大田南畝の話の続きで、狂歌の最盛期とも言える天明を取り上げ、大田南畝とその仲間たちぼ話を法政大学キャリアデザイン学部の小林ふみ子准教授から聞きました。
いろいろな資料に基づくお話で、それをまとめることはできないので、そこから、少し調べたことで、 天明の四方赤良について少し記しておきます。
狂歌は実は室町時代の頃からあるにはあったのですが、和歌の一部分のようなものだったといいます。
歌を詠む人が、会合で会が終わったあと、お茶でも飲みながら、狂歌遊びでもしましょうか、などと、座興で、いわば余技として楽しむ程度でした。
それが、江戸も後期になると、町人たちはことばの持つ面白さを取り入れ、洒落、地口、謎掛けなどを楽しむ風潮が出てきましす。そして、明和、安永、天明と、わずか十数年の間に「狂歌」が爆発的なブームになり、天明の頃、その頂点に達します。
明和6年(1769)四ッ谷の須賀神社の近くに住んでいた、田安家の臣小島謙之つまり唐衣橘洲の家で、初の狂歌会が開かれました。
「江戸にて、狂歌の会といふものを始めてせしは、四ツ谷忍原横町に住める小島橘洲なり。其時会せしものわずかに四、五人なりき」
四方赤良は随筆集『奴師勞之』(文化15年)にその時の模様について、橘洲による『狂歌弄花集』序文の引用を添えて書き残しています。それによると、出席者は橘洲、赤良のほか、大根太木、飛塵馬蹄、大屋裏住、平秩東作ら、「おほよそ狂詠は、時の興によりてよむなるを、事がましくつどひをなして、詠む痴者こそをこなれ。我もいざしれ者の仲間いりせん」
このときの出席者のうち大屋裏住は以前からの狂歌詠みで、20年以上の中断の後、天明調狂歌人の仲間入りをし、四方赤良の門人となりました。
平秩東作は内藤新宿の煙草屋ですが儒者として立松懐之の名もある教養人です。
大根太木は辻番請負。四方赤良の知人で、初狂歌会には彼に伴われてやってきました。 四方赤良と大根太木の名は宝暦頃より江戸に流行していた「鯛の味噌津で四方のあか、のみかけ山の寒鴉……大木の生際太いの根云々」という無意味な言葉からとられたと言われます。四方赤良については味噌のことと前回書きました。
この唐衣橘洲の家での初の狂歌の集いのきっかけとなったのは、牛込加賀町に住む幕臣内山賀邸という歌人です。賀邸、内山淳時(なおとき)は儒者であり国学者でありまた当時江戸の代表的歌人の一人でもありました。この賀邸の弟子に唐衣橘洲、御手先与力の山崎景貫つまり朱樂管江、稲毛屋金右衛門こと平秩東作、といったやがて天明狂歌の担い手となる人たちが集まっていました。大田南畝もその門人の1人です。年齢から言って唐衣橘洲が中心的な存在でした。
それから狂歌の会は頻繁に開かれます。
もうひとつ、集まりとして、「宝合」があります。
安永3年、牛込で「宝合」という、いわば戯れ遊びが行われました。
宝物に擬したふざけた品物に、狂文または狂歌を添えて出品し、優劣を競うというものです。
集まった人の名はみな狂名になっていて、狂歌同好者の集いであることが分かります。 この催しの主催者はいちおう酒上熟寝(市谷左内坂の名主島田左内)となっていますが、実のところは四方赤良だったと言われています。
こういう風に、狂歌、宝合、多くの人が集う参加型の芸能遊びだったと言えます。
天明狂歌壇を支えた狂歌師たちの名前をあげていきます。
唐衣橘洲(からごろもきつしう):小島謙之。「からころもきつつなれにしつましあれば
はるばるきぬる旅をしぞ思ふ」のもじり。
朱楽菅公(あけらかんこう):あっけらかん。幕臣。山崎景貫。
宿屋飯盛(やどやのめしもり):日本橋小伝馬町で旅宿を営んでいた。石川雅望。
酒上不埒(さけのうへのふらち):駿河小島藩士。黄表紙では恋川春町。小石川春日町に住む。
浜辺黒人(はまべのくろひと):本芝三丁目の本屋。芝で海に近く色が黒く、歯まで黒く染めていたらしい。
花道つらね(はなみちのつらね):五代目市川団十郎。つらね(歌舞伎で、自分の名乗りや物の由来や
効能物尽くしなどを名調子で語る芸)。
門限面倒(もんげんめんどう):館林藩士。武家屋敷のうるさい門限をもじった。
鹿都部真顔(しかつべのまがお):しかつべらしい(堅苦しい、まじめくさった)。
江戸数寄屋橋外で汁粉屋を営 んだ。

四方赤良の歌、数首
山吹のはながみばかり金いれに
みのひとつだになきぞかなしき (四方赤良)
世の中は色と酒とが敵なり
どふぞ敵にめぐりあいたい (四方赤良)
わが禁酒破れ衣となりにけり
さしてもらおうついでもらおう (四方赤良)
をやまんとすれども雨の足しげく
又もふみこむ恋のぬかるみ (四方赤良)