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日彫展

 この前の日曜日、六本木の国立新美術館へ第41回 日彫展を見に行きました。
 たまたま、この日は無料の日、受付前にただ今「ギャラリートークをやっています」と案内が出ていました。
 これは良かったと、そのギャラリートークへ行ったのですが、数名の人だけ。それも、関係者の方ばかりでした。
 せっかくのお話もったいなかったです。
 審査員の方が受賞作品の解説をして、その後若手の作家の人を呼んで、その若手の作家には自作を語るように言われました。
 2人の作家は、4歳と5歳の自分の子どもを作っていました。
 記念になるかなと言っておられました。子どもは自分を作ったと感じているようだが、よくは分かっていないだろうということです。奥さんは2人とも何も言わないということです。かわいい作品で写真を撮らせてもらえば良かったと後で思いました。
 写真を撮らせてもらったのは、これも若手の作品「白象」です。
日彫展 「白象」
インドに旅行して、その時、象に乗り、象を作ってみようと思ったそうです。
 「乾漆」です、と言われて、彫塑がほとんど、中に木彫がいくつかといった彫刻展で、「乾漆」は珍しく感じたので写真を撮らせてもらいました。
 乾漆と言って、思い出すのはあの興福寺の「阿修羅像」です。
 「乾漆」の説明を辞書から引用します。
 「漆技法の一つで、木心乾漆と脱活乾漆とがあります。
 生漆・地粉・砥粉をまぜたものを、木や粘土の芯材の上に塗り、刻苧と麻布を交互に貼り重ね、形を整えながら漆塗りをします。木心法は、芯材を中にいれたままにし、脱活法は漆が乾燥してから内部の芯を脱却します。」
 阿修羅はもそうだったと思いますが、この「白象」は木心乾漆です。
 木をこのように組んで、と詳しく説明していただきました。
 日彫展「緑風」
裸婦像「緑風」をつくられた作家は水戸に住んでおられ、3・11の大震災にあい、その時作品が完成する直前だったのですが、地震で腕の所が大きくゆがんでしまったそうです。あきらめようかと思ったのですが、なんとか修正して出展したとのことです。最初の構想とは少し違っていました。
 人物の作品には、震災からの復興を祈る気持の作品がたくさんある、と審査員の方が話されました。
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美作の国津山藩森家の足跡

 津山森藩のこと、もう少し記しておきます。
 森家4代・森長成は江戸でのお犬様屋敷建設の疲労とそれにより生じた、膨大な借金などのの精神的疲労で27才で若死し、跡継ぎの乱心で津山藩はお家断絶になるのですが、その時、実は、市ヶ谷見附の天下普請を担当した2代藩主・長継はまだ存命でした。
 長継は、隠居料として持っていた2万石を備中国西江原(現・井原市西江原町)に移し、藩を起こしました。この西江原藩の2代目が長直で、浅野家改易の後の宝永3年(1706)に赤穂へ入ります。
 ほかにも三日月藩や新見藩が森家の一族ですが、長継の跡を継いだということで、赤穂森家が宗家筋となりました。
 赤穂は、少し遡れば、忠臣蔵です。
 津山と忠臣蔵との直接的な関係といえば、まず神崎与五郎、そして茅野和助。いずれも津山の出身で47士の中に入っています。もう一人、横川勘平も美作の出身といわれています。
 赤穂浅野家と津山藩森家とは何かと縁があります。
 森家が改易となったとき、津山城の在番として来たのが赤穂浅野家の本家筋にあたる広島浅野家だったのです。
 そして取り潰しとなった赤穂浅野家の後、赤穂に入ったのが先に述べたように津山森家の長直だったのです。
 それからもうひとつ、津山藩は、また小豆島を一部領有していました。
 天守台の石垣
江戸城の多くの石垣の石は、江戸城の石材の多くは、相模真名鶴付近と伊豆から切り出しています。安山岩と呼ばれる、黒っぽい石です。
 そしてもうひとつ、角など、形をきちんと決める所に使われた堅牢で白いきれいな石があります。御影石です。
 これは多く小豆島から切り出して運びました。
 その小豆島の一部を領地として持っていたのです。
 小豆郡のうち東部三郷(草加部、福田、大部)は江戸幕府直轄領(倉敷代官所管轄)として、池田地区とも幕府の天領地となっています。
 そして、西部六郷は津山藩領として統治されていました。さらに天保年間には、池田郷は津山藩の領地となっています。
 この関わりも、ひとつの謎ですが興味を惹かれます。
 市ヶ谷見附から津山藩森家に入り、中野の犬屋敷を眺めたり、江戸城天守台の石垣を見つめて小豆島へたどり着き、森家の足跡を少し知ることができました。。

