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目黒 田道の庚申塔と茶屋坂

 目黒を目黒川沿いに歩きました。
 目黒駅から、権之助坂を下り、目黒川に出ます。目黒川に沿って歩き田道橋まで来て、少し左に行くと、1つの庚申塔があります。柊庚申とありした。
 そこをもう少し行くと、「田道庚申塔群」があります。
 目黒田道の庚申塔
屋根があって、1基のお地蔵さんと6基の庚申塔が並んでいます。
 延宝年間から元禄、正徳までと江戸の前半のものですが、保存状態は大変良好で、青面金剛、太陽と月、二羽の鶏、三匹の猿の彫刻がそれぞれにはっきり確認できます。
 右から年代を記してみます。
 1673(延宝 1)造立の念仏供養(ねんぶつくよう)のお地蔵さま。
 1677(延宝 5)造立の青面金剛。
 1695(元禄 8)造立の青面金剛。
 1680(延宝 8)造立の青面金剛。
 1695(元禄 8)造立の青面金剛。
 1692(元禄 5)造立の青面金剛。
 1713(正徳 3)造立の青面金剛。
 先に関口の方の庚申塔を紹介しましたが、その時はっきり出ていなかった太陽と月もここでははっきり彫られています。
 庚申塔 太陽と月
庚申塔群の前を通る道は、かつて麻布、青山方面から目黒不動尊(めぐろふどうそん)への順路で、江戸中期以降はやや町並化された場所でした。
その道を、田道橋を渡って麻布、青山方面へ向かうと、すぐ茶屋坂があります。
 茶屋坂案内
「茶屋坂と爺々が茶屋」跡の説明板は次のように記してあります。
この坂上に百姓彦四郎が開いた茶屋があって、三代将軍家光や八代将軍吉宗が鷹狩りに来た都度立ち寄った。
 家光は彦四郎の人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたので、「爺々が茶屋」と呼ばれて広重の絵にも見えている。
 以来将軍が目黒筋へ出かけたには立ち寄って銀一枚を与えるのが例であった。
 また十代将軍家治が立ち寄ったときには団子と田楽を作って差し上げたと古文書にも書き残されている。
 こんな事から「目黒のさんま」の話が生まれたのではないか。

 落語の「目黒のさんま」が生まれた場所というわけです。
 この落語のおかげで、目黒と言えば「さんま」になりました。
 今では落語を知らない人もいます。ストレートに目黒のさんまはうまい、と思っています。
 毎年9月に、目黒駅をはさんで、「さんま祭」が開催されて大変賑わいます。駅から白金の方の品川区の「さんま祭」は宮古からさんまが来ていました。目黒区はちょうどこの田道あたりで開催されますが、さんまは気仙沼から来ていました。
 どちらも今回の東日本大震災で大きな被害を受けました。
 今年は開催は無理でしょうね。
 茶屋坂は江戸時代に、江戸から目黒に入る道の一つで、大きな松の生えた芝原の中をくねくねと下がるつづら折りの坂で、富士が良く見えたようです。
 広重「目黒爺々が茶屋」
 歌川広重の<名所江戸百景>に「目黒爺々が茶屋」があります。
 今は坂から富士山は見えません。目黒清掃工場の白いえんとつが目立ちます。
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鯰絵の魅力

 鰻絵は次のような形で変化していきます。
まず、1)地震伝説の三要素、鯰、鹿島大明神、要石が典型的に描かれているもの。
この鯰絵は前回載せました。
そして、
2)無差別に多くの人々の命を奪い、街を荒廃させる憎き破壊者としての表現されるもの。
 鯰をこらしめるような鯰絵などが出されます。
そこからがまた面白いです。
3)安政期の社会的・経済的不公平に対し、庶民が「救いの神」として崇拝し感謝しているもの。
 地震は多くの被害をもたらしますが、その後の復旧活動がはじめると材木問屋や金物屋などの商人へは注文が殺到し、鳶(とび)・左官・大工などの職人は仕事が増え手間賃も上がったことから、思いもよらないような金銭を手に入れることができました。
 また幕府は御救小屋を設置し救済事業を行いました。そうしたことで、その日暮しを強いられていた下層の人々は施米・施金によって暮らせるようになります。こうなると、鯰は世直しの英雄として崇められるようになっていきます。
 この意識の変化にともない鯰絵の画像も変化していったのです。
 地震を引きおこした鯰の力で、社会変革して欲しいとの期待感が出てきたということです。
 破壊者としての鯰(禍鯰)から、救済者の鯰(世直し鯰)へとすぐに変わっていったわけです。
 そこで、幕府はそんな鯰絵が体制を揺るがしかねないと恐れたようで、鯰絵の禁止令を出します。それも早かったようです。しかし、それでも多くの鯰絵は出されました。それだけ鯰絵を求める受け手側の人々の存在があったということです。
 
少し鯰を紹介します。
 <みんなで鯰を押さえ込む>
 鯰絵 鹿島大明神が鯰を押さえ込む絵
大きな鯰をみんなで押さえ込んでいます。吉原と出て、楽器を持った芸者の姿が多いです。
 <謝罪する鯰・人助けする鯰>
 鯰絵 世直し鯰の情
地震を起こした鯰が、鹿島大明神などの神々に謝罪するものや、地震を起こしたおわびとして崩れた家を片づけたり、人々を治療したりしています。
 <「世ハ安政民之賑」>
 鯰絵 世ハ安政民之賑
千両箱に執着する金持ちが要石を背負った地震鯰と力比べをしている図です。このなかで鯰は神の使いとして、金持ちに堕落を諭そうとして地震を起こしたものであると述べています。そして金持ちは、せっかく貯めた金も地震で千両箱が壊れて、火事で焼けてたねなしになることをなげいているのです。
 <鯰と職人たち>
 職人達鯰にお礼言上
職人たちが鯰に御礼を言っています。

鯰絵 鹿島神宮の要石

 東日本大震災で鹿島神宮の石の大鳥居が倒れたというニュースを見ました。
 あの鹿島神宮が、地震にやられたのか、と思いました。
 鹿島神宮の森には、大きな石があり、その石が、地震を起こすと言われる鯰を押さえつけているという伝説があるのですが。今でもその要石はあります。
 これを「要石伝説」と言います。
 鹿島神宮の「要石」が注目されたのが、安政2年(1855)10月2日の夜、江戸湾付近が震源地の直下型大地震安政大地震でした。
 10月は神無月で神々が出雲に出かけて留守をする月です。
 その留守を良いことに、いつもなら鹿島神宮の要石で押さえつけられていた鯰が暴れだし、この大地震になったという噂が江戸中に広まり、この地震の直後から「鯰絵」が大流行したのです。
 鯰絵というのは安政江戸地震直後に出された鯰をモチーフにした戯画です。瓦版の一種ですが、多色刷りで錦絵にそっくりの作品がたくさん生まれました。浮世絵の一種に入ることもあります。
 野口武彦『安政江戸地震』を読んで、鯰絵に興味を持ちました。
 そもそも、鯰が地震を起こすという俗信が定着したのは、江戸初期ごろだと言われます。
 地震と鯰が結びつく以前は蛇や龍だったようです。それが鯰に定着していったようです。
そのいきさつはよく分かりません。
 ただ、鯰絵や大津絵には、鯰を瓢箪で押さえつけようとする"瓢箪鯰"のモチーフが見られます。瓢箪鯰を描いた絵画が地震と鯰とを結びつけたという説もあるようです。
 つまり、不安定で不可能なことを表す瓢箪鯰の絵が、鯰と地震を結びつけたというわけです。
 それでは、最初に、恵比寿さまが、瓢箪で鯰を押さえている図です。
 鯰絵 恵比寿さんがひょうたんで鯰をおさえる
 そもそも、安政大地震が起きたのは10月です。10月は神無月で、諸国の神々が出雲に集まる月です。ただ恵比寿さまだけは、留守番役で残っていたのです。
 この鯰絵では、出雲にでかけた鹿島明神の留守をついて鯰が暴れたため、留守番をつかさどる恵比寿さまが、鹿島明神のかわりに鯰を押さえている所です。
 瓢箪に鯰、恵比寿さま、鹿島明神、面白いです。
 もう一枚要石の出てくる鯰絵。
 鯰絵  要石
 こちらの鯰絵は、江戸の大地震をおこした鯰を、鹿島明神が要石でおさつけ、その前では日本各地で地震をおこした鯰があやまっている図です。

