FC2ブログ

新宿区の「三栄町遺跡」調査中

 四ッ谷駅から新宿通りの右の道、桜美林大学の大学院がある通りを新宿の方へ向かって行くと、三栄町という町に入ります。新宿歴史博物館もこの三栄町にあります。その新宿歴史博物館へ曲がる角の左手に工事中の場所があります。以前、生涯学習館があった場所です。隣の清掃事務所と併せて現在建て替え中です。
 そこが、今、遺跡調査中となって、工事が中断しています。
三栄町遺跡 御府内沿革図書 1757年
工事のしきり板の隙間から、中を覗くと、地面がいろいろ彫り込んでありました。これは江戸時代の遺跡で「地下室(ちかむろ)」と呼ばれるものということでした。
三栄遺跡 発掘中
 新宿歴史博物館が建てられる時も、これより大きな、穴やトンネルが見つかり、江戸時代ここらあたり伊賀者が住んでいたので、半蔵門までトンネルが通じているのではないかと騒がれたものです。残念ながらトンネルはそんなに掘られてはいませんでした。
おそらくそうした地下の穴は、貯蔵のために作られたのだろうということで、地下室と言われています。
 三栄町遺跡の穴は、ものを貯蔵した穴だけでなく、土取り穴やごみ穴、井戸跡も出てきていうようです。工事の囲い壁面に「江戸時代に使われた茶碗や徳利などが多量に見つかった」と表示されています。
三栄遺跡から出た陶器
 三栄町という地名は、昭和18年(1943)箪笥町と伊賀町、そして新堀江町の3つの町が併合してできました。
 伊賀町は伊賀者が住んだ町です。徳川家康の有名な伊賀越えに同行した服部半蔵と伊賀者を江戸入りの時、今の半蔵門屋敷を配慮して住まわせのですが、寛永12年(1635)、ご用地となったので、甲州街道を挟んで北と南に替え地を拝領しました。その北の伊賀者が住んだ町が北伊賀町です。単に伊賀町とも言われます。
 箪笥町は、天正の末、幕府の鉄砲玉薬奉行榊原小兵衛の組屋敷となったことからきています。武器を総称して御箪笥と言い、玉薬奉行の組を箪笥方と言ったことから、この箪笥町の名はきています。
 もう一つが新堀江町です。この新堀江町のところが今、遺跡調査されているところです。
ここは、宝暦7年(1757)、中野村の堀江宇右衛門が、幕府に献上する茄子苗をこの地に栽培したいと願い出て、拝借地として、この地で栽培しました。約100年の間堀江家が管理していました。その後、市街地としたのでこの名前があります。「新」がついているのは、日本橋堀江町と区別するためとのことです。
遺跡調査をしている地点については、工事壁面の案内に次のように出ています。
三栄町遺跡 「堀江文書」にみる調査現地
 「堀江家の由緒などを記した『堀江家文書』には、敷地内の間取りなどが描かれた古地図が添えられています。これによると本調査地点は、敷地北東側に該当し、見張りのための『番小屋』や小作人が利用していた『町並家作地(まちなみかさくち)』の一部に相当します。」
この工事の前は、かつて四谷小学校があり、現在は三栄町公園になっています。このあたりの江戸時代の地図も工事しきりの囲いに貼ってあって、興味深いです。
公園の前の道が、津の守坂通りから四ッ谷駅へまっすぐと延びる道が、公園前あたりで急に突き当たって逸れるのですが、それは江戸の地図にもそのままあります。よくこの道、そのままの形で残ったな、と思います。
スポンサーサイト



「アンダルシア 女神の報復」

 新聞社からサービス切符をもらって「アンダルシア 女神の報復」を見てきました。
 サンシャイン劇場。ひさしぶりサンシャインに行ったのですが、夕方のレストラン階、人があまりいなくて少し寂しかったです。
 劇場に行くと、列ができていました。たくさんの人でびっくりしました。
映画 アンダルシア
 この映画、あまりヒットしなかったと思ったのですが。
 真保裕一の小説が好きで、織田裕二の「踊る大捜査線」はテレビドラマの時から大好きでした。それにテレビドラマの「外交官 黒田康作」も見ていたので、「アンダルシア 女神の報復」を見たいと思いました。
 外交官 黒田康作シリーズ最初の「アマルフィ 女神の報酬」はテレビで見ました。それほど印象に残っていません。テレビドラマの「外交官 黒田康作」は舞台が日本で、展開がわかりやすく良かったです。
今回見た「アンダルシア 女神の報復」は、なかなか楽しく見ることができました。もう少しヒットしてもよかったのに、と思います。
 スペインと、フランス・スペインの境目にある小国のアンドラ公国をメイン舞台に、とある邦人の殺人事件の真相を、黒田康作が究明していくストーリーです。セビリアとグラナダのほぼ中間に位置するらしい、アンドラ公国の街の風景がすごいと思いました。絶壁ですね。こんな場所は、できれば行ってみたいです。
ロンダ Londa
 織田裕二の「踊る大捜査線」シリーズは次回の映画で終わりになるようです。
 「アンダルシア 女神の報復」のシリーズはおそらくないもうないでしょう。
 考えてみると少し残念です。
 織田裕二は「就職戦線異状なし」という映画から見ています。
 同じ真保裕一の小説「ホワイトアウト」の映画、これは小説が好きでものすごく期待したのですが、少しもの足りなくかんじました。期待し過ぎだったかもしれません。「ダイハード」ななみになると思ったのですが。
 最近は、小説を読む余裕がなく、真保裕一の作品も「奪取」で終わっています。
 また、映画館で映画みなくなって久しく、こうして映画館で見ると、やはり映画は、映画館で見ないといけないな、と思います。

まちあるき 「町」と「街」

 まち歩きをよくしているのですが、まち歩きと書くとき、その「まち」を「町」とすべきか「街」とすべきか迷います。だから多くは、ひらがなで「まち」にしています。
歴史博物館で写真家の高梨豊氏の講演会があって、そのなかで「まち」のお話がありました。高梨氏は、『地名論』という写真集を出版されています。
 地名がしだいに記号化され、町の存在感もだんだんと薄れてきた、そこでなんとか記録に残しておきたいという気持ちがあったとのことです。
かつては、町には独特のにおいというか空気がありました。町をはずれると、ずぐ近くでもすっかり違ったものになります。
 都会では、場所性はどんどん希薄になっていきます。
 例えば、待ち合わせの場所も、携帯電話できちんと場所を決める必要はなくなり、渋谷のハチ公も役目がなくなっています。役目が薄れるのは存在感が薄れたということです。
高梨氏は"まち"は、人が住んでいる「町」から、情報を持ち寄り、情報が絶え間なく流れる、そして人も移動する「街」になっていった、と話されました。
英語でいえば、人が住んでいるのは、TOwn、これは町。情報を持ち寄るのはStreetということで、街です。
 なるほど分かりやすいとい思いました。
 私のやりたいまち歩きは、町歩きで、しかし現実的には街歩きしかできない、ということなのだろうな、といったことを考えました。
 『地名論』という写真集、絶版ですが、ぜひ見たいと思いました。
ネットでいろいろ調べていたら、次のような言葉にあたりました。
高梨豊氏は「80年代、東京の街は大きく変わった。『界隈』はおろか、地上げなどで、 町内までもズタズタになった。一九九四年からはじめたこのシリーズは、 「地名」をたよりに始められた。…… 『界隈』を失った東京を『地名』を軸にとらえようとしたもので、 いわば〈面〉から〈点〉への視点のシフトであり。 空間にかわる時間的なアプローチである。マチを水平に歩くのではなく、 地ベタを垂直に歩行するのである。…… 」(『地名論』著者あとがきより)
 地名にこだわって、そこでは、各2つの場所の写真を撮られています。
例えば「淀橋」は、今は橋こそ残っていますが、地名は消えました。
そこで撮影されたのは、「淀橋第三小学校」の校庭と「淀橋会館」の建物です。
 淀橋 「地名論より」  (東京造形大学蔵)
「淀橋第三小学校」の写真をかりて少し説明します。光が逆光になっています。これは大きなビルのガラスの壁面の反射から来ています。「淀橋会館」の写真はありませんが、古ぼけた「淀橋会館」の後ろにこのガラスの高いビルが写っています。
撮影したとき、この2つの点は結びつきましたが、今は「淀橋第三小学校」は廃校になりました。点が結べなくなりました。町が変わったのです。今、元の淀橋の地域を歩くと高層ビルが建っています。まさに街に変わりました。
 「マチを水平に歩くのではなく、地ベタを垂直に歩行する」、歴史的なまち歩きをしているので、私なりにその言葉が、分かる気がします

