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マテバシイ

 大きな公園に行くと、そろそろドングリの実が落ちています。
しかし、よく行く新宿中央公園にはあまり落ちていません。マテバシイ、スダジイ、マテバシイ、シラカシなどの木はけっこうあるのですが。
 と、思っていたら、エコギャラリーの横から北通りの方を見下ろす位置に1本のマテバシイがあって、そこにはドングリ(堅果)がたくさん実っていました。
マテバシイの2年目の実
 ドングリ(堅果)は光沢のある茶褐色に実った長楕円形ですが、このようになるには2年かかります。
 ここでは、1年目のドングリと2年目のドングリと、どちらも見る事ができました。
マテバシイ 1年目の実
 「マテバシイ」の名は、その葉がマテガイの形に似るからとされていますが、細長い果実がマテガイに類似するからという説もあるようで、つまりは、葉も果実もマテガイを思わせるのでつけられた名前ということになります。
 ちいさい秋みつけた、です。
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彼岸花 

 「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもの、あの暑さが一度にどこかに行ってしまいました。
 いつもいまごろよく目にする、彼岸花、今年は見ないなと思っていたら、突然茎が伸びてきて、1輪、2輪、2輪、花を咲かせました。
彼岸花 3
 彼岸花は、1日に10cm近くも茎が伸びるのだそうで、本当に突然出てきたという感じです。まだ群をなして咲いてないので寂しいですが、写真は新宿中央公園の彼岸花です。
 うっかりしていると、葉っぱになってします。花も茎も1週間もしないうちに枯れてしまい、その後、球根から緑の葉っぱがすくすくと伸びてきます。
 彼岸花 2
彼岸花の名称は、秋の彼岸ごろから開花することによります。
 しかし、彼岸花にはいろいろな呼び方があります。
 死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)。
 これは、お彼岸の頃に咲くからでしょうか、ちょっと恐いです。
 剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、「狐の松明」。
 これは花の様子からきているようです。
 有名なのが、「曼珠沙華」。
サンスクリット語からついた名で、 "天上の花"という意味があります。おめでたい事が起こる兆しに、赤い花が、天からふってくるという仏教の経典から来ているので、良い名前なのでしょうが、でもどこか妖しい感じがします。山口百恵さんの歌に『二十歳の記念碑 曼珠沙華』がありました。
 『万葉集』には、 壱師(いちし)の花で出てきます。
 「路(みち)の辺(へ)の 壱師(いちし)の花の
灼(いちしろ)く人皆知りぬ わが恋ふる妻」 柿本人麿
 「私があの女性に恋していることは、路の辺のイチシの花のようなもので、みんなが知っていることですよ」といった意味です。
 松田修の『万葉の花』には、次のような説明がありました。
 この イチシの花は何なのか、長く不明でしたが、牧野富太郎が、「いちしろく」を「いちじろく」と解釈すると、「灼然く」の意味になり彼岸花が浮かぶと言明し、また、山口県に「イチシバナ」と呼ぶ方言もあったことからイチシの花は彼岸花であるとされた、ということです。
 彼岸花はどこも有害なのですが、鱗茎の有毒成分であるリコリンは水溶性であるため、長時間水に曝せば無害化が可能であるため、救飢植物として、非常時において食用とされた事もあそうです。
 そこで、毒を抜いて非常食としている事もあるので、悲願の花とも言います。
彼岸花 1
 彼岸花、よく見ると、なにかと、賑やかです。
 いよいよ秋になりました。

