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「ユベール・ロベール-時間の庭」展

 国立西洋美術館で開かれていた「ユベール・ロベール-時間の庭」展に、5月18日の夜行ってきました。
 ユベール・ロベール(1733-1808)は、18世紀のフランスを代表する新古典主義の風景画家ということですが、知りませんでした。
 廃墟や古代建築物のある風景を得意とし「廃墟のロベール」と名声を馳せたということです。また「国王の庭園デザイナー」でもありました。
  イタリアに留学し、そこで、古代ローマをモティーフにして、イタリアの風景をたくさん描きました。そこには、古代の建築や彫像が建ち並び、同時に木々の緑や流れる水、っして、そこで暮らす人々が、あたたかく描き込まれています。
 「国王の庭園デザイナー」としても、現実の風景の中に古代風建築や人工の滝・洞窟などを配するなど、絵画のモチーフが生かされています。
この展覧会は、ロベール・コレクションをたくさん所有するフランスのヴァランス美術館が今改装中で、その所蔵品から、貴重なサンギーヌ(赤チョーク)素描約80点を中心として、ユベール・ロベールの芸術が、初期から晩年まで、紹介されていました。
特に、サンギーヌ(赤チョーク)素描は、光や温度、室度の変化の影響を受けやすい紙の作品のため、まとまった形で見られるのはほとんどないようです。今ならではの貴重な展覧会でした。
私は素描が大好きなので、近づいてじっくりと見ました。
ユベール・ロベール「ボルゲーゼの壺を素描する画家」
ユベール ロベール「セプティミウス・セウェルス門のヴァリエーション」 
 サンギーヌ(sanguine)と呼ばれる赤チョークで描かれた作品に引き込まれます。色が赤というかセピア色です。その色が、古代遺跡の雰囲気をより醸し出しています。
崩れかけた神殿や石像、それにどの絵にも人の姿が描かれています。特に洗濯女がよく描かれます。(当時はよく見られたのでしょうか)。
「廃墟の中に,普通に生活する民衆を紛れ込ませること」によって、やわらかく、あたたかな雰囲気が出ています。
 1点1点、上質の赤いモノクロ絵画を見続けながら、不意に油彩画の絢爛たる色彩美に触れることになり、その効果も抜群です。
ユベール・ロベール「古代遺物の発見者たち」
ユベール・ロベールは宮廷の庭園デザイナーとしても活躍して多くの庭園を設計したようです。途中にジャン=ジャック・ルソーの書物が展示してありましたが、ルソーの影響は大きかったようです。人工を隠して、あくまで自然であるように、といった言葉ありました。ちあみに、ルソーの墓碑も、ロベールが手掛けたそうです。
ルイ16世の命令によるヴェルサイユ宮殿の庭園改造では、人工の洞窟にアポロンとニンフの彫像を置いて、古代的な情景を作り出しています。
 ユベール・ロベール「ヴェルサイユのアポロンの水浴の木立」
この「ヴェルサイユのアポロンの水浴の木立」という作品は、自らがデザインした木立と洞窟を描いたものです。 この庭園は今も残るっているのだそうです。
 このように順調な画家生活を送っていたユベール・ロベールですが、1789年に始まったフランス革命の後、投獄されます。しかし、獄中にありながらも、食事の皿に風景画を彩色して、牢番を通して販売していたということです。
ユベール・ロベール「サン・ラザール牢獄の囚人たちの散歩」
 そして、その獄中に製作した皿も3枚展示されていました。よく残っていたなと思います。
 すばらしい展覧会でした。
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本郷の大楠

