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台風で倒れた街路樹の根の部分

 先日の台風は、東京方面を直撃しました。電車も風には弱くて、全面停車になってしましました。
 そして目についたのが樹木が倒れている姿です。
 新宿中央公園でも、たった1本しかなかった桐の木がソメイヨシノの木と一緒に倒れました。
 その近くの街路樹も倒れていました。
台風で倒れた街路樹の根の部分
 街路樹は狭い地面で、根を切ってしまうので、風には弱いのでしょう。
 根の部分が残っていたので、写真に撮ったのですが、説明しにくいです。
 すっかり底を見せている状態です。
 写真で上になっている部分が、コンクリートにあたっていた根で、根が切られてまっすぐになっています。根がない状態です。
 右方面には根が伸びています。
 風向きが、根が生えている方向からの、この写真で言えば左右の流れで吹けばおそらく倒れなかったと思います。この写真でまっすぐにあたったので、倒れてしまったのでしょう。しれと、根の裏も少し弱っていました。
 
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「江戸幕府 鉄炮組百人隊出陣」

 9月25日(日)、新宿区百人町の皆中稲荷(かいちゅういなり)神社で、2年に一度の「江戸幕府 鉄炮組百人隊出陣」が開催されました。
 この日は、鎧や兜に身を固めた人々が百人町界隈を練り歩き、各地で火縄銃の試射や合戦演武を行います。
 一度は観ておきたいと思って、午後、皆中稲荷神社に行ってみました。午後2時にここに帰って来ると言うので、待っていました。
鉄砲組百人組 行進1
 鉄砲隊百人組行進
午後2時、ほぼ時間通りに、甲冑に身を固めた武将が帰ってきました。神社の中は大混雑。神楽の前で、鉄砲を構え古式にのっとった試射を行いました。
 発射の音は、ものすごい大きな音でびっくりしました。
 そのせいで、その瞬間の写真は撮れませんでした。大きく煙が立ちました。
鉄砲組百人隊発射
 「江戸幕府 鉄炮組百人隊」のゆわれは次の通りです。
 天正18年(1590年)徳川家康が江戸入府の際、内藤清成に率いられて、江戸の西の警備にあたるために伊賀組などの鉄砲同心が江戸に来ました。
 内藤清成は、今の新宿御苑の所一帯を屋敷として拝領し、鉄砲隊は大久保の地に組屋敷をもらい警備にあたりました(百人町に住んだのは二十五騎組、別称大久保組です)。伊賀組百人鉄砲隊の同心屋敷があったことから、鉄砲隊が住んだ所を、百人町と名付けられています。
 また、大久保村付近は、つつじの自生地であったとされますが、その鉄砲組は定住後、屋敷内で、つつじの栽培を行いました。長い屋敷の裏を利用し、火薬の材料でもある石灰や木炭を肥料に使っての栽培でした。それは、やがて名所として江戸で評判となり、『江戸名所図会』『江戸名所花暦』などにも紹介されています。
 つつじ栽培は明治維新以降、一時衰退しましたが、明治16年(1883)に大久保躑躅園が開園し、一万株ものつつじが栽培されて、花見客で賑わいました。明治天皇が、大久保つつじの短歌を詠まれ、それを記念した歌碑が皆中稲荷神社に建立されています。
 その後、大久保地域はしだいに住む人が多くなり、つつじの場所が狭くなります。日比谷公園ができると大部分のつつじが移され、いわば、町の発展の歴史と共に大久保のつつじは姿を消していきます。
 しかし「大久保つつじ」への愛着は強く戦後になって毎年4月、ゆかりの深い皆中稲荷神社において、地元商店街の二世会の若者たちによって「大久保つつじ祭り」が開かれるようになり、昭和47年(1972)には、大久保つつじが新宿区の花に指定されました。
 また昭和36年(1961)からは、『江戸幕府鉄砲組百人隊出陣行列の儀』が地元有志の尽力により行われるようになり、平成14年(2002)に新宿区無形民俗文化財として登録されました。
大久保駅前のつつじと鉄砲隊百人組の絵
 大久保駅前のガード下の壁画に「江戸幕府鉄砲組百人隊と大久保つつじ」が描かれていますが、それはこうしたことを意味しています。
 とにかく、江戸幕府 鉄炮組百人隊に巡り会えて良かったです。
鉄砲組百人隊の時のお囃子と御輿

