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歌川国芳は四谷左門町で生まれた

 「没後150年 歌川国芳展」のカタログの「国芳は世間で言われている日本橋ではなくて、本当は四谷左門町の生まれであった」ということが書いてあります。
 これは、新宿を中心にいろいろ動いてるものにとって大きな収穫でした。
 国芳の血脈はつながっていて、その遺族から証言ということです。
 物的証拠はないようですが、そう考えるだけで、私としては、ずっと身近に感じられます。
 四谷の駅から旧甲州街道を新宿に向かい、今の四谷三丁目の交差点を左に入ると、左門町、江戸時代の左門殿町に入ります。
 今は、外苑東通りとなって道幅が拡がっていますが、この道の左右が左門町です。
左門町 長安寺
ここは旗本や小役人の屋敷町でしたが、しばらく行くと今もある長安寺の門前は町人の屋敷として数十軒あったようで、このあたりで生まれた可能性もあるわけです。
今の長安寺は、道を右に折れて入った所にあります。火防地蔵があり、このお地蔵さんは、弘化2年(1845)青山の大火があったとき、長安寺の寺の門前にあった地蔵さまの所で火勢が止まりました。ここに今ある「火防地蔵」はその時の大火の供養として、翌弘化3年に作られたものです。
左門町 長安寺の火防地蔵
 国芳は寛政9年(1797)四谷左門町に生まれ、やがて父親の都合で、江戸日本橋本銀町一丁目(現在の東京都中央区日本橋本石町四丁目あたり)に移り住んだということになります。父は京紺屋(染物屋)を営んでいました。
 見囲神社碑文によれば、国芳は幼少期から絵を学び、7・8歳で北尾重政の『絵本武者鞋』や北尾政美の『諸職画鑑』を写し、12歳で描いた「鍾馗提剣図」を初代歌川豊国が目に留め、文化8年(1811)に15歳で入門したことになっています。
 しかしこれも、当初は、歌川国貞に学んだというのが正しいようです。
 そして、武者絵で大成功をし、美人画、風景画など広く描いていき、洋風表現を採り入れた風景画や風刺を込めた戯画に新たな画境を切り開きます。
 でも、やはり、ユーモアとウィットが満載の戯画こそ、国芳の真骨頂と言えます。
国芳「朝比奈小人嶋遊」
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「没後150年 歌川国芳展」

 なんとか、新宿探訪・西新宿篇を収拾して、次を書こうと思ったのですが、なかなか終わりません。その間に「歌川国芳展」とか「パウル・クレー展」にも行って来たりしているので、そのこと少しは記しておきたいと思います。
 「没後150年 歌川国芳展」が原宿の太田美術館で開かれていました。前期、後期とあって、前期から行きたいと思っていて、やっと行けたのが、7月21日、後期でした。
 歌川国芳(寛政9年[1797]-文久1[1861])は、その画想の豊かさ、奇想天外なアイデア、斬新なデザイン力、そして確実なデッサン力、どこを取っても、とても魅力的な絵師です。
 後期は、奇想天外なアイデア、斬新なデザイン力を発揮した作品が多く出展されえいました。
 例えば猫。猫が本当にたくさんいました。
 国芳は無類の猫好きとしても知られていて、時には10数匹の猫を飼い、懐に猫を抱いて作画していたと伝えられています。
国芳:『猫のけいこ』
 猫が死ぬと、すぐに回向院に葬り、家には猫の仏壇もあって、死んだ猫の戒名が書いた位牌が飾られていたと言います。
 それだけに猫の仕草に対する観察眼はすごく、猫を擬人化した作品がたくさん描かれています。
国芳『其のまま地口 猫飼好五十三疋』(
『其のまま地口 猫飼好五十三疋』という作品は、東海道五十三次の宿場町名を地口で猫の仕草として描いたものです。
江戸の日本橋は「二本だし(2本の鰹節=出汁)」、大磯は「(獲物が)重いぞ」、見付は「寝つき」、御油は「恋」、桑名は「食うな」、四日市は「寄ったぶち(猫)」、石薬師は「いちゃつき」、土山は「ぶち邪魔」、水口は「皆ぶち」、草津は「炬燵」、そして捕まった鼠の悲鳴「ぎやう」を京に掛けて締めとしています。
 こんなアイデア、よく出ます。
 国芳『猫の当字 なまず』
また、猫が集まって文字をかたどった「猫の当字」といった作品もあります。
 そして寄せ絵。人間がたくさん組み合わさって、顔ができている絵。
 実際に、扮装して絵のように組み合わせて実験しているビデオを地下でやっていました。
 本物がやると、すんなりと顔には見えませんね。やはり国芳の絵が良いです。
人間で顔を作る、このアイデアはどこからきたのでしょう。
 外国にも同じような発想をした人がいたようですが、その人とは関係はないようです。
:『みかけハこハゐが とんだいゝ人だ』
 でも、国芳は西洋絵画から、いろんな技法を取り入れています。遠近法や陰影の付け方の研究をしていたのです。
 「西洋画は真の画なり。世は常にこれに倣わんと欲すれども得ず嘆息の至りなり」という言葉が残っています。
 今回の展示の焦点の一つとして、国芳が典拠とした絵画資料、1682年にオランダで刊行された「東西海陸紀行」という原書が会場に展示されています。
 その原画と照らして見ることができるのです。
 楽しい展覧会でした。一点一点じっくりと見て回りました。前期も見たかったな。

