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大久保界隈

 コリアンタウンとして、全国的にその名を知られている大久保を、江戸時代の資料、明治、大正、昭和の文学作品を手に、歩いててみました。
大久保イケメン通り
 大久保の概略を言えば次のようになります。
 江戸時代の大久保地域は、鉄砲組百人隊が住む地域でしたが、明治、大正時代から終戦にかけては、戸山界隈とともに東京有数の高級住宅街として知られ、華族や政治家、実業家の邸宅が立ち並んでいました。また、小泉八雲、国木田独歩、島崎藤村ら文学者も大久保界隈に住んでいました。
 ところが、東京大空襲で、町のほぼ全域が罹災し、多くの住人はこの地を去りました。現在も大久保は基本的には住宅街です。しかしながら、新大久保駅周辺、特にその東側は、日本最大のコリアンタウンと言われるにふさわしく、ハングル文字の看板が並んでいます。
 そして、新大久保駅の西側はいくらか様相が変わっています。地名で言えば、百人町です。そおこは韓国だけでなく、中国、タイ、ミャンマー、インド等のアジア諸国の料理店・雑貨店が立ち並んで、多くの他民族が往来する町になっています。
 一方で、北側には、戸山公園といった緑地、新宿スポーツセンターや大久保スポーツプラザなどの運動施設、早稲田大学理工学部のキャンパスや海城中学校・高等学校といった私立中高学校、また、各種専門学校が多く集まる文教地区の町でもあります。
 そのようにかつては高級住宅地で、現在では関東最大のコリアンタウンといわれている大久保、百人町。
 地理的には新宿の繁華街歌舞伎町に連続しており、各種オフィスも多いほか、楽器店やライブハウスが存在して「音楽の町」のイメージも持っています。まさに様々な顔を持つ街として特異な存在を示す「オオクボ」。
 その一面を次回から少し記しておきたいと思います。
 その前に、大久保で思い浮かんだ「キーワード」。
大久保つつじ 郊外 韓国料理 韓国ショップ コリアンタウン(コリア・タウン)韓流 楽器と音楽の町 鉄砲百人組 オオクボ エスニック 多文化共生 ニューカマー ムスリム(イスラム教徒) 連れ込み旅館(ラブホテル)
 本当に多彩な町です。
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旭山動物園

 登別や室蘭が暴風雪により大変んなことになっています。11月27日より大規模な停電が発生したとか。訪問したばかりだったので気になります。早く復旧するといいのですが。
 さて、北海道の旅では、もう1つ「旭山動物園」に行きました。初めてでした。動物園にはあまりなじみがありませんでした、やはりうわさどうり面白いです。今回は2時間しかいられなかったので、今度機会があれば、1日かけてゆっくり見て回りたいと思いました。
旭山動物園 シロクマ館で
旭山動物園 アザラシ館で
旭山動物園 ペンギン館で

北海道で温泉三昧

 1週間ほど北海道へ行っていました。札幌にいた18日(日曜)、初雪が降りました。
実に122年ぶりの遅さ、ということでした。夜にはどっさりと積もっていました。
 その初北海道 定山渓温泉
雪の夜、定山渓温泉に行きました。「章月グランドホテル」に泊まったのですが、ここはとてもすてきな宿でした。まず料理がすばらしい。料理長の藤井修一さんは、人気があったテレビ番組「料理の鉄人」に出演したこともある人だそうで、見た目も美味しい料理を出してもらいました。もちろん温泉も良かった。
北海道 定山渓温泉野天風呂
 この定山渓温泉のマスコットは河童です。野天風呂にもいました。
 次の日は、登別温泉。こちらのマスコットは鬼。登別温泉の名所である地獄谷から着想を得たようですが、バスの中から鬼をたくさんみかけました。
 宿は、第一滝本旅館。本館の1階と地下1階は吹き抜けになっていて、高さは9mの大金棒がありました。時間になると、からくり仕掛けで桃太郎と鬼が現れます。
北海道 登別温泉 ロビーの金棒
 ここは、男性大浴場に18ヵ所、女性大浴場に17ヵ所の浴槽があり、いろいろな効用のお湯に入れます。ついつい長湯をしてしまいました。
北海道登別温泉 露天風呂

