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「新宿クリエーターズ・フェスタ2012」 草間彌生さんのカボチャ

 8月24日から、新宿駅周辺の公共空間等を活用して「新宿クリエーターズ・フェスタ2012」が開催されています(9月2日まで)。
 日本を代表する前衛芸術家で、今年3月に新宿区名誉区民となった草間彌生さんのカボチャのバルーンオブジェが、新宿NSビルに展示されました。
 このカボチャの作品に「(内藤)カボチャが新宿のまちに帰ってきます」と紹介したのが中山弘子新宿区長です。
 「内藤とうがらし」と同様「内藤カボチャ」も有名でした。でも今はその姿をほとんど見ることができません。一部で「内藤カボチャ」復活を試みていますが、とてもとうがらしのようにはいきません。その種を手に入れることも難しい状況です。
 そこで、せめてと、中山弘子新宿区長一押しの草間彌生さんのカボチャの写真を撮ってきました。
草間彌生さん カボチャ

 新宿中央公園には、羊がいました。「新宿クリエーターズ・フェスタ2012」の作品でした。
新宿中央公園 羊の作品
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内藤とうがらし

内藤とうがらし わが家分
 新宿区の四谷を歩くと、各お店、家の前にプランターに植えられたトウガラシが目に入ります。上を向いて赤く実る内藤とうがらしです。
 内藤とうがらしは、江戸時代に信州高遠藩主内藤家の江戸藩邸下屋敷(現在の新宿御苑)の菜園で栽培を始めたのを発端に、近郊の農村でも盛んに栽培されたようです。
 当時の大名の敷地は大変広かったため、敷地内に畑を設け、野菜の栽培などもしていました。内藤藩でも、今の新宿御苑の、新宿駅側に畑を作っていました。野菜類の販売もやっていたようです。
 特に内藤家では、とうがらしとかぼちゃが評判となり、旅人の口を伝わり世間に広がっていきました。そして、周辺の農家にも種が伝わり、内藤新宿から近郊の農村地帯(角筈、柏木、あたり)では特にとうがらしの栽培が盛んになり、この地域の名産品となりました。
内藤とうがらし 寝具屋さん前
内藤とうがらし コンビニの前
内藤とうがらしは、八房系唐辛子で、真っ赤に成熟したものは漬物用や香辛料に、また七色唐辛子の薬研堀にも使われ、江戸の食文化を支えた伝統的な江戸野菜の1つです。
内藤とうがらし お菓子やさん前
 「江戸野菜」と言いますが、実は正式な名称ではありません。江戸時代に江戸やその近郊の野菜づくりがさかんな地域で改良された野菜の品種全体を「江戸野菜」と呼んでいます。
江戸時代に入って、参勤交代が始まり、各地の大名が江戸に屋敷を構え、それぞれの地元から野菜を持ち込み、ことに下屋敷内の畑でそれを育て、その種が流出して、江戸であらたな品種が生み出されていったのです。かの有名な練馬大根も、尾張の宮重大根がルーツです。内藤とがらしは、どうして内藤家で植えられたかは、分かりません。
内藤とうがらし 八房とうがらし
 明治時代に入って、内藤藩の下屋敷は明治政府に上納され、農業試験場、植物御苑を経て今の新宿御苑となります。
 そして、内藤とうがらしもいつしか、姿を消してしましました。しかし、2009年に「スローフード江戸東京」の手によって内藤とうがらしは復活し、新宿区内において内藤とうがらし普及プロジェクトが進められ、多くの戸口にプランターに植えられた内藤とうがらしが並ぶようになったのです。
内藤とうがらし 錦松梅のお店前
 内藤とうがらしが、江戸時代どんなに名物とされていたか、例えば薬研堀の七色唐辛子の売り口上にもうたわれていることからうかがえます。
 薬研堀の七色唐辛子は、江戸時代、両国橋の近くに漢方医や薬種問屋が集まった薬研堀と呼ばれる問屋街がありましたが、そこの薬種問屋「やげん堀」初代当主の「からしや徳右衛門」が、漢方薬のひとつであった唐辛子を中心に体に良いとされる7種類の薬味を調合して作ったものです。
内藤とうがらし お蕎麦屋さん前
その口上の内容は次のようなものです。
 まず最初に入れますのは、武州川越の名産・黒胡麻が入ります、
 続いて入れますのは、紀州は有田のミカンの皮、これを一名、陳皮(ちんぴ)と申します、
 続いて入れますのは、江戸は内藤新宿八つ房が焼き唐辛子。
 続いて入れますのは、東海道静岡は朝倉名産、粉山椒(こなざんしょう)、
 四国高松の名産は唐辛子の粉、大辛中辛を決めて参ります。
 大和の国の芥子の実が入ります、
 最後に野州日光、麻の実が入りまして七色唐辛子。
 大辛に中辛、家伝の手法。お好みに応じて調合いたします、
 はいどうぞー!
四谷の内藤とうがらし、並べてみました。

