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「出雲-聖地の至宝-」

 昭和59年(1984)、60年(1985)、島根県荒神谷遺跡で銅剣358本、銅矛(どうほこ)16本、銅鐸6個が発見されました。当時大きなニュースになり、話題になったのを覚えています。
 その記憶がまだ濃いい、平成6年の6月、2泊3日の講師同伴の出雲の古代史の旅に参加しました。残念ながら、内容はよく覚えていませんが、「大和政権が成立する前には出雲王朝があった」実感を持ったこと、その時の風景、神の国の雰囲気が記憶に残っています。
出雲大社にお参りして、博物館などで、たくさんの銅鐸、銅剣、銅矛も見ました。
 今、上野の東京国立博物館で現在、特別展「出雲-聖地の至宝-」が開催されています。
出雲展のポスター
「出雲」というポスターを見て、そのころのことを思い出し、ぜひ展示を観たいと思いました。
 会場に入ると、最初に目に飛びこんで来たのが平成12年(2000)4月に、発見された出雲大社の宇豆柱(うづばしら)です。太い杉の丸太で、直径が1本で1.3.メートル、3本束ねて、直径が約3メートルの柱になる杉の木です。かつて出雲大社には、その柱に支えられた大きな神殿が造られたことを物語っています。会場には、高さが48メートルあったとされる平安時代の出雲大社の10分の1の復元模型が展示されています。
 そして、荒神谷遺跡、加茂、岩倉遺跡出土の、国宝青銅器が79点も出品されていて、みごとでした。製作当初の金色に光輝く状態にした、復元模造品も展示されていて、こんなにきれいだったのかと、驚きます。
 銅鐸は神を招くカネといわれています。そのルーツは中国や朝鮮半島で家畜の首に付けられていた小さな鈴だとか。(東京は、新宿でも小さな銅鐸が発見されていて、新宿歴史博物館のマスコットにもなっています)。
 弥生時代前期の終わりごろ、日本に伝わるとしだいに大きくなり、祭りのための道具として使われました
 銅鐸は実際に鳴らすもの(聞く銅鐸)でしたが、しだいに大型化し、鳴らさずに遠くからあおぎみるだけのもの(見る銅鐸)へと変わっていきました。
 古代の想像図に、銅鐸が、木の枝に吊されて、拝まれている風景がりました。
 どんな風に使われていたのでしょうか。
 銅矛、銅剣も祭りのための道具でした。
 銅鐸が神を呼ぶカネであったのに対し、銅剣や銅矛は悪霊をはらうものであったと考えられています。
 久しぶりの古代出雲との体面、気持ちが高揚しました。
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東京グリーン2012  上野恩賜公園

 28日で、終わってしまいましたが、東京グリーン2012(第29回全国都市緑化フェアTOKYO  GREEN 2012)の上野恩賜公園会場です。東京国立博物館の「出雲-聖地の至宝-」に行って、見ました。
 「東北復興への想いや祈り」、「農の風景」の再現をデザインコンセプトとした「東北『農』の庭(共助のガーデン)です。
上野 シンボル「立つ人」
上野 シンボル「立つ人」が見える
上野 向こうに博物館が見える
上野 短冊で飾られた 地球


ガマズミ

 フジバカマのとなりで真っ赤な実を実らせていたのが、ガマズミでした。
ガマズミ(がまずみ)の実
 ガマズミで果実は食べられます、9~10月には真っ赤ですが、まだ甘味が少なく、渋みと酸味が強いです。晩秋の頃に表面に白っぽい粉をふき、そのころからは甘くなります。
 多くは焼酎とかに入れ、果実酒にします。とてもきれいな深紅の色になります。
 名前の由来はよく分かりません。1説に、枝が折れにくいので、道具類の柄にします。そこれで、ガマは鎌(かま)から来ていて、ズミは酸っぱい実ということです。
 また「神つ実」であるという説や、ズミは染めに使用するとの意味といった説もあります。
ガマズミ(がまずみ)の花
 よく見ると、花が残っていました。花期は5-6月ですので、不思議です。葉っぱはもう色づいているのですが。

