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淀橋市場見学

 東京都淀橋市場に見学に行きました。
淀橋市場 扱いが2番目に多いタマネギ
 関東大震災以降、中央卸売市場の建設計画に着手することになります。第1次計画として築地、神田分場及び江東分場が建設され、昭和10年に開場しました。
 これとあわせて、昭和7年7月に、各地に散在していた私設卸売市場を統合収容するため、第2次計画(足立・荏原・豊島及び淀橋分場)が策定されることになり、この第2次計画に基づき、昭和13年9月市場用地13,200平方m、の淀橋分場が完成しまします。
 そして、翌昭和14年2月、四谷・淀橋・中野・杉並・練馬・渋谷・世田谷方面に散在していた13のの私設青果市場を収容し開場しました。
 現在、野菜や果物を中心に取り扱っています。
淀橋市場だけで使われる電動アシスト荷車(通称マイテーカー)
 淀橋市場は、敷地面積が狭いので、卸売場棟は3階建てになっています。築地などの卸売市場でおなじみのターレットトラック(通称ターレー)はなく、電動アシスト荷車(通称マイテーカー)が活躍しています(写真)。
 現在11箇所ある東京都中央卸売市場の最後から2番目の狭さですが、取り扱い量は、大田、築地に次ぐ多くの量を扱っています。
淀橋市場の創設者 内田秀五郎の胸像
 正門の右側に、淀橋市場の礎を築いた、内田秀五郎の胸像があります。
 淀橋分場の開場とともに新たに東京新宿青果株式会社を設立、戦後は東京都議会議長としても活躍しました。銅像は善福寺公園にもあります。
 その胸像のそばに、お稲荷さんがあります。
淀橋市場の市場稲荷神社
 市場敷地内、北東角に鎮座するお稲荷さんです。北東角ということで、「鬼門除け」の意味合いがあるのではないかと言われています。激しく破損してしまったことがあるようですが、しっかと補修されています。
 見上げると、このお稲荷さんの屋根の所、妻飾り=懸魚(げぎょ)と呼ぶそうですが、ここに、おキツネさんが鍵を銜えて駆けている図が彫られています。
淀橋市場の稲荷神社の妻飾り

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ヤブタバコ(藪煙草)

 新宿中央公園でヤブタバコの花を見つけました。
 ヤブタバコは面白い植物で、自分で言うならば剪定をして、上に伸びるのをキッパリと止めます。
ヤブタバコの頂点と花
 アップの写真にするとよく分からなくなってしまいましたが、丸くなっているところが、
伸びるのを止めた頂点です。その横に花が咲いています。
ヤブタバコ
 もうひとつの写真で見るように、花は枝にそってたくさん咲いています。
 ヤブタバコのこうした独特な「樹形」は、ヤブタバコの種子散布戦略が関係しているのではとと言われます。そばを通る動物に実をくっつけるには、茎を上へ伸ばして実を垂直に配置するより、実をずらりと並べた枝を水平方向に広げておいたほうが効率がよいということです。
 名前の由来は「藪(やぶ)」に生息して、葉っぱがタバコの葉に似ていることからきています。葉は互生し、薄くてシワがあり、両面に短毛が生え、裏面に腺点があります。

