FC2ブログ

「小石川植物園」

「小石川植物園」へ行きました。何度もこのまわりには来ているのですが、植物園に入るのは初めてでした。
「小石川植物園」正式には「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」。植物は当然、ここの歴史も大変興味深いものがあります。
小石川植物園の前身は、徳川幕府直轄の小石川御薬園でした。
徳川幕府は3代将軍家光の時代、人口が増加しつつあった江戸で暮らす人々の薬になる植物を育てる目的で、寛永15年(1638)に麻布と大塚に南北の薬園を設置しますが、やがて大塚の薬園は廃止され、貞享元年(1684年)麻布の薬園を5代将軍徳川綱吉の小石川にあった別邸に移設します。この綱吉の舘林城主時代の別邸というのが現在の「小石川植物園」のあるところです。
小石川御薬園ができました。
8代将軍吉宗の時代に、ほぼ現在と同じ規模に拡大され、享保7年(1722)に小石川療養所が付属施設として開設されます。
 小石川伝通院の町医者、小川笙船(しょうせん)は、吉宗にあて「身寄りのない貧窮者に医療施設を…」と、意見書を目安箱に入れました。その提言は採用され、南町奉行の大岡越前守忠相らが担当し、「小石川養生所」は開設されます。
 小川笙船は初代の運営責任者に就任、のち小川家は幕末まで 7代に亘って世職としてつとめました。
小石川療養所と言えば山本周五郎の小説『赤ひげ診療譚』の舞台です。周五郎の小説も黒澤明の映画「赤ひげ」も深く感動して何度か読み、何度か見たりしています。
実在の小川笙船は、実際「赤ひげ」先生として知られていたようです。
かつてテレビの「大岡越前」にも出ていました。
御薬園は、その大岡越前が庇護していた青木昆陽が飢饉対策作物として甘藷(サツマイモ)の試験栽培をおこなった所としても有名です。
小石川養生所の井戸が
小石川療養所のなごりとして、園内には「養生所」の井戸がありました。大正12年(1923)の関東大震災の時は、飲み水として利用されたと案内されていました。
 園内を歩き、日本庭園の方に行くと、瀟洒な建物が目に入ります。
小石川植物園内の旧東京医学校本館
 旧東京医学校本館です。明治9年(1876)年建築。国重要文化財。昭和44年東大構内から移築されたものだということです
 またその由緒は分かりませんが、太郎稲荷と次郎稲荷があります。太郎稲荷だけその所在場所が分かったのでお参りしました。
小石川植物園の太郎稲荷
スポンサーサイト



