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「江戸一目図屏風」

 江戸一目図屏風(えどひとめずびょうぶ)ー「いちもくずびょうぶ」かと思っていました。
「江戸一目図屏風」
 「江戸一目図扉風Lは、津山藩松平家の御抱え絵師鍬形蕙斎が文化6年(1809)に描いた江戸の鳥瞰(ちょうかん)図です。(写真は屏風中央部のみ、お城と富士山が見えます)
 画面中央に江戸城をおいて、背後に大きく富士山を配し、左に江戸湾、下方に隅田川を描きます。隅田川へは、神田川が流れ込みます。
 江戸城の周囲には大名屋敷が並び、外堀の外には入り組んだ街路や蛇行する用水路に沿って、民家や社寺がびっしりと描かれています。
 その中には浅草寺や向島、それに遊郭の新吉原など、よく知られた江戸の名所が250ヶ所以上も描き込まれていると言われます。
 隅田川東岸の上空からの鳥瞰図として描かれています。
 この「江戸一目図」屏風はそれまでの「洛中洛外図」のように時間や場所の違いを金雲で処理する技法でなく、一点透視図法を用いて、全体をごく自然に描き込んだ、新しい技法で描いています。
 作者の鍬形蕙斎くわがたけいさい)は俗称を三二郎といい、浮世絵師北尾重政に師事して後、北尾政美と称しました。著名な戯作者の山東京伝はその兄弟子です。浮世絵師としての政美は、武者絵や浮絵、あるいは黄表紙の挿絵を数多く描いていました。
 寛政6年(1794)、津山藩に絵師として召し抱えられ、そえを機に蕙斎と改号しました。
 津山藩は、岡山県の北部の都市で、先般も立ち寄りました。
 お城の下のにある「津山郷土博物館」に寄って見たかったのですが、時間がなく今回はあきらめました。そうすると、行くのが遅く摸写でしたが、「ザ・タワー~都市と塔のものがたり」でお会いすることができました。良かったです。
 「江戸一目図屏風」は東京スカイツリーに実物大の複製パネルで、第1展望台に設置されることになっています。
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「ザ・タワー~都市と塔のものがたり」

