寺の鎮守社として創建されたもので、「商売繁盛」の守り神として1月10日のえびすは沢山の人たちで賑わいます。
お参りしたのが11日だったので、残り福祭ということになります。行った時、祇園町「舞妓さんの奉仕による福笹と福餅の授与」がされていて大勢の人であふれていました。ゑびす様と言えば「商売繁盛の笹」を思います。笹は縁起物の松竹梅の竹の葉で「節目正しく真直に伸び」「弾力があり折れない」「葉が落ちず常に青々と繁る」といった特徴から家運隆昌、商売繁盛の象徴となりました。
●万福寺 〔京都府宇治市五ヶ庄三番割34〕
都七福神 万福寺
宇治の黄檗山万福寺は、中国僧の隠元禅師によって開創された寛文1年(1661)に開創された中国風の寺院です。黄檗宗(禅宗)の大本山です。隠元は、中国明末の高僧で中国福建省福州の黄檗山萬福寺の住持でしたが、日本からの招きで、多くの弟子を伴い来日されました。隠元禅師の来日は、日本仏教に新風を吹き入れるとともに、いろいろな文化(建築、仏像、書画、普茶料理など)がもたらされました。
三門、天王殿、仏殿、法堂が一直線上に並び布袋さんはその中の天王殿に鎮座されます。
天王殿 - 寛文8年(1668年)の建立されました。
でんと座った太鼓腹の布袋像です。堂内左右には四天王像、布袋像の背後には韋駄天像を安置しています。これらの像は来日していた明の仏師・范道生の作で、いずれも中国風の様式で造られています。

色紙を購入し、お札をいただきました。七難即滅、七福即生極まりなし、今年は幸多い年になると思います。
都七福神 

相国寺境内 宗旦稲荷

 幸神社からしばらく歩くと、相国寺の東門に着きます。正確には「萬年山相國承天禅寺」。その東門を入ると、大きな鐘楼が目に入ります。
 相国寺 鐘楼
黒い鐘楼に目を取られて近づくとその脇道の奥に鳥居があります。
 禅寺に鳥居があるのはどうじてだろうと近づいて見ると石碑に「宗旦稲荷」とありました。
相国寺 宗旦稲荷
 その由来が書いてありました。
 「江戸時代の初め頃、相國寺の境内に1匹の白狐が住んでいた。その狐は、しばしば茶人、千宗旦(1578年~1658年)に姿を変え、時には雲水にまじり座禅を組み、また時には寺の和尚と碁を打つなどして、人々の前に姿を現していた。宗旦になりすましたその狐は、近所の茶人の宅へ赴いては、茶を飲み、菓子を食い荒らすことがたびたびあったが、ある時、宗旦狐は、相国寺塔頭、慈照院の茶室びらきで、点前を披露していた。驚いたことにその点前は、実に見事なもので、遅れてきた宗旦は、その事に感じ入ったという。 これも宗旦の人となりを伝えた逸話である。その伝承のある茶室 頤神室(いしんしつ)」は、現在でも慈照院に伝えられている。茶室の窓は、宗旦狐が慌てて突き破って逃げたあとを修理したので、普通のお茶室の窓より大きくなってしまったという。宗旦狐は、豆腐屋の店先から油揚げを盗み、追いかけられて井戸に落ちて死んだとも、猟師に撃たれて命を落としたとも伝えられている。化けていたずらをするだけでなく、人々に善を施し、喜ばれていたという宗旦狐の死を悼み、雲水たちは祠をつくり供養した。
 それが今でもこの宗旦稲荷として残っている。」
相国寺 宗旦稲荷の狛狐
 そんなことがあったのかと感心しました。
宗旦という人は千利休の孫で現代まで続いている茶道の表千家、裏千家、武者小路千家の三千家を作った茶人です。
 そいて、この逸話は、史実にあっている所もあるようです。
 由来に記されている「慈照院の茶室」は、今もちゃんと残っていて、ちょうど今年の冬の旅で公開もされています。
 さらに、宗旦狐が最期をとげたその豆腐屋だろう思われるお店も現存していて井戸もきちんとあるということです。
 さらに、興味深いのは、時々この「宗旦稲荷社」に油揚げが供えられているということですが、その油揚げは、そのお店の油揚げなのだそうです。
 面白いです。
 「慈照院の茶室」には結局寄らなかったのですが、宗旦狐のお話とその狐が祀られたということ、最期になった油揚げが供えられることがあるということ、その事の方が私には感動でした。