暑い日、節電

 今日は暑い1日でした。熊谷では6月で初めての39度を記録したらしいです。
 先日、資源エネルギー庁が、<「節電アクション」日本のために 私たちのために>という新聞1面広告を出していました。
 「東日本大震災の影響により、東日本はこの夏、前例のない電力不足卯が予想されます。
 停電を回避し、日々の暮らしや経済活動を守るためには、一人ひとりの節電が不可欠です。そのため、家庭や事業者の皆様に前年比15%の節電を目標としてお願いしています。」
この広告に、政府や東電の犯した間違いをわびる気持ちが少しもなく、<東日本大震災の影響により」と天災だから当たり前のような姿勢が許せないといった投書がありました。 節電がどうのという前に、節電をしない人は国賊といったムードにあることになんとなく恐ろしさを感じます。
 あなたはどんな節電をしますか!と強制的です。
 節電対策メニュー
大阪府の橋下徹知事が、関西電力の節電要請に応じられないとしたことに驚きと、とにかく節電をと言われるまま思い込んでいた自分に反省しした。
 「これまで関西電力に(節電計画の作成に向けた)協力を求めてきたが、応じてこなかった。府としては15%節電に従う必要がないと思っている」
 なぜ15%節電が必要なのか、その根拠を示しなさいということを言うと、きちんとした数字は出て来なかったようです。
 企業の15%節電は分かるとして、家庭の15%節電というのは、実際はあまり意味のある数字ではありません。
 なぜだか、皆に不便を強制しているように感じます。
 何のためなのでしょう。
 節電をしなくても良いと言うつもりはありません。
 地球温暖化防止で省エネを心がけましょう、ということは少しは言ってきて、実行しています。少しはですが。
 今回はそれとは少し違います。
 電力不足はつらいでしょう、不便でしょう、を実感させて、やはり原発は必要です、と言いたいのではにかと思えてきます。
 そして、国の指示や、電力会社の要請があったから素直に何も深く考えないで、「節電します」は、結局、これまでの原発推進政策を容認し、ただ震災前に復帰していうだけではないかという気がします。
 電気は 供給のしくみから考えると、ほとんど貯められないので、節電は「ピーク時」に使わないようにする、これが実は一番大事なのことです。今の電気供給を見ると、夜中にまで懸命に節電しても、停電回避への意味をなしてはいません。(もちろんCO2削減といった効果はありますが。)
 (現状では、長くみて、午後の1時ごろから夕食時ぐらいまででしょうか)
 何もかにも一所懸命節電して熱中症にかかるのはやめましょう。
 というようなことを書くと、なんだか、少し後ろめたいです。
 その後ろめたさ払拭のため、資源エネルギー庁の節電チェックを上に載せてみましたが、字が読めませんね。

二の丸庭園の菖蒲田

 江戸城探索で天守台まで登ったので、帰りに、東御苑の二の丸庭園の菖蒲田に行きました。
二の丸庭園の菖蒲田
 菖蒲は株ごとにきちんとまとめられて、名称の書かれた木札がつけられ、想像したいたより見事でした。
、明治神宮の菖蒲園から株分けしたものだそうですが、平成4年に明治神宮の菖蒲園が、病気の蔓延した時、この東御苑の二の丸庭園の菖蒲田から逆に株分けされたこともありました。
武蔵川(むさしがわ)
 前にアヤメのことで、いろいろな漢字が当たられることを書きました。
 五月節句の行事に、葉っぱが剣に似て邪気をはらう縁起物になる「白石菖」という草を導入しましたが、その際この草の文字を「菖蒲(あやめ)」と間違って使用したため、日本で、五月節句には花の咲かない「アヤメ(菖蒲)」を飾るという習慣ができます。
 そして、6月になって花が咲く「アヤメ(菖蒲)」を、「花アヤメ(花菖蒲)」と呼ぶようになります。
 そして、この花アヤメ(花菖蒲)は品種改良が進み人気が出て武士たちに好まれ、「菖蒲(あやめ)」の文字を縁起を担ぎ「勝負」にかけて「ショウブ」と呼ぶようになり「ハナショウブ」の言葉になっていったようです。
 アヤメは、「菖蒲」「文目」「綾目」「漢女」といった字を使います。
 「文目」は、葉の葉脈がまっすぐで文脈に似ているから、あるいは織物の文目模様に似ているからなどからです。
 「綾目」は花びらの模様が織物の綾目に似ているからということからです。
 中国の女性を指す「漢女(あやめ)」は、花のすきっとした線の模様が、目元の化粧に似ていること、また全体の雰囲気が似ていることからきています。
 東御苑の二の丸庭園の菖蒲田の菖蒲には、「大紫」「小町娘」「御所遊」「江戸自慢」「獅子怒」「玉鉾」「酒大盃
中花」「深窓の佳人」といった名前がついていました。

