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新宿区の第二分庁舎 :小学校の廃校 吉本興業

花園神社の隣は、新宿区の第二分庁舎です。元四谷第五小学校、廃校になり、第二分庁舎になったわけです。
●四谷第五小学校 
四谷第五小学校の前は花園小学校と呼ばれていました。
明治8年今の新宿1丁目の公有民家で開校し、まもなく太宗寺の仏堂を借りて移りました。 その時の正式な名前は「第一大学区東京府内第三中学区第十六番公立小学花園学校」と、長い名称でした。
明治11年に太宗寺から、当時近くにあった新宿警察署木造2階へ移転します。
 このころ、東京遷都で、明治天皇に随行してきた公家の一部が、内藤邸に住まい、その子ども達が、学習院が若葉町にできる明治23年(1890)まで通ったことで注目されます。
 花園小学校が花園神社の所に移ったのは、明治34年(1901)です。花園神社の敷地2100坪を、東京府が買収して、森林あり、沼あり、田畑ありを整地しました。その時、淀橋浄水場のために掘った土を使いました。
大正9年内藤新宿町が四谷区に編入されたので、高等科を四谷高等小学校に移管し「東京府東京市四谷第五尋常小学校」と改称しました。
 昭和9年には、鉄筋コンクリート造り3階建て校舎に改築しました。野村敏雄『新宿うら町おもて町』によると、このころ1500名の児童がいたとのことです。
 平成7年、学区の商業地化による児童数の激減による学校適正配置により、四谷第七小学校と統合し「花園小学校」となり、この場所の四谷第五小学校は廃校となりました。
 跡地は新宿区の第二分庁舎です。
 そして、平成20年(2008)4月、関西のお笑いプロダクション吉本興業が賃貸で入居します。
 ▼吉本興業が学校跡地を利用するについて、当時話題で、その取材記事のメモがあります。
「昭和9年に建設された建物をそのまま利用した、遊び心溢れるオフィスになっている。もともと教室だった部屋には黒板なども残ったまま、会議室には"○○組"などのプレートがかけられている。また、小学校特有の横に広い造りで、部屋を仕切るドアもなく開放的だ。
 そもそも新宿区では平成17年より、歌舞伎町を新しい文化の創造と発信の街にしようと、さまざまなプロジェクトを進めており、今回の移転もその一環として実現した。東京進出の大型拠点を探していた吉本興業と、校舎の有効利用の道を模索していた区との思惑が一致し、耐震工事など約1年半をかけて今回の移転となった。吉本興業によると、これまでにかかった費用はおよそ10億円。新宿区との契約は10年で賃料は月340万円とのこと。」

新宿は廃校になった小学校が多いです。その活用についての発言も出ています。新宿区区長室特命プロジェクト推進課長(2008年当時)の平井光雄氏の話です。
「他の学校施設活用の例でいうと、西新宿に旧淀橋第三小学校があります。現在、芸能花伝舎といって(社)日本芸能実演家団体協議会に貸していて、地域と協働でいろいろな芸能文化活動をやっています。旧淀橋第二小学校という京王プラザの前にあった小学校跡地は、信託ビルとして活用しています。旧四谷第四小学校は、東京おもちゃ美術館として今年4月にオープンし、広く一般の人に開放しています。
そういったなか、旧四谷第五小学校を単に一民間企業に貸すのはどうかという議論はありましたが、吉本興業さんの場合には、歌舞伎町ルネッサンスへの貢献や、新宿区の大衆文化・娯楽の振興への協力を条件として検討していったわけです。また、建物の耐震工事や設備工事が必要なので、それらを全部引き受けていただけるのであれば区としても歓迎ですというところで、話がまとまった次第です。」
 吉本興業が歌舞伎町にどのような役割を果たしているか、よくわかりません。新宿区が吉本興業と組んで何かしているらしいことは感じられても、大きなブームにはなっていません。
 しかし「笑い」と新宿は、区の方針としてひとつあることは確かです。

 さて、ここから、ゴールデン街へ向かい、歌舞伎町へ入ります。もっと短時間に記入できると思っていたのですが、なかなか進みません。来春の初めは少し別のことを書くとして、その後またこの続きを載せます。
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花園神社

▼花園神社
 花園神社は徳川家康の江戸開府(1603)以前から新宿の総鎮守として重要な位置を占めていました。
 大和国吉野山より勧請した稲荷社で、最初は現在の伊勢丹の付近にありました。その地が寛政時代に旗本・朝倉筑後守の下屋敷として拝領されたため、その代地として現在の地に移りました。
 その場所は、徳川御三家筆頭の尾張藩下屋敷の庭の一部で、たくさんの花が咲き乱れており、その美しい花園跡に移転したので花園稲荷神社と呼ばれたのが社名の由来とされています。しかし、花園社と呼ばれ記録は享和3年(1803)が最初で、それまでは稲荷神社とか、三光院稲荷、とか四谷追分稲荷と呼ばれていたようです。三光院稲荷と呼ばれたのは別当社が三光院であったからです。
この花園神社はたびたび火災にあって焼失していて、復興資金集めの芝居小屋を境内に設け、「三光院芝居」として賑わいを見せていました。(現在も唐十郎率いる唐組の紅テントが公演しています)
その後、大正5年(1916)には「花園稲荷神社」と改名。さらに昭和40年(1965)には境内末社であった大鳥神社(尾張徳川家に祀られていたものと伝わる)を本社に合祀して「花園神社」となりました。
社殿正面の扁額は3つあり、右から「大鳥神社」「花園神社」「雷電神社」と金文字が輝いています。
▼威徳稲荷
 江戸百稲荷の一つ。記録が焼失してなく、詳細は不明。夫婦和合、子授け、縁結びの御利益。巨大な木彫りの男根が置いてあります。
▼威徳稲荷のそばにある石灯籠
 内藤新宿を作った高松喜六が寄進したもの。側面に「願主 高松喜六」とあります。
花園神社 高松喜六寄贈の灯籠
▼「芸能浅間神社」
 祭神は木花之佐久夜毘売で、冨士塚になっています。
 江戸の昔から芝居や舞踊の興行に縁が深かったため、演劇や歌曲など芸能関係の奉納が多いことで有名で、宇多田ヒカルの母親として知られる藤圭子の"♪赤く咲くのはけしの花・・・"で始まる「圭子の夢は夜ひらく」歌詞碑が傍に建っています。
花園神社 芸能浅間神社 藤圭子の歌の碑
 藤圭子の歌には「新宿の女」があります。(石坂まさを作詞 作曲)
 私が男に なれたなら/私は女を 捨てないわ/ネオンぐらしの 蝶々には/
 やさしい言葉が しみたのよ/バカだな バカだな/だまされちゃって/
 夜が冷たい 新宿の女/
こちらの歌碑は、西向天神境内にあります。
▼花園神社を東に出ると、道の向こう側に、花園万頭のお店があります。
 天保5年(1834)創業の銘菓石川屋本舗を前身に、昭和5年にこの地に開業しました。「日本一高い、日本一うまい万頭」が有名です。饅頭1個1銭が相場の時代に2銭の値を付けたのですが、よく売れました。また饅頭は丸いものというイメージの時代に「女の人が口を大きく開けずに食べられるようにと細長い形状にしたアイデアも女性に受けました。