芥川龍之介の実父の牧場「耕牧舎」

 江戸時代の内藤新宿のいわば遊郭が明治に新宿2丁目に移転するのですが、その場所に、耕牧舎という、芥川龍之介の父親の牧場があったということです。
 新宿のことを今調べているのですが、芥川龍之介のことも気になって少し調べてみました。
 芥川龍之介は明治25年(1892)三月朔日(ついたち)東京市京橋区入船町(現・中央区明石町)に、父新原敏三、母フクの長男として生まれます。
 辰年辰月辰日辰の刻に生まれたため、竜之介と命名されました。
 11月が子の月、12月が牛月、1月は寅、ときて、3月は辰月になります。
 なんだか、神様の誕生といった感じですが、実は、大変な年に誕生しています。
 というのは、龍之介が生まれた時、父は42歳、母は33歳でした。これはどいちらも大厄の年で、龍之介は、大厄の子でした。
 そのため、捨て子扱になります。形式なのでしょうが、父、新原敏三の友人だった松村浅二郎が拾い親となります。
 新原敏三は、山口県人で、牛乳店を営み、入舟町と新宿に牧場を持っていました。
 龍之介の生後8ヶ月のころ、歯はフクが発狂します。
 やはり厄年なのですかね。
 そこで、龍之介は母の実家、当時本所区小泉町にあった芥川道章の家にあずけられます。
 母、フクの実家芥川家に預けられそこで養子となます。
 芥川という名前はここから来ています。
 芥川龍之介、良い名前ですね。
 芥川家には子供はなく、芥川道章は東京府土木課勤務でした。代々お数寄屋坊主として寛永寺に奉仕し、ていた、旧家で、家庭は江戸の文人的、通人的な面が多分にあったということです。一家揃って一中節を習い、道章は俳諧、南画、盆栽をたしなんでいました。
 同家には道章の妹フキ(フクの直姉で生涯独身だった)がいて子育ての人手には困らず、龍之介は、主にこの伯母フキの手で育てられ教育されたといいいます。
 さて、実父、新原敏三の新宿の牧場は、「耕牧舎」と言い、新宿2丁目から靖国通りに面して成覚寺の西側あたりの一帯の場所です。現在では区画も変わりビルに埋まっていますが、旧番地を記しておきます。東京府下豊多摩郡内藤新宿2丁目71番地。(ちなみに、夏目漱石の幼少のころ養子に出され、この近くに住んでいました)
 ホルスタイン種の牛を数棟飼育する約3000坪の牧場だったと言われます。
 そこへ、明治43年(1910)10月、芥川龍之介一家が、本所小泉町から転居してきました。その年の8月に本所の家が水害に遭い、9月に龍之介が第一高等学校に入学したことによると言われています。
 大正3年(1914)10月、田端に転居するまで高校生活をこの家を根拠にして過ごすことになります。。
 ただし、龍之介は、第一高等学校の2年の時には学校の寮に入っていますから、そんなに長くこの牧場の場所に住んでいたわけではないと思います。
 龍之介が第一高等学校を卒業するのが、大正2年(1913)です。
 ちょうどその時期、警視庁から牧場の移転命令が出ています。
 周辺の発展とともない、牧場の臭気が強く、環境にそぐわないというのがその理由です。 そして、牧場は廃業になります。その跡地は、しばらく放置されて「牛屋の原」と呼ばれ、子どもたちの良い遊び場になりました。
 そして、大正7年、内藤新宿の遊郭の移転先と指定されることになるのです。

全国左官技能競技大会で「鏝絵」制作実演

 四谷の須賀神社には「鏝絵」と呼ばれる漆喰で描かれた絵が奉納されています。吉田亀五郎の作品が5点と井上靖から奉納された伊豆の長八の鏝絵が1点です。伊豆の長八は名工と言われた人で、吉田亀五郎は弟子にあたります。
 左官職人の技術を使って描かれていて、職人の技術の優秀さを物語っています。
 須賀神社で、鏝絵を見ていくらか興味を持ちました。
 四谷三丁目の近くの三味線屋さん「ねこや」には猫の鏝絵があります。小さいですが、素晴らしいらしい作品でそれこそ四谷の宝だと言う人がいます。
 都庁
20日から22日まで都庁の都民広場で「第44回全国左官技能競技大会」が開かれていました。
 都庁に用事があって、偶然知りました。
左官技能競技
 全国から選ばれた職人12人が腕前を披露し高さ2メートル、幅2メートル近くある壁や柱を模したセットで技量を競っていました。3日間で仕上げて最優秀者を選ぶのでしょう。
鏝絵製作
 そして、横では、鏝絵の制作実演も行われていて、それを少し見学しました。
 龍を描いていました。
 30分しかいられなくて、すべては見学できなくて残念でした。