用の美 提重と携行品

 「花下遊楽図」、「花見屏風」といった絵図を見るとき、そこでご馳走を食している場面が描かれています。よく見ると、そこに器があるのですが、だいたいが気にしていませんでした。
 今、新宿歴史博物館で、「所蔵資料展 用の美 提重(さげじゅう)と携行品~幕末から明治・大正を彩った弁当箱の美と技~」という展覧会が開かれています。
黄石公張良 金蒔絵提重
 この展覧会は、江戸の大名や豪商の物見遊山で使った、豪華な弁当箱、あるいは下級武士の腰弁当、また、江戸っ子が好んだと言われるしゃれっ気あふれた弁当箱、さらに旅人が携行した実用的な小物などが集められて展示してあります。
 そこで最初に出てくるのが、「花下遊楽図」などに出てくる大名の豪華な弁当箱です。
それは、提重(さげじゅう)と言います。天板に提手がついて、その下には枠ができていて、そこに重箱・徳利・皿・盃などの食器類を置きます。提重は、セットで納める携帯用の入れものということです。
 この提重、持っていくためのものという実用性も大事ですが、その意匠が重視されます。桃山や江戸の大名が使ったものですから、漆の技法、螺鈿・蒔絵といった趣向がこらされています。さらに形にも工夫を凝らしています。
 うまくできているなとか思いながら見てまわるのですが、単に提重とか弁当箱といった用具の展示だけでなく、浮世絵とか、番付とかも展示されていて、当時の文化を感じることができます。
 展示の名称になっている「用の美」というのは、無名の職人による丁寧な手仕事に注目して「民芸」と名づけた柳宗悦が提唱した概念です。柳宗悦は、「美は生活の中にある」ということで、「実用の美」と言いました。でも、一般的には「用の美」で通用しています。
 その用の美の展示であるわけです。
 展示の後半はお酒の入れものがたくさん展示されていました。
少し言葉を紹介します。
▼「指樽(さしだる)」がありました。
  指樽の"指し"は指物さしものという意味で,釘などの接合具を使わずに,木と木を組み合わせて作った生活用具などの工芸品、あるいはその技法のことを言います。
 漆が塗ってあって、お酒がしみ出したり,漏れたりしないようにできています。
 上部に栓付きの口が一つあるだけで,そこから酒を出し入れするようです。
▼「ちろり」がありました。
「ちろり」は、把手の付いた筒形銅製(約1~2合入)の器です。薬罐(やかん)または銅壺に入れて湯煎してお燗をし、銚子・徳利に移すことをしていました。
▼「ひさご」がありました。
 「ひさご」は瓢箪(ひょうたん)のことでした。
 瓢箪の果実を、内部の果肉を取り去って中空にし、乾燥させて容器として酒や水、穀物などを入れました。
▼「ふくべ」があります。
 「ふくべ細工」は干瓢(夕顔の果実)の外皮(ふくべ)を乾燥きせ、種子を取り除き、加工したものです。
瓢(ふくべ)と箪(ひさご)
言葉も材料も興味深かったです。

日比谷公園で タチアオイとボタンクサギ そしてランチ

 江戸城の歴史散策に参加して、最後の見学は日比谷公園でした。
 日比谷公園に入り、日比谷見附の石垣が残っているあたりにタチアオイ(立葵)とボタンクサギが咲いていました。夏の風物詩です。
日比谷見附跡のタチアオイ
 タチアオイは、小アジア、または中国の原産で、日本には、古くから薬用として渡来したといわれています。ここの花は白ですが、赤、ピンク、紫、黄色などあり、特に、真ん中の模様も微妙に異なっていて、とても多彩です。
タチアオイの花
 江戸城跡を歩いてきたので、何となく葵の御紋をふと思いおこしましたが、まったく関係ないようです。同じ「立ち葵」という名の紋もありますが、これはウマノスズクサ科のフタバアオイを図案化したもので、このアオイ科の多年草であるタチアオイとの関連がないとのことです。
ボタンクサギ
 ボタンクサギ、ちょっとあじさいを思い出しましたが、クサギ(臭木)の仲間です。
 葉には異臭がありますが,花はいい匂いです。(あまり臭わなかったです)。
 終わって、松本楼へ行きました。行列ができていました。平日のランチタイムも休日の昼もいつもこのように行列ができるようです。
 カレーをと思って行ったのですが、土日のスペシャルランチにしました。ステーキも入っています。これとは違うのですが、夏目漱石は、松本楼のステーキが好きだったとか。『野分』に「公園の真中の西洋料理屋」として登場しています。
「松本楼」の土日スペシャルランチ
 有名なのが、高村光太郎は『智恵子抄』。
 松本楼の庭前に氷菓を味へば
人はみな、いみじき事の噂に眉ひそめ
かすかに耳なれたる鈴の音す
            『智恵子抄』より
 今度、デザートにアイスクリームを食べてみたいです。

ナガバハエドクソウ、ホタルブクロ、ハゼの木

 台風4号一過、蒸し暑い日でしたが、自然教育園へ行きました。
ナガバハエドクソウ
ナガバハエドクソウ(長葉蠅毒草)が花を咲かせていうました。小さな花なので、私の写真では撮れませんでした。
 長葉蠅毒草、小さな花に似合わずちょっと恐い名前ですが、根の煎汁を塗ってハエ取紙を作ったのが名の由来となっています。
 昔のトイレ、いわゆる水洗でない時、この長葉蠅毒草の根の汁をトイレに流したのだそうです。今は、ハエ取り紙も見なくなりました。
 