花園神社 お酉さまの話

 ここを歩いた日は、2011年11月3日でした。その前日が花園神社はお酉さまの日。
お店はテントがかけられていましたが、にぎやかな様子が感じられました。
 お酉さまのことを少し書いておきます。
 お酉さまは、もと武蔵野国南足立郡花又村(今は足立区花畑町)にある鷲大明神の近在農民による収穫祭が、酉の市の発端であるといわれています。
 足立郡花又村の鷲大明神は、綾瀬川に面しているため水運が発達していて、酉の日に立つ市には、江戸市中からたくさんの参詣者が来ました。
 その賑わいの大きな要因に、実は、社前で開かれた辻賭博がありました。
 この日には辻賭博が解禁されていたのです。
 しかし安永年間に、賭博の禁止令が出て、その賑わいはしだいに衰微していきます。
 かわって酉の市の盛況は浅草の鷲神社へ移り、最も賑わう酉の市として現在に至っています。
 その賑わいのひとつの要因としてあげられるのが、浅草の鷲神社の東隣に新吉原が控えていたことだと言われます。
 賭博と花街。欲と色、その力は大きいです。
 「新宿」を考えるとき、「色」という面では、避けて通れません。
 しかし、もちろんお酉さまは、それだけで意味を持っていたので、時代が下るにつれ江戸の各地で、酉の市が開かれるようになります。そして今では関東の多くの寺社で開催されています。
 花園神社もそのひとつで、多くの人が参拝し、開運招福・商売繁盛を願い、熊手などを買っていきます。
 新宿では、四谷の須賀神社も有名です。というか、新宿界隈では、須賀神社が中心でした。みんな須賀神社まで来ていたのです。
 花園神社がお酉さまで賑わってきたのは、昭和40年以降です。
 どんどん人が集まり、今では、花園神社境内だけでなく、新宿5丁目交差点近くの靖国通りの歩道にも露店が立ち並びます。

内藤新宿から新宿2丁目へ 明治期から昭和へ

 内藤新宿は、明治維新以後も遊郭としての性格は変わっていません。
明治6年(1873)、「貸座敷渡世規則」が施行され、遊女屋は娼妓に座敷を貸す形での営業が認められる事になり、飯盛女を持つ旅籠は「貸座敷」になります。
 大正7年(1918)、その貸座敷は、警視庁から大正10年(1921)までに、「牛屋ヶ原」へ移るように命じられます。
 移転の理由は、街道沿いに市電の通る所に並んでいて風紀上良くないということと、また、新宿御苑が近いので皇室を考慮して、ということもありました。
 それに、それまでの内藤新宿は、妓楼と商家とが並んでいましたが、それを妓楼だけ一箇所にまとめようという意図もあります。
 ですが、当時53軒あった内藤新宿の貸座敷を移転させるのはたいへん大掛かりなことでした。
 しかし、遊女屋が表通りから少し奥まった場所へまとめられたことで、営業もやりやすくなったようです。それは、文字どおりの『廓』の誕生でした。
 移転作業は大正8年から始まり大正10年にはほとんど終了しました。
 ところが、その大正10年に大火事があり、すべての妓楼が焼失してしまいます。
 しかし、それまでの貯えがあったのか、翌年11年には再建して営業を再開しています。
 火事によって新しく再建された遊郭は、新しい時代に合わせたモダンな建物に変わりました。それに、甲州街道沿いに並んでいた頃は、時代劇のテレビドラマで見られるように「張り店」といって店先の格子の向こうに遊女が座って「お見立て」を待つスタイルをとっていましたが、2丁目移転後はその張り店が禁止となって(禁止令は大正5年に出ていました)、その代わりに写真が飾られるようになります。
 このように建物がモダンに変わり、「張り見世」が「写真」に変わって、江戸から明治にかけての遊郭のスタイルは終焉したのです。
 ところで、大正12年と言えば、関東大震災の年です。
 関東大震災で、旧江戸市内のほとんどの遊郭と私娼街は震災で焼失してしまいます。
 しかし、新宿はあまり被害を受けませんでした。
 そういうことで、新宿2丁目は全盛期を迎えます。
 それは、東京の人口が西へ西へと拡大したことによる新宿駅近くの繁栄、また、サラリーマン層、あるいは学生層の増加などとあいまっての発展です。新宿遊郭はインテリ層やサラリーマンを対象とした「モダン遊郭」として大いに繁盛します。
 昭和に入って新宿の遊郭の女性たちはダンスが踊れ、読書もし、映画もよく見ていて、洋服の着こなしや髪型には最新流行を取り入れていました、それに早稲田の学生の影響があったのか、本箱に「資本論」が紛れ込んだりもしていました。
 しかし、昭和20年(1945)戦災によりまたもや焼失してしまいます。
 さらに昭和21年(1946)、GHQの「公娼廃止指令」により公娼制度が廃止されます。
 ところがどっこい、新宿2丁目は、赤線地帯として生き残り、風俗営業法の許可を受け、特殊飲食店(多くはカフェーの形式)として、昭和33年(1958)の売春防止法施行まで存続することになります
 特殊飲食店(カフェー)は当時の警視庁企画指導の赤線モデルにより、外観は色タイル張り、展開窓と洋式ドアを備えて、1階内部はカウンターに洋酒ビンが飾られたダンスホールといった風情でした。約100軒のカフェーが営業していたようです。