富士山と江戸の町

 まち歩きをするので、江戸がどうして出来たかいろいろ本を読んでいます。発行はだいぶ前のですが、たまたま、次の3冊を読みました。
 陣内秀信『東京の空間人類学』(筑摩書房1992年)
 丸谷才一・山崎正和『日本の町』(文春文庫1994年)
 足利 健亮『景観から歴史を読む』(NHK出版1998年 )
 これらの本には共通して「徳川家康が江戸に幕府を開いたのは富士山が見えるからだ」という説が記してありました。
 「徳川家康は、江戸の街づくりを始めるに当たって、江戸を、不死身(=富士見)を目指す場所として位置づけ、都市景観に富士山という100キロメートル彼方の大自然を取り入れようとした。」
広重の浮世絵「日本橋雪晴」名所江戸百景
それが証拠のひとつに、広重や北斎の浮世絵を見ると、道のほぼ中央に富士山を大きく入れて描いています。
そして江戸は、富士山を「山当て」した街路の造成を行ったというのです。
そのほか、愛宕山、神田山(後に日比谷入江の埋め立てのために切り崩されました。)、そして筑波山が道路の正面に見えるように意図的に通りを定めています。
 このように江戸の人々は、「山当て」による富士山を、あるいは愛宕山や筑波山を、朝な夕な飽くことなく眺めて暮らすことになっていました。
皇居(江戸城)には「富士見櫓」が残っています。
家康が、富士山が見えることにこだわったのは「富士見」が「不死身」に通じるからということです。まるで、言葉遊びのようですが、武士にとって不死身が理想だったことは確かです。
江戸には、「富士見」の坂や地名がたくさんありました。
江戸名所図会 駿河町 三井呉服店
 丸谷才一・山崎正和『日本の町』(文春文庫)には、金沢、小樽、宇和島、長崎、西宮・芦屋、弘前、松江、東京という8つの町の特徴、魅力を語り合っています。
そのうちの東京の話です。
 丸谷才一氏は、「陣内秀信さんが書いた『東京の空間人類学』という本が出ました。私はあの本に大変刺激を受けましてね。というのは、陣内さんは、江戸の中心は江戸城であると考えているのは間違いであって、むしろ富士山をランドマークにして偏心的にできている町だ、と説明している」と説き、さらに、「それによって東京の仕組み、東京がなぜこういうふうに広がったか、が一挙にわかる。富士山が見える限り広がっていくという論法で説明がつくんですよ」。
 基本は『東京の空間人類学』になるのかもしれません。
 陣内秀信氏の『東京の空間人類学』では、例えば、江戸の町並みを受け継いでいる番町辺りの計画的な格子状の道路パターンは、ランドマークとしての富士山を望む方向にぴたりと合わせて設計されていると指摘しています。
 そして、富士山は信仰の対象にもなります。
 富士山にぜひ登りたいという人も多くいました。そこで、江戸の町中でも富士登山ができるように「富士塚」と言われるミニ富士山まで作りました。
 「富士塚」は、数メートルの高さに溶岩が積み重ねられ、入り口に鳥居が設けられ、頂上まで数十センチくらいの幅の小道が頂上まで続き、頂上には浅間神社の祠が設けられています。かつて「富士塚」は江戸を中心に100基を超える数が作られていました。
 さらに、昨日テレビを見ていたら(BSジャパン・「美の巨人」)、日光東照宮の特集で、家康がまず祀られた久能山東照宮と富士山と家康が最終的に祀られる日光東照宮との関係が出てきました。
久能山東照宮から日光東照宮
 久能山東照宮から富士山を通る直線(「不死の道」)の延長線上に日光東照宮があります。
 江戸から日光は宇宙の中心と考えられた北極星の方向に位置し、日光東照宮は宇宙の中心軸上に有ります(これを「北辰の道」と言う)。
 そして、江戸から北極星を結ぶ「北辰の道」と久能山と富士山を結ぶ「不死の道」との結ぶ交点が日光東照宮であるということでした。
 そうすると、今朝の朝日新聞には富士山の特集が出ていて、富士山を自然遺産でなく、文化遺産としてユネスコの世界遺産に推薦するようです。
 富士山が、結びつけてくれます。

十二社熊野神社の祭禮

 今日は、新宿の、十二社熊野神社の祭禮に少し行ってみました。
熊野神社 縁日
 よく調べれば良かったのですが、「熊野神社例大祭」は、今年は15日の宵宮から18日のみこし渡御まで4日間にわったって行われたようです。
 しかも3年に1度となる新宿駅周辺五睦(西口・西一・角一南・角一東・歌舞伎町)による「角筈連合渡御」も開催、ということで、まさしく大祭でした。
 調べていなかったのと、時間の余裕がなくて、午前中、ちょっとだけ行って来ました。
熊野神社祭礼
 西口駅前は、大変な賑わいでした。
 高層ビル群から、新宿中央公園にかけては、やや落ち着いていました。
 十二社熊野神社は、西新宿地区から東口は歌舞伎町、三越あたりまでの氏神様です。祭神は、伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)と櫛御気野大神(くしみけのおおかみ)。室町時代より角筈村十二社に祭られたものということで、由緒ある神社です。
 摂末社として、大鳥神社、笠間稲荷、十二社弁財天もお祭りらしくきちんと装いされていました。

木のキモチで、公園の木を観る。

 街路樹や庭木たちの気持ちがわかる路上観察本『街の木のキモチ 樹木医のおもしろ路上診断』(山と溪谷社)を書いた岩谷美苗さんとお会いしました。
 本の通りとても楽しい方でした。
 岩谷さんは、森林の楽しみ方を教えてくれる森林インストラクターでもあり、木々の健康状態をチェックして適切な管理の仕方を教えてくれる樹木医です。
 目の付け所が違います。
 大きな銀杏の木を見上げていたら、 岩谷美苗さんはしゃがんで、下の方を写真に撮っています。
 何かと思ったら、銀杏の木の根が、水道栓の中に伸びています。「お水が欲しいと根を出しているのかもしれませんね」。
 銀杏の木の横、水道栓へ根を伸ばす
『街の木のキモチ 樹木医のおもしろ路上診断』の本の出版社である山と溪谷社が、この本のことを次のように紹介していました。
「街歩きが100倍楽しく、ためになる!日常生活の中で身近に接していながら、その存在すらあまり意識していない街路樹や庭木。しかし、かれらも立派に生きていて、酸素をつくったり、木陰をつくったりして人間社会に貢献しています。にもかかわらず、街路樹や庭木の植えられている環境や、手入れのされ方は、その生態にそぐわないものが多いのです。本書は、著者が撮りためた抱腹絶倒のユニークな写真をもとに、木の気持ちになって、その状況を解説します。木の立場になってみることで、日常風景の意味や自然観まで変わってしまう、かつてない街の自然観察本です。街歩きが、100倍楽しくなります。」
 まさにその通り、木を植物学的にきちんと見なくても、その様子で、木の気持ちを思って、接すると、植物がグッと身近になります。自然観察、そこから入っていってもいいのだと思います。
 そんな見方で、少し。
逆さになって、足をあげ、髪の毛が垂れている
 木を見た時、大きな顔のように見えたのですが、写真を見ていると、足を上に上げ、長い髪が下に垂れた人間のように見えます。スリラーです。
エノキに彫られた鳥の浮き彫り
 エノキの幹の模様、実物はもっときちんと丸に鳥の絵が見えました。
ケヤキ キノコが生えている
 岩谷美苗さんキノコが好きで、ケヤキの木の上の方に出ているキノコをすぐ見つけました。枯れた枝から生えてきたものだそうです。名前を聞いたのですが、忘れました。イイ形です。
たくさん何かが垂れている銀杏
 銀杏の、幹から何か垂れている姿、枝の下だと、腋の下の汗、とか言っているようですが、こんなにたくさん出ていると、見ている方が冷や汗ものです。
 街歩き、公園歩き、確かに100倍楽しくなります。