京の都の鬼門封じ

 今回の京都の旅は、地下鉄の烏丸今出川駅から御所を通って歩き始めました。
 御所は乾門を入って塀に沿って、砂利道を東に歩きます。塀が切れるところで少しだけ南に回って上を見ると、金網の中に猿があります。ちょうどここが御所の東北の角にあたり鬼門になります。
 「鬼門」の考えは、古代中国の言い伝から来ていると言われます。紀元前5世紀頃、古代中国では度重なる東北地方からの異民族による侵略や殺戮に苦しめられたため、異民族を「鬼」と称し、襲ってこられた東北を「鬼門」としたということです。
 鬼門には「表鬼門」と「裏鬼門」があります。
「表鬼門」は「男鬼門」とも呼ばれ、鬼が入って来る方向、東北の角になります。「裏鬼門」は「女鬼門」とも呼ばれ、南西の角を指します。
鬼門 御所の東北角
 御所の東北角は、少しいびつに作られていますが、左手の切り妻の屋根の下、金網の中に鬼門封じの、右を向いて、白い御幣を担いだお猿さんが座っています。
 この辺りを「猿ケ辻」と言います。言い伝えによると、金網を張って置かないと、お猿さんが逃げ出すということです。
鬼門 御所の猿
 京都は地形的に「鬼門」である北東には比叡山があり、邪気の侵入を防ぐ役割をしていて比叡山には延暦寺を建立しています。比叡山の琵琶湖側の麓には日吉大社があり、日吉大社は猿が神の使いです。
 この京都御所の北東角の猿ヶ辻から比叡山の日吉神社(猿が神使)の線を結ぶと、その間に猿の像をもつ幸神社と赤山禅院が入ります。これが鬼門封じのラインです。
 なぜ猿かはいろいろな説があります。
 猿は申(さる)と同義で、西南西の方位を示します。この方向は、表鬼門の反対に位置し鬼門を封じると信じられたことから。
 また「神猿(まさる)」と言って、それが「魔去る・勝る」に通じる事から、さらに 猿を使いとする猿田彦大神は道案内をする神なので、鬼をすみやかに都から通過させるためといった説もあります。
鬼門 幸神社の猿
今回、御所から幸神社、都七福神めぐりで赤山禅院にも行って、3箇所の鬼門封じを拝みました。
鬼門 赤山禅院の拝殿上の屋根の猿
赤山禅寺の拝殿の屋根の上には、御所の東北角・猿ヶ辻の猿と対応して、御幣と鈴を持った猿が安置されていました。

幸神社 出雲路幸神 出雲路道祖神社

 寺町通りを西に少し行くと、幸神社があります。幸神社と書いて「さいのかみのやしろ」と読みます。
 京都の神社からみるとまことに慎ましやかな神社ですが、とても故事来歴の多い神社です。
 ひとつだけ記しておくと縁結びの言い伝えがあります。
 天照大神の孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が神々を連れて、天から高千穂へ向かっていました。分かれ道にさしかかると、1人の男に出会いました。その男は、背が高く、赤く輝く目をして、長い鼻をした男でした。
 天岩屋戸に隠れた天照大神を、踊ることで岩戸から出すことに成功した天鈿女命(あめのうずめのみこと)が前に出て、名をたずねると、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)だと名のります。そして、一行を道案内をするために待っていたのだと言います。
 無事に道案内をしてもらい、天鈿女命と猿田彦大神は結ばれたそうです。幸神社
 幸神社はその猿田彦大神と天鈿女命を祀っています。
 また、狂言に夫と別れるのを石神に決めてもらうため、石を持ち上げられるかどうかをつづる「石神」という演目がありますが、その石がここの神社にある石だという言い伝えもあります。 
幸神社 石
 そうした縁で、ここは縁結びの御利益があります。
 また、このあたりは、平安京以前は出雲氏一族が本拠地としていました。また鴨川河畔西側の出雲路にあり、出雲への出発点となっていたともいいます。主祭神の猿田彦大神は出雲路の道祖神でもあり平安の都ができると、平安京の鬼門の東北の神を担なうことになります。歌舞伎の創始者・出雲阿国もこのあたりで誕生したとのことです。
幸神社 石碑
 ただ、今回私がお参りしたのは、幸神社は門の前の石碑にも記されているように「鬼門除け」で、猿の像を見たかったからです。鬼門については、次回にまとめます。