 今は新宿3丁目になっているあたりは、かつての「赤線」のおもかげはありません。
 特色のある建物を見て歩きました。
●どん底
 昭和26年(1951)創業の歌声酒場発祥の店。三島由紀夫など著名人もよく出入りしたと言われます。創業当時の内装外観で営業しています。
●末広亭
 明治30年(1897)創建の老舗の寄席。都内に数少なくなった落語定席の一つで木造の趣のある建物が特徴。
■林芙美子がカカフェーの女給として勤めていたカフェー「金の星」は今の末広亭の並びにありました。

新宿の盛り場今昔  「耕牧舎」から「牛屋の原」

 成覚寺のあたりは、新宿2丁目です。今でも、ゲイの人が多いと、何かとその方面で話題になります。内藤新宿からこの新宿2丁目へ、遊び場・遊郭は移ってきます。
まずは、その前史です。
 成覚寺を出て、靖国通りを花園神社の方へ向かって歩くと、交番があり、明治通りの補助となる道、柳通りと出ている道を越えたあたりに、耕牧舎と呼ばれる牧場がありました。その耕牧舎のことから。
●耕牧舎
 明治21年(1888)から大正2年(1913)まで、新宿2丁目から靖国通りに面して、都営新宿線「新宿3丁目駅」の一帯に、牛を飼育する約3000坪(野村敏雄 『新宿裏町三代記』)の牧場がありました。芥川龍之介の実父新原敏三が経営する「耕牧舎」と呼ばれる牧場でした。
明治20年代後半にできた耕牧舎牧場の全景
              明治20年代後半にできた耕牧舎牧場の全景(新宿区資料室提供)
▼芥川龍之介
 その「耕牧舎」の一隅に2階屋の家がありました。そこへ、明治43年(1910)10月、芥川龍之介一家が、本所小泉町から転居してきました。その年の8月に本所の家が水害に遭い、9月に龍之介が第一高等学校に入学したことによると云われています。
 大正3年(1914)10月田端に転居するまで高校生活をこの家を根柢にして過ごしたようです。
<ちなみに、芥川龍之介と、父親・新原敏三と名前が違うのは、次のような事情からです。 芥川龍之介は、明治25年(1892)3月朔日(ついたち)東京市京橋区入船町(現・中央区明石町)に父新原敏三、母フクの長男として生まれました。しかし、その時父新原敏三は42歳、母フクは33歳の大厄で、その厄年の子であったため、捨て子扱いとして、まず、敏三の旧友の松村浅二郎が拾い親となり、後にフクの実家芥川家に預けられ養子となり、芥川の姓になったわけです。>

▼「耕牧舎」から「牛屋の原」
 牧場といっても乳牛で、牛乳をしぼっていたのですが、臭気がひどいと嫌われ、大正2年に郊外へ出るよう、警察庁令が出て、廃業とします。
 その「耕牧舎」の跡は、「牛屋の原」と呼ばれ、消防の出初め式が行われたり、見世物小屋ができたりの広場になっていました。
 ところが、その「牛屋の原」へ、大正7年(1918)、警視庁の命令により、内藤新宿はすべて、この地に引っ越しをすることになるのです。

鈴木主水・白糸口説

 文久(1860年)のころから、鈴木主水・白糸口説 (くどき)が全国的に流行したようです。
 八木節にあるというのは聞いています。詩人の萩原朔太郎 が「悲しき新宿」(昭和11年)という文章を書いていています。全文載せたいのですが、それはまたにして、盆踊りの歌の所だけ。
 「昔私が子供の時、新宿は街道筋の宿場であって、白く埃っぽい田舎の街路が続いて居た。道の両側に女郎屋が並び、子供心の好奇心で覗いて歩いた。
その女郎屋の印象は、私の故郷上州で唄う盆踊りの歌「鈴木主水(もんど)という侍は、女房子供のあるその中で、今日も、明日もと女郎買いばかり。」という歌の田舎めいた侘しい旋律を思い出させた。」
「萩原朔太郎全集 「廊下と室房」より 
 萩原朔太郎は群馬県前橋出身です
 また、関東だけでなく、広島にも盆踊り扇子踊に「鈴木主水・白糸口説」が歌われているそうです。
 江戸の末期になりますが、行商によってもたらされたとされています。
 「鈴木主水口説き」は、口説き物の代表的なもので、いろんなパターンがあるようです。
 例えば、「御杖祭文音頭」と名付けられて、1段目に鈴木主水の女房のお安が自害するまで、2段目では主水が敵討ちの身であることが明らかとなり、3段目では見事に仇を打ち白糸と心中して果てるという物語になっています。
 仇討ちとなると、完全につくられた物語になります。
 一番オーソドックスな口説きを、少し長くなるのですが、引用させてもらいます。
   