馬酔木

 東京都庭園美術館へ、今日最後の「20世紀のポスター タイポグラフィ展」を観に行き、庭園を散策しました。
 馬酔木が咲いていました。
馬酔木 
 馬酔木の名は、馬が葉を食べれば酔ったように足がなえて苦しむ所からついた名前だと言われています。アセビ、あるいはアシビと呼ばれます。
 「アシビ」とは「足の痺れ」が縮まったとも言われています。
 壷形の花をいっぱい咲かせますが、うす紅色のものと白のものがあるのですが、その両方が咲いていました。
 馬酔木はある意味、不思議な木で、万葉集には10首も歌われているのに、その後、4,5百年もの長い間、詩歌の世界からは姿を消してしまっています。
 可憐な花なのにどうしてなのでしょう。
 馬酔木 あしび 紅
万葉集では、大伯皇女(おおくのひめみこ)の歌が忘れられません
 長い物語なので、詳しくは記せませんが、その歌へのいきさつだけ。
 大伯皇女は、天武天皇の皇女で、大津皇子(おおつのみこ)の姉にあたります。
 その大津皇子が、686年(朱鳥元年)9月に天武天皇が崩御すると、1ヶ月も経たない10月2日に川島皇子の密告により、謀反の意有りとされて捕えられ、翌日磐余(いわれ)にある訳語田(おさだ)の自邸で死を賜わるのです。
 そして、二上山(ふたかみやま)に葬むられます。その時に大伯皇女が詠んだ歌があります。

 大津皇子の屍(しかばね)を葛城の二上山(ふたかみやま)に移し葬る時に、大伯皇女(おおくのひめみこ)の哀傷(かな)しびて作らす歌二首 
 うつそみの 人なる我れや 明日よりは 二上山を 弟(いろせ)と我が見む(165)
磯の上に 生ふる馬酔木(あしび)を 手折(たお)らめど 見すべき君が 在りと言わなくに(166)
 

166の歌に馬酔木が歌われています。
 岩のほとりの馬酔木を手折ってあなたに見せたいのに、あなたが居るとはもう誰も言ってはくれない・・・・・。

 昭和18年7月に刊行された堀 辰雄の『浄瑠璃寺の春』です。この短い作品には、馬酔木がしっかりと咲いています。
 
この春、僕はまえから一種の憧れをもっていた馬酔木の花を大和路のいたるところで見ることができた。
そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へ著いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英や薺のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、漸っとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。
(略)
その小さな門の中へ、石段を二つ三つ上がって、はいりかけながら、「ああ、こんなところに馬酔木が咲いている。」と僕はその門のかたわらに、丁度その門と殆ど同じくらいの高さに伸びた一本の灌木がいちめんに細かな白い花をふさふさと垂らしているのを認めると、自分のあとからくる妻のほうを向いて、得意そうにそれを指さして見せた。
「まあ、これがあなたの大好きな馬酔木の花?」妻もその灌木のそばに寄ってきながら、その細かな白い花を仔細に見ていたが、しまいには、なんということもなしに、そのふっさりと垂れた一と塊りを掌のうえに載せたりしてみていた。
どこか犯しがたい気品がある、それでいて、どうにでもしてそれを手折って、ちょっと人に見せたいような、いじらしい風情をした花だ。云わば、この花のそんなところが、花というものが今よりかずっと意味ぶかかった万葉びとたちに、ただ綺麗なだけならもっと他にもあるのに、それらのどの花にも増して、いたく愛せられていたのだ。そんなことを自分の傍でもってさっきからいかにも無心そうに妻のしだしている手まさぐりから僕はふいと、思い出していた。
(略)
その日、浄瑠璃寺から奈良坂を越えて帰ってきた僕たちは、そのまま東大寺の裏手に出て、三月堂をおとずれたのち、さんざん歩き疲れた足をひきずりながら、それでもせっかく此処まで来ているのだからと、春日の森のなかを馬酔木の咲いているほうへほうへと歩いて往ってみた。夕じめりのした森のなかには、その花のかすかな香りがどことなく漂って、ふいにそれを嗅いだりすると、なんだか身のしまるような気のするほどだった。だが、もうすっかり疲れ切っていた僕たちはそれにもだんだん刺戟が感ぜられないようになりだしていた。そうして、こんな夕がた、その白い花のさいた間をなんということもなしにこうして歩いて見るのをこんどの旅の愉しみにして来たことさえ、すこしももう考えようともしなくなっているほど、少くとも、僕の心は疲れた身体とともにぼおっとしてしまっていた。
突然、妻がいった。
「なんだか、ここの馬酔木と、浄瑠璃寺にあったのとは、すこしちがうんじゃない? ここのは、こんなに真っ白だけれど、あそこのはもっと房が大きくて、うっすらと紅味を帯びていたわ。」
「そうかなあ。僕にはおんなじにしか見えないが」僕はすこし面倒くさそうに、妻が手ぐりよせているその一枝へ目をやっていたが、「そういえば、すこうし」
そう言いかけながら、僕はそのときふいと、ひどく疲れて何もかもが妙にぼおっとしている心のうちに、きょうの昼つかた、浄瑠璃寺の小さな門のそばでしばらく妻と二人でその白い小さな花を手にとりあって見ていた自分たちの旅すがたを、何んだかそれがずっと昔の日の自分たちのことででもあるかのような、妙ななつかしさでもって、鮮やかに、蘇らせ出していた。

古都を旅するとき、花を思い、古いものを感じ、そこで暮らす人を思う、このように歩いてみたいと思います。

庚申塔のこと

 江戸川公園の所から目白坂を上り椿山荘へ行き、また神田川へ降りて、目白坂にかつてあった目白不動が戦後に移転した、金乗院まで歩きました。
 そこでいくつかの庚申塔を目にしました。
 東京にはずいぶん庚申塔があります。
 庚申塔は庚申信仰から来ています。
 庚申信仰は、中国の道教で説く三尸(さんし)説を母体としています。
 それによると、人の体内には「三尸」という虫がいて、庚申の日に熟睡していると、その間に天に上って、天帝(てんてい)に報告をするそうです。そして天帝は、その報告に基づき、その人の寿命を決定します。
 ということは、庚申日の日に徹夜をして眠らなければ、三尸は天に上って天帝に罪過を告げることができません。そこで人々は夜を徹して、呪文を唱えたり茶を飲んだり、歌合わせやスゴロクに興じたりします。
 これを「庚申待ち」といいます。「待ち」は「祭(まち)」とも書きます。
 庚申(かのえさる)は、十干十二支と呼ばれる暦の中の日付の1つで、初日から57番目に当たり、60日ごとにやって来ます。
 江戸時代には庚申待ちは各地で行なわれるようになり、60日に一度の庚申待を年6回で3年連続して18回実施すると、供養のために庚申塔や庚申塚を築くことが一般に行われるようになったのです。
 その時の「庚申待ち」18回記念の庚申塔を目にしているわけです。
 庚申塔の多くは道標を兼ねていることが多く、辻などに建てられています。
 また、庚申塔に地蔵堂のような小屋がけをして庚申堂、土盛をして庚申塚、小さな鳥居を立て庚申神社と称されるものもあります。
 その庚申塔の基本的な形を今日見た庚申塔から書いてみます。
 庚申塔 椿山荘 全体
まず、椿山荘のお庭にあった庚申塔です。
 きれいな彫りです。
 青面金剛(しょうめんこんごう)が彫られています。
 仏教系では、青面金剛(顔の色が青い金剛童子)を庚申信仰の本尊とするものが多く見られます。頭髪を逆立てた怒りの形相(忿怒相)で、身に蛇をまとう鬼神です。病魔、病鬼を払い除くことに威力絶大とされます。
 庚申塔 椿山荘 下の部分
塔の下部に猿と2羽の鶏がいます。
 庚申の申→猿との関連で、庚申信仰には猿が登場します。
 鶏は、夜明けを待つという意味があると言われますが、干支でいう申の次の酉→鶏を表現しているのだろうと思います。
 庚申塔の一般的な配置は、中央に青面金剛、下部に猿や鶏、そして上部に日輪月輪が彫られます。
 (今回見た庚申塔には上部左右に彫られる日輪月輪がみつかりませんでした。)
 庚申塔 水神社 
次は水神社にあった庚申塔。中央部分がなくなっています。
 下には、三匹の猿が彫られています。
 三尸による天帝への報告を阻止する意味で、「見ざる・聞かざる・言わざる」で知られる三猿が庚申信仰に取り入れられました。
 この三猿が庚申塔に刻まれることは多いです。こうした庚申塔は三猿塔と呼ばれることがあります。
 面影橋から旧鎌倉街道を鬼子母神の方向へ歩いた途中、宿坂の途中にある金乗院の境内にもいくつか庚申塔があります。
 庚申塔 金乗院 三猿
まずは素朴な庚申塔。三猿中心で、まさに三猿塔です。
 庚申塔 金乗院 鳥と三猿
そして、もうひとつ近くにあった庚申塔、これには三猿が正面、側面に鶏が彫られていました。
 庚申塔 金乗院 『倶梨伽羅不動庚申』全体
庚申塔 『倶梨伽羅不動庚申』 下部
そして、最後が倶梨伽羅不動庚申です。(天気が良くて、柵の影がじゃましていますが。)
 そばの案内には、青面金剛の化身と書いてありますが、これは倶利迦羅明王で(倶利迦羅・倶利伽羅とも記し「くりから」と読みます)は不動明王の化身で、青面金剛とは違います。
 不動明王と青面金剛との姿形が似ているので同じように庚申塔が造られたのだと思います。塔の右側に江戸初期の寛文6年(1666年)と刻まれていて、一般的な庚申塔よりかなり古いものです。
 庚申の年は60年に一度あるということですが、最近では1980年(昭和55年)が庚申の年でした