 両国の江戸博物館で開かれている、東京スカイツリー完成記念特別展、「ザ・タワー~都市と塔のものがたり」に行ってきました。
 どういう展覧会かと思った時、展覧会の案内が、考えさせられました。
<都市に塔があるとき、人は、遠くからその姿を眺め、近寄って足元から見上げ、登り、塔上から風景を見晴らし、そしてその記憶を思い出として残します。この展覧会では、「眺める」「見上げる」「登る」「見晴らす」「思い出に残す」をキーワードとして、人々が記憶を積み重ねながらおりなしてきた「都市と塔のものがたり」のさまざまを、ご紹介いたします。>
 私の場合、「眺める」「見上げる」が多いですが。東京タワーにも2度ぐらいしか登っていません。
 古来、塔は「登る」ものではありませんでした。せいぜい仰ぎ見るものでした。
 江戸時代の「塔」は、城の天守閣であり、江戸で言えば、富士山でした。遠くに眺め、仰ぎ見ました。
 登ったのもあります。標高26メートルの愛宕山です。「ザ・タワー~都市と塔のものがたり」のも出てきます。
東京愛宕山上愛宕館之図」
 (愛宕山の絵には富士山も描かれています)
 これが明治時代になると、人々は塔に登って下界を見晴らし、見下ろすようになります。
「俳優出世富士登山寿語六
 「浅草寺」の浅草です。まずここに「張りぼて」で高さ36mの「富士山」を作られ、登ることが出来ました。そしてその富士の中には、活き人形が置かれ、見物人で賑わったと言われます。
浅草公園凌雲閣登覧寿語六
 明治32年(1890)、その浅草にお目見えしたのが12階建ての凌雲閣です。日本初の「電気式エレベーター」があったとか。
 大正12年(1923)関東大震災で倒壊してしまいます。「二次災害」を防ぐため爆破されました。
 ほぼ同じ時代、大阪には内国勧業博覧会のために望遠楼(大林高塔)ができ、これが通天閣の前身となりました。どちらも、凌雲閣も通天閣も、目指したものは、パリのエッフェル塔でした。
 エッフェル塔は、1889年開催・パリ万博の目玉として建てられました。当初は、パリっ子たちからは醜いと不評でしたが、やがてパリを象徴する建物になります。
 そのエッフェル塔そっくりに、戦後の復興の象徴として(名目は電波塔として)作られ、たのが、東京タワーです。
 エッフェル塔と、凌雲閣、通天閣、東京タワーは詳しく出展されています。
 東京スカイツリーは、少ないです。(どこかで読んだのですが、スカイツリー関連の資料はほぼデジタル、ということで、これまでのタワーとは、その展示において性格が違ってくるようです。)
 とにかく、みんな高い所が好きです。新宿の超高層ビルでも、競争して登りました。
 今、東京スカイツリーは、登りたい人であふれています。より高く、より高く。
 何があるのかな、と思います。
 この展覧会の最初に、「洋の東西において、多くの塔は、教会や寺院といった信仰の空間にあり、祈りの対象だった」という説明があります。
 古寺に建つ三重塔、五重塔はまさにそれです。富士山も、そのまま信仰の対象です。
 塔には、聖俗が微妙に入り交じっています。
 東京タワーの横にも増上寺があり、上層階にはタワー大神宮が置かれています。
 通天閣には、ビリケンさんが置かれたりしています。
 東京スカイツリーはどうなのでしょうか。
 地上350メートルの展望台に、文化6年(1809)に津山藩松平家の御抱え絵師鍬形蕙斎によって描かれた「江戸一目図屏風、」が設置されます。
 江戸時代、高いところに登れなかった時代、あたかも眺めたかのような「江戸」が描かれていた、ということです。
 これも信仰の対象になりますか。

新緑の季節です。新宿中央公園

新緑の季節です。新宿中央公園の緑もきれいでした。
中央公園の新緑
新宿中央公園で、たくさんのヒメオドリコソウを見ました。ヒメオドリコソウはヨーロッパ原産の帰化植物で、一年生の草本。明治時代中期にすでに東京に来ていたようです。
中央公園のヒメオドリコソウ
中国・朝鮮半島から日本に分布するオドリコソウと同属ですが、背丈・葉や花の大きさとも半分以下で、小さいため「姫」の名がつけられました。花序が環状に並ぶ様子を、踊り子が並んで踊るさまに例えて名づけられました。
中央公園のノイチゴ
ノイチゴです。白い花が遠くからでも目につきます。ノイチゴ(野苺)といっても、クサイチゴ、モミジイチゴ、フユイチゴ、ナワシロイチゴ等のキイチゴ類から、ノウゴイチゴ、ヘビイチゴ、シロバナヘビイチゴ、エゾヘビイチゴ等々、多種多様で何十種類もあります。これは、そいう言い方ではクサイチゴですか。
 白い花の野イチゴは食べられます。
 オオクボツツジも咲いて来ました。
中央公園のオオクボツツジ