映画『いわさきちひろ~27歳の旅立ち~』

 映画『いわさきちひろ~27歳の旅立ち~』を見ました。
 ひさしぶりの映画館、テアトル新宿です。すっかり昔の映画館ではなくなっています。
 席は、指定席、時間がきっちり決まっています。思ったより来ていて、3分の2ぐらいは席、埋まっていました。
 海南友子監督のドキュメンタリー映画です。
『いわさきちひろ~27歳の旅立ち~』
 「いわさきちひろ美術館・東京」へは何度か行っているで、いわさきちひろについてはいくらか知識はありましたが、最初の結婚のことは知りませんでした。
 22歳の時でしたか、親の決めた、望まぬ結婚をし、旧満州の大連で過ごしますが、夫との関係を拒否し続け、そのためか、夫は自殺をしてしまいます。
 これは衝撃でした。美術館で感じる限りでは、幸せそうな家庭の暮らししか感じられませんでした。それはもちろん、2度目の結婚からの生活ですが。
 タイトルになっている、「27歳」。いわさきちひろは、疎開先の信州から画家になろうと、家出同然で単身上京します。そして、7歳年下で、夫となる松本善明との出逢い。四面楚歌のなかで再婚します。夫は、司法試験勉強、弁護士になっても労働争議で弱い者の味方をし、稼ぎはほとんどなかったとか。その夫を、そして子どもを絵筆一本で支えた過酷な日々。仕事での孤立。そして病(癌)との闘い。映画はきちんと丁寧にその軌跡を追います。
 いわさきちひろ記念事業団理事長を務める山田洋次監督が、海南友子監督にこの企画をすすめたようです。山田洋次監督はこの映画の、エグゼクティブプロデューサーになっています。
昨年の震災をはさんで、丸3年かけて作った映画です。
 戦争が大きな意味を持っています。特に、いわさきちひろの両親の存在が心の痛みとして後のいわさきちひろを作ります。
 父は陸軍参謀本部の建築技師、母は大日本青少年団主事として、戦争推進の側で活躍していました。国策の「大陸の花嫁」事業では、いわさきちひろは、母に協力する形で花嫁たちをともなって再び満州に渡っています。
それから、東京大空襲で命からがら逃げたことは、大きな衝撃で心の傷として残ったことでしょう。
戦後初めて自立への道を歩むことを決意しますが、そこには、平和に生きることがいかに大切か、その傷からより強い意志で迫ってきたのだと思います。
 ちひろは昭和49年に55歳の若さで死去します。
 テレビの特集とどう違うのだろう、ということも考えていました。