 花のお江戸の そのかたわらに
  さてもめずらしい 心中や話
 所四ッ谷の 新宿町よ
  紺の暖簾に 桔梗の紋は
 音に聞こえし 橋本屋とて
  あまた女郎衆の 白糸こそは
 年は十九で 当世育ち
  あいきょうよければ 皆人さんが
 我も我もと 名指しであがる
  分けてお客は どなたと聞けば
 春は花咲く 青山辺で
  鈴木主水と 云う侍よ
 鈴木主水と 云う侍は
  女房持ちにて 二人の子ども
 五つ三つは いたずらざかり
  二人子どもの あるその中で
 今日も明日もと 女郎買いばかり
  みるにみかねて 女房のお安
 ある日わがつま 主水に向かい
  これさわがつま 主水様よ
 私しゃ女房で やくのじゃないが
  やめておくれよ 女郎買いばかり
 二人子どもは 伊達には持たぬ
  十九・二十の 身じゃあるまいし
 人に意見を する年頃に
  やめておくれよ 女郎買いばかり
 金のなる木は 持っちゃさんせんす
  どうせ切れずに 六段目には
 連れて逃げるか 心中をするか
  二つ一つの 思案とみえる
 しかし二人の 子どもがふびん
  二人子どもと 私の身をば
 末はどうする 主水様よ
  云えば主水は 腹立顔で
 何のこしゃくな 女房の意見
  己が心で やまないものが
 女房ぐらいの 意見じゃやまぬ
  ぐちなそちより 女郎衆が可愛い
 夫が嫌なら 子どもを連れて
  そちの里へと 出て行かしゃんせ
 愛想ずかしの 主水様よ
  そこで主水は こやけとなりて
 いでて行くのが 女郎買い姿
  あとでお安は 聞く悔しさと
 如何に男の 我がままじゃとて
   死んで見せよと 覚悟をすれど
 五つ三つの子に 引かされて
  死ぬに死なれず 歎いて居れば
 五つになる子が 側へと寄りて
  これさ母さん なぜ泣かしゃんす
 気色悪けりゃ お薬あがれ
  どこぞ痛くば さすりてあげよ
 坊が泣きます 乳くださんせ
  云えばお安は 顔振り上げて
 どこも痛くて 泣くのじゃないが
  幼なけれども 良く聞け坊や
 あまり父様 身持ちが悪い
  意見いたさば こしゃくな奴と
 たぶさ掴んで ちょうちゃくなさる
  とても無念な 夫の心
 自害しようかと 覚悟はすれど
  あとに残りし 我が子がふびん
 どうせ女房の 意見じゃ止まぬ
  さればこれから 新宿町の
 女郎に頼んで 意見をしようと
  三つなる子を 背中におぶい
 五つなる子の 手をひきまして
  いでて行くのが さも哀れなる
 行けば程なく 新宿町よ
  店の暖簾は 橋本屋とて
 見れば表に 主水が草履
  それと見るより 小職を招き
 妾はこちらの 白糸さんに
  どうぞ会いたい 会わせておくれ
 アイと小職は 二階に上がり
  これさ姉さん 白糸さんよ
 どこの女中か 知らない方が
  何かお前に 用ありそうな
 会うてやらんせ 白糸さんよ
  云えば白糸 二階をおりる
 妾を尋ぬる 女中と云うは
  お前さんかえ 何用でござる
 云えばお安は 初めて会うて
  妾は鈴木 主水が女房
 お前見込んで 頼みがござる
  主水身分は 勤めの身分
 日々のお勤めを おろそかにすれば
  末はご扶持を 離るる程に
 ここの道理を 良く聞き分けて
  どうぞ我が夫 主水殿に
 意見なされて くださんせ
  せめてこの子が 十にもなれば
 昼夜あずかり なさりょとままよ
  又は妾が 去られたあとで
 お前女房に ならんすとても
  どうぞそれまで 又来たならば
 一度あげても 二度又来たら
  どうぞ意見を して下さんせ
 そこで白糸 初めて知って
  私は勤めの 身の上ならば
 女房持ちとは 夢更知らず
  ホンに知らない ことなれど
 さぞや憎かろう お腹が立とう
  妾もこれから 主水様に
 意見しましょう お帰りなされ
  云うて白糸二階へ上がる
 後で二人の 子どもば連れて
  お安我が家へ 早や帰りける
 遂に白糸 主水に向かい
  お前女房が 子どもを連れて
 私に頼みに 来ました程に
  今日はお帰り 泊めては済まぬ
 云えば主水は ニコッと笑い
  置いてくれよ 久しいものだ
 遂にその日は 居続けなさる
  待てど暮らせど 帰りもしない
 お安子どもを 相手に致し
  もはやその日は 早や明けければ
 支配方より お使いありて
  主水身持ちが ふらちだ故に
 扶持も何も 召し上げられる
  後でお安は 途方に暮れて
 後に残りし 子どもがふびん
  思案しかねて とうわくいたし
 扶持に離れて 永らえ居りて
  馬鹿なたわけと 云われるよりも
 武士の女房じゃ 自害をしようと
  二人子どもを 寝かせておいて
 硯とり出し 墨すり流し
  落ちる涙が 硯の水よ
 涙止めて 書置きいたし
  白き木綿で 吾が身を捲いて
 二人子どもの 寝たもの見れば
  可愛可愛で 児に引かされて
 思い切り刃を 逆手に持ちて
  ぐっと自害の 白刃の下に
 二人子どもは ハヤ目がさめて
  三つなる子は 乳にとすがり
 五つなる子は 背中にすがり
  これさ母さん のう母さん
 こども心で ハヤ泣くばかり
  主水それとは 夢にも知らず
 女郎屋立ち出て ほろほろ酔いで
  女房じらしの 小唄でかえり
 表口より 今もどったと
  子ども二人は 駆け出しながら
 モーシ父様 お帰りなるか
  何故か母さん 一日寝やる
 ほんに今まで わるさをしたが
  ぎ意はそむかぬ ノウ父様よ
 何卒許して 下されましと
  聞いて主水は 驚き入りて
 あいの さらりと明けて
  見ればお安は 血汐にそまり
 俺の心が 悪いが故に
  自害したかよ ふびんな事よ
 涙ながらに 二人の子ども
  ひざに抱き上げ 可愛や程に
 何も知るまい 良く聞け坊や
  母はこの世の いとまじゃ程に
 云えば子どもは 死がいにすがり
  モーシ母さん 何故死にました
 私ら二人は どうしましょうと
  嘆く子どもを 振り捨て置いて
 旦那寺へと 急いで行きて
  戒名貰うて 我家へ帰り
 哀れなるかや 女房の死がい
  菰に包んで 背中に負うて
 三つなる子を 前にとかかえ
  五つなる子を 手に引き乍ら
 行けばお寺で 葬りまする
  是非もなくなく 我家へ帰り
 女房お安の 書置き見れば
  余り勤めの 放らつ故に
 扶持も何も 取り上げられる
  又は門前 払いと読みて
 さても主水は 仰天いたし
  子ども泣くのを そのまま置いて
 急ぎ行くのは 白糸方へ
  さても愚か 主水様よ
 しかし今宵は お帰りなされ
  云えば主水は 其の物語り
 襟にかけたる 戒名出して
  見せりゃ白糸 手に取り上げて
 妾の心が 悪いが故に
  お安さんにも 自害をさせた
さればこれから 三途の川も
  お安さんこそ 手を引きましょうと
 云えば 主水は 暫しと止むる
  俺とお前と 心中をしては
 女房お安に 云い訳たたぬ
  お前死なずに 永らえしゃんせ
 二人子どもを 成人させて
  えこう頼むよ 主水様よ
 云うて白糸 一間に入りて
  数多朋輩 女郎衆を招き
 譲り物とて こうがいやれば
  小春はなぜか 不思議に思い
 これさ姉さん どうした訳よ
  今日に限りて 譲りを出して
 それにお顔も 勝れもしない
  云えば白糸 良く聞け小春
 妾しゃ幼き 七つの年に
  人に売られて 今までここに
 辛い勤めも ハヤ十二年
  勤めましたよ 主水様に
 日頃年頃 懇親したが
   今度わし故 ご扶持も離れ
 又は女房が 自害をなさる
  それに私が 永らえ居れば
 お職女郎の 意気地が立たぬ
  死んで意気地を 立てねばならぬ
 早く其方も 身ままになりて
  妾が為にと 香はな頼む
 云うて白糸 一間に入りて
  口の内にて 唯一言と
 涙ながらに ノウお安さん
  私故にと 命を捨てて
 さぞやお前は 無念であろが
  死出の山路も 三途の川も
ともに私が 手を引きましょうと
  南無という声 此の世の別れ
 数多朋輩 立ち寄りて
  人に情けの 白糸さんが
 主水さん故 命を捨てる
  名残り惜し気に 朋輩達が
 別れ惜しみて 嘆くも道理
  今は主水 途方もなさに
 忍び密かに 我家へ帰り
  子ども二人に 譲りを置いて
 直ぐにそのまま 一間に入り
  重ね重ねの 身の誤りに
 我と我が身の 一生すつる
  子ども二人は取残されて
 西も東も わきまえ知らぬ
  稚な心は 哀れなものよ
 数多心中も あるその中で
  義理を立てたり 意気地を立てて
 心合うたる 三人共に
  聞くも哀れな 話でござる