妙正寺川と神田川との合流

 新宿区の「落合」という地名は、妙正寺川と神田川が合流する、つまり落ち合う場所だったから「落合」という地名がついたということです。では、その落ち合う場所はどこだろうが気になります。
 現在、妙正寺川と神田川本流が合流しているのは、新目白通りを渡す高田橋の所です。むかいの高戸橋の上から見ると、新目白通りの地下を来た妙正寺川の流れが見えます。
 かつての合流地点は、もっと上流(西方)の、瀧沢橋あるいは落合橋付近らしいのです。しかし。この2つの川の流れは大雨のたびに氾濫するので、現在の流路に改造されて、合流しなくなりました。
 下落合 妙正寺川と神田川
西武新宿線下落合駅で降ります。北口の改札を出ると右手の狭い路地の先に妙正寺川が流れています。駅から行くとすぐ西ノ橋にさしかかります。
西の橋から落合橋を見る
 西ノ橋から上流には、落合橋があります。
 かつて妙正寺川は、次(下流側)の千代久保橋付近から右手へ流れの向きを変え、神田川と合流していたようです。
それが瀧沢橋あるいは落合橋付近らしいということなので、最初、神田川の落合橋と妙正寺川の新落合橋、これがかつては重なっていたのかな、と思いました。しかし、それはないようです。
辰巳橋から妙正寺川の暗渠の場所を見る
 妙正寺川を下流に向かってたどると、辰巳橋につきます。この先で妙正寺川は消えます。地下に入って暗渠になっているのです。
 見に行った日が大雨の日だったので、どんどん水が吸い込まれています。
 この日は確かめられなかったのですが、右側は、神田川の分水路の水が来ているようです。そして、その多くは、落合水再センターの再生した水(処理水)だということです。
 また、しっかり確かめたいです。
 ちなみに、神田川の水がきれいになったのは、落合水再センターの再生した水が大きな役割を果たしています。
 ここから、神田川に歩きます。
新堀橋の「高田馬場分水路」
 瀧澤橋に出ました。雨で水に勢いがあります。上流に少し行くと新堀橋に出ました。そこに「高田馬場分水路」という板が目に入りました。
 高田馬場分水路は、この日のように雨で神田川の増水したときここから分流して洪水を防ぐ役割を持っています。分水路の間にはコンクリートの仕切りがあり、増水でこの仕切り板を越えた水だけが分流する仕組です。つまり、平常時は神田川の水はこの分水路を流れていないのです。
しかし、落合水再生センターで再生した(処理された)水がここでこの分水路に流れ込んでいます。それが先の辰巳橋まで行きます。
 もう一度整理すると、妙正寺川は、辰巳橋の所で高田馬場分水路と合流し、暗渠部分を流れた後、さらに下流で神田川と合流することになるのです。
 妙正寺川と神田川出会いは、今でも落合のここと、先の高田の2度あることになります。

林試の森で見かけた草花、果実

雨上がり、林試の森に行ったので、草花や実を少しアップで撮ってみました。
ヒナタノイノコズチ
林試 ヒナタイノコズチ
イノコズチの名前の由来は、猪の子槌(いのこづち)の意味で、茎の節のふくらみがイノシシの子の膝頭に似ているということからつきました。
また、別名では衣服に果実が付くのでトビツキグサという地方もあります。
コムラサキ(小紫)
林試 コムラサキ
ムラサキシキブより小ぶりなための名前でしょうか。ムラサキシキブ(紫式部)よりも実がにぎやかです。
コムラサキとムラサキシキブの違いは、その果実が、ムラサキシキブは比較的疎らに付きますが、コムラサキは固まって付きます。それと 葉柄と花柄の付く位置が違います。ムラサキシキブは近接していますが、コムラサキは少し離れて出ます。
シロバナオオイヌタデ
林試 シロバナオオイヌタデ
日本各地の荒地や川原などで普通に見かけるもので、背丈は大きいものだと、1mになるものもあるそうです。
オオイヌホオズキ
林試 オオイヌホオズキ
これも「オオイヌ」がつきます。原産地南アメリカの帰化植物です。果実は1箇所から球形についています。
キツネノシッポ(狐尻尾)
林試 キツネノシッポ
花穂の形がのキツネの尻尾に似ていることからといわれていま。蝶が来ていたので、まわりを入れて撮りました。

井の頭自然文化園  平和をのメッセージ

 井の頭自然文化園には、平和へのメッセージが多くあります。
 先に書いた松の油も平和のメッセージに受けとれます。
「松根油」に関しては、岩波新書、山中恒『こどもたちの太平洋戦争』に出てきます。
 東京の深川から、新潟県北蒲原群安田村に疎開していた子どもたちが、「一億神風松根採掘特攻隊」の旗をたてて、30㎝の雪をかきわけ、松の根を10日間で、18万貫という、県下一の成績をおさめたという記事が出ていたというのです。
 かなり無理強いされて、作業がされただろうと思います。
 
