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ホキ美術館

 昨年開館した千葉にある写実絵画専門ホキ美術館へ行ってきました。
 開館記念第2回目の展覧会『時を超えて ― 静物と風景画展』が開催されています。
 東京駅から、京葉線と外房線で、「土気」という駅で降り、バスに乗ろうと思ったのですが、本数が少なく、歩くと20分ということで、タクシーにしました。800円でした。
 ホキ美術館は、北側の住宅地と南側の昭和の森に挟まれた場所にありました。
 写真で見ていてもっと大きな建物なのかと想像していたので、最初は、すぐに分かりませんでした。
 住宅街にあって、あまり存在感が威圧的でないようにという配慮がされているようです。 反対側(西)に廻って見ると、これは写真で見た建物、大きく突き出しています。
 ホキ美術館1
跳ね出しというのでうか、出ている建物は、根元から約30mもあります。
 そして、下のギャラリーから60cm浮いていますが、この60cmという寸法は、中庭の樹木の健全な発育のために必要となる風環境を3次元シミュレーションにより確認した上で設定されています。
 そういう構造は、中に入るとおそらく分からないと思って、じっくり確かめました。
ホキ美術館2
 建物は、薄い鉄板を骨の両面に張り合わせた厚さ25cmの板を組み合わせて作っているそうです。外から見える面は全て構造体の鉄板で、構造体がそのまま外装になっています。
 内部は細密画鑑賞にふさわしい空間づくりがされています。
 細密画は非常に繊細ですから、絵画以外のものは存在を主張してはならないので、吊り下げ照明や絵画を吊るすワイヤー、壁面の目地などはひとつもありません。
 床は、足腰の負担が少なくなるようにゴムチップ舗装です。足音も出ません。
 天井には、無数の穴が開いています。この穴に照明や空調の吹き出し、排煙、放送設備
などが埋め込まれています。
ホキ美術館天井
 照明は細密画鑑賞用に今回新規開発したLEDライトを使っています。
 見ても分かりませんが、一枚の絵に10灯から30灯の器具で照射しているそうです。
 作品によって、求められる光の色が違うということで、作品一枚一枚に理想の光を的確な場所に照射することが出来る工夫がされています。
 これが、写実絵画専門という世界的にも稀な専門性を持つ個人コレクションを常設展示するために建てられた私立美術館だということに驚きます。
 行った時、ちょうどNHKの取材が入っていて、館長の保木将夫氏の姿が見られました。 失礼な言い方ですが、ふっくらとして穏やかでか、館長らしさは感じましが、このような美術館を建てる実業家のようには、思えませんでした。
 保木将夫氏は、医療用キット製品メーカー「ホギメディカル」創業者です。
 今回の企画展では、同展のために描き下ろされた9点を含む写実絵画約60点が飾られ、「世界遺産の丘」「岩場の波打ち際」といった風景画から、「巨大なハサミを持つザリガニ」「花器に活けられた薔薇」などの静物画まで、とても人間業とは思えない、写実の美の展開です。
山本大貴作品
 案内に下記のことが記されていました。
 「単眼レンズで瞬間的にとらえる写真とは違い、人間の両眼で見たままを描いており、どこまでもピントがあっているのが特徴です。写実絵画は、その繊細で緻密な画風から、制作には気の遠くなるような時間が費やされています。」
 「まるで写真のようだ」と思わず口にしますが、それはある意味失礼です。
 堪能しました。
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「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」にいた「ワシントン犬」

 もうひとつ、「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」の話題です。
 「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」には、かわいい犬が描かれた作品が5点出展されます。そこで、この5匹の犬を「ワシントン犬」として、愛らしいピンバッジを造りました。
ワシントンギャラリーに登場する犬たち
 そして、それぞれ作家や作品のタイトルにちなんで、犬には名前がついていました。
 エドゥアール・マネ「鉄道」から『エド』
 メアリー・カサット「青いひじ掛け椅子の少女」から『メアリー』
 アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック「犬を抱く女性」から『アンリ』
 ポール・ゴーギャン「ブルターニュの踊る少女たち、ポン・タヴェン」から『ポンタ』
 エドゥアール・マネ「キング・チャールズ・スパニエル犬」から『キング』
 マネの「キング・チャールズ・スパニエル犬」
私は、この5枚の絵の絵はがきを購入しました。
 連れ合いは、マネの「鉄道」の『エド』のバッジを買いました。
 マネ「鉄道」のキング・チャールズ・スパニエル犬
小さいけれど、かわいいです。

クロード・モネの「日傘の女性、モネ夫人と息子」

 「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」で、クロード・モネの「日傘の女性、モネ夫人と息子」が出展されています。
 6月25日放送の『美の巨人たち』はモネ『日傘の女』を特集をしていました。
 モネは、「日傘をさした女性」を3点描いています。
 この「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」に出ている作品が一番最初で、1875年に描かれています。モネ、46歳の時の作品です。
クロード・モネ「日傘の女性、モネ夫人と息子」(
 この絵では、奥さんのカミーユと息子のジャンと一緒に描いかれています。ここでは、目鼻立ちもくっきりと描かれ、青い空に白い雲などの光溢れる描写には、幸福な気持ちがあふれているようです。
 しかし、この絵のモデルであった妻カミーユは、モネの絵がまったく評価されない時からモネを支えてきました。しかし、2男を妊娠した頃から体調を崩し、出産後1879年に亡くなります。
 それより少し前、モネのパトロンであったエルネスト・ オシュデの破産に伴い、モネはオシュデ夫人のアリスとその子ども達を引き取っています。
 彼は妻の死から4年後ジベルニーに移りますが、その彼を支えたのが元パトロンの妻だったアリスでした。そしてモネとアリスは後に夫婦となっていきます。
 さて、後に描かれた2枚の「日傘の女」は、奥さんであるカミーユが病気で亡くなった後、7年後(1886年)に描かれたもので、パリのオルセー美術館に収蔵されています。
 モネ「日傘の女」2
『美の巨人たち』では、後に描かれた2点については、亡くなった妻カミーユをイメージして描いたものと説明していましたが、一般的にはこの2点のモデルはアリスの娘(3女)シュザンヌであるとされています。
 この2点の作品では、顔がはっきりと描かれていません。これはモネのカミーユへの想いからという見方が確かになりたちます。
 ですから、この絵は彼の記憶の中で、最高に幸せだった時の美しい亡き妻の思い出がイメージになっていて、それが具現化されたものというのにも同感できます。
 さらに、この2点、足元に陰があるものとないものがあります。
 陰がない1枚は亡くなった妻カミーユへの別れの気持ちとして描いたのだろうということです。
 モネ「日傘の女」3
「日傘の女性、モネ夫人と息子」、とても感動しました。