タカトウコヒガンサクラ

 新宿歴史博物館のタカトウコヒガンサクラ
 新宿歴史博物館の庭にある2本のタカトウコヒガンザクラがもうすぐ満開です。今年は少し遅いです。
 新宿と信州高遠の結びつきは、新宿御苑にあります。
 江戸時代、今の新宿御苑は、信濃高遠藩藩主の内藤家下屋敷でした。
 あの土地を、内藤家の初代(2代とする説もあります)内藤清成が拝領したことについては伝説があります。
 徳川家康から「馬で乗り回した土地を全て与える」と言われたのです。
 内藤清成は、白馬で一気に駆け巡り、四谷から代々木村、大久保まで入る、広大な土地を拝領することができたのです。
 ところが、駆けた白馬は家康の元へ駆け戻った直後に息絶えてしまいました。
 駿馬伝説と言われて、内藤町の多武峯内藤神社には、この伝説による「駿馬塚の碑」が残っています。
 もともと清成は家康の信が厚く、天正18年、家康が豊臣秀吉の命で関東に移封されることになった時に、清成は鉄砲隊を率いて江戸入りの先陣を務め、国府路(甲州街道)と鎌倉街道の交差付近、今の太宗寺のあるあたり、つまり新宿御苑の近くに陣を敷き、遠見櫓を築いています。
 その内藤家が6代(あるいは7代)の清枚(きよかず) の時に高遠の藩主となったのです。
 高遠藩は、下総多古にあった保科正光が2万5千石で入封していました。
 この、保科正光は、徳川秀忠の隠し子を嗣子として預かっていました。
 保科正之です。
 大河ドラマ「江」に出てきますかね。隠し子がいたのです。
 保科正之は高遠藩主を継ぎ、3万石の一譜代大名として6年を勤めますが、家光の代になって、家光の実弟であることが内外周知のこととなるに従って、出羽山形20万石に加増して転封します。
 そのあと、出羽山形より鳥居忠春が3万余石で入り、次の代で改易になります。
 そして、摂津より内藤清枚が3万3千石で入って、以降、内藤家が明治になるまで藩主になります。
正徳4年(1714年)に、江島生島事件が起こっています。そいて、江戸城大奥御年寄絵島は高遠藩へ配流となっています。内藤清枚が亡くなる直前です。
 明治維新後、城は取り壊されましたが、明治8年、荒れはてた高遠城址を見かねた旧藩士たちが、かつて高遠藩の桜の名所だった桜の馬場」の桜を移植しました。
 これがタカトウコヒガンサクラです。
 現在、130年以上の古木が20本。50年以上の木が500本。30年以上の木が300本。若木を合わせて、1500本以上の木があります。
 品種としては、マメザクラまたはキンキマメザクラと,エドヒガンの交配種のひとつですが,コヒガンザクラとしては、高遠固有の種類であるとして命名された貴重な桜です
 昭和35年に長野県の天然記念物に指定されています。
 城址に同じ品種のサクラが咲き競うのは珍しく、またとても美しいようで、サクラが似合う城のベスト3に入っています。
 一度ぜひサクラ咲く高遠へ行ってみたいです。

鴨長明の『方丈記』 地震を読む

 余震が続いています。
 鴨長明の『方丈記』に元暦2年(1185)の地震のことが出てきます。
そこに余震の続くさまが記されています。
 永井路子さんの現代語訳で引用します(集英社文庫「永井路子の方丈記 徒然草」)
鴨 長明(1156~1216)
 「これだけの激震はまもなくして止んだけれども、余震はしばらくは止まず、ふつうの時だったらびっくりするほどの地震が、日に2、30度ない日はなかった。10日、20日と過ぎてやっと間遠になり、1日のうち4、5回、あるいは2、3度になり、1日おき、また2、3日に1度というふうになったが、こんなふうにして、余震は3ヶ月も続いたろうか。」 今朝も、今までなら大騒ぎしそうなほどの大きな揺れがあって、でも、それをもうそれほど驚かなくなていることが恐いです。
 鴨長明は、地震ほど恐ろしいものはないと書いています。
 「おそれのなかにおそるべかりけるは只地震なりけり」 地震の様でなく、その要素で恐ろしさを記した所を、永井路子さんの訳で。
 「天地を構成する4大種(4大ともいう4要素 地・水・火・風)の中で、水と火と風はいつも災害をもたらすが、大地だけは常に動かず、災いを起こさないと、思っていたのに、このありさまとは・・・・」
 続いて、その昔、斉衡年間(855年に起きた地震)に大きな地震があって、その時は、奈良の大仏の首が落ちたと言われるほどだったらしいが、その地震も鴨長明が被災した地震にはかなわないと、続くのですが、その次の言葉が、重いです。
岩波文庫 方丈記
 鴨長明の言葉で引用します。『方丈記(鴨長明/市古貞次校訂)岩波文庫』より
「すなはちは、人みなあぢきなき事を述べて、いささか心の濁りもうすらぐとみえしかど、月日重なり、年経にし後は、ことばにかけて言ひ出づる人だになし。」
 「すなわちは」というのは「その当時は」の意味です。訳すと、斉衡の地震が起きた当時、人々はみな、世の中はしょせんはかない、どうにもならないものだとはなし、心の中の濁り、欲望、執着なども少しは薄らいで来たように見えたけれど、歳月が過ぎると、地震のこともそういう心のこともだれも口にする人はいなくなった、と。
 どんなに恐い地震もやがて忘れられる、ということでしょうか。
 そして、
すべて世中のありにくく、わが身とすみかとのはかなくあだなるさま、又、かくのごとし。いはむや、所により、身のほどにしたがひつつ、心を悩ます事は、あげて不可計(かずふべからず)。」
 ここは、もういちど永井路子さんの訳で。
「すべて世の中は生きにくく、わが命もすみかも、たちまちはかなく消えうせることは、上述の災害で見るとおりである。その環境や境遇によって心労の種は数え切れないほど多い。」 『方丈記』の真髄です。

この大震災を忘れるなかれ

 野口武彦著『安政江戸地震』の本に「PTSD」のことが出ています。
 以下、ほとんど本からの引用になってしまいます。
 PTSDとは心的外傷後ストレス障害Post―Traumatic Stress Disorderのことです。 このPTSDには、その進行に応じて大きくわけて3つの段階があります。
第1段階は震災を受け「衝撃」の段階。ここでは、人々は高い覚醒状態でふるまいます。
第2段階では「被災直後の時期の愛他的、相互扶助的な反応に続く一種の"ハネムーン(高度の適合状態)"が出現」。とあるように、一種のハネムーン(高度の適合状態)になると言います。
第3の段階は「その災害の報道が新聞のフロント・ページから消えるころ、幻滅的な現実直視の局面が現れる」、その幻滅的な現実を直視する段階です。
第2段階のハネムーン状態については次のような現象が記されています。
 「死と破壊の中の脅威のなかで生き残ったことの幸福感、損失を認めたくない気持ち、
災害によって社会的な障害が取り除かれたこと、それに共通被災体験による相互連帯感の強まりなども災害後の『ユートピア現象』に寄与する。これらがいっしょに作用して被災後の病的な精神状態の緩和に役立ちうるかもしれない。」

