FC2ブログ

つつじ(躑躅)

砧公園のツツジ
 桜が終わるとつつじが咲きます。桜ほどは騒がれませんが、あちらこちらで目にしてきれいです。
そのつつじも終わっているのですが、「あじさい」について調べようと、栗田勇著『花のある暮らし』(岩波新書)を見ていると、6月あじさいの前5月に「つつじ」が出ていて、これが非常に面白かったので少し時期外れですが「つつじ」を書いてみます。
 私は、植物には弱くて、名前もほとんど知りません。したがって花を見るとき、花の形態よりも、その花の歴史的エピソードのようなことに関心が向きます。
 栗田さんの本を読むと、つつじが民俗儀礼として重要な役割を果たしていたことが書いてありつつじを見る目がまた違ってきます。
 以下、栗田勇著『花のある暮らし』(岩波新書)から教わったことです。
 つつじは日本自生の非常に古い花ですが「万葉集」には10首しかありません。続く平安文学にもあまり大きくは取り上げられていません。
 それは、一つにはつつじがあまりに身近な花だったからかもしれません。
 文学にはそうでも、つつじには特別な思いが寄せられていました。
 それは、旧暦の4月8日を中心に行われている昔の行事に重要な役割を果たしています。4月8日といえばお釈迦様の誕生日で「花まつり」だなと思いますが、それとは違います。 「卯月8日」この日に、霊山に登って、花を摘み、花を立てて祭る風習があったようです。この時立てる花は「天道花」「高花」「立花」などと呼ばれます。屋根や高いところに、竹や竿を高く掲げ、その先に花を束ねてつけます。その束ねる花の代表がつつじだったのだそうです。
 柳田国男の考えでは、みのりの神やご先祖の霊がその花に依ってくる、神の降りてくるのを迎え祝う祭り、あるいは、その花自体が神様と同化してしまうことを表しているとわれます。
 折口信夫によると、「卯月8日」は女性の、一種の成人式になっています。
 卯月に山に入り、一夜を山に籠もった帰りに、つつじの花を頭髪に挿して下りてきて、自分の家や田や神棚に赤い花を立てて置く。一夜の山籠もりのあとの象徴につつじの花をかざす。これが神秘的なのは、これが女性だけの秘密の行事だというのです。沖縄のイザイホーと呼ばれる神事に似たところがあるようです。
 こういう民俗行事の中につつじの花はあったのです。
 さて、それではつつじが鑑賞用の花になったのはいつごろからかと言えば、室町・桃山以後で、そしてその最盛期は江戸時代です。
 天保年間(1830~1843)、新宿区の大久保では、つつじを熱心に増殖し、小売商人が仕入れの本場として群集しました。
大久保つつじ
 これは、徳川幕府が江戸に出てくるとき、江戸の西を調査した鉄炮百人組が、家康から新宿区の大久保に屋敷をもらって、内職で栽培を初めたつつじです。
 とってもきれいだと言うので、江戸時代の末には大久保に多くの人が見物に来また。
明治に入っても、明治16年に大久保つつじ園が開設され、最盛期には、花の種類70余種、株数は1万余株に及んだと言われています。しかし、明治35年ころからはしだいにすたれてれいきました。それは、東京に人が集まり、大久保も住まいの町になっていってつつじ園の場所が無くなっていったのです。最終的に、大久保つつじは日比谷公園などに売られ、大久保から消えていきます。
 その縁で、新宿区の花はつつじです。最近、もう一度、大久保につつじをと運動が起きていますが、かつての盛況は望むべきもありません。
 つつじは強い花です。街路樹の脇に無造作に植えられています。また、つつじの名所といえば、群で植えられて、常に一帯という感じの花になっています。確かに群になったつつじの花は美しいですが、一輪ごとの美も見てあげたい気がします。
スポンサーサイト



「江戸城を歩く」の著者の講演を聞く

 『江戸城を歩く ヴィジュアル版 』(祥伝社)の著者、黒田涼氏の講演を聞いた。
 まず江戸歩きの楽しみについて話してくださって、まちあるきを趣味としているものには有益でした。
 江戸の街があって今の東京がある。
 江戸の歴史があって今の東京がある。
 江戸歩きでそれが理解できる。
 江戸の街区、道路が残る場所がたくさんある。
 江戸の遺構が残る場所がたくさんある。
 家のすぐ外に400年の歴史がある。
 ちょっと外を歩けば、それを体感できる。
 
まさにその通りだと思います。
 そして、「東京に眠る江戸の痕跡を歩く」ということで、スライドでいくつか紹介してくださいました。
 本には書いていない場所を見つけるというのが大事だなと思いました。
 行って見なければ気がつかない「痕跡」これを見つけることが大切です。
 『江戸城を歩く ヴィジュアル版 』にはそれが少し紹介されていますが、直接話を聞くと、「私はこれは江戸のものだと思うのです」という場所がたくさん出てきます。
 それと、古い写真を持っておられ、それと今に比較、興味がわきます。
 今日の話で、ブログも開いておられうとのことで、早速拝見しました。
 よく私が通っている四ッ谷の探索の所をここに載せさてもります。後で実際に歩いて、いろいろ確認します。
地下鉄四谷駅案内

 四ッ谷に着くと麹町口ロータリーのところに、石垣があります。
 四ッ谷見付門の石垣です。
 現在は甲州街道がまっすぐに外堀を超えて麹町に続いていますが、江戸時代は、甲州街道は外堀で行き止まりになり、左に少し折れてから橋を渡り、四谷門を通ってまた右に曲がって甲州街道に続いていました。
 かつての門の写真が残っています。
 四谷見附の写真
土橋を登ると木橋の向こうに高麗門があります。
 今残っているのは、写真の左端のあたりです。
 これも防備上の理由です。
 もし街道がまっすぐ城内に続いていたら、門が破られると敵は街道を一直線に進むことができます。
 このように街道を屈曲させておけば、敵の侵攻スピードを鈍らせることができます。
 しかし馬車や自動車など、近代交通機関が通るようになるとこうした仕掛けは邪魔になり、街道をまっすぐ通る現在の橋が造られました。
 江戸時代の街道や堀、門の配置図が東京メトロ四ッ谷駅構内に掲げられています。
 また、四ッ谷は甲州街道の地下に埋設された玉川上水の水道管が渡る場所としても重要でした。
 先の写真の土橋の脇に、太い木の水道管が通され、四ッ谷門の下を経て城内に入り込んでいました。

 ブログはこのようで、本もほとんど同じですが、今日の話では、麹町側の駅広場に石垣のあった位置が模様で記されているとか。また駅の所に石垣の石が転がっているとか、上智大学の近くに紀州徳川の中屋敷の石垣の残骸らしきものがあるとか、隠れ痕跡がいろいろあるのだそうです。じっくり探しましょう。

「写楽展」

やっと「写楽展」 に行きました。
寛政6年(1794)5月、豪華な雲母摺りの役者大首絵28枚を出版して浮世絵界に突然姿をあらわし、翌年1月までに146点の浮世絵版画を制作しながら、その筆を断って忽然と姿を消した東洲斎写楽。
これだけの写楽作品が一堂に会することは無いでしょう。写楽が手掛けたとされる146点のうち、行方不明や非公開作品4点を除いた142点が東京国立博物館平成館に集結しました。
この展覧会、さすがに大勢の人。団体の人とか修学旅行の生徒もいました。列が2重3重にもなります。なんとか前に行って見ました。
第1章 写楽以前の役者絵
 出雲阿国の「かぶき踊り」から、菱川師宣による浮世絵の開花まで遡って、写楽登場まで歌舞伎がどの様に描かれたかを概観しています。
第2章 写楽を生み出した蔦屋重三郎
 写楽は全ての作品を版元蔦谷から出版しました。その蔦谷はもう一つのジャンル美人画の絵師として喜多川歌麿を抜擢していました。ここでは歌麿の作品が沢山展示されています。
第3章 写楽とライバルたち
 当時のライバル歌川豊国、勝川春英等々の役者絵と写楽の役者絵を並べて比較検証できる展示になっています。
 そして、第2会場に移ります。
こちらは写楽作品を4期に分けて全作品を展示してあります。ただ制作順というのではなく、歌舞伎演目に則した、画法の変遷を追っての展示です。
 この第2会場の方が少しすいていました。第1会場で疲れてしまうのでしょう。第2会場から見ても良かったです。
 第1期、寛政6年(1794)5月、豪華雲母摺り大首絵で颯爽と登場した写楽、2ヶ月後には、大首絵は減り、細判錦絵になり、全身を描いた役者絵に変化します(第2期)。さらに第3期に入ると、背景、小道具が描き込まれていきます。そして、第4期、寛政7年(1795)正月になると、点数が激減し、確かに絵自体も生彩を欠いてきます。
 そして最後に写楽の残影です。
 僅か10ヶ月で消えた写楽、しかし写楽版画の影響は後の浮世絵作家の作品の中にも見られる事で、それを表す作品が展示されています。
 少し作品を載せておきます。
写楽 三代目大谷鬼次の江戸兵衛(
写楽 市川男女蔵の奴一平
第1期の写楽を代表する作品。『恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)』に登場する江戸兵衛と奴一平を描いたものです。左右一対で見ると良いのですが。
栄松斎長喜「高島屋おひさ」
 <写楽の残影>コーナーでは、栄松斎長喜『高島屋おひさ(一部)』です。写楽の絵をあしらった団扇を持っています。団扇絵のオリジナルは、写楽の第1期の作品『四世松本幸四郎の山谷の肴屋五郎兵衛』です。
四世松本幸四郎の山谷の肴屋五郎兵衛』
高島屋おひさに関しては、喜多川歌麿の『高島屋おひさ』も展示されていました。
高島おひさ(喜多川歌麿)
歌麿にかんしては、梅原猛の次のような考察があります。
 喜多川歌麿は、蔦屋重三郎のおかげで、売れっ子の美人画絵師になったにもかかわらず、1793年(寛政5年)頃から、ライバルの出版社から美人画を出版するようになっていました。このことに憤った蔦屋重三郎は、歌麿に取って代わる絵師を探し、その絵師として写楽に白羽の矢を立てます。そして、歌麿のときと同様の雲母摺の大判大首絵を大量に描かせたというものです。
 しかし、写楽への巨額の投資は失敗し、蔦屋は財政的に行き詰まります。
 本当に、写楽は興味深い浮世絵師です。
 展覧会、3時間近くいました。かなり疲れました。

下落合・薬王院の庚申塔

 下落合の薬王院は、奈良の有名な寺、長谷寺の末寺に当たり、境内には石造品が多くあります。また、中世の板碑が8点保存されているということですが、中に入らないと見られません。
 その石造品に1つに、りっぱな庚申塔がありました。
 薬王院の庚申塔
下部に三猿が彫ってあるので、ああ、これは庚申塔だと思いました。
 上部は共に同じ円で日月の区別がつけにくいですが、日天と月天です。こういう彫りもよくあるようです。
 中央は、青面金剛像(しょうめんこんごう)です。手にいろいろ持っています。一番目につくのが蛇です。
 庚申塔の青面金剛像がよく手にしているのは輪宝、鉾、羂索、蛇、弓矢、金剛杵、日月、劒などです。その恐ろしい姿から、邪気や悪病を払うご利益が期待されていました。
 薬王院の庚申塔の上部

睡蓮

 雨の中、下落合を薬王院からおとめ山公園へ自然観察に行きました。
 薬王院では、小さな池で睡蓮が咲いていました。
 薬王院の睡蓮
夜、テレビを見ていたら、国立西洋美術館が紹介され、その中でモネの部屋の「睡蓮」が写しました。
 それで、昨年の6月に倉敷の大原美術館で見た睡蓮を思い出しました。
 睡蓮という名前は、花が夜は閉じ、昼に咲き、蓮に似た形をしていることから「睡眠をとる蓮」「眠る蓮」という意味でつけられています。
 和名で「ひつじ草」とも言いますが、これは、羊とは関係なく、「未の刻(今の午後 2 時)」のことです。そのころに咲くということですが、実際は明るくなると開きます。
そして暗くなるとすぼみますから、睡蓮の方がぴったりです。(日本の睡蓮は白です。色のついた睡蓮は正式にはセイヨウスイレンです)。
 倉敷、大原美術館の睡蓮。
 倉敷 大原美術館の睡蓮
クロード・モネは、後半生で、パリ郊外のジヴェルニーの自宅に日本式の睡蓮の池を作って「睡蓮」の連作を描きました。
 1920(大正9)年、児島虎次郎は、親友の画家斎藤豊作とパリ郊外のジヴェルニーに住むモネを訪ねました。
 当時モネは79歳。白内障でほとんど視力がなく、キャンバスに顔をくっつけるようにして描いていました。
 児島虎次郎は、「ぜひ作品を譲って欲しい。」と熱心に頼みました。画商を通さず直接モネと交渉したのです。
 モネはその熱意に押されたのでしょうか「今は大作に取りかかっている。 1か月したらまた来なさい。」といって絵を譲る約束をしてくれました。
 1か月後、再び訪ねていくと、モネは「日本の絵描きのために」と「睡蓮」をはじめ数点用意してくれていました。今大原美術館にある「睡蓮」はその時に児島虎次郎が選んだ作品です。
 モネの睡蓮
そういういきさつがあって、2000年の6月下旬、大原美術館にジヴェルニーにある「モネの庭の睡蓮」が株分けされてやってきました。これがその睡蓮です。
 大原美術館 睡蓮
美術館で作品を見て、庭の睡蓮を見る、とても素敵です。
 モネの睡蓮、たくさんありますが、国立西洋美術館 の睡蓮が好きです。
 国立西洋美術館の多くの作品は、川崎造船所(現・川崎重工業)社長を務めた実業家松方幸次郎のコレクションです。
国立西洋美術館のモネの睡蓮

白い花が咲いていた

 附属自然教育園で見た花です。
 マルバウツギ(丸葉空木)
 マルバウツギ
日当たりのいい山地に生えるユキノシタ科の落葉低木です。若枝は紫褐色で,星状毛が密生しています。
ウツギの葉と同じように表面がざらつきますが、葉のギザギザがほとんどないのでマルバウツギといいます。
 マユミ(檀、真弓、檀弓)
マユミ
マユミの「マ」は真,「ユミ」は弓,すなわち弓を作るのに有用な木、の意味だそうです。
材質が強い上によくしなるため、古来より弓の材料として知られ、名前の由来になりました。
和紙の材料にもなりましたが、楮(こうぞ)にとって代わられ、現在では印鑑や櫛の材料になっています。
 ガマズミ 
ガマズミ
スイカズラ科の落葉低木。特有のにおいを出すため、多くの虫が集まります。果実は球形、赤く熟し、酸っぱいが食べられます。枝は折れにくいため道具類の柄となります。
名前はこれに由来すると言われ、ガマは鎌(かま)で、ズミは酸っぱい実の意味だと言います。また別に「神ッ実」あるいは、「噛み酢実」の転化したものなどの説があります。 さらに「スミ」は染めが語源との説もあります。
果実を収穫して、ヘルスリキュール(健康酒)を作る人もいます。赤い実を抽出して作るリキュールは見た目も鮮やかだそうです。
 ノイバラ(野茨)
 ノイバラ
バラ科の落葉性のつる性低木。日本の野ばらと言えばこの花のことです。
果実は営実(エイジツ)と言い、寫下薬、利尿薬になります。
日本で報告されているノイバラ系の化石は100万年以上前とされていますが、文献に登場する最初は「常陸風土記」で「うばら」と記され、ついで万葉集に「うまら」として登場します。
 
 道の辺の うまらの末(うれ)に 這(は)ほ豆の からまる君を はなれか行かむ
              丈部鳥(はせつかべのとり)  巻二十 4352
 道ばたの茨の先に はいまつわる豆のように まつわりつくあなたに 別れていくことか

「いずれがアヤメかカキツバタ」

 白金の附属自然教育園に18日に行きました。その日は国際博物館の日ということで入園料が無料でした。国際博物館の日というのを知りませんでした。園内は普段より多くの人が来ていました。
 水生植物園に行くとキショウブとカキツバタが咲いていました。黄色と紫で目を引きました。
 キショウブ
キショウブ(黄菖蒲)は、西アジアからヨーロッパ原産の植物で、明治頃から栽培されていたものが日本全国の水辺や湿地、水田脇に野生化している、ということで外来種です。生態系に与える影響や侵略性が高いと警戒されています。そんなに強そうには見えませんが。日本に来た時は、ハナショウブに黄色系の花がないため、重宝されていたのですが。
 カキツバタ
カキツバタ。
 「水の中から生える。花色は青か青紫(白いのもある)。花びら中央部に白い筋模様がある。花びらの中央部は、めくれ上がる。葉っぱは幅広で、筋は無く、ほぼ平坦。」ということです。
 カキツバタは、『伊勢物語』で在原業平が、三河国八橋(現在の知立市八橋)で詠んだ和歌が有名です。
 ら衣
 つつなれにし
 ましあれば
 るばる来ぬる
 びをしぞ思ふ
 それと尾形光琳の描いた『燕子花図屏風 』。これは、その「八橋」の場面が描写されています。
 尾形光琳作『燕子花図屏風』
カキツバタは、昔、花の汁で布を染めたので 「書き付け花」とな言われ、それが 「かきつばた」に変化していったという説があります。屏風絵のように「燕子花」とも書きますし「杜若」とも書きます 。
 「いずれがアヤメかカキツバタ」という慣用句があります。
 その違いについて説明したものもありますが、その違いはなかなか見つけられません。
 この言葉の意味は、どれも素晴らしく優劣は付け難いということですが、見分けがつきがたいという意味にも用いられることがあります。
 アヤメは、「菖蒲」「文目」「綾目」「漢女」といった字を使います。
 それぞれにその言われがおもしろのですが、それはまた次の機会に。
 文字もいっぱいあって、とにかく迷います。

増上寺「徳川家霊廟」

 増上寺
芝の増上寺に行きました。目的は、徳川家霊廟でした。
 増上寺には、徳川将軍15代のうち、6人(秀忠、家宣、家継、家重、家慶、家茂)が葬られている。
 大戦前には台徳院(秀忠)霊廟、崇源院(秀忠夫人)霊牌所、文昭院(家宣)霊廟、有章院(家継)霊廟が国宝に指定されていました。
 しかし、昭和20年(1945)の空襲で建造物群のほとんどは焼失してしまいました。
 これらの霊廟に祀られていた遺体は、昭和33年夏、文化財保護委員会が中心となって、綿密な調査が行われた後、東京・桐ヶ谷にて荼毘にふされ現墓所に改葬されました。
 そして、焼け残った石塔を中心に、増上寺本堂の後ろに徳川家霊廟として、現在の墓所に改葬さました。
 そして、徳川家霊廟は、NHKの大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」にちなんででしょうか4月15日から11月末まで有料で公開されています(私が行った、5月15日は、無料公開日でした)。
 崇源院宝塔
徳川家霊廟には秀忠夫妻のほか5人の将軍、正室、側室など38人が埋葬されています。 正面右側に2代秀忠公の宝塔があり、焼失前の宝塔は霊廟室内に祀られ、大変大きなものだったようですが、木造だったため、戦災で焼失して。現在は「お江(ごう)」(死後は、崇源院)の崇源院宝塔に合祀されています。
 昔の写真を見ると、台徳院(秀忠)の案内板しかありませんが、今は崇源院(お江)の案内板がたっていました。
 14代将軍家茂の正室、静寛院和宮の青銅製の宝塔があります。
 静寛院和宮の青銅製の宝塔
静寛院宮の宝塔は当時のもので、当社は家茂公と並んで祀られていました。宝塔は家茂の石塔に対して青銅製であり、明治になってから作られた和宮の宝塔がりっぱだったわけです。
 もともと、徳川将軍家の墓所として増上寺境内に最初に葬られたのは2代将軍秀忠の子で慶長七年(1602)夭折の長丸でした。以来275年の長きにわたり、代々の徳川将軍が祀られ、明治10年(1877)に、最後の人、14代将軍家茂の正室和宮静寛院が埋葬されました。その時はもう明治の時代です。静寛院宮の宝塔は、宮内省によって造営されたものです。ですから、ここには、葵の紋章でなく、菊の御紋章が掘り出されています。
静寛院和宮の青銅製の宝塔の紋
 徳川将軍15代のうち、増上寺は6人というのはどういうことかと思いました。
 徳川家康は芝増上寺を徳川家菩提寺として整備、自身の死後は一旦久能山に葬った後に一周忌をもって日光に移し東方の守りを行うので神式で葬るようにと遺言しました。これが日光東照宮です。
 2代秀忠は、天海は家康に倣って神となることを勧めましたが、秀忠は「一門に神は一人でよい」と言い菩提寺で先に死んだ妻のお江の眠る増上寺に葬らせました。
 3代将軍家光は、天海への帰依と家康への尊崇から、天海の寺である寛永寺で葬儀を行い、廟を立てた上で、家康の眠る日光に葬らせました。
 家綱や綱吉の葬儀と廟は家光に倣った寛永寺ということになりました。
 しかし、増上寺は、本来の菩提寺であるわけで、当然申し立てを行います。6代将軍家宣はこれを要れて、葬儀を増上寺で行わせ、以降は歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺に交替で造営することになりました。

「知られざる在外秘宝」東洲斎写楽

 見たいテレビが多くて、ついついテレビに時間を取られて、ブログが書けません。
 今週月曜日からのNHKBSプレミアムの「知られざる在外秘宝」もすばらしい番組でした。
 特に私は今、浮世絵に興味があるので、第3回「徹底分析・写楽全作品~浮世絵版画全145枚が語る謎の絵師~」 と第4回「写楽・解かれゆく謎~ギリシャの浮世絵が語る正体~」はそれこそ食い入るように見ました。
 東洲斎写楽。
 活動期間はわずか10か月。天才絵師・東洲斎写楽が残した浮世絵版画 全145枚。
 こうしてテレビの画面からでも、すべて見られることはありがたいです。
 写楽の作品の多くが海外にあるということですから、まさに在外秘宝です。
 日本にはもうすでにない作品もあるとのことでした。
 写楽の作品は10か月を4期にわけて紹介されます。
 1期は寛政6年5月で「雲母摺、大判28枚の役者の大首絵」です。
 通常「写楽」と言われるとこの期の作品です。確かに一番迫力があります。
 第2期が寛政6年7月・8月で「二人立ちの役者全身像7枚、楽屋頭取口上の図1枚、細絵30枚)。
 第3期が寛政6年11月・閏11月「顔見世狂言を描いたもの44枚、間版大首絵10枚、追善絵2枚)。
 第4期「春狂言を描いたもので相撲絵を交えます」が寛政7年の1・2月とされます。
 中期の作品から1枚。
 三世坂東彦三郎の帯屋長右衛門
『三世坂東彦三郎の帯屋長右衛門 四世岩井半四郎の信濃屋お半』
 この絵は、寛政6年7月河原崎座上演二番目狂言の「桂川月思出」のお半長右衛門道行の場を描いた作です。
 写楽は第2期作品中、大判全身二人立の作を七枚描いていますが、その中では最もおだやかな絵です。
 道行の場合、女役の方に口説きがあって、振りが多く、男役の方はもたれ役といってて振りは少ない。この絵でも長右衛門の方はじっと立っている姿、お半の方は振事の一瞬きまった姿で表現しています。
 テレビの第4回「写楽・解かれゆく謎~ギリシャの浮世絵が語る正体~」では、写楽の正体があかされます。
 写楽の正体 は、『江戸名所図会』で知られる考証家・斎藤月岑が『増補浮世絵類考』で、写楽は俗称斎藤十郎兵衛で、八丁堀に住む「阿州侯(阿波徳島藩の蜂須賀家)の能役者」であると記述してあります。
 八丁堀(現中央区湊町)には、当時蜂須賀藩の江戸屋敷が存在していて、その中屋敷に藩お抱えの能役者が居住していて、そこに斎藤十郎兵衛住んでいといったことが確認されていると、その信憑性が説かれました。
東洲斎写楽の幻の肉筆画
 さらに、2008年、ギリシャの国立コルフ・アジア美術館が収蔵する浮世絵コレクションの中にあった写楽の署名のある肉筆扇面画『四代目松本幸四郎の加古川本蔵と松本米三郎の小浪』の作品から、その筆のタッチが専門家のものでないという見識が出て、今まで言われていた、北斎説、歌麿説はあてはまらないことがわかり、やはり能役者斎藤十郎兵衛である、ということです。
 でもまだまだ謎は残る「東洲斎写楽」でした。
 国立博物館で開かれている「写楽展」には行くつもりでいます。