「五百羅漢 増上寺秘蔵の仏画」

 江戸東京博物館で「法然上人八百年御忌奉賛 五百羅漢 増上寺秘蔵の仏画」を見ました。
 今年、平成23年(2011)は、浄土宗の開祖・法然上人が遷化されてから800年を迎える節目の年にあたります。この法然上人八百年御忌を奉賛し、増上寺秘蔵の仏画 狩野派最後の絵師、狩野一信による「五百羅漢」の特別展です。
 「五百羅漢図」は表具も含めると縦3メートルを超す大幅(71枚の高さ約172cm、幅は約85cmだそうです)。そこに羅漢たちの営みが非常に緻密に描き込まれていて、見るものを圧倒します。「五百羅漢」がまとう衣紋にも細密な装飾を描き込んであって、丁寧にみていたら前に進めません。
 しかも、動物や背景まで、そのエネルギーのまま、描いています。
 狩野一信(1816~63)という人については、忘れられた人だと言います。これだけの迫力ある五百の羅漢像を描いてです。江戸生まれで、狩野素川という絵師に入門したと伝わっていますが、あまりわかっていないようです。
第22幅 六道地獄
 例えば、「六道 地獄」では、羅漢が宝珠から光線を発して氷を解かす。その光の描写は解説で言うところの「羅漢ビーム」とも呼ばれる光を発して、まさに劇画調です。そのまま心に焼き付きました。
 西洋絵画の陰影法に挑んだ描写もあります。なんだか生々しく病的な感じがします。
 真ん中あたりで、大きな成田山新勝寺所蔵の「釈迦普賢文殊四天王十大弟子図」が展示してあります。水墨画に近い色調で、落ち着いた仏画の描写、金泥が効果的に使われ、展示の照明も明るさが周期的に変化する工夫がされていて、動けなくなります。
 狩野一信はかつて本所にあった羅漢寺を参拝して、今は目黒の五百羅漢寺に現存する松雲禅師作の彫像を見てこの絵の構想を得たということです。
 松雲禅師は10数年かけて536体彫り、狩野一信は10年かけて100幅描きました。 がしかし、狩野一信は96幅まで描き終えて数え年48歳で病死してしまいます。
 残り4幅は妻・妙安(みょうあん)、弟子・一純(かずよし)らが補って完成させ、文久3年(1863)に増上寺に奉納されました。
 これまで、狩野一信筆「五百羅漢図」全100幅が寺外で展示される機会はありませんでした。はじめてのことです。
 とにかく、絵も生き方にも圧倒されました。