「吉例顔見世大歌舞伎」

久しぶりに新橋演舞場に歌舞伎を見に行きました。吉例顔見世大歌舞伎の夜の部です。
一、 谷嫩軍記、 熊谷陣屋(くまがいじんや)
中幕  汐汲(しおくみ)蜑女苅藻は藤十郎
二、 四千両小判梅葉(しせんりょうこばんのうめのは) 四谷見附より牢内言渡しまで
その「四千両小判梅葉」は15年ぶり上演だそうです。河竹黙阿弥作。明治18年(1885)東京千歳座初演。安政年間(1854~1860)の江戸城御金蔵破り事件を脚色したものです。
これは初見です。あらすじは次のようです。
江戸城から四千両を盗んだ富蔵は、三百両を持って、加賀の母の元へ行きますが捕らえらます。籠に入れられ江戸に戻される途中、雪が降る熊谷で役人の恩情により妻子と父親に会うことができました。そして、牢に入りますが、四千両も盗んだということで、牢の中では二番役(牢名主に次ぐNO.2)となります。(ここの描写はドキュメントタッチです)そして刑の言い渡し、市中引き回しの上死刑となります。
四谷見附の場から始まりました。濠に橋がかかり、高麗門があって、櫓も見え、枡形が予測できます。でも、なんとなく内濠のような感じです。濠の向こうの御金蔵から盗もうという会話がなされるのですが。指さしたりすると、もうすぐそこが城内のように思えます。
でも、富蔵のおでん屋が出ているし、四谷見附だなと納得して見ました。
その四谷見附に藤岡藤十郎がやってきます。富蔵がむかし中間奉公をしていた武家の人です。藤岡藤十郎は、辰巳屋の遊女お辰に入れあげて金に困っていました。そこで、いまはおでん屋っをしている富蔵に御金蔵破りの話を持ちかけられます。
そして、次の場面、四千両を盗み出すことに成功して、藤十郎の家にやってきます。
藤十郎はすぐに山分けしようとしますが、富蔵が藤十郎の家の床下へほとぼりが冷めるまで埋めておこうと言います。
それから、雪の熊谷の場面になりました。
 四谷見附の場で、「ちくま味噌」が出てきます。
 九助、伝次の遊び人2人が、富蔵におでんをご馳走になります。
九助 ごまぢゃねえが、お前の味噌は、めっほうけえ味がよくついている。
富蔵 代物がよくなけりゃあどうしても売れねえから、永代のちくま(乳熊)までわざわ ざおれが買ひに行くのだ。
伝次 道理で味がいいと思った。味噌はちくまにかぎるのう。
九助 自身にちくまへ買ひいにゆくとは…・
 このちくま味噌は、永代橋の近くに今もお店があるようです。
 ちくまで有名なのは、赤穂四十七士との関わりです。
ちくま(乳熊)の初代作兵衛は風流の道を嗜み宝井其角に師事し、赤穂浪士の一人大高源吾とは俳諧の友でした。赤穂浪士の一行がめでたく本懐を遂げ、泉岳寺への引き上げていく途中永代橋に差し掛かると、ちくまの作兵衛は一行を店に招き、甘酒粥を振る舞ったと言われます。
 このちくまの味噌を使ったみそ汁、先日、楠公レストランハウスで食べました。楠公レストランハウスでちくま味噌売っていましたが、永代橋で買ってみたいです。
 久しぶりの歌舞伎、やはり歌舞伎はイイな。

万両、千両、十両 吉祥草

万両、千両、百両、十両。
自然教育園で見ました。万両、千両、十両の実。十両は、「薮柑子(やぶこうじ)」です。
百両がないのが残念です。
マンリョウ(万両)
自然教育園 万両
センリョウより沢山実が付くことから、 マンリョウの名前が付いたと云われています。まだ赤くなっていませんが雨の翌日、瑞々しいです。園芸種では白や黄色の実を付けるものがあります。
センリョウ(千両)
自然教育園 千両
山林の半日陰に自生する常緑小低木。花は黄緑色で小さいです。
ジュウリョウ(十両) ヤブコウジ
自然教育園 十両 やぶこうじ
ヤブコウジの名は近代になって付けられたが、 古くは赤い果実を山のミカンに見立てたヤマタチバナ(山橘) の名で良く知られていました。 それがヤブコウジ(藪柑子)になったという。 タチバナはコウジミカン(柑子)の古名。
万両の実は垂れ下がり、千両は葉の上の方に実をつけます。一説に万両の実は重く千両の実は軽い、との発想からこの名になった、ともいわれています。
また、一両/もあるようです。それは蟻通(アリドウシ)だそうで、一度に揃えてみたいです。

もうひとつおめでたい花を見ました。
自然教育園 吉祥草 花
きちじょうそう(吉祥草)です。葉が密で、なかなか花を見ることがありません。
「花が咲くことが少なく、たまに花が咲くときにはよいこと(吉事)があると言われたため付いた名前」と言われていますが、実際には毎年秋に花を咲かせているようです。ただ生い茂った葉に隠されて、葉をかき分けなければ花が見つからないだけのようです。

迎賓館赤坂離宮の前庭公開

迎賓館赤坂離宮の前庭公開が11月1日(木)~3日(祝・土)計3日間開催され、行って来ました。(いろいろ行事が重なってアップできませんでした)。
 迎賓館赤坂離宮は、明治42年(1909)建造されました。
設計したのは片山東熊。日本建築史上唯一の「宮廷建築家」です。
欧州留学の際に各国の宮廷をつぶさに調査して、欧州の王室と並ぶ存在としての皇室にふさわしい建物を作るよう、宮廷建築家の集大成として取り組みました。
迎賓館 庭
 元々は皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の住居として建築されたものです。
しかしそのネオ・バロック様式の外観があまりにも華美に過ぎたことや、住居としての使い勝手が必ずしも良くなかったことから、皇太子嘉仁親王がこの御所を使用することはほとんどありませんでした。
 藤森照信『日本の近代建築(上)幕末・明治篇』岩波新書、には次のようなエピソードが出ています。
 <宮殿が完成した時、片山は明治宮殿に参上し、写真帖を使って明治天皇に報告をした。すると天皇は、「ぜいたくだ」と一言だけ洩らされ、口をつぐんだ。この一言は、片山はじめ関係者の心を一瞬に凍らせ、工事中は毎週現場を訪れていた皇太子も移り住むことはできなかった。ショックは大きく、片山は長らく床に伏し、回復の後も仕事は下僚にまかせるようになり、自宅の庭の温室にこもって蘭の栽培に日々を送り、大正四年、辞官し、二年して没した(大正六年)>
 嘉仁親王が天皇に即位した後は離宮として扱われることとなり、その名称も赤坂離宮と改められます。
 その後も東宮御所となるもあまり使われることなく、戦後は、国会図書館やオリンピック委員会が入居という数奇な運命を経て、昭和49(1974)年に迎賓館となって現在に至るのでした
 正面外観
 迎賓館 表
迎賓館赤坂離宮は、ネオ・バロック様式の壮麗な洋風建築で、緑青の屋根、花崗岩の外壁、各種の装飾類などが調和のとれた美しさをかもし出しています
 正面玄関
迎賓館 扉
 和風要素を取り入れた七五の桐の紋付き扉。
 屋根
迎賓館 屋根 武者像
 緑青の屋根には日本の甲冑を形どった装飾が左右対称をなしています。
迎賓館 天球
 正門
迎賓館 門 内側から
 建設当時、わざわざフランスから輸入したものだそうで、国宝に指定されています。

花園神社の酉の市

 花園神社は、家康の江戸入府以前より祀られていた稲荷の祠がはじまりと伝わります。場所は現在の伊勢丹の付近にあったものが、その地が寛政時代に旗本・朝倉筑後守の下屋敷として拝領したため、替え地として現在の場所に移りました。。
 花園神社の名前の由来は、この地が元尾張徳川家の屋敷の一部で、美しい花が咲き乱れていたからと言われます。
今日は酉の日、行ってみましたが、とてもたくさんの人で、動きが取れませんでした。
花園神社 酉の市 賑わい
 酉の市は、大鳥神社の祭神である日本武尊が東夷征伐の戦勝祈願をし、帰還の時にお礼参りをしたことにちなみ、日本武尊の命日である11月の酉の日に行われるようになりました。
花園神社 酉の市 
 花園神社と酉の市との関わりは、昭和40年に境内末社であった大鳥神社(尾張徳川家に祀られていたものと言われる)を本社に合祀し「花園神社」としたことから始まったようです。
 花園神社の酉の市は、比較的新しいものです。以前は、新宿区では、四谷の須賀神社が本場だったようです。須賀神社でも酉の市は開かれていますが、少し寂しいです。
花園神社 酉の市 お店1
花園神社 酉の市 大きな熊手

龍善寺 阿弥陀如来立像

 落馬地蔵を少し先に行くと、真宗大谷派 龍善寺があります。
 龍善寺は、寛永15年(1638)に創建されました。宗派は、真宗(浄土真宗)大谷派で、本山は、京都・東本願寺になります。このお寺の本尊は、親寺である三河(現在の愛知県岡崎市)の「上宮寺」より移された阿弥陀如来像で、約800年前の鎌倉時代初期の作と言われ、新宿区指定有形文化財文化財になっています。
龍善寺 阿弥陀如来立像
 新宿区教育委員会の案内を借ります。
 寄木造り、漆箔仕上げ。像高95・1センチ。12世紀末(鎌倉時代初期)の作品で区内でも最も古い仏像彫刻のひとつである。
 龍善寺は寛文7年(1667)に現在地に移ったが、この像は当時からの本尊である。頭部の螺髪は細かく刻まれ、表情には上品さが漂っている。体は丸く弧を描くようななだらかな肩をもち、穏やかな表情や腰の高い胴体と相まって優美さが感じられる。全身を包む衣は極めて浅く刻まれ、腹部から股間に沿って流麗な衣文線が施されている。
 いわゆる定朝様(平安時代の仏師)の優品である。
 このほか龍善寺には、三河上宮寺の旧本尊であった聖徳太子像の胎内にあった、像高30センチ程の聖徳太子像も安置されている。 平成9年(1997)5月 新宿区教育委員会

 昨年改修されたとかで、とてもりっぱな本堂でした。

落馬地蔵尊

 東京メトロ早稲田駅を出て鶴巻南公園の方へ少し行くと、小さなお堂に三体のお地蔵様がならんでいます。
 落馬地蔵尊とあります。
落馬地蔵
 寛永3年(1626)のこと三代将軍徳川家光が鷹狩をしに高田馬場へ向かう途中、ここで急に馬がいななき、立ち上がったため落馬してしまいました。
 馬の名手だった家光が落馬するには、何かがあったのだろうと、村人に調べさせると、
近くを流れる川の橋の下から1体の地蔵菩薩の石像が現れました。
 そのことを、家光に報告すると「尊いお地蔵様を粗末にしたからだ」と家光は「落馬地蔵」と名付けお堂を作ってお祀りするように命じました。
 というような言われがあります。
 今のお地蔵様は太平洋戦争で焼失してしまい、新しく造られたようです。
 家光にまつわる伝説はたくさんあります。
 鷹狩りに出て命名した箇所、新宿区に限ってみても次のようなものがあります。
<淀橋>
家光が鷹狩でその橋に来た時、「姿見ずの橋」と呼ばれる不吉な名前だったので、この川の風景が京都の淀川に似ていることから、「よどばし」と命名したと言われます。
<蜀江坂 >
家光が鷹狩でこの地を訪れた時、紅葉の美しさを蜀江の錦のようだと称賛したことからこの名前が付いたと言われます。
<笹寺(長善寺)>
家光が鷹狩の際にこのお寺に立ち寄り、周辺に笹が生い茂っていたため命名したと伝えられます。
 落馬ということで、有名なのは、その死因が落馬によると言われている源頼朝です。
 源頼朝は、正治元年(1199)1月13日、53歳で死亡しましたが、この前年12月27日、御家人稲毛重成が亡妻の追善供養のため相模川に架橋し、頼朝はその落成式に出席して、帰りの道中に落馬したということが、吾妻鏡に記されているので、それが死因という説が生まれました。
 その記事を、源頼朝の最期としては、不名誉な内容であると、徳川家康が記載すべきではばいと、その箇所を隠してしまったという説話もあります。
 その家康にも落馬伝説があります。
 あの明智光秀の事件の時、堺にいた家康が急きょ岡崎に帰る際、途中で家康が田んぼに馬から落ちて引き上げられた という伝説があります。
 鈴鹿市あたりで、そこは、布を敷いて助けた農民に布を数える単位の疋田という名前を与えたということで,その場所には落馬地蔵がたてられたといいます。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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