フジバカマ(藤袴)

 皇居東御苑に行って、二の丸で、フジバカマを見ました。
 フジバカマは秋の七草の1つですが、古い時代に中国からもたらされた帰化植物であると考えられています。現在、準絶滅危惧(NT)種に指定指定されています。
フジバカマ 1
 秋の七草は、山上憶良から来ています。
 「芽子の花尾花葛花矍麦の花女郎花また藤袴朝貌の花」 山上憶良
 萩の花 芒 葛花 撫子花 女郎花 藤袴 桔梗が、万葉の時代から秋の七草として愛でられています。
 もうひとつ古典で、『源氏物語』の30帖が「藤袴」です。
 光源氏の使者として玉鬘を訪れた夕霧が、藤袴の花に託して、歌を贈ります。その時、持っていた藤袴の花を、御簾(みす)の下から中へ入れて、
「おなじ野の 露にやつるる藤袴 哀れはかけよ かごとばかりも」
「たづぬるに 遥けき野辺の露ならば うす紫や かごとならまし」 かえし
『古今集』にも
 「なに人か きてぬぎかけし藤袴 くる秋ごとに野べをにほはす」  藤原敏行
 「やどりせし 人のかたみか藤袴 わすられがたき 香ににほひつつ」 紀貫之
 「ぬししらぬ 香こそにほへれ秋の野に たがぬぎかけし 藤袴ぞも」 素性法師
 いずれも香りを詠っています。
フジバカマ とハチ
 フジバカマは、生の時は香りませんが、乾燥するとその茎や葉に含有されている、クマリン配糖体が加水分解されて、オルト・クマリン酸が生じて、桜餅の葉のような香りがするだそうです。
 名前の由来としては、花の色が藤色で、花弁の形が 袴(はかま)のようだからということです。

「山本高樹 昭和幻風景 ジオラマ展」

 日本橋髙島屋で開催されている「山本高樹 昭和幻風景 ジオラマ展」に行きました。
平日の午前でしたが、会場はたくさんの人で、まずそれに驚きました。「昭和幻風景」ということで、懐かしくて感動しているようでした。ま、それだけ年輩の人が多かったわけですが。
梅ちゃん先生」のタイトルジオラマ2
 山本高樹さんは、NHK連続テレビ小説「梅ちゃん先生」のオープニングの蒲田の風景で、多くの人に知られたのだと思います。
 展覧会場で作品を見たとき、先ず目に入ったのは、永井荷風でした。
ジオラマ 永井荷風
 アレ、と思いました。見たたことがある。
 ずっと前から見ていたのです。
雑誌「荷風!」表紙ジオラマ
 江戸時代からの懐かしの町の紹介をしている「荷風」という雑誌があって、まちあるきがすきなので、時々見ていたのですが、その表紙が、山本高樹さんのジオラマでした。
 山本高樹さんは永井荷風に特別な思い入れがあるのでしょう。特に「日和下駄」が好きなのでしょう。会場のビデオで山本高樹さんが町を歩いている姿が映りましたが、下駄を履いておられました。
 御年47歳ということで、作品の世界はじかに見たわけないのですが、非常にリアル。そうだったなと思い出させます。人が生きている感じで、当時の空気がきちんと生まれているように思いました。
 会場に、山本高樹さんがおられ、作品集にサインをしておらえました。梅模様の猫を描いてのきちんとしたサインでした。私も欲しくなって、作品集を買いに行って、サインしていただきました。
 家で見ていると、帝都座の額縁ショーがありました。
 帝都座の額縁ショーというのは、舞台上の額縁の中で、裸体の女性が数十秒間ポーズをとるだけのものでしたが、ヌードを見たい観客が殺到して行列ができたと言われています。
 帝都座は新宿伊勢丹の前、現在、丸井がある場所にあった映画館と劇場を持った館でした。この額縁ショーが好評だったことから浅草のロック座などでストリップ・ショーの上演が始まり、昭和24年には日劇小劇場でもストリップの上演が始まります。そうすると、宇垣のない額縁ショーは、廃りました。
 コレ見逃したな、とちょっと残念だったので写真を借ります。
ジオラマ 額縁ショー 