 司馬遼太郎の『街道をゆく 本郷界隈』に「水道とクスノキがあります。
 「神田上水石樋」を見て、クスノキ、とその前にあった楠亭に行っています。
 しかし、実際は、司馬遼太郎はこの楠の所へな、最初と最後の2度も来ていて、裏の"仏蘭西料理"楠亭で食事をしています。
 司馬遼太郎は本郷の「クスノキ」を書きたかったようです。
本郷の大楠 全景
 樹齢600年を超える巨木です。写真で見ると、それほどには見えないのですが、行って見ると驚きです。それに、樹齢600年にしては、ぜんぜん年寄りじみていません。
本郷の大楠
 案内表記によると、高さ24メートル、幹の太さ9メートルとあります。
 一緒に行った人がメジャーを持っていたので、幹の太さを計ってみると、10メートルを超えていました。
 司馬遼太郎の『街道をゆく 37本郷界隈』は、「週刊朝日」1991年8月~92年2月にかけて連載されました。
 そこから、この楠と楠亭は有名になりました。
 それから25年ばかりもたっています。
 現在も楠亭というフランス料理の店が、三菱地所が開発したマンションの一階に入っていますが、司馬遼太郎の書いた楠亭ではありません。そのころは、広い庭を持つ西洋館のなかにあったそうです。
 司馬遼太郎の『街道をゆく 本郷界隈』には、この楠のあるあたりは、江戸幕府の旗本で四千石・弓組頭の甲斐庄(かいのしょう)氏の屋敷跡であったことが記されています。、 甲斐庄氏は南北朝の楠木正成の直系ではないが、末裔にあたり、徳川氏に取り立てられて、この大楠のある土地に屋敷に住みました。
 楠が取り持つ、なんとも言えない縁です。
 明治になって甲斐庄を楠と改名、明治期は屋敷を維持する。
 <あらたに所有した人は古屋敷をとりこわして、大正ふうの木造西洋館をたてた。このあたらしい持ちぬしは駒沢という人だったそうで(近所に住んでおられた上村明(あき)さんの話)、その後、いまの当主の中山弘二氏の父君がゆずられた。
 いまの当主の中山弘二氏は昭和初年うまれで、この家で育った人である。
 透きとおったような感じの紳士で、この西洋館を愛し、クスノキを大切にしてきた人で、ついに建物と木を保存するため、永年つとめてきた国鉄を退職して、
「楠亭(くすのきてい)」というフランス料理屋をはじめられた。>
 そういった場所です。
 赤煉瓦の塀とスダジイ
この楠の水道歴史館側の煉瓦の赤塀の中にあるシダジイもなかなかりっぱな木です。この木は以前火事があった時延焼を防いだ木だそうです。今は、建物と煉瓦の塀に挟まって苦しそうなので、なんとかしてあげたい気分です。
 そして、大楠の前の瀬川ビル奥には、初代東大工学部長古市公威邸があります。
 明治20年に建てられた近代和風建築(現・登録有形文化財)です。非公開で中はみられませんが、苔庭や茶室、あるいは能舞台もあるようです。小児科医の瀬川 昌世さんが大正12年(1923)家を相続しました。
 以前の戸建住宅はすっかり姿を消して中層マンションが多い地域となっていますが、楠、これからも元気でいてほしいと思いました。

水道橋 神田上懸樋(掛樋)跡

 東京都水道歴史館に行ってきました。2階は江戸時代を中心にした、「上水」の展示。1階は近代から現代の東京の水道の設備やしくみや展示され、それぞれに、大人も子どもも楽しめる展示になっています。
 今回は、東京都水道歴史館までの、「水道橋」のことを記しておきます。
 水道橋から東京都水道歴史館へは少し上り坂になっているのですが、神田川沿いに歩くと、神田上水の史跡が案内されていて、まず、実際を見るには、こちらから行くのが一番です。
 徳川家康が江戸に入ったのは、天正18年(1590)のことです。その時の最大の事業のひとつが上水道を設けたことです。
 まず、小石川から上水を引きました。それを命じられたのは、大久保藤五郎忠行です
 藤五郎は、小石川(現在の後楽園のあたり)の流れを利用し、この水を小さな堀割で駿河台方面へと流しました。
 そのごほうびに、「主人」という名前をいただきました。この「主人」は普通「もんど」といいますが、水が濁ってはよくない、と家康の指示で「もんと」と濁らず呼びました。 この人は、後に日本橋に菓子屋を出します。代々菓子屋を営んだようです。
 小石川の上水はあまりに小規模でした。江戸の街もどんどん大きくなってきます。
 三代将軍家光の頃には、江戸は数十万の人口を抱えるようになり、上水設備の拡張工事が行われるようになります。それで出来たのが、神田上水です。
  神田上水は、井の頭を出て、善福寺川、妙正寺川の水を集め、目白下関口に設けられた堰で取水して、堀割を伝って小石川の水戸屋敷へとまず導かれます。
  その後、地中の導水管へと導かれ、現在の水道橋近くあたりで掛樋となって神田川を渡り、日本橋、京橋、大手町地区に供水していました。
  関口に設けられた堰は、大洗堰と呼ばれます。上水の余水は江戸川となり、船河原橋(現在の飯田橋付近)より下流を神田川と呼びました。
 駅を出て現在の水道橋をわたります。昭和36年架橋の橋で、北詰欄干に「江戸名所図絵 お茶の水 水道橋」の絵図を彫った銅版が埋め込まれています。
現在の水道橋にある銅板