「大英博物館 古代エジプト展」

 森アーツセンターギャラリーにて開催中の「大英博物館 古代エジプト展」に行って来ました
展示がとても分かりやすく鑑賞できるように構成されて、楽しかったです。
古代エジプト展
 例えば、このミイラの展示、ケース内も上からも下からも多方面から観られるような工夫がなされていました。キャプションも展示台の上部と下部にあって混んでいましたが、見やすかったです。でも今はみんな、イヤホンガイドの時代かもしれません。照明も効果的に使われていました。
この展覧会は、「死者の書」を中心にした展示となっているので、観易くなっていて、関心を深めることができました。
 「死者の書」 とは 古代エジプトにおいて、死者とともに埋葬されたパピルスの巻き物のことで、そこには死者の霊魂が肉体を離れてから死後の楽園アアルに入るまでに待ち受ける様々な試練から、死者を守るための呪文が美しい文字や挿絵で彩られて、書かれていものです。
『死者の書』 口開けの儀式の場面(部分)
 大英博物館が所蔵する最も美しい彩色パピルスのひとつですが、ここには、死者が来世でも自由に食事や呼吸がで きるようにする「口開けの儀式」の場面が描かれています。
 「フウネフェルの『死者の書』:口開けの儀式」 
 直立する仮面をかぶったミイラと、それを背後で支えるジャッカルの頭をしたアヌビス(の格好をした神官)がいて、その周りには家族や神官たちが祈りを捧げています。
 神官の1人は手斧(ちょうな)という大工道具をミイラの口の前に出していて、これで口を開けて呪文が唱えられるようにします。
 今回の展覧会の目玉は、世界最長「死者の書」と言われる、グリーンフィールド・パピルスが公開です。その長さは、実に37mもあります。大英博物館でもそうやたらと公開できないものだそうです。
 その展示会場に入る前に、いろいろと勉強できる案内がされていて、それからおもむろに、グリーンフィールド・パピルスの会場に入ります。
「グリーンフィールド・パピルス」の、「天と地のはじまり」
 「グリーンフィールド・パピルス」の「天と地のはじまり」を描いた部分です。エジプト神話です。ショウ神とテフヌウス女神から、大地の神ゲブと天の神ヌウトが生まれますが、この2神は、抱き合ったまま離れようしません。怒ったシュウ神は、ヌウト女神を頭上に持ち上げて2神を離します。その絵が描かれています。
 この結果、天は上に、地は下に、その間には大気と湿気が存在するようになった、ということです。
オシリス神による審判の場面
 「グリーンフィールド・パピルス」の「審判」の部分です。
  冥界の王オシリス神の前で、死者の心臓が天秤にかけられています。反対側には、真理の女神マアトの小像。釣り合わなければ有罪となり、怪物アメミトに食べられてしまうのです。ここではオシリス神の前で42項目の罪を否定して潔白を証明する必要があります。
  ここでは、「死者の書」にある呪文の効力で天秤は釣り合うことになります。
 この天秤が釣り合うとイアルの野という楽園で再生がかなうのです。
つまり、「わたしは不公平をしたことはない。」「わたしは、盗みをしたことはない。」「わたしは、他人を殺害したことはない。」「わたしは他人を欺いたことはない。」「わたしは、嘘を言ったことはない。」等々と「否定告白」をして行くことによりオシリス神の法廷の審判を切り抜けられると説いています。
 「死者の書」はそれだけ大切なものだったのです。
 審判を乗り越えた者が永遠の命を得て、来世の楽園「イアルの野」へ入れるわけですが、そこでは生前と同じような生活を送ります。そこでは、畑を耕すとか、牛を追うなどの労働をしています。いわゆるわれわれは想像する 「天国」のイメージとは違います。
  現世と同じように働くわけです。
シャブティ
でも、みんなが働くわけではないようです。多分王族などは、変わりに働いてくれる人が必要だと思ったのでしょうか、農作業などの労働は、副葬品の小像シャブティが身代わりとなってくれました。
「シャブティ」という、木や陶器で作られた人形(ウシャブティとも言います)が副葬品として作られていました。
最後に、最もエジプトらしいと言える「ミイラマスク」です。
見開いた大きな目で、青と金のシマシマ模様の髪をした、いかにもエジプトといった感じの金のマスクです。後頭部には人の顔の鳥などが描かれています。また、頭の上にも文様があり、これは死者を守る呪文のようでした。マスクが金なのは錆びることがなく神々の象徴とされていたためのようです。これは何枚も重ねた布を石膏で固めて作るのだそうです。
】「ミイラマスク」
夏休み最後で、お子さん連れが多く、大変混んでいましたが、とても、感銘を受けた展覧会でした。

「打ち水大作戦」

 厳しい残暑が続きます。8月の初めですが、「打ち水大作戦」に参加しました。
テレビで、浴衣の娘さんたちが打ち水をする様子、毎年見ていました。打ち水がニュースになるのだ、と少し冷めた気分で見ていたのですが、たまたま今回「打ち水大作戦」に参加参加することになり、「打ち水」について考えてもみると、なかなか、興味深いものがありました。
打ち水大作戦
 打ち水が、運動となったのは、2003年の「大江戸打ち水大作戦」からです。それからのイベントとしての打ち水は「打ち水大作戦」と言われています。
 参加して言われたことは、「打ち水大作戦」のルールは、ひとつです。それは、水道水は使わず、お風呂の残り湯や溜めた雨水などを利用するということ、それだけです。その時は溜めていた雨水を使用しました。
 <その昔、打ち水は神様がお通りになる道を清めるという意味があったとか。2003年東京で始まった打ち水大作戦。いまでは全国各地に広がり、毎年600万人以上が参加しているとのこと。スタートした2003年8月25日の正午に実施した時は、大手町で 2.2度、練馬で2.4度気温が下がるなど、 日本各地で「涼しくなった」という報告もあり、効果抜群です。>
 たまたま本屋で、『打ち水大作戦のデザイン』( 毎日新聞社 2009/7/18) というしゃれた本を見つけました。上の文章はその本の紹介にあったものです。
打ち水大作戦のデザイン
 そして、最初に次のように書かれています。
「『打ち水』という通常の表記を『打ち水』としたとこから、ひとつのデザインの試みが始まりました。打水という過去の習慣に、デザインを命を吹き込みました。そこから波紋が拡がっていくように、デザインを認識させるツールが数々制作されていきました。」
 この本には、新聞広告から、グッズ、打ち水のやり方などがとても面白く、粋にデザインされて記載されています。シンプルなロゴマークが良いです。そして間伐材を使った「八角桶」と「柄杓」、このデザインも素敵です。見事に、「打ち水」を、ファッションにしました。
 2005年の新聞広告、毎日新聞に出たのでしょうか、1面広告には次のようなコピーがあります。
 2005年、地球温暖化対策元年。日本には「打ち水」があるじゃないか
 打ち水は、温度を2℃下げます。打ち水は、CO2を抑制します。打ち水は、CO2を吸収します。打ち水は、風をおこします。8.31正午 全国いっせい打ち水
 打ち水をすると、1℃から5℃下がったというデーターがあります。
 CO2を抑制は、涼しくすることで、エアコンなどを使わないことで、抑制できるということです。
 CO2吸収は、間伐材の使用を言っています。風をおこすは、実際打ち水をすることで起きる風と「打ち水大作戦」の全国展開の風のことを言っています。
 別の新聞広告には、打ち水は、茶道かきていると書かれています。客人を迎える時、茶室の庭に打ち水をする、その伝統を生かそうというものです。
 「地球温暖化に立ち向かう 江戸の庶民の生活の知恵」というコピーもあります。
 4.50年前までは、お店や家の前を、朝夕には、掃除とともに打ち水をする習慣がありました。しっとりと濡れた玄関先は道行く人への気配りであり、暑い中を歩いてきた訪問者へのおもてなしでした。そうした精神を取り戻そうという呼びかけです。
 江戸とか茶道とか、持ってくることがとにかく粋です。
 たかが、打ち水。それをデザインして、風を起こし、運動とする。
 打ち水はそれこそ一人でもできますが、それを大勢で同時に行うことに意味があります。どんな小さなことでも、積み重ねていけば、やがては大きな活動となり、一定の効果へとつながっていくのです。
 私が参加して打ち水大作戦、5℃も下がりました。夕方だった効果もあります。歌が歌われ。コントがあり、ちょっとしてお祭り気分を味わいました。