大田南畝こと四方赤良

 大田南畝の話の続きで、狂歌の最盛期とも言える天明を取り上げ、大田南畝とその仲間たちぼ話を法政大学キャリアデザイン学部の小林ふみ子准教授から聞きました。
 いろいろな資料に基づくお話で、それをまとめることはできないので、そこから、少し調べたことで、 天明の四方赤良について少し記しておきます。
 狂歌は実は室町時代の頃からあるにはあったのですが、和歌の一部分のようなものだったといいます。
 歌を詠む人が、会合で会が終わったあと、お茶でも飲みながら、狂歌遊びでもしましょうか、などと、座興で、いわば余技として楽しむ程度でした。
 それが、江戸も後期になると、町人たちはことばの持つ面白さを取り入れ、洒落、地口、謎掛けなどを楽しむ風潮が出てきましす。そして、明和、安永、天明と、わずか十数年の間に「狂歌」が爆発的なブームになり、天明の頃、その頂点に達します。
 明和6年(1769)四ッ谷の須賀神社の近くに住んでいた、田安家の臣小島謙之つまり唐衣橘洲の家で、初の狂歌会が開かれました。
 「江戸にて、狂歌の会といふものを始めてせしは、四ツ谷忍原横町に住める小島橘洲なり。其時会せしものわずかに四、五人なりき」
 四方赤良は随筆集『奴師勞之』(文化15年)にその時の模様について、橘洲による『狂歌弄花集』序文の引用を添えて書き残しています。それによると、出席者は橘洲、赤良のほか、大根太木、飛塵馬蹄、大屋裏住、平秩東作ら、「おほよそ狂詠は、時の興によりてよむなるを、事がましくつどひをなして、詠む痴者こそをこなれ。我もいざしれ者の仲間いりせん」
 このときの出席者のうち大屋裏住は以前からの狂歌詠みで、20年以上の中断の後、天明調狂歌人の仲間入りをし、四方赤良の門人となりました。
 平秩東作は内藤新宿の煙草屋ですが儒者として立松懐之の名もある教養人です。
 大根太木は辻番請負。四方赤良の知人で、初狂歌会には彼に伴われてやってきました。 四方赤良と大根太木の名は宝暦頃より江戸に流行していた「鯛の味噌津で四方のあか、のみかけ山の寒鴉……大木の生際太いの根云々」という無意味な言葉からとられたと言われます。四方赤良については味噌のことと前回書きました。
 この唐衣橘洲の家での初の狂歌の集いのきっかけとなったのは、牛込加賀町に住む幕臣内山賀邸という歌人です。賀邸、内山淳時(なおとき)は儒者であり国学者でありまた当時江戸の代表的歌人の一人でもありました。この賀邸の弟子に唐衣橘洲、御手先与力の山崎景貫つまり朱樂管江、稲毛屋金右衛門こと平秩東作、といったやがて天明狂歌の担い手となる人たちが集まっていました。大田南畝もその門人の1人です。年齢から言って唐衣橘洲が中心的な存在でした。
 それから狂歌の会は頻繁に開かれます。
 もうひとつ、集まりとして、「宝合」があります。
 安永3年、牛込で「宝合」という、いわば戯れ遊びが行われました。
 宝物に擬したふざけた品物に、狂文または狂歌を添えて出品し、優劣を競うというものです。
 集まった人の名はみな狂名になっていて、狂歌同好者の集いであることが分かります。 この催しの主催者はいちおう酒上熟寝(市谷左内坂の名主島田左内)となっていますが、実のところは四方赤良だったと言われています。
 こういう風に、狂歌、宝合、多くの人が集う参加型の芸能遊びだったと言えます。
 天明狂歌壇を支えた狂歌師たちの名前をあげていきます。
唐衣橘洲(からごろもきつしう):小島謙之。「からころもきつつなれにしつましあれば    
はるばるきぬる旅をしぞ思ふ」のもじり。
朱楽菅公(あけらかんこう):あっけらかん。幕臣。山崎景貫。
宿屋飯盛(やどやのめしもり):日本橋小伝馬町で旅宿を営んでいた。石川雅望。
酒上不埒(さけのうへのふらち):駿河小島藩士。黄表紙では恋川春町。小石川春日町に住む。
浜辺黒人(はまべのくろひと):本芝三丁目の本屋。芝で海に近く色が黒く、歯まで黒く染めていたらしい。
花道つらね(はなみちのつらね):五代目市川団十郎。つらね(歌舞伎で、自分の名乗りや物の由来や
効能物尽くしなどを名調子で語る芸)。
門限面倒(もんげんめんどう):館林藩士。武家屋敷のうるさい門限をもじった。
鹿都部真顔(しかつべのまがお):しかつべらしい(堅苦しい、まじめくさった)。
江戸数寄屋橋外で汁粉屋を営 んだ。

大田南畝像
四方赤良の歌、数首

山吹のはながみばかり金いれに
     みのひとつだになきぞかなしき (四方赤良)

世の中は色と酒とが敵なり
     どふぞ敵にめぐりあいたい (四方赤良)

わが禁酒破れ衣となりにけり
     さしてもらおうついでもらおう (四方赤良)

をやまんとすれども雨の足しげく
     又もふみこむ恋のぬかるみ (四方赤良)