御茶の水 水道橋 神田上水懸樋(かけとい)
 神田上水の架桶(水路橋)の浮世絵で有名なのが、安藤広重の「東都名所 御茶之水之図」です。
広重 東都名所 御茶之水之図
 水道橋の架桶は本郷と猿楽町の間に架けられていたもので、現在の水道橋よりも下流に位置します。
 広重の絵の右手土手の中腹に描かれている家は神田上水の見守番屋です。ここでは、上水を流れてくる芥等を拾い上げるのを任務としていました。
 この「東都名所 御茶之水之図」は、東京都水道歴史館では模型になっていて、「もりやま」とても目立ちます。
 水道橋 神田上水掛樋模型
「もりやま」は、鰻の蒲焼店です。おそらく、江戸市民なら誰知らぬ人のない有名店だったのでしょう。
 そして、この模型の左下端に、本来は土の中にある石樋が見られるように作られています。
 神田上水掛樋模型と石樋の模型
 後楽園あたりから水道橋まで引かれていた「神田上水石樋」です。
 神田上水 石樋の跡
この「神田上水石樋」は、現在、東京都水道歴史館の裏側に復元されて見ることができます。現在、昨年の地震でどこかにヒビが入ったとかで水が流れていませんが、様子がわかります。
 実際に神田川を掛樋をわたった所には、ここがその場所ですよという大きな案内の石碑があります。
神田上水掛樋跡の碑
 ここを見て、東京都水道歴史館に行くか、帰りにここを見るか、とにかく近いので、ぜひ合わせて見学したいものです。

いずれがあやめ、かきつばた

「いずれがあやめ、かきつばた」という言葉があります。
 どれも素晴らしく優劣は付け難いという意味ですが、見分けがつけにくいという意味にも用いられます。
 違いのポイント、咲く場所
 あやめは畑のような乾燥地で栽培し、かきつばたは水辺などの湿地帯に、花菖蒲はその中間で畑地でも湿地でも栽培できます。
 違いのポイント2、花弁の元を見る。
 あやめは、 剣状の細い葉が縦に並んでいる様子が文目(あやめ)模様。 かきつばたが白の目型模様。花菖蒲が黄色の目型模様。
 ポイント3、花の大きさは、花菖蒲が大輪、あやめが小輪、かきつばたが中輪。

 あやめは山野の草地に生えます。5月ごろに径8cmほどの緑色の花を1~3個付ける。外花被片(前面に垂れ下がった花びら)には網目模様があります。
 
自然 カキツバタ2
 かきつばた(杜若)は、
 かきつばたの色(青紫)を染み出させ布などに書き付けた、つまり衣の染料に使われたことから「書付花」と呼ばれていたのがなまって、この名称がつきました。

 自然 ショウブ
菖蒲湯の菖蒲はサトイモ科で別物です。葉っぱがにているだけ。花も咲くことは咲くけどきれいな花ではなく、蒲(がま)の穂みたいな黄色い花です。
 
自然 キショウブ
 はなしょうぶ(花菖蒲)は、 葉が菖蒲に似ていて花を咲かせるからそう呼ばれます。
 (写真は、自然教育園の花です)
 万葉の頃はかきつばたが詠まれ、菖蒲というと葉菖蒲のことでした。