「ボストン美術館 日本美術の至宝

 東京国立博物館で開催中の特別展「ボストン美術館 日本美術の至宝」に行って来ました。
 東洋美術の殿堂と称されるアメリカのボストン美術館には、10万点を超える日本の美術品が収蔵され、その量と質において世界有数の地位を誇っています。
 この日本美術コレクションは、ボストン美術館草創期に在職したアーネスト・フェノロサや岡倉天心らの働きがあります。
 欧化思想が席巻した明治初期には、廃仏毀釈が発令され、仏画、仏像など貴重な作品がこわされて行きました。フェノロサや岡倉天心らはその破棄から、作品を救ったのです。
 そうした目で見ると「法華堂根本曼荼羅図」といった奈良時代、8世紀の仏画が、こんなに鮮やかな形でここに飾られていることが奇蹟です。
 作品を少し見ていきます。
「法華堂根本曼荼羅図」
「法華堂根本曼荼羅図」は、霊鷲山[りょうじゅせん]で釈迦が諸尊や衆生に囲まれ法華経を説く光景をあらわしています。
弥勒菩薩立像
 「弥勒菩薩立像」快慶 鎌倉時代・文治5年(1189)。
 軽く腰をひねった端正な姿で、みとれました。興福寺伝来で、像内に納められた経典の奥書から快慶の作と分かりました。現存する快慶の作品の中で最も若い時に造られた仏像ということです。
 今回、一番の見どころは、第2章 海を渡った「吉備大臣入唐絵巻」と「平治物語絵巻 三条殿夜討巻」の二大絵巻です。東京国立博物館の平成館の縦横の展示スペース全てを使い、すべてを見せてくれます。
「吉備大臣入唐絵巻」
 「吉備大臣入唐絵巻」(平安時代・12世紀後半)
  後白河法皇が描かせた絵巻で、遣唐使として派遣された吉備真備(695~775)が
唐で難問に立ち向かい、大活躍するというお話です。ストーリー展開が面白く、マンガのような楽しさがあります。
 この絵巻物は、大正12年若狭酒井家売立てに出され、古美術商戸田弥七が18万8900円で、手張りで落札しました。
 酒井家は、新宿区の矢来町に屋敷があり、小浜の初代藩主である酒井忠勝は、家光、家綱の時代老中として、活躍しました。
 酒井家には名品が多くあり、今は大阪市立東洋陶磁美術館にある油滴天目、出光美術館の「伴大納言絵詞」は現在国宝になっています。「吉備大臣入唐絵巻」も日本にあれば国宝になっていたことは確かです。
 大正12年、その年は関東大震災の年で、美術品どころではなくなってしまいます。、 誰も買い手が無く持ち越していたものを、ボストン美術館の富田幸次郎が、大正13年に日本にきた際、これを購入しました。
 そして、今回、また里帰りしたわけです。
「吉備大臣入唐絵巻」 碁の場面 
「平治物語絵巻」は平治の乱(1159年)の模様を描いた絵巻です。ボストン美術館の所蔵する「三条殿夜討巻」は藤原信頼、源義朝らの軍勢が後白河上皇の三条殿を襲撃する場面です。合戦の絵ですが、描かれた人物一人一人を見て行くと、その心境まで見えるようで、見事です。非常に迫力があります。
平治物語絵巻 三条殿夜討巻 2

平治物語絵巻 三条殿夜討巻

一番最後にあるのが、曽我蕭白「雲龍図」です。江戸時代・宝暦13年(1763)の作品。
襖から剥がされたままの状態になっていたものを、修復によって公開可能になり、今回、日本で初公開されました。
「雲龍図」
 「雲龍図」は大きな襖絵ですが、それでも真ん中にあった胴体部分は欠けてないいというのだから、どんなにすごい作品だったかと思います。大きく目をむく、龍の頭部には凄みがありますが、どこかに愛嬌も感じられます。
 金曜日の夜行きました。なんとか丁寧に観ることができました。