ムラサキシキブ「紫式部」  ヌスビトハギ「盗人萩」

 自然教育園で、ムラサキシキブの花が咲いていました。紫の実はよく見ますが、花は目にすることはあまりありません。
 ムラサキシキブの花
ムラサキシキブとくれば、「紫式部」です。どうして「紫式部」という名前がついているのだろうと思います。
 ムラサキシキブはクマツヅラ科カリカルパ属の低木で日本や台湾、中国に分布する落葉性の低木です。
 コムラサキも紫の実がなります。それに比べると、実のつき方がまばらで,素朴な感じがします。でも「紫式部」です。
 いけ花では江戸時代から使われていたようで、江戸時代の花伝書『立華正道集』や『抛入花伝書』には「実紫(みむらさき)」の名で載っています。ムラサキシキブの別名はミムラサキ(実紫)です。これは真っ当な名前ですめ。
 でも『抛入花伝書』には「植木売は紫式部といふ」と、ムラサキシキブの名が出ています。花屋さんが売りたいために「紫式部」と言ったのでしょうか。
 『大和本草』という江戸の本には、玉むらさきとして「紫しきみ」と出ています。
 この「しきみ」は敷実(しきみ)あるいは重実(しげみ)、茂実(しげみ)の言い方がなまった言い方で、紫敷実か紫重実(茂実)からムラサキシキブの名が由来したというのは納得ができる気がします。
 もちろん「紫しきみ」というより、「紫式部」と呼びたいなという思いがあったということでしょう。
 ぬすびとはぎ
草花の名前でもうひとつ気になるのが、ヌスビトハギ「盗人萩」です。もう少しすると萩に似た小さな花が咲きます。
 そして、花が終わり、実がなるのですが、その種を包むさやの形が盗人の足跡に似ているというのでヌスビトハギ「盗人萩」の名前がついたということです。
 花と実を観察したいと思っています。

中野村お犬小屋御普請

 「天下普請」は、天下人からの普請、大名側から言えば、「手伝普請(てつだいふしん)」ということになるのでしょうか。
 江戸城の普請の時は、「天下普請」と呼ばれますが、今日書こうと思っている、犬小屋造営の工事、こちらは、「手伝普請」と言われています。
「天下普請」の費用のことはよくわかりませんが、元禄8年(1695)に森家4代の長成の時に命じられた「手伝普請」、中野の犬小屋に関しては、その費用がわかります。
 一般的には悪法として名高い、徳川綱吉の「生類憐みの令」ですが、特定の成文法として存在するものではなく、複数のお触れを総称してこのように呼ばれています。
 また、「生類憐みの令」は、「犬」が対象とされていたかのように思われているふしがありますが、実際には犬だけではなく、猫や鳥、さらには魚類・貝類・虫類などの生き物にまで及んでいます。
 ただ、綱吉が丙戌年生まれだったことと、跡継ぎの子どもが欲しかったことで、特に犬が保護されたことは確かです。そのため,江戸市中に飼い主のいない野犬が多数発生し、人々が大きな迷惑を受けます。
 幕府もその対応に苦慮し,大規模な犬屋敷を建てて野良犬を収容することにします。元禄8年(1695)、飼い主のいない野犬を収容するため、四谷(千駄ヶ谷村、天龍寺の西)・大久保(抜弁天近く)に、続いて中野(現中野区役所一帯。旧囲町)の3カ所に「犬御用屋敷」を設置します。
 四谷、大久保の犬小屋の敷地は、2万から2万5千坪ぐらいだったのですが、それでもすぐ手狭になってしまいます。そこで中野に犬御用屋敷を造営し、その役割を移していったのです。
中野は16万2千坪(約50万平方メートル)と、飛び抜けて広い場所でした。
 その中野の犬御用屋敷建造を、「手伝普請」として津山藩森家が命じられます。
 中野 「かこい」犬屋敷跡
この工事は、老中柳沢吉保の奸計により<「武蔵児玉郡中野村お犬小屋御普請」を下命された>といわれています。柳沢吉保と森家とのい間に何かあったのかと気になります。
相役として讃州丸亀藩5万石京極能登守が命じられました
 元禄8年10月14日に命がくだり、同年12月4日に完成しています。
 犬小屋389戸、餌場など164戸、
 総工費約4万3千両(1両20万円とみると,約86億円)。津山藩は18万6千500石。1石1両として年間収益約30~38億円と考えても,年収の3倍近い額の出費になります。
 工事に参加した延べ総人数は、約93万500人。そして約1万頭の荷馬、2万7千輌の荷車や諸道具などを総動員して連日の突貫工事により完成することができました。
 犬屋敷が完成して、津山藩に残ったのは数万両におよぶ膨大な借財でした。
 借金に苦しんだ藩は、各村に銀200貫を年貢に加えています。
 完成から3年後、もともと病弱だったのですが藩主長成が、27歳の若さで亡くなります。それには、この普請の心労もあったと言われます。そしてあまりに早い死だったので、跡継ぎをたてることができず、森家は取潰しとなってしまいます。
 津山の方では、犬小屋のために、森家はつぶされた、と言っています。

