「状況劇場」の赤テント
新宿の花園神社の前を通ったら、「劇団唐組」のポスターがありました。
ひょっとして、と境内へ入ってみると、赤テントがはられていました。

なつかしい赤テントです。
もう40数年前になります。昭和42年でしたか、3年ぶりに東京に帰ってきて、とにかく見たかったのが、「状況劇場」の赤テントでした。
その前は大阪にいて、東京の情報がとても気になり、そのころ東京で流行っていた、アングラに興味を持ちました。
東京の下宿は、阿佐ヶ谷でした。
阿佐ヶ谷は、そのころの「状況劇場」が住まいしていた所です。そこでも良いからと人に頼んで下宿を探してもらったので、偶然でしたが阿佐ヶ谷の住人になり、「状況劇場」が粗大ゴミの日、演劇に使う道具を探しに歩くということを聞いていたので、会えないかなと、朝、うろうろすることもあいていました。
ある時、それこそ得体の知れない一軍に出会い、ドキドキしました。
団体で歩いていました。着物の着流しといった出で立ちでした。
早速、花園神社に行き、たしか『腰巻お仙 -義理人情いろはにほへと篇』を見ました。
内容は覚えていません。
ただ、酔っぱらいの観客が卑猥なヤジを飛ばしていたので、我慢できなくなった唐十郎が出てきて、喧嘩騒動になりました。そのことは覚えています。
テントの中は、椅子でなく小さなフトンのようなもので座ったような気がします。
異常に興奮していたことは確かです。
その夜、下宿に帰り、大阪で知り合った人物に絵入りの手紙を書いて送りました。
「とうとう見たで!『状況劇場』」
『腰巻お仙』は本も読んだのですが、理解はしていません。
ただ全体から醸し出されるあのドロとした印象が、たまらなかったのです。毒がありました。
役者では麿赤児、四谷シモンという人は特に印象に残っています。
その後、四谷シモンは人形作家だということを知って驚きました。
また、大阪にいるとき、デザインに凝っていて、粟津潔とか、横尾忠則などのファンでもありました。だから、横尾忠則の『腰巻お仙』のポスターたまらなく好きでした。

なんだか、そういうことがすごくわくわくし、ざわざわしていた、あれが、1つの青春だったのだなと今は思います。
とにかく、花園神社の赤テント懐かしかったです。
ひょっとして、と境内へ入ってみると、赤テントがはられていました。

なつかしい赤テントです。
もう40数年前になります。昭和42年でしたか、3年ぶりに東京に帰ってきて、とにかく見たかったのが、「状況劇場」の赤テントでした。
その前は大阪にいて、東京の情報がとても気になり、そのころ東京で流行っていた、アングラに興味を持ちました。
東京の下宿は、阿佐ヶ谷でした。
阿佐ヶ谷は、そのころの「状況劇場」が住まいしていた所です。そこでも良いからと人に頼んで下宿を探してもらったので、偶然でしたが阿佐ヶ谷の住人になり、「状況劇場」が粗大ゴミの日、演劇に使う道具を探しに歩くということを聞いていたので、会えないかなと、朝、うろうろすることもあいていました。
ある時、それこそ得体の知れない一軍に出会い、ドキドキしました。
団体で歩いていました。着物の着流しといった出で立ちでした。
早速、花園神社に行き、たしか『腰巻お仙 -義理人情いろはにほへと篇』を見ました。
内容は覚えていません。
ただ、酔っぱらいの観客が卑猥なヤジを飛ばしていたので、我慢できなくなった唐十郎が出てきて、喧嘩騒動になりました。そのことは覚えています。
テントの中は、椅子でなく小さなフトンのようなもので座ったような気がします。
異常に興奮していたことは確かです。
その夜、下宿に帰り、大阪で知り合った人物に絵入りの手紙を書いて送りました。
「とうとう見たで!『状況劇場』」
『腰巻お仙』は本も読んだのですが、理解はしていません。
ただ全体から醸し出されるあのドロとした印象が、たまらなかったのです。毒がありました。
役者では麿赤児、四谷シモンという人は特に印象に残っています。
その後、四谷シモンは人形作家だということを知って驚きました。
また、大阪にいるとき、デザインに凝っていて、粟津潔とか、横尾忠則などのファンでもありました。だから、横尾忠則の『腰巻お仙』のポスターたまらなく好きでした。

なんだか、そういうことがすごくわくわくし、ざわざわしていた、あれが、1つの青春だったのだなと今は思います。
とにかく、花園神社の赤テント懐かしかったです。
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