新宿探訪 西新宿篇9 六角堂 富士見台

六角堂
 新宿中央公園に、標高4mの小さな高台があります。(3・11の大震災から登ることができません)。
 台上には六本の支柱に支えられた六角形屋根を持つ「六角堂」と名づけられた見晴台が置かれています。
この高台は、淀橋浄水場を建設する際に、沈殿池を掘った土を盛り上げたのがこの富士見台で、ビル群がなかった当時は本当に富士山が見えたそうです。それで、「富士見台」の名があります。下の写真は、富士見台から見た冨士山です。左にガスタンクが写っています。
 淀橋浄水場と富士山
頂にある六角堂も建設当時からあるもので、改修の際に通路の飛び石に沈殿池の壁に使われていた煉瓦が再利用されました。
 
 この「六角堂」近くには、新宿の歴史の記憶を持った木々が植えられています。
 「大久保つつじ」と「タカトオコヒガンザクラ」と「銀世界の梅」です。
 この解説は、別枠でします。

新宿探訪 西新宿篇8 新宿中央公園

 新宿中央公園は、「コニカミノルタホールディングス」の前身である「小西六写真工業株式会社」の工場の敷地と、淀橋浄水場の跡地を造成し、昭和43年4月に開園した区立の公園です。
 敷地面積88,065.95㎡(約26640坪)。約80000本の樹木が植えられ、西新宿の被緑地率を高めています。それに、高層ビル群と一般の街との緩衝地帯としての役割を果たしています。
 なお、公園の地下には、大雨が降った時に雨水を一時的に貯留し浸透させる、雨水貯留浸透施設も設けられています。
 写真は、都庁展望台から見た新宿中央公園の北側です。
 新宿中央公園
 新宿駅に面した入口広場に、噴水広場があり、そこに幅38メートルの「新宿ナイヤガラの滝」があります。そして、その裏が「白糸の滝」です。
 元淀橋浄水場の水の面影を偲ぶと言われたりしますが、この名称とともに私はあまり好きではありません。
 この公園のダメな所は池がないこと、本物の水場がないことのように思います。
 時々滝の水は止まっています。白糸の滝には、亀が捨てられています。
 そんな話は別にして、「小西六写真工業株式会社」について少しふれておきます。
 中央公園 写真工場発祥の地の碑
そのルーツは、明治6年 (1873)に東京麹町の写真及び石版印刷材料の取扱店としてスタートした小西屋六兵衛店に遡ります。
 小西屋六兵衛店は、写真材料専門店として明治4年(1871)に開業した浅沼商店(東京日本橋呉服町)とともに、日本の写真産業の発展に先達的役割を果たしました。
 小西屋六兵衛店は、明治35年(1902)にここ、淀橋に工場六桜社を建設して乾板や印画紙の製造販売を開始しまします。
 なぜここかというと、水です。工場のあったあたり、玉川上水から神田川へ水を送る「神田川助水堀」があって水が流れていたのです。
 六桜社は、明治35年(1903)、国産初の印画紙を発売、昭和15年(1940)11月3日には国産初のカラーフィルムであるさくら天然色フヰルム(後のサクラカラーリバーサル)を販売。日本の写真用カメラフィルムのトップブランドとして一時花を咲かせます。
 戦後一時、さくらカラー(後に「サクラカラー」に表記変更)がフジカラーを圧倒することがありました。
 この新宿中央公園は、現在隣接する熊野神社の敷地の一部であり、戦前には小西六写真工業の工場敷地などになっていました。
 それに、戦後新宿副都心計画の一環として、淀橋浄水場の跡地と併せて、西新宿に勤めるサラリーマンなどへの憩いの場として公園として整備されることになった。
 公園の北端には新宿区立環境学習情報センターと新宿区立区民ギャラリーの複合施設「エコギャラリー新宿」が設けられえちます。
 また、「新東京百景」の一つになっていて、テレビドラマの舞台にも使われています。

新宿探訪 西新宿編7 東京都庁第一本庁舎南展望室

 まず、新宿西口の案内地図です。町の形がよくわかります。
 これを上から見られるのが東京都庁第一本庁舎の展望室室です。
 西新宿案内地図
都庁には、展望台が2つあります。いつも長い列ができていて、登ったことがありませんでした。今回、冬の良い時期には富士山も望めるし良いですよといわれ、都庁第一本庁舎 南の展望台に登ってみることにしました。
 意識して行ってみると、長い列はありません。外国の特に中国からのお客さまが震災後、少なくなったからだということでした。
 登ってみると、すごい展望です。回りが全部望めます。
 実は、超高層ビルからの展望は、しばらく通っていた損保ジャパンビルの42階の東郷青児美術館の窓からよく眺めました。ただこちらは東側だけしか望めないのです。
 東京都庁第一本庁舎南展望室からの眺め、45階で、高さは、202m だそうです。
 展望室設定の趣旨として次の言葉があります。
<展望室は、眺望を楽しみながら東京や都政に対する理解と関心を深めていただく場です。東京のまちを眺めながら、みなさんにも、みなさんのまち「東京」のこれからを考えていただければと思います。>
 これからを考える余裕はないほど、いろんなものが見えます。
 上から、歩いてきた下を望むと、一種の立体地図です。
 風の道 新宿御苑から
今回時に見てもらいたいのは「風の道」です。新宿御苑から、新宿駅をまっすぐに新宿中央公園へと抜ける並木道と緑の公園の道。神宮外苑から新宿中央公園へ抜ける緑の道。
 風の道 明治神宮ー新宿中央公園
高層ビルには、緑の植栽も多いです。
 西新宿探索コースとしては、真下の景観に注目してほしいわけです。
 と言っても、都庁の南展望室からは、神宮外延、明治新宮はよく見えるのですが、新宿御苑はあまりよく見えません。(損保ジャパンビルからは新宿御苑よく見えます)。
 他にも超高層ビルの景観もしっかり観察したいです。形はどうだ、色はどうだ、お互いがうまく解け合っているか。
 いろいろ見えてきます。