台風の風で落ちたドングリ

 ブログに書こうと思っても、しっかり理解していないことでなかなか書けないことがあります。「節電」の話もお話の内容を書きたいと思っていたのですが、ダメでした。
 7日の日、台風12号の影響をいくらか受けた後の林試の森に行くと、「ドングリ」が落ちていました。
 もう秋なのだと感じました。落ちたドングリは緑でしたが。
 これを書こうと思ったのですが、写真がまず上手く撮れません。接写の効くカメラでないダメですね。
 それに、ドングリの形の違い、例えばあのぼうし」の表現、説明のしかた、これがよく分かりません。とにかく、写真で撮ったたドングリで分類してみます。
 ドングリ(団栗)というのは、ブナ科のクヌギ・カシ・ナラ・カシワ・クリなどの果実(正確には種子ではない)の総称です。ドングリがなるドングリの木というものはありません。
 でも、この中でクリは、「クリ」ですね、「ドングリ」とは呼びません。
 そして、あのぼうしは「殻斗(かくと)」と呼ぶようです。
 樹種によって、形状が違います。
 いくらか写真でその形状を見ることができるのでその種類を書きます。
 ●殻斗に棘やイガなどの特徴があるもの
クヌギ
 私の観察会の先生は、オリンピックのメダリストに王冠、というように言いました。
 アベマキ   クヌギ   カシワ
 ●殻斗に横縞があるもの、ビロード状の毛で覆われたもの
 アカガシ
先生は、横すじの水泳帽と説明します。
アラカシ  アカガシ シラカシ   イチイガシ  ウラジロガシ
アカガシはさわるとビロード状の毛で覆われています。
 ●殻斗がうろこ状のもの
コナラ
 先生は、大仏様の頭と言われます。これは、大仏様の頭の方が断然良いです。
 コナラ   ナラガシワ   ウバメガシ マテバシイ
 ●それと、今回見ることができませんでしたが、スダジイのように、深く被さった、(先生いわく)カプセル型の殻斗があります。
 一度これはきちんと整理したいです。

電力使用制限令が解除

 昨日で、電力使用制限令が解除になりました。
 夏の「緊急節電は、一応終了です。
 でも、すぐに、元に戻す会社もないと思います。
 国内の電力は、今後も不安材料を抱えていきます。
 8日、東京大学 生産技術研究所 エネルギー工学連携研究センター准教授の岩船由美子講師の暮らしの節電大作戦ー今夏の節電への取り組みと今後の見通しについてー」という講演を聞きました。豊富なデータに基づいて、なぜ緊急節電が費用だったか、その節電はどうだったか、この冬はどうすれば良いか、ところどころに具体的な節電方法も入れて、詳しくお話くださいました。
 最後に思ったのは、節電体験から、これからの、暮らし方や仕事の仕方を大胆に見直す必要があるということです。つまり、電気はいくらでもあって、便利で効率の良い生活が当たり前のようだったこれまでとは、まったく違った暮らし方をして行かなくてはなりません。
 節電に、この夏、個人が実際どのくらい貢献したかは、よく分かっていません。
 家庭では、電気使用量の情報を見るしか、数字はありません。昨年比何%減でした、と書いてあれば、「節電努力あったな」と思います。
 わが家では、7月は26%減、8月は17%減でした。こまめに電気を切ったり、エアコンをできるけ使わないよう、かなり頑張ったつもりですが、この程度でした。
 本当は、家庭で、今回、どこに節電効果があって減ったのか、実際どれに電気をたくさん使っているのか、そういうことはかいもくわかりません。分かれば、また対応の方法があると思います。
 今回の節電により停電などの混乱を避けることができたのは、やはり、事業所の努力が大きいと思います
 今回の節電により停電などの混乱を避けることができたのは、やはり、事業所の努力が大きいと思います。
 会社がサマータイムを導入、8時から4時までの人を知っていますが、4時には帰れてなかったようです。夏期間のお休みを週に3回にして、そのお休みを秋に取り返すという会社もありました。休日出勤や、時間差出勤というのもあって、生活のリズムは大幅に崩れています。
 そこでやはり原発という声もあがるのでしょうが、そうなんならないですむような賢い節電を心がけて欲しいです。
 これまで、電力会社は、できるだけ電気を使わせ、それに合わせて供給力を増強することに力をそそいできました。そのために原子力発電は欠かせなかったのです。
 需要の家庭も、「便利」ということで、しかも電気は無尽蔵にあるものという認識で「豊かな」暮らしをめざしていました。
 しかし、今回の震災で、目が覚めました。この夏体験した節電は、使う方が、主導権を持つべきで、もてるということを学んだと思います。
 夏の節電をしっかり総括して、冬の賢い節電を心がけ、それこそ正しい、電力使用ができるようにしたいものです。