アオマツムシ(青松虫)

 書きたいことはたくさんあるのですが、落ち着いてまとめられません。
 そこでもうひとつ、自然教育園でみつけた虫。
 アオマツムシ(青松虫)です。
 自然 アオマツムシ
きれいな緑色をしたマツムシの仲間です。葉のようで、みのがしがちです。
 樹上にいて、オスは、「フィリリリリリ」あるいは「リーリーリー」と、かん高くよく響く声で鳴く、と言われます。。
 もともと日本にはいなかった虫で、中国から入ってきて増えた帰化昆虫のようですが、今は数が増え、都市部の街路樹や庭木にも多く生息していて、東京では最も鳴き声を耳にする秋の虫、ということです。鳴き声聞いていると思います。
 オスは、はねの模様が複雑になっているので、写真はメスのようです。
 図鑑にも、樹木の幹の低いところにとまっているメスをよく見かける、と出ていました。

自然教育園 秋の草花

自然教育園で、たくさんの草花を見ました。小さな花を虫眼鏡で見ると、とてもきれいで、感動します。歩くときに、虫眼鏡、必携です。
メナモミ(めなもみ)
自然 メナモミ(めなもみ)
キク科の一年草。上部は開出毛を密生しています。舌状花は黄色で長さ約3、先端は3裂。総包片は5枚でへら形、腺毛(せんもう)があって粘着します。いわゆる「ひっつき虫」です。
イヌショウマ(犬升麻)
自然 イヌショウマ 「犬升麻」
花は白色で穂状に多数つきます。つぼみが開くとみが開くと花弁と萼は落ちてしまい、白色の雄しべが花のように見えます。ショウマとはサラシナショウマ(晒菜升麻)のことで,サラシナショウマは干した根が漢方薬として使われるのに対して,イヌショウマは薬用にならないのでつけられたイヌがついた名前になっています。
自然 ほととぎす
ホトトギス(杜鵑草)
花にある紫の斑点が鳥のホトトギスの 胸にある模様と似ていることからこの名がつけられました。
シモバシラ(霜柱)
自然 シモバシラ(しもばしら)
秋、枝の上部の葉のわきに 片側だけにズラッと白い花を咲かせます。
冬になると、枯れた茎の根元に"霜柱"のような「氷の結晶」ができるところからこの名前がつきました。
ミズタマソウ(水玉草)
自然 ミズタマソウ
果実は球形で鉤(かぎ)状毛を密生します。名は、白毛のある球形の果実に由来します。
なかなかしゃれた名前です。
チャノキ(茶の木)
自然 茶の木
花は10-11月頃に咲く。花は枝の途中の葉柄基部から1つずつつき、短い柄でぶら下がるように下を向きます。ツバキの花に似ていますが、花弁が抱え込むように丸っこく開きます。
トラノオスズカケ(虎尾鈴懸)
自然 トラノオスズカケ(とらのおすずかけ)
自然 トラノオスズカケ
真上から見ると小さいアザミのような印象でスズカケになります。トラノオ(虎の尾)は少し枯れてきた写真がその感じが出ています。
自然教育園では、江戸時代、平賀源内が讃岐から持ち込んだと考えられています。現地でも絶滅危惧種。

