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埋め立てられたお濠

 かつて江戸は、水路が巡らされた水の都でした。これはもちろん、当時、輸送の多くは舟にたよらなければならなかったからです。
 家康が江戸に来て、まず作ったのが、和田倉門あたり、今のパレスホテル寄りから道三濠という水路でした。その水路は、今の東京駅北方のJRの線路を越えたところで外濠(呉服橋付近)に通じていました。この水路で、江戸城と隅田川、さら海とが結ばれていたわけです。江戸に入府した家康がまず掘削させたのがこの濠で、築城に必要な物資の運搬に利用されました。またそれだけでなく、葛西権四郎という人が、江戸城御用下掃除人として大奥不浄物を一手に引き受け、道三堀を利用して糞尿を舟に積み込んでいました。そして、葛西の農村部に運び、財を築きました。
和田倉門
 その道三濠も明治42年に埋め立てられ、現存しません。
 とにかく、江戸の水路はなんとか大正の終わり頃までは、船運が輸送で大きな役割を果たしていたこともあり、その存在感を残していました。
 その後、しだいに自動車が普及していき、陸上輸送が物流を担うようになってきます。そうすると、濠や川は次第に顧みられなくなります。
 ゴミが捨てられたりして、水質は悪化し、悪臭を放つことで、いつしか邪魔もの扱いになっていきます。
 そして大戦。東京は空襲で多く焼け野原になります。
 昭和22年に残土整理計画という名の下に、濠は埋め立てられます。
 昭和23年には三十間堀川、東掘留川、龍閑川、新川が、翌年には地下鉄四谷駅そばの上智大学グランドで使用されている真田堀が戦災瓦礫で埋められます(写真は去年サクラの時期の真田濠です)。そして、鍛冶橋下流の外濠、六間堀川、浜町川と、昭和25年末までに次々と埋め立てられていきました。
サクラのころの真田濠
 さらに東京オリンピック。高度成長の中で、ますます、濠は邪魔ものでした。
 一応、濠の埋め立てが止められたのは、飯田濠でした。
 昭和47年(1972)、東京都の再開発事業で飯田濠はごく一部を残して埋め立てられました。この時、濠の埋め立て反対の運動があって、そのことから、「飯田濠の水辺環境の再生を採り入れる」ということになったのだと思います。
 ミニチュアの濠に水が流れる公園になっています。
 今、飯田濠の跡地にはビル(セントラルプラザ)が建ち、ビルの前には「せせらぎ」が整備されています。ただ、この下には水路があり、上流の市ヶ谷堀からの水が神田川に流れていると言われています。
 この飯田濠の上に建っているビルは地区的に面白いことになっています。
 本来、区界は濠の中央にあったため、埋め立てにより、昭和58年(1983)年8月6日付けで区境を変更、飯田濠の南全体は新宿区域、北全体は千代田区域となりました。これにより、濠跡に建設された飯田橋セントラルプラザの2つの建物のうち事務棟が新宿区、住宅棟が千代田区にそれぞれ属することとなりました。
ビルの中の区の境界線
 また同建物内の区境部には、「区境(くざかい)ホール」というスペースがあり、その表示がされています。
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わが家の庭の花

 わが家の庭の枝垂れ梅が散って来ました。
 よく見ると、幹に一輪咲いていました。
 足下には、散った梅の花びらがあります。
庭の梅
 白い椿も今、満開です。
 庭の椿
春はきちんと来ています。

江戸城の濠のこと

地震で壊れた大手門
 昨年の3.11の地震で、皇居も被害にあっています。6月に行った時、大手門の櫓の白壁が落ちていました。今回行った時、そこの修理の工事をしていました。歩くとそういう修理工事の場所がありました。何気なく見ていたのですが、これは天皇陛下が、被災地が大変な時、急ぐことはない、とおっしゃったので、1年すぎた今やっているとのことでした。
江戸城の濠の石垣修理
 大手門の和田倉門寄りの石垣は、震災以前から工事が入っていたようですが、今も継続中です。石垣を1つずつはずしてきちんと番号を打って、保管して工事を進めているようです。
 皇居前の案内を少しさせてもらう機会を持ったのですが、考えていた3分の1も話せませんでした。ひとつは時間が足りませんでした。これは経験不足です。それと、知識が中途半端でした。例えば、濠の話をしたかったのですが、「江戸城の堀の水はどこから来ているのか」これがはっきり分かりません。
 例えば平川のように、江戸城を構築以前からあった川や池などを生かして作った堀では、それを水源にしていたでしょう。でも今はその水源はたぶんほぼありません。
 もちろん、濠の中には人工的に作られたものもあります。そうした濠の水はどうしていたのか、がどうだったかはよくわかりません。
 玉川上水ができてからは、外堀も内堀もその余った水を使っていたということは聞いたことがあります。
 玉川上水が淀橋浄水場からの水になった時も、玉川上水の水路から、余水がお濠に来ていたようです。
 しかし1965年に玉川上水方面から取水していた新宿の淀橋浄水場が廃止されると、細々と続いていた濠への水の流入が止まってしまいます。後は雨が頼りでした。
 そんな状態では、しだに水質が悪化し、悪臭を放つようになってきました。そこで環境庁は1995年に内堀の浄水施設を完成させました。
 馬場先門跡のところで日比谷堀の水を取水し、日比谷公園の向かいの日比谷堀(写真の石垣の角)の所の浄水施設で水をきれいにしています。浄化方法はプラスチック製の濾過材で藻などを除去するというもので、アオコなどの繁殖が旺盛な4月から11月の間、運転しています。
日比谷濠
 浄化された水は導水管を通って、一部は桜田門の裏あたりへ放水し、そして多くは半蔵門まで運ばれ、そこから放水しています。
 なお、日比谷堀には、都の下水道に流れる水の道もあります。
 玉川上水に関しては、江戸城まで来た水は、江戸城の水道になっていたわけではないようです。江戸城では、池に補給されていたというのですから、お濠の水にもなっていたのかなと思います。
 江戸城の濠については、いろいろと調べたいことがあります

阪東妻三郎主演の「王将」を見て

 NHKBSシネマの「山田洋次監督が選んだ日本の名作100本~家族編~」50本が終わりました。後50本は喜劇編のようです。
 家族編は50本、ほとんど見ました。
 その当時に見た映画もありましたし、それ以前、うわさの名作も見ることができました。その時代の雰囲気が感じられて二重に感動することができました。映画館へ行くことが少なくなってしまったのですが、これまでの見た映画の整理という意味でも価値があったと思います。
 最後は、山田洋次監督の「家族」でしたが、その前は、伊藤大輔監督、阪東妻三郎主演の「王将」でした。昭和23年(1948)の作品です。
王将の坂東妻三郎
 阪東妻三郎の「無法松の一生」も好きですが、この「王将」も好きです。
 伊藤大輔監督は、この話、好きだったのでしょうね、7年後に辰巳柳太郎主演で撮っています。他に監督は別ですが、三國連太郎や勝新太郎主演の作品もあります。村田英雄の「王将」は三國連太郎主演映画の主題歌です。
 
 織田作之助の『可能性の文学』(昭和22年8月30日発行) に坂田三吉が出てきます。
 坂田三吉が死んだ。今年の七月、享年七十七歳であった。大阪には異色ある人物は多いが、もはや坂田三吉のような風変りな人物は出ないであろう。奇行、珍癖の横紙破りが多い将棋(しょうぎ)界でも、坂田は最後の人ではあるまいか。
 坂田は無学文盲、棋譜も読めず、封じ手の字も書けず、師匠もなく、我流の一流をあみ出して、型に捉えられぬ関西将棋の中でも最も型破りの「坂田将棋」は天衣無縫の棋風として一世を風靡(ふうび)し、一時は大阪名人と自称したが、晩年は不遇であった。いや、無学文盲で将棋のほかには何にも判らず、世間づきあいも出来ず、他人の仲介がなくてはひとに会えず、住所を秘し、玄関の戸はあけたことがなく、孤独な将棋馬鹿であった坂田の一生には、随分横紙破りの茶目気もあったし、世間の人気もあったが、やはり悲劇の翳がつきまとっていたのではなかろうか。中年まではひどく貧乏ぐらしであった。昔は将棋指しには一定の収入などなく、高利貸には責められ、米を買う金もなく、賭(かけ)将棋には負けて裸かになる。細君が二人の子供を連れて、母子心中の死場所を探しに行ったこともあった。この細君が後年息を引き取る時、亭主の坂田に「あんたも将棋指しなら、あんまり阿呆(あほ)な将棋さしなはんなや」と言い残した。「よっしゃ、判った」と坂田は発奮して、関根名人を指込むくらいの将棋指しになり、大阪名人を自称したが、この名人自称問題がもつれて、坂田は対局を遠ざかった。

 
 これが坂田三吉の本当の現実の姿かどうかはわかりませんが、この文章から見ると、奥さんは坂田三吉が、「関根名人を指込むくらいの将棋指し」になる前に死んだようです。映画は、関根の名人位のお祝いに東京へ行っている時に亡くなります。
 感動を呼ぶ良くできた物語です。実際にいた人物をモデルにしている強みに裏打ちされた物語、その物語に、感動します。
 特に心をうつのは、上記の夫婦愛、家族愛と、もちろん将棋への取り組む姿です。
 「銀が泣いている」という有名な言葉を思い出していたので気にして見たのですが、この映画ではセルフとして出てこなかったように思います。
 でも、有名ですね、「銀が泣いている」。
 もう一度織田作之助の「可能性の文学」です。