新宿にある大田南畝の書の碑など

 新宿は、西口、JRが走る新宿大ガードをぐくり、新宿警察署前交差点のいあたりに福聚山常円寺があります。青梅街道に面した日蓮宗の寺です。
その山門前参道右に大きな石があります。
常円寺 大田南畝書の狂歌碑
これは、「便々館湖鯉鮒の狂歌碑」で、太田南畝(蜀山人)書によります。
 字はあまり見えないのですが、次の狂歌が刻まれています。
 「三度たく米さえこはし柔らかし思ふままにはならぬ世の中」
 前にも書きましたが、味わい深い狂歌です。
 便々館湖鯉鮒は牛込山吹町に住む茶人で、大田南畝と交遊がありました。。
 大田南畝ゆかりの地は、もう少し先の新宿十二社・熊野神社にもあります。
大田南畝寄進による水鉢 熊野神社
 そこの手洗鉢(盥石)の銘文は大田南畝の手になるものです。
 文政3年(1820)に奉納された手洗鉢で、大田南畝の書による銘文が刻まれています。
 文政3年(1820)の熊野神社の祭礼は、大池で角乗・筏乗が出るなど盛大なものだったようですが、この水鉢もその祭に奉納されたものと言われます。
 鉢の大きさは、外部が幅150cm、高さ60cm、奥行64cmです。
 「熊野三山 十二叢祠 洋洋神徳覧於斯池 大田 覃」と刻まれています。
 大田 南畝、名は覃(ふかし)です。呼び名としては、通称、直次郎、七左衛門。別号、で蜀山人、玉川漁翁、石楠齋、杏花園。狂名は四方赤良です。また狂詩に寝惚先生とも称しています。
 また、手洗鉢に「十二叢祠」とあることから、「十二社(じゅうにそう)」の名前の呼び方の由来は大田南畝によるとも言う人がいます。しかし、これはあまりあてにはできませんが。
 成子坂を北に下り、十二社通りとの交差するあたりには江戸の頃、南畝との交誼をもつ土方作左右衛門の家がありました。
 この水鉢、南畝が土方作左右衛門宅に立ち寄った際のものと伝わっています。
 成子坂付近には大田南畝の親友である平秩東作(へずつとうさく)の別邸もあった、とのことであるので、このあたりに訪れることも多かったのでしょう。

「大田南畝-大江戸マルチ文化人」

 太田記念美術館の学芸員の日野原健司氏に「大田南畝-大江戸マルチ文化人」というお話を聞きました。
 大田南畝が生まれ、60年ほど住んだが牛込(現・新宿区北町41)ということで、新宿では、注目されています。もっと広く知られると良いのですが。
 なんでも、大田南畝のたくさんある名前の中で知られている「蜀山人」という名前で知っているかと聞くと、「ああ、あの美食家で陶芸家もやったという人」と答える人がいるそうです。北大路魯山人ではないです。
石崎融思「大田南畝肖像」
 大田南畝の業績で最も知られているのは、狂歌です。
「世の中は酒と女が敵(かたき)なり どうぞ敵にめぐりあいたい」
 今、詠んだと言えそうな、こんなおもしろい狂歌も作っています。
 大田南畝は、人気作家でしたから、一筆、求められることが多かったようですが、美人から直接頼まれれば書く、とも言っています。
 女性好きだったのでしょうか。年表を見ると、38歳の時、松葉屋の遊女、三保崎を身請けしています。奥さんはいました。
 ま、いいですけどね。
 とにかく、大田南畝は、狂歌、さらには、狂詩や戯作など、笑いに溢れた文芸作品をたくさん執筆し、ベストセラー作家として人気を博しました。
 しかしそれはあくまで裏の顔です。表の顔の南畝は、身分の低い幕臣(御徒歩職)として、70歳の高齢を過ぎても幕府への勤めに励んだ、真面目で実直な役人だったようです。
 昼は真面目に仕事に励み、夜は仲間たちと戯れる文化人という二面性を持っていました。 江戸時代は士農工商の身分の違いがはっきりと定められていた時代です。位もほとんど変わることはありません。
 しかし、文芸や学問の世界では、武士と町人がお互いの身分を気にすることなく、同好の仲間として交流できました。一時のお茶の世界のようです。
 そして、特に、狂歌の世界では、地域ごとにグループを作り、面白おかしい名前を名乗りあって活躍していました。
 名前の例をあげると、元木網(もとのもくあみ)、智恵内子(ちえのないし)、頭光(つむりのひかり)、大家裏住(おおやのうらすみ)、宿屋飯盛(やどやのめしもり)、酒上不埒(さけのうえのふらち)など、どうにもふざけた名前がたくさんあります。
 今で言えば、ネット上で交流する、ハングルネームのような、そんな感じです。
 その狂歌界で中心的な役割を担ったのが、四方赤良(よものあから)と名乗っていた大田南畝でした。
 四方赤良というのは「よも(四方)の赤みそ」ということです。
 四方とは店の屋号で暖簾に三つ巴の扇と四方と書いてあり、始めは酒屋で流行った店で神田和泉町にあったようです。
 そこで酒の肴に赤味噌を出しました。その味が大いに受け、酒屋としてばかりでなく
赤味噌も評判を取り川柳にもなっています。
「酒味噌でその名も四方にひびくなり」(柳多留72)
 大田南畝はこの赤味噌から名前をつけています。
 もうひとつ、狂歌を引用しておくと、
 「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」
 大田南畝は文政6年(1823)、75歳で亡くなっています。