自分の家からはじめるまちなか緑化

 まちなか緑化・Machinaka Green Magic、というのは、公益財団法人東京都公演教会が、民有地を対象とした緑化推進事業です。個人の家に緑を生かし、地域で緑を増やし、心地よい東京の町を作ろうと、現在5箇所の地域で、取り組んでいます。
 そのうちのひとつ池袋を、その活動を指導、コーディネートされている甲斐徹郎氏と正木覚氏に案内していただきました。
 緑を大切にということで、緑比率を増やす努力を、公では努力し、実績をあげているように発表されていますが、個人の緑は減っているのだそうです。
 まず個人の緑を生み、それを地域に広げる、そうした展開が、この活動の特色です。
 正直に言えば、案内してもらって、ただぼんやり歩いていたら、おそらく気がつかないだろと思う「緑」でした。
 しかし、時に、そこに住まわれている人が出てこられ、感想を語られたりして、歩くうちに「このまちなか緑化」の意義を感じてきました。
 キャッチフレーズ「緑が1本あるだけで風景や環境や気持ちが変わる」が生きています。
 わずかなペースでも、緑は生かせる。
まちなか緑化 デッドスペース利用型
 コンクリートの所では工夫されたプランターを利用する。
まちなか緑化 プランター利用型
 お隣さんへと緑がつながる。
まちなか緑化 お隣さんと緑のつながり 
 コーヒー屋さん、緑のアーチがお客を誘う。
まちなか緑化 お店に迎えるアーチ型
使っていない場所をお隣さんと共有して、少しでも大きな緑。
まちなか緑化 共有庭型

第29回全国都市緑化フェアTOKYO関連のイベントから

 第29回全国都市緑化フェアTOKYOということで、公園を中心にイベントか組まれています。行ってみたいと思っているのですが、時間がなかなか取れません。
 まず、フラワーガンダム
「フラワーガンダムトピアリー」
 「ダイバーシティ東京 プラザ」に、第29回全国都市緑化フェアTOKYOへの参加を呼びかける、フラワーガンダムが作られています。
  1979年の「機動戦士ガンダム」放送から30年以上を経て、いまなお進化し続けるガンダムワールド、というキャッチフレーズがありましたが、なぜガンダムなのかは分かりません。
 でも花できれいにできていました。

 「丸の内仲通りガーデニングショー2010」。
 このイベントの誘いの言葉が気に入りました。
 <「花笑み」とは、万葉集にも登場する歴史ある言葉で、花が咲くこと、また咲いた花のような笑顔を表しています。江戸城があった四百年前から日本の中心的なエリアとしての役割を果たしてきた「丸の内」。その歴史的な街のメインストリートである「丸の内仲通り」が、多くの花で彩られ、そこに人々が集い、出会いや交流が生まれ、見る人全てに笑顔をもたらし、新しい何かが生まれるようにとの願いを込めています。>

で、万葉集の花笑みの歌を探してみました。
  道の辺の草深百合の花笑みに笑みしがからに妻と言ふべしや
(道端の草深いところに咲き匂う笹百合花のように、微笑んだからといって、もうあなたの妻になったのではありません)
 百合の花が魅せる笑みなのですね。
 丸の内仲通りに、小さなガーデニングショーが催されていました。
 「井戸端会議が集いの源」
井戸端会議が集いの源
 「江戸仕草」
「江戸仕草」
 と江戸風味のガーデンを楽しみました。
 それに、第29回全国都市緑化フェアTOKYOでもうひとつ。
まちなか緑化 フリマとカフェめぐり&ガイドツアー
 『まちなか緑化』を紹介するイベント、"まちなかグリーンマジック"に参加しました。池袋の西口を歩きました。写真があるので、次回に少しご紹介します。