 坂田の名文句として伝わる言葉に「銀が泣いている」というのがある。悪手として妙な所へ打たれた銀という駒銀が、進むに進めず、引くに引かれず、ああ悪い所へ打たれたと泣いている。銀が坂田の心になって泣いている。阿呆な手をさしたという心になって泣いている――というのである。将棋盤を人生と考え、将棋の駒を心にして来た坂田らしい言葉であり、無学文盲の坂田が吐いた名文句として、後世に残るものである。この一句には坂田でなければ言えないという個性的な影像があり、そして坂田という人の一生を宿命的に象徴しているともいえよう。苦労を掛けた糟糠(そうこう)の妻は「阿呆な将棋をさしなはんなや」という言葉を遺言にして死に、娘は男を作って駈落ちし、そして、一生一代の対局に「阿呆な将棋をさし」てしまった坂田三吉が後世に残したのは、結局この「銀が泣いてる」という一句だけであった。一時は将棋盤の八十一の桝も坂田には狭すぎる、といわれるほど天衣無縫の棋力を喧伝(けんでん)されていた坂田も、現在の棋界の標準では、六段か七段ぐらいの棋力しかなく、天才的棋師として後世に記憶される人とも思えない。わずかに「銀が泣いてる坂田は生きてる」ということになるのだろう。しかし、私は銀が泣いたことよりも、坂田が一生一代の対局でさした「阿呆な将棋」を坂田の傑作として、永く記憶したいのである。 

 文中に「娘は男を作って駈落ちし」とありますが、映画では、親の三吉に健気に父に意見をします。とても感動的で、こういう風にみていくと、現実よりやはり物語だな、という気がします。現実は味気ないし、つらいです、

手打ち蕎麦を頂く。

林試の森から、普通の家屋でやっているおいしいお蕎麦屋さんがあるからと連れて行ってもらいました。
 林試の森からどう歩いたのかよく分かりませんが、目黒通りから来ると、油面の交差点から林試の森の入って道沿いに行くと見つかります。近くに元あった競馬場を記念する公園があります。
林試森近く「紫仙庵」門
 手打ち蕎麦「紫仙庵」というお店です。住まいの一郭をお店に改装した感じで、初めて来ると、入ってもイイのかな、と思ってしましいそうです。
 木々がたくさん植えてある庭があり、その庭を左に眺めながら、玄関を入ります。
 部屋は、その庭に臨んであり、掘りごたつ式で大きなテーブルがありました。
 木の部屋で、まるで古民家を移築してきたような趣があります。
 時間はもう1時に近かったのですが、お店はわれわれだけでした。
 私は「辛味大根おろし蕎麦」を頂きました。
林試験の近く 目黒 「紫仙庵」
 少し細めのきれいな麺で、コシがあって、のど越し感も良かったです。まじりっけ無しの十割蕎麦です。
 亭主の宮下和夫さんが、出てこられ、お庭の木の話など聞きました。
 宮下さんのお母さんが、目黒不動さんの植木市で購入してきたものを、端正に育てて来たとのことです。こつこつと丹誠込めて、育てたのだと思います。柚の木には、大きな実がたくさんなっていましたが、その実はお店で使われるようです。
 ずっとここに住んでおられるので、子どものころ林試の森で、クワガタやカブトムシを捕った話も聞きました。そのころは林試の森は林業試験場で、入ることはできないようワイヤーで囲まれていたそうなのですが。
 宮下さんは、広告代理店に勤めておられ、57歳で脱サラをされ蕎麦屋を開かれました。
 直接聞いたのではなにのですが、連れて行ってくれた人が、「この蕎麦屋を拠点にして、コミュニティを作りたい」という意志を持っておられるようです。
 お蕎麦を食べるには、お店の雰囲気が大事だと思っています。そういう意味でもとても美味しいお蕎麦屋さんでした。

林試の森で、春はまだですか

 目黒の林試の森に行きました。今年は、寒さが退きません。春はまだ遠い感じです。
 タンポポはロゼットで頑張っています。
林試の森 タンポポのロゼット
 椿は今満開です。
林試の森 椿
 カワヅザクラも満開でした。昨年はもっと前の日にこんな感じでした。
林試の森 かわづさくら
 足下に小さな白い花が咲いていました。
林試の森はこべ
 ハコベです。家に帰って、写真を見たら、花が写っていませんね。花びらは5枚でした。 ハコベと言えばつい口にでるのは、島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」。

  小諸なる古城のほとり
  雲白く遊子(ゆうし)悲しむ
  緑なすはこべ(繁縷)は萌え
  若草も藉(し)くによしなし
  しろがねの衾(ふすま)の岡辺
  日に溶けて淡雪流る
  