「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展 印象派・ポスト印象派 奇跡のコレクション」

 国立新美術館の「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展 印象派・ポスト印象派 奇跡のコレクション」に行って来ました。
 アメリカ合衆国の首都、ワシントンD.C.のワシントン・ナショナル・ギャラリーより、印象派とポスト印象派の傑作、日本初公開作品約50点を含む全83点を展示する展覧会です。
 このワシントン・ナショナル・ギャラリーは1941年に開館した美術館ですが、個人コレクターらの寄贈でコレクションを充実させてきました。
 そしてこの美術館ができるには、ひとりの大富豪の夢がありました。
 その人の名は、アンドリュー・メロン。19世紀末から20世紀にかけて銀行家、実業家としてアメリカ屈指の財を築き、1890年代末にはジョン・ロックフェラー、ヘンリー・フォードらと並んでアメリカ合衆国を代表する大富豪となった人です。
 美術館の名前に自分の名前を付けないことをコレクション寄贈の条件としました。
 今回の展覧会の会場構成はシンプルでした。かえって分かりやすかったです。
 第1章:印象派登場まで
 第2章:印象派
 第3章:紙の上の印象派
 第4章:ポスト印象派以降
 マネは5点あります。
 ポスター、チラシの使用されている「鉄道」。やはり引きつけられます。
エドゥアール・マネ 《鉄道》
 マネが当時パリで最も権威ある展覧会だったサロンに、1874年に出品した3点の油彩画の中で、唯一入選を果たしたという作品です。
 舞台になっているのはパリのサン=ラザール駅。駅や機関車は、蒸気と鉄格子によって隠され、見ることはできません。題名は「鉄道」です。
 少女の右側には、さりげなく一房のぶどうが置かれています。
 ちなみに、マネの「キング・チャールズ・スパニエル犬」もこの一角にお行儀良く座っています。
 3点のドガに6点のモネ。
 モネの「日傘の女性、モネ夫人と息子」はワシントン・ナショナル・ギャラリーの顔とも言われる一枚です。
 この作品については別に書きます。
 次の部屋には、ルノワールが描いた「モネ夫人とその息子」も展示してありました。
 さて、カサットやベルト・モリゾといった印象派の女性画家の作品も素晴らしかったです。
 印象派の作品をいち早くアメリカ大陸に紹介しもたらす大きなきっかけを作った女性、それがメアリー・カサットでした。
メアリー・カサット 《青いひじ掛け椅子に座る少女》
「青いひじ掛け椅子の少女」。奥行きとボリューム感がありつつもやわらかなやさしさに包まれて、ホッとするものを感じます。
 白いドレスにタータンチェックの靴下とサッシュを身につけた少女は、ドガの友人の娘です。隣の椅子で静かに眠っているのはカサットの愛犬です。
 第3章はマネからロートレックまでの水彩画や版画をまとめての紙の作品となっています。こうした紙の作品は痛みが心配であまり展示されないとのことで、丁寧に見ました。
 特に、セザンヌの水彩画「ゼラニウム」は、やはりすごいという思いがしました。
ポール・セザンヌ 《ゼラニウム》
 セザンヌ作品は次の部屋と合わせて、6点展示されています。
 ポスト印象派として、スーラ、ゴーギャン、ロートレックなどの作品が展示されています。
 会場で販売されている絵はがきで一番の人気はゴッホの「薔薇」でした。
フィンセント・ファン・ゴッホ 《薔薇》
 精神を病み、自らサン=レミの精神療養院に入院した時に描いた作品のひとつです。
 有名な「ひまわり」のエネルギッシュな筆遣いに通じるものがあります。
 「ここでは花瓶からあふれんばかりの薔薇を生き生きと描くことで、春の訪れや健康を回復したことへの喜びが率直に表現されています。」ということです。
 ゴッホの自画像もありました。

「人間の条件」

 NHKBSプレミアムで6夜連続放映された「人間の条件」を見ました。
「人間の条件」
 なんとなく中学の時と思っていたのですが、年齢で考えると高校生です。試験が近い日、この1部とおそらく2部も一緒だったのではと思うのですが、見に行きました。
 かなり興奮して、その映画のことで頭がいっぱいでした。
 それからまもなくだったと思うのですが、たぶん国語の先生だったと思うのですが、「人間の条件」という映画を見たかと言いました。
 どういう話が出たのかは忘れています。ああいう映画は試験前でもぜひ見なさいという話でした。「人間の条件」を見て良かったなと思いました。
 その当時は、正義を通する人間になりたいと思いました。まだ、1部、2部で、理不尽もそれほどではなかったのです。
 山村聡がとても魅力的で、仲代達矢よりも印象に残りました。
 その後の印象は、兵隊で痛めつけられていることと、女性が犯されることの印象が残っているぐらいです。
 でも、とても心に残っています。
 五味川純平の原作は、やっと大学生の時読みました。こちらも、興奮して、全6巻アッという間に読みました。なんでもっと早く読まなかったのと後悔しました。
 だんだん、自分の意志を貫くことができない現実を知ってきていました。
 原作は、40代、50代にも、8月になると思い出して本を読みました。
 そして、ほぼ同じように感動しました。
 いつも考えていたのは、戦争がどうのより、組織の中で、意志を貫けられるか、です。
 学生のころ池袋の文芸座で、この「人間の条件」がオールナイト興行で一挙上映されているのが話題になっていました。見に行きたいと思っていたのに結局果たせませんでした。
 下宿をしていて、家を空けることができなかったのです。ひ弱でした。
 しかし、この映画をもう一度見たいという思いは強くなり、何年か前、DVDのセットを買いました。実は、全6部の総上映時間は9時間31分ということで、ひとりで見たいという思いもあって、チャンスをつかめないまま時が過ぎていました。
 今回「山田洋次監督が選んだ日本の名作100本 家族編 」で全6作を放映すると聞いて、やっと見られると、嬉しかったです。
 画面もきれいで、まったく新しい気持ちで見ました。
 思っていた以上に、梶は強いですね。原作ではもう少し弱い人間性が出ていたように思います。
 五味川純平の『人間の條件』は戦争を舞台にしていますが、人間の在り方を問うた物語です。人間であることの難しさを考えさせられます。

