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四谷の勝興寺にある奪衣婆

 四谷の寺町(須賀町)にある勝興寺には石像の奪衣婆があります。
 曹洞宗のお寺で、天正10年(1582)麹町清水谷に草庵を建てていましたが、寛永11年外濠を作成し、江戸城拡張の際、この地に移されました。
 この勝興寺には「首切り浅右衛門」の墓があることで有名です。そのことで数回来ているのですが、奪衣婆のことは知りませんでした。
 奪衣婆に入る前に少し「首切り浅右衛門」のことにふれます。
 首切り浅右衛門、つまり山田浅右衛門家は将軍家の刀の切れ味を試す「御佩刀御様(ごはいとうおためし)御用」を代々勤める家でした。そして、あるいは、刀の切れ味を試すという意味合いもあってという人もいますが、斬罪人の処刑を行う「打ち首 同心」の代役も代々世襲していました。そこで、山田浅右衛門家は「首切り浅右衛門」と呼ばれいたのです。
勝興寺 奪依婆
 さて、奪衣婆、ここは石像です。入口近くに小さなお堂があってそこに納められています。閻魔王はそばにいないのですが、山田浅右衛門の墓の前に少し小ぶりの閻魔王がありました。これも石像です。奪衣婆より一回りも二回りも小さい閻魔様でした。
勝興寺 閻魔大王
 それに穏やかな表情で、強面な閻魔様でないので、うっかりすると閻魔様だと認識されないかもしれないなと思いました。
 近くには、映画監督だった島津保次朗のお墓がありました。
 映画はあまり知らないですが、門下から、五所平之助、豊田四郎、吉村公三郎、木下惠介、中村登、といったそうそうたる監督が出ています。
 なお、石像ということで、内藤新宿の太宗寺にある塩かけ地蔵、ずっと塩で真っ白だったのですが、このところ塩がとれて全身が見られます。
 すると立て膝をしています。ただそれだけなのですが、大きな木像の閻魔、奪衣婆があるお寺です。あるいはこれも石像の奪衣婆ではないかと、彫りが摩滅しているだけに、想像を刺激する姿です。
太宗寺 塩かけ地蔵
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小野篁の伝説

 小野篁は平安時代の漢詩人,歌人として知られています。篁の歌は百人一首にも入っています。
 わたのはら 八十島かけて こぎ出ぬと 人には告げよ あまの釣船
 これは、篁が隠岐(おき)に流された時の歌です。
 なぜ流されたか。
 それは、33歳歳で 遣唐副使に任命され、 2度出帆したが難破してしまい、その後、遣唐大使の藤原常嗣ともめごとを起こして、病と称して乗船しなかったこと。さらに、大宰府で嵯峨上皇を諷する詩『西道謡』を作ったとことで、上皇の怒りに触れたのです。
 しかし、1年後には復帰し、出世していきます。51歳で亡くなっています。
 こうした表の話より、小野篁には、不気味な伝説があります。
 それは、小野篁は夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたというものです。
 エピソード的にひとつあげると、
 「篁がまだ学生であったときにある罪を犯しました。 そのとき、藤原良相(よしみ)が篁の弁護をしてくれました。
 それから何年か経ち、篁は参議となり良相も大臣となっていましたが、あるとき良相重病を患い、死にます。
 そして、閻魔大王の前で、罪を定められようとしたのですが、閻魔のかたわらに篁がいました。 篁は閻魔に『この人は、正直で良い人でまだこの世で必要な人だ。許してあげてくれないか』と言う。閻魔大王は『篁がそうと言うのならば、許してやろう』と 、良相は、生き返えらせたということです」
 小野篁が地獄は通ったという井戸は、京都嵯峨の福生寺(生の六道)と京都東山の六道珍皇寺(こちらは死の六道)にあったとされます。
 小野篁は、昼間は朝廷で働き、夜は冥府で働く。忙しい人です。
 六道珍皇寺境内の閻魔堂には、篁作と伝えられる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されています。
 小野篁のものと言われる墓は京都市北区にありますが、なぜかその隣には紫式部のものと言われる墓があるがあります。これは愛欲を描いた罪で、地獄に落とされた紫式部を、篁が閻魔大王にとりなしたことに因縁すると言われています。
 どうしてこんな伝説が生まれたのかな、と思います。
 180㎝以上の大きな人だったそうです。遣唐使に任命されて拒否したような反骨精神からか「野相公」「野宰相」とも言われたそうで、何か恐れられていたのかもしれません。 『庶民に愛された地獄信仰の謎 』で、小野小町は閻魔さまと奪依婆の間に生まれた娘で、亡者を惑わす美女として働いていたのを篁が不憫に思って、あの世からこの世へ連れて来て、実の娘のように育てた、というのは、どうだろう、中野純さんは書いています。 おもしろいですね。