復元なった東京駅

 復元工事を終えて10月1日に開業した東京駅を見てきました。
新丸ビルから見た東京駅
 東京駅の設計を担当したのは、日本銀行本店などを手がけた辰野金吾(1854~1919)です。6年9か月かけて完成させました。
 重厚に作られた駅舎は、関東大震災でもゆるぎませんでしたが、昭和20年(1945)の5月の空襲で炎上し、ドーム屋根と3階部分を焼失しました。
 急遽行われた修復工事では、ドームに代えて八角形の屋根がかけられ、3階部分は再建されませんでした。
 今回の復元工事は、平成19年(2007)5月に開始され、5年をかけ完成。10月1日に開業しました。10日、過ぎたですが、まだ、立ち止まって私のように写真を撮っている人は多かったです。
東京駅 ドーム
 創建当時を再現したドーム形の屋根です。高さは約35メートル。これまでの八角屋根より約2メートル高くなりました。
そこには下から見ると小さいですが、2メートルを超える鷲の彫刻や花飾り、干支や、豊臣秀吉の兜(かぶと)をかたどった飾りなどもあります。
東京駅の一番線から見た駅の屋根
 屋根材は天然スレートと呼ばれる、薄い石版で出来ています。
 このスレートは、駅舎が戦後に再建された際に使われたのと同じ宮城・石巻市雄勝町(おがつちょう)産を使用することが決まっていました。
 しかし、スレートの多くが、あの大津波で流されてしまい、瓦礫の中に奇跡的に残ったスレートを手作業で約4万5000枚回収、泥を洗い流しました。うち4万枚が使用可能と判断され使用されました。全体では45万7000枚が必要で、残りはスペイン産や被災を免れた登米産などを使ったと報道されていました。
 上の写真は、1番線(中央線高架ホーム)から見た屋根です。
東京駅 1番ホームから見た0キロポスト(起点標)
これは知らなかったのですが、東京駅の紹介のテレビで知った0キロポスト(起点標)です。
鉄道路線の起点からの距離を示すのは距離標(キロポスト)と言いますが、起点を表すのは起点標(0キロポスト)と呼ばれ、東京駅には、中央線、東北本線、東海道本線・東海道新幹線、東北新幹線、総武本線の0キロポストが設置されています。
これも1番線(中央線高架ホーム)から見える0キロポストです。

小平市制施行50周年平櫛田中生誕140年記念「平櫛田中展」

 小平市制施行50周年平櫛田中生誕140年記念「平櫛田中展」に行ってきました。
 国分寺でJRを下りて、西武多摩湖線で一橋学園駅に行き、駅から10分ほど歩いた場所にあります。
 風情のある一橋大学の小平国際キャンパスがあり、めざす平塚田中美術館の先には玉川上水が流れ、なかなか素敵な所です。
平櫛田中の邸宅跡
 平櫛田中は、明治5年、岡山県井原市に生まれ、大阪の人形師・中谷省古のもとで彫刻修業をしたのち、上京して高村光雲の門下生となりました。
 この小平市に住んだのは、昭和45年です。昭和54年に107歳で亡くなるまでの約10年間をこの地で過ごしました。
 土地はその前から持っていたようですが、家を建てたのは98歳のときです。病気だった娘のために、玉川上水を望むこの地を選んだと言われています。
 美術館と、住まいも拝見することができます。
 今回は小平市制施行50周年と平櫛田中生誕140年を記念しての展覧会です。
 平櫛田中の作品を1つ。犬を飼っていたので、犬に目が行きます。
平櫛田中 新春
 「新春」です。(木彫彩色 昭和元年頃 高 19.0cm)
 平櫛田中が飼っていた子犬をモデルにして作られたもので、やぶこうじを引っ張っている様子が、いきいきとかわいらしく彫出されています。
 大正15年と昭和2年に、長女と長男を続けて亡くした時期でした。タイトルや子犬の風情に何か希望をつかみたいといった思いが感じられます。
 館の方へ行きました。
 方形の大きな屋根を特徴とする和風建築です。国立能楽堂の設計で知られる建築家大江宏氏の設計で、98歳のときに建てられので、「九十八叟院(そういん)」とも呼ばれています。中にアトリエもありました。
100歳の時購入した20年後の彫刻原木
 表のお庭に、100歳のとき「20年後の制作のため」に購入した巨大な彫刻用原木クスノキが置かれていました。
 生きる意欲がすごいです。
 「六十、七十は鼻たれ小僧、男ざかりは百から百から、わしもこれからこれから」
 「やってできないことはない、やらずにできるわけがない」
 「いまやらねばいつできる、わしがやらねばだれがやる」
 帰りに、玉川上水を少し散策しました。
玉川上水

近衛篤麿を顕彰する記念碑

 落合という地域を考える時は、どうしてもおとめ山(御留山)が基準になります。おとめ山は、江戸時代にこの一帯が徳川家の狩猟地で一般人の立ち入りが禁止されていたことからその名がきています。
 このおとめ山の北方に徳川黎明館があり、さらにその北に「上り屋敷」地区があります。「上り屋敷」というのは、狩猟に来た将軍がお休みになった所です。かつて、駅名にもあったようですが、今は、公園にその名前を残しています。
上がり屋敷公園
 江戸時代にはこの一帯が将軍家の所有だったことが分かります。
 明治時代に入ると、この徳川家の土地を近衛家と相馬家が所有し、相馬家の所有部分は「林泉園」いう庭園となります。
 近衛家は、近衞 篤麿(このえ あつまろ)です。文久3年6月26日(1863年8月10日)に生まれ 明治37年(1904年)1月1日に没しています。
 近衛家は五摂家筆頭の家柄で、公爵。近衞 篤麿は、第3代貴族院議長、第7代学習院院長、帝国教育会初代会長をつとめています。
享年42。まだ若く将来を嘱望されていましたが、中国に渡航したさいに感染した伝染病が原因となりました。
 近衛邸は大きく、近衛邸の屋敷塀がえんえんと続いていたようです。
 今、地域文化財として、近衛篤麿を顕彰する記念碑が残されています。大正13年に建立されたものです。
近衛篤麿顕彰記念碑 表
近衛篤麿顕彰記念碑 裏
 明治37年(1904)に篤麿が没すると、大正11年よりその邸宅が「近衛町」と銘打ち分譲されました。このことから、近衛家の足跡を記すために建立されたものです。
 近衛篤麿が亡くなると多大な借金が残されていました。そのため、土地が分譲されました。
 記念碑の材質・形状・構成は次の通りです。
 青銅製(塔心部)・花崗岩製(台石)/総高240.5㎝×幅75.5㎝×奥行31.3㎝
「花想容」入口
 この記念碑の後ろに、「花想容(かそうよう)」という、呉服屋でカフェを出す家があります。旧近衛邸のアトリエとして使われていた和建築の畳敷き1階部分を、板張りのカフェに直した家です。
 そこに寄ってコーヒーをいただきました。もっとしっかり、写真など撮らせてもらえば良かったのですが、なんとなく遠慮してしまいました。

目白駅から落合を名建築を見て歩きました

目白駅から落合を、名建築を見て歩きました。
●自由学園明日館(みょうにちかん)
自由学園 明日館
 アメリカの建築家フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright)は、旧帝国ホテルの設計者として日本でも有名です。
その弟子として、様々な建築を手がけたのが、遠藤新(えんどうあらた)です。
 遠藤新は1911年、東京帝国大学(東京大学)建築学科に入学しましたが、在学中に、ライトと出会いました。
そこでライトから学んだのは、「建築と人間との間にある接点を見つけ、建築を実利や科学、芸術などの面に分類するのではなく、生活に徹底した建築を芸術とすること」ということでした。
 羽仁吉一、もと子夫妻が創立した自由学園の校舎、自由学園明日館は、大正10年(1921)フランク・ロイド・ライトの設計により建設されました。
 明日館建設にあたり羽仁夫妻にライトを推薦したのは遠藤新でした。
帝国ホテル設計のため来日していたライトの助手を勤めていた遠藤は、友人でもある羽仁夫妻をライトに引きあわせました。夫妻の目指す教育理念に共鳴したライトは、「簡素な外形のなかにすぐれた思いを充たしめたい」という夫妻の希いを入れて、自由学園明日館を設計しました。
 木造で漆喰塗の建物は、中央棟を中心に、左右に伸びた東教室棟、西教室棟を厳密なシンメトリーに配してあり、ライトの第一期の作風にみられる、高さを抑えた、地を這うようなたたずまいを特徴としています。
 道路を隔てた南西には、300人収容できる遠藤新設計の講堂があります。
目白ヶ丘教会
●目白ヶ丘教会
 遠藤新は、目白ヶ丘教会を設計しました。しかもそれは晩年作です。
 教会堂と社交場を分離した、最終的な設計図(実現案)が完成したのは昭和25年(1950)4月6日。遠藤新は翌年死去しました。ちなみに、同教会でとり行われた最初の葬儀が設計者・遠藤新自身だったようです。
 できるだけ遠くからでも視認できるよう、十字架と鐘楼の塔を道路側へ移して建設されましたが、今はまわりの建物が高く、遠くから見ることができません。
●公益財団法人徳川黎明会
徳川黎明会
 徳川黎明会は、尾張徳川家の第19代当主の侯爵徳川義親が、「美術並ニ史学ノ研究ニ資スル為 尾張徳川家伝来ノ什宝ノ保存 其ノ他美術品ノ蒐集保管公開ヲ為シ 且ツ之ニ関スル指導奨励ヲ為ス」ことを目的として、昭和6年(1931)12月に設立されました。
 現在、本会では、東京都豊島区目白にある総務部の統括のもと、徳川美術館(愛知県名古屋市)、徳川林政史研究所(東京都豊島区)という2つの施設を置き、上記の目的を達するため、美術史・林政史の研究をはじめ、展覧会や各種講座の開催、所蔵史料の閲覧・公開など、多くの公益事業を展開しています。
 その徳川黎明会の建物です。
 昭和7年(1932)の建築で、設計は銀座の服部時計店や第一生命館を手がけた渡辺仁です。
 この徳川黎明会の地域は、もともと11代将軍徳川家斉の側室が建てた感応寺という大寺院の敷地あった所で、その後、尾張徳川家のお屋敷となりました。
 現在「徳川ビレッジ」と呼ばれるエリート外国人専用の高級賃貸住宅街で、約5,000坪の敷地に数十戸の洋風戸建て住宅が点在しています。そして、その中に22代目当主のお屋敷も建っています。