ホタルブクロ
 ホタルブクロ(蛍袋)です。
 この名前は、花冠の袋に子供がホタルを入れて遊んだことによる、とあります。
 調べていると、梅雨期に開花するので、アメフリバナともいう、とも出ていました。
 数個の釣り鐘型の花を穂状につけます。花は少し柄があって、うつむいて咲くので、なんとなく可憐です。。花色には赤紫のものと白とがあり、関東では赤紫が、関西では白が多い、と言われています。
 
 はぜの木 花
台風で、枝が落ちていました。ハゼの木(櫨の木)枝です。
 ウルシ科ウルシ属の落葉高木。果実から木蝋を採取する資源作物として、中国南部の方から持ち込まれました。
 実を蒸して圧搾して採取される木蝋は、和蝋燭、坐薬や軟膏の基剤となり、さらには、ポマード、クレヨンなどの原料としても利用されています。
 花が咲いていました。花は円錐花序で、黄緑色の小さな花を咲かせます。

タイサンボク(泰山木)

慶応病院玄関にあるタイサンボク
 慶応病院の玄関わきに大きなタイサンボク(泰山木)があります。
 とても大きな白い花を咲かせます。
タイサンボクの花
 タイサンボクは北アメリカ原産のモクレンで、日本へは130年ほど前に来たとのことです。日本の気候にもあったのか、街路樹、公園樹として目にすることができます。
 葉は大きく、裏側へ反りかえって、硬いです。表面はツヤツヤと光り、裏面は鉄サビ色のフェルト状の毛で被われています。
 

坂下門外の変

 坂下門外ノ変が起きた背景としては、桜田門外ノ変と同様、幕府の政策として進められた開国路線が攘夷思想を否定するものであること、それに今回は、公武合体による幕府の権威を回復しようとする、つまり和宮降嫁による朝廷との融和政策が反感材料となったことがあげられます。
 桜田門外ノ変で大老 井伊直弼が暗殺され、その後を引き継ぎ、実権を握ったのは、城平藩の安藤信正でした。
 安藤正信は老中になると、公武合体の思惑から、時の孝明天皇の妹である和宮と14代将軍徳川家茂との結婚をすすめます。和宮降嫁による朝廷との融和政策、公武合体による幕府の権威を回復しようとする思惑、さらに朝廷を取り込む事により尊皇派を抑えるねらいもありました。
 最初、この申し出を受けた、孝明天皇と和宮は要求を拒絶していましたが、再三にわたり交渉を続け、攘夷の実行をするといった約束などの条件もだして、ついに和宮を将軍家へ降嫁させる事に成功しました。
 しかし、その政策に対する反発が暗殺と言う形で表れました。
文久2年1月15日、江戸城坂下門外で、老中安藤信正は、水戸浪士ら6名(平山兵助・小田彦二郎・黒沢五郎・高幡総次郎・川本杜太郎・河野顕三)に襲撃されます。
桜田門外ノ変の後でもあり、警備は厳重であり、浪士は全員その場で斬殺された。
襲撃メンバーのうち水戸の川辺佐治右衛門は約束の時間に遅れて現場に駆けつけましたが、同志が討たれたのを見て、桜田の長州藩邸に駆け込み、桂小五郎に後事を託して自刃しました。
2江戸城坂下門絵図
 老中となった安藤信正の屋敷は、坂下門の眼と鼻の先、ほんの100メートル程の距離の所にあります。登城の刻限になり、安藤信正らの行列は城へ向かい、坂下門外に差しかかったところで、襲われています。
安藤信正は背中に傷を負いましたが、難を逃れ、命奪われることなく、城内へ逃げ込みました。
 暗殺自体には失敗したものの、桜田門外ノ変に続いての幕閣襲撃は幕府権威のさらなる失墜に繋がり、事件後、安藤信正は老中罷免、更に隠居・蟄居を命じられ、所領の磐城平藩5万石は2万石減封され、3万石とされてしまいました。