「美千子。僕は生きるために何人も殺してきた。それでも君は僕を許してくれるかい?僕は君に向かって歩き続けているのだから。君はまだ僕を待っていてくれるだろうか…」

新宿探訪 西新宿篇13 新宿十二社 熊野神社

 新宿の中央公園に接して熊野神社があります。
新宿熊野神社 鳥居から
 この神社は、室町時代の応永年間(1394~1428)に中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十二所権現をうつし祀ったと伝えられます。
 また、由緒については、紀州から熊野権現を奉戴して角筈に来たのは渡辺与兵衛であるという説もあります。渡辺家は代々角筈村の名主を勤め、熊野十二社権現に関する文書をはじめ多くの古文書が現在に残されています。(史実としては、渡辺家かもしれませんが、中野長者の伝説は、この地の成り立ちに大きな意味を持っています)
新宿熊野神社 拝殿
 江戸時代には、熊野十二所権現社または十二社と呼ばれています。
 寛文7年(1667)に、玉 川上水から神田上水への助水堀が造られた時、用地を無償で提供したことにより、幕府は日光の宮大工に命じて社殿を修復します。
 それからは、周辺に屋敷を持つ大名は神社の祭礼に寄付を怠ることがなかったといいます。
 享保年間(1716~1735)には、中野長者、鈴木九郎の創建した中野の成願寺が別当として管理することとなります。
 また、その享保年間には8代将軍吉宗も鷹狩を機会に参拝し、そのことで池の周囲には茶屋や料理屋が建ち並ぶようになり、景勝地としての賑わいを見せるようになります。
 神田上水の助水堀から生まれた、高さ3丈(9メートル)におよぶ大滝があり、ほかにも境内には滝や池を擁し、十二社一帯は、江戸西郊の景勝地として賑わいました。
 花見、雪見などの清遊の地として、また夏には避暑地として、多くの文人墨客もここを訪れています。
 明治になってもその賑わいは続きます。
 「池畔みな茶亭にして欄に倚(よ)り水に臨み、あるいは瀑泉に浴してもって遊息すべし。酒果 は勿論何らの飲食も拍掌指命すれば立ちどころに弁ず。その大なるものには温泉の旅館千登利、西洋料理寒香園あり。瀑泉は3、4ケ所。」
 ただし、滝は、明治以後、淀橋浄水場の工事などにより埋め立てられていきました。
池は、浄水場建設のために狭められますが、昭和の戦前まで行楽の地として賑わいは続けました。
 熊野神社の氏子町の範囲は、西新宿ならびに新宿駅周辺及び歌舞伎町を含む地域で、新宿の総鎮守となっています。新宿通りの三越あたりまでが、熊野神社、その先は花園神社になります。
 なお、熊野神社には嘉永4年(1851)建立の中野宝仙寺の僧負笈(ふきゅう)道人および『江戸繁昌記』の著者寺門(てらかど)静軒撰文になる「十二社碑」、文政3年(1820)大田南畝(蜀山人)の銘文を刻んだ「水鉢」、「七人役者図絵馬」「式三番奉納額」などが新宿区文化財としてあります。
北斎 よつや十二そう
 ついでながら、今回はふれることができませんでしたが、中沢新一氏は『アースダイバー』という著書で、中野長者伝説は「新宿の定礎を語る物語」だと論じています。大変興味深い論考です。
 もうひとつ、熊野神社は全国に3000社と言われるほど全国的な分布を持っています。
 熊野信仰は、熊野三山を中心とする信仰で、初めは浄土信仰、また延命長寿を求めての信仰から発しましたが、のちに八咫烏(やたがらす)を図案化した熊野牛王宝印(ごおうほういん)を配布する広い信仰となります。
 さらに、豊富な経済力をもって、室町時代にすでに御師(おし)は為替制度を始め、江戸時代には諸大名以下に金融貸付をするとともに、衆庶に広く信仰を説くことに努めて、北は東北地方、南は沖縄にまで熊野神社が勧請され、まさに全国的な信仰となっていきます。中でも沖縄では、神社の殆どが熊野権現を祀っていると言われます。