中野純著『庶民に愛された地獄信仰の謎 小野小町は奪衣婆になったのか 』

『庶民に愛された地獄信仰の謎』
 中野純著『庶民に愛された地獄信仰の謎 小野小町は奪衣婆になったのか 』(講談社+α新書)を見ると、奪衣婆はずいぶんいたのだと驚きました。
 九品仏には何度か言ったのですが、閻魔堂があるのさえ知りません。グラビアで、20体の奪衣婆が紹介されています。
 その姿はそれぞれで、とても興味を惹かれます。
 「奪衣婆は民間信仰とつながって『しょうづかのお婆さん』などと呼ばれ、庶民に親しまれてきた。とても身近な、恐いけれどやさしいおばあさんだったのだ。」
 それに、そんなに遠くない時機に三途の川へ行くわけだし、そこの受付婆さんなのだから、ちょっと情報を仕入れておきたいと思います。それにはもってこいの案内本です。地獄のことも知ることができます。
 お寺に行ったら「十王堂」や「閻魔堂」と呼ばれる小堂を探して、奪衣婆さんはいらっしゃいませんかと聞いて見たいと思います。
 一番惹かれるのは、奪衣婆は日本で考えられたオリジナル地獄キャラだということです。
 「人はこの世に生まれるとき、まとっている衣(胞衣)を産婆に脱がされる。そして、あの世に生まれるとき(死ぬときとはあの世に生まれるときだ)、まとっている衣(死に装束)を奪衣婆に脱がされる。死に装束とは、あの世に生まれるための抱衣ではないか。奪衣婆は奪抱衣婆でもあり、産婆的な存在で、だから子育老婆尊ともなる。」
 この理屈もおもしろいです。ただ恐いだけではない存在です。
 「小野小町は奪衣婆になったのか」はどうも確たる証拠はつかめなかったようです。 でも、「小町が亡くなったあと、各地のお持ち伝説と観阿弥作の『卒都婆小町』など小町もの謡曲によって小野小町の輪郭が形作られてきた。それらの話の多くは、楼が小野美女落魄の話だ」というように、世界3大美女の1人小野小町でも、老いれば皺だらけ、乳もたれ、醜くなっていきます。
 こうした言い伝えの先に、小町、奪衣婆説といったものが生まれる要素があったのだろうということです。『卒都婆小町』の「卒都婆」は、「奪衣婆」に通じます。
 私は、小野小町が奪衣婆になったという話があればと期待していたむきもあります。
 そして、小野篁の話は、おもしろかったです。
 「(小野)篁は六道珍皇寺の井戸からあの世へ行き、そして来た道をもどってこの世に帰るのかと思ったらそうではなく、井戸は一方通行だったらしい。六道珍皇寺の井戸は入り口専用で、化野にかつてあった福生寺の井戸からこの世に帰ってきたという(入り口のほうは死の世界に入るところだから『死の六道』、出口のほうは再び生の世界にもどるから『生の六道』と呼ばれる。)ということは『冥土は平安京の真下であったか』と、哲学者の久野昭は書いている。」
 新宿の正受院の奪衣婆は小野篁の作だと伝えられています。小野篁について次回少し書いてみます。

新宿の奪衣婆(だつえば)

 新宿の新宿通りの太宗寺と靖国通りの正受院、ほとんど背中合わせですが、どちらにも奪衣婆(だつえば)の像があります。
太宗寺の奪衣婆像
 大宗寺の奪衣婆は木造で、総高は2m40㎝。1870年の制作と伝えられています。
 大きな奪衣婆ですが、そばには、高さ5.5mもある閻魔さまが真っ赤な顔でおられます。
正受院「綿ばあさん」
 正受院の奪衣婆は、木像で像髙70cm。片膝を立て、右手に衣を握った奪衣婆の坐像で、頭から肩にかけて頭巾状に綿を被っているため、「綿のおばば」とも呼ばれます。小野篁の作であるとのいう伝承があるぐらいですから、制作年数は分かりません。
 奪衣婆というのは、は、閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り、その衣装をそばの木に掛け、その枝のしだれぐらいで罪の軽量を計る役割をしている恐い老婆です。もっとも、一説には、衣装を木の枝に書けるのは、賭衣翁(けんえおう)というお爺さんだとも言います。
 そして奪衣婆が脱がした衣装をかかえる木は衣領樹(えりょうじゅ)と呼ばれます。
 その、脱衣のスタイルをもう一度書いてみると、衣領樹の木の下に奪衣婆がいて、亡者の衣装をはぎ取り、樹上で待っている賭衣翁に渡して、賭衣翁が衣装の重さを量るのです。
 でも、この賭衣翁の像はほとんど見かけないのだそうで、むしろ、奪衣婆は、閻魔と夫婦だと考えられるようになってきたようです。
 とにかく、奪衣婆は多く場合、1人で活躍しています。
 奪衣婆の像は、片膝を立て、手に衣を握った姿です。
 太宗寺と正受院の像も、片膝をたて、右手には亡者からはぎ取った衣を握っています。
 その、衣をはぐところから、内藤新宿の妓楼の商売神として信仰されていたとも伝えられています。
 そしてもうひとつの特徴は、垂れ乳です。ほとんどの奪依婆像が垂れ乳をあらわにしているそうです。
 奪衣婆は乳神様の役割もしていると言われます。
 
 何度か太宗寺や正受院に行って、奪衣婆は気になっていました。
 特に正受院は、幕末の嘉永2年(1849)奪衣婆に詣でるとご利益があるという評判が立ち、そのために、大変な人気を呼び、錦絵にも描かれて、それこそ、正受院の奪衣婆にお参りした線香の煙が四谷見附まで届いたと言われます。
 5月のNHKの週間ブックレビューで 矢島新さんが、おすすめの本で 中野純『庶民に愛された地獄信仰の謎 小野小町は奪衣婆になったのか 』(講談社+α新書)をあげて、おもしろい本だと紹介されて、これは、ぜひ読みたいと思いました。
 「小野小町伝説のひとつか、奪衣婆は」と思ったのです。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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