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大久保百人町と大久保つつじ

 「大久保つつじ」は、江戸時代この大久保百人町に住んだ鉄砲組百人隊の同心たちが、副業として育てていたものです。「大久保つつじ」というのは、つつじの品種ではなく、大久保百人町で栽培されたつつじです。品種でいえばキリシマツツジに属します。
 江戸時代も半ばをすぎると、経済的余裕も出、植木の需要も増してきて、それこそ奇種は高値で取り引きされていました。そいことで、つつじは、鉄砲組百人隊の同心たちの内職として盛んに栽培されるようになっていったのです。
 文化11年(1814)に書かれた『遊歴雑記(ゆうれきざっき)』には次のように記事が出ています。、
「組屋敷北通り西の木戸から北側二軒目の同心飯嶋武右衛門はつつじで名高い。家の庭には大小のつつじ2,30株がならび、その色は真紅、花形が種々異なり実に壮観である。家の北後ろに廻るとただ一面 につつじばかりで、その樹の高さ九尺から三尺、左右に数千本、庭園の幅東西八間、南北二丁余、その間みな両側つつじのみ。一円ただ燃えるようで、立夏から四五日目が最中、江戸第一の壮観というべし。乗物に乗った大名家の奥方をはじめ、武家庶民にいたるまで、毎日朝から絶えることなく群集。この組屋敷の家々には三百または七百株とあり、一丈余の成木などはそれぞれ素晴らしい花ばかり。その上、組中の垣根も搆えもみな琉球つつじの紫赤白の三色が咲き揃い、東の木戸から西の木戸まで八町余、西側の垣に咲く花の風情、また垣根を見越して燃えるような成木のつつじが爛漫と咲く様子は是非とも人々に見せたいものである。つつじの少ない家では孟宗竹(もうそうたけ)の筍(たけのこ)を作ったり、夏の軒先に吊るしのぶを作り、町々に植木々々と売り歩いたり、縁日の辻々に持出されているが、これまた、大久保が一番と言われている」
江戸名所絵図 大久保の映山紅
 明治になるとつつじはいったんさびれますが、また復活しました。
 明治28年の『風俗画報』によれば、明治26年2月に大久保躑躅園が開設されtいます。「広さ7,000坪余。4月の末になると近隣に飲食店が立ち並び、大小の幟りが翻り、客寄せの声が騒がしい活人形(作り人形)の遊観場もでき、喧騒の街となった」といいます。
 明治36年ごろには、「躑躅園」は7園もあったようです。花の種類は70種、株数は1万を越えるほど盛んでした。4月上旬から5月下旬まで大久保行きの「つつじ臨時列車」を増発することもありました。
 しかし、やがて東京の人口増加にともない、大久保周辺も新興住宅地として地価が高騰しはじめると、「躑躅園」の経営は難しくなってきます。
 明治35年(1902)日比谷公園が新設され、大久保つつじの植木は日比谷公園に移植され、て行き、「躑躅園」は姿を消ていきます。そして、跡地は急速に住宅化していきました。
 それでも「大久保つつじ」は残っていたのです。
 関東大地震で、麹町元園町の家が焼失した岡本綺堂は、大正13年3月18日大久保に引っ越してきました。
大正14年に『郊外生活の一年 大久保にて』を書いています。 
 「『郊外も悪くないな』と、わたしはまた思い直した。五月になると、大久保名物の躑躅(つつじ)の色がここら一円を俄に明るくした。躑躅園は一軒も残っていないが、今もその名所のなごりを留めて、少しでも庭のあるところに躑躅の花を見ないことはない。元来の地味がこの花に適しているのであろうが、大きい木にも小さい株にも皆めざましい花を着けていた。わたしの庭にも紅白は勿論、むらさきや樺色の変り種も乱れて咲き出した。わたしは急に眼がさめたような心持になって、自分の庭のうちを散歩するばかりでなく、暇さえあれば近所をうろついて、そこらの家々の垣根のあいだを覗きあるいた。」
 昭和の初めも「つつじの名所のおもむきをとどめていた」と江藤淳も書いていました。
 しかし、そうこうして、やがて大久保に大久保つつじはなくなってしまいます。
 「消えたつつじをもう一度大久保の地に」という取り組みが平成に入っておきてきました。
 ところが、大久保つつじがありません。移っていった日比谷公園にもすでに大久保つつじはなくなっていました。そこで、大正時代に譲渡さした群馬県館林市の県立つつじが岡公園はどうだろうと調査した結果、そこに大久保から移植された原木があることが確認されました。平成17年の6月、その挿し芽を採取して大久保に移植しました。
 大久保駅の近くに「つつじの里児童遊園」があります。「新宿区の花つつじ」の説明看板もあります(ちなみに、大久保つつじにちなんで、新宿区の花はつつじです)。しかし、この遊園にあまりつつじの木は見あたりません。
つつじの里児童遊園
 一番熱心に育てているのは、百人町ではありませんが、明治通り近くにある大久保小学校の6年生かもしれません。大久保小学校は、平成20年度から、「総合的な学習の時間」を活用し、大久保つつじに関する調査活動を実施しています。平成21年11月には、群馬県館林から大久保つつじ6本が寄贈され、6年生を中心に大切に育てています。
 これから、大久保つつじはどうなるか、まちおこしができるのか、少し見守っていきたいと思っています(来年は花を見に行きます)。
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昭和40年ごろの大久保 、江藤淳の作品から