合羽坂と内田百閒

合羽坂下から靖国通りを見る
 四谷から新宿御苑に向けての道、旧甲州街道、今の新宿通りは、地下を玉川上水が石碑で通る、尾根道でした、そして、北側の靖国通り、防衛省の前は紅葉川が流れる紅葉谷でした。したがって、新宿通りから靖国通りに出るには坂道を下ることになります。三栄町と荒木町の間にある坂道は、津の守坂と言います。荒木町に、松平摂津守上屋敷があったのでこの名がついています。
 その津の守坂を下って、突き当たるところに中央大学の分校のような建物があって、その前は、合羽坂下と呼ばれます。
 江戸時代、このあたりには、蓮池と呼ばれる大きな池があったとか。大雨が降るとこの池からカワウソが現れることがありました。これを見た周辺の住民が「この坂付近には河童が出る」と言っていたことから、合羽の名前の由来があります。
 坂の下には、河童を模した大理石の椅子ということですが、モニュメントがあります。
合羽坂下のカッパ
合羽坂下のもうひとつのカッパ
 また、靖国通りでない方の曙橋に向かって右の坂を上がると、坂の上には由来を示す大理石の碑が立っています。大理石の碑には次のように記されています。
<新撰東京名所図会によれば「合羽坂は四谷区市谷片町の前より本村町に沿うて、仲之町に上る坂路をいう。昔此坂の東南に蓮池と称する大池あり。雨夜など獺(かわうそ)しばしば出たりしを、里人誤りて河童と思いしより坂の呼名と…転じて合羽の文字を用い云々」、何れにしても、昔この辺りは湿地帯であったことを意味し、この坂名がつけられたものと思われる。設置者: 東京都  設置日: 昭和58年3月>
合羽坂上から合羽坂
合羽坂の碑
 昭和4年から昭和12年まで、40歳から48歳の内田百閒が、合羽坂のところに住んでいました。借金取立てから逃れるため、砂利場の大将と呼ばれた早稲田の川沿いでの下宿生活から、こちらに引越してきました。
 約8年間住んでいたのですが、この間に、『百鬼園随筆』、『旅順入城式』、『王様の背中』など、多くの著作を立て続けに出しています。法政大学を辞職して文筆で立った(昭和9年)のもこの家に住んでいる時でした。しかし、ここでは、母親と長男を亡くする不幸もありました。その長男の死を契機に、麹町の三番町へ転居します。
 内田百閒は、合羽坂のいったいどのあたりに住んでいたのだろうと興味がわきます。
 門弟のひとりであった中村武志の『百鬼園先生と目白三平』には、「合羽坂を登って行くと、まだ登り切らない中途の左側であった」と書いてあるそうです。直接本は見ていませんが、手書きの間取図も出ていまるようです。
 しかし今、坂を行くと、左側には靖国通りと段差になっていて、民家はありません。当時はあったのでしょうか。はっきりしません。
 内田百閒の本は、岩波文庫の『東京日記』とちくま日本文学全集の『内田百閒』しか持っていなくて、合羽坂が出てこないか調べてみたのですが、見つかりませんでした。
 また、調べてみようと思います。

「神田川・環状7号線地下調節池・善福寺川取水施設」

 環状7号線の下には4.5キロのトンネルがあり、神田川流域の河川が氾濫した際の水害対策に使われています。
「神田川・環状7号線地下調節池・善福寺川取水施設」の夏休みの子どもたち中心の見学会に参加することが出来たので行ってきました。
 環状7号線地下池 取水断面図
善福寺川取水施設を横から見た図です。
 地下へ流れ込む水から騒音が出ないよう、水を回転させながら流しこむようになっています。この施設には普段は人がおらず、何かがあったときに駆けつけるのだとか。
 善福寺川取水施設
取水施設の壁面には大きな円が描かれていますが、これが地下トンネルの内径(12.5m)の大きさなのだそうです。大きいです。
 220段の長い階段を下りて行き、地上から42mの地点で階段は終わります。
 気温は20度でした。涼しい。
 善福寺川取水施設 地下入口
分厚い扉の二重扉を抜けて、いよいよ地下トンネルに入ります。
善福寺川取水施設地下トンネル 1
地下貯水池までは内径6mの地下トンネルが100mほど続いています。
善福寺川取水施設 地下トンネル 小学生の絵画
途中、近くの小学生が描いたという絵がありました。もちろん、地上で描がいた絵をここで組み込んだものです。
善福寺川取水施設 トンネル 次のトンネルへ通じている
善福寺川取水施設 太いトンネル
ついに巨大地下トンネルに到着します。内径12.5m、このトンネルが環状7号線の地下に延々4.5kmにわたって続いているのです。携帯式の照明のみなので、写真を撮るのは少し無理がありました。霧がかかっている状態でした。
善福寺川取水施設 太いトンネルの壁と屋根
トンネルの壁には、ウ・ヒ・ロといった字が書かれています。これはトンネル内の検査をした際の目印だそうで、「ウ」は浮き、「ヒ」はヒビ割れ、「ロ」は漏水、といったような意味があるとのことでした。
 また、平成21年の台風18号の時流入した水の位置などのあとが線になって残っていました。
 子どもたちは、もっと奥の方へ行ってみたいと言っていましたが、ちょっとした冒険でとても楽しそうでした。
 あの車がたくさん走る環状7号線の地下34m~43mの所にこんなトンネルがあるなんて、びっくりです。

キース・ヴァン・ドンゲンと竹久夢二

 松岡美術館では「エコール・ド・パリ展―パリのきらめく画家たち」を丁寧に見ました。併設展示として「青磁と染付展」が開催されていました。
 キース・ヴァン・ドンゲンの『シャム猫を抱く婦人』が気になりました。
 写真を撮らせてもらったのですが、ガラスに光が反射して、きれいに写りませんでした。
 こんなふうな絵だったということで、載せます。
「シャム猫を抱く婦人」
 ここで、竹久夢二の代表作、『黒船屋』は、実はこのキース・ヴァン・ドンゲンの影響を受けているのだと解説されていました。
竹久夢二『黒船屋』
 シャム猫を抱いている女性像が、竹久夢二に影響を与えたのか、と思いましたが、帰って調べてみると、直接影響を与えた絵は、別の『猫を抱く女』という絵画でした。
 竹久夢二は、『黒船屋』を描く際、キース・ヴァン・ドンゲンが描いた『猫を抱く女』の構図をまねたと言われています。これはよく知られていることだそうです。
 絵は独学だった夢二は、画集や美術雑誌を買い求め、ムンクやロートレック、ルノアールの作品、そして浮世絵もたくさん集めて、丁寧にスクラップをしていました。
 夢二伊香保記念館にはそうしたスクラップブックが多数残されています。そのスクラップに、キース・ヴァン・ドンゲンの『猫を抱く女』もあります。
ヴァン・ドンゲンの『猫を抱く女』
 キース・ヴァン・ドンゲンは、 1877年に オランダのロッテルダム郊外デルスハーフェンに生まれ、ロッテルダムの美術アカデミーで学びます。1896年に日刊紙のイラスト・レポーターとして働き、港の風景や娼婦のデッサンなどをします。
1899年オランダからパリに移りますが、絵は売れず、運送、ペンキ塗りなどのアルバイトをしながら、風刺新聞や雑誌などの挿絵の仕事をします。
 1906年、モンマルトルのバトー=ラヴォワール(洗濯船)に移り住み、ピカソらと親交を深め、マチス、ブラマンクらと知り合い、ゴッホの色使いに刺激をうけフォーヴィスムの運動に加わって、独自の画風を形成していきます。
 夢二は、絵が売れず、イラストなどを描いていたキース・ヴァン・ドンゲンに共感するものがあったのかもしれません。
 キース・ヴァン・ドンゲンの『シャム猫を抱く婦人』は、なかなか素敵な作品でした。