「マウリッツハイス美術館展 オランダ・フランドル絵画の至宝」

 2年前から改修で休館していた東京都美術館のリニューアルオープン第一弾ということで開催されている「マウリッツハイス美術館展 オランダ・フランドル絵画の至宝」に行きました。
 今一番の話題の美術展です。何と言っても、ヨハネス・フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」が注目の的です。
 実は、1984年と、2000年に日本に来ていて今回は12年ぶりということです。
 以前も今のように人気があったのでしょうか。あまり印象に残っていません。
それにしても、近年のヨハネス・フェルメールの人気には目を見張るものがあります。
 おそらく、大変な混雑だろうと覚悟して行きました。
 金曜日の夜がねらい目と思ったのですが、その金曜日、夜用ができて、少し早く行って、4時過ぎになってしましまいた。到着すると、入場まで30分待ちでした。
 展覧会の構成は次の通りです。
 第1章:美術館の歴史
 第2章:風景画
 第3章:歴史画(物語画)
 第4章:肖像画と「トローニー」
 第5章:静物画
 第6章:風俗画
 オランダのハーグにあるマウリッツハイス美術館は、元は個人邸だったとかで、小規模ながらも名品を所蔵していることで知られています。そのマウリッツハイス美術館が現在改修中で休館(~2014年半ば)しているので、精選された約48点の作品が来日しました。
ですから、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」一点豪華のような宣伝ですが、どの作品も見応えがあります。
特にレンブラントが素晴らしいです。
レンブラント「シメオンの賛歌」。
 レンブラント「シメオンの賛歌」。
 「救世主を見ることなく死ぬことはないと知らされたシメオンが、幼子イエスこそ待ちこがれた救世主であると悟り、賛歌を歌うという聖書の一場面を描いた作品」ということですが、聖書を中心に「物語」を知ることの大切さを思います。
薄暗い室内を照らす劇的な光のなか、幼子イエスを抱きかかえて歓喜の表情を見せるのがシメオン。左手に立ち、手をかざしているのは預言者アンナです。
 小さな作品ですが、印象に残ります。
 レンブラント・ファン・レイン 「自画像」1669年
 そして、レンブラント最晩年の自画像。レンブラントの人生を思うと、最晩年に描いたこの作品は100点あまりも描いた自画像群のなかでも特別な意味合いがある作品です。
厳しい晩年にしては、穏やかな表情です。
 フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」の飾ってある部屋は、ロープがめぐらしてあり、人で埋まっていました。1列目から見たい人は誘導用のロープに沿って並んでくださいといわれます。せっかく来たのですから当然並びました。
 かなり待ってようやく、1列目で見ましたが、先に立つ係りの人が、「歩きながら見てください」としきりに手を振って言っています。だから、じっくりというわけにいかず通り過ぎてしいます。
 でも、その列の外からも見られるというので、そしてそこはだいたい3列目程度なので、そちらに行って今度は絵のまん前でじっくり観ました。これは良かったです。写真で見ていた感じとはまるで違います。少し離れて正面から見る、「真珠の耳飾りの少女」の鑑賞にはこれが一番良いように思います。
ヨハネス・フェルメール「真珠の耳飾りの少女」1665年頃
 引き込まれるようなしっかりした甘い雰囲気があります。
 しばらく見とれていると、動いてください、と係の人の声が来ました。
 また見たいです。
ヨハネス・フェルメール 「ディアナとニンフたち」1653-1654年頃
 フェルメールの作品はもう1点出展されています。初期の作品「ディアナとニンフたち」です。「第3章:歴史画(物語画)」のセクションに展示されていたので、うっかりすると、見逃していたかもしれません。
カレル・ファブリティウス「ごしきひわ」1654年
 「第5章:静物画」に展示されている、ひときわ小さな作品が気になりました。レンブラントの弟子にあたるファブリティウスが描いたもので「ごしきひわ」という題名です。ファブリティウスは、32歳で早世したようですが、その作風は、フェルメールに影響を及ぼしたと解説されていました。この絵はがきを買って帰りました。
 マウリッツハイス美術館の改修が終わったら、オランダのハーグに旅行で行ってみたいと思いました。