根津美術館 「古筆切」展

 先日、改装されて初めて、根津美術館へ行ってみました。展覧会はもう終りましたが「古筆切(こひつぎれ)~ともに楽しむために~」でした。
 館蔵品による[古筆切を楽しむ展覧会
古筆切とは、もとは巻物や冊子だった平安~鎌倉時代の歌集や古写経が小さく切断され、掛け軸などに表装されたものを言います。
 桃山時代以降、茶の湯の流行にしたがって、軸にして飾ることで流行したと聞いています。中には、アルバムのように貼り込んだ、手鑑というものもあるのですね。そうした軸や手鑑が展示してありました。
 作者表記は、伝○○○と、はっきりしない書が多いですが、これは、古筆家の鑑定では「筆者が不明」ということは許されなかったため、必ず誰かの名前が特定されているのだそうです。
 こうした展覧会は、書をされている人向きなのでしょう。あるいはお茶をたしなむ方とか。展覧会の趣旨としては、単に、筆づかいだけではない書の楽しみ方があるということを知っていただきたい、ということでした。
 料紙装飾に目を向ければ、工芸として、また書かれた内容が分かれば、文学としての楽しみ方もあります。
 流麗な書を観ると、心が落ち着きます。
 今回は、根津美術館がどうなったのか知りたいというのが、もうひとつの目的でした。
 以前の根津美術館へは、お庭の茶室で開かれた茶会に時々来ていました。その先生も亡くなって、すっかり縁が切れました。
 隈健吾という、サントリー美術館も手掛けている建築家によるもので、直線とガラスを多用した新しい「和の空間」が生み出されています。
 根津美術館、入口方面
入口を入ると、竹の、壁面、その竹ロードを直進し90度左に折れると、美術館受付が唐突に現われます。
 展示会場前には、仏像が横に4体ほど展示可能な、極小展示室。室内には日本の木彫の名品が、そして各展示室をつなぐ「ホール」にはガンダーラや中国の石彫が、露出展示で置かれています。
 そして、魅力はガラス越しに見える、広大な日本庭園です。庭園の奥には六本木ヒルズが見えます。
 根津美術館 
右手に「NEZU CAFE」があります(こちらも隈研吾氏の手によるもの)。
 根津美術館 「NEZU CAFE」 ランチ
今回はここで昼食(ハンバーグランチ)をいただきました。
 「NEZU CAFE」は元々、初代根津喜一郎氏の私邸があった場所です。四方をガラスで囲まれた開放的なスペース。天井にも和紙がはってあって、自然光でまかなえる設計になっています。
 お庭を少し散策して帰りました。もっとゆっくり来たいです。

「空海と密教美術」展

 「空海と密教美術」展のことを書くと、どうしても仏像がメインになってしまいます。でも、この展覧会のメインは、おそらく曼荼羅図の方だろうと思います。曼荼羅図を観て、すごいなという感動は受けるのですが、それの表現ができません。
 で、どうしても、ここに書くとすると、仏像になってしまいます。(曼荼羅図については、勉強したいと思います)
 そいうことで、「第2章 入唐求法―密教受法と唐文化の吸収」に入ると、その最初に、不思議な面持ちの仏像が立っています。
国宝 兜跋毘沙門天立像 
 国宝「兜跋毘沙門天立像」(唐時代・8世紀 京都・東寺 )です。
 東寺にある仏像で、かなり有名なようですが、知りませんでした。
 日本の仏像にはない少し特異な姿とお顔をした仏像です。口がわずかに開き歯が見えていたりします。観れば観るほど引きつけられます。
 身体には鎖を編んで作られた金鎖甲をまとっています。腕もそうで、肌の露出はほとんどないです。唐から運ばれてきたた仏像のようです。
兜跋毘沙門天立像 上半身
「兜跋毘沙門天立像」について調べると次のように書かれていました。
「兜跋毘沙門天は、西域の兜跋国に出現したといわれ、王城鎮護のために城門に安置される。正面に鳳凰、その左右の側面に宝棒を持って立つ人物を薄肉彫する宝冠、外套風の特殊な金鎖甲、両手に海老籠手、脛にも海老状の脛当を付け、地天女の上に立つことなどが特徴である。」
 日本には、平安初期に、中国・唐から伝わり、平安京の羅城門上に安置されていたようです。
 展示を見終わって、最後にもう一度拝観に行きました。
 「東寺講堂の諸像8体による仏像曼荼羅」から、特に人気のある仏像2体。やはり、惹かれます。
国宝 「梵天坐像」(木造彩色、座高100cm、平安時代・承和6年(839)) 
「梵天坐像」
 菩薩・明王の西を守護しています。仏教では悟りを開いた釈迦に対し、 人々に説法するように促したのが梵天だと言われています。
 密教ならではの四面三目(十二目)四臂で4羽の鵞鳥(がちょう)が支える蓮花の上に坐しています。
 この鵞鳥が本当に魅力的なのです。そぶりがとてもかわいいです。
 国宝「帝釈天騎象像」(木造彩色、座高100cm、平安時代・承和6年(839))
「帝釈天騎象像」
 菩薩・明王の東を守護しています。仏教に帰依してからは釈迦修行時代の仏法の守護神となり、慈悲深く柔和な性質も持つ。一面三目二臂で白象に乗って半跏踏み下げの姿勢をとっています。頭部だけ後補となっているそうで、でもこのお顔は、とても魅力的です。いつも見とれてしまいます。