  小鳥の餌になるようですね。
  子規の句に「カナリヤの 餌に束ねたる はこべかな」があります。

 ソメイヨシノの開花は今月末ということですが、春満開は、4月にならないと無理のようです。

小伝馬町 江戸の牢屋敷

 小伝馬町へ行きました。伝馬町には、「伝馬」ということの意味で興味があるのですが、今回は、江戸の牢屋敷があったという場所に行きました。
 あいにくの雨の日だったので、きちんと写真におさめられませんでしたが、これはこれで、しっかり見ておきたいな、と思いました。
 江戸の牢屋敷もその一部が、十思公園になっていて、吉田松陰の辞世の歌碑があります。 安政5年から6年にかけて、大老井伊直弼が断行した安政の大獄で、長州藩吉田松陰、越前藩橋本左内などが処刑されました。
小伝馬町 牢跡 松陰の碑
 彫られた松陰辞世の歌は「身はたとひ、武蔵の野辺に朽ちぬとも、留め置かまし、大和魂」です。
小伝馬町 大安楽寺境内
 公園の前に、大安楽寺と日蓮宗身延別院のい2寺があります。
 牢屋敷の総坪数gは、2677坪。中には、何種類かの牢と刑場があり、牢屋敷同心の屋敷などもありました。
 ここの長官は、「囚獄」と言い、代々世襲で、その名前は石出帯刀(いしでたてわき)と言いました。部下として同心58人がいました。

皇居外苑の「楠公銅像」

楠木正成の像 後ろ
 皇居外苑の「楠公銅像」は、団体観光客の人は必ずといっていいほど見ている銅像のようです。しかし、東京に住んでいるとあまり気にしていないように思います。なんでも近くにあるとあまり気にしないものですが。
 「楠公銅像」については、皇居外苑にあるということは知っていましたが、しっかり見たのは、今回が初めてでした。
また、東京に「東京の3大銅像」と呼ばれる銅像があるのも今回知りました。それは、上野公園の西郷隆盛像、靖国神社の大村益次郎像、そして、皇居外苑の楠正成像の3つです。
 西郷隆盛像は時に見ます。大村益次郎像は、見た気はするのですが、どんな像だったか思い出ません。
 一番早くできたのは、明治26年の靖国神社の大村益次郎像です。2番目が明治31年の西郷隆盛像。そして明治33年の楠正成像になります。もっとも、楠正成像は、高村光雲など東京美術学校(現・東京藝術大学)の教授や学生が6年の歳月をかけて、明治29年に完成しています。現在の位置に設置されたのが、その10年後の明治33年ということですから、西郷さんとは、どちらが早いのでしょう。そういえば、西郷さんも高村光雲の作です。
 3つの像について調べれば、いろいろと面白いのですが、今回は2度見に行った、「楠公銅像」のことです。
 楠公銅像は、明治23年(1890)に、住友家が伊予国(現・愛媛県)の別子銅山の開坑200年を記念して、皇室に銅像の献上を願い出、認められたところから始まります。
 像の制作を依頼されたのは、東京美術学校(現・東京藝術大学)です。制作主任は高村光雲です。
 さて何を作るか、住友家からの注文は「銅を使って何かりっぱものを」というということでした。いろいろ検討して、楠正成に決まりました。(どうして楠正成なのか気になりますが)
 ところが、楠正成に決めたのは良いのですが、楠正成の資料はまったくといっていいほどありません。どんな顔をしていたか。着ていた鎧や兜、あるいは太刀、どう作るか、苦労したようです。
 馬もそうです。
どこの産の馬にするか、全国から馬の資料を集めたようです。そして各馬の長所を集めて、しかも死んだ馬の解剖までして、馬を研究しました。その馬を研究し馬を作ったのは、後藤貞行という彫刻家です。
 この後藤貞行という人は、実は西郷隆盛像の、あの西郷さんが連れている犬も作っています。ちなみに、あの犬は薩摩犬で、ツンという名前です。
 西郷隆盛像は高村光雲が作ったと思っていたのですが、それは正しいのですが、犬はちがう人が作っていたのです。
 楠公銅像もそうです。楠正成は高村光雲、馬は後藤貞行です。
 まず原型を木彫で作ったのですね。明治天皇がごらんになるというので、皇居に運ぶのが大変だったようです。なにせ、高さ約4メートルもある大きな像です。
 もっと大変なのは、銅像になってからです。なにせ別子銅山の依頼ですから、たっぷり銅を使い、通常、銅像の中は空洞なのですが、つまっていて、6.75トンもありました。上野から運ぶのに、1週間もかかったようです。
 どんな風に運んだか。運搬はもっぱら夜。台座の下にコロをしいて綱で引くという方法だったようです。
 飾られた銅像、馬のしっぽが下がらずに、横に流れているのはおかしいという声が出ましたが、当時の馬術の名人が同じ格好してみると、馬も銅像と同じ格好になった、ということで、みんなが納得したという逸話も残っています。
 そんなことを、思いながら「楠公銅像」を眺めました。銅像は、さっそうとしていてカッコウイイです。
楠木正成の像 正面側