日本一の山城、備中松山城

 一度は行ってみたいと思い続けていたのが、備中松山城です。でも、ずいぶん高い山の上にあって、登山気分で行かなくてはと言われていたので、なかなか登る時がつかめないでいました。
 今回はなんとか行ってみたいと、備中高梁へ行きました。駅前の観光案内に行くと、観光タクシーがあって、1人420円でふいご峠まで行ってくださると言う。約20分車で行って、そこから20分ぐらい歩くと、天守閣に着くと言われました。
 ふいご峠までその観光タクシーで行きました。
備中松山城 歩き安くしてある道と看板
 まるほど登山です。急な山の斜面をジグザグに登ります。でも、かなり歩きやすくしてあります。ところどころ「あわてずゆっくり歩むべし 城主」といった看板がありました。樹林の中を歩くのは気持ちいいです。
 しだいに、石垣が見えてきて、もう少しだと元気を出します。そして、樹林を抜け出すと、すさまじいばかりの巨岩と石垣が重なりあった所に出ます。巨大な絶壁があって、そこに石垣が何段にも組まれていて。その上に白壁の城壁が見えます。
備中松山城 石垣群
(これはなんだ、と見上げます)
備中松山城 巨岩の石垣
 すごい、と思わず息を飲みます。見事なたたずまいを見せてくれます。
 日本一の山城と言われますが、こんな迫力のある、そして美しい山城はここ以外にはないでしょう。
 その険しい美しさに打たれながら、少し登ると天守閣が見えてきます。備中松山城の天守は2層なので、決して大きくはないのですが、とても重厚な印象を受けます。なにより備中松山城は現存天守です。
備中松山城 大手門から、天守閣を望む
 備中松山城 天守閣の石垣
天守が現存し得たのは、ここ備中松山城は、あまりに高所にあるがゆえに解体する価値もないとみなされたことにあります。もちろん、篤志家の努力によるところもあって、往時の姿を今日に伝えることができているわけで、ある意味、現在のわれわれにとって幸運だったと言えます。
松山城の天守は、毛利氏時代から、小堀氏が城番で入城する慶長の間にはすでに存在していたと考えられています。 いまの天守は、慶長5年(1600年)に小堀政次、政一(遠州)が建てたものを、2代水谷勝宗が天和元年(1681年)に改修し、現在のような姿になったともいわれます。
備中高松城 見事な石垣
 このような天険の地に、よくこれだけのお城ができたものだと思います。
 大手門跡から仰ぎ見る、そそり立つ岩壁と野面積みの石垣。忘れられません。
備中松山城 石垣と巨岩と櫓