新宿探訪 西新宿篇6 淀橋浄水場跡

1947年の淀橋浄水場付近
 現在、淀橋浄水場の遺品として残っているものは、淀橋浄水場跡の碑の赤御影石と、新宿住友ビル 外庭の浄水場跡のモニュメント(蝶型弁)と、新宿中央公園にある六角堂だけです。
 まずそのうちの2つを記します。
淀橋浄水場跡の碑
■淀橋浄水場跡の碑 
 新宿エルタワーの駐車場入口付近の茂みに赤御影石の碑があり、この地が昭和40年(1965)まで67年間首都給水の中心だった淀橋浄水場の〝正門跡〟と記しています。昭和45年(1970)3月に東京都水道局が設置したものです。
(この碑は淀橋浄水場跡公園にあったものと思われ、正門は損保ジャパンビルの1階にある伊予銀行新宿支店の横の横断歩道を下りたところあたりだったようです)。

「淀橋浄水場」で使用されていた蝶型弁
■新宿住友ビル 外庭の浄水場跡のモニュメント(蝶型弁) 
新宿住友ビル(三角ビル)の周囲は煉瓦が貼られた壁に囲まれています。
 これは淀橋浄水場の記憶を記すためかもしれません。
 その一郭に内径1mの蝶型弁が置いてあります。
 これはまさに、淀橋浄水場の記憶の記憶そのものです。
 その近くの煉瓦の壁には、「東京水道発祥の地」というレリーフが貼られています。
 要領よく、東京都の水道の歴史が記されているので、その全文を写します。
<東京水道発祥の地>
 首都東京、この大都市の発展のかげには、古くからその生活をささえる水の確保に大変な努力がはらわれてきた。すでに300年も前の江戸時代初期、ふくれあがる江戸の水不足をまかなうため、玉川上水が開かれ、江戸からおおよそ50キロメートルも離れた羽村から玉川の水が市中に引かれた。
時は変わって明治となり、首都が東京に移されるや発展する都市に不可欠な近代水道の建設が急務となった。そして明治23年、ここ旧東京府南豊島郡淀橋町に34万平方メートルの敷地を求め、玉川上水によって導かれた多摩川の水をここで沈殿・濾過のうえ、200万人の市民に上水を供給できるという、当時としては、画期的な規模の淀橋浄水場が建設されることとなった。明治31年その一部が完成し、神田、日本橋地区給水が開始され、ここに東京の近代水道が誕生した。以後、明治、大正、昭和と東京の歴史とともに歩み続けた淀橋浄水場は、昭和40年東村山浄水場にバトンを渡し、給水開始以来60数年の歴史を閉じ、その跡地は、新しい東京の象徴ともいうべき超高層ビルの街に生まれ変ることとなった。ここに展示されているものは、内径1000ミリメートル蝶型弁といいかつて淀橋上水場で使用されていたものである。東京は今、この超高層ビルの街が象徴するように、ますます発展しようとしている。そして、この大都市が必要とする水も、遠くはるか20キロメートルも離れた利根川上流にまで求めている。ここに展示された蝶型弁から、かつてここに都民の水をまかなうため, 満々と水をたたえた浄水場のあったことを想いおこしていただき、あわせて大都市における水がいかに大切なものであり、またその確保が大変困難なものであることをご認識いただければ、はなはだ幸いです。
1974.4    元東京都水道局長 元淀橋浄水場長 小林重一