江戸図屏風 坂下門
 坂下門は、現在は宮内庁の通用門として使用されていて、櫓門が正面に配置されておりますが、江戸図屏風でも確認出来るように、江戸期までは他の門と同じく、枡形を形成して正面には高麗門配置し、その先に渡櫓門が配置されていたようです。
しかし、明治になり、正面にあった高麗門は撤去され、奥にあった渡櫓門の向きを北面から東面に90度変えて、現在の場所に移築されました。

 水戸の浪士は、幕府を倒そうという意志は持っていなかったと思います。むしろ自分らの理想とする幕府の確立を望んでいたはずです。しかし、時代は、幕府そのものの存在をなくする方向へ、こうした暗殺行為は拍車を掛けることになります。
 そしてその中心は、水戸藩でなく長州、薩摩あるいは土佐といった西の藩でした。

桜田門外の変

 幕末における水戸という藩は、佐幕か勤王かというところで、微妙な立場にありました。
 尊皇攘夷を生み出したのは、水戸藩です。尊皇派ではあったのですが。
 9代藩主斉昭は藩政の改革と幕政への参加を志し、改革派の藤田東湖らを中心に人材登用を行っていました。しかし、藩内の保守派、門閥系との勢力争いが続き、なかなか統制ができない状態にありました。
 安政5年(1858年)彦根藩の井伊直弼が大老になります。
 井伊直弼は、当時四賢公と云われていた越前藩主松平慶永(春嶽)、薩摩藩主島津斉彬、土佐藩主山内豊信(容堂)、宇和藩主伊達宗城といった一ツ橋派を蟄居させ、斉昭や尾張藩主徳川慶勝には、隠居・謹慎の処分を下します。
 そして、米国と通商条約を締結し、開国に踏み切ります。
 ところが、この政策が外国嫌いの孝明天皇の賛同を得られず、攘夷派に火を点けて幕政批判を招きました。特に水戸藩は、尊皇攘夷思想を掲げていましたから、幕政批判の急先鋒に立たされることになります。
 さらに。井伊直弼は、頼三樹三郎、橋本佐内、そして長州の吉田松陰など多くの人をとらえ断罪に処します。世に言う、安政の大獄を断行していました。
 万延元年(1860)3月3日、とうとう「桜田門外の変」が起こります。
 水戸では、藩主・斉昭が幕府から蟄居を命じられ、果ては幕府の介入で藩主交替をされそうになったため、いったんは、恭順の意を表していましたが、一部の攘夷派は脱藩して、「世直し」を目論みます。これが桜田門外の変となったのです。
 3月3日は上巳の節句に当たり、江戸滞在中の諸大名は江戸城に登城するのが決まりでした。当然、彦根藩主であり、幕閣の中心人物である井伊直弼も、駕籠に乗って江戸城へ向かいます。
 前日から季節はずれの雪が降っていていました。
 水戸浪士たちは、当日は愛宕山に参詣した後、地方から江戸へ上ってきた田舎侍の振りをして、江戸城へ登城する諸大名の見物を装って、桜田門の周囲にたむろしていました。
 当時、田舎から江戸に出てきた侍にとって、千代田のお城に出仕する大名の姿を見る事は、大きな楽しみだったようです。
 一方、井伊の駕籠を護衛する60余名の登城侍たちは、雪に備えて合羽を羽織り、刀に防雪用の柄袋を被せていました。そのため、咄嗟の襲撃に対して抜刀できませんでした。
 水戸浪士たち、水戸藩を中心とした18名の浪士が襲撃しました。
 井伊直弼の首は、薩摩藩志士有村治左衛門によって斬られ、若年寄・遠藤但馬守の屋敷まで持って行かれます。
 大老井伊直弼の屋敷は、桜田門から近く、濠沿いに500m位行ったところで、戦前は陸軍省、現在は国会前庭洋式庭園ところにありました。写真は、その国会前庭洋式庭園から桜田門を望んだ所です。
国会前庭園から桜田門を望む
 その2年後、文久2年(1862)1月15日、今度は江戸城坂下門外でやはり水戸浪士ら6名が、時の老中安藤信正を襲撃し負傷させた事件が起きます。坂下門外ノ変です