秋の草花

白金の自然教育園に行きました。秋の草花が咲いていました。
 ヌスビトハギ(盗人萩)
 なんだか物騒な名前ですが、果実が泥棒の足跡に似ているからこの名前がつきました。牧野富太郎に自然 ヌスビトハギ
、古来の泥棒は足音を立てないように、足裏の外側だけを地面に着けて歩いたとのことで、その時の足跡に似ているという説明がありました。
 花はとても小さいです。ひっつき虫になります。
 カリガネソウ(雁草、雁金草)ホカケソウ(帆掛草)とも呼ばれます。
自然 カリガネソウ
 青紫色で球状のつぼみをつけ、上写真のような複雑な形の花を咲かせます。花はきれいなのですが、独特の匂いを放つので、庭には向いてないと言われています。
 ツリフネソウ(釣船草、吊舟草)
自然 ツリフネソウ
 花が帆掛け船を釣り下げたような形をしていることや花器の釣舟に似ていることからこの名前がつきました。種子が熟すと、ホウセンカなどと同様に弾けて飛び散るように拡がるそうです。
 シロバナサクラタデ(白花桜蓼)
 サクラタデに似ているが、花色が白であることからこの名前がつきました。可憐ですね。
自然 シロバナサクラダテ
 ノハラアザミ(野原薊)
自然 ノハラアザミ
 日本固有種のようです。頭花は小さな筒状花の集合体になっています。名前のよく似た野薊(ノアザミ)は5月ごろに開花します。
 キセルアザミ(煙管薊)
自然 キセルアザミ
 花は横向きから下向きに咲き、その状況を煙草を吸うキセルに見立て、キセルアザミの名となったそうです。
 もうひとつ、サワヒヨドリ。これは、万葉集に出てきます。
自然 サワヒヨドリ

 天皇と太后と共に大納言藤原家のいでます日に、黄葉(もみぢ)せる澤欄(さわあららぎ)一株を抜き取りて、内侍佐々貴山君に持たしめ、大納言藤原卿と陪従大夫等とに遣賜(たま)ふ御歌一首
 命婦誦みて曰く
 この里は 継ぎて霜や置く 夏の野に 我が見し草は もみちたりけり
                       19-4268 孝謙天皇
 歌意は、この里は続いて霜が降りるのだろうか かつて夏の野で私が見た草は 色づいていたことよ
 草は題詞にあるように、沢蘭(さわあららぎ)ですが、これがサワヒヨドリのことです。
 孝謙天皇と光明皇太后が共に、大納言藤原家に行幸した時の歌です。
霜が続けて降るのだろうか、という感じ出ています。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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