 ゾウのはな子さん。その名前を継いだ「上野動物園」の花子(ワンリー)のエピソードを童話にした作品があります。児童文学作家、土家由岐雄によるノンフィクション童話『かわいそうなぞう』です。
 「第二次世界大戦が激しくなり、東京市にある上野動物園では空襲で檻が破壊された際の猛獣逃亡を視野に入れ、殺処分を決定します。
 つぎつぎと動物は殺されます。ライオンや熊も殺され、残すは象のジョン、トンキー、ワンリー(花子)だけになりました。
 象に毒の入った餌を与えますが、象たちは餌を吐き出してしまいます。どうしても毒餌を食べないため殺すことができません。毒を注射しようにも、象の硬い皮膚に針が折れて注射が出来ません。しかたないので、餌や水を与えるのをやめ餓死するのを待つことしました。象たちは餌をもらうために必死に芸をしたりしましたが、ジョン、ワンリー(花子)、トンキーの順に餓死していきました。」芸をして餌を欲しがるゾウ、胸がつまります。

 井の頭自然文化園の彫刻園には、北村西望が使った住居兼アトリエをはじめ、作品所蔵の彫刻館になっています。彫刻館だけでなく、井の頭自然文化園には多くの作品が展示されています。
8月9日は、長崎の原爆忌の日です。長崎原爆忌の式典は毎年、爆心地にある平和公園の平和祈念像の前で行われます。原爆への怒りと平和への祈りを、体全体にみなぎらせた巨大な男性像。像の作者は長崎県出身の彫刻家、北村西望です。
 北村西望は、平和祈念像制作のために、井の頭公園の中にアトリエを構えました。
 昭和29年(1954)に高さ9・7メートルの石こう原型が出来上がります。
 天を指す右手は原爆を、水平に伸ばす左手は平和を象徴しているといわれます。翌昭和30年(1955)に長崎市平和公園に青銅製の平和祈念像が完成しました。
 昭和32年(1957)にアトリエと、像原型を含む350点余の作品が都に寄贈されたのです。
 野口雨情ゆかりの「童心居」
野口雨情の8畳間の書斎「童心居」があります。
 野口雨情が「青い眼の人形」を発表したのは、雑誌「金の船」大正10年(1921)の12月号でした。この歌は日本国内で歌われただけではなくアメリカでも歌われました。 そのきっかけとなったのが2年後に起きた関東大震災です。
 世界中が救援のための募金を行いました。中でもアメリカからの金額が一番多かったのですが、募金を呼びかける際に歌われたのが「青い目のお人形」でした。
 れが縁で、昭和2年(1927)日米友好のために、アメリカの篤志家から「青い目をしたお人形」がたくさん配布されました。
 ところが、昭和16年(1941)、日本がハワイオワフ島の真珠湾に奇襲攻撃をかけてしまいます。
 そして戦争中、英語が敵性語だとして禁止されたように、「青い目のお人形」は焼かれたり、竹槍で突かれたりしました。
 その災難は、野口雨情にも及びました。「青い眼の人形」(♪青い目をしたお人形は アメリカ生まれのセルロイド♪)や「赤い靴」(♪赤い靴、はいてた女の子♪)は歌うことを禁止されます。
 昭和19年(1944)、軽い脳溢血で倒れた後の病み上がりの身で妻と8人の子供とともに栃木県河内郡姿川村鶴田に疎開します。
 そしてその翌年1月、ひっそりと野口雨情この世を去ります。63歳でした。
 葬儀代も払えないほど、貧窮していたと伝えられます。

『平和へ』 キャサリン・スコールズ 作 上遠恵子 訳 田沼武能 写真

 『沈黙の春』『センス・オブ・ワンダー』のレイチェル・カーソンの翻訳で知られる、上遠恵子さんにお会いすることができました。
 いろいろとお話くださって、すてきな時間がもてました。
 中で、「大切に思っていることは、平和の心を持つことです」と話されました。
 一緒に行っていた人が、『平和へ』という絵本ですね、大事にしています、と言いました。
『平和へ』を図書館で借りてきました。本屋さんでは見つかりませんでした。
平和へ
 『平和へ』キャサリン・スコールズ 作 上遠恵子 訳 田沼武能 写真、岩崎書店発行です。絵ではなく、写真です。初版は、1995/04/30 でした。平成7年です。
 戦争とかが描かれるのでなく、「平和の心」が大切ということを語っています。
 細い道を車が両方から来て道をふさいでしまう。そんな時、前に進むことばかり考えていたら、動けないです。押し合いをすれば、それは戦争です。
 「そんなとき、どっちかが、うしろにさがって、道をゆずったら、
 うまく すれちがえるのではないかな。」