「空海と密教美術」展

 東京国立博物館(平成館)へ 「空海と密教美術」展を観に行きました。
空海と密教美術展
 「密教」については、もともと分かりにくいのですけど、この言い方はおもしろいと思いました。
 密教とは「秘密仏教」という意味、ということで、「秘密」だから、伝えにくいというのです、
 「密教は秘密の教義や儀礼によって師から弟子へと伝えるので、ことばだけでは伝えきれない真理があると考えます。」
 日本に密教を伝えた空海(774~835年)も、「密教は奥深く、文章だけで表わすのは困難であるから、かわりに図画などを用いて悟らないものに示すのだ」(『御請来目録』)という意の文章を残しているのだそうです。
 「ことばだけでは伝えられないもの」を伝えるために、密教では仏尊や密教教理を視覚化した仏像や曼荼羅、さまざまな法具をきわめて重視するので、密教を取り巻く「美術」(美術と言っていいのかどうかという気もするのですが)は、その奥行き、その量ともにすごいのです。
 今回の展覧会では空海が中国から請来(しょうらい)した絵画、仏像、法具、また空海の構想によってつくられた教王護国寺(東寺)講堂諸像など、空海ゆかりの作品だけでなく、(この展覧会の言い方で言えば)空海の息吹が残る時代に造られた作品を中心に、密教美術の名品が展示されています。
 出品作品は99点(もっとあったような気がします)で、その98.9%が国宝または重要文化財という、まさに質、規模ともに豪華な展覧会です。
 会場構成は次のとおりです。
 第1章 空海―日本密教の祖
 第2章 入唐求法―密教受法と唐文化の吸収
 第3章 密教胎動―神護寺・高野山・東寺
 第4章 法灯―受け継がれる空海の息吹
 最近の展覧会構成は、とにかく凝っています。
 だいたいは、その「作品」が本来ある場所で出会うのが、一番感動するものなのですが、最近は、展覧会で、大きく感動することが多くなって来ました。展示をとことん考えているのです。今回もそうした展覧会です。
 特に、第3章の中の「東寺講堂の諸像8体による仏像曼荼羅」。会場では最後の展示空間に「立体曼荼羅」の構成で並べられています。
 何度か東寺で、講堂の仏像を拝観しているのですが、ここまで、きちんと拝観できたことはありません。もちろん、今回博物館にお出ましになっているのは、21体の仏像のうち、国宝の8体だけなのですが、それこそ、どの仏像も、ケースもなく、360度ぐるりと拝観でき、それこそさわれるぐらい近いのです。もうすごく興奮をしてしまいました。
展示作品からひとつ。

 国宝 「諸尊仏龕(しょそんぶつがん)」
「諸尊仏龕(しょそんぶつがん)」
 唐時代・8世紀 和歌山・金剛峯寺蔵
 仏龕とは、仏像と厨子を1つの材から彫り出したもの。この仏龕は白檀製で、釈迦如来と考えられる像を中心に脇侍や羅漢、天蓋などが緻密に表される。空海が中国から持ち帰ったもので、中国に密教を伝えたインド僧の金剛智から空海まで、密教の正系の証といえる

新宿探訪 西新宿篇12 十二社の池の変遷

 十二社(じゅうにそう)の池は、慶長11年(1606)伊丹播磨守が田畑の用水溜として大小2つの池を開発したもので、現在の熊野神社西側、十二社通りを隔てて建つビル側にありました。
1947年(昭和22年)当時の西新宿.....いや、角筈十二社の姿
 十二社は、近くの熊野神社が紀州の熊野十二所の神を祀っていることから、十二社と呼ばれていて、それが、一帯の旧地名にもなっていました。
 現在でも地元ではその名で呼ぶことがまだあります。公にはバス停の名前で残っています。
 十二社の池は、新宿中央公園の西側を南北に通る十二社通りの西側、北側に開ける深い谷戸の底にありました。
 すぐそばに新宿一帯の鎮守社熊野神社があること、寛文7年(1667)に玉川上水から神田上水への助水堀が引かれ、その神田上水助水堀から滝が落とされたことなどから、江戸近郊の景勝地として知られるようにmなります。
 広重『名所江戸百景』[角筈熊野十二社 俗に十二そう]
池の周囲には享保年間(1716~35)より、茶屋が並び、明治以降は料亭や芸者置屋も数多く出来て、池の西側からそれに続く丘陵地にかけて、花街として賑わいました。
 下の溜井(小池、下池)は明治期には既にかなり小さくなっていましたが、上の溜井(大池、上池)は弁天池とも呼ばれ、明治~大正期の時期で南北300m、東西50mの規模があって、池ではボートや釣り、花火が楽しめたほか、屋形船まで浮かべられていたといいます。
 一帯は大正13年(1924)には二業地(料理屋、芸者置屋)、昭和2年(1927)には三業地(二業地+待合)として指定され、賑わいました。その最盛期には料亭・茶屋約100軒、芸妓約300名を擁したと言われています。
 その後、花街は戦争末期の経済統制と東京の空襲でいったん消滅しますが、戦後に復興します。もちろん戦前ほどの規模ではないですが、1950年代に戦後の最盛期を迎えています。
 昭和33年(1958)には弁天閣が温泉を掘削し、「十二社温泉」としてオープンする。 しかし、その頃をピークに料亭、待ち合いは減少。池を取り巻く環境も、淀橋浄水場の廃止と副都心の開発、近辺の宅地化などによって大きく変化していきます。
 下の溜井(小池、下池)は、上の溜井(大池、上池)の分水で、昭和初期より一部の埋め立てが行なわれ、戦時中にはほとんどが埋め立てられていました。
 そして、上の溜井(大池、上池)も、昭和43年(1968)7月にはすべて埋め立てられてしまいます。
 花街も昭和60年ごろにはほとんどの料亭が廃業し、終焉を迎えます。
 平成24年(2009)には十二社温泉も閉館してしまいました。
 十二社池と花街の痕跡はまだいくらか残っています。
 今回はその一つ。
 十二社の池のなごり。池から。
かつては下ノ池の池端に続いていたであろう階段と、途中にある、おそらく待合の名残であろうホテル「ニュー寿」。ここは、荒木経惟の写真で知られています。
十二社の池のなごり。上から池の跡を望む。