松江 堀を小舟でめぐる「堀川めぐり」

 松山城は松江市街の北部に位置し、南に流れる大橋川を外堀とする輪郭連郭複合式平山城です。宍道湖北側湖畔の亀田山に築かれています。
 関ヶ原の戦いの後、堀尾吉晴・忠氏父子は24万石で出雲・隠岐の太守となりました。忠氏亡き後、吉晴が、拠点を広瀬から松江に移し、亀田山に慶長12年(1607)からあしかけ5年の歳月をかけ築城しました。これが松江城の始まりです。
松江 堀川めぐり 天守閣
 松江城は、別名・千鳥城と呼ばれ、天守が現存しています。(現存する天守をもつお城は、松江城を含めて12城ありますが、古さでは6番目です)。
 松江城を囲む堀は一部、築城と同時に造られ、今もほぼそのままの姿を残しています。
 このように城(天守閣)と堀が当時のまま現存する城下町は全国でも珍しいと言えます。
 ちなみにこの堀川は宍道湖とつながっていて、薄い塩水だということです。
松江 堀川めぐり 青さぎ
 この堀を小舟でめぐる「堀川めぐり」がありますが、朝一番に乗りました(と言っても9時ですが)。
 舟に揺られながら見る城と城下、とても素敵でした。
 石垣と古木が生え繁り自然の土塁はとても美しいです。それにところどころ姿を見せる水辺の鳥たちとも、心が通うようです。
松江 堀川めぐり 橋の下
松江 堀川めぐり いろいろな橋
 また、この堀川には16の橋がかかっていて、その内の4つは、橋げたが低く、舟の屋根を下げて通るので、深く頭を下げなくてはいけません。こういう動作も楽しいです。
松江 堀川めぐり 武家屋敷
 城を中心として、武家屋敷、塩見縄手などの町があって、舟から眺めるその町並は、お城に溶け込んで時代を忘れます。
 松江城を取り囲むお堀を約50分かけて周遊しました。
松江城 堀川 石垣
 松江城の石垣は、「野面積み」と「打ち込み接(はぎ)」の石積み手法が中心です。
「野面積み」とは、自然石や割石を積み、表面の隙間に詰め石をします。
「打ち込み接(はぎ)」とは、石切り場で切り出した石の、平坦な面の角を加工し、合わせやすくした積み方です。
 松江城は、野面積みでも、「牛蒡積み」といって、石の大きい面を内側に長く押し込む方法を多く取っています。
 松江城は5年間で完成しましたが、そのうちの3年間を石垣に費やしたと言われます。
 石垣積みは、穴太衆(あのうしゅう)が中心に、石工は大阪から招き、石垣を構築しました。穴太衆とは地名、大津市坂本町穴太からきています。穴太の石垣築成集団です。この地には、中世から近世にかけ石垣の築成に優れた技能を持った人がいました。
松江 堀川めぐり すばらしい石垣
 石垣に関しては人柱伝説 があります。
 天守台の石垣を築く時、何度も崩れてなかなか築くことができませんでした。もう人柱をたてるしかないという声が出るようになりました。そうして、盆踊りの時、最も美しく、最も踊りの上手な少女が生け贄にされました。そのおかげか、石垣はでき上がり城も無事落成しました。しかし、その後、城主の父子が急死してしまい改易となります。それは、娘のたたりであると恐れられました。
 天守は荒れて放置されたままとなり、その後、松平氏の入城まで天守からはすすり泣きが聞こえたということです。また、城が完成してから、盆踊り禁止令が出されました。それは、女性たちが盆踊りを踊るとお城全体が揺れ動くからだと言われています。
 この伝説は、小泉八雲の「人柱にされた娘」などの作品にも取り入れられています。
 城主は堀尾氏3代、京極氏1代といずれも嗣子なく断絶した後、松平氏が10代続き一度の戦乱にまき込まれることなく明治維新を迎えます

自然教育園の4月の花

今日は自然教育園で自然観察です。いろいろな花が咲いています。
ヤマブキ(山吹)
ヤマブキの花
山の中に生え、花の色が蕗(ふき)に似て 金色で美しいことからこの名前がついたとか、しなやかな枝が風にゆれる様子から 「山振」の字があてられ、それが「山吹」に なったという説があります。 鮮やかな黄色、やまぶき色です。一重のヤマブキには実がつきますが、 八重には実がなりません。
ヤマブキソウ
ヤマブキソウ
ヤマブキに似ていると言うことで付いた名前です。
花の色は鮮やかな黄色で、似てはいますが、ヤマブキの花弁は5枚で、ヤマブキソウの花弁は4枚です。
そして、ヤマブキはバラ科で、ヤマブキソウはクサノオウに似たケシ科の多年草です。

イチリンソウ
イチリンソウ
ひとつの茎に花をひとつだけ咲かせるのでイチリンソウと呼ばれています。しかし、イチリンソウには、花弁はなく、5~6枚の白色の萼片(がくへん)があるのです。キンポウゲ科の多年草。
ニリンソウ
ニリンソウ
こちらは、ひとつの茎に花を2つ咲かせているようなので、ニリンソウと呼ばれています。しかしひとつの茎につく花の数は1~3個の場合があります。イチリンソウと比較すると小さく混生しています。

ラショウモンカズラ(羅生門葛)

ラショウモンカズラ
シソ科の多年草。和名は花を羅生門で切り落とした鬼の腕に例えたと言われています。
イカリソウ(錨草)
イカリソウ
メギ科の多年草。花は下向きに開きます。萼片(がくへん)は8枚で外側の4枚は早く落ちます。4枚の花びらそれぞれの先端がツノのように反り返ってとがり、その姿を船の錨に見立てこの名前があります(とがった部分は距-きょ-と呼ばれます)。