水戸 偕楽園 好文亭

 水戸といえば「黄門さん」と「納豆」とそして「偕楽園」です。
 震災の被害で、閉ざされていましたが、今は偕楽園の好文亭も見られるということで、行ってみました。
梅の林を歩いていたら、鴨が散歩していました。少し前の方にもう一羽います。
水戸 偕楽園の中を歩いていた鴨
 偕楽園は、江戸末期の天保13年(1842)、水戸藩第9代藩主徳川斉昭によって造成されたものです。水戸黄門さまの時にはなかったのですね。
 斉昭は千波湖に臨む七面山を切り開いて、領内の民と偕(とも)に楽しむ場にしたいということで、「偕楽園」を造りました。
 梅の花が咲く2月は大変な人で賑わうのでしょうが、梅の実のなった今は、それほどの人はいません。緑の中で静かでした。
 園内にある好文亭は、「何陋庵(かろうあん)」とも言い、徳川斉昭自らが設計したものです。木造2層3階建ての好文亭本体と平屋建ての奥御殿からなっています。
 好文亭の名前の由来は、晋の武帝の故事「文を好めば則ち梅開き、学を廃すれば則ち梅開かず」により、梅の異名を「好文木(こうぶんぼく)」といったことから命名されました。
 昭和20年の水戸空襲により焼失しましたが、昭和30年から3年かけて復元されました。今回の震災でも、「内外壁の落下・剥離のほか、雨戸などの落下が生じ、見晴らし広場の南側にある南崖には地割れが多数生じた」ということですが、復旧しました。
 好文亭3階の楽寿楼(らくじゅろう)からのの眺望はすばらしいです。
 少し撮った写真を載せます。
水戸 偕楽園 好文館全景
水戸 好文館から見た偕楽園
好文亭3階からのの眺望

中村彝のアトリエ

水戸 中村彝アトリエ裏
 東京下落合に立てたアトリエは、出身地である水戸に昭和63年(1988)に復元新築されました。
 アトリエの屋根には赤い瓦が置かれていました。今は少しくすんでいますが、当時、とても目立っていたそうです。
 ベルギーからわざわざ取り寄せた高価な瓦だったと言われます。当時、所沢にあった陸軍航空隊の複葉機は、緑の中にポツンと目立つ、中村彝アトリエの赤い屋根を目印にして、東京市上空へ侵入したと伝えられています。
 そんなしゃれたアトリエを、29歳の若さで持つことができたのには、当然いろいろな人の援助があってのことです。
 当時もそちらから入ったとのことで、裏口から靴を脱いで入ると、小さな部屋と台所がありました。そして、三間四方くらいの天井の高い洋間があって、それがアトリエです。
 イーゼルやいくつかのイス、テーブルや花瓶台などの台類、フランスで作られたという豪華なソファーなどが置かれています。
 天井の一部は屋根の傾斜を使ったガラスの天窓になっています。その下の壁は大きなガラス窓ですから、絵を描くための十分な光が得られるようになっています。
水戸 、中村彝アトリエ窓
 現在、新宿区下落合3丁目では、「中村彝アトリエ記念館」として開館をめざして準備が進められています。周辺住民らが「アトリエ保存会」を設立して活動。空き家だったアトリエは区による保存が昨年決まったのです。
もちろん、茨城県近代美術館の復元されたアトリエを参考にされてです。遺品もこのアトリエのものそっくりに作られるそうです。

ちなみに、中村彝のモデルとなった相馬夫妻の長女俊子は、インド独立運動家ビハーリー・ボースと結婚します。その縁で、新宿中村屋の名物メニューに「カリー」が登場することになります。
 
 に建つ茨城県近代美術館は、水戸市中心部を潤す緑豊かな千波湖畔に建っています。そこには、動物の形に植栽された木がありました。
水戸 千波公園と茨城県美術館
水戸 千波公園の植栽