鯖街道 出町商店街 鱒寿司 

 賀茂川に架かる出町橋のたもとに「鯖街道口 従是洛中」と書かれた石碑があります。
鯖街道口の碑
 鯖街道(さばかいどう)は、だいたい若狭街道(現在の福井県小浜市から京都左京区の出町柳を指しますが、若狭国などの小浜藩領内(現在の嶺南に該当)と京都を結ぶ街道の総称です。
 主に魚介類を京都へ運搬するための物流ルートだったのですが、その中でも特に鯖が多かったため、この名で呼ばれるようになりました。鯖は、魚介類の総称と言えるでしょう。
 若狭湾で取れた鯖を徒歩で京都に運んだわけで、鯖に塩をまぶして夜通し京都まで運ぶとちょうど良い味になったとかで、「京は遠ても十八里」と唄いながら寝ずに歩き通したと言われています。18里とすると、1里が約4キロですから72キロです。
 塩をまぶした鯖、京都まで着くころちょうど良い味になったとかで、ここから近い御所にも当然運ばれたのでしょう。鯖寿司をはじめとする京の「食」のルーツ実はこの鯖街道にあると言われています。
枡形通り 満寿形屋
 川を背にしてその正面は出町商店街の枡形通りです。その中に満寿形屋 (ますがたや)というお店があります。看板は「すし、めんるい」ですが、大きな旗にあるようにもちろん鯖寿司も有名です。
鱒寿司
 うどんに鯖寿司が2個つくセットと鯖寿司一人前をたのみました。
 鯖は肉厚です。シャリも美味しいです。間に挟まれた木の芽も良いアクセントになっています。
 食べ物でいえば、枡形通りへ入る前に「出町ふたば」があります。いつも行列ができているお店で、その日も並んで豆餅を買い、ホテルで食べました。
 また、枡形通りを抜けてすぐ、寺町通り沿いの「京つけもの野呂本店」も旧家の町家を改造したとても良い雰囲気のお店で、デパ地下などに出てない、手作りの京つけもの屋さんでここでも少し買いました。
 賀茂大橋から枡形通り、そして、皇城鬼門除の幸神社をお参りして、相国寺へと通じる道は、とても味わいのある京の道です。

京の旅 賀茂川と高野川の合流

 京都に行きました。
 まず行ったのが、賀茂川と高野川の合流地点。賀茂大橋からその合流を眺めました。京都は川の町です。
左が加茂川 右が高野川 手前が鴨川
 京都を語る時すぐ浮かぶのが「山紫水明」という言葉です。「山は紫にして水明し(あけらかし)」。京都の特質というべき,鴨川と東山の美しさを言い表している言葉です。まさに、賀茂川と高野川川の合流を前にし,左に東山を遠望する場所、「山紫水明」です。 合流して鴨川になり、上京区東三本木通、丸太橋の近くに文化文政時代の儒学者頼山陽が居宅を作り、山紫水明処と名付けました。
 学生時代に出町柳に良く来ていて、ここにはよき来たのですが、当時はそういう感慨を持つに至っていませんでした。
 賀茂川・高野川の合流するY字形の三角形の向こうには、下鴨神社の糺(ただす)の森の緑があります。この場所は俗に鴨川デルタと呼ばれますが、あまり感じがよくありません。「剣先」(けんさき)といわれたりします。これは2つの川の間のY字を刀の先端に見たてたからのようです。
 「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」の一文で始まるのは鴨長明の「方丈記」。昨年800年でした。人生も、川の流れのようにとどまることなく、過ぎ去った時間はもとに戻らない。世の無常を表現したものと言われます。
 鴨長明が眺めた川は、鴨川です。
 鴨長明の父は、同神社の敷地内にある河合神社で禰宜(ね・ぎ)を務めていました。
 河合神社にも行きたかったのですが、今回はあきらめました。
 飛び石があります。これも1度わたってみたいです。
 ここから川は鴨川になります。
合流して鴨川 向こうは東山三十六峰
 橋から東を眺めると、東山三十六峰のなだらか稜線が見られます。
 そしてこちらが出町橋、鯖街道へ通じます。
向こうに見えるは賀茂大橋