 大変失礼で、無見識な痛みを理解していないと言われそうですが、テレビで見ていて、今はまさにハネムーン状態だと感じます。それは「ハネムーン的異常幸福感」とも呼ばれるそうですが、当事者でなく遠く離れた外部から、それもテレビで見ていて、その雰囲気が感じられます。
 自分だったらもうどうにもやりようがないと失望のどん底に落ち込んでいると思うのですが、テレビに出てくる被災者のみなさんは前向きで明るいです。投げやりの人は一人もいません。
 実は、そのように感じることと、ハネムーンの言葉とがフィットして、このPTSDの箇所にひかれたわけです。
 さて、それに続いてくる第3段階が「現実」です。
ハネムーン状態は短命で「すぐに激しい幻滅状態に替わる」とあります。
しかもそれは個人にだけでなく、集団的に、時には国規模で発生するというのです。
「災害直後の"ユートピア"の状態では、政治的指導者たちが数多くの約束をしてくれる」、つまりいっとき『だれが払うか』が忘れられる一時期である。たとえすぐ『被災者は甘えすぎる』になるにしても。」と書かれています。
 「被災者は甘えすぎる」。今回のこの東日本大震災でもこの言葉が聞かれるのでしょうか。
22日の朝日新聞の「天声人語」残間里江子さんの言葉として「今度だけは甘えるだけ甘えてください」という言葉が出ていました。
 そうありたいと思います。
 そして、忘れてならないのは、ここで引用した視点は被災者に向けられた「外」からの視点、ということです。今書いたように、私自身、常に「外」からの視点でしか見られません。
 そして、恐れるのは、「外」から見ている惨状は、すぐに忘れる方向へ向かわないだろうかということです。
 テレビは、すでに「日常」にかえりつつあります。やがて新聞も、この災害が大きく載らない「日常」にかえっていくでしょう。
 私も、それに応じて、地震以前の日常にかえり、この震災を意識しないと思い出さなくなっていくかもしれません。
 この野口武彦著『安政江戸地震』の中は、次の言葉もありました。
「地震後あまり月日が経たないうちに、日常性が消毒薬のように都市生活の隅々に行きわたった。人間は何にでも慣れるのである。」
 東北の被災者のみなさんにとっても、この「日常性」という消毒薬は「幻滅感」を押さえる一つの救いかもしれません。 
 被災者でないものにとっては、この消毒薬はあの災害に対して何もできなかったことへの免罪符になるかもしれません。
 忘れてしまって、そして「忘れたころに」あるいは今度は、被災者の一人になっているかもしれません。
 大切なことは、できるだけこの震災のこと(もちろん原発問題も含め)を忘れないようにすることかもしれません。
 下は、地震を象徴する鯰を町人が退治している鯰絵です。今はこの状態かもしれません。
鯰絵 町人に退治された鯰と河童

春はまだですか

 新宿中央公園へ行きました。
 タカトウコヒガンサクラ
昨年はそろそろ咲いていたタカトウコヒガンサクラがどうかなと思ったのですが、蕾がやっと開いた感じでした。
 今日は、雨が降って少し寒かったです。
 富士見台 危険入らないで
近くの富士見台が、地震の後遺症でしょうか、危険という黄色の紐でくくられていました。
 ハクモクレン
その横に高く咲いているハクモクレンは満開でした。
 ヒイラギ南天
歩くと。黄色い花のヒイラギ南天がたくさん咲いています。近付くとかすかにぶどうのような香りがします。
 野草はまだロゼット状態です。
 ロゼットとは植物図鑑の解説では「地表面付近にあるごく短い茎と、それから出てほぼ水平に広がった多数の葉とからなる集合体」ということになります。
 八重咲きの薔薇を連想させることから、「rosette」という名が付いていて、越年草などの冬越しの姿として見られます。葉をいっぱいに拡げて、省エネで冬をやり過ごす植物の冬越えの姿、けなげです。
 オニタビラコ ロゼット
オニタビラコ ロゼット。
 コオニタビラコは春の七草の「ほとけのざ」のことなので、混同されてオニタビラコも七草がゆに使われることがあるそうです。食べられることは確かです。
 ハルジオン ロゼット
ハルジオン ロゼット。
 ハルジオンは牧野富太郎の命名で,春に咲く紫苑(しおん)という意味です。
 春の野草としてあちらこちらで見られます。
 ロゼットはまだ冬の姿です。
 本格的な春の到来はもう少し先ですか

「安政江戸地震」

 震度5強の地震を体験した時、駒場にいました。
電車が動きだすのを待つまでと、駅の近くの古本屋さんへ行ってみました。お店の中の書架が倒れていて大変なことになっていました。「大変ですね」と話したら、「いえ、これが倒れただけだったので」と本をまとめていました。
 お店の外に文庫や新書の棚があったので、見ていると、ちくま新書の「安政江戸地震」(野口武彦著)がありました。
 平成7年(1995)の阪神淡路大震災があった、その2年後の出版です。
 著者の野口武彦さんは神戸に住んでおられ、阪神大震災で、安政江戸地震を連想し、双方の間にある種の親近感を感じてこの本を書いたと巻頭にあります。
 これは読んでみなくてはと思って買いました。
 東日本大震災の日に買った江戸地震の本というわけです。
安政江戸地震で起きた地割れ
 新宿歴史博物館に安政江戸地震の時の地割れをかたどった模型があります。四谷の土手のところの地割れです。(ずっと残っていたのですかね)
 安政江戸地震は、江戸の幕末、安政2年(1855)10月2日の夜半(午後10時ごろ)に起きたマグネチュード6・9の地震です。
 維新の12年前です。大江戸八百八町を壊滅させ、7千人を超える死者を出しました。
 本の中に、牛込に住んでいた500石の旗本、宮崎次郎大夫が記した当日の記録が出ています。
 宮崎次郎大夫は揺れが静まると何はさておき江戸城へ向かいます。
 「家を出て外堀の牛込門にさしかかったとき、激しい余震が来た。それが止むのをまってまた早足で急ぐ。橋際の地面が5寸(15センチ)ほど裂けているのを飛び越えて進み、雉子橋門まで来かかると石垣の上に白壁の長屋を連ねたあの見事な93間の多聞櫓は傾き、大番所は潰れていた。・・・」
 牛込門は今の飯田橋駅のそばです。橋のそばの地割れ、四谷とつながっているので、あれだな、と思いました。
 安政江戸地震について詳細なデータもきちんと出ていて、とても詳しいです。
 そして「鯰絵」のことがとても興味深かったです。
 さらにもう一つ、安政2年(1855)は卯年だったこと、これには、ちょっと驚きました。今年は卯年です。
 そして、次の言葉が、記憶に残ります。
 「早い話が、1703年の元禄地震では幕府はびくともしなかったが、1855年の安政地震ではがたがたになった。政治情勢、経済動向、社会状況の深甚な差異が進行していたからである。巨大災害は、一国の政治経済、社会生活、世相風俗に潜在していた諸内因をいっきょに合併症状化する。」

都市動物 タヌキとハクビシン

 3月10日に「都市動物から考える環境問題」という講座があり、その中のお話を少し書いていたら、翌日の大地震でした。
 今日、椿山荘に行きました。椿山荘の庭にはタヌキが住んでいるそうです。その注意書きの看板を見ました。タヌキのことを書いたので、載せます。
 ただ、椿山荘の庭の灯籠が倒れたままになっていました。地震の影響はまだまだ続いています。

椿山荘 地震で倒れた灯籠

 プロ・ナチュラリスト。
あまり聞きなれない言葉ですが、プロの自然案内人という意味です。そのプロ・ナチュラリストの肩書きをもつ佐々木洋さん。テレビによく出ておられ、東京に住む生き物つまり「都市動物」を紹介しています。
 「都市動物」という言葉は佐々木洋さんが最初に使いました。都市に生息する生き物といった意味です。
 佐々木洋さんは「東京には自然がいっぱいあって、そこにいろいろな生き物が生息している。その生き物を観察するといろいろなものが見えてくる」と話されます。
 どんな生き物がいるか。たとえば、タヌキです。東京23区たくさんのタヌキが暮らしているというのです。実際、新宿区の落合あいでタヌキを見たという人がたくさんいます。そして、タヌキに似たハクビシンもいたという人も出てきました。
 3月10日、佐々木洋さんの「都市動物から考える環境問題」という講座を受講しました。そこで、タヌキやハクビシンの話も出てきました。
 タヌキは「野良猫がいっぱいいるところによくいるのですよ」と言われました。
 公園などで野良猫がいるとよくかわいそうだと餌をやりにくる人がいます。そうして餌をやることで、たくさんの野良猫が集まりまるのですが、その餌を求めてタヌキもやってくるのです。
 タヌキは、日本在来の動物です。人里近い山に住んでいました。人間が増え、人間がどんどん郊外へ郊外へと家を建て、タヌキの住む場所に侵害していきました。タヌキの一部はもっと奥へもっと奥へと逃げましたが、開き直って、人間の住むところで暮らすタヌキもできました。
 生きるには餌が必要です。野良猫の餌をねらっても不思議ではありません。
 ところで、タヌキはイヌ科のほ乳類です。猫と喧嘩するとどちらが勝つでしょう。それはその時によるということでした。
 東京でタヌキを見かけるのはたとえば、京王沿線です。代田橋、浜田山などで見かけて人が多いそうです。
 夜、電車が走らなくなると、線路の上を歩いて移動して餌を探すようです。 
 井の頭公園からの神田川沿いにもいるといるようです。
 椿山荘のタヌキの注意看板
椿山荘のお庭には、タヌキが住んでいるということで、注意の看板も出ています。
 雑食性のタヌキは、生ゴミの山でバイキング食事です。郊外で探すより東京は餌が見つけやすいかもしれません。 
 タヌキは在来にしても、ハクビシンは外来種ということになっています。というのは、江戸時代、明治時代に生息した記録がないのです。外来種か在来種の線は、明治で引かれるようです。外国から持ち込まれたのでしょうか。
 佐々木洋さんは面白い説を話されました。
江戸の3大珍獣といわれるものに「河童」「釜鼬(かまいたち)」「雷獣」です。この「雷獣」がハクビシンだったのではないか、と言われるのです。ハクビシンは木の上にいます。雷が鳴ると木から降りてきます。雷が鳴ると出てくる獣、あれは(ハクビシン)は雷獣だ、と言われていたのだという説です。そうっすると、ハクビシンは在来種ということになります。どちらであるかははっきりしていない、が現状のようです。
 ハクビシン、漢字で書くと、白鼻芯です。
ハクビシンってどういう動物だろうと、思い調べました。タヌキに似ているのですが、顔の真ん中、おでこのあたりから鼻の先まで白い模様があります。だから白鼻芯です。
 木登りが得意で、秋、果樹園などに出現して大きな被害を与えます。基本的には夜行性ですが、昼間でも家の屋根などを伝って移動します。電線を伝って走ることもあります。
 先日、駒場の前田侯爵邸を見学したとき、その和館の2階の天井が雨漏りがしたようにシミになっていました。どうしたのだろうと思ったら、あれはハクビシンがおしっこをした跡です。屋根裏にいたのですね。
 そういう被害もあります。 
 ハクビシンも、ゴミをあてにしているのでしょうかね。
 ハクビシンは、ジャコウネコ科、もともと東南アジアにいます。果実を好み、衝動物や鳥も食べます。でも、やはり、ゴミの山が目当てだと思います。
 タヌキもハクビシンも住みたくて、都会に出てきたわけではないでしょう。どうしてそういう動物が身近にいるのか、そして増えて行っているそのバックグランドを考えてみることが大事だということでした。

椿山荘 萩からの椿の木
 最後の写真は、萩から贈られた椿山荘の椿です

原子力発電と自然エネルギー

原発新聞
 東日本大震災で災害を受けた東京電力福島第一原発の事故は大きな問題を露見しています。
 私は、いくらか環境問題に関わっていて、エネルギーについても少し動きました。
 でも、そこでの主たるテーマは消エネで、たとえばLEDの普及についての提言を行ったりしました。
 創エネについては、太陽光発電について、たまたま行政の補助金復活の政策があった時で、太陽光発電にについて勉強、応援をしました。しかいこれは、誰でもできるわけではないので、結局、エネルギーについての活動は省エネ中心になりました。
 その太陽光発電について勉強していた時、自然エネルギーは、ほかに風力、地熱、バイオマス、小型水力などがあることを知りました。
 太陽光発電については、かつてシェア世界1の実力を持っていました。ところが補助を2005年に打ち切ってから落ちていきます。世界3位になりました。その反省から再度昨年から補助を開始したわけです。そこには環境対策というより、何か市場創出といった面が強いような気もします。
 それと、その補助政策にあわせて太陽光発電を1キロワット時48円で買い取るという制度が出来ましたが、これにあわせて、その費用を電気代に転嫁する制度に基づく料金の上乗せが始まります。
これには「他人がつけた太陽光のために電気料値上げは納得できない」という声もあがっています。
 バイオマス発電は、ゴミ消却からでる電力で、これは、ゴミ処理施設を見学していた時に発電していることを何度も聞きました。
 小型水力は、どこかの町で、水車のように発電している風景をみましたが、その例は少ないと思います。
地熱は、それこそ地震列島日本ですから使えそうに思うのですが、あまり利用されていません。
 問題は風力発電です。風力については、悪口しか聞かれません。
 大きな扇風機のような塔が建つので、景観がよくない。鳥の羽があたって死ぬ、いわゆるバードトライク。そして、これは有名な人が反対運動をしている風車の回転で起きる低周波音が人体に悪い影響を与えるというもの。それに、風車がほとんど輸入に頼らなければいけないこともあり建設費が大きく、その維持管理も大変だということです。
 そういうことを聞くと、風力は無理だなと思います。
 電力会社も「風力の電気は変動するから多くは使えない」と発言しています。
 ところが、世界を見ると、自然エネルギーの主役は、この風力発電なのです。
 だいたい、日本は、自然エネルギーにそれほど熱心でないようです。
 積極的なのは、原子力発電です。
 「温暖化対策には、CO2を出さない原発が一番」ということでPRしています。
 安全に対しては、ぜったい安全、万全な対策をたてています、と説明していました。
 多くの人が原発に頼らざるを得ないと、安全性に対して不安を述べる人を牽制していました。
 ところが、今回の福島第一原発の事故です。これは特殊と言われるかもしれませんが、実際に起きてしまいました。
 そ 東日本大震災で災害を受けた東京電力福島第一原発の事故は日本のエネルギーにおいて大きな問題を提起しました。
 「温暖化対策には、CO2を出さない原発が一番」ということでPRしています。
 安全に対しては「ぜったい安全、万全な対策をたてています」と説明していました。
 そして、多くの人がこれからのエネルギーは、非化石燃料でなければならない、それには原発に頼らざるを得ないと提言していました。
 電力供給計画で、2008年の計画では次のようになっています。
 火力発電49.8% 原子力発電40.1% 水力8.7% その他、自然エネルギーなどの新エネルギーは1.5%。
 2008年度の発電電力量の電源別割合は[水力7%、火力70%、原子力23%]です。23%に対して、40%、どんなに原発に期待しているか分かると思います。
 ところが、今回の福島第一原発の事故です。これは特殊、こんな事態は起きることはもうないと言われるかもしれませんが、起きてしまって、大きな不安が、日本を世界を覆っています。
 どうなっていくのでしょうか。

計画停電 町からモノが消えて行く

 13日の夜、テレビを見ていたら<14日から「計画停電」を行います。>になりました。東京電力の管内、関東と山梨県、静岡県の一部を含む地域を5グループにわけて約3時間ずつ停電をするというのです。それも4月末まで。
 びっくりしました。朝は6時30分から夜10時まで、3時間も。どうなるのだと思いました。
夜停電になると、当然真っ暗でしゅう。我が家の台所はIHなので、料理もできない。冷蔵庫はどうなるの。そうか、テレビは見られないのだ。といろいろ思います。
これは大変、懐中電灯はいくつある。電池は?ろうそくは?ラジオは?
そういうことで、14日の朝、電池などを買いに行こうと決意しました。
14日の朝、起きると停電はまだ実施されていませんでしたが、交通が異常事態でした。電気が来ないことで、走る本数を減らしたのです。間引き運転は普通、まったく走らない運休のところもあり、テレビで見ると、駅の混乱もかなりひどい状態です。
電車はやめて自転車で行くことにしました。
自転車を走らせると、会社に自転車で行こうとしている人が通常よりかなり多いです。
夜見たテレビ情報ですが、大宮から半蔵門まで自転車で行こうとしている人が登場していました。
新宿に着くと、量販店の前はオープンを待つ人で行列ができていました。開店と同時に入り、電池売場へ向かいますが、そこはもう大勢の人。またたくまに単1、単2の電池は売り切れました。しかたないので、せめて残っていた単4はと求めました。
次は、「乾電池を!」と思って売場を探していたら、「売り切れです」の案内。
すぎごい勢いです。
しかたない、ロウソクを買って行こうと、デパートへ行きました。
最初は良い香りがでるロウソク売場へ行きました。1本で1万円以上の値段です。これは、買えないと、仏壇の売場へ。そこには、太い1本7時間もつロウソクが6本入った箱が2つ残っていました。同時に入った人と1箱ずつ分けました。そうしてロウソクは手に入れました。
大パニックです。帰りにコンビニに寄ってあるいはと思って電池を探しましたが、当然ありません。パンも売り切れ状態で棚には何もありません。東京の食事も危ないです。
昨日、スーパーへ行った時は、お米の棚にお米がぜんぜん無くなっていたのに驚きました。水を2ケースも買って運んでいる人もいました。
防災用具が消え、食物が消え、水が消え、交通は混乱し、町には消防車が走り、まさに戦時状況です。これからどうなるのでしょう

東日本大震災

 こんな恐ろし状況なんか想像もできませんでした。すべてが止まってしまったような気がします。。
 東日本大震災、日を追うごとにその被害の大きさに、頭がついていきません。
 最初の揺れを感じたときのこと、まったく小さな体験ですが、震度5強を受け、その夜すぐ書いたものを、私個人の記憶としてアップしておきます。