楠公レストハウスで「江戸エコ行楽重」をいただく。

 楠正成の像
江戸城を散策して、その後、楠正成の像の近くの「楠公レストハウス」で、江戸時代の料理書を参考に、エコ・クッキングのアイディアを取りいれて作られた「江戸エコ行楽重」をいただくというイベントを企画して、その実踏を行いました。
「楠公レストハウス」は、もともと皇居外苑で観光客のためのレストアランとして営業しているのですが、エコな環境にすごく気を遣っています。
そして、江戸時代を模範にした「エコ・クッキング」を取り入れて調理をしたとのが「江戸エコ行楽重」です。
エコ・クッキングと、江戸城・皇居の歴史と自然を学ぶ講座とお食事をセットにしたツアーもやっています。それを少しアレンジして、実施しようというものです。
 「楠公・北の丸レストハウス」統括責任者で料理長の安部憲昭さんにお話をうかがいました。
楠公レストハウス  の安部憲昭料理長
「江戸エコ行楽重」を作るにあたって、注意したと言われる点は下記の通りです。
1. 東京近郊の旬の食材と厳選した調味料を使用
2. 調理法を工夫して省エネに努め、無駄を減らした
3. 使い捨ての容器を使用せず、笹の葉や竹皮を使用
4. 安心安全な食材を使用し、皮ごと丸ごと調理
5. 冷凍食品等を使用せず、レストランで全て手づくり
6. 食べ残しや調理くずは堆肥化し、契約農家へ戻して循環
冷凍食品等を使わずすべてを手づくりするのは、大きなレストランにとってとても大変な作業のようですが、効率よくできる手順を工夫して、冷凍食品などを使って調理した時とあまりちがわない時間で調理できるようになった、と言われました。
「江戸エコ行楽重」の内容は次の通りです。
楠公レストハウス「江戸エコ行楽重」
●味噌汁=江戸時代から続く老舗「ちくま」が造る江戸甘味噌を使ったお味噌汁(蓋をあけてない)。
●とりまんじゅう=国産の鶏ひき肉の中に大豆を入れ、だし汁で煮る。(左上の丸いまんじゅうのようなもの)。
●元祖天ぷら=八丈島産トビウオのすり身のさつま揚げ(江戸時代後期に衣をつけた天ぷらが流行するまで天ぷらといえばさつま揚げだったと言います)(とりまんじゅうとかすてらたまごの間にある)
●かすてらたまご=卵に山芋や小麦粉を加え、カステラのように焼く菊の紋章がつけてある)
●芝エビの天ぷら=江戸前の魚介類に衣をつけた串上げ天ぷらは屋台で売られる庶民的料理だったそう
●五色田楽=ねり梅、白味噌、青菜、ウニ、黒ゴマなどを使用(江戸時代にベストセラーになったという豆腐料理の本『豆腐百珍』にも載っている。)
●魚のすずめ焼き=八丈島産の白身魚に山椒、醤油などをつけて焼き上げた(もともと鶏の焼き物が江戸時代に魚の焼き物に発展。あつまあげのようなもの)
●こおり豆腐=東京産の糸寒天と、国産大豆の豆腐を使用(三角の少し透けた感じのもの)
●おぼろ大根=大根とは思えない意外性のある料理に仕上げました(笹の葉で包んである)
●こんにゃくの煎りだし=こんにゃくをゴマ油で揚げ焼き、熱いうちに唐辛子と醤油に漬け込み、江戸の特徴ある調味料を手づくりした「煎り酒」で味付け
●蒸し羊羹=こし餡にくず粉を入れ、栗をアクセントに蒸しあげる(竹の皮で包んである)
●当座漬け=東京産の小松菜、白菜、かぶなど(江戸時代の食卓の必需品。野菜がみえる)
●煮物=東京近郊で採れた旬の野菜(カボチャ、筍、しいたけ、人参)。(皮つきのニンジンがよく見える)
●季節のご飯=今回はタコ(桜の花びらに似ている)を使った桜飯。お米は栃木産の「なすひかり。
少しずついろいろなものを楽しみながら食べる弁当スタイルは、江戸時代中期に花見や芝居、相撲見学などの携行食としてつくられるようになったそうです
食してみると、見た目以上のボリュームがありました。
盛りつけ方も江戸時代の「様式」を参考にしたんですが、そうするとどうしても品数が多くなって一品が小さくなります。作る方は大変ですが、食べ残しが減るし、咀嚼も増えるという効果があることもわかったと安部憲昭さんは言われます。

ついでに、ちくま味噌について書いておきます。
ちくま味噌は、元禄初年、乳熊屋作兵衛商店として、深川永代橋 にて創業以来300余年を迎えておいます。有名なエピソードは、「忠臣蔵」です。
ちくま味噌の「乳熊屋」の初代作兵衛は風流の道を嗜んだ人で、宝井其角に師事し、赤穂浪士の一人大高源吾とは俳諧の友でした。このよしみで、本懐を遂げ泉岳寺への引上の途路、赤穂浪士が永代橋に差し掛かるや一行を店に招じいれ、甘酒粥を振る舞いました。 その時、大高源吾は棟木に由来を書きとめ残して行きました。これが大評判となり江戸の名所の一つにもなったそうです。