江の島弁財天 八臂弁財天

 江の島弁財天にお参りしてきました。江島神社と書くようです。
 大船からモノレールで湘南江の島を降りて、かなり歩きましたが、冨士を望みながら歩いて、お参りしました。
 辺津宮、中津宮、奥津宮の三社からなる御社です。弁財天に関連のあるのは、中津宮(なかつのみや)に祀られている市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)でしょう。
 下の辺津宮(へつのみや)には、田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)が祀られています。上の奥津宮(おくつのみや)には、多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)を お祀りしています。この3神は、天照大神が須佐之男命と誓約された時に生まれた神で、三人姉妹の女神です。この三女神を江島大神と称しています。
 古くは江島明神と呼ばれていたようですが、仏教との習合によって、弁財天女とされ、江島弁財天として信仰されるようになります。安芸の宮島の厳島神社と御同神です。
 弁財(才)天は、海の神、水の神であらせられると同時に、幸福・財宝を招き、芸道上達の功徳を持つ神と崇められています。
江の島弁財天 奉安殿
 辺津宮の境内の奉安殿には、八臂(はっぴ)弁財天と、 裸弁財天とも言われる、妙音(みょうおん)弁財天が安置されています。
 とにかく八臂弁財天御尊像を拝みたかったのです。
 6日の日曜日でしたが、多くの人で、拝殿の前は列ができていました。
 八臂弁財天(重要文化財)です。(写真禁止なので、借用しました)。
八臂弁財天御尊像
鎌倉時代初期の作で、源頼朝が鎌倉に幕府を開くとき、奥州の藤原秀衡調伏祈願のため 文覚上人に命じて造らせ、21日間祈願させたということが「吾妻鏡」に記されているとのことです。
 八臂弁財天には、8本の手があり、それぞれに金剛杵、剣、斧、弓などの武器を持っています。そこで勝運守護の祈りから、武家から庶民にいたるまで広く信仰を集めたと言われます。
私が、今年関心を持っているのは、宇賀神です。八臂弁財天の頭には宇賀神が小さくですが、乗っています。
  宇賀神は、稲の実りを司る精霊です。伊勢神宮外宮に祭られる豊受大神や稲荷神社の宇迦之御魂命に関係がありそうです。ところが、宇賀神は単体では祭られていません。それでも信仰はあったわけで、不思議な思いがします。
 蛇の体をしているのは、稲の生長には水が必要で、水の守護神として竜蛇神が考えられていたことが、宇賀神が蛇体になったのだろうと思われます。
江戸時代には、この江島弁財天への信仰が集まり、江ノ島詣の人々で大変な賑わいを見せました。 世にいわれる「日本三大弁財天」とは、安芸の宮島、近江・竹生島、江島の弁財天のことだと、江の島には「日本三大弁財天」の旗がなびいていました。
いらぬおせっかいですが、近江の竹生島、宝厳寺/竹生島神社と安芸の宮島、大願寺/厳島神社の2箇所は、確かのようですが、3番目は、地域によって違うようです。
それに、厳島神社には弁天様はいらしゃらないようです。
いろいろ不思議が出てきます。
 書き忘れるところでした、奉安殿にはもう一体、妙音弁財天。これは俗に「裸弁財天」と呼ばれるように美しい白い肌の裸弁財天さまがいらっしゃいました。