ウツギ 夏は来ぬ

ウツギは、空木とも書いて、幹の中が空洞になっているのでそう呼ばれます。別名ウノハナです。ウノハナと言えば、「夏は来ぬ」です。
  ♪卯の花の匂う垣根に   
   ほととぎす 早も来鳴きて
   忍音もらす  夏は来ぬ 「夏は来ぬ」) 佐々木信綱作詞
自然 ウツギ
 ウツギにはたくさんの種類があります。
 共通する特徴は、ほとんどが今の季節に花を咲かせ、低木かせいぜい亜高木であること。株葉は対生、楕円で先が尖っていることなどがあるようです。
 自然教育園で、3種のウツギを見ました。
 マルバウツギとウツギとコゴメウツギです。
自然 マルバウツギ
 マルバウツギとウツギは、ユキノシタ科。コゴメウツギは、バラ科です。
 本来の「ウツギ」というのは、ユキノシタ科のものです。 
 万葉集の歌から
 
  五月山(さつきやま) 卯の花月夜 ほととぎす
             聞けども飽かず また鳴かぬかも  
                    作者未詳 巻10の1953  
(五月の山を月が皓々と照らしている。月光が卯の花をぼうっと白く浮き立たせて実に美しい。ホトトギスの声が聞こえてきた。いくら聞いても飽きません。もう一度鳴いてほしいものだ)

  卯の花を腐す長雨(ながめ)の 水始(みずはな)に
             寄る木屑(こつみ)なす 寄らむ子もがも」 
                       大伴家持 巻19の4217 
 
(卯の花を痛める長雨で水かさが多くなった川、その流れの先に木の屑がいっぱい集まっている。このような木屑のように私のところに美しい女性が集まってくれたらいいのにな)

自然 コゴメウツギ
 コゴメウツギは小米空木と書きます。名の由来は「花序のようすが米が砕けた小米に見立てたことによる」ということです。
写真のウツギの花はもう少し先のようです。

「ちひろ美術館」ちひろと香月泰男 ― 母のまなざし、父のまなざし ―

 上井草にある「ちひろ美術館」に行ってきました。
 ちひろと香月泰男 ― 母のまなざし、父のまなざし ―を見たいと思ったのです。
 香月泰男の作品が好きで、最近、展覧会がないのが寂しいと思っていました(私が展覧会に気がついていないだけか
もしれませんが)。
 絵画も好きですが、廃材で作ったおもちゃが素敵です。
 香月泰男は「制作のほとんどのモチーフを追憶のなかと、家から2、3分の距離より望見されるものにしか求めていない」と言われます。そういった所にも惹かれます。
香月泰男が家族にあてたハガキ
 今回は、昭和17年(1933)、満州(現・中国東北部)のハイラルに配属され、終戦を迎えるまでの2年間、家族へ絵葉書を送り続けたというハガキが胸を打ちました。遠く離れて会うことのかなわない家族への想いが強く表れています。
 その展示にあわせて、いわさきちひろのスケッチが並べられていますが、息子や夫などが丁寧に描かれています。
 ちょうどいわさきちひろの息子の松本猛氏がギャラリートークをされて、思い出や作品にまつわるエピソードを語ってくださいました。母のように絵を描くことができなくて、絵画の道をあきらめたこととか、いわさきちひろが最後に完成させた絵本『戦火のなかの子どもたち』の構成は、松本猛氏がなされたとか、とてもはっきりした口調で話され、いいときに来たと思いました。
 いわさきちひろと香月泰男は、年齢差は7歳。ほぼ同時代です。面識はなかったとのことですが、 身近な草花や小さな生き物をモチーフにしているとか、第二次世界大戦が大きな転換点になったとか、共通する所が多いです。
 戦争の与えた影響は特に大きいです。
 いわさきちひろは、多くの犠牲を伴った戦争を体験し、以後、一番弱い立場の人々に心を寄せて絵を描く決心をしましました。
 香月泰男 は、戦後2年間、シベリアで、抑留者として生き、厳しい環境のなかで戦友たちの相次ぐ死に接します。そこで体感した想いを、帰国後、キャンバスに向けました。
、そうした、自分の体験と重ねながら、平和への想いを強く表現しています。
 二人を「母のまなざし、父のまなざし」で並べての展示、企画が素晴らしいと思いました。

完成まじかに 東京駅

 東京駅は、辰野金吾と葛西萬司が設計し、深谷市産の鉄筋レンガ造りの3階建ての豪壮華麗な洋式建築です。
 竣工は、大正3年(1914)2月の竣工で12月に開業しました。
 竣工当時の東京駅
その赤レンガ本駅舎も昭和20年(1945)5月、東京大空襲によりその多くが破壊されましたが、昭和22年(1947)、規模を縮小して修復されました。
 その後、赤レンガ駅舎の建て替えをどうするか、いろいろ議論されてきました。
 何度か壊される危機があったようですが、保存運動も起こり、平成11年(1999)もともとの形に復原することに決定しました。平成15年(2003)には国指定の重要文化財に指定されています。
 そして、平成19年(2007)の5月30日から、復原工事が始まりました。
 昨日、丸の内に行ってみると、駅舎の姿がかなり見られるようになっていました。
 そういえば、一部開業は6月10日で、全面開業は10月ということでした。
 もうすぐなのですね。
東京駅 1
東京駅2
東京駅 3
東京駅 4

矢来町の集合住宅の石垣

 牛込中央通りを歩いて、矢来町に入ると、左手に大きな矢来町ハイツという集合住宅があります。緑の木々も多く、落ち着いたハイツです。
 矢来町は、若狭小浜藩主・酒井讃岐守忠勝が、寛永5年(1628)三代将軍家光から牛込に下屋敷を貰い、その周囲の土手を竹矢来で囲んでいて、その竹矢来が有名だったので「矢来町」の地名がつきました。矢来町全体が、酒井家の屋敷跡です。
 その痕跡として、矢来町ハイツの垣根になる石垣に、酒井家の石垣が一部使われています。ちょうどツツジが咲いてきれいでした。
矢来町ハイツの塀
矢来町ハイツの塀の石垣

 牛込中央通りは、市谷田町、市谷砂土原町、払方町 納戸町、細工町、中町、北町、箪笥町、横寺町、矢来町 と、旧地名のまちを抜ける珍しい通りです。

鈴木家住宅主屋と高橋建築事務所社屋(アユミギャラリー)

 新宿区に登録有形文化財という建物があります。
 神楽坂を歩いて、高橋建築事務所社屋(アユミギャラリー)と鈴木家住宅主屋へ立ち寄りました。
 神楽坂界隈は戦時の空襲で焼けてしまいました。それでも、焼け残った石畳の路地などに花街の雰囲気を持つ町並を保ってきました。
 しかし、昨今は、チェーン店などのお店、あるいはマンション建設などの開発が進み、神楽坂らしい景観が少しずつ壊れていっています。
 そこで、歴史的景観やデザイン面で価値のある築50年以上の建物をなんとか残したいと、登録有形文化財ということで、登録をしていこうとしています。50件ぐらいリストアップしたようですが、調査をしていると、取り壊しの決まった建物もあるそうです。
 とにかく、現在、高橋建築事務所社屋(アユミギャラリー)、鈴木家住宅主屋、宮城道雄記念館検校の間、矢来能楽堂、旧常盤家本館(石合家住宅主屋)の5件が登録されています。
鈴木家住宅主屋
 鈴木家住宅主屋は、横寺町の込み入った路地にあり、高橋建築事務所社屋(アユミギャラリー)の建築家高橋博の自宅兼アトリエとして建築したものです。煉瓦による外観と低い軒の意匠が美しく、落ち着いた佇まいを見せています。
 昭和21年12月に上棟し、翌22年に竣工しました。
 高橋建築事務所社屋(アユミギャラリー)の創建は、昭和29年です。この建物はその7年前に建てらました。
 この建物は木造平屋の切妻の屋根で、路地(前面道路)に沿って、下屋を低く葺き降ろし、しかも、長く深く張り出しています。
高橋建築事務所社屋(アユミギャラリー)
 高橋建築事務所社屋(アユミギャラリー)は、神楽坂通りの東西線神楽坂駅のすぐ近くにありましす。
 昭和29年建築。英国に留学経験のある建築家高橋博が設計した社屋で、英国田舎風の外観になっています。現在、2階は「鈴木喜一建築計画工房」で、1階は、アユミギャラリーと活用されています。神楽坂の代表的なギャラリーです。また、ギャラリーだけでなく、同じ敷地内に建築塾、写真塾、美術塾などがあり、神楽坂のアートの拠点にもなっています。地下では、コーヒーも頂けるようです。
 鈴木家住宅主屋は濾紙奥でなかなか分かりにくいです。歩いている人に道を尋ねたのですが、ご存知ないです。
 行ってもなんの表示もないので、古い家があるな、で通り過ぎてしまいそうです。
 古い地名の残る牛込神楽坂界隈、古きよきものも残っていくことを期待します。
 

勝興寺 山田浅右衛門吉利の墓

 再度、勝興寺に行って来ました。
山田淺衛門 7世吉利墓
 墓の左側を見ると、7代目山田浅右衛門吉利の墓です。裏面には、妻の素伝の名前が記されていました。
 7代目山田浅右衛門吉利は、6代目山田朝右衛門吉昌と同じお墓に夫妻で合葬されています。
 7代 山田浅右衛門吉利(よしとし)。
  前にも書いたように、備中新見藩士で山田家の門人だった後藤五左衛門の次男で五三郎と言い、同じく門人の一人でした。5代目の養子だった吉寧の娘(6代目養女)幸と結婚)して、家督を相続。6代目同様、朝右衛門と改めたようですが、勝興寺にある6代目夫妻の合葬墓の左側面には、第七世 山田浅右衛門吉年と刻まれていて、浅右衛門という通称も用いていたようです。そして、吉年とも書いたようです。
 安政の大獄の時代で、橋本左内、頼三樹三郎、吉田松陰らの首を斬ったのはこの7代目吉利でした。
 素伝は、後妻です。綱淵謙碇『斬』によると、素伝は、旗本・青山下総守の御祐筆勝田綱吉の娘です。大奥で修行もし、「楓の局」と言われ幅を効かせていたようです。
 その武士の娘がどうして29歳も年の違う山田浅右衛門吉利に、しかも後妻として嫁いだか、それには、綱吉が金繰りに困り、お金の工面を勝麟太郎(海舟)に相談したことに始まります。
 勝麟太郎は、親交のあった、山田浅右衛門吉利にお金の工面を依頼します。
 勝麟太郎の紹介状を信用した山田浅右衛門吉利は、3千両にも及ぶ資金を、やがて吉利の妻となる素伝の父親、勝田綱吉に調達します。
 このころは、どこの藩も財政が苦しくて金策に走り回っていました。反面、山田家の財政は豊かだったのです。(それは、罪人の死体から、脳味噌、胆嚢、肝臓などをもらい受け、「人丹丸」「慶心丸」といった薬として販売していました。この売薬の利益が莫大だったのです)。
 そのことがあって、勝麟太郎はさらに、娘素伝を、山田浅右衛門吉利に嫁がせるよう薦めます。山田浅右衛門吉利の最初の妻は、末の子ども吉亮が小さいころに亡くなっていました。
 素伝は、吉利と結ばれます。
 綱淵謙碇の『斬』では、素伝が子どもたちに大きな役割を果たしますが、そこは小説的な構成だと思います。
7世 淺衛門妻(素伝)墓 
 吉利は、明治2年(1869)隠居します。
 吉利は明治2年(1869)、家を長男の吉豊に譲り、隠居して麹町平河町(現、千代田区)2丁目の本宅から同8丁目清水谷上の隠宅へ移ります。
 山田浅右衛門を実子に家を継がせたのは唯一の例と言われます。
 時代が終わったことを意識したのかもしれません。
 吉利は、明治17年没。享年72。戒名は天寿院慶心和水居士でした。
 最後の山田浅右衛門と言われるのは、吉豊を継いだ吉亮(よしふさ)です。
 吉亮が斬った首は約300人に上るといわれます。その中に、高橋お伝があいます。
 明治12年1月30日、市ヶ谷監獄署で高橋お伝を斬首しました。
 女囚最後の斬首刑になります。この時、お伝は男の名を呼び叫び、あばれたのでしょう、吉亮は2度も手元が狂い、3度目に押し斬り捻じ斬りの格好で斬首したと伝えられます。斬首300名のうち、吉亮ただ1回の失敗談として残っています。
 勝興寺には、浅右衛門が使用していた箪笥が、一竿保存されていましたが、戦災で焼失した。この箪笥には、お話がついています。
 ある人が、古道具屋にあった箪笥を買って帰ると、家の娘の気がおかしくなりました。夜になるとこの箪笥を指差して、何か意味のないことを口走るのです。気持ち悪いと、箪笥を古道具屋に返品してしまいました。
 こんなことが、2~3回続いたので、この箪笥の出所をたどってみると、浅右衛門の持ち物だったことがわかりました。
  明治になって、斬首によっていた罪人の処刑も、絞首刑に改められました。そのため、浅右衛門の仕事もなくなり、山田家も没落して家財道具を整理しなくてはならなくなり、こうした箪笥も売られていたのです。
 山田家では、この箪笥を引き取り、供養のためと、勝興寺に納めることにしました。
 箪笥を積んだ荷車が戒行寺坂にかかると、どうしても荷車が動きません。住職がお経をあげて、どうにか寺に運びいれました。寺ではその箪笥に経文を納めて供養しました。そのおかげで、その後は何も起こりませんでした。
 おそらく、この山田家にあったとき、この箪笥には、死人の脳みそや生肝を入れてあったのでしょう
 