水戸出身、新宿区落合のアトリエで絵を描いた中村彝

中村彝の像正面
 茨城県近代美術館に行ってきました。
 この美術館は、茨城ゆかりの作家、横山大観・小川芋銭・中村彝の作品をはじめ、日本と西洋の近代美術を中心に収蔵・展示しています。
今回は、その中村彝を、美術館の外に作られている中村彝のアトリエを中心に観ることが目的でした。この中村彝のアトリエは、新宿区下落合にあったものを昭和63年(1988)に新築復元しています。お話では、弟子にあたり人を中心にした顕彰会「中村彝会」が作ったようです。
 中村彝は明治20年(1887)7月3日、5人兄弟の末っ子として茨城県水戸市に生まれました。
 1歳の誕生日を迎える前に父を亡くし、陸軍軍人であった長男 直が父親変わりをつとめました。その影響もあって、彝は軍人を目指します。名古屋陸軍地方幼年学校から、東京の陸軍中央幼年学校に進学します。しかしその直後に肺結核と診断され、退校を余儀なくされます。
 そんな彝に救いを差しのべたのが絵画でした。療養しながら絵を描くようになります。
 明治44年(1911)、中村彝は、新宿中村屋の主人相馬愛蔵・黒光夫妻の厚意により、中村屋の裏にあったアトリエに住むようになります。
このアトリエは荻原碌山が使っていたものでした。当時、中村屋には、サロンができ、彫刻家の荻原碌山・中原悌二郎・戸張孤雁などが集まり、すぐれた作品を数多く制作しました。
 中村彝は、食事もろくにとらない勢いで絵を描き続けていましたが、相馬夫妻は彼を食卓に招き、相馬家の家族の一員のように扱いました。
中村彝 俊子がモデル
 大正3年(1914)、相馬家の長女 俊子をモデルとした「少女裸像」と着衣の「小女」を描き、「小女」は文展の3等賞に入賞します。彝はモデルをしてくれる俊子に次第に惹かれていくようになります。しかし、2人の仲は相馬夫妻が許すモノではありませんでした。しだいに俊子が彝に接近するのを妨げるようになっていきます。
 彝は中村屋を離れ、日暮里に移転、大正3年(1914)の暮れには大島に逃避します。
 以後、いろいろな土地を転々とし、最終的に下落合に落ち着きます。
大正5年(1916)中村彝、29歳の時です。
 アトリエにて制作する中村彝(茨城県近代美術館、中村彝アトリエ・リーフレットより)
その時、復元されているアトリエが作られたのです。
 下落合に移転したころ、中村彝は、失恋による傷心やひとり暮らしによる自炊生活、そして制作の疲れなどで、喀血が続いていました。
 一方、新宿中村屋の相馬夫妻は、社会思想家や外国の亡命者‥インド独立運動家ビハーリー・ボース、ロシアの盲目の詩人 ワシリー・エロシェンコ社会主義者などを密かに支援していました。
 そしてある日、下落合のアトリエで鶴田吾郎と一緒にそのロシアの盲目の詩人エロシェンコの肖像画を描くことになります。
 エロシェンコは彝が使っていた中村屋のアトリエに住んでいましたが、目白駅で見かけた鶴田吾郎が「私、画家ですが、モデルになってくれませんか」と声をかけ、描くことになったのです。
 2人の画家はとりつかれたように描き始め、緊張の連続の8日間が経過。体力の限界になった彝を鶴田が止めて制作が終了しました。
中村彝 エロシェンコ氏の像
 『エロシェンコ氏の像』(国立近代美術館蔵)は、中村彝の最高傑作と言われています。
 大正13年(1924)12月、中村彝は結核のため亡くなります。37歳という、若すぎる死でした。