市ヶ谷見附 「天下普請」

 家康が天下を握って以来、江戸城建設を初めとする公共事業は、全国の大名が費用を負担し、実際に藩が取り仕切って普請が行われる「天下普請」で行われました。
 数度に及ぶ天下普請の中で、寛永13年(1636)の外濠工事は、いわば江戸城建設の仕上げとも言える、第5期の事業になります。
 三代将軍家光の命により、外濠石垣普請は西国61の大名に、濠の開削は東国52の大名が分担して工事を開始。
 この外濠工事は江戸城の総構えを締めくくるものであり、江戸城の西側に関して言えば、牛込・市ヶ谷・四谷・赤坂の見附御門の石垣、牛込~赤坂間の濠の開削が行われています。
 牛込~赤坂間の濠の開削は、石垣の完成を待って伊達政宗を初めとする52家が、7組に分かれて実施しました。
 市ヶ谷見附門
その中の市ヶ谷見附の石垣は、美作国津山藩主森長継公の普請によるものでした。藩祖森忠政公から代替わりした6年目の春のことです。ちなみに森忠政は本能寺の変などで有名な蘭丸の弟です。
 忠正も何度か徳川家から、普請を命じられています。
 慶長11年(1606)江戸城の造営
 慶長14年(1609)篠山城の新築
 慶長15年(1610)江戸城の石垣普請
 慶長16年(1611)名古屋城の新築
 慶長19年(1614)江戸城石垣普請
 などです。まだ大阪城修復とか数回あります。
 森長継は、市ヶ谷見附の普請です。
 それまで何度も普請を命じられて、いささか困窮していた所へ今回の市ヶ谷見附の工事を命じられました。ところが、現場で計ってみると、幕府から出された設計図よりも広い。
こんなことではやっていられないと、森家の田中右馬之丞が切腹を覚悟で抗議を申し入れます。そのことが有利にはたらいたかどうか分かりませんが、結局は幕府にも褒められたと伝えられています。
 でも「天下普請」、大名にとって、ひいてはその藩の住民にとって、大きな負担になりました。その費用がいったいどのくらいだったかは、不明です。
 江戸城下町建設のために、千石夫(役高1000石につき1人の人足)という幕府からの指示でしたが、とてもそのような人数ではできません。
 石垣の石も、「百人持石」(人夫100人がかりで運搬した石)が、所領石高10万石につき、1120個ということで、当時の船では1隻に百人持石」2個しか運べなかったので、何隻の舟が必要だったのでしょう。台風で沈没した舟もあります。

老舗百貨店の屋上にある 祠

 百貨店の屋上の定番のひとつに、祠があります。
 伊勢丹の「屋上庭園」アイ・ガーデンにもきっちりありました。
 最初はどこ、となると三越かなと思います。
 日本橋三越本店屋上には「三囲神社」と「活動大黒天」が祀られています。
 三越と「三囲神社」は切っても切れない関係です。三越百貨店の前身、呉服店の三井越後屋は、江戸の頃から、この地で手広く商売を展開していた。
 三井家では三囲神社を篤く信仰しており、願い事の叶う縁起のよい神として、大正3年(1914年)9月21日当屋上に遷座する。そして、1972年に、現在の形となり、建立以来、三越の守護神として親しまれています。
銀座三越の出世地蔵と三囲神社
 昨年伊勢丹と手を組み大改装した銀座三越にも「三囲神社」は祀られています。さらに「銀座出世地蔵尊」もあります。
 これがまた面白いです。
 このお地蔵さんは、明治のはじめ頃、現在の銀座三原橋辺りを流れていた三十間堀川の工事中に発見されたと言われます。
 地元の鳶の親方が大切に祀っていましたが、戦災の中で再び行方不明に。その後またひょっこりと見つかったことから、今度こそ行方不明にならないようにと三越屋上に祀られました。
 土の中から見つかったお地蔵さまが、百貨店の屋上まで”出世”したことから「銀座出世地蔵」と呼ばれるようになったと言います。
 これは銀座の地元との結びつきです。
 新宿伊勢丹の屋上に祀られているのは朝日弁財天です。
伊勢丹屋上 朝日弁財天
 昭和8年(1933年)、『伊勢屋丹治呉服店』が、神田から新宿進出の際に、市ヶ谷の甘酒屋にあったものを移して祀りました。
 朝日弁財天の由来は、太田道灌が江戸築城のさいに鬼門よけに弁財天を祀った故事にちなんでいます。
伊勢丹 朝日弁財天の案内立て札

 ある僧侶が霊験あらたかな弁財天を伊勢丹の守護神として祀るようすすめられ、明治30年頃市ヶ谷の甘酒屋に鎮座していたものを、昭和8年新宿移転と共に、本館屋上に祀ったものです。この弁財天は徳川初期のものといわれ、細工は素晴らしいものがあるそうです。商売繁盛をもたらし、火災も防ぐといわれています。
 市ヶ谷の甘酒屋どこらあたりにあったのでしょうか。気になります。

伊勢丹本店本館の屋上「アイ・ガーデン」

 日曜日に新宿伊勢丹の屋上に行ってみました。この屋上も秋のまち歩きのコースに入れようと考えています。「屋上庭園」を見て考えるのが目的です。
 百貨店の屋上と言えば、昔は子どもが楽しむ乗り物があって、軽食も売っていて、子供たちのあこがれの場所でした。それが、少子化や子どもの遊びの多様化、さらには家族連れの買い物の場がしだいに郊外型の大規模商業施設に移っていったことなどで、「屋上遊園地」は減っていき、閉鎖になったり、この伊勢丹のように、しゃれた屋上庭園に変わったりしてきました。近くの新宿マルイ本館にも都内最大級と言われる屋上庭園があります。
 そこには、緑があふれ、季節の草花が咲き、まさに都会のオアシスそのものです。もちろん蜂や、蝶やトンボなどもやって来ます。
 伊勢丹 屋上
新宿の伊勢丹本店本館の屋上は、アイ・ガーデンという名称です。2006年6月にオープンしました。
 屋上は約2050平方メートル、総工事費は2億5000万円かかったそうです。
 ヤマユリ、タチバナ、サルスベリなど約200種類の草花や樹木が植えられています。庭園内の植物が温室効果ガスである二酸化炭素(CO2)を、年間約7ン吸収するそうです。
 伊勢丹 屋上の芝生
中央に歩くことのできる芝生の広場があります。芝生は、他の低木や地被類よりも管理が高くつくので、施主側は嫌う場合が多いのですが、開放感が出て、回りの緑を鮮やかにし、ヒートアイランド現象緩和という屋上緑化の使命も果たします。
 アイ・ガーデン内には、子どものために「アイキッズクラブ農園」を作っています。伊勢丹の会員制クラブ「アイキッズクラブ」の子どもたちの手によって、さまざまな植物が育てられ、成長の記録は観察日記として屋上に掲示されています。5月から10月までの月に1回、第3土曜に活動しています。そこでは、オーガニックコットン、枝豆、スナップえんどう、オクラなどを育て、収穫した作物は、少しずつおみやげとして持ち帰ります。
 屋上庭園は、上野の国立西洋美術館を設計したル・コルビジュエの提唱した「近代建築の5原則」の中の一つでもあります。
 屋上庭園の良いことは分かっているのですが、樹木や土の荷重が重いことや、樹木の維持管理に費用がかかることなどからなかなか実現は難しいです。
 しかし、地球温暖化やヒートアイランド現象などにより、近年、屋上庭園の重要性は見直され、特に、百貨店の屋上に屋上庭園は定番になってきています。

青梅街道にある 常圓寺

 今年の秋に、「新宿」のひとつの象徴である「盛り場」の今昔探索をテーマにして、大木戸から内藤新宿跡から淀橋まで歩く計画をしていて、その道を通るたびに、少しずつ、取材をしています。
 青梅街道を、今の新宿駅を越えて少し右に行くと、今は青梅街道よりもメイン道路になっている靖国通りの、歩道橋へあたります。それを渡って、「淀橋」の方へ向かうと、常圓寺があります。
 常圓寺は、日蓮宗の寺院で、天正13年(1585年)に日立上人によって創建されました。入るとすぐ右手にある植込みに石碑があります。摩耗してか、文字があまり見えませんが、狂歌師便々館湖鯉鮒の「三度たく米さへこはし柔かし おもふままにはならぬ世の中」という狂歌が刻まれています。
 常圓寺 便々館湖鯉鮒の狂歌碑
これは、大田南畝(1749~1823年)の筆によるものです。太田南畝は蜀山人・四方赤良・寝惣先生・山手馬鹿人など、20もの号をもち、狂歌・酒落本・滑稽本の作者として知られた人です。生まれは牛込で、神楽坂を登った先です。
 湖鯉鮒没後の翌年にこの石碑が建てられているため、追善の石碑と考えられています。
 「三度たく米さへこはし柔かし おもふままにはならぬ世の中」なかなか含蓄のある狂歌です。
 門を入ると、本堂に向かって左側にしだれ桜があります。これはもと、小石川伝通院、広尾光林寺のものとならんで 「江戸3木」といわれ、また「江戸百本桜」の一とされた桜の3代目として、昭和45年に植えられたものです。そばに、天明期(1781-1789)の俳人冬暎の「うれしさや命をたねの初さくら」という句を刻んだ碑があります。
 本堂のわきの墓地に入ると、七体の地蔵尊が並んでいます。
 常圓寺 七地蔵
昭和5年に発覚した「七乳児絞殺トランク詰め死体事件」の被害者の冥福を祈って建てられました。新宿駅の荷物預かりのトランクから、7人の幼児の死体が出てきたのです。
 これは幼児をもらい受けては殺していた夫婦がトランクにつめて、駅にあずけたのです。
 「淀橋七地蔵」という碑が建てられて、お地蔵さんについての案内があります。
 <淀橋七地蔵は、昭和の初め惨酷を極めた大久保町の貰子殺し夫婦の手により哀れな死を遂げた男女七児の霊を弔うため、当時の淀橋警察署長や同町長等が相談の上常円寺住職の及川真能師が施主となられて、昭和五年六月七日同寺に葬り「弔男女七児之墓」の墓標と「弔生年月日死亡年月日不明男女子之霊」と記された七本の卒塔婆を建てて懇(ねんご)ろに供養されました。此の事を伝え聞いた青山の石勝さんが地蔵尊七体を刻んで寄附されたので、七地蔵協賛会が組織され多くの情けある人々の手により同年七月十日無縁行路死亡者の霊を併せて盛大なる法要を営まれました。その後戦争そして敗戦という悲惨な時代もありましたが、助産婦会・区医師会・各町会のそれぞれの有志の方々により毎年心のこもった供養が続けられて来ました。水子地蔵尊は、此の度周囲の人達の都合だけで闇から闇へと名も記されず泡のように消されていった無数の哀れな生命を憐れみ、「この次にはきっと幸せに生れて来なさいよ」という願いをこめて、各町会・助産婦会・医師会その他の心ある人々が地蔵菩薩の碑を建てられ毎年九月二十日午後二時から御供養が続けられています。私達の親戚や友人・知人・隣人にもこのような不幸なことに全く関係のないという人は少ないことと思います。どうか香華を手向けて此の世に縁の薄かった水子の霊を慰めて下さい。>
 今日では、無縁行路死亡者および水子霊を合わせて供養する法要が営まれているようです。
 なお、隣り合わせて、常泉院があり、そこには、成子の子育て鬼子母神と呼ばれる、小さな鬼子母神もあります。
 ここの柵の模様が気に入りました。
新宿鬼子母神のザクロの彫り物

津山藩主 森家

 私の生まれは、岡山県津山市です。津山城下町10万石と言いますが、それは、松平家の時の石高、津山城を作ったのは、森忠政で18万石でした。
 森忠政は織田信長の小姓だった森蘭丸の弟です。
 そして、津山では、殿様と言えば、森忠政のことを言います。
 でも、その森家について、私は、あまり知りません。
 でも、やはりどこか気になって、東京でゆかりの所は調べたくなります。
 例えば、中野は、犬屋敷です。津山藩主 森長成が、将軍綱吉の命を受けて犬屋敷を造営しています。広大な敷地に、「一の囲」「二の囲」「三の囲」が造られ、10万匹を超える野犬が収容されたそうです。
 その犬屋敷を造営する時、実は森長成は病んでいて、犬屋敷が完成してまもなく亡くなり、跡継ぎないということで、森家は断絶してしまいます。
 もう少し遡ります。市ヶ谷の駅近くの市ヶ谷見附です。
 市ヶ谷見附は、寛永13年(1636)、津山藩主森長継の普請によるものです。
 藩祖森忠政公から代替わりした6年目の春です。
 市ヶ谷見附は明治4年(1871)に道路拡張に伴い撤去されていますが、土台の一部は残っています。
 市ヶ谷見附の橋の下の石垣
 特に、橋の下、釣り堀があってその駐車場になっている所の石垣には多くの刻印が残り、注目されます。石垣には運んできた大名を識別する印として刻印が残されています。ここの刻印は多いので何らかの事情で、いろいろな石がここに集まられたのだろうと言われています。
 市ヶ谷見附の石垣の刻印
いつも蔦が絡んで石垣がよく見えないのですが、最近刈られたと聞いて見に行ったのでしが、やはり蔦は絡んでいました。それに、駐車場で、車が満車でした。
 津山藩の刻印をぜひ探してみたいといろいろ調べていたら、森藩はこのような刻印を打っていたという図がみつかりました。真偽の確認はとれませんが、これをあてに今度探してみたいと思います。
 江戸城の石垣の森家の刻印
それから、森家の江戸のゆかりも探してみるつもりです。

あじさい

 今年は早い梅雨入りです。今日も雨で肌寒かったです。
 あじさいが、いつもなら、もう少し咲いていると思うのですが、今年はまだ少ないです。イベントであじさいの紹介をするので、新宿中央公園へ行ってみましたが、ここのあじさいは、今年は剪定が行き過ぎて、咲いていませんでした。
 あじさいは、またいろいろ面白いので、これからも書くことがあると思いますが、イベント用に整理した一部を記しておきます。
 まずあじさいの語源です。
 「あじ」は「集(あづ)」でものが集合すること。「さ」は「真(ま)」で真実
「い」は「藍(ゐ)」で、「集真藍」と書くのが、本来のあじさいのようです。
「紫陽花」は中国の白居易の詩に出てくる言葉で、いかにもあじさいにふさわし字だというので、平安時代の学者、源順(みなもとのしたごうが)採用してようですが、中国では他の花の名前です。中国では、あじさいを「八仙花」または「綉球花」と呼んでいるようです。
 あじさいは日本原産ということですが、それは丸い球状の花でなく、ガクアジサイです。
 山あじさい
自然教育園に、その原型とも言える、ヤマアジサイとガクアジサイがありました。
 花びらのようにに見えるものは実は萼(がく)です。花はその中の小さな点のような部分です。萼(がく)が目立ちます。
 ガクアジサイ
万葉集には、あじさいは2首しかありません。
 言問はぬ木すら味狭藍 諸弟(もろと)らが 練の村戸(むらと)にあざむかえけり
           (大伴家持 巻4 773)
 紫陽花の八重咲く如くやつ代にを いませわが背子見つつ思はむ(しのはむ)
           (橘諸兄 巻20 4448)
西洋あじさい
 江戸時代にオランダ商館の医師として 日本に滞在したシーボルトはこの花に魅せられました。そしてアジサイの学名として"Hydrangea Hortensia Otaksa" とつけました。
 最後の Otaksa という名前はシーボルトの恋人だった「お滝さん」のことです。
 江戸時代にオランダ商館の医師として日本に滞在していたシーボルトは28歳のとき17歳のお滝と結婚します。
お滝はもともとは良い家柄の生まれだが、親の商売の失敗から家族を助ける為に遊女になっていたと言われます。シーボルトはお滝さんに一目ぼれしたのです。
 結婚した2人には女の子を設けました。それがシーボルト・イネ、日本名は楠本イネです。イネは西洋医学を始めて学んだ日本人女性となり、外科や産婦人科の発展に大きな貢献を果たしました。
 しかし、3人で出島での幸せな暮らしは長くはありませんでした。。
幕府からスパイ容疑をかけられたシーボルトは日本追放となります。(シーボルト事件)。
 国に帰ったシーボルトは、日本から持ち帰ったあじさいにお滝の名前を学者としてつけたのです。 しかし、この学名は正式には、採用されなかったようです。
新宿中央公園にはシチダンカというあじさいがあります。
シチダンカ
六甲山の「幻の花」と言われていていた紫陽花の一種です。
 シーボルトが「日本植物誌」で紹介したのですが、日本人のだれもがその実物を見た人がなく、"幻のアジサイ"とよばれて長い間さがしつづけられていました。
 ところが、たまたま六甲ケーブル西側で昭和34年(1959)に見つかりました。それはシーボルトが紹介して以来約130年ぶりになります。その間、この花は誰の目にもとまらず、まぼろしの花であったわけです。
 シチダンカはヤマアジサイの八重化したものと言われています。
 最初は白ですが、しだいに色がついてきます。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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