「利庵」というお蕎麦屋さん

 白金台の松岡美術館へ行きました。この美術館は好きな美術館で、時々行きます。
 地下鉄を白銀台で下りて、プラチナ通りに入った所で、行列のできたお店がありました。「利庵」というお蕎麦屋さんです。ちょうど11時30分、開店の時間です。
利庵 店先
 一度入ってみたいと思っていたお店だったので、列について入りました。お店の中は重厚なテーブルと椅子、あいにく席が無くなってしまいました。
 待とうか、と思った所、つめてくださって、座ることができました。
 おろしそばとやまかけそばをたのみました。
 多くの人が「出汁巻き玉子」をたのんでいました。
 少し待って、出てきました。そばは細めで、コシがあって白っぽ、きれいといった感じでした。喉ごしもよく、香りも十分です。つゆは江戸前、少し辛めでした。美味しかったです。たくさんの人がここを目当てに来るのが分かる気がしました。
利庵 やまかけそば
 今度は、少しゆったりと食べてみたいと思いました。
 
 松岡美術館は、まず、代表として、創立者松岡清次郎のガンダーラ・インド彫刻蒐集のきっかけとなった作品と言われる、「菩薩半跏思惟像」(3世紀)を載せておきます。
 ガンダーラコレクションでは質量とも我が国で一番といわれていますが、その代表の作品です。
松岡美術館 「菩薩半跏思惟像」

『アーティスト』(The ARTIST)

 同じく目黒シネマで、『アーティスト』(英: The ARTIST)を見ました。アカデミー賞特集をしているのです。
『アーティスト』は、1927年から1932年までのハリウッドを舞台とし、トーキーの登場でサイレント映画の時代が終わった、その時代に乗れなかった男優と逆に躍進する女優を描く物語です。
モノクロ・サイレント映画と、非常に地味なのですが、アカデミー賞を作品賞など5部門で受賞しました。なぜ、今、この地味な映画が、これほど評価されたか、今の映画が昏迷していることの裏返しかもしれないと思いました。でもよくこのような映画が作くれたのですね。アイディア勝ちでもあります。もう真似はできません。
 とにかく、台詞のない映画、1時間40分を、飽きずに見させるというのは、すごいです。
『アーティスト』 犬のアギーと
 私は、なにより、犬のアギーに会いたかったです。
 リードなしでもきちん主人と一緒に動くアギー。"バーン!"と撃たれると「死んだふり」をするアギー。ご主人に合わせてステップを踏むアギー。片手で顔を隠して「照れる」アギー。火事の時は、主人の危機を警官に知らせるために全速力で走るアギー。
 やらされているって感じがなくて、素直に感動しました。
 「犬のアカデミー賞」と呼ばれる「ゴールデン・カラー(金の首輪)賞」の第1回受賞犬となったとのことで、おめでとうございます。
 こんな犬がそばにると、どんなに幸せかと思います。
 ジャック・ラッセル・テリアという犬種だそうですが、実はこの種の犬は飼うのはなかなか大変なのだそうです。よくガブリと噛まれるのだそうです。
 そんな話を聞いても、かわいいです。
 サイレント映画に犬の演技は、冴えますね。しかし、アギーは、様々な映画にも出た名犬ですが、この映画を機会に引退するそうです。
 サイレント映画の大スターが音の時代に入って、それに乗れず、すっかり置いてきぼりになり落ちぶれて行きます。そして奥さんにも見放されるのですが、少しも暗くはならないです。あたたかいものが、ずっと漂っています。
 それは、身のまわりにいつもいてくれる犬や、どんなに境遇になっても守ってくれる運転手や女優がいたからでしょう。
 ホッとできる、こころにあたたかい映画でした。

『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』

 目黒シネマで、『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』原題は『THE IRON LADY』を観ました、
 出だし、老いた夫人が、スーパーのレジに並び、ミルクを買っている所から始まります。
マーガレット・サッチャーです。首相までなった人が一人でスーパーに行くのかな、と思って見ました。サッチャーは買い物を済ませると、家で、夫と食卓を囲みながらミルクの価格について会話しています。
  軽い認知症にかかっているという話を聞いていたので、買い物で何か失敗でもするのかなと思っていたのですが、そんなことはなく家に帰っていました。
 こんな普通の生活をしていたのかなと思ったのですが、それが、しだいに、夫はすでに死んでいて幻覚なのだと分かってきます。
 やはり認知症で、施設のような所にいるみたいです。
 夫がたびたび登場します。そして、その夫との結婚、やがてイギリス史上初の女性保守党党首、英国首相になり、鉄の女(Iron Lady)の異名をとるといった思い出が流れます。
 当初は、「政治の世界に紛れ込んできた女」として保守党でも「異邦人」のように扱われていたサッチャーですが、労働運動過激化にともなう不景気や社会の混乱を見かねて、保守党の党首選に出馬します。その時は、食料品店の出身でし、それになんと言っても女性だし、彼女自身も党首は無理だろうと思っていたようですが、党首に選ばれ、英国初の女性首相になります。
『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』
 首相になってからは、「公費の拠出を減らして、民間にゆだねる方針」そして、「自分が正しいと思ったことを曲げない強い政治」で、イギリスを牽引していきます。
 政治家としてのサッチャー のイギリスでの評価は知りませんが、とにかく名前は知っています。それだけ、世界への影響力も大きかったのでしょう。
 そして、鉄の女とまで言われ、世界で活躍した人が、歳を取ると、こうして認知症になって普通の年寄りになってしまう、なんだか、恐い思いがしました。歳を取ることの怖さをしみじみ思ったのです。
 幻覚として現れる夫のデニス、サッチャーにとって、とても大事な人だったのだろうということが分かります。この映画は、そうした夫婦愛を描いているので、救いとなり、決して惨めではないのですが、長く首相をして人を、まだ存命中なのに、このような映画にできることも、驚きでした。
 それにしても、メリル・ストリープの演技はすごいです。サッチャーになりきっています。猛然と議論する全盛の時も、老人になっての弱々しい表情、足取りも、サッチャーその人を見ているようです。きちんと歳を取っています。
3度目のアカデミー賞の主演女優賞、当然だなと思います。
 日本のタイトルの「涙」はいらないな、と思いました

「輝ける皇妃 エリザベート展」

 日本橋三越で開催されていた「輝ける皇妃 エリザベート展」を見てきました。
 エリザベートについては、「イタリア紀行」という、イタリアを尋ねた歴史的な人物のイタリアを学ぶ講座を受講したことがあって、その時、ゲーテなどと共に少し勉強しました。
 しかし、覚えているのは、ヨーロッパ随一の美貌の皇妃で、そのスタイルを維持するために毎日ダイエットをしていたこと、最後は暗殺されてしまったという、それぐらいです。
 でもなんとなく気になる人だったので、展覧会へ行ってみました。
 肖像画などとともに、多くのエリザベートの愛用品がならび、会場途中には、映像でその生涯の紹介することもされていて、エリザベートの生涯を体感するように見ることができました。
羽の扇を持つエリザベート
 <羽の扇を持つエリザベート(クロイスターノイブルク修道院博物館蔵)>です。
 身長172センチ、体重50キロ、ウエスト50センチ。
 この驚異的なプロポーションを保ち続けたわけです。
 食事制限だけでなく、馬術やフェンシングの練習に励み、それに、部屋に置いたつり輪や鉄亜鈴を使うトレーニングも怠らなかったということで、それはまさにオリンピック選手なみだったようで、中でも乗馬で出場すれば、金メダルだったかもしれないとのことです。またその長い髪を、2週間に一度、卵とコニャックなどで丸1日かけて洗髪したり、寝るときには、子牛の生肉を内側に張った革マスクをしていたとかで、とにかくすごいです。
 さらに、エリザベートは33歳以降、肖像画や写真を禁じ、扇で顔を隠したということです。
 みごとなまで美しいままで後世に残りました。
 名門ハプスブルク家の皇帝フランツ・ヨーゼフは、バイエルンへ、エリザベートの姉との見合いに行きますが、真面目な姉ではなく、自由で屈託のない妹エリザベートを見初めてしまいます。
エリザベートは、16歳で皇帝フランツ・ヨーゼフと結婚します。
 故郷のバイエルンで自由奔放に育ったエリザベートにとっては、ハプスブルク家の古いしきたりの宮殿生活は受け入れがたいものでした。初めての子どもも引き裂かれ、その上、その子は死亡してしまいます。
 そうした心の隙間を埋めるためか、ヨーロッパや北アフリカ各地を旅行しています。もちろんイタリアにも行きました。
 その間に、最愛の皇太子ルドルフの自殺など、様々な悲劇が彼女を襲います。そして、過酷な運命は、彼女自身にも及び、スイスのジュネーブで、イタリア人の無政府主義者によって暗殺されます。享年51。
 この展覧会では、エリザベートの肖像画に描かれている、「シシィの星の髪飾り」が日本初公開でした。「シシィ」は、エリザベートの愛称です。
星の髪飾り「シシィの星」
 重なり合う4つのひし形はハプスブルク帝国下の4地域-オーストリア、ハンガリー、チェコ、クロアチアを表し、民族融和の願いを込めたと言われます。しかし、そんな願いもむなしく、独立を求める諸民族の動きは激化し、約650年続いたハプスブルク王朝は瓦解へと向かっていきます。

林試の森の セミとクモ

 井の頭公園からなかなか抜けられないので、一応ここまでにして、別のことを入れます。
 15日の林試の森の自然観察会で見つけた「ミンミンゼミ」と「集まっていたセミの抜け殻」そして「ナガコガネグモ(長黄金蜘蛛)」の写真を載せます。
 新しい写真機、まだ慣れなくて、どうしてもパシッといきません。縦に撮ったので長くなります。
ミンミンゼミが鳴いていました。
せみの抜け殻がすずなり
ナガコガネグモ

江戸紫

 江戸で紫染めができたいきさつについては、いろんな説があるようです。
 まず、8代将軍吉宗が浦上弥五左衛門に、『延喜式』に記載されているとおりに古色を染め出すことを命じ、弥五左衛門から命を受けた後藤縫殿助が、その古色をつぎつぎと染め出し、それらを収録した『式内染鑑』の刊行が契機となったという説です。
 紫は、「『延喜式』に記載されているとおり」だと、一般には禁止されていたわけですから、その染めができたとしても、庶民までは届かないのではと思います。あくまで契機になったということかもしれません。
もうひとつが、地域に伝わっているお話です。
 多摩郡(現杉並区)松庵(たまぐんまつあん)の杉田仙蔵という人が武蔵野の紫草復活を思いたち、苦心研究の結果、武蔵野での紫草栽培に成功しました。さらに、京染めを学び、試行錯誤の上、京染めにまさる紫の染めを生み出しました。
その成功の要因として、1つに、井の頭池の水を用いたことが良かったこと。紫染めにあった水だったというわけです。
第2に、染めの媒染剤として、五日市の奥山の椿やサカキの灰を使ったことがあげられています。灰に椿の木の灰を使うことを杉田仙蔵が発見したと記したものがありましたが、
紫染めに、椿の灰は昔から使われていました。
 杉田仙蔵の話には、井の頭池が出てきて、「感謝」の気持ちがここ井の頭池にむくことが納得できます。
 江戸紫は、JISの色彩規格では「こい青みの紫」としています。赤みが強い京紫に対して、青みの強いのが特徴です。そして、すぐ出てくるのが、「助六」が締めている鉢巻の色です。
揚巻の助六 市川団十郎 三升
 意識して眺めると、鮮やかですし、いかにも粋です。
 歌舞伎においては、「病気である」という演出表現として、「病鉢巻」というこしらえがありますが、これは「紫縮緬の鉢巻き を頭の左で結ぶのが約束」になっています。「助六」の鉢巻は、結び目が右になっています。これは「若衆が成人した時の しるし」のように言われています。
 ついでながら、いなりずしとのり巻きを折り詰めた寿司のことを「助六」といいますが、この名称は歌舞伎の「助六」に由来しています。
助六寿司
 助六の鉢巻きの色が紫色だったことから、それをのりに見立ててのり巻きにかけ、助六の愛人の遊女「揚巻」の"揚"を油揚げに見立て、いなりずしにかけた、ということです。
 また、東京スカイツリーは、夜1日交代で、水色と紫色でライトアップされていますが、これは、隅田川をイメージした水色が「粋」、優美な江戸紫色が「雅(みやび)」を表しています。
 江戸紫が、日本人の意識の上で復活したと言えます。

紫草(ムラサキ)

 参道を歩いて、井の頭弁天へ降りる石段の所まで来ると、紫燈籠と呼ばれている石燈籠が建っています。
「紫灯籠」no
 江戸時代の後期、武蔵野で産した紫草(ムラサキ)の根からとった染料を使い、井の頭池に発する神田川の水を使って染めた江戸紫は、大変な人気でした。
 これに感謝して、染物問屋と薬種問屋が慶応元年(1865)に寄進したものです。
井の頭「紫灯籠」の碑文
 紫草(ムラサキ・以後ムラサキ)は、かつては武蔵野のいたるところに自生していた野草です。ムラサキ科の多年草で、背丈は、50cmくらい。主に山野に自生し、夏になると直径が1cmにも満たない白い小さな花を咲かせます。
ムラサキは、その根(紫根)に特殊な有効色素成分を含むことから、古代より染料や薬用として大切にされてきました。
ムラサキ
 どんなに古くからあるかと言えば、例えば、『万葉集』には10首に登場します。
 最も有名なのが、天智7年(668)5月5日、天智天皇と大海人皇子(のちの天武天皇)らが、近江の蒲生野にみ狩りを催した時に、額田王と大海人皇子が交わした歌です。
  茜(あかね)さす、紫野(むらさきの)行き、標野(しめの)行き、野守(のもり)は見ずや、君が袖(そで)振る  額田王(万葉集巻1-20) 
これに応えての大海人皇子の歌。
 紫のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも 大海人皇子(万葉集巻1-21)
 「あかね色に染まった紫の生い茂る標野」でのみ狩りでした。
 『万葉集』の次の歌は、染色の技法が見えてきます。
 紫は灰さすものぞ、海石榴市(つばいち)の、八十(やそ)の街(ちまた)に逢へる子や誰れ(万葉集巻12―3101)
<紫染めには灰を加えるものだ。その灰にする椿ではないが、海石榴市の四方八方に通じる辻で会っているお前さんはだれですか。名前を聞かせてください。>
 「紫は灰さすものぞ」は海石榴市に懸かる序詞です。ムラサキを染めるときに椿の灰を媒染剤に用いることから、椿と海石榴市を懸けて表現されています。ムラサキの根から、紫色の染料を取るのですが、このときに媒染剤として椿の木灰を使っていたのです。
 さて、「紫色」は、高貴な色として古代からとても大切にされてきました。聖徳太子の制定した冠位十二階の最上位は深紫(こきむらさき)です。そのように紫色そのものが、皇族以外の者が身につけてはならないとされた時期もあるように、高貴な位の人以外手にしてはいけない色でした。『延喜式』には、武蔵国からも紫根を朝廷に運ばせたとあり、武蔵国はムラサキの産地として有名でした。
 江戸時代に入り、その高貴な紫が、江戸で作られるようになり「江戸紫」として一大文化を形成するに至ります。
それは、「古代紫」または「京紫」の名で呼ばれていて、手にできなかった高貴な紫にかわって、新しい手法による紫染が生みだした紫で、それは「京紫」に対抗して「江戸紫」と名づけられます。
 この江戸紫は、江戸後期には江戸の名産として流行します。特に井の頭の池の水で染めたものは、色落ちしないと重宝されたといいます。
 そして、そのムラサキゆかりの井の頭に染物問屋と薬種問屋が感謝をこめた、紫灯籠が弁財天の上にあります。

井の頭弁財天石段上の石像物

 黒門から、民家の植栽を眺めながら参道を井の頭公園の弁財天へ向かうと、大盛寺の入口に着きます。今は駐車場になっているのでしょうか、いつ行ってもここは車が数台止められています。
 大盛寺の右側に石段があります。参道からみれば、少し斜めに交わっていますが、その石段の下が井の頭弁財天です。
 大盛寺は、天台宗の寺院で深大寺の末寺で、現在の本堂は昭和63年に竣工したものです。
 まず、参道の軸線にあわせて一対の石灯籠が建っています。文化7年(1810)の建立です。「兩國講中」の彫込みがあります。そして、その北隣に宇賀神像があります。
 台座にあたる石の角柱はここにあった鳥居の標石で、「井の頭辨財天石鳥居講中」と刻まれ、その鳥居の図も彫られています。明和4年(1767)の年号も記されています。
井の頭「鳥居の標石」
 その上に、老人の頭と顔で、身体は蛇がとぐろを巻き、下は蓮になった像が乗っています。まったく不思議な形です。この人頭蛇身の像が宇賀神です。
井の頭「宇賀神像」
 宇賀神は、神道古来の五穀豊穣の神として祀られました。五穀豊穣の神として稲荷神とも同一視されます。
それが、やがて、仏教系の弁財天と同一視されるようになります。
 それは、弁財天は、奈良時代に仏教とともに伝来していますが、中世に、比叡山(天台宗)で弁財天と宇賀神という神とを関連づけて、両者が同一のものであると説かれるようになりました。
 弁財天は、もとはインドのヒンドゥー教の神様サラスヴァティーです。 このサラスヴァティーとは聖なる(豊かなる)河といった意味で、水の神様とされてきました。 日本でも、江ノ島・竹生島・厳島をはじめとして、水辺に祀られていますし、井の頭弁財天も井の頭池に祀られています。
 弁財天は、河の(水の)流れの音が、音楽連想させることがあり、音楽をはじめとした芸術の神様としての信仰を集めました。七福神では、弁財天は琵琶を弾く姿で現されます。
 さらには「才」を「財」に置き換えて、財宝を授ける神様としての信仰も盛んになります。
 宇賀神像の乗っかっている石鳥居の他の部分は、神田川の河口近くのひょうたん池の橋の近くに残っています。明治初年におこった神仏分離によって撤去されてしまったとのことで、その一部は公園池東端に水門として転用されたのです。
 ひょうたん池の残されて鳥居
 さて、弁財天への石段の両脇に建つ石灯籠は、紫草という雑草の根からとった江戸紫の染物問屋と根から薬をとった薬種問屋が慶応元年(1865)に寄進したもので、「紫灯籠」と呼ばれています。
井の頭 「紫灯籠」
 向かって右側の石灯籠に染物問屋、左側の石灯籠には薬種問屋の寄進者名が刻まれています。この石灯篭は、文化7年(1810)の建立です。

井の頭弁財天 黒門付近

井の頭 黒門
「黒門」、鳥居に似た黒塗りの木の門です。
 現在あるものは2代目で、大正13年(1924)に朽ちてしまったものを一回り大きくして造られました。本来はここからが井の頭弁財天への参道の入り口です。
井の頭 大正時代の「黒門」
 この写真は、大正時代に倒壊する前の古い黒門です。
  黒門から弁財天までの参拝道の両脇には、杉の巨木が並んでいたそうです。今は人家です。
井の頭の大黒天
 黒門の左脇の小さな祠には、大黒天石像が祀られています。いつのものか、どうしてここにあるかははっきりしていません。
 その隣には「神田御上水源・井の頭弁財天」と刻まれた井の頭弁財天への「道しるべ」の標石が建てられています。延亭2年(1745)に作られ、天明4年(1784)に改修されています。右側面には「是より社まで一丁半」とあります。
井の頭弁財天への石標
 現存する井の頭への5基の道標のうち、これが最も大きく、標石の長さだけでも2.4mあり、基盤の上に2段の台石をもっている。
 井の頭弁財天道標の石座の銘
3段に構えた石には多数の寄進者の名が刻まれています。中村勘三郎、瀬川菊之丞、高麗屋純蔵(後の五代目松本幸四郎)といった役者の名前、あるいは、中村座、肥前座、薩摩座といった劇場の名前があります。これは、音楽・芸能の信仰としての弁才天への信仰による寄進です。
 三鷹市教育委員会の案内板には、「当時の演劇界の華やかさがうかがえ、江戸演劇史を知る意味でも貴重なものである」と記されています。

井の頭弁財天への道

 さて、江戸時代、江戸の住人が井の頭弁財天に詣でるにはどいった道ををたどったのでしょう。
 内藤新宿を出発したとします。甲州街道を西に向い、高井戸宿の先で北に分かれ、久我山の南部を西進して牟礼村(現在の三鷹市牟礼)に至り、そこから井の頭道に入って行くといった道が一般的だったようです。
 井の頭通りの浜田山交差点から府中市内までに、人見街道とよばれる道があります。
 人見街道は東京都府中市と杉並区大宮の大宮八幡神社を結ぶ、古くからの街道です。
 またこの道は、甲州街道の裏街道で「甲州裏道」とも言われで、元は甲州街道の高井戸宿の先、烏山付近から分かれ、現在の三鷹市内を通り、府中の人見村に通じていた道でした。井の頭弁財天もこの道を通ったと思われます。
 村尾嘉陵は、文化13年(1816)に井の頭弁財天に詣で「嘉陵紀行」にそのことを記載しています。
 村尾嘉陵はどのように歩いたのでしょう。
 浜町の賜舎を出て、市谷御門を抜け、尾張殿屋敷、自性院(市谷富久町・自証院)、三光院稲荷(花園神社)の前を通り、青梅街道を成子から中野の方へ向かっています。ということは、内藤新宿や甲州街道を通らず、青梅街道へ出たことになります。
 中野から祖師堂で有名な妙法寺に参詣し、そこから、大宮八幡に向います。その後人見街道から玉川上水端を歩き、井の頭弁財天へ向かいます。
「その三つ目の橋の所にて、上水端をはなれて右の方へ行道、左右みな並木あり、七八町にて井の頭辨財天の大門え出る」
井の頭弁財天 黒門
 井の頭は、内藤新宿から直線距離でだいたい12.3㎞ありますが、往復すると20数㎞。道は曲がりくねっていますから距離はもっとになり、日帰りだとかなり厳しい距離です。それでも、井の頭池の恵みを受けた江戸市民の厚い信仰によって、参詣者は多くいました。旧甲州街道には今も、5基の井の頭弁財天への道標が残っています。
 今では、ほとんどの人が、吉祥寺駅から井の頭公園に入るので、この黒門の存在を知っている人は少なくなっています。しかし、正式な井の頭公園、井の頭弁財天への入口はこちら黒門からです。吉祥寺駅方面からの道は脇道、裏道だったのです。

「深川水舩組」が寄進した辛夷の碑 

 3代将軍家光は、井の頭へ、鷹狩りでたびたび訪れたようです。
家光には「井の頭」の命名の伝説があります。
 寛永6年(1629)に家光が訪れた際に、「この池の名前は何と言うか」と問うと、土地の人は「なないの池です」と答えました。湧水が7ヵ所にあったことから「七井の池」と呼ばれていたので、そう答えたのですが、家光は<名がない池>と聞いたようです。
 そこで家光は「それでは、この池の水は江戸の飲料水の源・上水の頭であることから「井の頭」と呼ぼう」ということで、池のほとりの辛夷(こぶし)の木に小刀で「井之頭」と刻みました。
 「井の頭」という地名は、水源の各地にあり、特別ここだけではないので、このことはあくまで、言い伝えだと、多くの専門家は言います。
 しかし、「井之頭」と刻んだ辛夷の木のその刻んだ木の皮が、弁天堂に宝物として保存されていたということも伝えられています。ただ残念ながら、大正13年(1924)の弁天堂の火災によってその木の皮は失われてしまったと言います。
 徳川御三卿の1つ、清水家用人の村尾嘉陵は、江戸近郊の名所、旧跡などの見聞を紀行文風にまとめていていますが、その「嘉陵紀行(江戸近郊道しるべ)」の中に、文化13年(1816)に井の頭弁財天に詣でた一文に、辛夷(こぶし)の木のことを書いています。
 あいにく村尾嘉陵が訪れた時、井の頭弁財天の正面の石橋が崩れていたため、左手に迂回しました。「そこより左にとりて林間を下り、社の左に出る、こゝの林間の坂の下に大猷院殿御手づから、御小刀をもて木の肌に井ノ頭と鐫付させ賜ふ木ありしが、枯れて其跡に若木を植たる所あり」。
 「江戸名所図絵」には「寛永6年、大将軍家ここに渡なし給い、深く此池水を愛させられ、大城の御許に引せらるべき旨釣命ありて、御手自池の傍なる辛夷の樹に、御小柄をもて井頭と彫付けたもう、是より後此池の名とす。其辛夷の木は大盛寺に収蔵す。」と記されています。
i井の頭公園「徳川三代将軍御切付旧蹟」
 辛夷の木、その後の何代かの木も枯れてしまい、今はただ、1つの石碑がそのエピソードを伝えています。それは「徳川三代将軍御切付旧蹟」という碑で、明治26年(1893)に「深川水舩組」の寄進で建立されました。
 碑文には、次のようにあります。
 「大猷院家光公様御手づから井之頭と御彫あそばされたる古むしの木是なり御切付の文字は今に宝物として内陣に秘蔵す  正三位勲一等子爵鳥尾小弥太敬書」
 「大猷院」(たいゆういん)は、徳川3代将軍家光公が死後、後光明天皇から賜った法号です。
 ここで注目したいのは、寄進した「深川水舩組」のことです。
 江戸は、神田上水、玉川上水を中心に水道網を張り巡らせた町でした。しかし大川より東の地域には、上水は行っていませんでした。大川は川幅も広く、その先の地にも十分な高低差を確保することができないため、水道を引くことができなかったのです。
 そこで、幕府の鑑札を受けた水舟業者が呉服橋門内銭瓶(ぜにがめ)橋・一石橋の左右・竜閑橋下で濠に落ちる神田上水、玉川上水からの吐水を水屋の船が待ち受け、船の水槽に貯め込み、本所や深川などで、水売りが売り歩いていました。
 水船と称する飲用水を運搬する船を取り扱う組合が「深川水船組」でしょう。
 享保3年(1793)には45隻もの水船があったという記録が残っているようです。
 ついでながら、江戸時代の商工業者は、幕府や藩に認められた株仲間と呼ばれる同業組合を作っていました。支配者は商工業の統制と冥加金を徴収する2つの目的がありました。一方、商工業者にとっては、株仲間の数を制限することにより競争を防ぎ、利益を確保することができました。
 「深川水舩組」の人たちは、神田上水のお世話になったという思いがあったのでしょう神田川の源泉である井の頭に「徳川三代将軍御切付旧蹟」という碑を寄進しました。
 明治26年(1893)と言えば、まだ東京の人たちは、神田上水などを飲料水として利用していましたが、明治23年(1890)には淀橋上水場の建設計画がすでに決定していて、碑のできた明治26年(1893)の5年後、明治31年(1898)には淀橋上水場が完成します。そうなると神田上水も飲料水供給の役割が終わります。そいて水船も消えゆく運命にあります。
そうした時代に、どういう思いで「徳川三代将軍御切付旧蹟」の碑を寄進したのだろう、と考えると、深い感慨がわいてきます。