「えこっくる江東」

 江東区の塩見にある「えこっくる江東」に行ってみました。「えこっくる江東」は身近に感じるごみ処理問題などから地球全体の環境問題まで体感しながら学べる学習施設です。
えこっくる江東 外観
 平成19年2月に誕生しました。
 建物の壁面、ソーラーパネルがいっぱいです(80枚)。屋上にもあります(90枚)。
今、開館5周年アニバーサリーフェをやっています。2月26日まで、エコをテーマに、いろんなことが体験できます。
 「えこっくる」ってなんだろうと思ったのですが、説明では、すべての生きものにとって住み良いエコロジーな環境を作ろうと「エコ作る」という意味がこめられています、ということでした。
 1階の展示室には目で見て環境問題を感じられるパネル展示や、ゲームや、クイズを交えて、環境問題が学べます。
えこっくる江東 食はどこから来ているか
 例えば、食事。ある食事が用意され、それぞれの食材がどこから来たか、国旗が立てられています。食のフードマイレージを考える展示です。
 えこっくる江東 江戸時代長屋の暮らし 水
わりと簡単に作られていますが、江戸時代の長屋の暮らしが紙を素材に作られていて、ボタンを押すと、落語家の柳家さん喬さんが語ります。さすが、うまい、聞きやすいです。
 えこっくる江東 江戸のゴミ 昭和の初めのころのゴミ
その江戸時代と昭和と現在のゴミの状況が一目にわかるようにゴミが展示されています。江戸と昭和は昔あったゴミ箱、江戸時代は少ないです。それも食器類が多いですね。
 丸剤のゴミでは、ごみ分別ゲームもありました。
 色々なタイプのごみを「燃える」「燃えない」「資源」「古紙」など、あてはまると思う場所にタッチ正解だと「ピンポン」はずれると「ブブー」。これ案外楽しいです。良く分かります。プラでも、紙が貼ってあったり、汚れていたら、燃えるゴミです。
 私はとてもよくできていると思いました。
 2階は、企画展示コーナーとかワークショップが出来るスペースとか教室がありました。
 開館5周年アニバーサリーフェでは、「ごみスケ見学」を見ました。
えこっくる江東 清掃車の仕組みを学ぶ
 ゴミの収集車、よく見かけますが、その構造は知りません。どんな形になってゴミぞ積んでいるのか、そして、この車、ゴミの出し方によって危険にあうことがいかに多いか。年に20回ぐらいは清掃車の火事はおきているのだそうです。積むときに砕けたガラスが飛び出すこともあります。作業ストップのスイッチがあちらこちらについています。
 ゴミの問題は深いです。
 建物の前の広場には田んぼやビオトープや、堆肥置き場もあります。
 環境を子どもともに学べるとても良い施設が作られています。