新宿探訪 西新宿篇5 超高層ビル群

 淀橋浄水場跡地に最初の超高層ビルが建ったのは、昭和46年(1971)6月5日のことで、それは、47階建て地上169mの京王プラザホテルでした。
京王プラザに続いて住友、KDD、三井ビルが昭和49年(1974)に建てられ、平成2年(1990)に東京都庁舎が完成し、新宿は名実ともに新都心として機能します。
少し、高層ビルのいくつかを見ていきます。
京王プラザホテル
・京王プラザホテル
 昭和46年6月5日開業です。そのころの写真をよく目にしますが、ただ、ポツンと長く太い棒のように建っています。西新宿の高層ビルは少しずつ建って、埋まっていったのです。
 京王プラザは、宿泊施設中心の従来の都市ホテルの概念から脱却し、20のレストラン・バーと23の宴会場、さらにホテルとしては初の教会式結婚式場を持つなど、都市生活のコミュニケーションの場として、新しいホテルの利用法を提案し、現在のホテルライフの基礎を築いたのです。
 現在も、1441室の客室、27のレストラン・バー、38の宴会場を有し、多目的な国際都市型ホテルのオピニオンリーダーとして活動しています。
損保ジャパン本社ビル
・損保ジャパン本社ビル 損保ジャパン東郷青児美術館
 昭和51年(1976)に安田火災海上本社ビルとしてオープンしました。
 白と茶色のツートーンカラーに、裾がスカートのように広がった形をしているビルで、"パンタロンビル"の名で呼ぶ人もいました。
 披露宴に招かれた、紀伊国屋書店の田辺茂一は、この建物を賞賛する新聞記事を紹介して、「もっと仰山に云えば、私は思わず溜息が出、その眩しさに、眼もくらむ感じであった。」
と記しています。(「わが町・新宿」)
 損保ジャパンビルの42階には、東郷青児美術館があります。
 ゴッホの「ひまわり」や、セザンヌの「りんごとナプキン」やゴーギャンの「アリスカンの並木路、アルル」の作品は常時展示されています。
 の美術館は、損保ジャパンの前身安田火災が、超高層ビルを建設する際、同社と関係の深かった東郷青児の協力により美術館開設構想が生まれ、美術館の運営主体として誕生しした。運営している(財)損保ジャパン美術財団は、文化庁によって「特定公益増進法人」の認定を受けています。また、新宿区には美術館がないので「区立の美術館」の役割として、休館日に新宿区の小中学生に鑑賞会を開いています。
モード学園コクーンタワー
・モード学園コクーンタワー
 学校法人モード学園が建設した超高層ビル。平成20年(2008)10月15日竣工。高層ビル群の中では新しく、今一番目立つビルです。
 学校法人モード学園の運営する3つの専門学校などが入居しています。
 設計は、西新宿で「東京都庁舎」「新宿パークタワー」を手がけた丹下健三ゆかりの「丹下都市建築」です。
「創造する若者を包み込み、触発させる」という意味を込めイメージしたというコクーン(繭)のような外観が特徴で、数百億円に上る事業費は、モード学園の自己資金により全て賄っています。
 高さも学校法人が所有するビルとしては最も高い203.65 メートルです。
 ラウンジは、モード学園らしくお洒落で斬新なデザインでまとめられているようですが、学校関係者でないと入れないのが残念です。
・新宿センタービル
その名の通り、西新宿の超高層ビル群の中心にそびえます。セピア調の茶色で統一されていて、地上54階・高さ223mの超高層オフィスビルです。昭和54年(1979)10月竣工。
1 フロア約500坪超のオフィスフロアは、エレベータ・トイレ・湯沸室などを中央に集めたセンターコア方式が採用された開放的な無柱空間となっています。
 またオフィスのみでなく、クリニック、銀行、郵便局、レストランなどの様々な施設が設けられており、地下1階には潤いの空間を演出する「水の広場」、1階には憩いのオープンスペースである「緑の広場」があります。そして、53階には地上200m超から新宿の街を見下ろす無料の展望ロビーがあります。また日本テレビ・フジテレビ・テレビ朝日の予備送信所も同ビルに置かれています。
・新宿三井ビルディング
 昭和49年(1974)9月に竣工。高さは軒高210メートル、最頂部225メートル。
 黒を基調としたガラス張りのビルで、新宿の超高層ビル群の中でもひときわ目立つ外観です。
 ビル側面にあるX形の鉄骨は、耐震補強のための筋交いであると共に、各階の両端に設けた機械室の扉の押さえを兼ねています。機械室の扉は4~5階分を1枚にまとめており、これを開くことで空調などの機械を容易に交換できるようになっています。
 また京王プラザホテルの設計を取り入れ、非常階段の一部を外部に剥き出しに設置し、火災時の煙が非常階段内に溜まらない設計が取り入れられています。
三井ビルディング前の広場
 ビルの南にある「55ひろば」は青空天井で、テーブルセットは飲食・休憩など自由に使用できます。無料のコンサートなどのイベント、フリーマーケットも行われていますが、先日もランチタイムコンサートが開かれていました。
・新宿住友ビル
三角形の独特の形をしていることから「住友三角」の愛称で知られています。昭和49年(1974)3月に、地上52階・高さ210mの当時日本一の高さを誇る超高層オフィスビルとして竣工しました。(実際は三角形の頂点を削った平行六角形です)。
 約600坪のオフィスフロアは、外周から、全方位の眺望を持つオフィススペース、廊下、屋外吹き抜けという特徴ある形状となっています。また、48階から52階の高層階は、都心を見下ろす展望レストラン街になっており、観光スポットとしても賑わいを見せています。
 また、外庭には、淀橋浄水場跡のモニュメントとして蝶型弁が置かれています。

新宿探索 西新宿篇4 学校があった

 専売局工場と、淀端浄水場の間には、学校街がありました
■精華学園
 策の井が精華学園の校庭にあったことは書きました
 新潟の大地主の加藤敏子が上京してきて、現在のエルタワーが建っている土地の林を伐採し、女性のための学校を明治16年(1883)、設立しました。
 ベンガラ塗りのしゃれた校舎だったと言われます。名前は「女子独立学校」、創設の思いが込められています。
 開講後16年して、加藤敏子が亡くなり、あとを、子息と、内村鑑三が継ぎ、明治43年(1910)に精華高等女学校(精華学園)と改称します。
 ここではアメリカ流の働きながら学ぶという精神が貫かれました。
 クリスチャンであり、京都で同志社大学を創設した内村鑑三はここで校長をつとめて、住まいも一時、この近くにありました。
 昭和44年(1911)新宿西口の再開発のため、柏木(北新宿1丁目)に移り、昭和48年(1973)廃校となりました。
 精華技芸学校という名前も見られますが、これは昭和5年精華高等女学校に設立された夜間部の学校です。 技芸ということで、文化学園に通じるものがあるかもしれません。
 そして、この精華学園出身者としては、美空ひばり。(正規に卒業したかどうかは判らない)10年後輩の吉永小百合は代々木高校から転校してきましたが、出席日数不足で卒業できず、早大を受験するのに入学資格検定を受けたようです。この頃の精華学園には星由里子その他、有名な女優・歌手が多くいました。

 他にもこの付近には精華学園の他に、日本中学校、東京女子大学、明治学院神学部、そして工学院大学として現在も存続する工手学校といった学校が4つありました。

■日本中学校
 大正5年麹町区山元町半蔵門外から移転してきました。
 明治18年神田錦町で英語学校として出発しています。高等教育を受ける準備の英語学校という位置づけです。明治25年、火事で焼けて麹町に日本中学校として再出発していました。
 昭和11年、世田谷区松原へ移転、現在、日本学園高等学校となっています。
 
■東京女子大学
 精華学園の南の一画にありました。
 開校は大正7年4月です。この時代、女子の大学の門は狭く、また、女子のみの大学の設置は認められていませんでした。
 本学の誕生は、画期的なことでした。場所は淀橋町角筈100番地旧衛生院の静養所を仮校舎として借り受け開校したのです。学長は、キリスト教主義の最高学府であってほしいという建学の精神を実現するにふさわしい人物として、新渡戸稲造が就任しました。
 ここには、7年間を過ごし、大正13年豊多摩郡上井草村(杉並区の現在地)に移転しています。

■明治学院神学部 
 1丁目24番の工学院大学の辺りにあったキリスト教主義の私学。キリスト教の縁で東京女子大学が転出した後を受けて、大正13年跡地に入ります。その後明治学院から分離、昭和5年「東京神学社」と統合して「東京神学校」を設立。同24年学制改革により「東京神学大学」となり、三鷹市大沢に転出します。

■工手学校
 国木田独歩作「非凡なる凡人」で主人公が通うとされる工手学校とは、工学院大学の前身です。
 明治20年(1887)設立しました。
 当時、国内では政府の富国強兵政策のもと産業の近代化が進められていました。しかし近代化を達成するために必要な職工の不足が深刻でした。これを受けて、1現場を支える職人を育成することを目的に設立されました。
 震災にあってからは日本中学を間借りして授業を続けていましたが、いつの間にか、そこが本拠地になりました。
 そして、工手学校は現在も工学院大学として続いています。1989年に落成した新宿キャンパスは、地上29階、地下5階、高さ143m。大学専用の建物としては日本一の高層ビルと言えます。
 
 新宿西口は多くの学校の発生の地であったわけです。特に女性のための学校が開設されたのは、注目されます。しかし、現在、残っているのは工手学校、現在の工学院大学だけです。
 ただ少し視点を変えると、コクーンタワーで目を惹く「モード学園」などの各種学校、住友ビルの朝日カルチャーセンター などがあり、「学校」の伝統は違った形ですが、生きています。

新宿探訪 西新宿3 策の井跡

 新宿エルタワーの西側の植木の影に、「策の井跡」の碑の頭がかすかに見られます。
道行く人の多くは気がつきません。
「策の井」の碑
「策の井」といわれるのは、徳川家康が鷹狩りの帰途、汚れた「策」を洗ったという伝承のある名水が湧いた故事によります(『江戸砂子』より)。
 天和年間(1681~83)に出版された『紫の一本』には「策の井は四谷伊賀の先にあり、今尾張摂津下屋敷内(美濃高須藩松平家)にあり、東照公鷹野に成らせられし時、爰に名水あるよしきこし召し、おたづねなされ、水を召し上げられ、御鷹の策によごれお洗はれたる故に、この名ありといふ」と書かれています。
 つまり新宿区には「策の井」は2ヶ所あります。
 その2ヵ所は、どちらも美濃の高須藩松平摂津守の屋敷があった所です。
 つまり、四谷伊賀の先というのは、今の荒木町で、そこには松平摂津守の上屋敷があり、新宿西口のこの場所には、下屋敷があったのです。
 荒木町の策の池
現在荒木町には、池があり、そこを策の池と言い、策の滝もあったと案内があります。
荒木町はまた別の機会に書くとして、新宿西口の高須藩松平家の下屋敷は、新宿駅西口広場から工学院大学辺りにかけてありました(1万坪)。
 弘化4年(1847)10代藩主義建(よしたつ)は隠居して、ここに庭園を築造し「魁翠園(かいすいえん)」またの名を「聚玉園」と名づけます。
当時書かれた漢詩や和歌などの記録によると、「広い園内には十二景が設けられ、春は梅、柳、若草の丘に登って霞む彼方に富士を眺め、夕暮れの鐘の音。初夏には竹林の筍を掘り、玉川の流れを引き入れた池で蛍狩り。秋は池を巡って観月、池中に浮かぶ島の茶室での点茶、紅葉の楓林を愛でながらの献酬。冬には庭内での鷹狩りが行なわれた」というように記されています。また、100間余の馬場があったようで、10代藩主義建は乗馬を得意としていたようです。
 明治になると角筈屋敷跡の西部、「策の井跡」の碑あたりには女子独立学校が建てられます(明治16年)。後の精華学園です。また、その南に杉浦重剛の日本中学校が麹町から移転してきます。
 なお、「策の井」はそのまま精華学園の中庭にあって、手押しポンプで使用されていました。どんな日照りでも枯れたことのない井戸だったようですが、ビルの建設で水が出なくなってしまいました。
東側、今の駅寄り、かつての魁翠園は岩倉公爵の所有となり、「華竜園」と名づけられました。そこには、大正天皇が東宮の頃にしばしば訪ねられたという「隣雲軒」もありました。
明治期、小田急百貨店のあるあたりに<津之守(つのかみ)山>という子どもの遊び場があったという記録もあります。津之守とは摂津守のことで、荒木町の方には、津之守坂があります。津之守山は、松平家の築山の名残でしょう
その後、新宿駅の拡張に伴って廃園になり、明治38年には専売局の煙草工場として買収され、先に書いたように。明治43年に工場が竣工します。

新宿探索 西新宿篇2 専売局工場

 新宿駅、小田急百貨店、京王百貨店、西に廻って、明治安田生命ビル、スバルビル、エルタワー、これらのビルに包まれるように、駅前立体交差があり、換気塔が立ち、そして4本のバスターミナルが並んでいます。
 これが今の西口風景です。
新宿西口通気塔からバスターミナル
 昔は、どうだったのかと言えば、ここには東京地方専売局淀橋工場がありました。
この専売局は、日露戦争の戦費をまかなう財源としてタバコが専売化されることになり、明治43年、銀座三丁目(松屋裏)から移転してきました。
 それまでは、たばこは、民営で自由販売だったのです。銀座時代は、岩谷てんぐの工場でした。
 さて、東京地方専売局淀橋工場は、今のハルクの裏側、青梅街道の所から京王百貨店の裏側ぐらいまで、250メートルの赤レンガに塀に囲まれた大きな工場でした。
ビルの間が青梅街道
 紀伊国屋書店を作った田辺茂一は少年時代の思い出として次のように書いています。
 「大陸橋のさきの左側が、赤煉瓦の煙草専売局だったから、夕刻時には、白いエプロンの女工さんが、三々五々、束髪、桃割れ、銀杏返しで、門を出てきて、この停車場に集まった。ラッシュアワーのはしりのような風景だった・・・・」(『わが町・新宿』)
 このたばこ工場が新宿から姿を消したのは、昭和11年で、移転先は東品川で、京浜急行を青物横丁で降りた、都立八潮高校の筋向かいでした。
 西口の発展を阻害しているということで、当時の新宿発展組からの要望だったようです。
 この東京地方専売局淀橋工場は明治、大正、昭和と26年間、ここにあったわけで、そのために、西口の発展が遅れたという見方がされていました。
 でも、西口には、もっと広大な場所がありました。淀橋浄水場です。
結局、東京地方専売局淀橋工場と淀橋浄水場の二つが移転するまで、開発はお預けになります。今の新都心と呼ばれる、超高層ビル群の町ができたのは戦後になってからです。
 それでは、もう少し遡って、江戸時代は、このあたりどうだったのでしょう。
 江戸切り絵図で見ると、JR新宿駅のあるところは、犬山城主成瀬家の下屋敷になっています。
それから西に、小栗、花房といった旗本の屋敷があり、その隣に美濃の高須藩松平家の大きな下屋敷があります。
 高須藩松平家の下屋敷、今、その名残がひとつ残っています。
 『策の井』です。

新宿探索 西新宿篇1 カリヨン橋

 小田急ハルクというより、今はビックカメラと言った方が分かりが早いですが、その2階に駅から超高層ビルへ通じる通路があります。
 案内板にはカリヨン橋と書かれています。
 小田急本館とハルクを結ぶ「橋」として2階部分に作られました。
新宿駅西口
 写真で言えば、左側の所です。正面が小田急百貨店、左がハルクで、ビックカメラがあります。
 その前の階段を上って、2階部分カリヨン橋です。
 昭和60年(1985)6月18日 新宿駅西口広場歩行者デッキを竣工。「カリヨン橋」と命名しました。
 カリヨン橋の名前は、ハルクの壁面に「カリヨン時計」と呼ばれる時計がかかっていたからです。
 カリヨン時計は、高さ7.6メートル、幅4.1メートル。釣り鐘の演奏とともに、熊、兎、鶏、豚、カンガルーなどが動きを見せるものでした。
 カリヨン(carilon)には「組み鐘、鐘演奏」の意味があり、多数の鐘を音律に従って配列し、鍵盤の機械仕掛けにより打ち鳴らす楽器のことです。
 仕掛けの時計として話題を呼び、多くの人が見上げていた記憶があります。カリヨン時計 ハルク
 でも、今はその時計はありません。
 ビックカメラ出店とともに消えたのいだそうです。
 最近、新宿西口を歩くときは地下を歩くことが多く、駅の上はあまり見ません。
 時計がなくなったことを知ったには、このことを最近です。
 さて、こうした車道から立体的に分離した歩行者専用の通路のことをペデストリアンデッキと呼びます。
 ペデストリアンデッキ(pedestrian deck)とは、「高架等によって車道から立体的に分離された歩行者専用の通路のこと」です。「歩行者回廊」「公共歩廊」とも言われます。
ペデストリアンデッキは、景観に合わせた配慮などがされていて、道路交通における人道、車道の分離のみを前提とした横断歩道橋とは意味合いが異なっています。隣接する建物に直接出入りできるようになっている場合が多いようです。
 新宿駅周辺には、このペデストリアンデッキがたくさんあります。
 例えば、新宿駅南口からサザテラスやタカシマヤスクエアを結ぶ通路もペデストリアンデッキです。
 また、これから歩く、新宿西口の超高層ビルとこれは建物ではありあませんが、新宿中央公園へと結ぶ橋も、ペデストリアンデッキです。
 こうしたペデストリアンデッキによって、伸縮は、町並を確認しながら回遊できる仕組みを作っているわけです。
 ペデストリアンデッキからの景観もきれいです。

新宿区矢来町 矢来公園

 明日、歴史散策があり、矢来公園で、少し話をすることになっています。今回は下見に参加できなかったので、辞退したのですが、一般的な話ですむところということで、受けました。
 矢来公園のある地域は「矢来町」と言います。
矢来公園
 江戸時代、ここは、若狭小浜藩主酒井家の広大な屋敷が拡がっていました。
 矢来町はほぼこの小浜藩主酒井家の屋敷跡です。
 3代将軍家光の治世下、小浜藩主酒井忠勝は老中・大老職を勤めていました。その地は家光から拝領したもので、下屋敷にあたります。
 3代将軍家光は酒井忠勝のこの屋敷を頻繁に訪れています。その数、実に145回です。
 鷹狩りの時にと言われますが、それだけでなく、政務的な未来的でも来ています。
 特に興味を惹くのは、切支丹伴天連を吟味するのにここに来ていることです。
 忠勝がいない時にも来ています。
 この屋敷は特別な意味を持っていたのかもしれません。
 ところで、この屋敷を矢来屋敷と呼ぶようになったいわれがあります。
 それは、江戸城が火事になった時、たぶん明暦の大火の時を指しているのだと思いますが、家光が江戸城からこの屋敷に避難してきたとうのです。
 その時、警備にあたった御家人は、抜き身の槍で将軍を警護しました。その様子を模して、酒井家では屋敷の周囲に竹矢来を作ったというのです。
 いつしかこの竹矢来が評判となり牛込屋敷周辺は矢来下と呼ばれるようになりました。
 ということになっています。
 でも、あいにく、家光は、火事でここには避難していません。
 竹矢来はあったのでしょうね。家光が頻繁に訪れていたのも確かです。そういうことで生まれた伝説なのでしょう。
 明治に入ると、この屋敷を中心に町が区画されて、牛込矢来町と名付けられました(現在は新宿区矢来町です)。
 若狭小浜藩では、忘れられない人がいます。
 それは杉田玄白です。
 「解体新書」で知られる杉田玄白は、小浜藩の藩医でした。
 享保18年(1733)に、この牛込屋敷で生まれました。
 「解体新書」として翻訳される、オランダ語訳の「ターヘル・アナトミア」は小浜藩が購入して杉田玄白に与えたものです。
 酒井忠勝は知らなくても、杉田玄白はみな知っています。
小浜藩矢来屋敷跡の碑
 平成16年(2004)9月に、「小浜藩下屋敷説明碑」、「杉田玄白生誕地顕彰碑」が建てられました。これは、県立若狭民俗資料館の館長をしていた中島辰男さんが、小浜藩邸がこの地にあったことが忘れられつつあるとして、私財を投じて作り、小浜市を通じて新宿区に石碑を寄贈したものです。

新宿駅西口 新都心

 7月7日、西新宿のまちあるきを案内しました。。
 戦後まもなくすると、東京の街は西へ西へと拡がっていきます。
 どういうわけか西へ、です。もう30年ぐらい前のことですが、町の繁華街ということで調べていたことがあるのですが、賑わっているのは、ほとんどが駅の西口でした。
 ただ池袋は、西武のある東口が賑わっていました。今は東武が頑張っていますが、その当時の池袋西口はなんだか恐い印象の町でした。でも百貨店が西と東で入れ替わっていて道理に合うと冗談に言っていました。
 新宿という町も、江戸時代は新宿御苑の近くの内藤新宿が栄え、それがしだいに伊勢丹が今建つ追分の方へと町の賑わいは移っていきます。
 そして明治になって新宿駅ができると、新宿駅東口近くが繁盛してくるようになります。
 繁華街は、西へ西へと移って行きます。
 そのころの西口は、駅そばに明治43年、銀座三丁目(松屋裏)から移ってきた東京地方専売局淀橋工場がありました。さらにその先には淀橋浄水場がありました。
 戦後を迎え、私鉄を迎えた新宿駅は交通の要所となって行きます。そうした利便性から注目され、戦後復興の一環として新宿副都心計画が策定されます。
 それは、西口に大きく場所をしめていた東京地方専売局淀橋工場跡地を駅前広場として活用し、さらにその奥の淀橋浄水場を移転させ、そこにできた広大な敷地に高層ビル群を建設し一大商業エリアにしようというものでした。
 高度経済成長のさなか、昭和40年(1965)、淀橋浄水場を東村山市に移転します。
 そして、昭和46年(1971)に高層ビル1号の京王プラザホテルが建設されました。この京王プラザホテルの建設を皮切りに200mを超える、超高層ビルが次々と建設されていきます。
 1960年代を境に、新宿駅に隣接する百貨店が、小田急百貨店、京王百貨店と誕生します。都電(都電杉並線)を廃止し、新宿駅西口地下広場の建設など駅周辺の再開発も急ピッチに進みます。
 そして平成3年(1991)、東京都庁舎が丸ノ内から移転することにより、新宿西口は、超高層ビルによる一大都市となったのです。
 淀橋浄水場があった意義は大きいです。
 玉川上水が流れ、神田川も近く、それは江戸時代の水道だったわけで、明治に入って、発展する都市に不可欠な近代水道の建設が急務となったわけです。
 その役目を終えて、移転することで、新しい都市作りができたわけです。
 そうした新宿のいわば未来都市的な新宿西口を、詳しく巡ってみたいと考え、歩きました。少し順を追ってまとめてみたいと思います。
新宿パークタワー
 都庁の展望台へも登りました。地上202メートルの高さから東京のまちを一望できます。写真は、西新宿三丁目の新宿パークタワー(52階)を見た所です。
東側を高速四号新宿線の新宿出入り口、西側を十二社通り、南側を甲州街道、北側を新宿中央公園に囲まれ、新宿超高層ビル群中の西南に位置しています。
 ところが、かつてここは「銀世界」と名付けられた梅の名所だったのです。
 そういうこと、まとまれば書いていきます。

「脱原発」は無理なのか

 心配性のため、原発が復活のきざしがだんだん出てきているような気がします。
 東京の節電対策の報道もほとんど東電の情報のみ、節電しないと大停電で大変名事になりますよ、と脅されている感じです。
みんな素直に聞いています。原発をなくすると、この大変さがずっと続き生活は苦しくなりますよ、と今にも言いだしそうです。
 今回の原発事故で、原子力発電は当然見直され、さらには脱原発に向けて進んでいくというのが、この大事故の教訓だと思うのですが。原発再開に動きには哀しい思いがします。
 先日、朝日新聞の竹内敬二編集委員の「原発事故と日本のエネルギー事情」という講演を聞きました。
 その中で、「脱原子力の力」になるものは何かということを整理されていました。
 脱原子力の力になるもの、それは第1に「世論」。第2に「制度」。
 まず世論。今、世論は脱原発で盛り上がっているとおむのですが、まだ大きな力にはなっていないと思います。玄界原発のように、多くの声を無視して再開に向かいます。政治は動きます。あそこは大丈夫だという根拠はわかりません。
 「世論」の支えというか、内容に「政党の政策」「担当庁の考え」「電力業界の考え」「メディアの論調」「NGOの強さ」「市民・研究者グループの動向」があげられています。
「政党の政策」。ここでは「脱原発」の声を聞き入れる政党がちゃんとあって、脱原発の活動をしてくれなければ、力にはなりません。社民党、共産党は「脱原発」を掲げていますがはっきり言って、小さいです。民社、自民といった大きな党は、決して「脱」ではありません。
 「担当庁の考え」。これも、経済優先であくまでも「現実」感覚「脱」はないでしょう。
「電力業界の考え」。こちらは、ぜったいに原発をやめるわけにはいきません。やめると会社の力がなくなってしまいます。なんとか原発を続けたいと必死ではないでしょうか。
 「メディアの論調」。としては、なんだか、中間を行きたいのかどうもはっきりしません。
 「NGOの強さ」。これは日本ではまだあまり力を持っているとは言えません。
 「市民・研究者グループの動向」。こちらには期待したいです。御用研究者に大きな声をあげさせないこと。市民があきらめないこと。
 「制度」では、「電力自由化」と「自然エネルギーの導入」があげられます。
 「脱原発」に向けて最も大きな障害は制度です。今の制度を崩せるかどうかです。
 「発電・送電の分離」「小売りの自由化」といったことはすべきだという意見はたびたび出ていますが、そちらに進む動きは見られません。
 自然エネルギー、とにかく不安定だ、設備にお金がかかる、電気料金の値上げは認めるのか、そういったマイナス面が強調されて、積極的に取り組もうという動きがとにかう国にありません。政策からはいらないと、自然エネルギーは増えていかないのです。
 と、まず、脱原子力は無理だなという無力感に襲われます。

アベリア ビョウヤナギ

新宿中央公園の自然観察からです。
アベリア
アベリア
 園芸上はハナゾノツクバネウツギと呼ばれます。
 鐘形の小さい花を多数咲させます。7月から11月ごろまで咲き続けています。
 最近は、公園などの生け垣などによく使われていて目にすることが多いです。
 植物学的に言えば、「花は釣鐘(つりがね)状で長さ約2.5センチメートル、先は5裂して開き、萼片(がくへん)は2~5枚あり紅褐色を帯びる。雄しべは4本で花冠より短く、雌しべは1本あるが果実はできない。」
 俗なことで言えば、この花の名前はキリスト教の信者の人は大変失礼な言い方で覚えることをします。
「マヌケのマリア」。
 つまり「アベマリア」から「マ」を抜いた名前、「アベリア」というわけです。
ビョウヤナギ(未央柳)
ビョウヤナギ
 未央柳 (びょうやなぎ)と書きます。美女柳(びじょやなぎ)、美容柳(びようやなぎ)、金線海棠(きんせんかいどう)といった言い方をすることもあるとか。
 中国原産の半落葉性の低木です。
 黄色の5枚の花弁のある花をいっぱい咲かせます。花から大きくはみ出ている長い雄しべが特色です。
 ビョウヤナギは、唐の長安の宮殿「未央宮」にかかわる名前で、柳の葉に似ていることから来ていると言われますが、これは日本名で、中国では金糸桃と呼びます。まさに長い雄しべが金の糸のようです。
 白楽天が、玄宗と楊貴妃との愛と悲しみを綴った長編叙事詩「長恨歌」に『太液の芙蓉、未央の柳』と詠んでいます。
 この花、楊貴妃の美しさを称える詩からきた名前とかいう説もあります
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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