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1月の日記 1月に観た展覧会、聞いた音楽

 早いもので、1月ももうすぐ終わります。
 昨日の日曜日は、区のセンターで開催されたニューイヤーコンサート「魅惑のタンゴ」を聴きに行きました。出演は若手のグループ、早川純とTango Azulでした。結成して初の記念すべき公演ということでした。
 タンゴが好きで、申し込んで、抽選にあたり、聴くことができました。
 考えてみると、今月は展覧会とか公演とかにけっこう行きました。そのことをこのブログに書いていません。日記がわりという意味を持っているので、記録すべきだったなと素少し悔いています。
 まず、正月3日の日本橋高島屋の「満福寺開創350年記念隠元禅師と黄檗文化の魅力」に行きました。煎茶道、普茶料理で知られる黄檗文化、若沖の絵画や、きらびやかな韋駄天の像など、見所がたくさんありました。
 続いて、10日に三越で「生誕110年記念荻須高徳展」を観ました。佐伯祐三と同じくパリの街角を描いたことで知られる作家です。観光名所でない街角を描く、そこになんとなく人間のぬくもりが感じられて、とても引き込まれます。ベネチアの街並みもありまいた。そして、見逃せないと思ったのは肖像画でした。きれいの描くのでなく、精神面が描かれてすばらしかったです。
 21日、西武線下井草から歩いてちひろ美術館にも行きました。ここでは、特別展示の「谷川俊太郎と絵本仲間たち」がよかったです。堀内誠一、長新太、和田誠といった創作活動が感じられる展示で、なかなか前に進めませんでした。堀内誠一という人の名前はなんとなく知っていましたが、ここまで大きな人だったことは知りませんでした。伊勢丹から出て、たくさんのヒット雑誌に関わり、後進を育てた人だったのです。イラストも幅広いです。美術館にあった、『雑誌づくりの決定的瞬間堀内誠一の仕事』といいう本がほしくなりました。
 22日は、江戸東京博物館の「平清盛 特別展」に行きました。大河ドラマの宣伝だろうとそれほど大きな期待はしていなかったのですが、厳島神社の国宝平家納経はじめ、同じく国宝の伝源為朝所用の鎧など、まさに「至宝」が並んでいました。まことに小さい国宝古神宝類のうち「檜扇」はそこに描かれた絵は、人間業とは思えないものでした。
 それから、これも21日、ちひろ美術館の後でしたが、新国立劇場中ホールへ新作オペラ「高野聖」にも行きました。舞台設定が見事で、妖艶な魅力を満喫しました。
 それぞれに感動をしたのですが、しっかりとその内容が書けない。どう感動したか文章にできない。そのことをしきりに考えました。
 例えば、「平家納経は」、本当にすばらしいと思うのですが、どうすばらしいか、そのことが表現できません。
 オペラも書けないですね。泉鏡花の原作も読んでいないし、無力です。
そんな風で、せっかく、素晴らしい展覧会や発表を聞いたのですが、ブログが滞ってしまいました。
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「植物の冬越し」

 28日に、小学校でイベントがあり、植物がどう冬越しをするかというテーマで、冬芽の観察とロゼットのことの展示説明をしました。
町の先生 冬芽観察の案内
 冬芽は、樹木が葉を落としてしまうので、固定してしまうことがむずかしくなり、花や葉の芽を冬芽で固定します。枝先などについている小さな芽で、その中に春咲く花や葉が格納されています。
 ロゼットは、八重咲きの薔薇を連想させることから、「ロゼット」という名が付いていて、越年草などの冬越しの姿として見られます。葉をいっぱいに拡げて、省エネで冬をやり過ごす植物の冬越えの姿、けなげです。
 対象はほとんど小学生だったので冬芽そのものよりも、冬芽のまわりに葉が落ちた後、葉痕がありますが、その姿が、猿や羊などの動物の顔に見えるのでそこが一番興味を持ってもらえます。というよりそこしか注目されなかったです。
葉痕 サワグルミ
「顔は、『葉痕(ようこん)』と呼ばれる部分に現れるものです。葉痕は葉が落ちた後を、枝の内側を保護するコルク層でおおわれています、目や口のように見えるのは、葉に栄養を送っていた『維菅束(いかんそく)』の後です」
 ロゼット ウラジロチチコグサ
「ロゼットとは本来は薔薇の花の形表す言葉ですが、そのために植物の根(根生葉)が平面的状に拡がった様子を言います。」
ロゼット ハルジオン

「歌舞伎町」の歴史

 歌舞伎町について少し整理しておきます。(ウィキペディアの記事等を参考に構成しています)
まず、歌舞伎町の名前の由来です。
 昭和20年(1945)、角筈一丁目北町町会長だった鈴木喜兵衛は、復興協力会を立ち上げて府立五女の跡地を含む一帯を、銀座と浅草をミックスしたような庶民娯楽センターにすべく、歌舞伎場をはじめとして、映画館・演芸場・ダンスホールなどが集中した一大歓楽街を作ろうと計画します。
 区画整理を行い、昭和23年(1948)4月1日、角筈1丁目の北半と東大久保の一部を併せた町域をまとめ、そこを「歌舞伎町」としました。
 名付け親は、都建設局長石川栄耀(ひであき)が「歌舞伎座建設が目的なら歌舞伎町」と提案したことが採用された、と言われています。
 歌舞伎劇場は「菊座」と言う名称で、4階建てで1850名収容のものが計画されていましたが、準備中に金融の困難や大建築物の禁止令が出たりしために実現に至りませんでした。
 そこで次に出されて案が、日米合弁の国際百貨店構想でしたが、それも資金の目安が立たず不発に終わります。
 それで、当時日本各地で開かれていた博覧会を開催することとし、昭和25年東京産業文化平和博覧会を開催します。(開催はしたのですが、当時のお金で6千万円もの大赤字を出してしまいます)。
 そして、その博覧会の施設を娯楽施設に転用して、町が形成されていきました。
 歌舞伎町が、歓楽街になっていったのは、昭和28年(1953)頃からで、昭和31年(1956)に「新宿コマ劇場」開業し、その翌年には新宿追分一帯の賑わいを抜いて、新宿1の繁華街となって行きます。
 歌舞伎座こそ建ちませんでしたが、コマ劇場は庶民娯楽の殿堂として賑わいました。
 ただ、娯楽センターはできたのですが、しだいに風俗産業地帯としての活動が大きくなっていくのです。

年表的に歌舞伎町をまとめてみます。
 
▼江戸時代
 幕府の直轄地や寺領に属しており、歌舞伎町の東部には小禄の武家の屋敷があり、西武新宿駅付近から西新宿7丁目にかけては幕府の調練場(矢場)がありました。
その他は、畑や林が続く村でした。
▼明治18年(1885)品川・赤羽間に開通して新宿駅が開設されます。
▼大正9年(1920)旧コマ劇場を中心として、府立第五高等女学校が建てられた
▼大正14年(1925)新宿駅舎大改装で東口が開かれ、通勤通学が容易になり東口が繁華街化していきます。
▼大正12年(1923)この年、マグニチュード7.9という関東大震災があります。関東一円大災害をもたらしましたが、幸い新宿は被害が軽微で済みました。そのこともあって震災後人々が移住してきて人口が急速に膨張していきます。
▼昭和20年4月と5月の空襲により歌舞伎町一帯は焼野原と化します。
▼終戦後はいち早く、角筈一丁目北町町会鈴木喜兵衛を中心として復興協力会を組織し、区画整理に取りかかります。その時の作りの構想は、アミューズメントセンターを中心とした娯楽街として近代的な商店街を建設しようとするものでした。
▼昭和24年(1949)高田馬場が終点であった西武新宿線が新宿まで延長され、「西武新宿駅」がオープンします。この駅は歌舞伎町の発展に大きく寄与しました。
▼昭和25年(1950)歌舞伎町主催による「東京産業文化博覧会」が、4月から6月まで歌舞伎町を第1会場、新宿御苑を第2会場、新宿駅西口を第3会場として開催されました。それで歌舞伎町の名前が広く知られ、博覧会が終わってからは、博覧会の建物を利用して歌舞伎町の原型が作られていきます。
▼昭和30年(1955)年末に新宿コマ劇場が誕生し、歌舞伎町が現在のような形を整えます。
▼昭和33年(1958)売春防止法の制定と施行によって、従来の繁華街の中心であった新宿2丁目から、より駅に近い歌舞伎町へと人の流れが大きく変わってゆきます。
▼昭和30年代以降
それが昭和30年代中頃から歌舞伎町は、高度成長の波に乗り日本最大の繁華街へと成長していき、日本を代表する繁華街になりました。
しかし、一面で、いわゆる「ニュー風俗店」と呼ばれる店が乱立するようになり、また同時にその頃からアジア系の外国人が増え、歌舞伎町がしだいに「危険な街」というイメージを持たれるようになりました。
<歌舞伎町の現状>
「安全で誰もが楽しめる歌舞伎町にしよう。」という旗印の下、中山新宿区長を会長にした「歌舞伎町ルネッサンス推進協議会」という組織が中心になってイベントの開催や新たな街作りの取り組みをしています。
「歌舞伎町ルネッサンス推進協議会」は、行政機関(新宿区他・関係各省庁)と各事業者・また歌舞伎町商店街振興組合を含む地元商店街に、有識者をメンバーに加えて発足し、平成19年(2007)1月27日に第1回目の会合を持ち、次のような活動施策を行っています。
 ①クリーン作戦プロジェクト 環境美化・安心安全対策施策。
 ②地域活性化プロジェクト  文化の発信・地域活性化・多文化共生施策。
 ③まちづくりプロジェクト  歌舞伎町の現況調査とまちづくり計画の策定施策。
 平成20年(2008)から④喜兵衛プロジェクトも出来ています。歌舞伎町に新たな文化を担う、企業・テナントの誘致を検討しています。
 しかし同じ平成20年(2008)末の「コマ劇場」の閉館や、その後の「シネシティ広場」周辺の映画館の閉館などの影響もあり、最近の歌舞伎町への流入人口は減少傾向にあります。
 昨年(平成23年)の7月に、コマ劇場跡の再開発計画の一部が出ました。それは、ホテルとシネマコンプレックスを核にした、複合ビルを新築するということでした。
 1000室規模の超高層ホテルと約2,500席の観賞環境を整えたシネコンで、歌舞伎町の復興となるのでしょうか。