『センス・オブ・ワンダー(The Sense of Wonder)』

 レイチェル・カーソン日本協会理事長の上遠恵子(かみとお けいこ)さんにお会いできるかもしれないのでレイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー 』を読み返しました。
[センス・オブ・ワンダー
 この本の翻訳が上遠恵子さんです。
 レイチェル・カーソンは、歴史を動かした本と言われる『沈黙の春』を著した人です。
 1958年(昭和33年)の1月のことでした。友人であるオルガーからの一通の手紙が届きました。そこには、役所が殺虫剤DDTの散布をしてから、いつも家にやってきていたコマツグミがつぎつぎに死んでしまったということが書かれていました。
 この日から4年間、レイチェル・カーソンはいっさいの仕事を捨てて、農薬禍のデータを全米から集め、これを徹底分析して、人類の過剰技術問題に取り組んだのです。
 そして、この研究調査のプロセスのすべてを著したのが、『沈黙の春』(Silent Spring)です。出版は、1962年(昭和37年)でした。
この本は、世界中で農薬の使用を制限する法律の制定を促すと同時に、地球環境への人々の発想を大きく変えるきっかけとなりました。そして、今でも、環境に関心を持ったら、だれでも最初に読む本の1冊です。
 しかし、レイチェル・カーソンは、『沈黙の春』を書き終えたとき、癌を告知されていて、自分に残された時間がそれほど長くないことを知ります。
 そして最後の仕事として著したのが『センス・オブ・ワンダー(The Sense of Wonder)』だったのです。レイチェル・カーソンが残した遺言だ、と言われたりします。
 この本に描かれているは、レイチェル・カーソンが毎年、夏の数か月を過ごしたメーン州の海岸と森です。その美しい海岸と森を、彼女は彼女の姪の息子である幼いロジャーと探索し、雨を吸い込んだ地衣類の感触を楽しみ、星空を眺め、鳥の声や風の音に耳をすませました。その情景とそれら自然にふれたロジャーの反応などを、詩情豊かに描いています。
 センス・オブ・ワンダー(The Sense of Wonder)とは、レイチェル・カーソン自身の言葉によると「神秘さや不思議さに目を見はる感性」のことをいいます。
 「この感性は、やがて大人になると決まって到来する倦怠と幻滅、あるいは自然の源泉からの乖離や繰り返しにすぎない人工的快感に対する、つねに変わらぬ解毒剤になってくれるものである」そのセンス・オブ・ワンダーをもつことを、レイチェルはどうしても子供たちに、また子供たちをもつ親たちに知らせたかったのです。
 自然を見る目、そして感動する心が大切だということです。
 私自身のことを言えば、子どものころは引きこもりがちで家にいることが多く、花の名前も、樹木の名前も、昆虫の名前も知ろうとしないで大人になってしまいました。
それが、やっとこのころ目が覚め、自然のすばらしさに感動して「自然観察」に出かけています。しかし、常に名前を知らないコンプレックスはあります。その時、レイチェル・カーソンの次の言葉が、大変助けになっています。その言葉とは、「『知る』ことは『感じる』ことの半分も重要ではない」です。
 花の名前を覚えることは、あまり意味がない、覚えたらそれでお終いということになりがちです。名前を知ることよりも『感じる』=センス・オブ・ワンダー=「神秘さや不思議さに目を見はる感性」ことが大事だというのです。
 本当は、こういう感性、子どものころに育まなければいけないのですが、年をとってしまうともう子どもには帰れないので、まず『感じる』心を磨く努力をしています。
 もう少し引用します。
「『知る』ことは『感じる』ことの半分も重要ではないと固く信じています。子どもたちがであう事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生みだす種子だとしたら、さまざまな情緒やゆたかな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌です。幼い子ども時代は、この土壌を耕すときです。美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知なものにふれたときの感激、思いやり、憐れみ、賛嘆や愛情などのさまざまな形の感情がひとたびよびさまされると、次はその対象となるものについてもっとよく知りたいと思うようになります。そのようにして見つけだした知識は、しっかりと身につきます。消化する能力がまだそなわっていない子どもに、事実をうのみにさせるよりも、むしろ子どもが知りたがるような道を切りひらいてやることのほうがどんなにたいせつであるかわかりません。」
「センス・オブ・ワンダー」をもつことの大切さを、レイチェル・カーソンはどうしても子供たちに、そして、また子供たちをもつ親たちにも知らせたかったのです。
 私は親以上の年になってしまったのですが、センス・オブ・ワンダーを持ち続けたいと思います。
 この日本語版は、1996年(平成8年)に新潮社から発行さたものです。上遠恵子さんのすばらしい翻訳に加え、八ヶ岳に住む森本二太郎さんのカラー写真が添えられています。
 上遠恵子さんは、現在83歳だと思います。お会いできれば良いのですが