 勝興寺には山田淺衛門の墓以外に、西尾氏(遠江横須賀・三万五千石)関連のお墓がありました。残念ながら、多くは整理されてしまっています。
また、大正から昭和初期かけての映画監督 島津保次郎のお墓もあります。

勝興寺 6代目山田朝右衛門吉昌

 四ッ谷の勝興寺に行ってきました。
 曹洞宗のお寺で、本山は越前の永平寺。法輪山と号します。
 天正10年(1582)麹町清水谷に東竹院四世雪庭春積禅師が草庵を建てましたが、寛永11年(1634)江戸城拡張のため、ここに移されました。
勝興寺
 本堂の扉の桐の紋が目に入ります。桐紋は、豊臣秀吉が賜わってから、菊についで名誉ある紋となりました。桐紋は、花と蕾の数で分けて、五三の桐、五七の桐、五四の桐、九七の桐、七五三の桐、十三七の桐などがあります。ここは秀吉と同じ五三の桐です。
 さて、その本堂の階段の両脇に天水桶があります。
山田朝衛門 水鉢 
 天水桶には「天明七丁未年七月十八日 山田朝右衛門吉昌 出生
         嘉永元戊申年七月十八日 誕生日剃髪改 山田松翁」
 と書かれています。
 6代目山田朝右衛門吉昌が、62歳の誕生日に剃髪した際に寄進したものです。
山田淺衛門 墓
 そして、墓地に入るとすぐ山田朝右衛門夫婦の墓があります。
 側面に側面には「山田朝右衛門吉昌墓」とあります。享年66歳。万昌院輪山松翁居士。
 そしてここには、「7代目山田浅右衛門」も合葬されています。(7代目の墓碑銘が写真の撮れていないので、それは次の機会に)。
 6代目の「あさえもん」の字が「浅」ではなく「朝」になっているのはなぜなのかは、これははっきりしていません。
 この「浅」と「朝」の字が異なるということについては、幕末の7代目や8代目を、幕府が「将軍家御試(おためし)御用」と認めていなかったため、代わりに「朝右衛門」と称し、将軍家御用の「浅右衛門」という名前は用いなかった、といわれますが、ここは6代目の名前です。
 6代目山田朝右衛門吉昌は、元は遠藤次郎兵衛という下級幕臣の子で、奥州湯長谷藩藩士の三輪源八の養子となりました。5代目山田浅右衛門吉睦(よしむつ)は三輪源八の次男ですので、5代目吉睦からは義理の弟にあたります。
 5代目を継ぐ人は、4人ほど候補があったのですが、いろいろあってなかなか決まりませんでした。そして、山田浅右衛門の門人で、試し切りの修行を積んでいた吉昌が継ぐことになり、6代目は朝右衛門を名乗りました。
 7代目が吉利。俳号は芝生園和水。備中新見藩士で山田家の門人だった後藤五左衛門の次男五三郎。五三郎もまた山田浅右衛門の門人の一人で、吉寧の遺児で6代目の養女となった幸と結婚して、家を継ぎました。
 吉利のことは、墓の写真が撮れてからにします。

綱淵謙碇の『斬』(文春文庫)