歌舞伎町弁天堂

 一般的な歌舞伎町の土地のイメージは、旧コマ劇場の前、映画館がまとまったシネマシティ広場あたりだと思います。本来は少し表通りをはずれた飲み屋街が歌舞伎町なのでしょうが。
 歌舞伎町は戦後の町です。江戸時代はいくらか武士の屋敷があり、前回記した蟹川が流れ、そして大きな池がありました。その池は明治時代には、大村邸の池と呼ばれていました。
●大村邸の池
 元コマ劇場のあった場所から南方一帯に、大きな池がありました。
 明治時代、歌舞伎町1丁目のほとんどが、肥前(長崎県)大村藩の殿様だった大村伯爵の土地で、「大村邸の池」と呼ばれ、鴨場となっていました。
 大村邸は明治30年代に尾張屋銀行の頭取峯島喜代女が土地を買い取って、「大村の山」と言われていた森林を伐採し、鴨猟のための池も、淀橋浄水場の開設で掘り上げた土で埋めたてました。それ以後「尾張屋の原」と呼ばれるようになります。
 峯島茂兵衛は、大正9年(1920)に、コマ劇場があったあたりの土地を提供して、ここに東京府立第五高等女学校が開校しました。(昭和11年(1936)、中野区富士見町へ移転して冨士高等学校となります)。

その池のなごりとして、旧コマ劇場の駅側に、歌舞伎町弁天堂が残されています。
西洋のお城の形を形をしたビル(大城ビル)のそばです。
歌舞伎町 弁財天
●歌舞伎町弁天堂
 大村邸の池を淀橋浄水場の残土で埋め立てた時にこんな言い伝えがあります。
 池を埋め立てるとその池に住んでいたのでしょう、無数の蛇が出てきました。
 埋め立てをしていた人夫たちはそれを捕まえ、空き樽に詰めて土中に埋めてしましました。ところがその夜、工事責任者の夢枕に蛇が現れて、その仕打ちを責め立てました。
 そこで蛇の神様である上野不忍池の弁財天を勧請して歌舞伎町弁天を建てたとういうのです。
 しかし、一方で、弁財天はもともと池の浮島に祀ってあった、という説もあります。
 水辺に弁天様は、よくいらっしゃいます。
 埋め立てても弁天様は祀られたのですが、昭和20年(1945)4月、歌舞伎町一帯は大空襲で焼けてしまいます。その時、弁天様は、岡安たか子という人が持ち出していて守られました。それで無事こちらに帰ってきました。
 歌舞伎町弁天堂はは、歌舞伎町の土地の記憶を残す、大事な場所です。