小名木川・高橋近辺

 清澄庭園に行く前に、大江戸線「清洲白河駅」駅から清澄通りを少し歩いて、小名木川へ行ってみました。
 建物の上に、スカイツリーが見えました。
 すぐに、高橋という橋にさしかかります。高橋の名前は、橋脚が非常に高かったことからきていると言われます。
高橋から見た小名木川
 (写真の先に見えるのは新小名木川水門です。そしてその先に万年橋があり隅田川に通じます)。
 この付近は、深川の物流基点として栄え、賑わっていました。
高橋周辺案内
 今も、高橋を渡って左側に、観光船の船着き場があります。ただし、土曜日だけの4便のみ運行しているということです。
 徳川家康が江戸に入ったころ、江戸周辺での塩の産地は江戸湾岸の今の千葉県の行徳でした。江戸城への塩の供給ルートとしては、行徳に通じる中川と隅田川を結ぶ川が必要でした。徳川家康が江戸城に入った直後より、早速に、開削工事がはじまりました。
 小名木川は、いわば運河です。長さは、4.6キロメートル。後には、塩だけでなく、江戸近郊で作られた新鮮な野菜などを江戸の町に運ぶ水路としても活用されました。
 江戸時代、小名木川には3つの橋が架けられていました。隅田川に近い方から、万年橋、高橋、新高橋です。
中村芝翫宅跡の説明版
 高橋を渡って、左側には、中村芝翫宅跡の説明版あります。この辺りは船の荷物を荷揚げする河岸で、歌舞伎役者で二代目中村芝翫が住んでいたため、芝翫河岸とも呼ばれていました。
 清澄庭園までのほんの少しの回り道散歩でした。

あじさいの季節

セイヨウアジサイ
 道を歩くと、あじさいがすこしずつですが、色ずいてきました。
 あじさいという名前は「あづさい」が変化したものだと言われています。
 「あづ」は「あつ」(集)、「さい」は「さあい」(真藍)で、真っ藍(青)の花が集まって咲くさまを表したことばです。
 「紫陽花」という漢字は、唐の詩人の 白居易が命名した別の紫の花のことを指していて、日本のあじさいのことではありませんでした。それを、平安時代の学者、源順(みなもとのしたごう)が「あじさい」にこの漢字をあてたため、その誤用がひろがったと言われます。でも、そんな感じ(漢字)ですネ。
 あじさいの変種名に「オタクサ」という名前があります。
 これは、幕末に長崎オランダ商館に来ていたドイツ人医師シーボルトが、「あじさい」の中でも大輪で一番美しい品種に、自分が愛した楠本滝という丸山の遊女(通称は、お滝さん)の名前を取って命名したことから来ています。西洋にあじさいを紹介したのも彼です。その関係もあり、オタクサは、長崎市の市の花になっています。ただ、牧野富太郎は、花柳界の女性の名をつけたとして非難したそうです。
 あじさいは、もともと日本原産で、ガクアジサイのようなあの形が基本です。
 一般的にイメージするあじさいは手鞠の形かもしれません。これは西洋で栽培改良されていわば里帰りして来たあじさいです。
ガクアジサイ全体
 こちらは、あじさいの基本形であるガクアジサイです
 中心にある細かい粒のようなものは両性花といい、これが、実はあじさいの花です。
 周辺の大きめのいかにも花弁のように見えるのは、本当は花弁ではなく萼(ガク)が変化したものです。花にみえるからか、装飾花と言われます。
 そして、すべてが装飾花(ガク)で覆われて、球状になったものが手毬型という一般的なあじさいの形になります。
 その他にも装飾花(ガク)で半球状になったものや、穂状になったものなどいろいろあります。

 万葉集には、あじさいの歌は2首あります。
 言問はぬ木すら味狭藍(あじさい) 諸弟(もろと)らが 練の村戸(むらと)にあざむかえけり
 大伴家持 巻4 773
 こちらの歌は意味がよくわかりませんが、ものを言わない木すら、あじさいのように変わりやすいモノがある。私は諸弟らの上手な村人の口にだまされてしまった。といった意味のようです。
 安治佐為(あじさい)の八重咲く如く弥(や)つ代にを いませわが背子見つつ偲ばむ
 橘諸兄 巻20 4448
 こちらは、紫陽花の花が幾重にも賑やかに咲くように、あなたは幾年も永く栄えていらしゃると、この家の繁栄を祝っている歌です。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR