つつじ(躑躅)

桜が終わるとつつじが咲きます。桜ほどは騒がれませんが、あちらこちらで目にしてきれいです。
そのつつじも終わっているのですが、「あじさい」について調べようと、栗田勇著『花のある暮らし』(岩波新書)を見ていると、6月あじさいの前5月に「つつじ」が出ていて、これが非常に面白かったので少し時期外れですが「つつじ」を書いてみます。
私は、植物には弱くて、名前もほとんど知りません。したがって花を見るとき、花の形態よりも、その花の歴史的エピソードのようなことに関心が向きます。
栗田さんの本を読むと、つつじが民俗儀礼として重要な役割を果たしていたことが書いてありつつじを見る目がまた違ってきます。
以下、栗田勇著『花のある暮らし』(岩波新書)から教わったことです。
つつじは日本自生の非常に古い花ですが「万葉集」には10首しかありません。続く平安文学にもあまり大きくは取り上げられていません。
それは、一つにはつつじがあまりに身近な花だったからかもしれません。
文学にはそうでも、つつじには特別な思いが寄せられていました。
それは、旧暦の4月8日を中心に行われている昔の行事に重要な役割を果たしています。4月8日といえばお釈迦様の誕生日で「花まつり」だなと思いますが、それとは違います。 「卯月8日」この日に、霊山に登って、花を摘み、花を立てて祭る風習があったようです。この時立てる花は「天道花」「高花」「立花」などと呼ばれます。屋根や高いところに、竹や竿を高く掲げ、その先に花を束ねてつけます。その束ねる花の代表がつつじだったのだそうです。
柳田国男の考えでは、みのりの神やご先祖の霊がその花に依ってくる、神の降りてくるのを迎え祝う祭り、あるいは、その花自体が神様と同化してしまうことを表しているとわれます。
折口信夫によると、「卯月8日」は女性の、一種の成人式になっています。
卯月に山に入り、一夜を山に籠もった帰りに、つつじの花を頭髪に挿して下りてきて、自分の家や田や神棚に赤い花を立てて置く。一夜の山籠もりのあとの象徴につつじの花をかざす。これが神秘的なのは、これが女性だけの秘密の行事だというのです。沖縄のイザイホーと呼ばれる神事に似たところがあるようです。
こういう民俗行事の中につつじの花はあったのです。
さて、それではつつじが鑑賞用の花になったのはいつごろからかと言えば、室町・桃山以後で、そしてその最盛期は江戸時代です。
天保年間(1830~1843)、新宿区の大久保では、つつじを熱心に増殖し、小売商人が仕入れの本場として群集しました。

これは、徳川幕府が江戸に出てくるとき、江戸の西を調査した鉄炮百人組が、家康から新宿区の大久保に屋敷をもらって、内職で栽培を初めたつつじです。
とってもきれいだと言うので、江戸時代の末には大久保に多くの人が見物に来また。
明治に入っても、明治16年に大久保つつじ園が開設され、最盛期には、花の種類70余種、株数は1万余株に及んだと言われています。しかし、明治35年ころからはしだいにすたれてれいきました。それは、東京に人が集まり、大久保も住まいの町になっていってつつじ園の場所が無くなっていったのです。最終的に、大久保つつじは日比谷公園などに売られ、大久保から消えていきます。
その縁で、新宿区の花はつつじです。最近、もう一度、大久保につつじをと運動が起きていますが、かつての盛況は望むべきもありません。
つつじは強い花です。街路樹の脇に無造作に植えられています。また、つつじの名所といえば、群で植えられて、常に一帯という感じの花になっています。確かに群になったつつじの花は美しいですが、一輪ごとの美も見てあげたい気がします。
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