根津美術館 「百椿図 椿をめぐる文雅の世界」

 根津美術館の「百椿図 椿をめぐる文雅の世界」の展覧会が今日までだったのであわてて行ってきました。
 とてもきれいでした。
 百椿図 2巻のうち本之巻 
根津美術館が所蔵する「百椿図」は丹波国篠山藩、後に播磨国明石藩7万石の藩主となった松平忠国(1597~1659)の注文により狩野山楽が描いたとされ、忠国とその子で老中にもなった信之(1631-86)の2代にわたって、それぞれの花に著名人に漢詩や和歌の賛を書いてもらっています。
 百椿図 2巻のうち末之巻(部分)
 賛を寄せたのは49人で、大名としては松平忠国と徳川光圀。ほかに公家の烏丸光広、歌人、俳人の北村季吟や俳人の西山宗因、僧の松花堂昭乗、儒者の林羅山などがいます。
 本之巻の最初には水戸黄門公が「いさはや」という品種に和歌を寄せていました。
 いきなりなじみの名前で、少し驚きました。
 椿の種類もさまざまですが、その椿の描き方もいろいろ工夫してあります。
 扇、天目台、折り紙に載せたり、盃や茶碗などの食器、文箱や硯箱などの文房具、はては聖護院大根に挿してある椿もありました。風呂敷に包んであるのにも感心しました。
百椿図 風呂敷
 案内には、江戸時代のフラワーアレンジメントと記されていましたが、身の回りの品に椿を自由に配してとても面白いです。
 この「百椿図」は、本之巻、末之巻の2巻併せて約24mあり、100種類以上もの椿を描き並べています(絵図は合計68 図ですが、1 図に 2 種類以上の椿を描くものも少なくなく、合計すると 100 種類以上もの園芸品種の椿が登場しているそうです)。
 一部拡げられなかった所がありましたが、ほとんどすべてを見ることができました。
色絵椿輪花向附 尾形乾山作
 あわせて尾形乾山の椿の花びらを器の内外、さらに縁の形状にアレンジした向付なども展示されていました。
 終わって庭を巡ったのですが、椿はまだ咲いていませんでした。今年は、まだまだ寒いです。
根津美術館の庭園

東京都水道歴史館 学習ツアー

 文京区本郷にある東京都水道歴史館で「<館内学習ツアー>と<水の実験>を体験!」という催しがあり、行きました。小学生集まれー!というコピーがありましたが、100人以上の参加で、3分の2は大人、どちらかと言えば高齢の人が多いです。
 3階のホールで浄水場の仕組みのお話があり、水を濁らせ、その濁りを固まらす実験などしました。興味深かっかったのは、水を高い位置に流す仕組みです。江戸時代、神田上水、玉川上水を江戸市内に入れるため、木樋を走らせましたが、どこでも低い位置に土地があるわけでないので、どうしても高い位置に流さなくてはいけません。
 それをどうしたか。
 サイフォンの原理だそうです。
 Wikipedia の説明ではこうです。
 「サイフォン(siphon、ギリシア語で「チューブ、管」の意味)とは、隙間のない管を利用して、液体をある地点から目的地まで、途中出発地点より高い地点を通って導く装置であり、このメカニズムをサイフォンの原理と呼ぶ。発明者は水時計などを作った紀元前3世紀半ばのアレクサンドリアの技術者、クテシビオスではないかと言われている。」
 簡単の言えば、液体がもとの位置より高い地点へ運ばれる仕組みです。これには機密性が必要なのですが、江戸時代、木で、それをやっていたのです。
水道歴史館 サイフォンの原理の実験
水道歴史館 木樋 低い位置から高い位置へ
サイフォンの原理の実験と、千代田区丸の内の旧都庁舎跡地から発掘された木樋です。サイフォンの高所に上げています。手前の木樋は上の板が何枚にもなって隙間がありますが、後ろの高低差のある木樋は隙間がありません。
 東京都水道歴史館は2階が江戸時代、1階が明治以降現代までの「近代水道施設」関連の展示コーナーがあります。
御茶ノ水の懸樋(かけひ)(模型)
水道歴史館 水道橋の模型
神田川に懸けられた懸樋(水道管)=神田上水の水を渡すための水道の橋の模型です。50分の1でできています。写真の左側(現在の文京区)から右側(同・千代田区)に給水されています。現在の水道橋の地名は、この懸樋が由来となっています。左上は江戸で有名だったうなぎ屋さんです。
●上水井戸と長屋(模型と図)
水道歴史館 長屋の上水井戸の模型
水道歴史館 上水井戸の図
江戸の町人の多くは長屋に住んでいました。長屋には必ず共同の井戸が設けられていました。さおつるべで水を汲み上げています。
1階からひとつ。
蛇体鉄柱式共用栓
水道歴史館 蛇体鉄柱四季共用栓
明治から大正にかけて使われた共用栓。口が龍になっていますが、龍は蛇が大きくなったものと考えて蛇の名がついたようです。じゃぐち(蛇口)の名前のゆかりはここから来ています。
▼そして、今回初めて知ったのですが、館の裏側にあたる位置に石樋がありました。昭和62年から平成元年にかけて、文京区本郷で発掘された神田上水の石樋を、移築・復元したものだということです。そしてその向こうは本郷給水所公苑になっています。5月になると薔薇がきれいなのだそうです。