大エルミタージュ美術館展

 国立新美術館で開催していた「大エルミタージュ美術館展 世紀の顔・西欧絵画の400年」に先週の金曜日の夕方に行きました。(国立新美術館は16日で終わっています)。
 300万点は超えると言われる所蔵品を誇るロシア、サンクトペテルブルクにあるエルミタージュ美術館から、16世紀~20世紀の各時代を代表する83名の画家の作品、全89点の展覧会でした。
 タイトルに「西欧絵画の400年」とあるように、16世紀から20世紀まで400年に渡る西洋絵画の歴史をその当時の名画で辿る構成となっています。
 第2章 17世紀 バロック:黄金の世紀。
 チケットやチラシに使われている、ペーテル・パウル・ルーベンスの「虹のある風景」も良いのですが、やはりここは、レンブラント・ファン・レイン の「老婦人の肖像」でしょう。
レンブラント・ファン・レイン  老婦人の肖像
 レンブラントの後期の作品です。少しタッチが荒いですが、椅子に腰掛けて物思いにふける老婦人の伏し目がちの瞳。深い精神性が感じられる、深みのある作品です。
 この絵とは対照的な、18世紀、ロココと新古典派:革命の世紀の作品から、ややコケットリーな作品、ジョシュア・レノルズ の「ウェヌスの帯を解くクピド」。
ジョシュア・レノルズ 「ウェヌスの帯を解くクピド」
 レノルズはゲインズボロとともに18世紀のイギリスを代表する画家で、1768年創設のロイヤル・アカデミーの初代院長も務めた画壇の大立者として知られている人物ですが、このような絵も描いたのですね。恥じらうように手で顔を隠して、それとなく流し目を送くっています。こういうのもロココ的というのでしょうか。でもなんとなく惹かれました。
 400年、絵画の勉強になります。
 マティスの「赤い部屋(赤のハーモニー)」は、その前の椅子に座って、しばらくみとれていました。マティスは昔から好きなのですが、こうして400年が一堂に並べられると、古い時代の作品がとにかく重厚に感じられました。

「内藤新宿のお閻魔さん」

 今日7月15日と明日16日は、新宿の太宗寺で閻魔像・奪衣婆像の御開扉と曼荼羅・十王図・涅槃図の公開が行われます。
 曼荼羅・十王図・涅槃図をまだ見ていなかったので、行ってきました。
、縦425センチ、横408センチの大きな観無量寿経曼荼羅、阿弥陀経曼荼羅、無量寿経曼荼羅の3つの曼荼羅、涅槃図、そして十王図を拝観してきました。特に十王図で地獄の模様が実感できました。舌を抜いたり、腕や足を切り落とされたり、茹でられたり、火に投げ込まれたり、蛇に巻かれたり、龍の餌食になったり、恐いです。奪衣婆もいました。
太宗寺 閻魔堂と銅造地蔵菩薩坐像
 太宗寺の入口近くに、六地蔵の1つ「銅造地蔵菩薩坐像」があって、左が、閻魔堂です。閻魔堂には総高550センチの立派な閻魔像が祀られています。しかし、その閻魔像よりもっと恐いのは、奪衣婆像です。総高240センチの迫力のある奪衣婆像です。
奪衣婆像と閻魔像

「日本橋」展

 江戸東京博物館の開館20周年を記念した特別展「日本橋~描かれたランドマークの400年~」に生きました。
 慶長8年(1603)の以来、江戸東京の象徴として、さまざまな絵に描かれてきた日本橋。 今回の特別展では同館所蔵の浮世絵や版本、絵巻、絵はがき、近代版画、写真など130点の資料を展示してあります。
 「第1章 都市・江戸の橋」では江戸という都市の中心、日本各地へつながる街道の起点としての日本橋、「第2章 日本橋を描く ~江戸城、富士山、魚河岸と~」では絵画化される上での定番の構図(富士山と江戸所など)や、大胆なアングルの作品。「第3章 文明開化と日本橋」では明治3年(1870)の、高札場横での人力車の営業開始、明治6年(1873)の西洋型木橋への架け替え、明治15年(1882)の馬車鉄道の敷設など、舶来絵の具を用いた錦絵などで紹介、「第4章 石で造られた日本橋」では明治44年(1911)年に開通した現在の石造りの日本橋の100年を振り返ります。
 私としては、浮世絵の日本橋が魅力でした。
 広重の大胆なアングルと言える「日本橋江戸はし」
広重「日本橋江戸はし
 日本橋と江戸橋の間には魚河岸がありました。手前の日本橋には、棒手振りらしきものが描かれています。遠景に描かれているのは江戸橋です。
 北斎の奇抜な「江戸日本橋」
 北斎「江戸日本橋」
「江戸日本橋」という題ですが、日本橋は擬宝珠以外描かれていません。手前の群集の姿によって暗示していると言えます。一石橋とその背後の江戸城並びに富士が描かれています。
 最も正確に丁寧に描かれていたのは、「江戸名所図会」の日本橋でした。
江戸名所図会の日本橋
 
 今回の展覧会の見どころの一つは、江戸城前の日本橋川を下って隅田川に合流し、浅草かいわいを経て木母寺までさかのぼる光景を描いた(18世紀中ごろに制作された)全長約10メートルの長大な絵巻「隅田川風物図巻」の全画面初公開です。
 この絵巻は、絵の一部を切り抜いて薄い和紙を貼り、後ろから光を当てると明るく輝くように見える「影からくり絵」の細工が施されています。今回、特殊な照明によって実演展示していました。明るいときはただ白っぽく描かれている川沿いの家々の窓や舟のちょうちん、そして両国橋の花火などが、まわりが暗くなってきると、夜景に変わり、そこが浮かび上がります。窓には人の影も写っています。細かい芸当です。とても楽しいです。
「隅田川風物図巻」
 ちなみに、今回は行きませんでしたが、江戸東京博物館常設展示室の入り口あたりには、日本橋が実物大で復元されています。そして、欄干の親柱が頂くギボウシュが公式キャラクター「ギボちゃん」のモチーフになっています。最初、これは何だ、と思ったのですが。

切り株は生きている。

 林試の森を歩いていると、台風や大雨で倒れた木の切り株によく出会います。
サクラの木の切り株
 樹木は幹内部の木部と師部の間にある形成層が細胞分裂し、幹が生長を行っています。
 そして簡単に言ってしまうと、中の木部は死んだ細胞でなりたっています。死んで生体の支持に使われるようになることを木化、あるいは木質化と言います。
 水分や栄養分を吸い上げて葉の方へ送っているのが、樹皮と木部との境にはさまれた維管束です。
 樹皮の内側に、形成層がありますが、この部分で細胞が増殖して、木部、樹皮をつくり出しています。
 形成層、維管束が生きているというのは、切り株を見るとよくわかります。
 その部分に葉が茂っています。
 木は切り倒されても、ちゃんと、維管束形成層は生きて働いています。
カロニナポプラの切り株

井上ひさしの『ナイン』 四ッ谷駅前しんみち通りと外濠公園野球場

 小学校6年生の5人と、四谷から市ヶ谷にかけての外濠を歩きました。
井上やすし 「ナイン」
 四ッ谷の駅のそばに、外濠公園があって、その中に野球場があります。
 この野球場を舞台とする小説『ナイン』を井上ひさしが書いています。
 しんみち通り

 東京の四ツ谷の駅を出た西側に「しんみち通り」という今では飲食を中心とする夜にサラリーマンを中心に賑わう通りがあります。
 この通りは、「新道」というので、文字どおり新しい少なくても昭和にできた通りだと思いがちですが、江戸時代の切り絵図にもちゃんと「シンミチ」と出ていて、古くからある通りです。
 でも当然昔は今のように、飲食中心の通りではなく、そこで暮らす町でした。
一応商店街と言われ、その町内には生活に必要なお店がきちんとあって、「ささやかではあるが自給自足ができた」と井上ひさしの『ナイン』にも書かれています。
 井上ひさしは、その新道商店街にあった中村畳店に下宿したことがあって、これもかつて四谷にあった文化放送の仕事の帰りにその中村畳店に寄ったことから、物語は始まります。そして、下宿していたころの話題になるのです。
 その井上やすしが下宿してうたころの新道商店街は、新道に暮らす人たちがつながりをもっていました。でもそれから10年、20年と経つ中で土地の値がドンドン上がっていって、その商店街で生活していた人たちは、その土地を処分して郊外に土地付きの家を建て、出て行きます。
 したがって、かつて人と人の強いつながりがあった商店街もしだいにそのつながりが希薄になっていきます。
 文化放送の帰りに寄った時は、そうしたつながりが薄れてきた時代です。
 そしてつながりが強かったころ、「ナイン」の活躍がありました。
 『ナイン』は、新道商店街にあった新道少年野球団のお話です。新道少年野球団は、一緒にあるいた子どもたちと同じ小学6年生でした。
 新道少年野球団は新宿区の野球大会を勝ち上がって、決勝戦までいきます。
 新道少年野球団のチームのピッチャー「英夫」は、畳屋の中村さんの息子です
 もう一人物語りで、重要なメンバーに、洗濯屋の息子でキャッチャーでキャプテン、4番バッターの正太郎がいます。
この正太郎と英夫を中心とした9人しかいないメンバーで勝っていったのです。
 戦いの球場は、外濠公園野球場でした。
 準々決勝までは1日1試合ですが、準決勝と決勝は同じ日に行われました。
外濠公園野球場は、今はフェンスに囲まれていますけれど、当時はフェンスがなかったといいます。
一塁側は公園の斜面になっていて大きな木が生えています。三塁側は西日の日差しを遮るものがなかったようです。だから、一塁側に陣取ったら攻撃の時、木の日陰に入って汗をふくことができるのですが、三塁側になったら、暑さにやられっぱなしになります。新道少年野球団は、決勝で、三塁側になりました。
 また、決勝の相手チームはピッチャーが3人いましたが。新道少年野球団は英夫1人でした。英夫は当然、決勝も投げます。その日は順決勝もあり大きな負担でした。
 3回、4回と回が進み、5回を終わったところで、英夫がベンチに座って、ぐたっとしていました。当然キャッチャーの正太郎には、英夫の疲れがわかります。
 英夫がベンチでぐったりしていたときです。突然涼しくなりました。太陽が遮られたのです。英夫はハッとして顔を上げます。すると、顔の上に正太郎の背中が見えました。その正太郎に習って、ナインのメンバーが日陰をつくって太陽を遮って英夫の疲れを癒そうとしたのです。
 その部分を、『ナイン』(講談社文庫)から引きます。
 「……決勝戦の六回ごろだったと思いますが、ベンチに戻ってぐったりしていると、さっと涼しくなりました。見ると、正ちゃんがぼくの前に立って日陰をつくってくれているんです。正ちゃんにならってナインがぼくの前に立ちはじめました。これが十二回までつづいたんです。ぼくが完投できたのは西日をさえぎってくれたあの日陰のおかげです。途中、常雄がふらふらっとしかけましたが、そのときも正ちゃんがいいました。常雄も日陰に入れ。遠慮するな。これはキャプテン命令だぞって。パレードのとき泣いていたのもうれしかったからです。自分たちは日陰なぞあり得ないところに、ちゃんと日陰をつくったんだぞ。このナインにはできないことはなにもないんだ。そんな気持ちでいっぱいでした。その気持ちはいまでもどこかに残っていると思います。だから……」  
 結局野球は、延長戦で12回まで行きますが新道少年野球団は負けます。準優勝でした。
でも「よく頑張った。見事な準優勝だ」ということで新道通りをパレードします。
その新道商店街には、歌舞伎役者岩井半四郎の家族が住んでいました。娘さんは、女優として有名になりましたが、その姉妹が小学生と中学生の頃です。家の前で拍手で迎えてくれ、岩井半四郎さんが祝儀袋をさっと差し出し「よく頑張ったね」と一言。それを受け取った正太郎は、そこで感極まってワーッと泣き出しました。英夫も泣きます。ナインのメンバーが全員が泣きながらパレードをします。その泣きながらパレードする姿を見て、この子らは決勝で負けたのがよほど口惜しかったのかと、パレードを見ていた人は思いました。
 井上ひさしが中村さんという畳屋さんを訪ねたころ、その少年たちは30歳になっていました。
 ナインのメンバーはそれぞれ活動しています。ただキャプテンだった正太郎は少し違いました。畳屋の中村さんが言うには、英夫は正太郎に畳を85万円分だまし取られたと言うのです。
 しかし、英夫は正太郎のことを悪く言いません。
 畳屋の中村さんにしてみれば、常雄は4百万円余りを盗まれ奥さんも寝取られ自殺未遂を起こしたという事情があるということを英夫が言うのですが、それだからと言って、かばうことはどうしても納得出来ません。
 英夫が正太郎の話をします。
 <正太郎は僕らのためになることをして歩いていると言う。なぜなら、自分は85万円だまし取られた穴埋めをするために仕事に精を出すようになった。常雄の奥さんは高慢ちきだったが問題を起こしてからは別人のようになった。こうした信頼感は、野球の決勝戦で、正太郎が疲れていた英夫や常雄の為に自分の体で日陰を作ってくれたことから生まれている。パレードの時泣いていたのもそのことがうれしかったからだった。このナインにはできないことはなにもないんだという気持ちが今もどこかにある。正太郎が洗濯屋であったのは、洗濯屋は汚れた衣類を洗って綺麗にすることが仕事であるように、正太郎はナインの苦しい状況を身をもって洗い清めてくれる、いわばナインの人生の洗濯屋であったからである。>
外濠公園野球場

 中村家を出た井上ひさしは、外濠公園野球場に向かいました。
 「中村畳店から、わたしは外堀通りを市ヶ谷へ向かった。金網越しに野球場を見ると、木枯らしに吹き上げられた砂煙がグラウンドを走り回っている。振り返って西を見ると、大会社の大きなビルが野球場に覆いかぶさるように立っていた。この十何年かのうちに、ここには西日がささなくなってしまったようである。」

小石川植物園の宝といえる植物

 小石川植物園には面白い2本の木があります。
「ニュートンのリンゴ」と「メンデルのブドウ」です。
 ニュートンは、リンゴが木から落ちるのにヒントを得て「万有引力の法則」を発見したという逸話があります。これが本当かどうか、分かりませんが、ニュートンとリンゴの結びつきは納得ができます。
 日本にその木が輸入されたのは昭和39年(1964)のことでした。
 当時のイギリス物理学研究所長のサザーランド博士から、日本学士院長だった柴田雄次博士に苗木が送られました。
 しかし、その株は高接(たかつぎ)病というウイルスに侵されていました。
 病気や害虫のついた植物は国内の植物保護のため基本的に輸入が禁止されていて、焼却処分になるのですが,ニュートンにちなむ貴重な文化遺産であったことから、小石川植物園で預かって隔離栽培することとなりました。
 そこでいろいろと試みがされ、成功して、ようやく植えることが許可されました。
小石川 ニュートンのリンゴ
 ニュートンのリンゴの隣に「メンデルのブドウ」があります。
 こちらは最初から小石川植物園に植える目的で,第3代園長の三好学博士が,メンデルがブドウの育種の研究を行なったブルノ(チェコ共和国)の修道院にあったブドウの分譲を依頼し,送り届けられたものです。
  メンデルは、味の良いブドウ酒を造るために、ブドウの品種改良を行いました。この時修道院の圃場に植栽されていたのが、小石川植物園のブドウの原木です。
小石川 メンデルのブドウ
 リンゴもブドウも、日本各地に分譲されて植えられいるようです。。
 ブドウの所の説明では、ブルノーの修道院の原木は、枯れてしまったので、この木から分枝して、ブルノーのメンデル記念植物園に4本贈ったそうです。里帰りしているのです。
 小石川植物園にはにはさらに,明治27年(1894)に平瀬作五郎が裸子植物から精子をはじめて発見した研究材料であるイチョウ(精子発見のイチョウ)があります。イチョウは裸子植物ですが、裸子植物・被子植物では通例精子を作ることはないのだそうです。それが精子を作っていたの発見は世界を驚かせたようです。その意義はよくわかりません。
小石川 精子発見のイチョウ
 小石川植物園の紹介記事に「このように宝物に満ちた小石川植物園そのものが理学の宝である」と書かれていましたが、納得できる気がします。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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