 日本民藝館 西館
日本民藝館の展示物をのぞきこんでいたときです。揺れがきました。地震だなと思いました。いつものように、すぐ終わるだろうと思っていたら2度、3度、4度と、だんだんと揺れが大きくなって、何かにつかまりたくなりました。足下が目眩をしたようにふらつきます。
 この日、3月11日、朝から目黒区美術館と目黒区が主催の「東京大学駒場キャンバスと日本民藝館」(目黒建築めぐり塾)の現地講座に参加していました。参加人員は30名(応募はこの3倍です)でした。
 午前中は、東京大学駒場キャンバスを見学。ビルの6階ぐらいの高さのある本館時計台にも登らせてもらいました。(この時だったらパニックだったと思います)。
旧図書館の博物館の倉庫にも案内してもらったのですが、これも3階ぐらいでしたが、鉄の階段が少し恐いところでした。(この時だったら怪我人が出たと思います)。
 キャンバス建学を終え、食事をすませて、午後は日本民藝館の建学です。
日本民藝館で学芸員の方からいろいろ説明を聞き、各自で展示を見ていた時に、揺れが来ました。
 大きな揺れでした。
 係の人が「すぐ出てください。前の駐車場の所に集合してください」と言います。
 ふらふらします。
 やっと出ても、道が動いています。大丈夫なのかと心配になります。
 展示のある日本民藝館本館の玄関前は、西館で長屋門の柳宗悦邸です。元は宇都宮の豪農の建物なので、屋根が大谷石で出来ています。これは重そうで、それが揺れています。恐かったです。
 長い揺れでした。
 みんな、これは大変と携帯で電話します。最初は通じていたようですが、ほとんどの人が通じません。
 「集合してください、点呼をとります」と名前を呼ばれます。
 その間でも余震。揺れます。電信柱がぐらぐらしていました。
 「はっきりしませんが、東北の方が震源地で、震度8.いくつとか言っています。東京は震度5強だ、そうです」と説明がありました。
 講師の先生が「日本民藝館はしっかりした耐震構造になっていますから、大丈夫です。落ち着きましょう。」と言われます。
 日本民藝館の人が出てきて、「企画展の人形のいくつかが倒れたぐらいで、あとは大丈夫でした」と話されました。
 でも、これから「どうしましょう」ということになりましたが、「これではおそらく電車が動いていないでしょうから、気持ちが落ち着いたら、もう少し見学させてもらいますか」ということになりました。
揺れが落ち着いたので、西館を見学させてもらうことになり入りました。
 もちろん「急いで帰りたい人は、帰ってください」と言われたのですが、帰る人はいませんでした。
 私は、電話がどうしても通じません。気になります。いっしょに少し西館を見たのですが、やはり気になります。
 私は、帰ることにしました。
 挨拶して駒場東大前駅に向かいましたが、途中、また揺れが来ました。まっすぐ歩けないです。近くにいる人が「電信柱のそばに行かない方がイイヨ、ものすごく揺れていたから」と大きな声で言ってくれます。
 駒場東大前駅に付くと、公衆電話の前に列だが出来ていました。
 時計を見ると3時半ごろでした。
 並んで、やっと電話しました。公衆電話だと通じるのです。
 荷物が落ちたようですが、何とか無事のようです。
 「電車が動いたら帰るから」
 甘かったです。その時は、こんな大きな被害を想像していなかったのです。
 待っていたら、「どうも電車は動かないようだよ」と声が聞こえます。
「澁谷まで歩こう」と言いう人がいます。
 私もついてひとまず澁谷へ行こうと考えました。
井の頭線の電車から降りる乗客
 道は、ほぼ井の頭線に沿っていました。途中で、地震で止まった電車から多くの人が降りる所を見ました。
 澁谷駅に着きました。もう4時をかるく過ぎています。
 バスは動いているというので、バス停に行ったのですが、そこは動けないほどの人人。どこでバスに乗れば家に帰れるのだろうと探しても、バスが分かりません。
 人の中を何とか動いていると、新宿西口行きがありました。これに乗ろうと決めたのですが、その最後尾がなかなか分かりません。
 やっと見つけて、3台ほど待って、やっと乗りました。
 途中でバスを待っている人は乗ることが出来ません。
 でもこのバスの運転手の方は親切で、バス停で必ず止まり、「こんな状態です。乗れません。ここからだと、新宿まで歩かれた方が良いと思いますよ」などと声をかけます。
 道は混んで時間がかかり、日が暮れてきました。
 やっと新宿駅に着くともう暗くなっていました。
 駅に入ると、多くの人が階段などに座っています。いっぱいの人です。電車の動くのを待っているのでしょうか。
 私は歩くつもりだったので、電車情報は聞かず歩きました。
 これが災害の時の帰宅難民というのでしょうか。多くの人が歩いています。私は逆コースなので、ぶつかってばかりです。
 車道は危ないし、歩くのも大変でした。
 家に帰ると、もう8時近くになっていました。
 多くのモノが落ちて散らばっていました。
 家人に怪我がなくて本当に良かったです。
 ところがテレビを見ると、大変なことになっていました。
 津波の映像など、こんなことあるのか、と思います。
 恐ろしいほど多くの人命が失われ、行方不明になっています。

「新宿中村屋に咲いた文化芸術」

 新宿歴史博物館で、戦前「新宿中村屋」に集った文化人・芸術家らとその作品を紹介する企画展「新宿中村屋に咲いた文化芸術」を開催しています。
 彫刻家の荻原碌山、画家の中村彝、歌人の会津八一といった人たちの絵画・彫刻など約50点が展示されています。
 歴史博物館での作品展示なので、美術館での鑑賞とはひと味違った感じが出ています。
 それは、中村屋に集った芸術家や文化人のグループは「中村屋サロン」と言われますが、そのサロンの雰囲気やそこで渦巻いた人間ドラマといった、エピソードが感じられるからです。
中村屋 明治42年新宿店
 中村屋は、明治34年(1901)に、現在の文京区本郷の東京大学正門前に、相馬愛蔵・良(黒光)夫妻によって、中村屋というパン屋が創業されたことに始まります。
 相馬愛蔵・黒光については、またふれる機会があると思いますので、パンの話を1つ。
  中村屋は、創業以来、独創的なパン・食品を作り続けました。
  明治37年(1904)にはシュークリームをヒントにクリームパンを考案しました。クリームパンは、中村屋から生まれたのです。
 ちなみに、あんパンは 銀座の木村屋です。明治8年発売です。日本の3大菓子パンのジャムパンも木村屋でした。
 中村屋クリームパン
写真は、今の中村屋のクリームパンです。グローブ型になっています。でも出来た時は、
"柏餅型"(中村屋の人の表現)だったようです。いつの頃か、クリームパンと言えばグルーブ型、に定着して行きました。
 そうした相馬夫婦の努力によって、パンは売れ、店を広げることになりました。そこで出店したのが新宿です。
 明治42年(1909)9月に 新宿(現在の本店のあるあたり)に移転し各種菓子や缶詰等の製造販売も始めます。
 その新宿移転後、中村屋には多くの芸術家、文人、演劇人が出入りするようになります。「中村屋サロン」の始まりです。
 相馬愛蔵は、安曇野の旧家の出身です。
 同じ、安曇野出身の作家 臼井吉見が、相馬夫妻の生涯を全5巻からなる長編小説『安曇野』(筑摩書房)として上梓したのは昭和40年代でした。
 臼井吉見は各地での講演活動の中で、中村屋に多くの芸術家が集い、文人が出入りした様を「まるで中世ヨーロッパのサロンのようだった」と表現します。
 ここに端を発して、「中村屋サロン」という言葉が生まれました。
 そのように「中村屋サロン」という言い方は後に出来たものですが、まさに「サロン」の雰囲気です。
 (かつて、安曇野に憧れて、旅行を企画したことがあります。その時、臼井吉見の『安曇野』(筑摩文庫)を読まなければ、と思い、2巻までなんとか読んで、そこで、旅行が来てしまい、結局2巻で終わってしまいました。今も2巻が本棚にあります。今度は全巻読もうと思ったのですが、あいにく文庫は絶版になっていました。)
 碌山、中村彝といった作家と中村屋と相馬黒光、その娘俊子との関係など、(不定期になりますが)少し記してみたいと思います。

旧前田侯爵邸(駒場公園)