「愛染かつら」

 2011年4月から、NHKの衛星テレビで放送されている「山田洋次監督が選んだ日本の名作100本 家族編」をほとんど観ています。
 見た作品もありますが、見たことのない作品もあります。
 その見ていない作品のひとつ、「愛染かつら 総集編」が先の日曜日にありました。
 愛染かつら
映画は見ていませんが、「愛染かつら」の名前はしっかり頭にあります。
 「花もあらしも踏みこえて……」の歌も記憶にあります。
 大ヒットの映画作品だと教えられていました。
 もう30年以上も前になりますが、日本の中心にあたり別所温泉に行った時、北向観音に大きなカツラの木がありました。そこに、川口松太郎の「愛染かつら」のことが記してあり、ヒロインの高石かつ枝が勤めていた津村病院院長の息子、津村浩三と、菩提寺のこのカツラの木の下で永遠の愛を誓ったと記してありました。
 そして、ここが舞台か、と思いました。別所温泉まで来て愛を誓ったのか、と、そう思い込んでいました。
 今回映画を観ると、別所温泉は出てきません。「愛染かつら」は谷中霊園の近くのお寺です。このお寺の名前が聞き取れませんでした。
 ネットで調べてみると、台東区の「自性院」が「愛染かつら」ゆかりのお寺のようです。
 そこには、「愛染かつら」はどうも今は無いようですが。
 自性院は慶長16年(1611)に神田に創建て、慶安元年(1648)に現在の地に移っています。自性院は、愛染明王像で知られ、江戸文化が花開いたといわれる文化文政の頃(1804~30)、おおいに賑わったようです。江戸時代中期頃から愛染明王像にちなんで、愛染寺と呼ばれることが多かったとあります。
 愛染明王は、特に縁結び、家庭円満の対象として信仰されています。
 何年か雨にNHKの大河ドラマになった直江兼続が兜につけた「愛」の字は、愛の字の下に瑞雲が描かれていることなどから、愛染明王の「愛」だと言われています。
 川口松太郎北向観音の信者だったとか、自性院の愛染明王像と本堂前にあった桂の古木にヒントを得たのだとか言われています。桂の樹はハート形の葉を繁らせるのも愛の名前にふさわしいです。
 「愛染かつら」は他にもあるようです。大阪の方にも、後の「愛染かつら」の映画で主演を務めた吉田輝男が植林した桂とか、藤沢市に、第1作の「愛染かつら」で看護婦役で出ていた小暮実千代が植えた桂の木というのがありました。
 小暮実千代がどこにいたのか、後で知ったので、分かりません。
 主題歌「旅の夜風」は作詞が西条八十で、作曲は万城目正です。
 
 花も嵐も 踏み越えて
 行くが男の 生きる道
 泣いてくれるな ほろほろ鳥よ
 月の比叡(ひえい)を 一人行く
 
 津村病院長の長男、津村浩三(上原謙)は、看護婦高石かつ枝(田中絹代)に強く惹かれます。彼は意を決して、ふたりで新しい生活に踏み切ろうと、京都の友人のもとに向かうことにしますが、かつ枝は娘の急病で、新橋駅の待ち合わせの時間に遅れてしまいます。 駅の階段を駆け上がるかつ枝の目の前を、浩三を乗せた列車は立ち去ってゆく。
 ここで「旅の夜風」の前奏が始まり・・・・・・
 と京都が舞台というわけでもないのですが、主題歌は京都です。「旅の夜風」だから良いのでしょう。
 なぜか、この歌記憶にあります。

正受院の針供養

 今日2月8日は、針供養の日です。
 針供養は、折れた縫い針を供養し、近くの神社に収める行事です。主に淡島神社(粟島神社)または淡島神を祀る堂(淡島堂・粟島堂)がある寺院で行われます。
 東京では、浅草寺の淡島堂が有名です。
 淡島堂の祭神は、淡島明神で、この淡島明神は、女性の病を癒し、女性の持つ苦しみを救済してくれる神様と言われます。
 そういうことで、女性の仕事だった針仕事に結びつき針供養の神様になったのかもしれません。
 針供養は、2月8日か12月8日に行われます。
 関東地方では、だいたい2月8日です。関西地方や九州地方では12月8日が一般的でしたが、大阪天満宮では2月8日というように、必ずしも一定していません。
 淡島神社と関係なく、針供養が行われるのが、新宿の正受院です。
 今日行ってきました。
 残念ながら、大法要がある午後1時は他の用事があって、しかたなく午前中に行きました。
 今日は、奪衣婆像、正受院の綿のおばばさんの扉も開いていました。
正受院の綿のばば
 正受院の針供養は、昭和32年に東京和服裁縫協同組合がここの境内に針塚を作り、それ以来行われるように成ったようです。
 なぜここに針塚を作ったかと言うと、綿のおばばさんがいたからです。
 奪衣婆像のことは以前書きました。
 奪衣婆は、三途川(葬頭河)にやってきた亡者の衣服を剥ぎ取る老婆のことです。
 受院の奪衣婆像は、咳止めや子どもの虫封じに霊験があるとされ、お礼参りには綿を奉納する習慣があったことで、綿をかぶっています。それで綿のおばばと呼ばれます。
 午前中でしたが、多くの人がお参りに来ていました。
 大きな豆腐に針がさされます。
正受院 豆腐にさされた針
 午後から行われる、「御練り行列」のために衣装を着ている娘さんたち。
 今日は観られませんでしたが、こうした衣装をまとった8名ぐらいの娘さんと 覆子(ふくす=古式のマスク)をした男性が、小さな奪衣婆を安置したお厨子を担いで、お寺を1周したあと百味香を供えて針塚の前での大法要となります。
 正受院のお練りの人たち
着物の形のお札も売られていました(1500円)。
正受院 着物の形のお札

稲荷鬼王神社の豆まき 「福は内、鬼は内」

 歌舞伎町の稲荷鬼王神社の豆まきへ行きました。
 承応2年(1653)、大久保村に福を招く稲荷神社が建てられたのがはじまりと言われます。その後、天保2年(1831)に紀州熊野より、鬼王権現を勧請して、鬼王神社が合祀され「稲荷鬼王神社」と呼ばれるようなりました。
 この稲荷鬼王神社では、祭神が鬼王権現であることから、節分追儺式の豆まきのときは「鬼は内、福は内」と唱えて行われるというので、一度行ってみなければと思っていました。
 あちらこちらで追い出される鬼を、この神社では迎え入れるとも言われています。
 午後6時からということで5時半ごろ行ったのですが、もう列ができていました。後ろの方に並んで、始まりを待ちました。かがり火がなんとか見えます。
 6時、はっぴをまとったおたくさんの人が社殿に入っていく姿が観られました。何か説明をしているようですがよく聞こえません。列は動きません。
 そのまま待っていたのですが、前方では、儀式が進んでいるようです。これでは何で来たか分からないと、横から少し前の方に行って写真を撮りました。暗がりではっきりとは写っていません。
 最初社殿の中で豆がまかれ、それから戸口に来て、外に向かって豆をまきます。
 「福は内、福は内」と聞こえてしまうのですが、やはり「福は内、鬼は内」と唱えているようです。「うち」の響きが、「鬼」を隠してしまうような気がしました。
稲荷鬼王神社 豆まき
稲荷鬼王神社 かがり火
 そして、この豆をまくはっぴの人たちは、年男・年女だそうです。
 豆まきの最前列は、年少の年男・年女の子どもたちでした。
 かがり火を焚いての豆まきは風情がありました。
 列はほとんで動きません。行儀が良いです。
 ここでは、撒いた豆は拾わないで下さいということのようですから、豆をまいても拾いにはいけないです。
 そうした儀式が終わると、列の順番に「福袋」をお土産にくださいました。いただいて、裏側から帰るのです。
稲荷鬼王神社 福袋をいただく
  みなさん、この福袋をいただきに並んでいたのですかね。
 帰って福袋開いてみると、豆・みかん・インスタントラーメン・ティシュ・バッジ、エコバックなどが入っていました。
稲荷鬼王神社 福袋の中身
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR