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『街の木のキモチ 樹木医のおもしろ路上診断』

 街に出ると、最近は街路樹にも目が行くようになりました。
 ただ、それが何の木なのかは、まだあまり自信がありません。
 桜の木の穴に芽が出ていた
こちらは先日行った、砧公園の桜の木です。ソメイヨシノですが、木の穴の中に、葉が小さく出ていました。私が置いたのでなく、実際に葉が出ていました。洞窟の中の木のようです。でも新鮮な緑です。
 岩谷美苗さんの『街の木のキモチ 樹木医のおもしろ路上診断』を見ると、たくさんの街路樹が、困ったスタイルで植えられているのが分かります。
  木には悪いのですが、面白いです。
 「腕返して!」というタイトルで金網に枝が残されたままの状態の写真が出ていました。私の近所に、同じように、金網に「腕がとられた」まま残っている所があります。
 それがこの写真です。
 金網にとられた枝
本体の木はどこかに持ち去られてしまって、金網にとられた腕だけが残っていました。
 枝が何度も切られているのでしょう。そこがプッと膨らんで、上の方だけ葉が出ている木があります。
 枝を切られてそれでも頑張っている木
たぶんこれ、剪定され続けた受難の木だと思います。
 本の中で「剪定こぶ」ということで紹介されている状態だと思います。
 木本来の形などお構いなしに何度も枝を切られた結果、木が防衛手段としてできたこぶです。樹木にとっては悲劇の傷ですが、岩谷美苗さんは「あしたのジョーの矢吹丈のように、明日に向かって突き上げた拳」、と表現されています。ガンバレ樹木です。
 グレーチング
こちらの写真の木の足下にあるのは、グレーチングというのだそうです。人通りの多い所に植えられた木は、たえず根元を踏まれて土が固まり、根が呼吸できなくなってしまします。それでこうした覆いをして、木を守ろうとしているのだそうです。
 『街の木のキモチ 樹木医のおもしろ路上診断』
この本を見るまで、名前も目的も知りませんでした。
 ちょっと本を見るだけで、街路樹に興味がむかいます。
 「本書は、著者が撮りためた抱腹絶倒のユニークな写真をもとに、木の気持ちになって、その状況を解説します。木の立場になってみることで、日常風景の意味や自然観まで変わってしまう、かつてない街の自然観察本です。街歩きが、100倍楽しくなります。」とありますが、まさにその通りです。
 その木の置かれている状態で名前が付けられています。
 食い込み木、電柱木、ボクサー木、巨乳木、こぶ木、社長木、ガイコツ木などなど、想像できますか。まさに「特長を捉えた絶妙なネームング」です。
 電柱木というのは枝が剪定されてのっぺりと電柱のような状態になっている木です。もちろん生きています。
 本では、「電柱でござる!(無茶な切り方はやめましょう)」で紹介されます。
 こういう見方で、街の木を見て歩くことしてみたくなります。
 岩谷美苗さんは『街の木コレクション』というブログを開設しておられます。こちらにはもっと多くの木が紹介されています。
 http://machinoki.blog100.fc2.com/blog-entry-2.html
 訪問すると楽しいですよ。
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「武士の家計簿」

 映画「武士の家計簿」を見ました。
 この映画が封切られた昨年、「チャンバラだけが時代劇ではない。物語だけが原作ではない。刀だけが武器ではない。」「そろばん侍の生き方が、私たちにたくさんの生きるヒントをくれる。」といった言葉が聞かれ、下級武士の日常を映像で見てみたいと思ったのです。
 何と言っても、原作が小説ではなく、学術書であることが、ユニークです。
 原作は、磯田道史著『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』(新潮新書)です。私はまだこの本を読んでいないのですが、 磯田道史さんは、神田の古書店で、「金沢藩士猪山家文書」なるものを発見しました。これには、天保13年(1842)7月から明冶12年(1879)5月までの37年2ヶ月間書き続けられていました。
 日々の買い物から冠婚葬祭など詳細に綴られていて、磯田氏はこれをもとに本を書かれました。
 武士の家計簿
猪山家は、加賀藩の算用者(さんようもの)で、算用者というのは、会計処理の専門家です。藩の行政機関は、身分制と世襲制でしたが、ソロバンがかかわる職種だけは例外になっており、御算用者は比較的身分にとらわれない人材登用がなされていました。御算用者も世襲ではありましたが、家中の内外からたえず人材をリクルートしていたし、算術に優れたものが養子のかたちで入ってきたりしていました。
 下級武士といっても、大きな屋敷を構え、持参している弁当も盛りだくさんで、なかなか裕福ではないかと思っていると、いきなり借金整理を決意し、家財を売り払い収入、支払いを記載する入払帳がつけられることとなります。
 ここの所が映画では、少し分かりにくい気がしました。
 加賀藩の「御算用者」を担っていた猪山家でしたが、その8代目の猪山直之は、借金が膨大に膨れ上ってあがっていて、破綻寸前であることを知しったわけです。
 幕末の武士の暮らしは本当に大変だったようです。
 本には、そこらあたり金額がきちんと明記されて出ているようです。(ぜひ読んでみなくては。)
 猪山家はたしかに下級武士でしたが、2人で勤めていましたから、まあまあの俸禄をもらっていたようですが、武士身分としての費用がかなりかかっていて、代々で借金がかさんだらしいです。
 武士の家計は、召使いを雇う費用、親類や同僚と交際する費用、武家らしい儀礼行事を行う費用、そして、先祖を祭る費用の比率が町人などよりも高いわけです。
 こうした費用を捻出しないと、武家社会からはじきだされ、生きていけなくなります。
 先に大きな屋敷と書きましたが、こうした屋敷はそれだけに維持費がかかるわけです。また、家の格式を保つための諸費用を削るわけにはいきません。武士の体面ですね。しかし、藩も困窮し、俸禄はどんどん押さえられていきます。そのように江戸時代の終わりになると武士たちは「武士であることの費用」の重圧に耐えられなくなっていっていました。
 映画は、ユーモラスな味わいを出して決して暗くはならないです。
 直之の母が愛着のある着物を手放したくないと駄々をこねたり、息子の着袴の祝いに親戚一同を招いた時、祝い膳にのせる塩焼き用の鯛が買えず"絵鯛"で代用したり、面白く見せます。
 そのように、猪山家は、借金返済に一家を挙げて奔走してきます。
 なかなか面白しろかったです。

『びっくり まつぼっくり』

 ブログをカテゴリー別にすると、「自然観察」が多いです。この年になるまで、あまり感心がなく、花の名前もよく知りません。ちょっとしたきっかけで、自然観察をすることになり、それからは、どんどん、植物が気になってきています。
 多田 多恵子作、堀川 理万子絵の絵本『びっくり まつぼっくり』(福音館書店)を読みました。
 びっくりまつぼっくり
 まず、男の子が、まつぼっくりを拾って、じっくり観察する様子が描かれています。
 まつぼっくりを上から見たり、下から見たり。
 すると薄い羽みたいなものが、ひらひらひらひら……。松の種です
 そのまつぼっくりを置いて帰って、そのまつぼっくりを雨の日に見ると、
 「びっくり しょんぼり まつぼっくり」
 まつかさがすぼんで、小さくなっていました。
 今度は、持って帰って、翌朝見たら、また膨らんで、まつかさが開いていました。
 「すっかり はりきり まつぼっくり」
 まつぼっくりって、濡れると笠がしぼみ、乾くと開くのですね。
 お話の最後には「びっくり びんづめ まつぼっくり」
 びんの中でいっぱいに開いた、まつぼっくりが出てきます。

 見終わって、しばらくするとじんわりと味が出てきます。絵もイイです。
 私も自然観察をしているとまつぼっくりを拾います。少したまっているので、びんに入れてみよと思っています。
 素敵な絵本でした。
 
  最近買った植物の本は『街の木のキモチ 樹木医のおもしろ路上診断』(山と渓谷社)です。
 これはまたとても楽しい本です。
 今日は、2冊の本のこと書こうと思ったのですが、『街の木のキモチ』はまた別の機会に少し詳しく書きます。
 とにかく、この本を読むと、普段の歩いている道の街路樹などに目が行って、歩くことが数倍楽しくなります。

飛天 「雲中供養菩薩像」

 井上靖の詩に「飛天・讃」があります。
 「敦煌で好きな飛天を探したことがある。」「一番心打たれるのは法隆寺金堂の内陣小壁の飛天だ。」という書き出しで始まる長い詩です。
 「長く天衣をなびかせて、雲間を泳いでいる二体の男童飛天だ。往古、奈良平野の一画に舞い降りた飛天だ。何も語らないが、おそらく生まれはクシャーン王朝の夏の部・ペグラムあたり、東をめざして飛び立ったのは二世紀ぐらいであろうか。」 
そうして飛びだって、飛天は天山、パミール、タクラマン砂漠、楼蘭、敦煌、龍門、そして長安へ。長安では何十年、時には百年、二百年という歳月を過ごし、やがて黄河に沿って降り、朝鮮半島から日本へと飛翔します。
 「日本列島の上を、何回飛翔したことか。そしてある時、美しい平野の美しい寺を見つけて、そこに降り立ち、そして落成したばかりの小さなお堂に入り、そこの小さな壁に収まったのである。そして、それからいつか千二、三百年の歳月が経過している。併し、二体の飛天は何も語らない。」 
「五百年に亘ったアジアの旅は語ることができないのだ。しかも、驚くことには、今もなお飛んでいる。花皿をかざし、天衣を腕にかけ、裳の先端をひるがえしながら必死に飛んでいる、飛天であるからには、飛んでいなければならないのであろうが、今なお飛び続けている法隆寺金堂の飛天はいい。あの凜とした永劫に続く飛翔が好きだ」
 飛天を見ると、この井上靖の詩を思い出します。
 世田谷美術館 「神と仏、自然への祈り 白洲正子」展に1体だけ飛天がありました。
 「雲中供養菩薩像(北一号)」です。
 国宝 「雲中供養菩薩像(北一号)」
これは、法隆寺金堂の飛天ではなく、平等院の飛天です。
何年前、国立博物館で「平等院」展があった時、たしか52体全部が来ていたと思います。展示もすばらしく、すごく感動したことを覚えています。
 今回は1体だけ。
 ケースに入って、光が丁寧にあてられ、目の前で見られました。
 琴のような楽器を弾いて、歌うような姿をしていて、雲に乗っています。
 70~80センチと、かなり大きいです。
 それでも飛んでいました。ケースに中にいても、自由に跳び続けていました。
 やはり、遠くシルクロードの果てから飛んで来たのでしょうか。
 家に帰って、井上靖の詩を読み、飛天を思い浮かべていました。

浮世絵版画、摺りの実演会

 新宿区の下落合にあるアダチ伝統木版画技術保存財団の職人さんが、北斎の『神奈川沖浪裏( おきなみうら)』を摺りあげるところの実演を見学しました。
 北斎 神奈川沖浪裏
江戸時代に庶民の間で大流行した浮世絵は、当時最先端のメディアとしての役割を持ち、大量生産された、まさに版画による印刷物です。
 迅速に、大量にということで、あまり手間をかけずに制作する方法がとられました。それが、分業です。
 まず、下絵を描く絵師、その下絵を板に彫る彫師、そして板を用いて一色ずつ色をすり重ねていく摺師という3者によって制作されました。
 その中で、浮世絵の作者として名を出すのは北斎とか広重とか歌麿といった絵師です。
 今回の『神奈川沖浪裏』は、葛飾北斎の作品として認識しています。
 でも、葛飾北斎が描いたのは、線のみの下絵だけだったそうです。色つきの完成図ではないのです。
 完成図は北斎の頭の中にのみあり、下絵の段階ではアウトラインのみが描かれました。 色の指定は、全ての板が揃ったときに絵師が、版元などと相談しながら、色を決め、摺師に口頭で伝えたのだそうです。
 急ぐ場合には、版元が決める場合もあったようですが、本当に色を決めるのは摺師だったのでは、という気がします。
 だから、彫師、摺師の名前ももっと出ていいわけです。
 完全な作品として、最初に、絵師が描いていたら、とても間に合わないほど、たくさんの作品が制作されていました。
 浮世絵版画実演会1
実演を見ていて、ぼかしの所は、摺師が水を案配してぼかし(グラデーション)を出すのを知りました。彫る時にぼかし彫りとかいう技法があるのかと思っていたのですが、そうではないのです。
 また、錦絵というのは、4枚から7枚といった版によっての多色摺りです。一番大事なことは、「版のずれ」が出ないようにすることです。
 このずれを解消したのが、「見当(けんとう)」の開発でした。
 見当とは版木の右下に付けられた鍵型のマークのことで、作品部分と同様にわずか数センチの鍵型を版上に残すように彫り、摺師が版木を摺る時に紙を置く目安とするものです。
 摺師が毎回この見当に紙を正確に合わせて置くことによって、複数色の版をずれずに摺り重ねることが可能となり、きれいな多色摺りができるようになりました。この見当が完成したのは、明和年間(1764-1772)と言われています。
 浮世絵版画実演会 見当を調整中
今回の実演で、見当を修正する場面がありました。
 和紙や版木は気温や湿度などのより大きさが変化すので、摺師は摺りあがった作品にずれがあった場合、見当の位置を修正するのです。
 ちょっと見て、その見当を、またたく間に修正するのですから、さすがというほかありません。
浮世絵版画実演会  道具類はこんな感じ
 約1時間の実演。楽しかったです。

「神と仏、自然への祈り 白洲正子」展

世田谷美術館の「神と仏、自然への祈り 白洲正子」展に行きました。
世田谷美術館は都内屈指の桜の名所、砧公園の一角に位置します。だからもう少し前に行きたかったのですが、うかうかしているとアッという間に、時間は過ぎてしまいます。でも昨日記したようにまだ桜を見ることもできました。
このの展覧会では、白州正子が旅先で出会った神や仏、自然を、白洲正子の著作と関連づけながら紹介されています。各展示品に、白洲正子の言葉がきちんと添えられていて、その文章を読みながらの鑑賞になり、見る目が洗われました。
そして、さりげなく国宝があったり、秘仏が展示されていたり、すごい展覧会です。
展示は、10のテーマに整理されていました。
1自然信仰 2かみさま 3西国巡礼 4近江山河抄 5かくれ里 6十一面観音巡礼 7明恵  8道 9 修験の行者たち 10古面。
特に感動したのは、2のかみさまと7の明恵です。
会場の解説を引用させてもらいます。
< かみさま>
日本では仏教が伝来すると神道と仏教が混じり合い神仏習合という現象が起こりました。やがて仏教の仏や菩薩は衆生を救うために、様々な神の姿を借りて現れるという本地垂迹説が広まり、その教えを示す神道美術が制作されるようになります。古来より神の依り代として、鏡や玉、剣などが崇拝されてきましたが、仏像が造られるようになると、その影響から神像が造られるようになります。

<明恵>
白洲正子は、1964(昭和39)年の西国巡礼の取材途上で、鎌倉時代の華厳宗の僧、明恵(1173-1272)の生地、紀州(和歌山県)の湯浅に立ち寄り、明恵に強い関心を抱きます。さらに彼が住した京都・栂尾の高山寺を幾度も訪れ、その生きざまに深く魅せられていきます。
 ここでは、明恵上人を描いた高山寺の国宝「樹上座禅像」、上人遺愛の重要文化財「狗児」など、彼女が讃えた明恵ゆかりの名品をご覧いただきます。

高山寺 木彫狗児
実は、この展覧会にぜひ行きたいと思ったのは、高山寺の木彫「狗児」を見たいと思ったからです。
この子犬の木彫は、かなり昔、写真で見て、すごくかわいくて、その写真は知人って持っていました。
ある時、彫塑を習ったのですが、この子犬を写真を見ながら作ったことがあります。
それほど好きだったのですが、一度も本物を見たことが無かったのです。
この木像の子犬は、鳥獣戯画で有名な高山寺の石水院にあります。
運慶作とも湛慶作ともゆわれていて、高山寺の開祖、明恵上人が手元に置きいつもかわいがっておられたと伝えられています。像高23cm、彩色、二材からなる寄木造り、玉眼。
まるまるとしてとてもかわいいです。
今回見て、しっぽが柔らかく伸びて、胴体も思ったより長かったです。
お会いできて良かったです。
白洲正子の言葉です。
「今、高山寺に残っている(明恵)上人遺愛の品々を見ても、一つとして心の通っていないものはなく、たとえば紀州の島で拾って来て、生涯愛したという石一つでも、運慶作と伝えられる子犬や、鹿や馬などの木彫に至るまで、明恵のいぶきに包まれている。」

砧公園の桜 そしてハナミズキ

 世田谷美術館の「神と仏、自然への祈り 白洲正子」展に行きました。
 展覧会のことはまた書くとして、世田谷美術館のある砧公園の桜です。
 本当は、もっと早く桜を見に行きたかったのですが、遅くなってしまいました。
 ソメイヨシノは終わっています。でも、1輪か2輪出遅れた花が咲いていました。
 砧公園 ソメイヨシノ
八重桜は今ほぼ満開です。
 砧公園 八重桜
 砧公園 白い八重桜
 こちらの白い花よく見ると一重。なんという桜でしょうか。
 砧公園 満開の桜

 ハナミズキもきれいでした。
 ハナミズキは、明治45年(1912年)、当時の東京市長尾崎行雄がサクラの苗木をワシントン市に寄贈した返礼として、大正4年(1915年)に贈られたのが始まりです。日比谷公園にその原木が残っているそうです。
砧公園 ハナミズキ

4月20日、自然教育園で見た花

 自然教育園に行きました。平成23年4月20日に見た花です。
 ホウチャクソウ(宝鐸草)  
 自然教育園 ホウチャクソウ
名前は、花の垂れ下がって咲く姿は、宝鐸にていることから来ています。
 宝鐸とは、寺院建築物の軒先の四隅に吊り下げられた飾りです、風鐸(ふうたく)とも言います。
 ハナイカダ(花筏)
自然教育園 ハナイカダ
 この花は、注意して見ないと見逃します。葉の中央に花を咲かせ、実を付けるおもしろい植物です。今回見た中で、とても気に入りました。
 葉を筏(いかだ)に見立て、その上に乗る花や実を筏の上に乗る人に見立てたものす。 実は夏につけるそうで、実をつけた所も見たいです。
ハナイカダ
 雌雄異株で、雄株では葉の上に多数の雄花ができ、雌株ではほとんど1つの花しか付かない、ということで、そうすると見たのは、雌株ですね。
 別名でヨメノナミダ(嫁の涙)とも言うそうです。
 余談ですが、「花筏」という言葉は、 桜の花が散って花びらが川に 浮かんで流れるさまをいうことがあります。
  イチリンソウ(一輪草)
自然教育園 イチリンソウ
 1本の茎に花が1つだけつくのでイチリンソウと言います。白い花びら状のがく(咢)片が5~6個あります。
 ニリンソウ(二輪草)
自然教育園 ニリンソウ
 1本の茎に通常2輪の花をつけるので、この名前があります。イチリンソウの花の方が大きいです。
 白い花びらのように見えるのはがくですが、まれに緑色のがく片をもつミドリニリンソウがあります。
 葉は食べられてそうですが、猛毒で有名なトリカブトの葉と似ているので、注意ということでした。
 ヤマブキソウ(山吹草) 
ヤマブキソウ
 ヤマブキとは違うのです。ヤマブキに似ていると言うことこの名前が付いています。花の色は確かに似てはいますが、ヤマブキの花弁は5枚で、ヤマブキソウの花弁は4枚です。 また、ヤマブキはバラ科で、ヤマブキソウはクサノオウに似たケシ科の多年草です。
 ゴヨウアケビ(五葉通草)
自然教育園 ゴヨウアケビ
 手前のつるの花です。小葉が5枚のアケビという意味です。ゴヨウアケビはアケビとミツバアケビの雑種と言われおり、つる性の落葉植物で3~5枚の葉が輪生しているのが特徴です。
 ノウルシ(野漆)
自然教育園 ノウルシ
 ノウルシは,早春の水田や河川敷の近くにはえ、やわらかい黄色で埋め尽くす多年草です。自然教育園では、池のそばにありました。
 ノウルシ(野漆)の名前は、茎から出る液が漆のように皮膚にかぶれを起こすところからつけられました。

稲城市 穴澤天神社 梨園

 京王線で、京王よみうりランドで降りて右に行くと稲城市です。ここに式内社・穴澤天神社があります。
 稲城 弁天洞窟
神社の下に、威光寺の弁天洞窟と呼ばれる、湧き水が出る、小さな洞窟があります。
 いつも水が湧き出て、ペットボトルを持って汲みに来る人もいます。
 洞窟はあまり深くありませんが、天井から滴がたれていて、壁面は酸化鉄でどろどろしていて、なかなか風情があります。
 稲城 穴澤天神社
ここから登って、穴澤天神社にお参りしました。
 そして降りてくると、梨園が花盛りでした。
 稲城 梨の花
中国を原産ということですが、弥生時代の遺跡には、種子が出てくるようで、古くから食されていたようです。
 手紙を出しても返事のないことを「なしのつぶて」と言いますが、漢字で書くと「梨の礫」と書きます。「無しの礫」とは書きません。
 梨という名はどうしてついたのだろうと思いました。
 調べてみると、江戸時代、新井白石は中心部ほど酸味が強いことから「中酸(なす)」が転じたものだと書いています。
他には、果肉が白いことから「中白(なかしろ)」あるいは「色なし」 風があると実らないため「風なし」 などから来たという説がありました。
 梨、なしは「無し」に通じることから、家の庭に植えることを避けたり、あるいはわざわざ「ありのみ(有りの実)」という反対の意味を持たせた呼称が用いられることもありました。
面白いのは、逆に「無し」という意味を前向きにとらえて、盗難に遭わぬよう家の建材に梨を用いて「何も無し」、鬼門の方角に梨を植えて「鬼門無し」などと、縁起かつぎをする利用法もあったとか。
 梨の木は、落葉高木で、自然体だと、高さ十メートルにも達するそうです。
 稲城 梨園
 栽培するもの は枝をたわめて棚づくりをしています。
 花 は、白色五弁で葉と一緒に開きます。
 東京都稲城市は、梨の産地です。元禄の頃から栽培されているそうです。
 また「梨園」という言葉は歌舞伎の世界でよく聞かれます。
 この「梨園」という言葉は、もともとは唐の玄宗皇帝の故事に由来します。
 玄宗皇帝の時代、芸人たち、音楽や舞楽のをまなぶものを、教習府と呼ばれる施設に集めて芸を磨きましたが、そこには梨が多く植えられていたことから、「梨園」と呼ばれていました。
 日本では、歌舞伎の成立とともに「梨園」という語が使われようになり、今でも、歌舞伎の世界で主に使われるています。

続書店時代

13日、成城の町で見た桜の花です。
 成城の桜

 新しい勤務先の書店は、新規オープンした地下街にありました。
大きな駅から少し離れていましたが、それまでいた店より広いお店でした。
そして、そこには出版社から転職してきた人がいました。出版社では、編集の仕事をしていた人でした。(転職の動機は長くなるので省きます)。
 とにかくその人がいたことで、書店がおもしろくなり、生き方が変わりました。
 学んだことはいろいろあります。書店の仕事もそうですが、勉強のしかた、社会科学の面白さといったようなことも教わりました。
ここでは、書店で学び実行したひとつを書いてみます。
 新規オープンの店でしたが、お客は、前にいた店のようには来てもらえませんでした。
 売り上げも、たぶん予算目標に達していなかったと思います。
 何か売る工夫をしなくてはいけない。
 で、売れるだろう本、売りたい本のポスターを書くことをしようと、その元編集者の人が発言し、率先して本のポスターを書きました。ポスターカラーを自在に使ってうまかったです。店の入り口にベニヤで、立て看板を作り、そこに売りたい本のタイトルとセールスポイントを大きく書き、そばにその本を置くことをしました。
 それは、今なら、どこ本屋でもしている、POP広告です。
 でも、こうしたこと、本社から、広告料をもらっていないのだから止めるように、と言われました。お店の入口の大きなウインドウに広告をもらっている本を宣伝するのならまだしも、お金をもらっていない本の宣伝はするなと言うのです。
 でも止めませんでした。
 編集者の人は、説得していたのだと思います。なにせ売り上げが目標に達していないので、様子を見てほしいという思いが大きかったと思います。
 実際、そうしてポスターなどに書いた本は確実に何冊か売れていました。もちらん冊数にすればしれているので全体の売り上げにはたいした貢献はしていなかったかもしれませんが。
店の性格を出すということも編集者に言われました。
 そして、なにより、私にやる気を起こさせました。
少しして、編集者は、私も書くようにと言いました。もともと絵を描くことが好きだったので、私も熱心に書きました。いつのまにかそれは私の担当になっていました。
 多くは、朝早く出て、開店前に書いていました。
 しばらくして、店長から、早く出勤して、電気をつけるのでそれは、電気代がかさむことになるから、普通に出るようにと注意を受けました。
 しかたないので、毎日書くのは、立て看板中心にしました。それはそんなに時間がかからないからです。でも字は、編集者のように上手くはなかったので、困りました。
色付きポスターは下宿で書きました。道具はもちろん自分で買いました。
 ポスターに書く本をどう選ぶかのヒントの多くは、朝の新聞からでした。
 朝早くモーニングサービスがあって、新聞が置いてある店に行き、ニュースなどから、本を選びました。
 「天声人語」など、読まれているコラムなどに取り上げられている本も、比較的新刊であれば、取り上げました。書評ではなくそうしたところに載った本の方が、よく売れました。書評の本を取り上げるのはどこでもしていると思ったので、別もので行きたいと考えました。
 また死亡記事で、有名な人が亡くなっていると、その人の関連の本を選びました。
 本は、それほど読んではないですが、好きだったので、どういうことが書かれている本かということは、知っていました。
 また、こういうことが出来た大きな要員は、取り次ぎが近くにあり、協力してくれたからです。これは、大きな書店のチェーン店だったことの力が効いていたのだと思います。取り上げる本は、時には、取り次ぎに行って、自分で直接手配しました。
 もちろん、一つの店で売るのですから、そんなにたくさんの本を仕入れるわけにいきません。だから、売上げ的に言えばたかがしれていますが、私自身はとてもおもしろかったです。
 元編集者の人が、企画して、大ヒットとなったのは、年末にやった「軍歌集」です。
 軍歌の載った本を仕入れて売ったのですが、12月中売れて、その店でのベストセラーになりました。ずいぶん売れました。本が入ってこなくなるほど売れました。こんな本を売ったのは、その店だけだったと思います。
 編集者の人には、毎日、帰りにも一緒に町に出て、いろいろ教わったのですが、会社が新しい事業をするということで、そちらに引き抜かれて行ってしまいました。
 後ろ盾がないと、もともと気が弱かったので、いろいろなことがやりにくくなりました。
 でも、売りたい本を立て看板で知らせて売るということは続けていました。
 そうすると、「ニュースを売る店」ということで、新聞や雑誌で取り上げてくれました。
 その発案者の編集者はもういませんでした。
私は、いつのまにか、こんな時、あの人ならどうするだろう、という風に考えるようになっていました。
しかし、まだまだ一匹オオカミのようには生きられませんでした。
 本屋のおもしろさを知ったのですが、その限界も感じて、辞めてしまいました。
 次に勤めた所でも、この書店で学んだことが、私の指針でした。

書店時代

 わが家の小さな庭の八重桜が満開です。 
わが家の八重桜

『傷だらけの店長』を読みながら、書店で働いた時のことを思い出していました。
 私が最初に就職したのは書店でした。しかし約2年で転職してしまいましたので、書店経験は少ないのですが、最初ということもあり、貴重な経験をしました。
書店員には、なりたくてなったのではなく、就職職試験に失敗し、それでということでした。
思い出すと、まず、本を運ぶことが主な仕事でした。
最初に教えてもらったのは、返品の本にひもをかけるその結び方。そして店に出てから本のカバーのかけ方、カバーの紙の折り方、そして本の包み方。それからレジの打ち方、お金の勘定にしかたなども学びました。
不器用なので、冷や汗ばかりで、なかなかうまくできませんでした。
 来る前に少し夢見ていた、本屋での仕事、例えば、本の注文とかは、取り次ぎの派遣の人が店にいてやっていました。
店に立っている時は、万引きを捕まえるように言われていました。
その書店は、駅の地下街にあって、夕方からはすごく混んで、まるで満員電車の中にいるようでした。
考えてみると、あのころはまだ、書店に力があったのです。
後年になって、その店に行ってみたのですが、その時は、その時間帯でも、あまり人が入っていませんでした。
とにかくそのころは混雑していました。
おそらく万引きもたくさんあったはずです。
 『傷だらけの店長』の店長は、万引きには厳しく、何としても許せないと出ています。私は、結局、一人も万引きを捕まえたことはありません。自慢できることではないのですが。
 大変だったのは、その書店が地下にあるので、本が入ってくると、本を担いで地下まで降りて行かなくてはならないことでした。力がなく、足がふらついて、取り次ぎの人は3つの梱包を肩に乗せスタスタと降りるのですが、私はせいぜい2梱包で、それもヨロヨロしていました。
 売れる本屋でしたから、書店の規模のわりにいっぱい本が入ってきました。
 返品の本は取り次ぎの人が、搬入の車が来る前に持ってあがってくれていて助かりました。
 本は好きでした。子どものころから本屋に行くのが好きでした。学校に行っているときも、本屋と映画館の場所はよく知っていました。
 読むのが好きというより、本が好きだったのです。今でも本はたくさん持っています。読んではないですが。
 だから、本屋に勤めることは、イヤではなかったのですが、実際に本屋に勤めてみると、イメージしていたものとはまるで違っていて、困ったな、と思いました。
 どちらかと言えば、肉体労働。学校出たてにはおおいにストレスになります。
 やるのだと思っていた本の仕入れとか棚作りは、取り次ぎ任せでした。
 おもしろくなかったです。とにかく早く辞めようと考えるようになっていました。
 それでも3ヶ月があっという間に過ぎました。そして、新しい店ができて、そちらに異動になりました。
実は、入社の時に新しい店が出来るので、そこにということで就職したのですが、それはもう当てにしていませんでした。まるで無能でしたから。
 でも約束どおり、新店の勤務になりました。

『傷だらけの店長』

 伊達雅彦著『傷だらけの店長』(PARCO出版 2010年8月発行)という本のことを知ったのは、朝日新聞の書評です。確か、昨年の10月3日だったと思います。
 書評を読んで、共感出来る所が多い本だと思いました。本屋で探したのですが、当初は見つかりませんでした。しかし、少しすると、平積みをしていました。新宿の大きな書店です。書評の効果かなと思いました。少し立ち読みをして、買うべきだと思ったのですが、
 今、大きな悩みは、家に本を置くスペースがないことです。それに、退職してお小遣いが少ない。そうしたことで、迷い、職を辞したのだから、これは、図書館で借りようと思いました。10月に予約を入れ、そこでも、待ちが入り、順番が来たのが、4月に入ってからでした。そんなに、人が待って読んだのか、と、ちょっと複雑な気持でした。
リアル本屋が次々と姿を消している時、こうした書店員の本も図書館から借りて読むこれで良かったのか、と。
で、読み出すと、止められなくなりました。
それは1つには、私も書店経験があること、それに、「仕事」の現実は共通することが多いからです。
 傷だけの店長
本が好きだったことで、本屋のアルバイトからそのまま書店に就職、店長になった伊達氏の本屋での日常です。課せられるノルマ、大量の新刊そして返品、万引対応、毎日サービス残業と、それに対して恵まれない待遇…。さらに、立地条件のよい所に、大型競合店が出店してきます。
 『傷だらけの店長』には、仕事での不平、不満といったことは多く綴られています。それは会社、出版社、取次会社、さらには客にも及びますが、単なる愚痴だ、とは感じさせません。それは、書店員としての誇りを持っているからだと思います。
 実際、本気で仕事をしていると、いろいろイヤだなと思うことが生まれます。おそらく、本気になれば、そうした思いは大きくなるのだと思います。
 私も、不平たらたら、会社の悪口言い放題、でしたが、それは思い余ってという所からから出ていました。
 傷だらけの店長伊達氏は、いろいろ不満を良いながらも、自分を奮い立たせていますが、大型店の登場で店は閉店に追いやられてしまします。
 競合の出店に対してはいろいろ対抗策を取りますが、より大きな店、そしてより有利な立地条件、どうしてもかなわなかったのです。
 閉店の勧告は、本社から来ます。自分で決められない、これが店長の辛さです。
 そして、伊達氏は退職を決意します。
 まるで物語のようです。でも、やり手の店長が、競合店に勝つといった展開はありません。
 懸命にやったから辞めたくなったのだと思います。
 勤め人根性だったら、おそらく退職はしなかっただろうと思います。
 本気で取り組んでいたから疲れたのです。
 チェーンの書店ですから、閉店だからといって、そこの店長をすぐには首にはできないでしょうから、また活動はできたはずです。でも辞めました。
 辞めて、ハローワークに通いますが、なかなか新しい職が見つからないでいます。
 そうした中、書店時代のモノを捨てる作業などしている所で終わります。
 仕事は違うのですが、私もこういうことになっていた可能性は十分にありました。
 仕事の本質はとても好きだったのですが、現実の仕事では不満だらけでした。
 何度も辞めようと思いましたが、結局、勇気がなかったです。
 書店勤務は、最初の仕事で、1年少しやりました。

『名所江戸百景』の「玉川堤の花」と「四ッ谷内藤新宿」

 広重の「江戸名所百景」は安政2年の大地震での災害からの復興祈念と、世直しの意図もあったとされています。
 大地震後の初の桜、見事に咲いている風景があります。震災からの復興をお祝いしている意味があるのかもしれません。
 玉川堤の花 安政3年(1856)2月
「玉川堤の花」です。安政3年(1856)2月の改印があります。
 玉川堤とはどこか。玉川上水沿いの堤です。当時人気があったのは小金井の桜並木でした。しかし、この「玉川堤の花」は小金井のではありません。
 内藤新宿なのです。
 甲州街道、江戸から最初の宿場です。
 当初は、高井戸が最初の宿場でした。しかし、そこまで日本橋から4里です。少し遠い、そこで2里の所に宿場を持ちたいと願い出た人物がいました。浅草安部川町の名主高松喜兵衛をはじめとする5人の町人です。
 元禄10年(1697)、運上金として金5600両を幕府に支払うことで新たな宿場の開設を願い出ました。表向きは江戸から近い宿場としての利便性ですが、実際には新たに繁華街・行楽地を開発して、ひと儲けしようという思惑があったと思います。
 浅草安部川町、吉原のにぎわいを見ています。
 そして、内藤新宿は開かれ賑わいましたが、それは、岡場所(色町)としての賑わいが大きく、そのことで、あまりに風紀が乱れたことや、吉原筋から営業妨害にあたるとの訴えとか、あるいはある旗本の訴えなどにより、約20年で強制的に廃止に追い込まれてしまいます。時は吉宗による享保の改革の最中、享保3年1のことです。
 それが、明和9年(1772年)4月、50数年ぶりに内藤新宿が再開されました。
 宿場の再開により、町は賑わいを取り戻します。
 安政の地震の時、新宿はそれほど大きな被害は受けなかったようです。
 吉原などの被害は大きく、この機会に一気に客を引きつけようと、企画されたのが、内藤新宿の桜堤でした。
 所管役所の許可もとりつけ、安政3年(1856)2月、天竜寺裏の上水沿いに、大久保から移植した古木を中心に、大小の苗木と合わせ、約75本の桜を植えました。
 ところが、何らかの権威付けが欲しかったのか、古木に許可なく 「御用木(幕府が植えた木)折取べからず」という看板を掲げたのです。
 しかしこれはまったく勝手な振る舞いでした。
 このことが、官林の諸事一般を掌る御林奉行 (おんはやしぶぎょう)の目にとまり、結局、この植えたばかりの桜は、開花前に撤去されてしまうことになりました。
 だから実際は、内藤新宿の玉川沿いに桜並木は、ホンの一時しかなかったのです。
 では、歌川広重は、なぜこのような絵を描いたか。
 原信田 実著の『謎解き広重「江戸百」』には、この絵を描くにあたって、恐らく内藤新宿筋からこの新宿魚屋を含む版元に何らかの働きかけがあったと推理しています。
 この名所百景が出たのは、安政3年(1856)2月のことです。桜が植えられようとした時です。
 いわば、予想図です。そして、それはまさに宣伝媒体、ポスターとしての役割を持っています。
、同時期に広重は、これと同じ場所の完成予想図を団扇絵 「四ツ谷新宿堤の花」などに残しています。まさにタイアップ企画と言えます。
 団扇絵「四ツ谷新宿堤の花」)
もうひとつは、地震から再興して桜を開花した賑わいを描きたいという思いもあったのでしょう。
場所を特定しないで、満開の桜堤を見てもらい、さらに元気になったもらおうという思いがあったかもしれません。
 ところで、この「玉川堤の花」は、宿場の裏側です。表側はどうか、というと、これは大胆な構図で有名な、「四ッ谷内藤新宿」です。安政4年(1857)11月改印。
 四ッ谷内藤新宿
甲州街道は当時から多摩や秩父の奥から鉱物が、また農産物の集積地として馬や牛の産業道路となり、「四ッ谷街道、馬の糞」と呼ばれるほど馬糞が散乱していたと言われています。他になにも名物が無かったからとも言えますが、馬のお尻を大アップで描いています。馬が草鞋(わらじ)をはいています。
 左側には茶店や旅龍屋が続き、その先に内藤家の森が見えています。この道の奥に四ツ谷大木戸がありました。

歌川広重『名所江戸百景』と安政の大地震

 安政2年(1855)10月の大地震直後に誕生した鯰絵は、滑稽と風刺に満ちており、当時の江戸っ子に大歓迎されました。
 しかし、あまりに鯰の絵がはやったため、世の活況を恐れたのか幕府はその鯰絵の取り締まりをはじめ、鯰絵はあっという間に姿を消してしまいます。
 鯰絵が出て、わずか、2ヶ月のことでした。
 その後、震災から4ヶ月を経た安政3年(1856)2月から、歌川広重の『名所江戸百景』の出版が始まります。
 『名所江戸百景』は、この地震後に復興する江戸情景を描いたのだろう、といわれている。
 歌川広は60歳で『名所江戸百景』の制作に取り組み、2年後の安政5年(1858)に完結します。(ついでながら、広重はこの年の9月に62歳で亡くなっています)。
 その100枚を越すシリーズものの中で、安政の大地震関係を表して特に有名なのが、浅草を描いた「浅草金龍山」です。
 安政の大地震で浅草寺五重塔の上部にある九輪が曲がったのですが、百景の「浅草金龍山」では、修理された朱色の五重塔が描かれています。
 今回の東日本大震災で、朝日新聞「天声人語」は、東京タワーの先端が曲がったことを、安政の大地震で、浅草寺五重塔の先端、九輪が曲がったことを重ねて書いていました。
 東京タワーの先が曲がった写真です。
 地震で先頭が曲がった東京タワー
安政の大地震の後、浅草寺五重塔九輪が曲がったことを知らせた「浅草寺大塔解釈」という摺り物が出ました。
『浅草寺大塔解釈(訳)』
鯰絵にも、曲がった九輪をつけた塔が出てきます。
『安政二年十月二日地震出火後日角力』
そして、『名所江戸百景』の「浅草金龍山」です。
 「浅草金龍山」
その絵を分析すると次のようになります。
 1)浅草寺五重塔九輪が地震で曲がったという、江戸市民がみな知っている事件と、それが修復されたというニュースを盛り込むために、近景に「浅草寺・金龍山」という場所を示し、遠景に、修復された五重塔を持ってきた。
 2)さらに、修復されて、めでたいというメッセージを視覚化するため、紅白の水引を連想させて、雷門の赤に雪景色の白を配置した。
 ということです。

横浜赤レンガ倉庫

 <4月9日(土)曇り、雨のちまた曇り>
 『プーシキン美術館展 フランス絵画300年』を見に横浜美術館へ行くと、中止。新聞に出ていました、ということですが、地震と原発の記事ばかりに気を取られて知りませんでした。
 「出展予定作品の所蔵者であるプーシキン美術館とロシア連邦文化省から、震災や津波、これに伴う原発事故などの諸状況に鑑み、現時点では日本へ作品を貸し出すことができないという判断が伝えられたため、当初予定されていた会期中に開催することができなくなりました。」ということです。
 ロシアは厳しいですね。
 それで、もうひとつの予定の横浜赤レンガ倉庫で開かれている鎌倉彫の展覧会へ行きました。
 強風と雨で、傘が吹き飛ばされました。
 海側から横浜赤レンガを望む
「横浜赤レンガ倉庫」は、創建100周年ということです。式典は4月12日で、もうすぐです。
 横浜赤レンガ倉庫は1911年(明治44年)に建設され、1989年(平成元年)に倉庫の役目を終え、しばらくそのままにされていましたが、2002年(平成14年)に展示スペース、商業施設として今の姿の生まれ変わり、今では横浜の代表的な人気のスポットとなっています。
 何年か前に建物の見学で来ました。
 横浜赤レンガ1号館
馬車道にある横浜正金銀行本店(現、神奈川県立歴史博物館)の設計もした妻木頼黄・部長率いる大蔵省臨時建築部の設計になる建物です。
 全長約150メートル、背面に鉄骨造ベランダを持ち、日本初のエレベーターや避雷針、消火栓を備えています。
 その施工は、組積造技術の最高段階を示す建築といわれ、レンガとレンガの間に鉄を入れる補強が施されていて、1923年(大正12年)に発生した関東大震災でも、被害は1号館倉庫の一部にとどまったと言われています。
横浜赤レンガ、1号館かfら2号館を見る
 鎌倉彫展は、1号館の展示スペースをすべて使っての大きな展覧会でした。
 鎌倉彫
鎌倉彫は、木地に文様・図柄を彫り出し、その直接の表面に漆を塗って作ります。
 鎌倉の仏師の余技として生まれたと言われ、今日でも伝統を受け継ぐ鎌倉仏師系の三橋家、後藤家、伊沢家が鎌倉彫の流派をたてて、それぞれたくさんの愛好者がいます。
 中華街へ行く予定でしたが、雨模様の風が強く、2号館で、創建100周年記念というランチを食べて帰りました。

ハナモモ(花桃)

 新宿中央公園では、「ハナモモ(花桃)」が咲いていました。
 中央公園はなもも
 大きな実のなる花と違って、こちらは花を鑑賞するので「花桃」といいます。
 ちょうどソメイヨシノが咲くころに咲きます。
 このハナモモは照手 (てるて) という名がつきます。
 照手のハナモモは、樹形の八重咲きです。
 相模原市・横山にあった神奈川県園芸試験場でホウキモモから観賞用の花として改良育成されました。そして、その相模原に伝わる伝説の美女 「照手姫」 にちなんで 「照手」 の名が付けられたわけです。
 ハナモモ 少し近づいて
花の色で3種に分けられています。
 写真のハナモモは、白い花なので、照手白 (てるてしろ)です。
 ・照手白 (てるてしろ) は花色が白で、花弁数が30枚程度と多く大輪で花つきも良いです。
 ・照手桃 (てるてもも)は在来のモモに比べ桃色が濃いです。
 ・照手紅 (てるてべに)は花色が最も濃い在来種の寒緋と同程度の紅色花ということです。
 ハナモモには実もなりますが、小ぶりで、赤または白の丸い実です。そして桃の実のようにかすかな縦割れがあり、表面には毛はありません。
 小栗判官との悲恋物語で知られる照手姫伝説は、いろいろに伝えられ、波瀾万丈で哀しい物語です。無理に、大筋を書くと次のようになります。
 昔、武蔵・相模の郡代横山大膳の娘で照手姫と言う絶世の美女がいました。
常陸の国の武将小栗満重(のちの小栗判官正清)と相思相愛となりますが、小栗満重は横山大膳の家来に毒殺されてしまいます。
 小栗満重が毒を盛られた後、照手姫は、世をはかなんで密かに横山の屋敷を抜け出しますが、追手につかまり川に投げ込まれてしまい、金沢六浦の漁師に救われます。
 しかし、漁師の女房は照手姫が美しいのをねたみ、照手姫をいじめ、最後には人買いに売りとばしてしまいます。
 一方、小栗満重はその後霊泉につかり生き返り、最後には照手姫を探し出して妻に迎えるというものです。
 とにかく「照手姫」のように美しいハナモモということなのでしょうね。

ソメイヨシノ 新宿中央公園と四ッ谷真田壕

 新宿中央公園の桜です。新宿西口、高層ビル群のオアシスと言われる公園、都庁の背景が似合います。
 新宿中央公園 桜
満開を過ぎたタカトウコヒガンサクラとこれから満開のソメイヨシノが並びます。
新宿中央公園の桜 ソメイヨシノ タカトウコヒガン
花見の桜と言えば、ソメイヨシノになります。今、日本の桜の80%がソメイヨシノだそうです。
 しかし、ソメイヨシノが世に出たのは、明治に入ってからです。
 どのようにして出てきたかははっきりしていませんが、ソメイヨシノの名の由来ははっきりしています。
 藤野寄命という人が、明治18、9年に上野の桜の調査で気づき、命名しました。
 そのいきさつはこうです。
「上野精養軒の前通りに近年栽植された桜を園丁係に尋ねたら「多くは染井(現東京都巣鴨)あたりより来る」という返事だったので吉野桜と区別して、染井吉野と名付けた」ということです。
 ソメイヨシノはミツも出ないし花粉もありません。ミツを出さないから、虫が来ません。それだから実がなりません。実、実を食べる鳥も寄りつきません。そのように、ソメイヨシノには、鳥も虫も寄りつかないのです。(その代わり葉っぱだけは食べられるので虫がつくのですが)。
 メイヨシノは、系統的にはエドヒガン系統の桜とオオシマザクラの遺伝子的特徴をもつとされています。これは、園芸家による人工的な品種改良作出説と自然交雑したものを園芸家が挿し木によって増やしたという説の2つがあります。
 掛け合わせて作ったか、自然交雑したか、とにかく1本の木の桜として発見された「ソメイヨシノ」の木から、いわゆるクローンで増やしていって、こんなにたくさんの木になったといわれます。
 そえだから、遺伝子が同じなので条件が整えば一斉に開花するので、毎年発表される「さくらの開花予想」「桜前線予想」が出来るわけです。

 四ッ谷の桜
四ッ谷の上智大学横、真田壕の土手の桜です。ここの桜は、昭和35年(1960年)上智大学の空手部の生徒が卒業記念に植えたのが始まりだと言われます。そして、昭和39年、土手の前にある紀尾井町、料亭『福田家』が100本の桜を植えました。45年から50年。桜の幹は太く、風情があり、見事です。
四ッ谷 真田壕の桜

国立科学博物館附属「自然教育園」で出会った花たち

 目黒駅から近い、国立科学博物館附属「自然教育園」へ行きました。
 春ですね。花がきれいでした。
入口で大きく開いたソメイヨシノのサクラ。満開でした。
 自然教育園 サクラ

 あと、園内で出会った草花を簡単に記しておきます。
 「タチツボスミレ」
 タチツボスミレ
園内のあちらこちらで咲いていました。
 スミレはたくさんの種類がありますが、ここでは、タチツボスミレが中心です。
 ほぼ全国の山地に分布する多年草で、日本を代表するスミレと言えます。
 「バイモ」
 バイモ
漢字で書くと「貝母」です。球根が二枚貝に似ていることから付けられたようです。
 でも別名アミガサユリ、こちらの方が分かりやすい気がします。
 花の形がまさに編笠そっくりですね。「編笠百合」。
 中国原産。日本には薬用植物として入り、鱗茎(球根)をせきどめや止血、解熱などの薬用に利用しました。
 「カタクリ」
 カタクリ
万葉集の大友家持の歌が有名です。
 <もののふの 八十乙女らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子の花>
 「堅香子(カタカゴ)」は、カタクリのことです。
 そして、「カタカゴ」は「傾いた籠」すなわち籠状の花が下向きに傾いて付いているところから名付けられたと言われています。その「かたかご」が「かたこゆり」になり、さらに転じて「かたくり」になったとのことです。
 鱗茎からデンプンが採れ、かたくり粉といって食べました。今のかたくり粉はジャガイモのデンプンです。
 「ムサシアブミ」
 ムサシアブミ
漢字で書くと「武蔵鐙」です。 鐙(あぶみ)というのは、馬具の一つで、鞍の両側に垂らし、乗る人が足をかけるものです、武蔵の国で作られた鐙似ていたためこの名前がついたということです。
 サトイモ科の多年草です。
 「ラショウモンカズラ」 
ラショウモンカズラ
これも漢字で書くと「羅生門葛」です。京都の羅生門で渡辺綱が鬼退治をしたときに切り落とした鬼の腕に見立てたということですが、美しい紫色の花そんな恐い感じではないです。シソ科の多年草。
 「ヒトリシズカ」
 ヒトリシズカ
ヨシノシズカ(吉野静)という別名もありますが、「静」は静御前のことです。
 一本で咲いていることはまれで、だいたいが何本かまとまって咲いています。
 「ヒトリ」というのは、花穂が 1 本であることから一人静ということです。
 「眉掃草」(まゆはきそう) という別名もあります。現状では、この名前が似つかわしい感じがします。
 実は、このヒトリシズカ、花びらもガクもなくて、花のように見えるのは雄しべ、という変わった花なのです

「涙をぬぐって働こう」

 NHKのBSテレビのを見ていたら、俳優の宮本信子さんがこの詩を今この時だから取り上げたいと話しました。
 朗読を聞いて、本当に、今この時、書いたものではないかと思いました。
 でも、この詩は、三好達治が、戦争が終わった次の年の正月に作った詩です。
 あの美しい抒情詩を生み出した三好達治の詩だとは思えないほどメッセイジ性があります。
 でも、別の意味でとてもすてきな詩です。
 早速、私が持っている、『三好達治詩集』(小沢書店)を開きました。
 
    「涙をぬぐって働こう」 
              三好達治
  みんなで希望をとりもどして涙をぬぐって働こう
  忘れがたい悲しみは忘れがたいままにしておこう
  苦しい心は苦しいままに
  けれどもその心を今日は一たび寛ごう
  みんなで元気をとりもどして涙をぬぐって働こう

  最も悪い運命の台風の眼はすぎ去った
  最も悪い熱病の時はすぎ去った
  すべての悪い時は今日はもう彼方に去った
  楽しい春の日はなお地平に遠く
  冬の日は暗い谷間をうなだれて歩みつづける
  今日はまだわれらの暦は快適の季節に遠く
  小鳥の歌は氷のかげに沈黙し
  田野も霜にうら枯れて
  空にはさびしい風の声が叫んでいる

  けれどもすでに
  すべての悪い時は今日はもう彼方に去った
  かたい小さな草花のつぼみは
  地面の底のくら闇からしずかに生まれ出ようとする
  かたくとざされた死と沈黙の氷の底から
  希望は一心に働く者の呼び声にこたえて
  それは新しい帆布をかかげて
  明日の水平線にあらわれる
  
  ああその遠くからしずかに来るものを信じよう
  みんなで一心につつましく心をあつめて信じよう
  みんなで希望をとりもどして涙をぬぐって働こう
  今年のはじめのこの苦しい日を
  今年の終りのもっと良い日に置き代えよう 

 
 敗戦の退廃した町で立ちすくむ人たち、心くじけた人たちに、新しい季節への希望をよびかけた詩です。
 地の底から、小さな花の蕾が生まれようとしあの過去の死と沈黙の氷の下から、希望が、ふるいたとうとする者の声にこたえ、新しい帆をあげて、明るい未来の水平線に現れようとしています。
 さあ、遠くから静かに来る未来をみんなして信じよう。
 まさに、今、よびかけたい、そんな言葉です。
 「涙をぬぐって働こう」というフレーズが最初と最後に出ています。
 呆然自失している世の人たちへ、呼びかけています。それは、自分自身にも言っているので、すごく説得力があります。
 今は4月です。多くは4月から多くのことが始まります。新しい旅立ちの月です。
 正月ではないけれど、旅立ちの4月、この苦しい日々が、今年の終わりにはもっと良い日になるように、涙をぬぐって、働こうと、と受け取れます。
 「みんなで希望をとりもどして涙をぬぐって働こう」
 みんなに呼びかけたい気がします。

モクレンとコブシ

 前回、どこで、ユキヤナギとタカトウコヒガンサクラを見たかを書き忘れました。
 新宿御苑の外です。四谷地域センターがある近くです。
 ユキヤナギの前には、モクレンも咲いていました。
 最近はハクモクレンばかり目にしますが、ここには紫色のモクレン、紫の花だから、熱名シモクレンとも言われるモクレンです。
 木蓮
ハクモクレンと少し違うのは、花びらが舌状で長いことです。実も赤いです。
 昔は「木蘭(もくらん)」と呼ばれていたこともありますがこれは漢名だということです。花がランに似ていることから来ています。
 それが、ランよりもハスの花に似ているとして「木蓮(もくれん)」と呼ばれるようになったということです。
上品な芳香を放つということで、香水の材料としても使われています。
少し離れて、コブシが満開でした。
木瓜
ハクモクレンとコブシはよく間違えます。
そのちがいの見分け方としては次のようなものがあります。
①コブシには花が咲いている時に、花の付け根に一枚の葉が付いています。ハクモクレンにはありません。これが一番わかりやすい見方です。
②蕾も花もハクモクレンと比べて、コブシの方が小さいです。
③ハクモクレンの花の芽はほとんどが首をもちあげて、上を向いていますが、コブシは枝の向きに逆らわず、横向きや下向きに芽が付いています。(南を向くと聞いたことがありますが、あまり方向ははっきりしません)。
 こういった所です。

ユキヤナギ  タカトウコヒガンサクラ

ユキヤナギ(雪柳)は、バラ科の落葉低木。別名にコゴメバナ、コゴメヤナギなど。
 雪柳
 雪柳 少しアップ
 3月から4月にかけて、ゆるやかに枝垂れた前年枝の各葉腋に、いく本にも枝垂れて、白色5弁の小花を枝全体につけます。長い枝が白い花で覆われた様子は、その名のとおり、まるで雪をかぶったヤナギを思わせます。
 中国原産という説もあるが、日本原産であると考えられています。
 別名のコゴメバナは、白い小花を小米に見立てたものです。
  Micro の歌に『Micro of Def Tech / 雪柳』があります。
  ♪ ガンバらなくてもいいんだよ
   ありのままの君でいるなら
   冬と春つなぐユキヤナギ
   まわりを照らしていた
 「頑張りましょう」とつい言いたくなるこのごろですが、「 ガンバらなくてもいいんだよ」と歌っています。
 ユキヤナギの小さな花を見ていると、頑張りたい気もしてきます。
  ♪たとえ今は険しい
   道のりに見えたとしても
   苦しみの森をぬけてく
   それが何よりの近道
 
良い歌ですね。
 タカトウコヒガンサクラ
 こちらは、先日書いたタカトウコヒガンサクラ。満開でした。
 きれいな色です。
タカトウコヒガンサクラ 少しアップ

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プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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