 目黒区主催の「目黒建築めぐり」という講座があり、その中の駒場公園にある旧前田侯爵邸の見学に参加しました。
 渋谷から井の頭線で二つ目の「駒場東大前」で下車し、西口より約10分位歩きます。
 ここは、かつて、駒場の東京帝国大学農学があった所です。今でも東京大学教養学部がありますが。
 そういえば東京大学と加賀の前田家とは深い縁があるのだなと思います。
 赤門で有名は東京大学があるのは本郷です。
 江戸時代、加賀の前田家の上屋敷は、その本郷にありました。
 その本郷の屋敷が、明治4年(1871)に東大になったのです。でも当初は全部、東大に差し出したわけではありません。前田侯爵家の屋敷も本郷に残っていました。(記録によると103,822坪の内の9割弱が東大。1割強の12,670坪が侯爵邸だったようです)
 ところが東大がの学科や受講生が増え、だんだんと手狭になり、大正15年、駒場の東京帝国大学農学部の土地4万坪と地続きの代々木演習林の敷地の一部1万余坪とを、本郷前田邸の土地と等価交換しました。
 そして、旧加賀百万石前田家の第十六代当主前田利為氏の本邸が、この駒込に、昭和4年(1929)、欧州建築の粋をあつめて建築されたのです。
旧前田侯爵邸
 設計は、塚本靖東京帝国大学教授、高橋禎太郎技師が担当し、外国の貴賓を迎え入れうる洋館として、駒場の田園の野趣にあわせたイギリス・チューダー式がとりいれられました。チューダー様式とは、16世紀イギリスのチューダー王朝期の様式で、イギリス後期ゴシック様式を簡略化したものです。玄関ポーチの偏平アーチにその特徴をみせています。外観は、当時流行した長手のスクラッチ・タイルを貼っています。
 当時東洋一の邸宅と称せられていたようです。
旧前田侯爵邸 和館の門
 続いて昭和5年(1930)、すぐそばに書院づくりの和館を建設し、洋館と渡り廊下で繋ぎました。
 洋館が生活と接客。和館はもっぱら接客に使われていました。これは、前田侯爵がロンドン駐在武官であったことから、外人客接待用に建てたとも言われています。
 この建物は、第二次大戦中の前田侯爵が(昭和和17年)戦場視察の途上、ボルネオ・パトウ岬沖合上空で非業の死を遂げられ、一時私人の手に渡り、終戦によりアメリカ極東軍司令官の官邸として接収されました。
 昭和39年(1964)には東京都の所有となり、昭和42年(1967)に、東京近代文学博物館が設置されていました。そのころ来たはずのですが、あまり覚えていません。民芸館とここの近代文学博物館、そして駒場公園と、とてもすてきな所で何度か来たのですが。近代文学博物館としては、平成14年3月にやめています。石原都知事の意向だったと思います。
 前田家別亭の1つが鎌倉にありますが、ここは鎌倉文学館になっています。ここの建物も見事ですが、薔薇の時期、とてもお庭がきれいです。
旧前田侯爵邸 南側
旧前田侯爵邸 南側の彫刻
南側からの、バルコニーの外部の隅に2箇所付いていた羽の生えた動物。ちょっと不気味な感じ。
内部は王朝風に装飾が施され、各室はイタリア産大理石によるマントルピースや角柱が見られます。
旧前田侯爵邸 寝室
寝室です。
階段の手摺などにもいろいろな装飾がされています。
旧前田侯爵邸 和館の書院
和館には茶室と和室があり、お茶会などに利用できます
旧前田侯爵邸 庭の琴柱型の灯籠
旧前田侯爵邸 庭の雪吊り
日本庭園もつくばいがあったり、雪見灯篭があったり、茶室の前には水琴窟もあるようです
旧前田侯爵邸 洋館と和館のつなぎ
洋館と和館は廊下でつながっています。
旧前田亭 今は使われていないヨーロッパ式水槽
新宿駅の東口駅広場に馬水槽があります。馬車が全盛であった19世紀のヨーロッパで、町の辻々に設けられ、馬や犬猫などの水飲み場として使用されていました。明治34年ごろにロンドン水槽協会から東京市に寄贈されたものです。それとよく似ています。
これもイギリスから来たのかもしれません。でもこれには、馬が飲むように水槽がついていないので、人間用の水槽かもしれません。

「国立マイセン磁器美術館所蔵 マイセン磁器の300年」展

 サントリー美術館で開催の「日独交流150周年記念・国立マイセン磁器美術館所蔵 マイセン磁器の300年」展にも行きました。
 NHKテレビの「日曜美術館」で、「魅惑の"白い黄金"マイセン磁器300年の軌跡」という番組を見て、これはぜひ見たいと思いました。
 17世紀のヨーロッパで「白い黄金」と呼ばれて、各国の王侯貴族たちが争ってその収集に情熱を傾けたのが、東洋の磁器でした。
 収集はしても、その製法はどうしても分かりませんでした。もし磁器を作り出せれば、ばく大な富と力を手に入れることができます。
 そう考えたザクセン選帝侯兼ポーランド王の「アウグスト強王」が、若い錬金術師を城に幽閉し磁器作りを命じます。
 何度も失敗を繰り返し、6年の歳月をかけて造り上げたのが、ドイツの「マイセン磁器」でした。錬金術師の名前は、フリードリッヒ・ベットガーです。
 ところが王の欲望は、もっと膨らみます。
「柿右衛門磁器の様な赤い色はできないのか」「磁器で飾られた動物園を作りたい」
 大広間に磁器製の大型動物の彫刻を並べた宮廷動物園を作りたいと考えます。挑戦したのは彫刻家ヨハン・ヨアヒム・ケンドラーです。
 こうして、300年にわたるマイセンの黄金の歴史の幕が開けたのでした。
 年代追ってじっくりと見ることができます。
 きれいな陶磁とともに、130cmもの高さを誇る磁器による動物たちも並びます。
 会場で気になった作品を2点。
「スノーボール貼花装飾ティー・ポット」 
「スノーボール貼花装飾ティー・ポット」 
 原型:ヨハン・ヨアヒム・ケンドラーに帰属 18世紀中頃 製造:18世紀中頃
 中国陶磁器や日本の伊万里焼の写しからスタートしたマイセンが、「スノーボール」装飾を作りました。スノーボールとは、小花が紫陽花に似た手まり状の房をつくるスイカズラ科ガマズミ属の低木のことだそうです。手製の小花をひとつひとつ磁器の表面に貼り付けていきます。
 陶板画<br />「横たわる若い女性」
陶板画「横たわる若い女性」 原画:フランソワ・ブーシェ 
 原型:19世紀前半 製造:19世紀前半
 ロココ時代の画家、フランソワ・ブーシェの有名な作品を陶板にしています。
絵付けの色は焼成によって変わりますから、このような微妙な色彩まで再現するのは
とても高度な技術だということです。まるで描いたみたいです。

「仏教伝来の道 平山郁夫と文化財保護」展

 上野の東京国立博物館で開催されている「仏教伝来の道 平山郁夫と文化財保護」展に行きました。
 この展覧会は企画が素晴らしいと思いました。
 2部で構成されています。
 1部では、平山郁夫さんが数多く訪れた中国やアフガニスタン、カンボジアなどから出土した、仏教にまつわる文化財が紹介されています。
 2部では、奈良・薬師寺の玄奘三蔵院の壁画、その絵が本尊とされている『大唐西壁画』全7景が展示されていました。
 そうして感じたのは、この展覧会は平山郁夫さんの生き方そのものが、表現されていているなということです。
 第1部、「平山郁夫 取材の軌跡」です。
 大きな地図があり、その足跡の広さ、そして百何十回に及ぶ取材の深さが感じられます。
 第1章は、インド・パキスタン マトゥーラー・ガンダーラ
 第2章は、アフガニスタン バーミヤン
 当時大変話題になったイスラム過激派タリバンによるバームヤン大仏の破壊。テレビにも爆破の模様が写りまし<た。タリバン・イスラム原理主義者の手によって行われたバーミアン石窟の破壊はあれは2001年だったのですね。つい先日のことのように思えます。
 この破壊は、平山郁夫さんにとっても、大きな意味を持ちました。
 会場のバーミアンの大石仏を描いた絵と破壊された石窟の状態の平山郁夫さんの2点の絵が展示されていました。破壊の石窟を見ると、胸が痛くなりました。
「破壊されたバーミアン大石仏」
 平山郁夫さんは、バーミヤン大仏破壊をきっかけに文化財保護の運動をそれまでバラバラで活動していたものをまとめることをしました。
 すごいというか、そうだと思ったのは、この破壊されたバーミヤン大仏を復活をしようという意見が多かったところを、平山郁夫さんは復活に反対されました。破壊されたその状態が現実で、それをそのまま残すところに意義があると言われています。破壊された歴史そのものを「文化財」として残しておこうということだと思います。その痛みも忘れないようにしたいです。
 平山郁夫さんは、こうした文化財を保護しながら、自ら美術館を建設して、公開、展示するとともに諸外国の博物館、美術館への支援を継続して行っていたそうです。
 そして文化財を預かり、返せる時期が来たら返すのだそうです。
 第3章で中国の西域に入ります。
 敦煌からは彩色の鮮やかに残る「菩薩立像幡」や「地蔵菩薩立像幡」出展されていましたが「敦煌三危」「敦煌鳴沙」などの平山郁夫作品もその展示に見事に生かされていました。
 第2部の2部の会場に入るとすぐに、奈良薬師寺館主 山田法胤師の言葉がありました。
 「平山先生の作品には、その技法、構図、構想が明確になるライティングを努めました。『大唐西壁画』は薬師寺玄奘三蔵院伽藍の本尊ではありますが、ここでは宗教や美術という枠組みにとらわれず、主体的に作品と向き合って戴きたい」。 
『大唐西壁画』は、玄奘三蔵法師の生き方と自分の人生を重ね合わせながら、玄奘三蔵法師の伝来の道、シルクロードを130回も歩き、20年かけて描いたという大作です。
 玄奘三蔵法師が、唐の都・長安を出発し、インドのナーランダに着くまでの経路に従い、7つの景色で構成されています。
 しかもそれは、壁画全体で、1日の始まりから終わりまでを表し、玄奘三蔵法師の旅の流れと1日の時間の流れが重なる構成となっています。
 最後の部屋には、制作時のスケッチと下図が展示されています。
 私は、平山郁夫さんのスケッチがとても好きです。この展示とても良かったです。
 ついでに、日本画を制作する際には下図にマス目を引きます。それに合わせて本画では引き伸ばすのです。下図のマス目がきちんと見えました。
 『ナーランダの月・インド』の下図と本画は違ってしました。それは月が下図の右上から左上へ移っていました。
 この展覧会は、文化財(仏教美術)、文化財保存活動、画家平山郁夫という3体がみごとに融合し、展示も1つ一つ大事に展示されていて、考えさせられ、同時に楽しく観ることができました。
平山郁夫筆「大唐西域壁画」より「ナーランダの月・インド」