新宿探訪 西新宿篇11 ガスタンク・神田上水助水堀・水道道路

 「梅屋敷銀世界」は、明治44年、東京ガス株式会社淀橋供給所の所有となり、梅樹は芝公園に移さます。そして、その「記憶」として、銀世界稲荷が祀られているのですが、そこには、東京ガスの大きなガスタンクがありました。
 明治44年、当然のごとく、ガスタンク建設反対の住民運動が起こりましたが、翌45年5月、敷地1万3千216坪に容積約300万立方尺のガスタンクが竣工し、ガスは東京の外堀以西一帯の需要者に供給されることになります。
 それから、平成2年(1990年)までガスタンクはありました。円筒形のタンクでガスの貯蔵量によって高くなったり、その量が低くなったりしていたのがよく見えたようです。
 淀橋浄水場とガスタンクの、古い写真があるので、それを借ります。
 旧淀橋浄水場付近から見た円形の「文化服装学院」の建物とガスタンク。
 ガスタンクのあった場所あたりで、もうひとつ、大切な記憶は、神田上水助水堀があったことです。
 神田上水助水堀は、甲州街道脇の正春寺あたりから、十二社通りから熊野神社を抜け、青梅街道を越える淀橋へと走っていました。
助水 小
 神田上水助水堀は、通常の玉川上水の分水(主として農業用水、上水として分水された千川、三田上水も農業用水に転用)と、根本的に性格を異にしており、水量不足の神田川(神田上水)に、「上水」としての水を補給するためのものでした。
 玉川上水の完成から10数年後の寛文7年(1667年)開設、明治31年(1898年)淀橋浄水場完成により、玉川、神田上水が上水としての機能を失うまで、一貫して維持されてきました。
 その後も、昭和40年(1965年)浄水場廃止まで、その排水路として機能していました。
ただそれは、熊野神社を通り越しての水路で、そこまでの水路は、かなり以前に埋まられていたようです。
 (地図は、大正7年ごろの様子を指名しています)
 銀世界稲荷から十二社通りの方へ抜け、角筈区民センターへ向かいます。
 その角筈区民センターの前の道は、水道道路と呼ばれています。
 これは、明治31年(1898)、淀橋浄水場の新設に伴い現在の和泉給水所から淀橋浄水場まで開削された、一直線の水路の跡です。跡地のほとんどは都営住宅と道路に転用されましたが、道路の名前は淀橋浄水場への水路の記憶を残して、水道道路と呼ばれます。

新宿探訪 西新宿篇10 新宿パークタワー「新宿地域冷暖房センター」

 都庁から、中央公園を少し行くと、下の道路の所に「淀橋給水所」があります。以前は有人で東京都水道局東村山浄水管理事務所技術課が統括していましたが、現在は無人で、本郷にある水運用センターが統括しています。震災などで、飲み水が断水したら、ここで配給になります。淀橋給水所の上に架かる橋は"水の橋"という名称が作られています。
 さらに南に進むと、52階の超高層ビル「新宿パークタワー」が建っています。
 東京都庁と同じく、丹下健三氏設計の超高層ビルです。オフィス、展示施設、多目的ホール、ホテルなどの機能を備えており、ビルの先が特色があり、これも東京都庁と同じく新宿副都心の顔でもあります。
 ここで街として大事なのは、「新宿地域冷暖房センター」が地階にあることです。
 西新宿一帯の冷暖房はここで行っています。
 冷凍能力、207,680kW(59,000RT)、加熱能力173,139kW、供給延床面積220万m2は世界最大級の地域冷暖房センターです。
 このセンターが新都心の地域冷暖房を始めたのは、京王プラザホテルが竣工した昭和46年(1971)からです。
 その案内によると、「クリーンな天然ガスを燃料とし、コージェネレーションなどの最新テクノロジーを導入することにより、都市の環境改善・省エネルギーなどを積極的に推進しています。平成12年(2000)3月には熱供給事業として初めて国際環境マネジメントシステム規格ISO14001の認証を取得しています。」
 申し込めば、その施設の見学も可能です。
 さて、「新宿パークタワー」、江戸時代は、梅の名勝でした。
 園内には、広く梅が林をなし、将軍御目留の梅、御腰掛の松などといわれる奇株もあったということです。
 維新前、日本橋本町御影堂の所有となると、屋敷守が手作りした土産の「梅漬」を売り、筵(むしろ)を用意してやって来る客たちに貸席を設けると、各自日当たりのよい梅下に腰を下ろし、白梅をめでながら瓢酒を斟み、仲間同志歓談をしたいました。
 江戸の市内から、日帰りで清遊するのにちょうど良い距離でした。
 名称は「銀世界」と呼ばれていました。おそらく白梅が雪景色のようだったのでしょう。

 ここの銀世界のことは、今年の3月2日、梅が咲いていたころ、このブログに書いています。

古代ギリシャ展 「愛と欲望」

 第4章は「人々の暮らし」で、愛と欲望、生と死などの日常生活がテーマです。
 アフロディテの息子エロス(キューピッド)の像や、半身半獣のサテュロスから逃れようとするニンフ像などのほか、陶器の絵にも「愛と欲望」が描かれ、当時の「愛と欲望」を知ることができます。
 もちろん、彫刻などの古代ギリシャの裸体表現そのものは、欲望をかきたてるためであったわけではなく、肉体の美しさへの賛美ですでが、特に陶器の絵には娼婦の姿や同性愛、あるいは性交そのものを表したものがあります。
 今回は、おそらく、あまり露骨なものは来ていなのだと思いますが、それでも、なかなかです。これは浮世絵展で、春画が少し展示されている状態といえるでしょうか。
 たとえば、赤像式ペリケ(水差し)に描かれた絵。庭に、ニョキニョキ男性器が生えていて、それに女性が水をやっているという絵があります。
 これは何をいみしているのでしょう。
 優勝した選手に、勃起した形で出会いを求めている絵もあります。
 当時、全裸が許された場はギュムナシオン(運動場のある男性の教育施設)などに限られていたわけで、そこにはしばしばエロス(キューピッド)の像が飾られたといいます。本展の「エロス像」(2世紀)は翼の生えた少年が弓を持ち、ギュムナシオンが当時は一般的だった同性愛の場でもあったことをうかがわせます。
 ≪エロス(キューピッド)像≫ (後2世紀)
 古代ギリシャ エロス キュッビッド像
エロスは愛の女神アフロディテの息子で、青年男性と少年の愛をも含む、欲望の擬人像である。ギリシャ人は、このエロスが翼を持つ少年であり、彼の矢に射られると欲望の虜となると考えられていました。
 この像は、紀元前4世紀後期に、リュシッポスによって制作されたオリジナル彫刻のコピーと考えられています。
 『耳飾り』 (前330-前300年)
古代ギリシャ展 耳飾り
 耳飾りの円盤部分と円錐部分には女性像が挟まれており、左右にはイユンクス(欲望をかき立てるという恋のお守り)を持ったエロスが吊り下がっています。
『サテュロスから逃れようとするニンフの像』 (後2世紀)
古代ギリシャ サテュロスから逃れようとするニンフの像
 半身半獣のサテュロスから逃れようとする精霊ニンフ。二人の身体を巧みに組み合わせ、 あらゆる角度から見られるようデザインされています。ニンフ像などは、当時の性的な欲求に答えたものだったとのこと。

 なんとなく、古代ギリシャに生まれていたらどうだっただろうと思いました。
 というのは、若かりしころ、短距離の選手で、オリンピックにも憧れていました。
 なんだか厳しいな、と思いました。

古代ギリシャ展「オリンピアとアスリート」

 第3章は「オリンピアとアスリート」です。
 来年のロンドンオリンピックです。
 この展覧会は、2008年の北京オリンピックを機に上海から出発し、世界中を回っています。テーマは身体、ボディー・ビューティフル、肉体の美しさとスポーツです。
 古代ギリシャでは、運動競技は男性市民の早期教育に欠かせないものでした。
 オリンピアで4年に1度開催された競技祭には全ギリシャから選手と観客が集まりました。
 ギリシャにとって肉体の美しさとは、身体能力の高さだけでなく、知的に優れていることも含まれていました。知能もないといけないのです。
古代ギリシャ 優勝選手の像
 それといくらか関係するかもしれませんが、現代ではメダリストは壇上で勝利の喜び大きく表現しますが、たとえば《優勝選手の像》は視線を落としています。これは内省的な仕草であり、節度を表しています。つまり、喜びを表すだけではダメなのです。特別な瞬間を神へ奉げているのです。
 会場では、オリンピアの競技がこうであっただろうとビデオで写されていました。
 競技はすべて個人種目であり、その意義は参加することではなく、自分自身の力で勝利の栄光に輝くことでした。
 勝者には唯一の賞品、オリーブの冠が授けられました。
 そして、選手たちはすべて全裸です。
 アスリートたちは、照り輝く太陽の下、ギリシャ人が理想とした美しい肉体を、惜しみなく披露したのです。そして、そこは肉体美を鑑賞する劇場でもありました。
 さらに、ギュムナシオン(運動場のある男性の教育施設)や競技場は出会いの場でもありました。
 当時、全裸が許された場はギュムナシオンなどに限られ、そこにはしばしばエロス(キューピッド)の像が飾られたといいます。
 現代では、その模造品がギリシャのおみやげにもなっているギリシャ陶器には赤地に黒い像の黒像式と、黒地に赤い像の赤像式があります。
古代ギリシャ 黒像式パナテナイア競技祭アンフォラ:長距離走
 そこには、幅跳びの選手、長距離走、重装歩兵の徒競走、ボクシング、レスリングを描いた陶器もあります。
 腕を振り、足を高く上げて懸命に走る長距離走の選手たちの姿。
 幅跳びの選手の絵では、跳ぶ時にはずみを付けるためだそうで、「錘」を両手に持っています。あんなものを持って、跳べるのかなと思いました。ビデオでも持っていました。
古代ギリシャ 赤像式キュリクス(酒杯)
 今回、一番、びっくりし、感動したのは、ギリシャ陶器のこうした絵です。ギリシャ陶器の絵がこんな意味を持っていたとは知りませんでした。
 野ウサギを追いかける少年の姿の酒杯がありました。酒杯のまわりの縁に「レアグロスは美しい」と「少年は美しい」という二つの銘文が記されています。
 これは、当時、同性の年長者から少年や青年に求愛する文化があり、野ウサギは愛の贈り物として交換されていたそのことをテーマにしています。古代ギリシャには年長者による若者への性的賞賛が謳歌されていました。
 古代の人々も絶賛した「円盤投げ」です。
古代ギリシャ 円盤投げ(ディスコボロス
 円盤を投げる直前の運動選手、この彫像は、美しい身体というのはこういうものだという理想の形を完璧に表現しています。
 この彫像は紀元前5世紀半ばにギリシャの彫刻家ミュロンが作ったブロンズ像のローマ時代(後2世紀)のコピーです。こう書くとなんだか、価値が下がる感じになりますが、そんなことはありあせん。
古代ギリシャ 円盤投げ 後ろから
 今回、特設の台に置かれているので、ぐるっと何回も廻って見ました。朝早かったので4人でした。

『大英博物館 古代ギリシャ展』

 上野の国立西洋美術館で行われている『大英博物館 古代ギリシャ展』に行ってきました。実は、ギリシャ神話は知らないし、目玉も、円盤投げだけか、とあまり期待していなかったのですが、テレビなどで見ると、なかなか、面白そうで、出かけました。
 分かりやすい展示で、とても素晴らしい展覧会でした。
 展示は以下の4部で構成されています。
 1章 神々、英雄、別世界の者たち
 2章 人のかたち
 3章 オリンピアとアスリート
 4章 人々の暮らし
 「神々、英雄、別世界の者たち」には、ギリシャ神話の登場人物の分かりやすい解説がしてあり、面白いのですが、朝一番で行ったので、ドッと入場し、ここに人がたまりました。そこで、ここは急いで通り過ぎ、次のII 人のかたちから丁寧に見ました。
 「美の源流、理想の男女の身体」ということですが、ギリシャの時代、当初は男性の裸像が中心だったようです。女性は後からです。
 この展覧会で最も古いと思われる、《後期スペドス型女性像》は題名通り女性です。
古代ギリシャ 後期スペドス型女性像
 この大理石の小さな女性像(高さ48.5cm 幅12.2cm)は、紀元前3000年紀におけるキュクラデス美術の典型例とされています。墓の中から出土していることから、人々の目にふれるものではなく、死者の旅立ちの付き添いとして制作されています。日本の埴輪のようなものなのでしょうか。時代はもっと古いですが。
 身体の細部はもともと彩色が施されていました。古代ギリシャの幕開けを告げる女性像と言われています。
 そして名実ともに美しい女性像。
 ≪アフロディテ(ヴィーナス)像≫
ギリシャ展 アフロディテ(ヴィーナス)像
 アフロディテは美と愛欲の女神で、オリュンポス12神の中の女神ですが、もともとは、オリエントの豊穣多産の神であったと考えられています。
 この像は、紀元前360年頃、彫刻家プラクシテレスが作った彫刻をもとに、ローマで数多く生み出されたコピーの一つだそうです。
 ギリシャ展と言っても、この展覧会には、このようにローマ時代にコピーされた像がたくさん出展されています。でも、すごいですが。
 少しうつむき加減で、謙虚さと節度を表現し、しとやかで美しいです。
 アフロディテ像が祀られたクニドスの町の神殿は、旅行者を惹きつける人気の場所だったとかで、沐浴のために裸となった女神の姿を見る者は、あたかもアフロディテの不意を衝き、のぞき見するような感覚に陥ってしまうと言われています。のぞき見という感覚には、エロチックな感じがします。
 実は、この展覧会の一番の見どころは、「4章人々の暮らし」に出てくるエロスです。そのエロスが全会場に漂っています。