歌川国芳 「其のまま地口 猫飼好五十三疋」

 テレビ番組の中で、BSプレミアムで放送されている番組「額縁をくぐって物語の中へ」は、とりわけおもしろい番組です。15分で美術が堪能できます。3.11大震災の後、広重の「江戸百景」を、安政地震後の復興を描いた視点で、額縁をくぐっていて、なるほどしうだったのか、と「江戸百景」見直しました。
 しばらく休んで、この週は、「没後150年 歌川国芳特集」でした。
 これも良かったです。浮世絵は絵解きがあっていいと思っています。
 今日は、国芳の最後で、「猫飼好五十三疋」でした。
 この前、太田美術館で国芳展を見て、少しここに載せました。その時、国芳の猫好きも紹介しています。
 東海道が、猫のダシャレで描かれています。それを解明していきました。
 「日本橋」 は、「二本だし(出汁)」 というタイトルで、猫の前に2本の鰹節が描かれています。最後の「京」 は 「ギヤウ」 でネズミをくわえた猫ちゃんです。「ギヤウ」 は、猫に捕まったネズミの叫び声のようです。
 できるだけ大きく載せたいので3枚に分けて載せます。
 説明は、太田美術館の国芳展の図録をもとに、上の部分(絵に向かって右側)のみにします。
歌川国芳 『其のまま地口猫飼好五十三疋』  上(右)

1 日本橋 (にほんばし) 二本だし ← 二本の鰹節
2 品 川 (しながわ) 白かを ← 白い顔
3 川 崎 (かわさき)  かばやき ←蒲焼
4 神奈川 (かながわ) かぐかわ ← 皮を嗅ぐ
5 保土ヶ谷 (ほどがや) のどかい ←喉がかゆい
6 戸 塚 (とつか) はつか ←はつかねずみ
7 藤 沢 (ふじさわ) ぶちさば ←ブチ猫がサバをくわえてる
8 平 塚 (ひらつか) そだつか (子猫が)育つか?
9 大 磯 (おおいそ) おもいぞ ←(タコが)重いぞ
10 小田原 (おだわら) むだどら ←無駄にねずみを追いかけるドラ猫
11 箱 根 (はこね) へこね ←体をへこませてねている
12 三 島 (みしま) 三毛ま ← 魔物のごとく二股の尾をもつ三毛猫
13 沼 津 (ぬまづ) なまづ 
14 原   (は ら) どら
15 吉 原 (よしはら) ぶちはら ←(ブチ腹)
16 蒲 原 (かんばら) てんぷら
17 由 比 (ゆ い) たい ← 鯛
18 興 津 (おきつ) ← 起きず
歌川国芳 『其のまま地口猫飼好五十三疋』  中
歌川国芳 『其のまま地口猫飼好五十三疋』  下(左)

続 ホキ美術館

昭和の森
 ホキ美術館は、写実絵画を最大限に生かす、ある意味、夢の美術館です。
 作品だけでなく、美術館も楽しみたいです。
 株式会社ホギメディカル社長兼CEOであり、アートコレクターでもある保木将夫氏の「自分のコレクションを公開する美術館を持ちたい」という夢を、日建設計の山梨知彦氏を中心とする建築スタッフが、これまでにない展示環境を持った、「夢の美術館」を誕生させました。
 美術館の一部を少し紹介します。
 ギャラリーは1から始まって、ギャラリー2からは、常設館になります。その最後の方に、少し幅広い階段を下っていくとギャラリー6になります。
 この幅広の階段を利用すると、コンサートが開催できるように設計されているのだそうです。
 ギャラリー6の正面の壁の上部には中山忠彦氏の大きな作品が展示されています。ホキ美術館の他の作品はほとんど目の前の位置にありますが、ここだけは1点、上の方に展示されています。
 それは、このギャラリー6の下にあたるギャラリー8に行くと、その効果が分かります。
 このギャラリー8は、これまでの白の壁面からいきなり壁面が黒く変わります。
また、そこでは、飾られた作品の解説が作者の声で発声されています。
そのギャラリー8から、ギャラリー6へ降りていく階段の後ろがすけて見えるのです。階段と階段の間の隙間から中山忠彦氏の女性像の作品が浮かび上がります。
 黒のギャラリーに入り、左奥を見ると、階段からの横線の光、そして、中山忠彦氏の女性像。すばらしい効果です。
 絵画の解説は、それぞれの絵の前に座って聞くことができます。
ホキ美術館 レストラン デザート
 絵を見終わって、美術館入口の右側にある、レストラン「はなう」で、ランチのパスタを頂きました。昭和の森が望めます。
 ホキ美術館を訪れる人は、絵画や昭和の森の自然や、そしておいしい食事と、さらに建物の構造の工夫をじっくり楽しむことができます。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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