投げ込み寺 成覚寺 白糸塚

 投げ込み寺は、身よりのない遊女や行き倒れ[などの遺体が放り込まれたことからそれらの寺についた俗称です。
 最も有名なのが、三ノ輪の浄閑寺です。
 ここは、吉原の遊女が病気で死んだ時などに、その亡骸を投げ込みました。安政の大地震(1855年)の時には、特に多くの遊女が投げ込まれました。投げ込まれた遊女の数は、江戸時代に吉原が開業以来25000人に及ぶそうです。平均年齢は21歳ということですからあわれです。
 内藤新宿の投げ込み寺、成覚寺は、明和9(1772)年に新宿遊郭が再興してから大正12(1923)年までの間に死んだ遊女は3000体(2200の説があります)が投げ込まれたと言います。
 規模でみれば、浄閑寺の新吉原総霊塔に葬られている25000人には遠く及びませんが、新宿にも、忌まわしい歴史があったわけです。
 浄閑寺のことは有名で、知っていました。そして、偶然成覚寺を知って、内藤新宿がすごく身近に感じられました。ここにそういう世界があったのだと感じるものが生まれました。
 各地の宿場にも同様の投げ込み寺はあったのです。東京品川の海蔵寺、板橋の文殊など。
成覚寺 白糸塚
 また、白糸と鈴木主人の話は歌舞伎になり大当たしたようです。
 嘉永5年(1852)の江戸市村座初演の3世桜田治助作「隅田川対高賀紋(すみだがわついのかがもん)」です。
 その時の役者2代目坂東秀佳が成覚寺に白糸の塚を作ったということです。
 歌謡では。踊り口説(くど)きなどに今も残っています。
 それは全国的で、今でも盆踊りで歌われることがあるようです。

新宿の盛り場今昔 成覚寺

正受院と並んで、内藤新宿の女郎の投げ込み寺「成覚寺」があります。
■成覚寺
浄土宗の寺。文禄3年(1594)の創建と伝わります。江戸時代、内藤新宿の宿場の飯盛女の投げ込み寺として知られます。

▼子供合理碑
成覚寺 子供合理碑
 「子供」とは遊郭の抱え主が飯盛女を呼ぶときの言葉です。
「江戸時代に内藤新宿にいた飯盛女(「子供」と呼ばれた)達を弔うため、万延元年(1860)11月に旅籠屋中で造立したもので、惣墓と呼ばれた共葬墓地の一角に建てられた墓じるしである。飯盛女の抱えは実質上の人身売買であり抱えられる時の契約は年季奉公で、年季中に死ぬと哀れにも投げ込むようにして惣墓に葬られたという」(新宿区教育委員会掲示)
女たちの待遇は犬猫にも劣る、ひどい取り扱いであった。たとえば、楼主や店主などに酷使されて死んだ女達から、着物をはぎ、髪飾りはもちろんのこと、身につけているすべてのものを取りあげ、ほとんどが、さらし木綿にお腰一枚という哀れな姿で、しかも米俵にくるんで寺に投げ込んだという。その数およそ3000体余りだったといわれ、寺の手がまわりかねるときは、そのまま放置されて鴉が群れをなして、その死体にとびかかり眼玉をつつき、また夜になると燐火がこの寺の名物になっていたといわれていた。この寺の別名を「投げ込み寺」というのはこのような理由からであろう。」(『新宿区史跡散歩』学生社)。
こんな風習は明治30年(1897)頃まで続いたといいます。