ムクゲの花とネコノチチの実とコブシの実

 目黒の林試の森で自然観察をしました。いくらか涼しくて、2時間、歩けました。
 今日は、そのうちから、花と果実を。
 花は、ムクゲの花です。
 ムクゲは、朝方3時頃に開花した花は夕方にはしぼんでしまう「一日花」です。
 中国原産で、平安時代に渡来して来ました。
 中国名を「木槿(ムージン)」と呼びますが、漢字はこの字があてられて「木槿」の音読み「もくきん」が変化して「むくげ」となったとも言われています。
 また、韓国では、国花になっていますが「無窮花(ムグンファ)」とか「ムキュウゲ」とよび、そこから、「ムクゲ」になったとも言われます。
 まず、ムクゲの基本の花。
林試 ムクゲ
 そして、八重。これは、改良花で、雄しべが花弁化したものと言われます。
林試 ムクゲ(八重)
 果実は、まず、ネコノチチ。
林試 ネコノチチ
果実の形が猫の乳首に似ていることに由来するそうです。
 犬がつく商物はたくさんありありますが、猫がつく植物は少ないです。このネコノチチとネコヤナギですか。
 この果実は、秋にかけて緑-黄-赤-黒紫色と変化していきます。
 コブシの実です。
林試 コブシの実
 漢字では普通は「辛夷」と書きますが,「拳」の字が当てられることもあります。
「蕾が拳に似ている」とか「実の形が拳に似ている」とかと言われます。
 この実を見ると、「実の形が拳の形の似ている」という方が、正しい気がします。

「パウル・クレー展 -おわらないアトリエ」

 先日、東京国立近代美術館の「パウル・クレー展 -おわらないアトリエ」に28日に行きました(7月31日に終了しました)。
 これはすばらしい展覧会でした。
クレー 「花ひらいて」
 パウル・クレーの作品は、線とか色とか、何とも言えない魅力があって、とても好きです。どう好きだと言っていいのか、なんだか描けそうな気がするような、身近さに惹かれるのかもしれません。
 でも、今回の展覧会は、パウル・クレーの技法を明かす展示がしてあり、もっと惹かれました。
 まさに、「クレー作品は物理的にどのように作られたのかを検証する」展覧会でした。 展覧会の構成は以下の通りです。
1:現在/進行形-アトリエの中の作品たち
2:プロセス1 写して/塗って/写して-油彩転写の作品
3:プロセス2 切って/回して/貼って 切断・再構成の作品
4:プロセス3 切って/分けて/貼って 切断・分離の作品
5:プロセス4 おもて/うら/おもて 両面の作品
6:過去・進行形"特別クラス"の作品たち
2~5が、クレー作品の技法を検証する展示です。そしてそれらを挟み込むように、「特別クラス」の秀作が展示されています。
 パウル・クレーの制作手法ごとに分けられた会場は、ちょっとした迷路のようにも感じられます。
 会場の図解を見ると、各セクションが「島」になっていて、ぐるぐる回っています。
 白い壁紙のように思えて実はそれぞれ「島」ごとに淡い色彩が施されているのです。
会場が、1つの「パウル・クレー作品」の様相です。
 会場に入るとまず、若い頃に描いた自画像。そこを抜けると、長細い通路に部屋状のボックスの続く「アトリエの中の作品たち」のセクションです。
 パウル・クレーは生涯に5つの街、ミュンヘン、ヴァイマール、デッサウ、デュッセルドルフ、ベルンにアトリエを構えました。
 それぞれの時期の作品を、会場に設営された独立のボックスに分けて紹介しています。
 そしてここで見逃せないのは各ボックスに掲げられた写真です。それはクレーが自分でアトリエを撮影したものですが、展示作品がその写真に写っています。
 ああ、これだとすぐそばに展示されている作品もありました。
 そして2章の「プロセス」以降は、クレーの具体的な製作技法の謎を解き明かしです。
 ここでは「油彩転写」や「切断」と言った技法毎に作品を並べています。
 分かりやすいのは「切断」です。これは文字通り一枚の絵を切り取り、それを二つの作品にするとか、また左右を入れ替えて再び重ねて一つの作品にしていく技法です。
こういうことで、この作品が誕生したのかと、はっきり見られるので、びっくりです。
 また、パウル・クレー作品の裏面には、何かが記されていたり描かれたりされていることが多いのだそうで、それも分かりやすく展示しています。
 最期は、パウル・クレーが生涯手放さなかった、通称「特別クラス」と呼ばれる作品が展示されています。
 パウル・クレーは自作をランク付けし、その最高のものをこの特別クラスとして手元に置いていたそうですが、それらは彼の基準作、また模範的な意味合いが強いとのことでした。
 パウル・クレー展の展示の構成がとても素晴らしかったです。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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