「311東日本大震災 市民のつどい Peace On Earth」

 東日本大震災からちょうど1年となる今日、各地で、いろいろな追悼の集いが開かれました。私は、日比谷公園で開かれた<心ある市民がつどい、被害に遭われた方々を追悼し、これからの未来を共有するため>の「311東日本大震災 市民のつどい Peace On Earth」
に行きました。
ピース オン アース  黙祷
 震災発生からちょうど1年の午後2時46 分、坂本龍一さん、C.W.ニコルさんらと「東日本大震災一周年 追悼の黙祷 」を行いました。(写真は、黙祷直前。手をあげて写真を撮っている人は取材の人。)
 C.W.ニコルさんは、「森、河、畑、湿地、沿岸地域を修復するのは今です。自然と共存する方法を再び学ばなくてはなりません」と語られ、「この1年はいろいろ考える年だったかもしれないが、これからは、行動に移していかなくてはいけない」と言われました。
ピース オン アース  坂本龍一
 坂本龍一さんは今マスコミがしきりに「音楽の力」と言って持ち上げているが、どうもそれが信じられないといったことを話され、それでも、自然から学ぶには「アート」がもつ力を信じたいとも言われました。
 そして、311は多くのことを白日に晒した。見えていなかったこと、隠していたことが見えた、そのことを大切にしていかなくては、と話されました。
 確かにそうだと思います。考える1年は過ぎたのです。大事な2年目です。
 夜テレビを見ると、この集まりには4万5千名の人が集まったとのことです。
 日比谷公園から歩いて、桜田門を見たいと思って行き、ここから半蔵門の方へ歩きました。国会議事堂のまわりでは、反原発の集まりがあり、その団体にどこからかマイクで、「原発反対というなら、電気を使うな!ロウソクで暮らせ!」と怒鳴っていました。
 国立劇場に近づくにつれ、黒服に黒いネクタイの頑強な人たちに出会いました。国立劇場では、政府主催の東日本大震災追悼式があったのです。天皇陛下が出席されました。
 少し歩くと花屋の前に長蛇の列。なにかな、と思ったのですが、帰ってテレビを見ると、国立劇場の追悼に一般の人が入れ、献花ができたのです。

皇居東御苑の梅林坂

 皇居東御苑の梅林坂。皇居東御苑の天守台から宮内庁書陵部の前を通り、平川濠の方へ向かう坂です。。
 文明10(1478)年、太田道灌が菅原道真を祀り、梅樹数百株を植えたのでこの名があるといわれています。
『東亰市史稿・皇城篇』には「権現さま 小田原表より御城に御移り遊ばされ候節……小坂の上に梅の木数多植廻し 其内に宮立両社これあるを御覧遊ばされ 道灌は歌人ゆへ天神社を建置きたると仰せにて残る一社の額を御覧遊ばされ候……御普請の節 北の丸にこれあり候様にと仰せつけられ 右両社の跡 梅の木あまたこれあり 今以て梅林坂と申しふれ候なり」と書かれているそうです。
 大阪城のような梅林ではありませんが、石垣にはえて風情が感じられます。
皇居東御苑の梅林坂の梅
皇居東御苑の梅林坂の梅と石垣

芝公園 銀世界

 新宿角筈、現西新宿三丁目にあった「銀世界」、明治44年、東京ガス株式会社淀橋供給所の所有となり、梅樹は芝公園に移されました。芝公園といっても、当初は、17号地グランドの西だったようですが、道路拡張に伴い、昭和41年に現在地に移されたようです。
 そろそろ梅は咲いたかな、と思って行ってみました。でも、花はまだまだでした。
芝公園 銀世界 全景
芝公園 銀世界 梅の花
芝公園 銀世界碑
銀世界の碑は、琉球人棟応昌が書いたものです。

目黒の庚申塔(大円寺・大鳥神社)

 「行人坂」と呼ばれてる坂を行くと、大円寺(だいえんじ)があります。
 開基はお江戸の元和年間といいますから1615年から24年にかけて大海法印という僧が大日如来堂を建てたことに始まると伝えられています。
 山門を入って左手の崖下に、石仏が幾段にわたって整然と並んでいます。
 この石仏は大円寺が火元とされた明和9年2月29日の明和の大火(行人坂火事)の犠牲者供養のため、石工が50年の歳月をかけて完成したといわれています
 山門のそばに、庚申塔が3基並んでいます。
 寛文7年(1667) 板碑型 文字「爲奉供養庚申塔二世安楽」三猿 
 貞享元年(1684) 笠付型 日月「ウーン 奉供養青面金剛」三猿 
  この庚申塔は側面に「三界萬霊等」「南無阿弥陀佛」と彫られています。
目黒 大円寺庚申塔
三猿は、牡 牝 牡と並んでいます。
 寛文8年(1668) 板碑型  文字「アーンク 奉供養庚申二世安楽祈所」三猿 
 