高いところから花見

 満開の時期を外してしましましたが、今年は、高層ビルから公園の桜を望みました。
 新宿御苑と新宿中央公園です。

 新宿御苑は、新宿センタービルの53階にあるレストランから。
 新宿センタービル53階からの新宿御苑

 新宿中央公園は、都庁45階の展望台からです。
 都庁展望台から見た新宿中央公園

岡山城散策

天守と石垣で構成された近世城郭は、織田信長が琵琶湖湖畔に作った安土城に始まると言われます。そして秀吉が大阪城や伏見城を作り、その建築技法は磨かれていきました。
 その秀吉の指導のもと、天守閣は、安土城をモデルに建設されました。構造は変則五角形入母屋づくりです。これを極彩色に塗れば、そのまま安土城、天守になると言われます。岡山城の天守は、明治の破壊はかろうじて逃れましたが、戦災で焼却してしまいました。
 それを昭和39年から 昭和41年にかけて、天守を鉄筋コンクリートで、外観は忠実に再建しました。
岡山城 天守
 岡山城は再建ですが、城の背後の後楽園は、昔のままです。この庭園は、ただただ単に風流を楽しむ庭でなく、防衛拠点でした。池は万が一の場合、濠になり井戸になります。築山は土塁となり、庭園内に植えられた植栽は、有事の際の食物や薬になります。庭園のように作ったのは、謀反の企てなどしていませんというカムフラージュをしての防備の造園だったわけです。
 後楽園からの天守の眺めは、また素晴らしいものがあります。
岡山城 後楽園より見た
 ちなみに、天守閣から黄金の鯱を通して後楽園を見ると。
岡山城 天守閣から後楽園を望む
 その他、少し岡山城を紹介します。
岡山城 廊下門
戦後再建された廊下門。御殿に住む藩主が表書院に降りる際、この櫓を廊下として使ったと言われています。
岡山城 築城当時の石垣
平成5年の発掘調査で発見された宇喜多氏築城時の石垣
石垣らしい石垣として野面積みでしょう。
岡山城 石垣

岡山城、津山城、備中松山城 そして松江城

 私は城下町に生まれ、それもお城の石垣の近くに住んでいたので、石垣にとても愛着があります。と言っても、それほど「城マニア」ではなかったのですが、このところ、江戸城や外濠などを調べているうちに、だんだん深みに入り、とてもお城が好きになりました。
 今回、岡山県の岡山城、津山城、備中松山城、そして、山陰の島根、松江城に行ってきました。桜を観るというのが、一緒に行った連れ合いへの名目だったのですが、4月1週目だったので、桜にはまだ少し早かったです。特に一番桜を期待した津山城は、まだ蕾がかたかったです。
 お城は男性は好きでも女性はあまり興味を持たないようです。出会ったご夫婦も、奥さんが付き合っているという状態でした。「お付き合いで大変です」と話し合っていました。
 天守閣や櫓の建物、石垣、土塁、そしてお濠。とても魅力があります。ここまでよくできたのだと思います。
 そして、その城を中心とした町も好きです。もちろん昔が残っていれば、ですが。
 今回観た城のこと、できればひとつずつ書いてみたいと思っていますが、まず、それぞれの勇姿を観てもらいたいと思います。
▼天下の名園,後楽園が防備している岡山城
岡山城
▼見事な石垣に近年できた備中櫓が輝く津山城
津山城 備中櫓
写真は、備中櫓。備中松山城の高梁と関連のある櫓です。
▼まさに天空の城塞、日本一高い山城の備中松山城
備中松山城
▼南方へ宍道湖を望む華麗な松江城
松江城

松江城と岡山城は、安土城を模している兄弟です。

春が来た 自然教育園の可憐な春の花

白金台の自然教育園に行きました。
やはり、ここはもう春でした。春の花をいくつか。

バイモ(貝母) 別名 編笠百合(あみがさゆり)
バイモという名前は球根が二枚貝に似ていることから付けられ、別名のアミガサユリという名前は花びら(花被片)の内側が綱目模様になっていることから付けられました。球根からは鎮咳・解熱・止血に効用がある漢方薬が作られます。
自然 バイモ(貝母)

キブシ(木五倍子)
春、葉が出る前に総状花序を下垂し、多数の黄色花が連なってつきます。キブシは木五倍子と書きます。五倍子というのはヌルデの虫こぶに含まれているタンニンを染料として利用したもので、キブシの果実を五倍子の代用として利用しました。
自然 キブシ(木五倍子)

アセビ(馬酔木)
馬酔木の字をあてるのは、馬がこの葉を食べると足がしびれて動けなくなるためで、アシビおよびアセビは足しびれの意味だといわれています。江戸時代には、葉の煎汁を冷やして野菜などの殺虫剤に用いたこともあるようです。
自然 アセビ(馬酔木)

ヤマルリソウ
名前は、ルリソウに似ていて、山地に生えることによります。 開花期の葉は小型である。葉は両面有毛で、密に白毛があります。こうした公園でみかけるのは大変珍しです。
自然 ヤマルリソウ

カタクリ
カタクリの一生は、7~8年の1枚葉の時期を経た後、2枚葉の個体となりやっと開花します。自然教育園では、カタクリの花がたくさん見られます。
自然 カタクリ 1
カタクリと言って思い出すのは、万葉集の大伴家持の歌です。(巻十九-4143)

もののふの 八十娘子(やそをとめ)らが 汲(く)みまがふ 
寺井の上の かたかごの花

かたかご(堅香子)とはカタクリの古名です。
自然 カタクリ

「ブラック・スワン」を見ました。

ブラック・スワンポスター
 チケットをもらって、読売ホールで「ブラック・スワン」を見ました。(写真はDVDのカバーですが)
 「白鳥の湖」のプリマドンナに抜擢されたニナというバレエダンサーが、純潔なホワイト・スワンと邪悪なブラック・スワンの二役を演じ必要があるのですが、どうしても邪悪なブラックが踊れません。その絶望と苦悩と焦燥を官能とホラーの描写で描いた作品です。
 ニナを演じたナタリー・ポートマンは、昨年、この作品でアカデミー賞主演女優賞受賞を受賞しました。
 昨年の5月封切りの作品ですね。地震の影響で、見逃した人がいたのか、会場は超満員でした。
「もっと強く、官能的に、リアルに! 情熱的に! 誘惑しろ!」芸術監督ルロイに厳しく攻められます。
 とにかく追い込まれ方がすごいです。
 1人のバレリーナの精神が壊れていく様を、これでもかという、かなりショッキングな描写で描きます。背中から薄気味悪いものが生えてきたり、指と指がひっついてしまったり、鏡のかけらが刺さったり、気味悪い場面が続くのですが、良くできていて、目をふさぐことはありませんでした。
 そして、確かに官能的です。刺激的です。
 身を崩さないと、ブラック・スワンは踊れないのか、と思ったり、よくある構造だよ、と思ったりもしましたが、上手に組み立てられ、豪華にそして繊細に表現されていて、おもしろい映画でした。
 鏡がうまく使われています。写っているはずの自分が別人のように見つめていて、精神のありかたを映し出しています。
 最後に、「白鳥の湖」を踊り終わって、おそらく、鏡の破片が刺さったのでしょう、腹のあたりに血を出しているのですが、助かるのですかね。
 完璧なブラック・スワンを踊りきって、血の広がりは、死とのつながりだったと見るべきなのか、一流になるための、ひとつの儀式で、ここで初めて一流のアーチストになったあかしと見るべきなのか。
 完璧をなしとげて、だから1作でニナというバレリーナは死んでいくのだ、と言う風に私は感じました。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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