「THE LAST MESSAGE 海猿」と「踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!」

 映画を映画館で見なくなってきています。でも、映画は嫌いではありません。
 久しぶりに目黒シネマへ行きました。
 「THE LAST MESSAGE 海猿」と「踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!」でした。
 「踊る大捜査線」と「海猿」のこれまでシリーズはすべて見ています。
 それでこれも見ておきたいと思ったのです。封切りは去年の春と秋だったはずですが。
 踊る大捜査線ポスター
「踊る大捜査線」はテレビからのファンで、前の作品は封切り時に見ました。
 今回のMOVIE3は、評判がよくなかったです。あまり入らなかったのではないでしょうか。
 今、テレビでやっている織田裕二のテレビドラマ「黒田康作」も面白いのですが、視聴率が上がりませんね。織田裕二の神通力も弱まったのかなと心配します。
 といっても、「踊る大捜査線」も当初のテレビでの視聴率はあまり高いものではなかった気がします。ネットでドラマが評判になり、それで映画になって大ブレークしたということがあったようです。
 有名になったセルフ「事件は現場で起きている」に象徴される、組織の本部に対しての現場で働くものの軋轢、そして最後に本部をギャフンと言わせる、それが大きなカタルシスになっていました。
 でもそれは、結局かなわないのでは、という現実視点が今回は入ってしまっているようで、そこが何かすっきりしない「不満足感」を残してしまったのではないかと感じます。
 それは、今回登場する機会が少なかった室井の描かれ方にはっきり出ています。現場に理解を示して、組織を上からトップダウン式に変えていこうという室井の信念は通じないのだということ。映画では、一応、室井が指示して青島が動き、事件が解決したように描かれていますが、どうみても旧態然とした組織を刺激するところまでいっていません。何か負けてしまった感があります。補佐官の小栗が現実的で、そちらが勝利したように見えます。
 もうひとつ、今回の新しい展開、青島が係長になったということ。これにも実は期待していたのです。中間管理職として、固い組織にも何らかの抵抗を見せてくれる期待がありました。
しかし、せいぜい「部下はいない、いるのは仲間だけだ」というメッセージだけでもうひとつ心に響いて来ません。それは、青島と「部下」とのつながりがイマイチといった感じで、これまでの映画にあった人間的なつながりがかなり薄く感じられてしまったからです。
 と言っても、「踊る大捜査線」の青島は好きです。まだまだ映画を作って欲しいと思っています。組織に対しての、あたらしい展開を期待したいです。
 「つながり」という点では、一方の「海猿」はどうどうと見せます。
 結局、最後は助かるのだろうと思っているのですが、それでもハラハラしながら見てしまいます。
仙崎大輔(伊藤英明さん)が沈み行く巨大天然ガスプラント施設レガリアの中に取り残されて、その間、過去(今までのシリーズの場面)がフラッシュバックして映し出され、これはあるいは、仙崎大輔が死んでしまって、本当にラストメッセージになるのかな、と思わせることもありました。
 とにかく、ご都合主義的なところも多いですが、テーマも、国家プロジェクトの将来が優先か、人命が優先なのかといった、どちらかと言えば、ありきたりなのですが、それだけ分かりやすく、映画に注入できるということかもしれません。
 でも、出演者のみなさん、若いですが、過去の作品から見ると、歳を重ねているな、とやはり感じます。
 9時45分から14時25分まで、久しぶりの映画、少し疲れを感じました。

ユサンという木からマツボックリが落ちて

 恥ずかしながら、花の名前も木の名前も知りません。それなのに、自然観察の会に入っています。花を見、樹木を見して歩くことが今は好きです。
 主に新宿中央公園と林試の森公園、そして目黒自然教育公園に行きます。
 その時、記憶に残したい花や木を記録しておきたいと思っています。
 林試の森で、ユサンという木から落ちたマツボックリを拾いました。(左から2番めは上から。下の丸いのはフウの実です)。
 ユサンのマツボックリとフウの実
 きれいに整ったマツボックリです。
 ユサンという名前は、何か韓国の人の名前のような気がします。
 別名がアブラスギと言います。アブラスギ、油杉、ユサンなのですね。
 大正初期に台湾から渡来したそうです。材に油成分が多いことからアブラスギと言われます。
 スギというのですが、松の仲間なのですね。
 だから、落ちていたのは、マツボックリです。
 ユサンの木
 ユサンの葉は上の方でよく見られませんでしたが、モミのようにもう少し太めの細長い葉でした。
 ユサン、いろんな木がある林試の森でも珍しい樹木のようです。
ユサンの案内板

銀世界稲荷の白い梅

銀世界稲荷
 新宿超高層ビル群中の西南、新宿中央公園の横に、52階の新宿パークタワーがあります。パークタワーは都庁と同じく丹下健三が設計した超高層ビルです。
その一郭に隠れるように銀世界稲荷があります。新しいですが、清楚でかわいらしい祠です。お賽銭箱もないですね。
 かつて梅の名所だった「銀世界」の梅があるのでちょと行ってみました。
 「銀世界」とは一杯につけた梅の白い花が雪のようだったから名付けられたとのことで、、最初知らない時は、どこかの大きなお店の名前かと思いました。
 昔に帰ってみます。
 昭和42年まで、ここには、大きなガスタンクがありました。
 ガスタンクができたのは明治45年です。。
 その前、この場所一帯は「銀世界」と名付けられた梅の名所でした。
 江戸時代です。
 梅が林をなして、将軍御目留の梅、御腰掛の松などといわれる由緒ある樹木がありました。明治維新前には、日本橋本町御影堂の所有となって、筵を用意してやって来る客たちに貸席を設け、屋敷守が手作の土産物「梅漬」を販売したりしました。
 梅の時期は、たいそうなにぎわいで、梅下に腰を下ろして、白梅をめでながら瓢酒をくみかわしたようです。
 ちょうど、江戸の町から日帰りで観光するのに適当な距離です。そばには十二社の池、熊野神社もあります。
 そして明治になって、持ち主が船越男爵、二条公爵などに変り、俗に新町の梅屋敷と言われていました。。
 明治30年代になると、淀橋浄水場が作られ、敷地の北端部、今の新宿中央公園の側は新設水道に沈んでしまいます。でもまだ銀世界は残り、入口正面に琉球人棟応昌が書いた「銀世界」の三字碑が建てられていました。
 ところで、江戸時代、この銀世界の隣は館林藩秋元家の角筈抱屋敷でした。
 この秋元家へ古文書を筆写する内職のために小説家田山花袋が通っていました。
 田山花袋の家は代々下級武士として、館林藩秋元家に仕えていたのです。
 作品『時は過ぎ行く』に、この近隣の様子を書いています。
 「梅が白く垣根に咲く時分には、近くにある名高い郊外の梅園に大勢東京から人が尋ねて来た。瓢箪などを持って来て、日当たりの好い芝生で、酒を酌んだりなどする人達もあった。梅の多い奥の邸に間違えて入って来て、『や、ここは銀世界じゃないのか。それでも梅が沢山あるじゃないか』など言って、門の中から引き返して行くものなどもあった。」
 梅見で賑わっている様子が目に見えるようです。
 ガスタンクができた明治44年、その梅は芝公園へ移されました。
 そして、昭和40年に淀橋浄水場は廃止され、その後、高層ビルの立ち並ぶ都心と大変貌を遂げていきます。
 梅屋敷跡にも、52階の超高層ビル「新宿パークタワー」が建設されました。
 でも、銀世界の名残を残そうと、こうした銀世界稲荷がつくられ、銀世界の梅の何本かが植えれました。
 中央公園にも、芝公園から里帰りした梅が少しですが植えられています。
 少し小ぶりで寂しいですが、昔を偲ぶよすがとしたいです
銀世界稲荷の梅景色
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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