太宗寺 「内藤新宿のお閻魔さん」「しょうづかのばあさん(奪衣婆)」

 1月15・16日に新宿の太宗寺で、閻魔堂の御開扉があるので行きました。
 内藤新宿を歩く上で、太宗寺は外せないないのですが、裏を歩くで今回のコースからは外しました。一度丁寧に拝観したいと思っています。
 太宗寺は、このあたりに太宗という名の僧侶が建てた草庵「太宗庵」がその前身で、その創建は、慶長元年(1596年)頃にさかのぼると伝えられています。
 内藤家も7代清枚以後、歴代当主や一族がここに葬られれ、現在も墓所が営まれています。
また、「内藤新宿のお閻魔さん」「しょうづかのばあさん」として親しまれた閻魔大王と奪衣婆の像は、江戸庶民の信仰をあつめ、薮入りには縁日が出て賑わいました。
 今回は特に、「しょうづかのばあさん」こと奪衣婆の像をそばで拝むことが目的でした。
 奪衣婆は、閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り罪の軽量を計るとされ、この像でも右手には亡者からはぎ取った衣が握られています。
 衣をはぐところに結びつけて、内藤新宿の妓楼の商売神として信仰されていたようです。 奪衣婆の像は、垂れ乳、手には衣装を持ち、立て膝でいるが特色です。
太宗寺 奪衣婆全身
太宗寺 垂れ乳
太宗寺 奪衣婆 手に持つ衣装
太宗寺 奪衣婆 膝を立てている
 木造で総高は240cm。明治3年(1870)の作と伝えられます。(閻魔像と同時に昭和8年に改作されているかもしれません)。閻魔様にもご登場いただきます。
太宗寺 閻魔大王
木造で総高は550cm。文化11年(1814)の制作と伝えられますが、関東大震災で大破し、昭和8年に作り直されました。

歌舞伎町へ

新宿遊歩道公園の「四季の道」を出て、いよいよ歌舞伎町に入ります。
その所に新宿区役所があります。
そこで少し休憩です。
まわりのこと少し記しておきます。
●新宿区役所
昭和22年(1947)3月15日新宿区発足時は、箪笥町の旧牛込区役所の建物が新宿区役所だった。昭和25年(1950)淀橋第五小学校の再建用地だった現在地に移転。昭和41年(1966)10月、新庁舎を建て現在に至っています。
新宿区役所

●花道通り
新宿区役所の前をもう少し北の方に歩くと「花道通り」があります(すてきな名前です。これは歌舞伎の花道に関連した命名です)。風林火山のビルから大久保病院へ通じる道で、歌舞伎町の中心としてにぎわっている道路ですが、違法駐車による通行の障害が生じていました。そのため、平成19年(2007)、従来は約6mあった車道を3.5mに減らし、歩道部分は左右併せて2.5m拡げ6.5mにして違法駐車ができないようにして、スムーズに車両が通行できるようにしました。
●蟹川の流れ
 この「花道通り」は蟹川の河道を暗渠にしたもので、水源は大久保病院のところにあった遊水地でした。この川がこの先の明治通りを越え、新宿文化センターのあたりから、戸山公園へ向かい、そこから早稲田大学を過ぎ、地下鉄の江戸川橋駅あたりで神田川に合流していました。そして「四季の道」もかつては蟹川の支流の河道でした。

新宿ゴールデン街

 新宿ゴールデン街について知るのに、渡辺英綱著『新編・新宿ゴールデン街』(2003発行 ラピュタ新書 フュージョンプロダクト)をたよりにしています。渡辺英綱氏は「週間読書人」から紀伊国屋書店の創業者田辺茂一氏などの後ろ楯を得て、新宿ゴールデン街に「ナベサン」という店を出していた人で、晶文社から新書でない『新宿ゴールデン街』も出しています。(信頼がおけると思います。晶文社の本はぜひ見たいと思っています)
『新編・新宿ゴールデン街』に次のように書いています。
 「ところで、『新宿ゴールデン街文化』とはなにかといえば、それはたぶん、学者、作家、詩人、映画.演劇・マスコミ関係の人たちへの開かれた『場』のかもしだすものとしてあるのではなかろうか。
 もとより、呑み屋に文化が詰まっているわけではない。ゴールデン街では昔の吉原とは違った形で270軒余の呑み屋が密集することによって、文化を担う人々の憩いの『場』を提供しているということなのである。」
 「2000年の暮れ頃からゴールデン街にも世代交代の"新風"が吹き始めた。それは身内の側から見れば、私たちが一番恐れていた自然崩壊という現象であった。それは隣近所の店を不動産屋と組んで地上げをした店の経営者の高齢化とそれに伴う後継者不足と、営業者自身の『死』を意味していた。」
しかし、新宿ゴールデン街はしぶとく生き抜いています。
なお、この本にゴールデン街で渡辺英綱氏が出会った作家、詩人、評論家、映画、演劇関係者の名前が出ていますが、数百人に及びます。
青線としての新宿ゴールデン街は、売春防止法施行後は、徐々に消えていき、やがて飲食街という風情になり、現在の「ゴールデン街」と呼ばれる街の形を形成していきます。
そして、この一帯を新宿ゴールデン街と呼んで多くの人が知るようになったのは昭和40年代に入ってからです。
 特にその名を知らしめたのは、昭和51年1月14日、佐木隆三が『復讐するは我になり』で直木賞を受賞することが決定した夜8時以降とからだということです。
佐木隆三は新宿ゴールデン街によく出入りし、連日飲み屋をハシゴしていたようで、当時のマスコミは「新宿ゴールデン街に直木賞作家誕生」と大きく報道しました。
学者、作家、詩人、映画.演劇・マスコミ関係の人たちが集まる場所として注目されたのです。
もうひとつ、嵐山光三郎氏の『東京旅行記』(光文社文庫)から、新宿ゴールデン街の所を少し引用してみます。
「ゴールデン街は、もともと露天商と飲食店の闇市だった。昭和25年には、米兵相手の私娼窟となり、非公認の青線だった。売春防止法が施行されてからは、約250軒ほどの飲み屋街。店の広さは1軒が3,4坪だ。地上げ業者がこの地域に攻勢をかけたのは昭和61年のことだった。61年の4月、不審火で7店が焼けた。『たき火(放火)だよ』とひそかにうわさされたものだ。」
「『まえだ』はゴールデン街の文壇バーだ。ケンカの多い店で、ぼくも唐十郎らと何度か暴力沙汰をやった。ゴールデン街は、じつによきケンカをした。ロジで蹴りを入れ、カドで殴り、血だらけで走りまわった。」
米兵相手の私娼窟とありますが、それ専門ではなく、日本人も来ていました。写真で見ると、その風情はずいぶんちがいますが、そういう娼婦もいました。

新宿ゴールデン街  2つの組合

 花園神社、新宿第2庁舎(元第5四谷小学校)、四季の道、新宿区役所と囲まれた、おおよそ1000坪足らずの場所にゴールデン街があります。
 四季の道に面して、お店の案内地図があります。
新宿ゴールデン街マップ
 よく見るとゴールデン街は、2つの組合によってなりたっています。
 この事情は、渡辺英綱『新編・新宿ゴールデン街』(2003発行 ラピュタ新書 フュージョンプロダクト)に出ているので、それによって説明します。
 ひとつの組合は、「新宿ゴールデン街商業組合」で、もうひとつは「新宿三光商店街組合」です。この2つの組合によって商売が営まれているのが、一般に言うところの「ゴールデン街」です。このふたつ、もともとは、別の形で生まれました。
 「新宿ゴールデン街商業組合」は、もとは「花園街」と言って、初めから「売春」を目的に建設されました。
 一方、「新宿三光商店街組合」は、昔は「三光町」と言い、この三光町は、飲食店営業がその主な目的でした。
 ところが「売春」の花園街は連日に賑わっているのに、一方の飲食店の三光町のお客はまことに少なく、しだいに経営が困難になってきます。
 そこで、「三光町」もやむにやまれず「売春」にその営業を変えていかざるをえなくなりました。
 花園街のお店、売春の営業のその店は3階建てです。
 1階がバーで、椅子の数はおおむね10人程度です。2階が経営者の住居です。
そして3階が、娼婦の部屋でした。
3階には、1畳半ぐらいの部屋が2つあって、部屋はベニヤ板か襖で仕切られ、隣の音はまるごと聞こえて来る状態でした。天井も低く、人が立ち上がると頭がつかえました。
各階にあがる階段も急で、1階から2階への階段は45度。2階から3階へは75度の急な階段でした。
 三光町は、最初飲食店が目的の時は2階建てでしたが、売春の店に変える時に、1階建て増しをしました。花園街と同じく3階建てにしたのです。
面積も違います。花園街は4.5坪。三光町は3.5坪と三光町の方が少し狭いです。
今も、お店の営業こそ変わってしまいましたが、その風情はまだまだ残っています。
ひとつの文化遺産と言えるでしょう。

新宿盛り場今昔 新宿ゴールデン街

 新宿盛り場今昔の続きです。
 花園神社から、新宿第庁舎を抜け、新宿ゴールデン街の看板を左に見ながら、吉本興業の前を通って、新宿遊歩道公園・「四季の路」に入ります。
●新宿遊歩道公園 「四季の路」
 昭和45年に路面電車が廃止になり、都電の引込み線専用軌道敷跡がモザイク状石畳の遊歩道として整備され、樹木や四季折々の草花が植えられて、昭和49年「新宿遊歩道公園四季の路」として完成しました。公園プラス歩道のでどちらかと言えば遊歩道です。
 しばらく行くと、左の新宿ゴールデン街へ入る道に出会います。
新宿ゴールデン街
●新宿ゴールデン街
 昭和21年(1946)1月12日に警視庁は「公娼制度廃止に関する件」という通達を各警察署長宛に出しています。これは、公娼は廃止するが「私娼として稼業継続を許容す」ということで、つまり「公娼の私娼」という形に変わったということを意味します。
 この年の11月には吉原、洲崎、新宿など従来の集娼地域を指定地域として地図上に赤鉛筆の線で囲んだことから公認の私娼地域を赤線地域、公認されていないもぐりの私娼地域を青鉛筆の線で囲んだので青線地帯と言いました。
 戦災で新宿2丁目の遊郭も全焼していました。そのため、赤線として再スタートした当時の娼婦は44名でしたが、昭和26年には459人にふくらあがっています。
 一方、新宿駅周辺には尾津組、野原組、和田組、安田組といった組が開いた闇市が出ていました。それらがGHQの意向により整理・撤廃が始まったのが昭和24年秋です。
 闇市、露店の一部(主として新宿東口前にあった尾津組の「竜宮マーケット」)がこちらに移転してくることになります。(昭和26年暮れごろには都内の殆どの露店・闇市は消えていきます)。ですから、この新宿ゴールデン街は、戦後の混乱期、新宿駅東口に形成された闇市移転から始まったことになります。さらに、同じ時期、新宿2丁目からも多くの店が移ってきています。
 昭和33年に売春防止法ができるまでは、通称「青線」と呼ばれる非合法な売春店が並んでいました。そういう商売をしないと駅から離れていることもあって、商売が成り立たないという事情もあったようです。

日暮里 富士見坂

日暮里 冨士見坂
   あいにく富士山は見えていませんが、日暮里冨士見坂の上からの眺望です。 
 
 谷中七福神巡りで立ち寄った「日暮里冨士見坂」を簡単に載せておきます。
 前に、江戸の街のラウンドマークは富士山だという説を紹介しました。
 京都大学大学の足利健亮教授は「景観から歴史を読む」という本のなかで、『徳川家康は、江戸の街づくりを始めるに当たって、江戸を不死身(=富士見)を目指す場所として位置づけ、都市景観に富士山という100キロメートル彼方の大自然を取り入れようとした。』というような説を立ています。
 それで江戸には富士見坂のように冨士が見える場所が地名として残っています。
 その冨士見坂も現在、実際に都内で冨士が望める冨士見坂は、3箇所だけだと言います。
 なかでも、日暮里の富士見坂は、冬の気候の良いとき朝など綺麗に富士山が拝める貴重な場所です。
 しかし、この東京の原風景とも言うべき富士が望める風景が、失われる事態が生じています。
 この富士見坂と富士山を結ぶ直線上にマンション建設の計画が出ているのです。
 そのビルは、新宿区の大久保3丁目、160メートルのビルです。
日暮里 冨士見坂のビスタライン
 日暮里富士見坂からの富士山の眺望は、東京都選定の残してゆきたい景観としても取りあげられているのですが、計画を途中から変更する決定的な手だてはないとのこと。なんだか残念です。
 地元では、なんとか景観を守りたいということで運動は継続されています。

「浜離宮恩賜庭園」で「放鷹術」の実演を見る

 3日は、「浜離宮恩賜庭園」へ「放鷹術」の実演を見に行きました。
放鷹 鷹匠たち
 「放鷹術」は、「ほうようじゅつ」と読みます。
 江戸時代の鷹狩りに興味を持っているので、ぜひ見てみたと思ったのですが、知識がありません。「ほうようじゅつ」も読めません。ここで、勉強をしたいと思いました。
 歴史は古いのです。中央アジアやモンゴル高原が起源と考えられているようで、日本にも古墳時代の埴輪に手に鷹を乗せたものも存在するということで、そんな昔から入ってきているようです。
 『伊勢物語』や『源氏物語』や『今昔物語』にも出ているというので、一度しっかり調べてみたいと思います。
 「浜離宮恩賜庭園」で行われる「放鷹術」は、皇室の鷹匠の流れをくむ諏訪流ということでした。信州の諏訪大社から伝わる流派とのことです。諏訪大社というのは、なかなか奥が深い神社です。
 「浜離宮恩賜庭園」は、もともと徳川将軍家の鷹狩場だった場所です。6代将軍家宣の頃より将軍家別邸となり「浜御殿」と呼ばれました。明治維新後は皇室の離宮となったため「浜離宮」と称されるようになりました。園内には東京湾から引いた潮入の池が造られかつて鴨猟が行われた鴨場も残っています。
 将軍家の鷹狩場だったゆかりで、こうした、「放鷹術」の実演が開かれるのでしょう。現在実演は正月の2日と3日の2日間だけのようです。
 最初に鷹匠から歴史や組織や着ている衣装などの説明がありました。
 放鷹 鷹匠の衣装
衣装は明治の皇室の時のものを参考にしているそうですが、衣装の説明で印象に残っているのは、次の点です。
●江戸時代から帽子はかぶっていたが、鷹を驚かすまいと、鷹匠は将軍の前でも帽子を取らなかった。それが、鷹匠は威張っているように見られたことがある。
●今かぶっているハンチングは、明治期以降にかぶるようになった。
また、鷹狩りの前に、鷹が環境に慣れるためにまわりをぐるぐる歩きます。それを据え回しと言いますが、先代の師匠は、鷹狩りの前夜に鷹の据え回しを行っていて、警官に挙動不審で何度も詰問されたことがあったそうです。
 演目としてはだいたい次のようなものです。(写真が撮れれば良かったのですが、鷹が素速いのと、見学の席が後ろということもあって撮ることができませんでした。)
放鷹 ①
●据え→水平にした拳にタカを止まらせる。
●振り替え→鷹匠の拳から別の鷹匠の拳へ飛び移らせる。
●渡り→樹に止まったタカを拳に呼び戻す。
●振り鳩→繋いだハト(疑似餌を用いる場合もある)を空中で捕えさせる
●据え替え→鷹匠以外の人の拳に止まらせる。
また、当日は、「浜離宮恩賜庭園」の前にそびえる、地上48階・高さ210メートルの電通本社ビル屋上から、鷹を放すイベントが行われました。放たれたハヤブサは、地上の鳩の姿を確認し、急降下して捕獲するという仕業です。
放鷹 電通ビルの屋上から
放鷹 ねらいをつける鷹

放鷹 獲物を押さえた鷹
終わってから、鷹匠が鷹を腕に、客席のすぐそばまで来てくれました。これは写真が撮れました。
放鷹 鋭い目の鷹

七福神そば

 谷中七福神巡り、谷中銀座で30円コロッケを買って歩きながら食べたのですが、その時は、もう1時半になっていました。
 どこで軽く食べようと、寿老人を祀る長安寺の手前あるそば店、松寿庵に「七福神そば」ののぼり立てられていました。
 ここにしようと入ってたのんだのがもちろん「七福神そば」です。
 おそばに七福神にちなんだ具材が入っていました。
谷中 七福神そば
 えび→恵比寿      おめでたいニコニコ顔のえび
 筍 →福禄寿      頭が長く智恵いっぱいの筍
 のり→寿老人      いつまでも髪黒々とのり
 紅白かまぼこ→弁財天  やさしく美しく紅白かまぼこ
 袋茸→大黒天      福袋をしょっている袋茸
 うづら卵→布袋尊    お腹が丈夫でうつらの卵
 鶏肉→毘沙門天     力強く元気な鶏肉

 美味しかったです。
 ちょうど、私たちの横の席に東京テレビの若手の人が取材に来ていて、七福神そばの映像を撮っていました。7日の放映のようです。
 見られるかな。
 値段も七福神にちなんでの700円でした。
 外に出ると、外に何人かの人が並んで待っていました。

谷中七福神巡り

 今年は七福神巡り、早めに2日に行ってきました。江戸で最も古い七福神といわれている谷中七福神です。
 <谷中>と付きますが、田端・東覚寺から上野・不忍池弁天堂まで、「谷根千」を縦断(JR山手線の内沿いを南北に約 4Km強ということです)のコースです。
谷中七福神 青雲寺 恵比寿神
 朝、準備にてこずって10時過ぎに出て、田端駅から最初の福禄寿の東覚寺へ行き、11時過ぎから、七福神巡りを始めました。
 コースとしては次のとおりです。
 東覚寺(福禄寿)→天王寺(毘沙門天)→修性院(布袋尊)→青雲寺(恵比寿)→長安寺(寿老人)→護国院(大黒天)→不忍弁天堂(弁財天)。写真は青雲寺の恵比寿様です。
 約4キロと出ていましたが、もっと距離あるように感じました。
 途中、冨士見坂を登って浄光寺で六地蔵を見たり、谷中銀座を散策したり、五重塔の跡をじっくり眺めたりして、帰りの電車の御徒町の駅ではもう4時半になっていました。
 谷中銀座では、「後藤の飴」で「ゆず飴」を買い、30円のコロッケ、メンチカツを買いました。コロッケは歩きながら食べました。
 昼食は、松寿庵で、「七福神そば」をいただいたのですが、これは別に書きます。
 谷中七福神のコースは、なかなか素敵です。
 谷中七福神、江戸最古の七福神、およそ250年前に始まったと言われていますが、他の七福神には神社も入っていることがありますが、谷中七福神は寺院だけです。
 「江戸風俗総まくり」に「谷中日暮里に春のあした七福神詣という事ありて今の天王寺の毘沙門天、護国院の大黒天、池之端の弁天、笠森脇の寿老人、田畑の恵比寿、西行庵の福禄寿、日暮里の布袋なり」とあるそうです。
 朱印押印用の七福神の姿と名前が印刷された木版紙は一枚 1,000円で、それぞれのお寺で 200円ずつで、御朱印を捺してもらいました。
谷中七福神 朱印
 この谷中七福神巡りは、谷中銀座を始め、町もなかなか楽しいです。東覚寺から青雲寺に行くまでに、お風呂屋さんがあって、朝早くから営業しているらしくて、こうした風情も下町という感じでいいです。

年賀状 荏原神社と品川神社の龍

 毎年、年賀状は干支に関係したものを取り上げています。このところ、神社と干支がテーマです。今年の年賀状は、干支の辰にちなんで、旧東海道の荏原神社を取り上げました。
荏原神社をお参りすると拝殿の屋根を見上げると、両脇に顔をのぞかせている龍が見られます。
 一昨年、東海七福神巡りをしたとき、屋根から顔を出す龍にびっくりして、印象に残っていました。
 荏原神社は七福神では恵比寿様を祭っています。恵比寿様は大鳥居のかたわらに石像で鎮座しています。ふくよかな笑みをうかべ、大変人気があるようです。
 もともと、この荏原神社は、品川宿の総鎮守でした。神社の前を目黒川が流れていて、その川にかかる橋の一つの名前がそれにちなんで「鎮守橋」と名づけられています。
 創建は古く、和銅2年(709)と言われています。素戔嗚尊を祀り、また雨を司る龍神を祭っているのです。その龍が屋根から顔を出しているのです。
荏原神社の龍
 この社殿は、弘化元年(1844)に完成したとのことです。まわりには、この龍とか、狛犬など美しい彫刻があります。
 特に狛犬は明治中期に作られましたが、狛犬研究家で知られる三遊亭円丈さんが、「美しさでこの狛犬に勝てるものはない」と評価したそうです。
 それと同じように作られた龍も見事です。
雨の神様ということで、祈雨・止雨をつかさどり、つまり農業の神様だったのでしょう。
 いろいろ調べていると、和泉式部の夫婦の仲を取り持った夫婦和合の御利益もあると出ていました。これは、どうかな、と思います。どの夫のことなのでしょう。最初は、和泉守橘道貞と結婚して、小式部内侍を生みましたが、いろいろ恋さたがあって離婚しています。それからもいろいろあって最後は、藤原保険昌と再婚しました。
どうして和泉式部がここに出てくるのか不思議でしたが、「此神は大和国丹生神社と御同体で祈雨止雨の守護神である」ということで、もともとは大和の神様だったのだろうなと思います。面白いので、年賀状にも夫婦和合は入れました。
 もう一つ、京浜急行の新馬場駅近くの、品川神社、東海七福神巡りで最初に回る大黒天を祀る品川神社の鳥居には、これまた見事な龍の彫刻があります。
 品川神社の鳥居の龍
こちらは、北品川の鎮守で、荏原神社は南の鎮守ということで、それぞれ「北の天王」、「南の天王」と呼ばれた、ということで関連があります。
 それで鳥居の龍の写真も入れました。
 新しい年、龍の年、飛躍の年にしたいものです。
 龍のことわざに「龍の雲を得る如し」があります。
 龍が雲を得て天に昇るように、機に臨んで大きな飛躍を遂げるといった意味があるようです。
飛躍の1年にしたいものです。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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