 うしろのさがる、そういうことを思うのが「平和の心」なのでしょう。
 
 ぼくは思うんだ。
 たくさんのほしいもののなかで いちばんたいせつなものは、
 「心のなか」の平和じゃないかって。
 いろいろな学問や宗教も、結局は、
 そういう「心のなか」の平和を教えてくれるものなんじゃないかな。

 戦争と戦争のあいだにあるのが 平和ではない。
 また、なんにも起こらない おだやかなことが 平和ともいえない。
 平和は、ぼくたちの 心のなかに生きていて、
 大きく成長していくものなんだ。
 ぼくたちは、それをたいせつに、じょうぶな木のように 育てていこう。

 平和は ぼくたちの足もとから、
 ぼくたちとともに 歩みはじめるのだから。


 その前に、平和はみんなのちがいをみとめること、ということも出てきます。
上遠さんは、キャサリン・スコールズさんが書いていないこともいくらか入っているのですのよ、とおっしゃっておられました。
深い、多くの人に読んでもらいたい絵本です。

 この絵本に感動していた日、「日本政府が、沖縄県の尖閣諸島を国有化した」ニュースがありました。中国や台湾は、「『購入』は違法で無効」と抗議です。領土問題、昔なら、即戦争だったでしょう。「平和」な解決、どうしたらできるのだろうと思います。「平和へ」でありたいです。

気象神社

氷川神社
 高円寺の南口を出て少し行くと、氷川神社があります。その末社に気象神社があります。日本では、おそらく唯一"お天気の神様"をお祀りする神社だと言われています。
 日本では唯一ということに惹かれて、お参りに行ってきました。
気象神社
 気象神社は、氷川神社の北西方向800m先にあった旧陸軍気象部、のちの気象研究所の正門東側にもともとはあったようです。
 旧陸軍気象部は、昭和13年3月、陸軍通信学校から創設されました。そして、気象神社は、昭和19年4月10日陸軍気象部創立記念日に因んで創建されています。なぜ神社を造ったかははっきりしていないようです。
ただ、戦時中は、飛行機を飛ばしたり、軍艦を出すにも、気象予測はその作戦に大きな影響を及ぼします。予報が外れないよう、それこそ神にすがりたかったのかもしれません。
 昭和20年4月13日の杉並区馬橋地区の米軍による空襲により、旧陸軍気象部は被災に会い、その時「気象神社」も焼失しています。二代目気象神社は終戦直前に再建されました。
 終戦により、旧陸軍気象部の施設は、昭和22年、中央気象台研究部(のち気象研究所)に変わりました。そして、構内にあった気象神社は、戦後の神道指令で除去されるはずでしたが、連合軍宗教調査局の調査漏れでたまたま残りました。
 氷川神社宮司山本実氏は、荒れるにまかされている気象神社のことを知り、連合軍総司令部宗教調査局(文部省内)に折衝し、氷川神社社殿に無償で譲り受けることにしました。
 気象神社社殿は昭和23年9月15日に運び込まれ、18日の氷川神社例大祭の際に遷座祭が行われました。
 御祭神は「八意思兼命」(知恵の神)です。どんな神様なのでしょう。
 「八意思兼命」は、「やごころおもいかねのみこと」と読みます。
 神社の説明では次のようです。
 <日本神話によると八意思兼命は天孫降臨の際に尊に随伴した神の一人であり、天の岩屋戸から天照大神を引き出すために、神楽舞の方策を講じた神で、八意思兼命は多くの人々の思慮を一人で兼ね備えた「知恵の神」なのである。
 気象神社は「晴・曇・雨・風・雷・霜・雪・霧」などの8つの気象現象を制御祈願する神社である。>
 私が、この気象神社に興味を持ったのは、絵馬が下駄の形をしていたことです。
 これはここの宮司さんのアイディアで、2007年から作っています。
気象神社の下駄絵馬
 境内に奉納されている絵馬を見ると、結婚式日や遠足などのイベントの快晴祈願をはじめ、気象予報士になることを願うもの、雨男、雨女が治りますようにといったものもあります。
 下駄絵馬を購入するとき「表と裏とに願いを書いてください」と強調して言われました。
 このブログを書くため、ネットで調べていると、宮司さんがラジオに出て、下駄絵馬について語っている言葉が見つかりました。
 「下駄の絵馬は,表にも裏にもかけるんです。子供の時に、天気占いで、下駄を蹴飛ばして、表だったら晴、裏だったら雨、横だったら風みたいな風にして遊んだじゃないですか。そういう日本人の素朴な考え方と同時に、人生の表と裏、表は建前で、裏は本音なんです。だから、それを両方書ける、人生の明と暗が折り重なってる訳ですから。」
気象神社 下駄絵馬 黄色の紐
 下駄占い、当たるも八卦、当たらぬも八卦、神様がそんな占いで良いのかな、なんて少し思っていたのですが、とにかく面白い。買って帰りました。紐の色は2色、黄色と赤色とがあります。
願い事かできたら、書いてお参りしたいと思っています。

第17回「目黒のさんま祭り」に参加

 「目黒のさんま祭り」に行きました。食べに、でなくて、焼きに、です。
 目黒駅前の、品川区側の「さんま祭り」、こちらは、「目黒駅前商店街振興組合青年部」(通称・め組)の人たちが、中心になって企画し、今年で17回を迎えました。(こちらは、というのは、目黒区のさんま祭りもあって、これは来週です)。
 朝9時過ぎからさんま6千匹を炭焼きして無料配布しました。朝の5時ごろから列ができて、10時まで待てないということで、早く始まりました。朝8時に来た人がさんまをてにしたのは、10時半ごろでした。
さんま祭り すごい人
 毎年とれたてのさんまを6千匹無料提供してくださるのは、岩手県の宮古市の皆様。
さんまを焼く
 それに「さんま」と言えば「すだち」ですが、その「すだち」は徳島県神山町からこれも無料で、提供されます。今年も10000個の芳醇すだちがやってきてさんまに香りを添えました。
さんまにすだちを配布する
 それに、「さんま」には大根おろしは欲しいですね。その大根おろしの大根は、栃木県那須塩原市高林の青年団『高林雷の会』の皆さんから500本提供されています。
 それに今年から和歌山県みなべ町から、本格備長炭が運ばれていました。
さんま 備長炭に火をつける
さんまが焼ける
 この「目黒のさんま祭り」のきっかけは「さんまは目黒にかぎる!」のオチでおなじみの古典落語『目黒のさんま』です。この『目黒のさんま』の落語の会もちゃんと開いています。
さんま 誕生八幡で寄席
 「め組」の仲間として、参加させてもらい、「さんま」を炭火で焼いていました。
 イヤ、楽しかったのですが、まださんまを焼くけむりの臭いが鼻から抜けません。
さんまの煙が目にしみる

林試の森で見た虫と木

 林試の森をあるいていたら、緑の虫が目にとまりました。
 シモフリスズメです。かわいらしいのですが、これが、蛾になると、ちょっときりっとしていて不気味です。すごい変身です。
シモフリスズメ
シモフリスズメ 2
 また、一本の木かなと思ったら2本ひっついていました。
 左がケヤキで右がアカガシです。どちらも赤っぽい木肌で、似ています。同種と思って抱き合ったのかな。
ケヤキとアカガシ

アジアゾウの「はな子さん」

65歳のゾウのはな子さん
井の頭自然文化園には、動物園もあります。ここで有名なのは、アジアゾウのはな子です。1947年、タイ生まれ。戦後はじめて来日したゾウです。1949年に上野動物園に贈られ、戦争中に殺されたゾウ「花子」の名前を継ぎました。現在、65歳で、日本で飼育されているゾウの中では、長寿日本一です。
歴史的に見れば、明治38年(1905)9月、渋沢栄一が井の頭御殿山御料地の一角、つまり、現在の自然文化園 を皇室から拝借して、非行少年を収容する東京市養育院感化部(のちの井の頭学校)を創設しました。
大正6年(1917)5月、御料地全体が東京市に下賜され、井の頭恩賜公園が開園します。
昭和9年(1934)5月5日、現在の分園の位置に「中之島小動物園」が開園します。
昭和14年(1939)、井の頭学校が移転すると、この地に上野動物園に匹敵する大きな動物園が構想されましたが、戦時中のために予算と物資が不足して、大型動物を集めることができず、「自然生態観察園」という趣旨に変更されて昭和17年(1942)5月17日に「井の頭自然文化園」が開園しました。開園当時にはキリンが2頭いましたが、終戦までに死亡してしまいました。
はな子は、昭和35年(1950)に始まった上野動物園の「移動動物園」という企画で全国や東京都下を巡回し、井の頭自然文化園を3年連続で訪れました。武蔵野市や三鷹市ではな子の誘致運動が起こり、昭和39年(1954)に上野動物園から井の頭自然文化園に移りました。
確かに、お年寄りです。でものろのろと動いて、ふと鼻を高く上げたり、時には垂れているひもをひっぱりました。見ていて飽きませんでした。歯が抜け落ちて左下一本だけだそうですが、ガンバレ!はな子さん。

アカマツに刻まれた戦争のあだ花

 井の頭自然文化園に入ると、木の幹にハート型に彫られた跡があるアカマツに出会います。
 よく見ると、樹皮が剥がされ、無数のV字型の傷がつけられています。
アカマツ「松精油」
 これは戦時中、飛行機の代替燃料にするための油の原料を採取した傷跡だそうです。
 太平洋戦争末期、航空燃料が枯渇していた日本軍は、ドイツの文献をもとに松の根から取れる「松根油(しょうこんゆ)」を精製して航空用燃料を製造する計画を立てました。そして、全国に生産量が割り当てられ、国を挙げての「松根油緊急増産運動」が展開されました。
 そのころのポスターがあります。
戦時中の松から油のポスター
 当時「200本の松根で1機の航空機が1時間飛べる」と言われていましたが、マツが大きくなるのに10年以上かかります。効率が悪すぎます。
 松根油は、マツの伐根(切り株)を乾溜することで得られる油状液体です。松根油の製造には老齢樹を伐採しての古い伐根が適していました。これはクロマツも使われています。
 これに対して、幹から取る作業がありました。これはアカマツにされたようです。
 まず、マツの根元から少し上の部分の表面の樹皮を剥ぎとり、その剥ぎとった部分の中央部に一本溝をつけ、この溝を中心に下の方からだいたい45°の角度で溝を切りつけます。よく見ると、きれいに斜めの線が入っています。溝の深さは1㎜程入る程度と浅いです。これだけやって縦の線の下に釘などを打って、缶や竹筒などを取つけて置くと、次の日には20gぐらいはたまったようです。
 2日目は前の溝の上の方約1センチの間隔に、切口をつけて、同じようにします。
 このように松脂から精製したものを「松精油」というようです。この方法で採取するとアカマツを枯らすことはありません。
アカマツ「松精油」を取った跡
 井の頭自然文化園の大きなアカマツの木の多くに、その油を取った痕跡が刻まれています。
 マツの油は、たいまつを、松明と書くように照明用燃料として長い歴史を持っています。
航空ガソリンの原料としての利用が試みられたというのは、なんとも、さもしい発想です。
 表示板がついた木は、高さ30メートルほどで、樹齢は150年になるということです。
アカマツ

木の根元にニホンミツバチの巣

 井の頭恩賜公園を歩いていると木に貼り紙がしてあるのに気がつきました。
ニホンミツバチの注意書き
 ニホンミツバチの巣がります。というものです。そして貴重なハチなので、駆除はあいたしません、とも書かれています。
 根元のほうを見ると、穴がありていて、ハチが数匹飛んでいます。
ニホンミツバチの巣
 ハチと聞くとなんとなく刺されないか心配になります。
 でも。ニホンミツバチはとてもおとなしいハチなのだそうです。危害を加えない限り、刺すことはありません、とも書かれています。
 実際、ニホンミツバチは絶滅も危惧されています。
 現在日本の養蜂業者が飼っているのは、殆どが西洋ミツバチです。
 ガンバレ!ニホンミツバチという心境になりました。

井の頭恩賜公園の井の頭弁財天

 もう一度、井の頭恩賜公園へ行きました。先般書いていた井の頭の続きです。
 井の頭公園の池畔にある弁財天は、関東源氏の祖と言われる源経基の創建で、伝教太師が延歴8年(789)の作という天女神を本尊に祀ったことに始まると伝えられています。
 その後、源頼朝が東国平定を祈願し、その大願成就ののちに改築されたことが伝えられます。ところが鎌倉時代末期の元弘の乱の際に、新田義貞と北条泰家との対戦の兵火で弁財天は焼失していまいました。
 それから数百年の間は、放置されたままでしたが、3代将軍徳川家光が、寛永13年(1636)に再建したと伝えられます。
井の頭弁財天 社殿
 現在の社殿は、大正12年の関東大震災で損壊、翌年に焼失後、昭和3年(1928)に再建されたものです。
 井の頭弁財天のご本尊は8本の手を持った八臂像で、頭上に宇賀神を載せ、鳥居を冠しているそうです。秘仏で、12年に一度、巳年にご開帳されているので、来年は、お会いできるかもしれません。
 井の頭弁財天は、神田上水源の水神で、音楽や芸能の守護神としての弁才天として、また商売繁盛の弁財天としても、江戸町人に盛んに信仰されていたようです。
井の頭弁財天 橋前の灯籠 日本橋
 参道から、階段を降りて来ると、弁財天入口には、天保4(1833)年建立の一対の灯籠があります。その台座には「日本橋」と大きく刻まれて、その下には奉納者の名が列記されています。おそらく、日本橋の人たちが寄進したものでしょう。
井の頭弁財天 灯籠日本橋の人
 そこを入ると太鼓石橋がありますが、文化14年(1817)造築のものです。参道側から見た欄干柱には「神田御上水」「井の頭辨財天」とあり、社殿側から見ると「湯屋講」「壱番組」といった文字が刻まれています。江戸の一番組・湯屋講中が寄進したものだと思います。
井の頭弁才天 橋 一番組
井の頭弁財天 橋 湯屋講
社殿の前には、素朴で下半身のどっしりした狛犬がいます。左側、口を「吽=うん」と結んだ狛犬です。
 提灯は三枚の鱗と波をデザインした弁天様ならではの紋です。これは弁天様が龍となって空に昇ったときに残ったものだそうです。
 井の頭弁財天 狛犬
境内裏には龍の形の銭荒い弁天があります。
横は七井不動尊という小堂です。そのお堂の左に前に、弁財天坐像があります。よく見ると、とぐろを巻いた宇賀神を乗せた美しい弁財天の石像です。延宝4(1676)年に作られたとか、元禄12(1699)年に作られたとかいろいろな説があります。
井の頭弁財天 不動前 弁財天坐像
 ここのご本尊も宇賀神を乗せているようなので何かいわれがあるのかもしれません。
 井の頭池には次のような言い伝えがあります。
「江戸の昔(あるいは鎌倉時代初期のこと)、北澤の松原(現・世田谷)に、子宝に恵まれない長者(「さんねんさん」という)夫婦がいました。
 そこで井の頭の弁財天に願をかけたところ、時満ちて女の子が生まれました。
 首筋に生えた3枚の鱗を怪しみつつも、これを育てるうちに、娘は美しく成長して『弁天様の生まれ変り』と評判になるほどの器量よしとなります。
 やがて娘が16を迎え、親子3人打ち揃って、弁天様へお礼参りに出かけたところ、娘は池の前にじっとたたずんだまま動きません。両親がわけを問うと、娘は自分が池の主の化身であることを打ち明けます。
『今まで育てて頂いたご恩は、決して忘れません』
 娘は池に身を躍らせると、その姿は大きな白蛇に変り、水底へと消えていきました。残された夫婦は娘をしのび、宇賀神を石に刻んで供養したといいます。」
 この像が夫婦が寄進したそれにあたるかどうかは分かりません。
井の頭池
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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