 次は、お酉さまで有名な目黒区最古の大鳥神社です。
 ここには、庚申塔が4基並んでいます。
 延宝3年(1675) 文字庚申供養塔
 元禄元年(1688)笠付青面金剛
 元禄元年(1688年)の笠付き青面金剛の庚申塔です
 「見ざる 聞かざる 言わざる」に並んでいます。
目黒 大鳥神社 庚申塔1
宝永元年(1704年)307年前の駒形青面金剛の庚申塔です。
 目黒 大鳥神社 庚申塔 2
「言わざる 聞かざる 見ざる」でした

庚申塔のこと

 田道庚申塔群 目黒
目黒を少し歩くと、たくさんの庚申塔に出会います。
 その紹介の前に、庚申信仰と一般的な庚申塔の意味について少しメモしておきます。
 庚申信仰は、中国の道教で説く三尸(さんし)説を母体としています。
 庚申信仰は中国で信仰されてきた「道教」の教えから起こったものです。
 人の体内には「三尸(さんし)」という虫がいて、庚申の日に熟睡していると、その間に天に上って、天帝(てんてい)に報告をするそうです。大きな罪は300日、小さな罪の場合は3日命が奪われる、と言われたりします。とにかく命が縮まるのです。
 それはおおごとです。庚申の日に三尸が天帝の所に行くのを止めなくてはいけません。
 三尸が天帝への報告に行くために人体を抜け出すのは、庚申の日の夜間です。
 そのため、徹夜をして見張ることになります。人々は、呪文を唱えたり茶を飲んだり、歌合わせやスゴロクに興じて、夜を徹します。
 これを「庚申待ち」といいます。「待ち」は「祭(まち)」とも書きます。
 庚申は十干の「庚(かのえ)」、十二支の「申(さる)」が組み合わさった干支です。
 室町時代の中頃から庚申待(まち)が行われるようになり、さらに僧侶や修験者の指導によって「講」集団が組織され、江戸時代になると各地に庚申講がつくられ、その供養のため庚申塔(「庚申待(こうしんまち)供養塔」)が造立されるようになります。
 この庚申塔は、一般的に、60日に一度の庚申待ちを年6回で3年連続して18回実施すると築くことになっていました。庚申の年は60年に一度あり、最近では1980年(昭和55年)が庚申の年でした。
 庚申塔に地蔵堂のような小屋がけをして庚申堂、土盛をして庚申塚、小さな鳥居を立て庚申神社と称すものもあります。
 庚申塔の種類は、仏教系、神道系、それらの習合系、道祖神系などいろいろです。
 最も多く見られる仏教系では、青面金剛(しょうめんこんごう)を庚申信仰の本尊とするものが多く見られます。頭髪を逆立てた怒りの形相(忿怒相)で、身に蛇をまとう鬼神です。
 また、庚申から、申の日の猿ということからか、三匹の猿が登場します。三尸による天帝への報告を阻止する意味で、「見ざる・聞かざる・言わざる」で知られる三猿が庚申信仰に取り入れられ、多くの庚申塔に彫られています。
 庚申塔に彫られるのは、他に、日輪、月輪、鶏があります。
 一般的な配置は、中央に青面金剛、上部に日輪、月輪、下部に三猿そして鶏とされます。
 鶏はどういうわけかと言えば、「庚申は申から酉の日にかけての行事だから、猿と鶏を彫る」ということのようです。
ちなみに、この庚申の日は夫婦が同床してはいけない。ましてや結婚式は挙げない、とされています。

梅は咲いたか

 今年は、新宿中央公園の銀世界の梅の写真を撮りたいと思っているのですが、なかなか咲いてくれません。
中央公園の銀世界蕾
 「銀世界」の梅は、江戸時代、新宿角筈の現新宿パークタワーの所に「梅屋敷銀世界」と呼ばれる場所に咲いていた梅です。一面真っ白に咲き、まるで「銀世界」のようだというのでそうと呼ばれていました。
 この銀世界は、明治41~42年ごろに芝公園に移植されて、その後、新宿中央公園に少し里帰りしました。
 また、新宿パークタワーの元「梅屋敷銀世界」には、銀世界稲荷が祀られていて、そこにもその梅が植えられています。
 今年は梅の咲くのが遅いですね。
 わが家の梅もやっとほころびました。
わが家の梅の蕾

「津山城下町雛めぐり」

津山雛巡りポスター
 岡山県の北の城下町、津山に行っていました。町を歩くと、「津山城下町雛めぐり」のポスターが目にとまります。そして、商店街のお店のウインドウには、お雛様が飾られています。それぞれのお家のお雛様を飾っているようです。
 明治時代のおひな様がやはり目を惹きました。
津山雛巡り 明治44年
 ウインドウをのぞいて、写真を撮らせてもらっていたら、お店から人が出てきて、「ひいおばあさんのものなの。こっちの市松人形は明治13年のもので、それはとても大事にしとったんよ。これがあればおひな様はなくて良いと言って・・・。」と話してくれました。
津山雛巡り 明治13年の市松人形
 この催しは、3月2日からで、私が行ったのは2月28日だったのでまだ準備中でした。メインの会場はまだ雛飾りが出ていませんでした。
 2日から6日まで、とてもにぎやかになるとか。
江戸時代の「津山藩主・松平家に伝わり、家老を務めた山本家が拝領したひな人形」なども展示されるそうです。
津山雛巡り 70年前の御殿飾り
津山雛巡り 男の子のための雛飾り
 上の写真の雛は、男の子ための雛壇だそうです。
 「来てみんちゃい 歩いてみんちゃい 見てみんちゃい」が呼び込みの言葉です。
町をああげての、なかなか素敵なイベントです。
津山雛巡り 商店街

神楽坂散策

 神楽坂に行ってみました。神楽坂のメインストリートでなく、裏の路地を歩いてみようと考えました。神楽坂の持つイメージは、実は裏通りの石畳の路地なのだと思っているからです。
 飯田橋駅を降りて、軽子坂を登ります。飯田堀から荷物を運んだ籠の職人が多くすんでいたところ。神楽坂が急な坂だったので、それより少しゆっるい坂をここに誕生させたのです。
 道の左側を少し登ると、うさぎが杵をついている看板が見えます、なんとかこすめです。そこを左にはいると路地に突き当たります。
神楽坂 かくれんぼ横丁
 「かくれんぼ横丁」です。おもしろい名前です。ここに最初の5つ子の田中さんちの実家がこの横丁にあって、里帰りしたいた5つ子が、かくれんぼをして遊んでいたからこの名前がついたと言われています。そういういわれは抜きにして、おもしいネーミングです。
 黒塀に囲まれたしゃれた食事のお店が並んでいます。
 「千」という店に行くつもりだったのですが、お休みでした。そこで、前に来たイタリアンにしました。
 黒塀を入ると日本庭園風の小さな池に鯉が泳いでいます。そこは5階建てのビルになっています。5階のイタリヤレストラン「神楽坂スタジオ」へ行きました。
 1000円のランチがあり、サラダとピザにコーヒーがついています。これお得です。
 それに、 店の人は、丁寧でとても親切です。気兼ねなく1000円オーダーできます。 
お気に入りのお店です。
 ここは南年か前火事があり、その後、このビルが建ちました。
 お隣の日本料理「千」は、以前来たとき、たまたま表にお客さんを送って出てきていた料理人の人さんが、やさしく話をしてくれたので、一度食べてみようと思ったのですが。
そこはもと神楽坂で有名なおにぎり屋さんがあったそうです。
 古いことを言えば、このかくれんぼ横丁には、かつて「常磐」という料亭があり、泉鏡花が芸者桃太郎こと伊藤すずと運命的な出会いをしました。
 イタリアンでピザを食べ、さっき看板を見たまかないこすめへ行ってみました。
神楽坂 軽子坂のまかないこすめ
 ここは金沢生まれで神楽坂育ちというお化粧品屋さんですが、お菓子のお店もあります。 ここで、桜もちを食べました。お茶が5種類あります。タンポポから作ったコーヒーからびわの葉やチンピなどが入っているお茶、5種類、セルフなので、少しずついただきました。総称して美肌茶というようです。
 ここも店員さんが親切、愛嬌があります。ついつい、買い物もしていまいます。
 ここから江戸時代、本多家の屋敷だったことからその名前が伝わっている本多横丁を通って毘沙門さまの近くに出ます。神楽坂に来れば、やはりお参りしなくては。
 そこかから、前の路地に入ると、兵庫横丁です、兵庫というのは、江戸時代兵器をしまった倉があったとか。今は石畳で、ここは、最もしっくりおちついた神楽坂の雰囲気をかもし出しています。物書き宿の「和可菜」もあります。
 和風だけではありません。屋上で野菜の栽培もしているモダンなレストランもあります。それらがうまくマッチしているのが神楽坂です。
 もう一度表通り神楽坂へ出ました。坂をの登って、売り切れるので有名なクリームパンのお店へ行ってみました。クリームパンが好きで、せっかくだから買って帰ろうと歩きました。
 大きなマンションが建ち、すっかりきれいになった赤城神社の前にあります。
 クリームパン売り切れてなくありました。無理をしないで2つ買いました。会計の時、これ食べてみてくださといただいたのは、かわら煎餅。食べた後、いい感じの甘さが残りました。ここも親切ですね。
神楽坂 赤城神社
 そこから飯田橋に帰りました。途中で五十番の肉まんを買い、坂の下の不二家でペコちゃん焼きも1つ買いました。やはり、神楽坂定番を外すわけにいきません。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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