話題の映画『レ・ミゼラブル』

 話題の映画『レ・ミゼラブル』(原題: Les Miserables)を見てきました。映画を映画館で見るのはやはり良いなと思いました。それも話題の時に。
 ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』を読んだことはないのですが、子供ころから「ああ無情」というので、子供向けの本や劇でその粗筋は知っています。ちなみにレ・ミゼラブルは「悲惨な人々」といった意味のようです。
 何年か前に映画化された『レ・ミゼラブル』を見ました。これも素晴らしかったです。テレビでも放映されたので、それも見ました。この映画は、また見たいと思っています。
 ミュージカルについては、最初、あの原作がどうしてミュージカルになるのだろう、たいた作品にはならないだろう、とそんな印象でした。しかし、このミュージカル1980年代にロンドンで上演され、以後、ブロードウェイを含む世界各地でロングランされていたというのですから、すばらしい舞台だったのでしょう。そのミュージカルの映画化、見たくなりました。
 とにかく全編が歌で、しかも「舞台に出演したキャストも数多く登場し、『民衆の歌』をジャン・バルジャンと民衆が高らかに歌うシーンには300人近くのミュージカル俳優たちが集結。」ということ、正月にぜひ見てみたいと思ったのです。
映画『レ・ミゼラブル』
 良かったです。朝9時10分の部に行ったのですが、席は後ろの方、でも感動の作品でした。ジャン・バルジャンを演じたヒュー・ジャックマンの声はすばらしいです。ファンテーヌ役のアン・ハサウェイも、鬼気迫る歌声でした。髪を切るところなど、恐いぐらいでした。
 ちょっと気になったのは、革命運動で多くの仲間を亡くしたあと、マリユスが家出していたブルジョワの祖父の家に帰り、そこで、コゼットと豪華な結婚披露パーティをしていること。原作はどうなっているのか見てみたくなりました。

東京国立博物館 「博物館に初もうで」

 正月2日、東京国立博物館の「博物館に初もうで」へ行きました。
博物館前では、和太鼓演奏や獅子舞などの新春イベントが行われ、展示場では、140周年特集陳列「博物館に初もうで 巳・蛇・ヘビ」と、長谷川等伯の国宝「松林図屏風」、尾形光琳の重文「風神雷神図屏風」などが「新春特別公開」されていました。
 10時半ごろに行ったのですが、上野公園に入ると、早くも太鼓の音が聞こえきました
 入場するとすぐの所で、和太鼓の演奏です。大勢の人で囲まれ、背伸びしてのぞき込みました。音が体内に響きます。
東博 和太鼓演奏
 少し行くと、列があって、甘酒かなにか配っているのかと思い、並びました。お酒でした。いっぱいついでくださったのですが、飲めないので、困りました。
 東京国立博物館の前に台ができていて、そこで、神楽と獅子舞、恵比寿&大黒の舞を観ました。新春の華やいだ気分を盛り上げてくれました
東博 獅子舞
 もちろん、館内に入っても充実した作品がずらりと待ち構えています。1階の1室で、七福神にお会いでき、2階で、今年の干支「巳」に因んだ、日本や中国の「巳・蛇・ヘビ」をモチーフとした作品をタップリと鑑賞しました。
東博 舞楽「還城楽」に使われる蛇 
東博 道成寺絵巻より蛇に化身
 くたびれて時計を見るともう4時になっていました。寛永寺にもお参りするつもりだったのですが、そのまま帰りました。

東京国立博物館の弁天様

正月2日目、東京国立博物館「博物館に初もうで」に行ってみると、弁天様の像があり、その頭部には宇賀神が乗っていました。
東京博物館の弁財天像
宇賀神を乗せている。

巳年、井の頭弁財天へ初もうで

 今年の年賀状で、井の頭公園にある井の頭弁財天の宇賀神をテーマにしたので、1日、お参りに出かけました。井の頭の池は、神田上水の水源で、そこに鎮座する弁財天ですから、江戸の人びとに広く信仰されていました。
 行ってみると、長蛇の列でした。今年は巳年で特に多いのだと、武蔵野吉祥寺七福神めぐりの世話をしている人が言っていました。
井の頭弁財天に初もうで
 お参りして、弁財天前の赤い手すりの階段を上がって、宇賀神さんにもお会いしました。こちらには、人が来ていません。井の頭不動堂前にも宇賀神を乗せた石像があります。宇賀弁財天と呼ばれていますが、手に剣のようなものを持っているので、やはりお不動様につながるのかな、とも思います。
 その姿は、人頭蛇身で蜷局(とぐろ)を巻く蛇の上に頭部があります。その頭部も老翁や女性であったりと一様ではないようですが、井の頭弁財天では、不動前の石像は女性、。階段上はお年寄りの男性です。
 宇賀神は、食物の神として日本古来の神で、インドの弁才天と習合あるいは合体して、宇賀弁才天への信仰を集めました。そういうことで、宇賀神はしばしば弁才天の頭頂部に小さく乗っているのです。
井の頭弁財天 不動前 弁財天坐像
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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