 大久保と言えば、連れ込み旅館のたくさんある町、とすぐにそういうイメージを持ち出す世代はまだたくさんいると思います。また、実際、今風に言えばラブホテルも点在しています。
 昭和40年という書き出しで、江藤淳が、「戦後と私」に幼年時代育った大久保に行ってみたことが書かれています。江藤淳の生まれは、昭和7年(1932)です。江藤淳、33才の時ですか。
  「昭和40年5月のある日、家の跡を探しに行った私は茫然とした。もともと大久保百人町は山の手線の新大久保駅と中央線の大久保駅を中心とする地域である。新宿寄りの一丁目、二丁目には商店が多く、大久保通りから戸山ヶ原寄りの三丁目は二流どころの住宅であった。祖母は祖父の死後、青山高樹町の屋敷をある法律家に譲り、旧東京の郊外でまだ江戸時代以来のつつじの名所のおもむきをとどめていたこのあたりに移り住んだのである。私の幼年時代には近所はおおむね学者の家と退役軍人で占められ、大久保駅よりにはドイツ人村があって大使館部員が住んでいた。そこの子供で、いつもドイツ製の大きな自転車を軽々と乗り回していたカール君という金髪の男の子とときどき遊んだ。
私が茫然としたのはその一切が影もかたちもなくなっていたからである。そのかわりに目の前にあらわれたのは、温泉マークの連れ込み宿と色つきの下着を窓に干した女給アパートがぎっしり立ち並んだ猥雑な風景であった。私は目のやり場に困った。番地の表示をたよりに漸く探しあてた家の跡にたどりつくと、私は新しい衝撃をうけた。敷地内に建ったという都営住宅は1軒をのこしてとり払われていた。更地にしたところに3階建の家が新築中であり、板囲いのあいだから見るとそれは疑いもなく温泉マークの旅館になるものと思われた。母が死んだのはつつじの季節であった。しかしつつじはなくて植え込みのあったあたりも建築現場になり、職人がふたりで痴戯をうつすべき鏡を壁にはめ込んで姿が見えた。私は顔から血がひくのを感じて眼をそむけた。」
 
 電車の窓からホテルが並んでいるのが見え、特に女性は、なかなか足を踏み入れることができない町でした。今は、そんな空気はなく、たくさんの若い女性も歩いています。
 文中に「江戸時代以来のつつじの名所のおもむきをとどめていた」とあります。昭和に入ってもつつじはあったのでしょうか。大久保のつつじのことは書いておかなくてはいけません。

「中国王朝の至宝」

東京国立博物館で開催されていた、日中国交正常化40周年 東京国立博物館140周年特別展「中国王朝の至宝」に行きました。
中国 王朝の至宝」 展
中国最古の王朝とされる、約4000年前の夏の王朝から13世紀の宋王朝まで、歴代王朝の都や中心地域の代表的な文物、約170点が展示されています。展示は2つの王朝、あるいは都を対比する形になっています。
第一章 王朝の曙 蜀vs夏・殷
第二章 群雄の輝き 楚vs斉・魯
第三章 初めての統一王朝 秦vs漢
第四章 南北の拮抗 北朝vs南朝
第五章 世界帝国の出現 長安vs洛陽
第六章 近世の胎動 遼vs宋
これは、中国の1つの博物館から作品を借りてきたというものではなく、中国全土各都市の博物館から貸出し交渉を重ねて組み立てた、手間と時間とお金のかかった貴重な展覧会だということです。それにしては、混雑さがなく、中国との混乱が影響しているのかな、と思ったりしました。
展示文物の一部。
金製仮面 前12世紀~前10世紀
 入館してすぐ、金製仮面がお出迎えをしてくれました。(チラシの左上部に載っています)。
 「仮面」だけに、顔くらいの大きさだろうと思っていたのですが、小さいです。高3.7cm、幅4.9cmです。いったいどのようにこの小さな仮面を使ったのでしょう。3000年以上の時を超えて黄金の輝きを放ち続けています。
「羽人」戦国時代・前4世紀
「羽人」(うじん)、仙人の一種のようです。四足を折ってうずくまったガマのようなものの上に羽を広げた鳥がのり、さらにその上に、鳥の嘴と尾羽を持った1本足の異形の者が立っています。各部を木で成形し、表面に漆を塗って彩色して仕上げたものです。(チラシ金製仮面の下に出ているのですが、見えませんね)。
犠尊(ぎそん) 戦国時代・前4~前3世紀
犠尊(ぎそん) 
動物をかたどった青銅製の容器で、背中の中央に円形の蓋があります。酒を入れて祭壇などに供えたものとありました。実物をじっくり見ると、肉付きが浮き出て、柔らかく感じます。
跪射俑 秦時代・前3世紀
始皇帝陵兵馬俑からの「跪射俑」はまるで生きているよう。そのカッと見開いた目の先に何をみているのでしょう。(チラシの中央に載っています)。
仙人仏像文盤口壺(せんにんぶつぞうもんばんこうこ)
(南朝)仙人仏像文盤口壺
青磁 三国(呉)時代・3世紀 
壺に仏様がつけられているのは、初めて見たような気がします。
案内によると、表面全体に雲気や仙人を主とする神仙世界の図像が描かれ、その中に外来の神である仏像を浮彫風に表現してのだそうです。
他にも気になった文物がたくさんありましたが、ひとまずこれまで。