井の頭公園 お茶の水

 井の頭恩賜公園の池は、武蔵野台地が浸食された谷戸にある湧水池です。池の西側一帯は「御殿山」と呼ばれていますが、約1万年前の石器時代の石槍や、縄文中期時代から縄文後期にかけての竪穴住居跡、その他、多くの縄文式土器など発掘されていて、石器時代、縄文時代から水辺であるこのあたりに人が住んでいたことが分かります。
井の頭池は、そんな昔から、干ばつがあっても枯れない豊富な湧き水を持っていました。
 現在、池の中央を横断している橋を七井橋と呼びますが、それは、井の頭池はかつて、7ヵ所からの湧き水があったということで「七井の池」と呼ばれていたこときています。
 昭和28年(1953)5月、橋が再建された時、公募で選ばれた名前ですが、七ヶ所の湧き水があったことを記録する名称になっています。(ちなみに、改修される以前は、中之橋と呼ばれていました。)
その井の頭池の北西隅の谷戸に「お茶の水」という石の井桁で囲まれた湧き水があふれている所があります。
井の頭公園 お茶の水
 ここは、徳川家康が何度かこの地に狩にきたとき、茶をたてるために水を汲んだことから「お茶の水」と呼ばれたとされています。
 東京都の解説プレートが立てられていますが、それには「その昔、当地方へ狩に来た徳川家康が、この湧き水の良質を愛してよく茶をたてました。以来この水はお茶の水と呼ばれています。」と記されています。
 しかし、このお茶の水、残念ながら今は本当の湧き水ではありません。
 かつて湧き水が豊富な時代は、井の頭の「七井の池」では、1日2~3万トンの水が湧き出ていたと言われます。それが、昭和30年代からしだいに水量が減り、お茶の水も昭和40年代初めには枯れてしまいました。現在は5本の深井戸からポンプでくみ上げています。これは、井の頭公園の周囲が、住宅街として開発されることにより、湧き水が出なくなってしまったのです。
 しかし、現在ある「お茶の水」は、土手と木陰で薄暗い場所にあり、出てくる水もかなり豊富なので、かつての湧き水を偲ぶにはとても良いです。
江戸名所図会 井頭池 弁財天社
江戸名所図会 井の頭弁財天付近拡大
「江戸名所図会」を丁寧に見ると、弁才天付近の池のまわりに、3本の立て札が描かれています(小さくて見にくいですが赤丸で囲んでいます)。その看板のことを本文に見ると、別当だった大盛寺の立てたもので、井の頭池が神田上水の源であることと徳川将軍家とのかかわりを示すエピソードを示したものです。
 その1つは、弁天様の付近を大きくした図の下中央あたり、御殿山の木のあたりにあるのですが、これが、今回記した「お茶の水」です。位置は今と大きく違うように思います。移ったのでしょうか。
 2つ目は、弁財天のあたりを大きくした図の左の下方あたりです。寛永6年(1926)3代将軍家光が井の頭と命名してかたわらの辛夷の木に小刀で刻んだエピソードです。第3は、聖天の所にある柳の下です。これは御楊枝の柳で、同じく家光が楊枝をさしたところ柳が根付いたというもので「聖天堂の後ろにあり」と場所も書かれています。
 家光のエピソードは次に記します。

井の頭恩賜公園 弁財天 ・ 神田川の碑

 井の頭恩賜公園の弁財天が神田上水の水源として、江戸庶民に深い信仰の対象として存在していたことを、現存する石造物を中心に見ていきたいと思っています。
 まず、その前に井の頭恩賜公園の概略を記します。
井の頭公園案内看板
 井の頭恩賜公園は、東京都三鷹・武蔵野の両市にまたがる総面積28万6000平方メートルの都立公園です。
 井の頭池の西端の島に井の頭弁財天は祀られています。井の頭池を守る水神です。
井の頭弁財天
 井の頭弁財天の起源は、平安時代中期(938-946)に六孫王経基(関東源氏の祖と言われる)が伝教大師作の弁財天女像を安置するためこの地に建てたお堂は始まりであるとされています。その後、源頼朝が東国平定を祈願し、その大願成就ののちに改築されたことが伝えられます。ところが鎌倉時代末期の元弘の乱の際に、新田義貞と北条泰家との対戦の兵火で弁財天は焼失していまいました。
それから数百年の間は放置されたままでしたが、江戸幕府3代将軍徳川家光が、弁財天を再建したとされています。
 この地域一帯は、「三鷹」という地名にも残るように、徳川歴代将軍が鷹狩りを楽しんだ鷹場でした。家光は、鷹狩りに訪れた際の休息のため、井の頭池を見渡す場所に御殿を造営します。井の頭公園に今も伝わる御殿山の地名はそこからきています。
 そういうこともあり、江戸時代には、井の頭池と一帯の林は、幕府御用林として保護されていました。
神田川水源の碑
 それにもうひとつ大事なことは、天正18年(1585年)家康が江戸入府の際、市民のために上水が大事として、神田上水を作りましたが、その水源は、井の頭池でした。
井の頭池からわき出した水を水甕として、神田上水は玉川上水とともに、江戸市民に利用され、明治31年まで使用されていました
 その水源の守り神として、また財産を授ける神として、さらには芸能・音楽の神として、江戸期には弁財天は江戸の庶民の信仰を集めて行きました。
 江戸市中からの参詣者も多く、弁財天への道中には道標が建てられ、江戸の人々はそれを頼りに甲州街道から高井戸、久我山を通って井の頭弁財天に参拝しました。
 弁財天境内や向かいの石段、石段を登りきった周辺などに、その当時の商人が寄進した石灯籠、宇賀神像などが残っています。その石造物を、少し細かくみて行きたいと思います。
 さて、江戸時代には幕府御用林として保護されていたが井の頭公園一帯ですが、明治22年(1889) 宮内省(現在の宮内庁)御用林となります。
 大正2年(1913)12月 帝室御料地から東京市に下賜され、大正6年(1917)5月1日 恩賜公園として一般公開されました。それは、郊外公園設置の計画ですすめられました。」
 その公園計画の成功は、東京における公園として市民をうるおしたばかりでなく、公園の推進の端緒となったと言われています。

ニイニイゼミの抜け殻

ニイニイゼミの抜け殻
 林試の森で、ニイニイゼミの抜け殻を見つけました。蝉の抜け殻を見つけるとだいたいがアブラゼミだったので、珍しいな、と思いました。
 ニイニイゼミの抜け殻には泥がついているのが特色です。それは乾燥を防ぐためだろうと言われていますが、はっきりしていません。
 松尾芭蕉の「奥の細道」に出てくる立石寺で詠まれた「閑さや岩にしみ入蝉の声」。その蝉は何の蝉か、小宮豊隆・斎藤茂吉らが論争をしました。芭蕉が立ち寄った時期などからこの「蝉」はニイニイゼミであるとされています。

 今はミンミンゼミの声が中心です。もう少しすると、「ツクツクボーシ」「ツクツクボーシ」「ウイヨース」のツクツクボウシ鳴き声が聞こえてくるでしょう。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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