 綱淵謙碇の『斬』(文春文庫)を読みました。
斬
 昭和47年(1972)年上半期に、直木賞を井上やすしと一緒に受賞した作品です。
 昨年末、文春文庫から新装版としてまた出版されました。
 この『斬』の直木賞受賞の時のさわぎはなんとなく記憶にあります。山田浅衛門という「首切り」の名前も覚えています。時々、映画や劇画に山田浅衛門が出てきて、読んでみたいなという思いがありました。
 四ッ谷に寺町といわれる、江戸城拡張で、寛永11年(1634)麹町などから多くの寺が移転してきた所です。その移転してきた寺のひとつに勝興寺(新宿区須賀町8番地)があって、そこに山田浅右衛門の墓があります。
 なんどか行く機会があり、昨年末、綱淵謙碇の『斬』、新装版が出たと新聞に出ていたので、読まなくては、と買ってきていました。
 今度、四ッ谷に寺町をめぐる会があり、それまでにと、やっと読んだわけです。
 読み出すと、興味深くて、どんどん読み進みました。
 小説なのですが、資料がたくさん出てきて、それが、ほぼ原文に近い引用がされているので、そういうとこころは、難しくて、とばして読んだので、もう一度読む必要があります。まさに、歴史小説と歴史書の中間に位置する作品で、再読、三読しなければ作者に悪い気がします。
 山田 浅右衛門は、江戸時代に御様御用(おためしごよう)という刀剣の試し斬り役を務めていた山田家の当主が代々名乗った名称です。死刑執行人も兼ねていて、首切り浅右衛門、人斬り浅右衛門とも呼ばれました。

 <現在、山田家の系譜についてはほぼ二説あり、一つは浪人説、もう一つはいわゆる〈賎民〉説であるが、この碑文の説はいうまでもなく山田家浪人説に立っている。『明治百話』の吉亮の回顧談その他を援用してもう少し敷衍するならば――
 山田家はもと六孫王(清和天皇第六皇子貞純親王の王子の意である)源経基の子孫で、はじめて浅右衛門を名乗ったのは貞武である。貞武ははじめ徳川家御腰物奉行支配・山野加衛門尉永久について居合術を学び、その妙を極めた。吉亮の回顧談によれば、貞武は「武道の大熱心家で、とりわけ据物試斬りの名人であり」、「徳川家の御佩刀御試御用役をつとめて、かの赤穂義士不破数右衛門正種、堀部安兵衛武庸なぞとは武道の親友」だったが、「その頃、奉行所に『首斬同心』というものがあり」
 「山田が死屍を試すなら、いっそ斬り手もやってもらいたいというような話が出て、ついに兼務のようなかたちになってしまったのが、そもそも首斬りの始め」であるという>


 浅右衛門家は浪人の身でしたが、様々な収入源があり、たいへん裕福でした。
 その収入として特に大きかったのは、人間の肝臓や脳や胆嚢や胆汁等を原料にして作った、肺病に効くといわれる丸薬を売っていたことです。この薬は、人胆丸・仁胆などの名で販売され、莫大な収入を得ていました。
 死刑執行人の役割から内臓を得ていたのです。
 物語は、罪人の首を斬るという、斬首という刑罰が、明治という新しい時代に入って消え去ろうとする時代、代々それを生業にしてきた山田浅衛門が、そうした時代に翻弄される姿を切実に描いた作品です。
 首切りの刑の描写はなまなましく、まるでその場にいるような気になります。斬首の瞬間の刀の閃き、音、流れる血、恐ろしいです。そして、幕末と明治を時代に振り回される側から見ることにもなります。
 この作品では、最後の山田浅右衛門となった吉亮(よしふさ)を中心に置いて、その父親吉利や兄弟を中心に、幕末から明治にかけての歴史や世相を織り交ぜ、山田家の崩壊を描いていきます。
 父・吉利が家職を伝えるために鍛え、吉亮が初めて罪人の首を落としたのは、慶応元年(1865)、彼がまだ12歳のときでした。わずか12歳これにも驚かされます。
 それから17年後、明治14年の最後の刑の執行までが、この小説で描かれる期間です。
 四ッ谷の勝興寺には、6代目山田浅衛門吉昌(よしまさ)と7代目山田浅衛門吉利が合葬されています。
 吉利の墓は勝興寺と正源寺(港区白金2丁目7番地19号)とにあるようです。
 これは吉利が山田浅衛門家の養子で、遺言で葬式は勝興寺、屍は正源寺としたためてあったことによります。正源寺は実家の後藤家の菩提寺です(その後藤家は、現岡山県の備中新見藩士でした。新見は、先日旅をした所です)。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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