葛西臨海公園で見ました。

葛西臨海公園で見ました。
イソギク(磯菊)、
葛西臨海公園 イソギク
磯の菊ということからイソギク(磯菊)の名があります。
カーペット状に生育します。葉は長さ4~8cmで厚く、裏面には白毛が密生していて、毛は葉の縁まであるので、表面から見ると葉が白く縁取られているように見えます。海岸の崖地に生育することが多いので、乾燥しないように毛が多いようです。
トベラ
葛西臨海公園 トベラ
果実は熟すと3裂し、赤い粘液が付着した種子を多数露出します。これが鳥のくちばしなどに粘着して、運ばれるようです。
枝葉は切ると悪臭を発するため、節分などにイワシの頭などとともに魔よけとして戸口に掲げられました。そのためトビウラノキ(扉の木)と呼ばれ、これがなまって名前が<トベラ>になったということです。
潮風や乾燥に強く、つやのある葉を密生することなどから観賞用あるいは街路樹として道路の分離帯などに栽培されこともあるようです。

葛西臨海公園へ

小雨の日でしたが、15日、葛西臨海公園へ行きました。
葛西臨海公園の係の人にお世話をしてくださる人がいて、入口で 埋め立てで、葛西臨海公園のお話をしてくださり、園内に入り、鳥の観察を指導してくださいました。
池には、スズカモがたくさん飛来してきていました。
葛西臨海公園 スズカモが飛来
そして、時々セキレイが前をちょこちょこ歩いていきます。望遠鏡もお借りして、鳥をじっくり観察しました。
その後、葦(ヨシ)狩りです。葦は水をキレイにし、いきものにとってもその存在はありがたいのですが、葛西臨海公園ではあまりに多く成長して、そのままにしていると、池が埋まって、鳥が来なくなってしまうおそれがあるのだそうです。それで時々葦を刈らなくてはいけません。そのお手伝なわけです。
葛西臨海公園葦(よし)切り
雨が降って来たので、20分程度で終わりました。
食事をして、午後は、一般参加者も加わり、葛(クズ)のツルを切ることから始まりました。臨海公園ではツルがはびこり、まわりの木の成長をさまたげているのです。そこで、ヨシと同様、葛切りをする必要があるのでへす。
葛西臨海公園 クズ狩り
切り取った葛を集め、その中から適当なツルを選んでリースを作りました。 リース作りのタイトルは「野鳥のためのリース作り」。木の成長の妨げ、鳥が実を食べるのをじゃまする葛のツルを切り取り、輪にし、鳥が食べない(あるいは食べきれない)木の実などを飾りにしてリースを作ります。終了は午後3時でした。
葛西臨海公園 リースを作る
 葦切り、葛狩りといった、ボランティア的な活動に、葛西臨海公園の人が、鳥の観察会とリース作りを指導する。とても良い仕組みを作っておられると感心しました。
小雨で寒かったのですが、とても楽しい葛西臨海公園自然観察会でした。今度はぜひ、晴れた日に行ってみます。

大久保百人町は明治末ごろは郊外だった。

百人町は一丁目から四丁目まであります。
戦前は東京有数の高級住宅街として、戦後は「音楽の町」「楽器の町」として知られていましたが、現在は新宿区内で最も外国人居住者の多い場所として有名です。大久保駅を越しての東側が韓国系のお店が多いですが、百人町側は少し違います。
周辺には、韓国や中国をはじめタイ、ミャンマー等のアジア諸国の料理店・雑貨店がたくさんあります。
戦災で焼けて、いくらか町が整備されたようです。しかし、細長い、組屋敷の雰囲気は残っています。
そして、地理的に新宿の繁華街から連続していて、一般住居や各種オフィスもあり、また各種専門学校もめだちます。

 夏目漱石の『三四郎』に大久保が登場します。
 帝大の理科大学で光の圧力を実験している野々宮が大久保に住み、本郷に下宿する三四郎が日曜日に訪問する場面です。ちなみに野々宮は寺田虎彦がモデルと言われています。
『三四郎』は明治41(1908)に書かれていますが、その数年前の本郷を舞台にしているので、明治30年代末の大久保百人町になるでしょうか。

▼野々宮の家は頗る遠い。四五日前大久保へ越した。然し電車を利用すれば、すぐに行かれる。何でも停車場の近辺と聞いてゐるから、探すに不便はない。……
甲武線は一筋だと、かねて聞いてゐるから安心して乗つた。
 大久保の停車場を下りて、仲百人の通りを戸山学校の方へ行かずに、踏切りからすぐ横へ折れるとほとんど三尺許りの細い路になる。それを爪先上りにだらだらと上ると、疎《まばら》な孟宗藪(もうそうやぶ)がある。其藪(やぶ)の手前と先に一軒づつ人が住んでゐる。野々宮の家は其手前の分であつた。小さな門が路の向に丸で関係のない様な位置に筋違に立つてゐた。

▼三四郎は看病をやめて、座敷を見回した。いかさま古い建物と思われて、柱に寂(さび)がある。その代り唐紙(からかみ)の立てつけが悪い。天井はまっ黒だ。ランプばかりが当世に光っている。野々宮君のような新式の学者が、もの好きにこんな家(うち)を借りて、封建時代の孟宗藪を見て暮らすのと同格である。もの好きならば当人の随意だが、もし必要にせまられて、郊外にみずからを放逐したとすると、はなはだ気の毒である。聞くところによると、あれだけの学者で、月にたった五十五円しか、大学からもらっていないそうだ。だからやむをえず私立学校へ教えにゆくのだろう。それで妹に入院されてはたまるまい。大久保へ越したのも、あるいはそんな経済上のつごうかもしれない。……宵(よい)の口ではあるが、場所が場所だけにしんとしている。庭の先で虫の音(ね)がする。ひとりですわっていると、さみしい秋の初めである。
 「月にたった五十五円しか、大学からもらっていないそうだ。」とあります。その少ない給料では、大久保といった郊外に住むしかしかたないと、しかたなく移ってきたという感じの表現です。

 川本三郎は『郊外の文学誌』で次のように書いています。、
 「本郷界隈に住んでいる三四郎から見ると、郊外暮らしは、都落ちにしか思えないのである。そしてこの三四郎の考えは、市中に生まれた夏目漱石の考えででもあったろう。漱石の頭の中では大久保という郊外は東京に含まれていない。」
 明治の30年代、大久保に住むことは「都落ち」というのです。漱石が住んだ早稲田とは今思うとそんなに離れてはいないのですが、当時は、大久保は東京とは外れた郊外だったわけです。

百人町と皆中稲荷神社

 山手線の新大久保駅と中央線の大久保駅の間、線路に囲まれたあたりが百人町です。
 百人町は、江戸時代、鉄炮隊の大縄地であったところです。
 天正18年(1590)徳川家康が江戸に入る時、家康は北条氏の残党の侵攻を予想して、内藤清成に四谷口、青山忠成に青山口の防備に当たらせました。
 慶長5年(1600)徳川家康は関ケ原の合戦で天下の覇権を握ります。翌年11月、内藤清成と青山忠成を関東総奉行に任命しました。
 その時、内藤清成は5000石から21000石の大名に取り立てられ、与力二十五騎、同心百人を預けられます。大久保鉄砲百人組の成立です。そして、組屋敷(集団住宅地)を後の内藤宿及び大久保に設けました。
 当時、これらの地は未開地だったので、一人当たり1,500坪から2,000坪という広い土地が与えられます。それも間口が狭く細長い形でした。その細長い地割りは現在でも感じられます。鉄砲組百人隊が住んだということで、百人町の地名が残りました。
 鉄砲百人組の仕事としては、江戸城内の三之門の警備を四組の百人組(大久保組・青山組・根来組・甲賀組)が交代で行うことでした。
 その勤務は、月に4回程度(一昼夜勤務)で、古参になると10日に1回という楽な勤めでした。(このとき詰めた番所が百人番所として皇居東御苑に今も残されています)。 この他に将軍の寛永寺、増上寺への参詣の警備などがありますが、俸給は与力がも80石、同心になると30俵2人扶持で、現在の年俸にするとせいぜい100万円程度でした。江戸時代、いかに物価が安かったとはいえ生活は大変で、内職をせざるを得ませんでした。その内職が、大久保の鉄砲組百人隊は「つつじ栽培」でした。
 新大久保駅から少し大久保駅の方に歩くと皆中稲荷神社があります。
皆中稲荷神社
 この稲荷は、天文2年(1533)9月27日鎮座されたと伝えられます。
 そして次のような伝説があります。
 鉄砲隊の与力の一人が射撃が思うように上達せず悩んでいたところ、稲荷大明神が夢枕に立ち、霊符を示されました。翌朝、稲荷神社にお参りして、大矢場で射撃を試してみたところ百発百中だった、というのです。
 以来、皆中を「みなあたる」と読むことで縁起よいとされて、「当たる」「当選する」などの勝運向上を示すご利益があるとされ、宝くじや試験の合格祈願に多くの人がお参りに訪れるということです。
 昭和36年(1961)、江戸幕府鉄砲組百人隊保存会により、江戸時代に行われていた「鉄砲組百人隊出陣の儀」を復活させ、皆中稲荷神社の例大祭にあわせて隔年9月に開催されています。甲冑に身を固めた武将が百人町周辺を隊列行進し、火縄銃を構えた鉄砲隊が、数ヶ所で古式にのっとり試射を行います(新宿区無形民俗文化財)。

大久保長光寺と島崎藤村

 職安通りを、JRの線の近くまで行くと、大久保寄りに長光寺があります。
大久保 長光寺
 長光寺は、曹洞宗長光寺は山号を玉寶山と称し、文禄3年(1594)に甲州武田家の遺臣(法名 直心軒祖道円成居士)により、天正10年(1582)の織田信長との合戦によって滅亡した武田家の菩提を弔うために、建立されたと言われます。
 大久保通りに面して建つ全龍寺と同様、江戸時代からのお寺です。
 この長光寺に島崎藤村の3人の娘たちは埋葬されました。
 少し年譜風に島崎藤村の大久保時代の行動を追ってみます。
 明治38年(1905)33歳 
  3月 4日、志賀村に神津猛(若い大地主)を訪ね出版資金を借用 
  4月29日、小諸義塾を辞職、上京、西大久保に一家を構える。
  5月 6日、三女 縫子 麻疹(はしか)から急性脳膜炎のため死去
  5月    柳田国男の土曜会に出席 国木田独歩を知る
 11月27日、「破戒」脱稿
 明治39年(1906)34歳 
  3月25日、「破戒」自費出版 好評を得る
  4月 7日、 次女 孝子 急性腸カタルで死去
  6月12日、長女みどり肺結核製脳膜炎で死去
 10月2日、浅草新片町1番地に転居   
 長光寺は、大久保の借家の大家坂本定吉が、檀家だったことで、紹介を得ました。
 旧居跡とは近い距離です。
 島崎藤村『芽生』から娘たちの死の様子を見てみましょう。

▼幼児(おさなご)のことだから、埋葬の準備も成るべく省くことにして、医者の診断書を貰うことだの、警察や村役場へ届けることだの、近くにある寺の墓地を買うことだの、大抵のことは自分で仕末した。棺も、葬儀社の手にかけなかった。小諸から書籍を詰めて来た茶箱を削って貰って、小さな棺に造らせて、その中へお繁の亡骸(なきがら)を納めた。

▼墓地は大久保の長光寺と言って鉄道の線路に近いところにあった。日が暮れてから、植木屋の亭主に手伝って貰って、私はこの大屋さんと二人で棺を提げて行った。同じ庭の内の借家に住む二人の「叔父さん」、それから向(むかい)の農家の人などは、提灯(ちょうちん)を持って見送ってくれた。この粗末な葬式を済ました後で、親戚や友達に知らせた。

大久保の家では留守居してくれた人達が様子を案じ顔に待っていた。私はお菊の死体を抱きながら車から下りた。最早呼んでも返事をしない子供に取縋(とりすが)って、家内や姪は泣いた。お房も、お繁の亡くなった時とは違って、姉さんらしい顔を泣腫らしていたが、その姿が私にはあわれに思われた。
 お菊は矢張(やはり)長光寺に葬った。親戚や知人(しるべ)を集めて、この娘の為には粗末ながら儀式めいたことをした。狭い墓地には二人の子供がこんな風に並んだ。
          菊 子 の 墓
          繁 子 の 墓
 愛していた娘のことで、家内はよくお房を連れてはこの墓へ通った。
 私の家に復たこのような不幸が起ったということは、いよいよ祈祷の必要を富士講の連中に思わせた。女の先達は復た私の家へ訪ねて来て、それ見たかと言わぬばかりの口調で、散々家内の不心得を責めた。「度し難い家族」――これが先達の後へ残して行った意味だった。


▼こうして復た私の家では葬式を出すことに成った。お房のためには、長光寺の墓地の都合で、二人の妹と僅(わず)か離れたところを択(えら)んだ。子供等の墓は間を置いて三つ並んだ。境内は樹木も多く、娘達のことを思出しに行くに好いような場処であった。葬式の後、家内は姪を連れてそこへ通うのをせめてもの心やりとした。
 子供の亡くなったことに就いて、私は方々から手紙を貰った。殊に同じ経験があると言って、長く長く書いて寄(よこ)してくれた雑誌記者があった。君とは久しく往来も絶えて了ったが、その手紙を読んで、何故に君が今の住居(すまい)の不便をも忍ぶか、ということを知った。君は子供の墓地に近く住むことを唯一の慰藉(なぐさめ)としている。


▼不思議にも、私の足は娘達の墓の方へ向かなく成った。お繁の亡くなった頃は、私もよく行き行きして、墓畔(ぼはん)の詩趣をさえ見つけたものだが、一人死に、二人死にするうちに、妙に私は墓参りが苦しく可懼(おそろ)しく成って来た。
「父さんは薄情だ――子供の墓へお参りもしないで」
 よく家のものはそれを言った。
 私も行く気が無いではなかった。幾度(いくたび)か長光寺の傍(そば)まで行きかけては見るが、何時でも止して戻って来た。何となく私は眩暈(めまい)して、そこへ倒れそうな気がしてならなかった。
 寄ると触ると、私の家では娘達の話が出た。最早お繁の肉体(からだ)は腐って了ったろうか、そんな話が出る度に、私は言うに言われぬ変な気がした。


 島崎藤村が西大久保を離れて、浅草新片町に引っ越して、4年後、明治43年8月に妻フユを亡くしています。
フユは明治40年に次男鶏二を出産、同41年三男蓊助を出産、同43年四女柳助を出産したあと、出血多量のまま急逝しました。
 フユ夫人は、西大久保の時に、夜盲症にかかっています。それは粗食によるので、病院に通院し、鶏肉や雑物を食すことにより回復はしていました。
 亡くなった、フユ夫人の墓碑は3人の娘と同様、長光寺に建たれます。
 大正11年(1922)フユの13回忌供養を営んだ藤村は、4基の墓を馬込の永昌寺に改葬しました。

大久保で盛んだった冨士講

 稲荷鬼王神社の奥には、昭和5年に作られた「冨士塚」があります。冨士の名前としては「西大久保冨士」と言います。
大久保冨士
元は正面入口近くに高さ6mもした大きな塚でしたが、道路拡張のため、こちらに移動して、上部と下部が切利取られ、2つの山になっています。
「丸山講」の植木屋が中心になって作って大人気を博したそうです。植木屋というには、どちらかと言えば副業で本業は農家だったようです。
 この大久保あたりはもともと、富士講の信者が多かったのか、島崎藤村の『芽生』にも出てきます。
3人の娘さんをつぎつぎと亡くした不幸からのお話です。
 こういう私の家の光景(ありさま)は酷く植木屋の人達を驚かした。この家族を
始め、旧くから大久保に住む農夫の間には、富士講の信者というものが多かった。翌日のこと、切下髪(きりさげがみ)にした女が突然私の家へやって来た。この女は、講中の先達(せんだつ)とかで、植木屋の老爺(じい)さんの弟の連合(つれあい)にあたる人だが、こう私の家に不幸の起るのは――第一引越して来た方角が悪かったこと、それから私の家内の信心に乏しいことなどを言って、しきりに祈祷(きとう)を勧めて帰って行った。
「御祈祷して御貰い成すったら奈何(いかが)です――必(きっ)と方角でも悪かったんでしょうよ」
 と植木屋の老婆(ばあ)さんは勝手口のところへ来て言った。義理としても家内は断る訳にいかなかった。

 熱心なあまりでしょうが入信をすすめています。冨士塚を見て感じるおおらかなものではなかったようです。

「稲荷鬼王神社」と鬼王様通り

「島崎藤村旧居跡」の石碑から職安通りを大久保の方歩いて、左に入ると、稲荷鬼王神社
があります。
稲荷鬼王神社
 稲荷鬼王神社は、承応2年(1653)に稲荷神社が建てられたのがはじまりと伝えられています。そして、天保2年(1831)に紀州熊野より、日本で唯一の「鬼の王さま」という意味を持つ鬼王権現が合祀され、「稲荷鬼王神社」と呼ばれるようなりました。
この「鬼王」については、平将門の幼名が「鬼王丸」といったことから、その名前を取ったという伝承もあります。平将門伝説が伝わっているわけです。
 また、この稲荷鬼王神社では、「鬼王」神社なので、豆まきの際「鬼は内、福は内」と唱えます。
 神社に入るすぐ脇に、邪鬼がささえる手水(ちょうず)鉢(ばち)があります。
稲荷鬼王神社の手水鉢
 江戸時代の造立で、しゃがんだ邪鬼の頭に、邪鬼より大きな手水鉢を乗せた姿をしています。伝承によると、毎晩この水鉢から水を浴びるような音がするため、持ち主が切りつけました。後で調べてみるとその傷跡が邪鬼の肩の所にあり、その後、家族のものが病気や災難に見舞われました。そこで、この水鉢を神社に奉納しましたということです。
 加賀乙彦の小説『永遠の都』に、「鬼王様通り」が出てきます。その道幅はかなり狭かったようですが現在の職安通りです。
「鬼王様通りは、鬼王神社を中心に東西に延びる狭い道だが、両側に店屋が櫛比(しつぴ)していた。"伊勢米"という酒屋と"玉建"という材木屋が格別に大きいほかは、一様に二階建ての小店舗で、八百屋、魚屋、肉屋、パン屋などの食料品店をはじめ、下駄、布団、染物など、およそ人間の生活に必要な物なら何でも売っていた。まだ閉まっている店屋の前を登校の子供たちがぞろぞろと歩く。鬼王神社の真向かいの小路を入ったところに小学校があった。」
職安通り(元鬼王様通り)
 職安通り、現在は、車がたくさん通り、韓国系のお店がたくさん並んでいます。
 稲荷鬼王神社、現在歌舞伎町と呼ばれる場所にあって、維持していくことは、難しいことだと思います。今回行ってみると、邪鬼がささえる手水鉢の横が駐車場になっていました。

島崎藤村が住んだ明治38年の西大久保

地下鉄東新宿駅近く、職安通りに面して「島崎藤村旧居跡」に碑が建っています。 
職安通りの島崎藤村旧居跡の碑
 島崎藤村(1872~1943)は、明治38年(1905)4月29日、小諸義塾を退職して、家族とともに上京しここらあたりに住みました。
 当時の番地で言えば、東京府南豊島郡西大久保405番地にあたり、植木職坂本定吉の貸家に入居しました。実際の場所はこの碑の少し西側に建つ「ノア新宿ビル」のところだったということです。
 この大久保の地で、藤村は、長編社会小説『破戒』を完成させます。その「破戒」によって作家として名声を不動のものとしたのですから、藤村にとって記念すべき場所です。 しかし、ここでは、転居そうそう三女を亡くし、続いて次女・長女も病死するなど、藤村にとって辛い日々をおくった場所でもありました。。
 この西大久保の家を藤村に紹介したのは、画家の三宅克巳(明治学院時代の学友)です。 当時のことをその著『思い出づるまま』の中で次のように書いています。
 「私が大久保の静かな植木屋の地内の新築家屋を発見して御知らせして、其所に住まわれることになったが、藤村さんも未だ幼少なお嬢さん達を引連れ、不安の思いで上京される。間もなく引続く不幸が重なり、とうとう大久保の住居も見捨て、今度は賑やかな粋な柳橋の芸者屋町に移転された。」
 島崎藤村は、この西大久保での暮らしを『芽生』という作品にしています。
 藤村33歳。明治38年4月、小諸から西大久保へ出てきました。
▼私達親子のものが移ろうとした新しい巣は、着いて見ると、漸(ようやく)く工事を終ったばかりで、まだ大工が一人二人入って、そこここを補(つくろ)っているところであった。植木屋の亭主は早速私を迎えて、沢山盆栽などの置並べてある庭の内で、思いの外壁の乾きが遅かったことなぞを言った。庭に出て水を汲んでいた娘は、家内や子供に会釈しながら、盆栽棚(だな)の間を通り過ぎた。めずらしそうに私達の様子を眺める人もあった。この広い、掃除の届いた庭の内には、植木屋の母屋(もや)をはじめ、まだ他に借屋建(しゃくやだて)の家が二軒もあって、それが私達の住まおうとする家と、樹木を隔てて相対していた。とにかく、私は植木屋の住居(すまい)を一間だけ借りて、そこで二三日の間待つことにした。
そのころの西大久保の風景が描かれています。
▼郊外には、旧い大久保のまだ沢山残っている頃であった。仕事に疲れると、よく私は家を飛出して、そこいらへ気息(いき)を吐(つ)きに行った。大久保全村が私には大きな花園のような思をさせた。激しい気候を相手にする山の上の農夫に比べると、この空の明るい、土地の平坦(たいら)な、柔い雨の降るところで働くことの出来る人々は、ある一種の園丁(にわづくり)のように私の眼に映った。角筈に住む水彩画家の風景画に私は到る処で出逢った
大久保はまさに郊外でした。
▼夕餐(ゆうはん)の煙は古い屋根や新しい板屋根から立ち登った。鍬を肩に掛けた農夫の群は、丁度一日の労働を終って、私達の側を通り過ぎた。それを眺めて、私は額に汗する人々の生活を思いやった。復た私は長い根気仕事を続ける気に成った。
 熱いうちにも寂しい感じのする百日紅(さるすべり)の花が咲く頃と成った。やがて、亡くなった子供の新盆(あらぼん)、小諸の方ではまた祗園(ぎおん)の祭の来る時節である。冷(すず)しい草屋根の下に住んだ時とは違って、板屋根は日に近い。壁は乾くと同時に白く黴(かび)が来た。引越以来の混雑(とりこみ)にまぎれて、解物(ほどきもの)も、洗濯物も皆な後(おく)れて了ったと言って、家内は縁側の外へ張物板を持出したが、狭い廂(ひさ)の下に日蔭というものが無かった。
 庭の隅(すみ)には枝の細長い木犀(もくせい)の樹があった。まばらな蔭は僅かにそこに落ちていた。軒からその枝へ簾(すだれ)を渡して、熱い土のいきれの中で、家内は張物をしたり、洗濯したりした。
 今では想像もできない、明治の西大久保での生活です。

昭和10年代、お屋敷町の西大久保

 現在の歌舞伎町2丁目の多くは、元は西大久保と呼ばれた地域です。
 そもそも歌舞伎町ができたのは戦後です。
 昭和23年4月1日に、旧角筈一丁目の北部と東大久保三丁目の一部とを併せて成立ました。町名の由来は、昭和20年代に、以前コマ劇場のあった場所に、歌舞伎場を建設する計画があったので、「歌舞伎町」と名付けられたものです。
 現在の「歌舞伎町」とは、JR新宿駅の北東部、「靖国通り」、「西武新宿駅前通り」、「職安通り」、そして「新宿区役所通り」で区切られた、600m四方の区域(約10万㎡)です。
 現在歌舞伎町に、一丁目と二丁目があります。そしてその境は通称「花道通り」と呼ばれる通りです。花道通りは、歌舞伎町交番辺りから風林会館まで細い道がクネクネと蛇行して走っています(かつてここは蟹川と言われる川でした。)
 花道通りは、今でこそ単なる一丁目と二丁目の境です。実は歌舞伎町には二丁目はなくかつては、西大久保という町名でした。
 その花道通りを少し行くと、明治通りにあたります。この明治通りに沿ったあたりに、
昭和4年生まれの加賀乙彦が住んでいて、著者自伝的小説『永遠の都』にこのあたりのことあたりが出てきます。
大久保界隈 明治道路
川本三郎の『郊外の文学誌』に次のように出ています。
『永遠の都』には、この西大久保に、昭和14年に総理大臣を努めた平沼麒一郎や、そのあとを継いだ阿部信行、また、前田利為(としなり)侯爵の家があったと記されている。
そのほか、陸軍士官学校長輿倉中将邸、警視総監安楽邸、安藤子爵邸、室町伯爵邸、北大路男爵邸などそれぞれ4、5百坪から千坪ほどの屋敷が並んでいたという。
そうした大邸宅があるかと思うと、小市民の文化住宅が並び、庶民的な商店街もある。
その点で、麹町のようなお屋敷町とは違っていた。
 加賀乙彦の家は、現在「東京金属健保会館という建物になっている」ということですが、まるで、その面影はありません。
 一歩明治通りを入ると、ホテル街になっています。
 『永遠の都』から少し引用します。
<昭和10年ごろの風景>
▼門前から石段を下った先が歩道である。大通りは、澄明(ちょうめい)な真昼に陽光を浴びて鯨の背のように黒々と光っていた。往来の車は途絶え馬糞が点々と落ちている。7年前、初江がこの西大久保一丁目の木暮家に嫁いできたとき、このあたりはまだ田圃の名残があって、植木屋の樹木や庭石、仕舞屋(しもたや)の隣に畑地があり、それにとくに雨の日は道がぬかって高足駄の歯に土がこびりつき難儀して、生まれ育った三田綱町に比べると大変な田舎に来たと嘆いたものだった。それが植木屋を立ち退かせ畑を潰して工事が始まり、いつのまにか並木歩道をそなえた"改正道路が"家のまん前を通り、家の敷地も大方削られ、低い路地まで石段で通うことになった。改正道路は池袋、新宿、渋谷を結ぶとあって、東京市の"青バス"の道路となり、円タクも繁々と来て、足の便がぐんとよくなった。道路沿いに家々が新築された。
多く板塀や竹垣に囲まれ、小さな庭と洋風応接間をしつらえた"文化住宅"で明治時代、この地が豊多摩郡大久保と言われた時代より建っている木暮のわが家は、古めかしさで目立つようになった。

<昭和14年ごろの風景>
▼小学校は北西の方角にあった。改正道路を北上し、鬼王様通りという商店街を西行し、途中で北にのぼれば着く、子供の足で10分ほどの距離であった。しかし、改正通りの途中から小道に入って裏道をくねくねと縫って行くほうが変化に富んでいたし、友達にも会える率も多かったので、時間があるときはわざと回り道をした。
板塀、健仁寺垣、芝垣、生け垣、ガラスの破片を埋め込んだコンクリート塀、住む人の心を表して、おのがさまざま、塀が連なっていた。異様に高い黒塗りに板塀は平沼麒一郎邸であった。この1月、近衛内閣のあとを受けて、つい、8月末に総辞職するまで首相だった人は、人を寄せ付けぬ高塀と巨大な猛犬で護られていた。むろん門前に警官が常駐し、周囲の警邏(けいら)も密だった。ぼくら小学生は小走り警察の脇を通り抜け、門の奥の閉ざされた玄関を盗み見るのだった。

明治神宮外苑 いちょう並木

●いちょう並木
外苑いちょう並木 真っ黄色のいちょう
 いちょう並木は東京を代表する並木道として知られています。
 平成24年の12月1日、いちょう並木は今年最もきれいな日だったと思います。
 明治神宮外苑のいちょう並木が誕生したのは、大正12年(1923)のことです。
 手がけたのは明治神宮外苑造成時に庭園主任技師を務めていた折下吉延博士。
 使用されたいちょうの木は折下吉延博士が明治41年(1908)に新宿御苑在来木から採集した種子を、宮内省南豊島御料地(現在の明治神宮内苑)内の描園で育てていたもので、成長していた1600本のイチョウから選抜し、樹形を整えて植樹しました。
 本当にみごとです。
 特に、青山通り口から外苑中央広場円周道路に至る四並列の街路樹として植栽されていて、絵画館を望む展望は特に美しいです。
外苑 いちょう並木

神宮外苑の絵画館と樹木

外苑 絵画館前自動車ショー
 大久保のことを書いておきたいと思ったのですが、紅葉が見たくなって、神宮外苑に行きました。まず、神宮外苑の聖徳記念絵画館へ行ってみると、とてもたくさんの人、自動車のショーをやっていました。それを横目で見ながら、ひとまわりしました。
●まず、聖徳記念絵画館。
外苑 絵画館全貌
 大正15年(1926)に建てられました。
 聖徳記念絵画館は昨年、平成23(2011)に重要文化財に指定されました。
公募により、156点の中から選ばれた小林正紹の原図を基に建てられました。
  長さ 東西112メートル。南北34メートル。 高さ 中央ドーム頂点 地上32.1メートル。両翼 地上16.7メートル 。
 館内には、明治天皇、皇后の様々な歴史的場面を描いた壁画80枚が展示されています。
 「聖徳記念」という命名は明治天皇・昭憲皇太后の御聖徳を永く後世に伝えるために造営されたことによります。
 まわりには、いわれのある樹木があります。
●なんじゃもんじゃの木
外苑 なんじゃもんじゃ
 和名「ひとつばたご」俗名「なんじゃもんじゃ」と呼ばれる名木で、5月のはじめ頃に白い花を咲かせますが、その花の満開時は雪が被ったように見えるようです。
 親木は、幕末の頃、現在の地から南へ約400mの六道の辻にあったので「六道木」とも呼ばれました。大正13年に天然記念物の指定を受け保護されていましたが、樹齢百数十年で、昭和8年に枯れ、現在は二代目だそうです。
●シロマツ
外苑 シロマツ
中国北西部原産のマツで、日本では比較的珍しく、絵画館前庭の池の両側に3本ずつ植えられています。中国では王宮、寺院などに多く植えられており成木は、樹皮がはがれて白い肌がまだらに現れます。 そこからこの名前がきているのでしょう。
●「御鷹の松」
外苑 御鷹の碑後ろに松
 シロマツのある池と、南側の球場の間に森がありますが、「御鷹の松」があります。
 案内見てみます。
「大正7年(1918)明治神宮外苑競技場(現・国立霞ヶ丘競技場)造成のために買い上げた霞岳町の敷地内に境妙寺という古寺があった。昔、徳川家光がお鷹狩りの途中この寺で休憩していたところ、江戸城から「遊女」という愛鷹が飛んで来て、庭前の松の枝に止まったので家光は大変喜び、この松をその鷹の名前をとって「遊女の松」と名付けた」
 その名前を「御鷹の松」と改称したようです。
 そして、「二代目の松(樹齢200年 高さ4メートル)は昭和39年、東京オリンピック開催のための拡張工事の際に取り去られ、碑石は競技場代々木門内に移設されていたが、このたび現在地に移し、新たにこれに黒松を配したものである。」
 というのが、昭和54年(1979)です。
外苑 御鷹の松
 そうすると、この松は三代目になるのでしょうか。
 二代目は単に捨てられたのでしょうかね。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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