▼白糸塚
 塚には「すえの世も結ぶえにしや糸柳」と刻まれ、歌舞伎で市村座が演じ大当たりした遊女白糸と、青山百人組の下級武士鈴木主水との比翼塚です。白糸は古道具屋の娘でしたが吉原に身売りされ、後に内藤新宿の橋本屋に転売されてきました。
鈴木主水は白糸の所へ通い詰めます。鈴木主水の妻お安は、意見をしますが聞き入れてくれません。思いあまって、白糸に直接頼みに行きます。白糸は、お安の気持ちをくんで主水と別れようと決意します。しかし主水は、白糸の話に耳を貸しません。
やがて、このことが藩に知れ、主水は扶持を召し上げられてしまいます。お安は悲しみにうちひしがれ、子どもを残したまま自害してしまいました。
それを聞いた白糸も、お安に申し訳が立たないと自らの命を絶ちます。そして、主水も2人の後を追うように割腹自殺を遂げたのです。
八木節で、次のように歌われます。
 『花のエエ花のお江戸のその町々に、さても名高き評判がござる、ところ四谷の新宿辺に、軒を並べて女郎屋がござる、紺ののれんに桔梗の紋は、音に聞えし橋本屋とて、あまた女郎衆が皆玉濫ひ、中に全盛白糸様は年は19で当世姿、立てば芍薬座れば牡丹、我も我もと名指しで上る、わけてお客のあるその中に、ところ青山百人町に鈴木主水といふ侍は、女房持にて子供が二人……』

▼旭地蔵
 玉川上水に身を投げた情死者の慰霊碑です。寛政12年(1800)から、文化10年(1813)まで18名の名が刻まれています。寛政12年新宿高校付近の玉川上水の川岸に建てられていたものを、明治12年(1879)に現在地に移したものです。

▼春川恋町の墓
 江戸中期の戯作者。駿河小嶋藩松平家の家臣で、本名は倉橋格(いたる)。本では、藩邸が小石川春日町にあったこともあって恋川春町としました。狂歌の名前は酒上不埒。安永4年(1775)刊の『金々先生栄華夢』はベストセラーになり、黄表紙の祖といわれています。
寛政元年(1789)刊の『鸚鵡返文武二道』は大好評でしたが、これが寛政の改革の老中松平定信を批判したと、呼び出しを命じられます。しかし、病を理由に出頭せず、死んでしまいます。一説には、主筋にあたる小島藩に類を及ぼさないため、自らの命を絶ったともいわれています。享年46。墓石の左面に「生涯苦楽四十六年 即今脱浩然帰天 我も万た身はなきものとおもひしか今ハのきハさ比しかり鳧」とあります。

正受院・かめわり坂(瓶割坂)

 花園町商店街から、靖国通りに面した、正受院へ行きました
内藤新宿図
●正受院
 文禄3年(1594)創建と伝わります。浄土宗の寺院です。
▼脱衣婆
 奪衣婆というのは、閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り、その衣装をそばの木に掛け、その枝のしだれぐらいで罪の軽量を計る役割をしている恐ろしい老婆です。
 もっとも、一説には、衣装を木の枝に掛けるのは、賭衣翁(けんえおう)というお爺さんだとも言います。奪衣婆が脱がした衣装をかかえる木は衣領樹(えりょうじゅ)と呼ばれます。衣領樹の木の下に奪衣婆がいて、亡者の衣装をはぎ取り、樹上で待っている賭衣翁に渡して、賭衣翁が衣装の重さを量るのです。
  衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れるとされ、その重さによってこれからの後の処遇が決められるのです
 でもこの賭衣翁の像はほとんど見かけないのだそうで、むしろ、奪衣婆は閻魔と夫婦ではないかと考えられるようになってきました。奪衣婆の像は、片膝を立て、手に衣を握った姿です。
 幕末に、奪衣婆像に関して「正受院に押し入った泥棒を霊力で捕らえた」、「綿に燃え移った火を自ら消し止めた」といった噂が広まり、嘉永元年(1848)の年末から翌年にかけては参詣客が正受院へ押し掛ける騒ぎとなりました。
 それは、歌川国芳などにより、奪衣婆を描いた錦絵が多数発行されたことで人気を呼んだのです。そのあまりの盛況に、寺社奉行が制限を出し、正月と7月16日以外の参詣を禁じました。
ひょうばんのばばや 歌川国芳
▼この寺は毎年2月8日に、針供養を行いますが、その時、15㎝の小さな奪衣婆が輿に乗って登場します。

他にも
▼針塚・小見外次郎翁銅像
 針塚は昭和32年(1957)、小見像は昭和38年(1963)に造立されました。小見外次郎は和裁業界を指導した斯界の最高権威者です。
▼平和の鐘  宝永8年(1711)の鋳造、戦時中に供出し、戦後アメリカに渡ってアイオア州立大学内の海軍特別訓練隊に保存されていて、昭和37年に返還された梵鐘です。
▼戦前まで、戊辰戦争で幕府軍の主役だった会津藩主・松平容保の墓がここにありました(戦後、会津若松市の松平家院内御廟へ移転・改葬されました)。

正受院から隣の成覚寺へ行きますが、その靖国通りの坂はかめわり坂と呼ばれます。
 ●かめわり坂(瓶割坂)
 元厚生年金会館前あたりに瓶割坂があります。昔この坂の東の先に「弁慶橋」があったことによるとあります。
「瓶割」の瓶が腹の意味で、腹が割れるで「お産」を意味しています。義経と北の方の間に生まれた子を弁慶が取り上げたといった伝説があり、弁慶とかめわりの結びついたこの地名は各地で見られるようです。新宿にも義経伝説があったのです。

花園公園・花園東公園

 花園町へ入ると花園公園にあたります。新宿御苑から、この先の花園東公園へと、緑が通じ、いわゆる「風の道」が通じています。
 花園公園は、花園小学校の校庭と一緒になったスペースがあり、学校が使う時は校庭、使ってないと一般市民が使うことができます。
 ここは、江戸時代、二十五騎町だった所で鉄砲隊の与力屋敷がありました。明治になって、三遊亭円朝が居を構えます。
 とてもうっそうとした所だったようです。