緑を表すことば

 あいにく雨模様の昨日、今日ですが、緑のきれいな季節です。
 新宿中央公園 みどり
写真は、新宿中央公園です。
 緑を表すことばを探してみました。
 若草色、蓬色、松葉色、萌黄色、柳色、青竹色、苔色、苗色、千歳緑、深緑、抹茶色
まだまだ、あるのでしょうが、こうして並べてみると、みな自然の草木から来ています。
 若草色(わかくさいろ)別名 若菜色(わかないろ)とも呼ばれます。春先に芽吹いたばかりの若葉をあらわす色です。
 萌黄色(もえぎいろ)萌黄色は萌葱とも萌木とも書き表します。日本伝統色では黄緑色を表す代表的な色名です。
 深緑(ふかみどり)一年中緑をたたえる常緑樹の葉のような濃い緑色です。現在では〈ふかみどり〉と発音するのが一般的ですが、古くは深緑と書いて〈こきみどり〉(濃き緑)と呼ばれていました。
 青竹色(あおたけいろ)青々と成長した竹の幹の色を表しています。竹に関係する色には若竹色・老竹色・煤竹色(すすたけいろ)と、いろいろあり、日本人の生活に深く根ざしていたことが伺えます。
 苔色(こけいろ)苔のような渋みのあるくすんだ黄緑色のことです。苔のじゅうたんで覆われた美しい庭園を眺めていると、心が静かに落ち着いてくるのは、日本人ならではの感覚でしょう。
 千歳緑(ちとせみどり)不老長寿の象徴である常盤(ときわ)の松のような深くて渋い緑色のことです。千歳緑は千年の間 色が褪(さ)めないという縁起のいい色名です。
 万緑(ばんりょく)ということばもあります。みえるかぎり緑色といった感じでしょうか。力を感じます。
 万緑の中や吾子(あこ)の歯生えそむる  中村草田男
 中村草田男が夏の季語として使ったのだそうです。
 5月、手紙の書き出しも緑です
 「木々の緑が美しい季節になりました」
 「青葉、若葉が目にしみるころとなりました」
 「薫風緑樹をわたる季節になりました」
 山本素堂の「目に青葉 山ほととぎす 初がつを」もよく使われます。
 でも、不思議なことに、古代日本語には「緑」を表現する言葉がなかったと言われます。
 色を表す形容詞が、「白し」、「赤し」、「青し」、「黒し」の4つしかなく、その4つの言葉で全ての色を表現しなければなりませんでした。このため、この4つの形容詞は、現在の「白」、「赤」、「青」、「黒」よりも表現する色の範囲が広く、奈良時代や平安時代の「青」は、現在の緑色から紫色、灰色までを表す言葉になっていたというのです。
 「青リンゴ」、「青汁」、「青のり」、「青虫」、「青しそ」、「青ねぎ」、「青菜」、「青々と茂る」などの言葉が現在まで残っているのは、緑色を青と表現していた頃の名残ということですね。
今は、まさに緑の季節。緑を歩くと、いきいきとしてきます。

「状況劇場」の赤テント

 新宿の花園神社の前を通ったら、「劇団唐組」のポスターがありました。
 ひょっとして、と境内へ入ってみると、赤テントがはられていました。
 唐組 赤テント
なつかしい赤テントです。
 もう40数年前になります。昭和42年でしたか、3年ぶりに東京に帰ってきて、とにかく見たかったのが、「状況劇場」の赤テントでした。
 その前は大阪にいて、東京の情報がとても気になり、そのころ東京で流行っていた、アングラに興味を持ちました。
 東京の下宿は、阿佐ヶ谷でした。
 阿佐ヶ谷は、そのころの「状況劇場」が住まいしていた所です。そこでも良いからと人に頼んで下宿を探してもらったので、偶然でしたが阿佐ヶ谷の住人になり、「状況劇場」が粗大ゴミの日、演劇に使う道具を探しに歩くということを聞いていたので、会えないかなと、朝、うろうろすることもあいていました。
 ある時、それこそ得体の知れない一軍に出会い、ドキドキしました。
 団体で歩いていました。着物の着流しといった出で立ちでした。
 早速、花園神社に行き、たしか『腰巻お仙 -義理人情いろはにほへと篇』を見ました。
内容は覚えていません。
 ただ、酔っぱらいの観客が卑猥なヤジを飛ばしていたので、我慢できなくなった唐十郎が出てきて、喧嘩騒動になりました。そのことは覚えています。
 テントの中は、椅子でなく小さなフトンのようなもので座ったような気がします。
 異常に興奮していたことは確かです。
 その夜、下宿に帰り、大阪で知り合った人物に絵入りの手紙を書いて送りました。
 「とうとう見たで!『状況劇場』」
 『腰巻お仙』は本も読んだのですが、理解はしていません。
 ただ全体から醸し出されるあのドロとした印象が、たまらなかったのです。毒がありました。
 役者では麿赤児、四谷シモンという人は特に印象に残っています。
 その後、四谷シモンは人形作家だということを知って驚きました。
 また、大阪にいるとき、デザインに凝っていて、粟津潔とか、横尾忠則などのファンでもありました。だから、横尾忠則の『腰巻お仙』のポスターたまらなく好きでした。
 横尾忠則ポスター 腰巻お仙
なんだか、そういうことがすごくわくわくし、ざわざわしていた、あれが、1つの青春だったのだなと今は思います。
 とにかく、花園神社の赤テント懐かしかったです。

映画「浮雲」

 「浮雲」をNHKのBS映画のデジタルリマスターで見ました。
 たぶん3度めだと思います。
 映画「浮雲」
「浮雲」は、1955年に公開された成瀬巳喜男監督による作品です。原作は林芙美子。
主演は高峰秀子、森雅之。監督の成瀬と主演の高峰秀子にとっても生涯の代表作となった作品です。
 最初見たときは、名作だというので見て、まだ若く「浮雲」というタイトルから、こんなにつらい映画だったのか、と重い気持ちになり、苦手だなと思いました。こうならければ良いのにと思う方に高峰秀子が行ってしまうのです。救われないなと思いました。
 年をとって見て、まさに、人生を、男を、女を深くとらえて、すごい映画だなと思いました。今度は思いました。
 今回、デジタルリマスター版で、きれいな映像を見て、古さは全くなくなり、より深く「名作」だと感じました。
 物語は、戦時中、赴任先のインドシナで愛し合った妻ある男、富岡(森雅之)を追って引き揚げてきた、ゆき子(高峰秀子)は、次から次へと女を変える富岡の自堕落さに、一時は若い米兵のオンリーにまで身を落としますが、別れることがどうしてもできません。2人で新しい生活を始めるべく旅立った屋久島でゆき子は富岡に見とられながら病死してしまいます。
身につまされます。
 とにかく富岡という男、ひたすら根性なしです。自分本意でいくじなしと言えます。弱いのです。自分を守りたいのです。自分を思うと、まさにそうだなという気がします。
 でも、私には出来ないことが多いですが。
 例えば、思う女性といて、それでもきれいなかわいい子が来ると、気が移るかもしれませんが、富岡のように実際に浮気はできません。ま、それより先に、相手にしてくれないでそうが。とにかくそうしたことも悪びれずやってしまうところが、ある意味見事です。もてるのです。
 ゆき子が妊娠した時、たぶん困ったと思ったはずですが、堕ろしてほしいとは言いません。「産んでいいよ。なんとかするから」と言うのです。
 でも、何もしないのです。結局、ゆき子は堕ろすことになるのです。
 冨岡にとって、ゆき子は都合の良い女なのかもしれません。だから別れない。
 ゆき子が30万円を盗んできて戻れないのに、「君は伊庭のところにもどったほうがいい」と言います。
 屋久島までついてきたゆき子に「体が良くなったら東京にかえったほうがいい」とも言います。
 このこ言葉はある意味本心で、ある意味、うその気持ちです。この優柔不断さが、男の本音です。口にすることは、かっこうよくありたいということも含めて。
とにかく自分で全部責任をとるという気はないのです。
 屋久島につれて行く、そこまで出来ることは出来るのです。
 臆病者です。一度お金を借りに行きますが、それ以外は、ほとんど、自分から求めることはありません。それが、自分が傷つかない最良の手段だということが自然と身についているわけです。
 ゆき子がそんな冨岡なのに別れられない、ということも、納得できてしますのです。
 言い古された言い方ですが、人間の業が、見事に描かれている映画だと思いました。

楊洲周延画「千代田之御表」

 前にも書きましたが、今月末まで、新宿歴史博物館で「錦絵の世界」展が開かれています。
 その中に楊洲周延(ちかのぶ)画の「千代田之御表」というシリーズが展示されています。
 楊洲周延は、天保9年(1837年)~大正元年(1912年)。本名は橋本直義。
明治時代の風俗画、徳川大奥シリーズで知られている人のようです。
 「千代田之御表」は明治30年の作品です。
 江戸城内での公式の場である表における年中行事や遊興の様子などを描いた錦絵揃い物です。
 「千代田之御表」では、『江戸城御謡初図』と『御大禮之節町人御能拝見』が並んでいます。
 『江戸城御謡初図』では武士が肩衣(かたぎぬ)を放り投げています。
 『御大禮之節町人御能拝見』では、町人や武士が傘を手に何か暴れているような様子です。
 何だろうと、興味を持ちました。
 そして少し調べました。
 江戸時代の能は幕府の儀式に用いる「式楽」でした。
 江戸城本丸と西丸には幕府公式の催しに用いられる「表舞台」があり、将軍の代替わり・婚礼・出産といったお祝い事、先祖の忌日や家康を祀った日光東照宮参詣などの諸行事、貴賓の接待など公式の宴席には必ず能楽が開催されていました。
 その時、町民も城内に入り将軍はじめ武士と共に能を拝見することが許されたのです。これを「町入能(まちいりのう)」といいます。
 町人は定められた場所に集合してから城内へ向かい、途中で傘をもらって、能舞台白洲に詰めて座わるのです。
 千代田之御表 御大禮之節町人御能拝見
錦絵は、この傘をもらう場面が描かれています。ここでは喧嘩をしているわけではありません。一度におおよそ2500名の町人が見物に招待されたので、すし詰め状態だったらしいです。その熱気が描かれています。
 本来厳粛な雰囲気のはずが、かなりの騒がしさだったようです。
 この傘は持ち帰ることができ、大変な貴重品であったそうですが、なぜ傘なのか。おそらく能舞台白洲ということで、屋根のない所での鑑賞になるので、配られたのかなと思いますが、わかりません。
 でもおもしろい風習です。
 また室町期から正月におこなわれていた「謡初(うたいぞめ)」のように、能楽自体が幕府の欠かせない行事となっている場合もあります。
 その年初の「謡初」の最後には。まず将軍が観世大夫に肩衣(かたぎぬ)を脱いで与えました。続いて、将軍にならい諸大名が肩衣を与えました。
 『江戸城御謡初図』はその諸大名が肩衣を与えている所を描いています。
 千代田之御表 江戸城御謡初図
観世大夫はこの肩衣をもらって帰るのですが、実はこの肩衣は、後で、大名がお金を持って返してもらうのだとか。ご祝儀の前わたしですね。
 これもおもしろいです。
 「千代田之御表」は、その内容を知るととても興味深いです。

「美を結ぶ。美をひらく。 夢に挑む コレクションの軌跡」展

 六本木ミッドタウンのサントリー美術館へ行きました。開館50周年記念「美を結ぶ。美をひらく。 夢に挑む コレクションの軌跡」展が開催されています。
 朝早くからと思って行ったのですが、六本木ミッドタウンは11時開店でしたので少し待ちました。
 庭の方を眺めると、多くの人が芝生でヨーガをやっていました。ヨーガのイベントがあったようです。色とりどりのヨーガマット使っていて、きれいでした。
 ミッドタウンでヨーガ
サントリー美術館は、1961年に東京・丸の内で開館していたのですね。私は赤坂見附の時からしか知りません。そのころ仕事の会社が赤坂見附にあったので、よく行きました。
 落ち着いて見るには、ちょうど良いスケールで、内容も好きな美術館でした。
 50周年、その間で開催してきた展覧会の総数は、実に325回だそうです。
 やっとミッドタウンが開き、「夢に挑む コレクションの軌跡」展に入ると、入口で、「今6階で、展覧会についての案内をしています」といわれたので、そちらに行きました。そこで展覧会の意図、見どころなどを聞きました。
展覧会の構成は次のようになっていました。
序章:コレクション誕生―ゼロからのスタート
第1章:漆工―暮らしに寄り添う器たち
第2章:日本のガラス 朝倉コレクションを中心に―世界に誇るガラスコレクション
第3章:屏風と御伽草子―暮らしを彩った絵画
第4章:陶磁器の世界― 彩り豊かな皿や器たち
第5章:染織とファッション―小袖・能装束と沖縄の紅型
第6章:ガレと世紀末のガラス―光と色のジャポニスム
第7章:琳派と茶道具―取り合わせの美
第8章:新収蔵品初公開―雪舟から若冲まで
 気に入った作品を数点載せます。
織部四方蓋物(桃山時代~江戸時代 17世紀)
織部四方蓋物
織部の四方形の蓋付き器です。表面は緑や茶色などの釉薬で、幾何学的な模様があります。その頃はやっていた辻が花の意匠に倣った文様とか。とても良い味わいです。
薩摩切子 藍色被船形鉢(19世紀中頃)
 薩摩切子 藍色被船形鉢
サントリー美術館の大きな特色は、ガラスコレクションの充実があげられます。毎年のようにガラスをテーマとした素晴らしい展覧会を開催してきていることからも、その豊富で質の高いガラスコレクションはいつ観ても吸い込まれるような魅力を湛えています。
日本の薩摩切子、江戸切子や中国、ヨーロッパのカットガラス等などが凝縮されて展示されていました。
「鼠草子絵巻」(室町時代)
鼠草子絵巻(部分)
擬人化されたネズミたちが桜咲く清水寺にお参りに行く様子を描いた絵巻物です。これはネズミが人間の娘と結婚するストーリーだそうで、描かれているネズミの頭の上には、「ごんのかみ」とか「ひめぎみ」というように誰なのかが書かれていました。人気があるようで、これを美術館は本にしています。
 サントリー美術館のショップで、50周年で少し安くなっていたので、色鉛筆を買いました。赤い包装紙とビニールの袋に「み」という字に似たマークが入っています。これは「み」ではなく、「美」です。美がかな化したものです。
サントリー美術館で買ったおみやげ、おつなすし
右のおつな鮨のブルーの包装紙は六本木の駅近くで買ったおみやげです。いなり寿司の油揚げを裏返しに使っています。昔よく食べたので、懐かしく思って買いました。

錦絵の誕生

 新宿歴史博物館で、「錦絵の世界」展が開かれています。
 地震があったことで、ここにも書いた鯰絵が数点、歌川広重の「名所江戸百景」も新宿ゆかりの「名所」が5点展示されています。新宿は6点あるのですが、淀橋が今回出ていませんでした。
 展示を見ながら、浮世絵と錦絵とはどう違うのだろうということになりました。
 そもそも浮世絵は、江戸時代に成立した絵画で、浮世を描いた絵、風俗画として登場しています。「浮世」という言葉には「現代風」という意味も持っています。
 一般的に浮世絵というと、多色刷りの木版画を思い浮かべますが、単色の版画や肉筆の絵なども含まれます。浮世絵師が手がけた本の挿絵も浮世絵に含まれます。幅も奥も深いです。
 「錦絵」は鈴木春信が始めた多色摺り版画の浮世絵のことを指しています。
 それ以前の浮世絵版画や、墨摺りの浮世絵版画、肉筆画は「錦絵」とは呼びません。
 「浮世絵」の方が範疇が広いわけです。
 錦絵"とは、「錦のように美しい絵」ということです。
 これまで墨摺絵(すみずりえ)と呼ばれ、墨一色だけで摺られたものが多色のカラーになる、驚きと同時に人気が出たでしょう。
 錦絵は、下絵を描く絵師と、彫師、摺師、版元、さらに好事家の協力による所産だと言われますが、絵師では鈴木春信がもっとも深く関与し貢献したため、鈴木春信が創始者と言われます。
 鈴木春信は 享保10年(1725)生れ、明和7年(1770) 6月15日に亡くなっています。
 当時、江戸の文化人の間で、年末年始に絵暦交換が流行していました。
 江戸時代に使われていた暦は、今の太陽暦とは違う月の満ち欠けを基準とした太陰暦でした。太陰暦では1ヶ月が大の月の場合30日、小の月の場合29日で、何月がどちらになるかは年ごとに違っていました。
 絵暦は、そのような大小の別を庶民が知るために作られた暦です。
 絵暦にも、文字ばかりであらわした物もあれば、絵入りのものなど様々な形態がありました。明和2年(1765)頃、絵暦の交換会が大流行しました。他の人が作る絵暦よりも、もっと良い絵暦を!と競って、お金に糸目をつけず絵暦を作ったのでした。
 鈴木春信は、後援者の 大久保忠舒(俳号・巨川)など江戸の俳諧師仲間で流行した絵暦交換会に絵師として参加していていました。
 そして、他の人よりももっと多くの色を使ってカラフルな絵暦を作りたいために、絵師、彫師そして摺師が協力して、それまで2~3色しか重ね摺できなかったところを、苦心の末、多色摺を生みました。
 錦絵誕生に大きく尽力したのは、大久保忠舒です。大久保忠舒(巨川)は、1600石取りの旗本に生まれ、牛込に住していました。
 大久保忠舒(巨川と言った方が良いようですが)は、江戸の稀代の大発明家平賀源内を自陣営に引き込み、資産をつぎ込んで多色摺版画技法の開発に当たらせます。
 ちょうど、鈴木春信と平賀源内は神田の同じ裏長屋に住んでいたことから昼夜を問わず開発に取り組み、彫りの天才遠藤五録、刷りの名人小川八調という技師もこの大久保巨川チームに加わってついに多色摺り版画技法を完成させたのです。
 大久保巨川、牛込の人なので、もっと新宿区で宣伝してあげれば良いと思います。
絵暦「夕立」
 明和2年(1765)に配られた、絵暦「夕立」(鈴木春信)を引用して載せておきます。錦絵誕生の記念すべき作品の1つです。帯の部分に明和2年の干支、乙、トリが描かれています。また、干してある着物に、大、二、三、五、六、八、十、メ、イ、ワ、二、が描かれています。メ・イ・ワ・二の文字で明和二年の絵暦である事を示しています。
絵暦「夕立」 干支部分拡大図

昭和記念公園で見た美の絨毯

 昭和記念公園は、ひなげし意外にも、見事な花の敷物が見られます。
 チューリップ
まずはチューリップ。
 少し遅いかなと思ったのですが、色とりどりで、とてもきれいでした。
 チュリップはトルコが原産です。
 オーストリア大使がトルコでこの花を見、ヨーロッパに紹介しようとしたのですが、大使が初めてこの花を見たとき通訳に名前を尋ねると、通訳が、自分が頭に巻いているターバン(チュルバン)に似ているもの、と言い、それが花の名前になったのだそうです。
 日本には、江戸時代後期に伝来しましたが、普及するに至らず、大正時代に入って、ようやく新潟市で本格的な球根栽培が始まりました。
 芝桜
シバザクラ(芝桜)。 
桜に似た花が咲き、それ以外の時期には 葉が芝生のように広がって美しいことから 「芝桜」と名づけられました。土の流失を防ぐ役割も果たします。
 ネモフィラ
ネモフィラ。
  秋にタネをまくと翌年の春に花を咲かせる秋まき一年草です。花の色は空色で、春の草花にはあまりない色の花なので目立ちます。空色のほかにも白、黒などの花があります。
 和名は「ルリカラクサ」と言います。
 おまけに、ドイツスズラン。
 ドイツスズラン 群れ
 ドイツスズラン
 道の奥にこっそりと咲いていました。スズラン(鈴蘭)より大型で,花と葉の高さがほぼ同じです。スズランは花が葉よりも低い位置で咲きます。風習では、5月1日は「鈴蘭(ミュゲー)の祭日」で 当日この花束を贈る人には幸福が訪れるそうです。
 このスズランを見た日は、5月2日。1日ではなかったですが、幸せが来ると良いですが。

ポピー ひなげし 虞美人草 コクリコ

 昭和記念公園へ行きました。
昭和記念公園 一面に咲くポピー 
 ポピーが咲いていました。
 ポピー英語。フランス語ではコクリコ、中国では虞美人草、日本では、ひなげし(雛芥子)と言います。ケシ科の一年草ですが、「アヘン」は取れません。
 「雛」は小さい、かわいいの意で、ケシ科の中では 小さくてかわいい花であることから ひなげし(雛芥子)の名があります。
 ひなげし、と聞くと、アグネスチャンの「ひなげしの花」が聞こえてくるような気がします。
 ♪丘の上ひなげしの花で
  占うのあの人の心
  今日もひとり
  来る来ない帰らない帰る
  あの人はいないのよ遠い  (山上路夫 作詞)
昭和記念公園 ポピー
 「虞美人草」という名前の由来には伝説があります。
 漢の高祖劉邦と天下を争って敗れた項羽の寵姫の名が虞妃(ぐき)と言いました。
 項羽は「四面楚歌」を聞き、もはやこれまでと、虞美人との訣別の宴を催し悲嘆慷慨して
 「力、山を抜き、気、世を蓋(おお)う。時、利あらず、騅(すい=項羽の愛馬の名)、逝(ゆ)かず。騅、逝かず、奈何(いかん)すべき。虞や、虞や、若(なんじ)を奈何(いかに)せん!」
 この詩を数回、反復して歌うと、虞美人も別離の悲しみをこめて、項羽に和して舞いました。
 しかし、敵に包囲されもはや、如何ともし難く、虞美人は「賎妾(せんしょう)何ぞ生を聊(りょう)せん!」(なんでおめおめ生きておりましょう!)と歌い、項羽に剣を乞い、自刃してしまいます。
 そして、その虞美人の血が流れた土の上に、翌年、初夏に可憐端麗な花が咲きました。その花は、虞美人のありし日の姿に似て、悲しげな風情で揺れていたので、人々はこの花を「虞美人草」と呼びました。
 夏目漱石の小説に「虞美人草」があります。漱石が新しい小説のタイトル名を決めあぐねていたときに、街角の花屋さんで、この花を見て、タイトルにしたとのことです。
 与謝野晶子の歌に、雛罌粟(こくりこ)の歌があります。
 ああ皐月 仏蘭西の野は 火の色す君も雛罌粟 われも雛罌粟
晶子34歳の作。パリにいた鉄幹を追ってフランスへ渡った晶子の熱い思いを歌っています。
 ああ美しい5月、フランスの野は一面真紅のひなげしが風に揺れています。それを分け入って行くあなたも私も、たちまち、火のような紅いひなげしになってしまいそうです。 渡辺淳一が「君も雛罌粟われも雛罌粟」をタイトルにして与謝野鉄幹・晶子夫妻の生涯を書いています。
 モネ アルジャントゥイユのひなげし
フランスで思い出すのは、クロード・モネの『アルジャントゥイユのひなげし』。印象派の名称の由来となった『印象 -日の出-』と共に、1874年に開催された第一回印象派展に出品されました。
 一組の母子がひなげしが咲くアルジャントゥイユ郊外の丘を下っています。この薄青色の裏地の日傘を手にした母と、ひなげしを持つ子は、クロード・モネの妻であるカミーユと息子ジャンをモデルに描かれたと言われます。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR