大久保百人町と大久保つつじ
「大久保つつじ」は、江戸時代この大久保百人町に住んだ鉄砲組百人隊の同心たちが、副業として育てていたものです。「大久保つつじ」というのは、つつじの品種ではなく、大久保百人町で栽培されたつつじです。品種でいえばキリシマツツジに属します。
江戸時代も半ばをすぎると、経済的余裕も出、植木の需要も増してきて、それこそ奇種は高値で取り引きされていました。そいことで、つつじは、鉄砲組百人隊の同心たちの内職として盛んに栽培されるようになっていったのです。
文化11年(1814)に書かれた『遊歴雑記(ゆうれきざっき)』には次のように記事が出ています。、
「組屋敷北通り西の木戸から北側二軒目の同心飯嶋武右衛門はつつじで名高い。家の庭には大小のつつじ2,30株がならび、その色は真紅、花形が種々異なり実に壮観である。家の北後ろに廻るとただ一面 につつじばかりで、その樹の高さ九尺から三尺、左右に数千本、庭園の幅東西八間、南北二丁余、その間みな両側つつじのみ。一円ただ燃えるようで、立夏から四五日目が最中、江戸第一の壮観というべし。乗物に乗った大名家の奥方をはじめ、武家庶民にいたるまで、毎日朝から絶えることなく群集。この組屋敷の家々には三百または七百株とあり、一丈余の成木などはそれぞれ素晴らしい花ばかり。その上、組中の垣根も搆えもみな琉球つつじの紫赤白の三色が咲き揃い、東の木戸から西の木戸まで八町余、西側の垣に咲く花の風情、また垣根を見越して燃えるような成木のつつじが爛漫と咲く様子は是非とも人々に見せたいものである。つつじの少ない家では孟宗竹(もうそうたけ)の筍(たけのこ)を作ったり、夏の軒先に吊るしのぶを作り、町々に植木々々と売り歩いたり、縁日の辻々に持出されているが、これまた、大久保が一番と言われている」

明治になるとつつじはいったんさびれますが、また復活しました。
明治28年の『風俗画報』によれば、明治26年2月に大久保躑躅園が開設されtいます。「広さ7,000坪余。4月の末になると近隣に飲食店が立ち並び、大小の幟りが翻り、客寄せの声が騒がしい活人形(作り人形)の遊観場もでき、喧騒の街となった」といいます。
明治36年ごろには、「躑躅園」は7園もあったようです。花の種類は70種、株数は1万を越えるほど盛んでした。4月上旬から5月下旬まで大久保行きの「つつじ臨時列車」を増発することもありました。
しかし、やがて東京の人口増加にともない、大久保周辺も新興住宅地として地価が高騰しはじめると、「躑躅園」の経営は難しくなってきます。
明治35年(1902)日比谷公園が新設され、大久保つつじの植木は日比谷公園に移植され、て行き、「躑躅園」は姿を消ていきます。そして、跡地は急速に住宅化していきました。
それでも「大久保つつじ」は残っていたのです。
関東大地震で、麹町元園町の家が焼失した岡本綺堂は、大正13年3月18日大久保に引っ越してきました。
大正14年に『郊外生活の一年 大久保にて』を書いています。
「『郊外も悪くないな』と、わたしはまた思い直した。五月になると、大久保名物の躑躅(つつじ)の色がここら一円を俄に明るくした。躑躅園は一軒も残っていないが、今もその名所のなごりを留めて、少しでも庭のあるところに躑躅の花を見ないことはない。元来の地味がこの花に適しているのであろうが、大きい木にも小さい株にも皆めざましい花を着けていた。わたしの庭にも紅白は勿論、むらさきや樺色の変り種も乱れて咲き出した。わたしは急に眼がさめたような心持になって、自分の庭のうちを散歩するばかりでなく、暇さえあれば近所をうろついて、そこらの家々の垣根のあいだを覗きあるいた。」
昭和の初めも「つつじの名所のおもむきをとどめていた」と江藤淳も書いていました。
しかし、そうこうして、やがて大久保に大久保つつじはなくなってしまいます。
「消えたつつじをもう一度大久保の地に」という取り組みが平成に入っておきてきました。
ところが、大久保つつじがありません。移っていった日比谷公園にもすでに大久保つつじはなくなっていました。そこで、大正時代に譲渡さした群馬県館林市の県立つつじが岡公園はどうだろうと調査した結果、そこに大久保から移植された原木があることが確認されました。平成17年の6月、その挿し芽を採取して大久保に移植しました。
大久保駅の近くに「つつじの里児童遊園」があります。「新宿区の花つつじ」の説明看板もあります(ちなみに、大久保つつじにちなんで、新宿区の花はつつじです)。しかし、この遊園にあまりつつじの木は見あたりません。

一番熱心に育てているのは、百人町ではありませんが、明治通り近くにある大久保小学校の6年生かもしれません。大久保小学校は、平成20年度から、「総合的な学習の時間」を活用し、大久保つつじに関する調査活動を実施しています。平成21年11月には、群馬県館林から大久保つつじ6本が寄贈され、6年生を中心に大切に育てています。
これから、大久保つつじはどうなるか、まちおこしができるのか、少し見守っていきたいと思っています(来年は花を見に行きます)。
江戸時代も半ばをすぎると、経済的余裕も出、植木の需要も増してきて、それこそ奇種は高値で取り引きされていました。そいことで、つつじは、鉄砲組百人隊の同心たちの内職として盛んに栽培されるようになっていったのです。
文化11年(1814)に書かれた『遊歴雑記(ゆうれきざっき)』には次のように記事が出ています。、
「組屋敷北通り西の木戸から北側二軒目の同心飯嶋武右衛門はつつじで名高い。家の庭には大小のつつじ2,30株がならび、その色は真紅、花形が種々異なり実に壮観である。家の北後ろに廻るとただ一面 につつじばかりで、その樹の高さ九尺から三尺、左右に数千本、庭園の幅東西八間、南北二丁余、その間みな両側つつじのみ。一円ただ燃えるようで、立夏から四五日目が最中、江戸第一の壮観というべし。乗物に乗った大名家の奥方をはじめ、武家庶民にいたるまで、毎日朝から絶えることなく群集。この組屋敷の家々には三百または七百株とあり、一丈余の成木などはそれぞれ素晴らしい花ばかり。その上、組中の垣根も搆えもみな琉球つつじの紫赤白の三色が咲き揃い、東の木戸から西の木戸まで八町余、西側の垣に咲く花の風情、また垣根を見越して燃えるような成木のつつじが爛漫と咲く様子は是非とも人々に見せたいものである。つつじの少ない家では孟宗竹(もうそうたけ)の筍(たけのこ)を作ったり、夏の軒先に吊るしのぶを作り、町々に植木々々と売り歩いたり、縁日の辻々に持出されているが、これまた、大久保が一番と言われている」

明治になるとつつじはいったんさびれますが、また復活しました。
明治28年の『風俗画報』によれば、明治26年2月に大久保躑躅園が開設されtいます。「広さ7,000坪余。4月の末になると近隣に飲食店が立ち並び、大小の幟りが翻り、客寄せの声が騒がしい活人形(作り人形)の遊観場もでき、喧騒の街となった」といいます。
明治36年ごろには、「躑躅園」は7園もあったようです。花の種類は70種、株数は1万を越えるほど盛んでした。4月上旬から5月下旬まで大久保行きの「つつじ臨時列車」を増発することもありました。
しかし、やがて東京の人口増加にともない、大久保周辺も新興住宅地として地価が高騰しはじめると、「躑躅園」の経営は難しくなってきます。
明治35年(1902)日比谷公園が新設され、大久保つつじの植木は日比谷公園に移植され、て行き、「躑躅園」は姿を消ていきます。そして、跡地は急速に住宅化していきました。
それでも「大久保つつじ」は残っていたのです。
関東大地震で、麹町元園町の家が焼失した岡本綺堂は、大正13年3月18日大久保に引っ越してきました。
大正14年に『郊外生活の一年 大久保にて』を書いています。
「『郊外も悪くないな』と、わたしはまた思い直した。五月になると、大久保名物の躑躅(つつじ)の色がここら一円を俄に明るくした。躑躅園は一軒も残っていないが、今もその名所のなごりを留めて、少しでも庭のあるところに躑躅の花を見ないことはない。元来の地味がこの花に適しているのであろうが、大きい木にも小さい株にも皆めざましい花を着けていた。わたしの庭にも紅白は勿論、むらさきや樺色の変り種も乱れて咲き出した。わたしは急に眼がさめたような心持になって、自分の庭のうちを散歩するばかりでなく、暇さえあれば近所をうろついて、そこらの家々の垣根のあいだを覗きあるいた。」
昭和の初めも「つつじの名所のおもむきをとどめていた」と江藤淳も書いていました。
しかし、そうこうして、やがて大久保に大久保つつじはなくなってしまいます。
「消えたつつじをもう一度大久保の地に」という取り組みが平成に入っておきてきました。
ところが、大久保つつじがありません。移っていった日比谷公園にもすでに大久保つつじはなくなっていました。そこで、大正時代に譲渡さした群馬県館林市の県立つつじが岡公園はどうだろうと調査した結果、そこに大久保から移植された原木があることが確認されました。平成17年の6月、その挿し芽を採取して大久保に移植しました。
大久保駅の近くに「つつじの里児童遊園」があります。「新宿区の花つつじ」の説明看板もあります(ちなみに、大久保つつじにちなんで、新宿区の花はつつじです)。しかし、この遊園にあまりつつじの木は見あたりません。

一番熱心に育てているのは、百人町ではありませんが、明治通り近くにある大久保小学校の6年生かもしれません。大久保小学校は、平成20年度から、「総合的な学習の時間」を活用し、大久保つつじに関する調査活動を実施しています。平成21年11月には、群馬県館林から大久保つつじ6本が寄贈され、6年生を中心に大切に育てています。
これから、大久保つつじはどうなるか、まちおこしができるのか、少し見守っていきたいと思っています(来年は花を見に行きます)。
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