●花園公園 三遊亭円朝旧居跡
 明治の落語界を代表する円朝が明治21年から28年(1888~1895)まで住んでいました。野村敏雄著『新宿うら町おもてまち』(朝日新聞)に次のような詳しい紹介があります。

「・・・場末の新宿に家を買ったのは、市中住まいの喧騒から逃れるためだったらしい。新しい住居は地所300坪、建坪60坪で、もとは武士の屋敷か裕福な商人の隠居所だったろうという。屋敷のそばには孟宗竹の深い藪があり、まわりは広い野菜畑だった。
 屋敷内には母家と廊下つづきで庵室のような離れがあった。茅葺で2畳と3畳の2間があり、円朝は円通堂と名づけて居室につかい、奥の3畳間に机を置いて著作をしたという。円朝56歳の新作『名人長二』はこの庵室で生まれた。
 明治28年まで円朝はここに住み、それから新宿新小川町に転居した。屋敷はこのとき売却されたが、買い手は新宿の妓楼の主人で、総額1150円で売れたという。妓楼の名はわからない。円通堂はのちに母家から切りはなされ、独立した建物として他所へ移築されたという。・・・」

 花園公園には、「三遊亭円朝旧居跡」の碑がと新宿区の案内が建てられています。
 碑は、近くの石屋さんが作って寄贈したもので、りっぱです。区の案内はその後に出来たそうです。その石屋さんの家は近くにあります。玄関横に、この地域の地名の変遷が刻めた碑を作っておられます。、

 花園公園を花園小学校を越えて行くと、花園東公園があります。
この公園には、簡単な舞台設定ができるような区切りが出来ています。近所に演劇希望の人が多く住んでいて、夜などレッスンに使っていたようです。
 その花園東公園の北側に「東京市四谷區花園町花園アパート」がありました。

●花園東公園 「東京市四谷區花園町花園アパート」
青山二郎が花園町の花園アパートに引っ越してきたのは、昭和8年9月15日です。
(当時大学出の初任給が50円のころに、母親から500円もの小遣いをもらっていたらしく、母が亡くなって金づるがなくなったからではないかと推測されています)
詩人の中原中也が結婚後、夫婦で初めて住んだのもこの四谷花園アパートです。青山二郎を慕って評論家の小林秀雄もこのアパートの住人になりました。
このほかに、白洲正子、河上徹太郎、大岡昇平なども出入りし、ここを「青山学院」と呼んでいました。
内藤新宿 安政3年(1856)実測復刻江戸図より】

四谷大木戸~二十五騎町へ

 内藤新宿のまち歩きは、四谷大木戸から始まります。
大木戸図
●四谷大木戸跡の碑 (実際は、四谷4丁目交差点中央あたりに位置します) 
 設置されたのは元和2年(1616)のことで、高輪(東海道)とここと2カ所に設けられました。
 道の両側に石塁と木戸を設けて、明け六つ(午前6時頃)から暮れ六つ(午後6時頃)まで通行人や出入り物資を検問し、夜間は木戸を閉ざして通行を禁止しました。
 大木戸は寛政4年(1792)に廃止されます。廃止の理由は世の中の安定とともに、経済の発達による規制緩和、番屋費用の町内負担の問題などが考えられています。

●玉川上水記念碑
 明治28年(1895)に建立されたもので、玉川上水を開いた玉川兄弟の功績をたたえたものです。明治18年日本橋の西座真治が発起人になって建設を進め、その途上、西座真治が死亡したので、10年後に奥さんが完成させました。

●四谷水番所跡
 水門によって給水量の調節、ゴミ類を除去し、満水の時は分水して渋谷川に流していました。四谷地域センターの裏側に、その水路跡が水は流れていませんが残っています。

● 新宿御苑(内藤氏屋敷跡) 
 内藤氏は、忠政のときに家康に仕え、徳川家康直属の家臣でした。
 2代清成は、浜松で家康の小姓として仕え、青山忠成とともに2代将軍秀忠の子守役をしています
 天正18年(1590)5月27日、家康の関東移封が決定すると、内藤清成は関東総奉行として、与力二十五騎と同心百人(鉄砲隊百人組)を率い、甲州道中の調査に当たります。
 国府道=後の甲州街道と鎌倉街道の交差点の一帯に陣地を敷き、武田・北条軍残党の動きに備えました。
 内藤清成は、家康の信任が厚く、慶長8年(1603)布陣していた新宿の地を拝領しました。広大な屋敷内には、百姓を住わせて田畑を耕作し、造園に風流を楽しんでいたようです。その屋敷が現在の新宿御苑です。
 内藤家は、明治5年(1872)9月、所有地を国に上納し、当時の大蔵省所管となり、農事試験場が置かれ、いろいろな農業の実験が行われました。しかし、場所が内藤新宿といわば、遊郭の近くにあることで、農事試験場は明治7年、駒場に移ります。
 明治12年(1879)から宮内省の所属になって「新宿植物御苑」となりました。
 明治38年(1905)5月、日露戦争勝利を記念した凱旋将軍の歓迎会が開かれ、明治天皇も行幸され、この時「新宿御苑」となりました。

●甲州街道・二十五騎町 花園町 新宿一丁目 徳川家康は天正18年(1590)江戸入府に際して、すぐに武田氏・北条氏の残党が西部から侵攻することを予想して、内藤清成に四谷口、青山忠成に青山口の防備に当たらせています。内藤清成はその時、先にも記したように与力二十五騎と同心百人を預けられました。(鉄砲隊百人組は、伊賀組・根来組・甲賀組・二十五騎組の4組から成っていました。内藤清成の鉄砲隊隊は伊賀組です)。
 甲州街道は、もともとは、徳川家康が江戸に入るにあたって、江戸城が攻められた際、親藩である甲府までの避難路として使用することを想定して造営された街道です。
 その甲州街道の第一の宿として元禄11年(1698)6月に開かれたのが、内藤新宿です。
 ところで、内藤清成に伴われた鉄砲隊ですが、百人組は大久保に屋敷を与えられ(現在の百人町)、二十五騎の与力は、内藤家の屋敷内にその屋敷がありました。しかし、しだいに二十五騎の与力は、内藤家の手を離れ、甲州街道の北側、現在の新宿一丁目にその屋敷はまとめられていきます。
 新宿一丁目あたりは、江戸時代、二十五騎町と呼ばれ、明治2年(1869)に品川県に編入され内藤新宿北裏町となり、明治11年東京府豊島群内藤新宿北裏町と地名が変更になり、大正9年に四谷区に編入するに伴い花園町となえいます。

新宿の盛り場今昔 内藤新宿

新宿の盛り場今昔 内藤新宿~歌舞伎町
内藤新宿
▼宿場の開設
 元禄11年(1698)6月、甲州道中の第一の宿として開かれました。
開いたのは浅草の住人高松喜兵衞(後に喜六)他4人で、上納金5600両(現在のお金で2億円に近い額と言われる)を幕府に納めることが条件でした。当時は、財政難の解消が幕政の大きな課題でもありました。
江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』<文政11年(1828)完成>には次のように伝えています。
「内藤新宿は甲州街道宿駅の一なり、御打入の後内藤大和守に給ひし屋敷の内を、後年裂けて上地なりし頃も、萱葭原なりしを、元禄11年(1698)江戸浅草阿部川町の名主喜兵衛及ひ浅草の町人市左衛門、忠右衛門、嘉吉、五兵衛と云者、願上て今の如く幅五間半の街道を開き、左右に宿並の家作をなし、喜兵衛は喜六と改め、五人共に移り住せり、
 元内藤氏の屋敷なりしゆへに其儘内藤新宿と名付、江戸より多摩郡上下高井戸まて人馬継立の駅亭とせしか、享保3年(1718)宿駅を止められて御料の町場となりしに、明和9年(1772)安藤弾正少弼道中奉行たりし時、元の如く宿駅に建てられ、定人足二十五人、馬二十五匹を出して、上下高井戸宿へ継立せり、又同郡青梅道中中野村、相州矢倉沢往来世田谷村へも継送れり・・・」

 宿場の目的は「伝馬継立」です。大名や武家の旅行の支援、荷物運搬等が主な役目でした。付随して甲州街道の物流とともに多摩地方の野菜や木材・薪炭などの物産が運ばれ、多摩へは肥料が運ばれました。
 最初はこのような状況でしたが、やがて飯盛女を置く「宿場」が中心となり、一種の遊郭の様相を帯びていきます。
 そしてこの内藤新宿が、吉原や他の宿より一段下に位置付けられている間はともかく、しだいに繁盛してくると、吉原をはじめ他の宿が黙っていません。内藤新宿の縮小や廃止の動きが出てきます。これが、新編武蔵風土記稿の云う「享保3年(1718)宿駅を止められて」ということに結びつきます。
▼飯盛女は、食膳の給仕をする女中のことですが、床の上げ下げ、客引きなども行っていました。しかし、これは表向きの話。裏に回ると、売色をしていました。
▼廃宿
 廃宿の理由のひとつに、「大八事件」という旗本と遊女、旅籠屋の下男のケンカ話が伝わります。
 四谷大番町(現在の大京町)に住む四百石の旗本内藤新五左衛門の弟に大八という者がいました。ある日、新宿の旅籠屋信濃屋に遊びにいったとき、なじみの遊女が他の客のところに行ったきり出てきません。頭にきた大八は、自分の部屋に引き連れてこようとしましたが、旅籠屋の下男に殴打されてしまいます。そのまま帰ってきた大八を見て、怒った兄の新五左衛門は、「武士の恥・家の恥」と大八を打首にして、大目付松平図書頭のところにその首を持って行き、「自分の知行を返上するから、そのかわりに内藤新宿をお取りつぶしにしてください」と懇願した、と伝えられます。
 廃宿の実際の原因は、旅人が少ないこと、飯盛女が多くそれがしだいに隆盛となり、それに反発する吉原からの願い出などいったいろいろな背景が考えられます。それがちょうど、8代将軍吉宗が就任し、町奉行に大岡越前守が任用された幕政の転換期であったことにもよるものと思われます。
 宿場廃止後は、営業場所を他の宿場に移すか、まわりの野原を開拓して田を作るかなどして生活をたてるかしました。かつて内藤新宿新田という地名も残っていました。
▼再開
 再開への熱心な運動は続けられ、やっと明和9年(1772)再開が許可されます。それは田沼意次が老中格になって1年後でした。時代が変わってきていたのです。
内藤新宿は、すぐに、活気をとりもどしていきます。
そのころの様子を引用してみます。
 江戸時代の『遊廓考』には「甲州街道旅籠屋飯盛女あり、明和(1764~1771)、安永(1772~1780)のころは殊の外盛なり…(中略)……美服を着し紅粉(べにこ)の装いあたかも吉原におとらぬ春花を置きたり。・・・」
 また、『高松文書』には「飯盛女を抱える旅籠屋は、寛政11年(1799)には、上町(新宿3丁目あたり)には、20軒、中町(新宿2丁目あたり)に16軒、下町(新宿1丁目あたり)に16軒あり、中には大間口之旅籠屋追々建増仕るべく候」とあります。
・ガイドブック『新宿区の文化財(1)』(新宿区)には
「明和9年(1772)の宿駅再開によって安永6年(1777)の内藤新宿の人口は1769人であり、男1060人、女709人であった。男が多いのは宿駅関係の人足が多かったからであり、出人数36人に対して入人数が326人もあり、歓楽街化したところへ近在から流れ込んだものが多いことを物語っている。飯盛女の数も150人を置くことが許され、旅籠屋・茶屋が順次増加した。」と記されています。
 大木戸から伊勢丹のあたりまでおおよそ1200メートル。これが内藤新宿でした。
 (ちなみに品川宿は1500m、千住宿は2100mです)。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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