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ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考でなければ、いけません

小泉節子の『思い出の記』の中で、とても感動するのは、つぎの箇所です。
「私が昔話をヘルンに致します時には、いつも始めにその話の筋を大体申します。面白いとなると、その筋を書いて置きます。それから委しく話せと申します。それから幾度となく話させます。私が本を見ながら話しますと『本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考でなければ、いけません』と申します故、自分の物にしてしまっていなければなりませんから、夢にまで見るようになって参りました。
 話が面白いとなると、いつも非常に真面目にあらたまるのでございます。顔の色が変りまして眼が鋭く恐ろしくなります。その様子の変り方が中々ひどいのです。たとえばあの『骨董』の初めにある幽霊滝のお勝さんの話の時なども、私はいつものように話して参りますうちに顔の色が青くなって眼をすえて居るのでございます。いつもこんなですけれども、私はこの時にふと恐ろしくなりました。私の話がすみますと、始めてほっと息をつきまして、大変面白いと申します。『アラッ、血が』あれを何度も何度もくりかえさせました。どんな風をして云ってたでしょう。その声はどんなでしょう。履物の音は何とあなたに響きますか。その夜はどんなでしたろう。私はこう思います、あなたはどうです、などと本に全くない事まで、色々と相談致します。二人の様子を外から見ましたら、全く発狂者のようでしたろうと思われます。」


『怪談』などの作品は、小泉節子との共作と言えるでしょう。
日本語があまりできない夫と英語があまり話せない妻、2人の生活はどうだったのだろうか、と思います。
でもこういう会話があって、作品に結晶されていったのdしょう。
私は、ときどき、まち歩きの案内をしています。そのとき思うのは、メモや資料を見ながらではダメだということです。
おそらく、資料を丸覚えしで話すのもよくないと思います。
そんなことを考えているので、『ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考でなければ、いけません』は身にしみます。
自分のものにして、やっと、人に話せる、そうなのだ、と肝に銘じなければと思うのです。
ブログでも自分のものになったいないと、アップしてはいけないでしょう。
反省の意味を込めて、小泉節子の『思い出の記』を引用、載せておきます。
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小泉八雲の妻、小泉節子の『思い出の記』

富久町案内図
赤の現在地が、小泉八雲の富久町の旧居跡です。その東(図ではすぐ右上)に自證院圓融寺があります。江戸時代には大きな境内がある「瘤寺」と呼ばれた寺院でした。明治の初め、明治維新政府の社寺上地令により境内地と墓地の一部を残して寺領の大半は、没収されてしまいました。
それでも、八雲が住み始めたころはまだ、たくさんの木が残っていたようです。
自証院入り口
小泉八雲の妻、小泉節子が著した『思い出の記』があります。
文中、ヘルンさんとあるのが小泉八雲さんです。独特の語り口で、例えば、ヘルンさんの会話の表現など、ヘルンさんの声が聞こえてくるようです。
『思い出の記』から富久町のころの話を引用させてもらいます。

 「 神戸から東京に参りましたのは、二十九年の八月二十七日でした。大学に官舎があるとか云う事でしたが、なるべく学校から遠く離れた町はずれがよいと申しまして、捜して頂きましたけれども良いところがございませんでした。
 この時です、牛込辺でしたろう。一軒貸家がありまして、大層広いとの話で、二人で見に参りました事がございました。二階のない、日本の昔風な家でした。今考えますと、いずれ旗本の住んで居られたと云う家でしたろうと存じます。お寺のような家でした。庭もかなり広くて大きな蓮池がありました。しかし門を入りますから、もう薄気味の悪いような変な家でした。ヘルンは『面白いの家です』と云って気に入りましたが、私にはどうもよくない家だと思われまして、止める事に致しましたが、後で聞きますと化物屋敷で、家賃は段々と安くなって、とうとうこわされたとか云う事でした。この話を致しますと、ヘルンは『あゝ、ですから何故、あの家に住みませんでしたか。あの家面白いの家と私思いました』と申しました。
 富久町に引移りましたが、ここは庭はせまかったのですが、高台で見晴しのよい家でございました。それに瘤寺と云う山寺の御隣であったのが気に入りました。昔は萩寺とか申しまして萩が中々ようございました。お寺は荒れていましたが、大きい杉が沢山ありまして淋しい静かなお寺でした。毎日朝と夕方は必ずこの寺へ散歩致しました。度々参りますので、その時のよい老僧とも懇意になり、色々仏教の御話など致しまして喜んでいました。それで私も折々参りました。
 日本服で愉快そうに出かけて行くのです。気に入ったお客などが見えますと、『面白いのお寺』と云うので瘤寺に案内致しました。子供等も、パパさんが見えないと『瘤寺』と云う程でございました。
 よく散歩しながら申しました。『ママさん私この寺にすわる、むつかしいでしょうか』この寺に住みたいが何かよい方法はないだろうかと申すのです。『あなた、坊さんでないですから、むつかしいですね』『私坊さん、なんぼ、仕合せですね。坊さんになるさえもよきです』『あなた、坊さんになる、面白い坊さんでしょう。眼の大きい、鼻の高い、よい坊さんです』『同じ時、あなた比丘尼となりましょう。一雄小さい坊主です。如何に可愛いでしょう。毎日経読むと墓を弔いするで、よろこぶの生きるです』『あなた、ほかの世、坊さんと生れて下さい』『あゝ、私願うです』
 ある時、いつものように瘤寺に散歩致しました。私も一緒に参りました。ヘルンが『おゝ、おゝ』と申しまして、びっくり驚きましたから、何かと思って、私も驚きました。大きい杉の樹が三本、切り倒されて居るのを見つめて居るのです。『何故、この樹切りました』『今このお寺、少し貧乏です。金欲しいのであろうと思います』『あゝ、何故私に申しません。少し金やる、むつかしくないです。私樹切るより如何に如何に喜ぶでした。この樹幾年、この山に生きるでしたろう、小さいあの芽から』と云って大層な失望でした。『今あの坊さん、少し嫌いとなりました。坊さん、金ない、気の毒です、しかしママさん、この樹もうもう可哀相なです』と、さも一大事のように、すごすごと寺の門を下りて宅に帰りました。書斎の椅子に腰をかけて、がっかりして居るのです。『私あの有様見ました、心痛いです。今日もう面白くないです。もう切るないとあなた頼み下され』と申していましたが、これからはお寺に余り参りませんでした。間もなく、老僧は他の寺に行かれ、代りの若い和尚さんになってからどしどし樹を切りました。それから、私共が移りましてから、樹がなくなり、墓がのけられ、貸家などが建ちまして、全く面目が変りました。ヘルンの云う静かな世界はとうとうこわれてしまいました。あの三本の杉の樹の倒されたのが、その始まりでした。 (後略)  青空文庫より

もう一度、文庫を読んで「津和野」を思う

もっと若い頃、旅行に行くとき、内田 康夫 の浅見光彦シリーズを読んで行きました。遠野、軽井沢、天城、倉敷、小樽、若狭などなど。
津和野行ったので、なんとなく、内田康夫(昭和59年10月初版)の『津和野殺人事件』(光文社文庫) を読んでみようと思い、買ってきました。
津和野殺人事件
このところ小説が読めなくなっているので、どうかな、と思ったのですが、やはり、なかなか物語に乗れなかったのですが、津和野については、いろいろおもわせてくれました。
最近は、まち歩きの資料としての本をつかみ読みをしている状態で、この小説でもそのような読み方です。
最初に染井霊園がでてきますが、この部分も歩いてみようという思いで読みました。
津和野で興味深いのは「乙女峠とキリシタン」です。原爆で有名な永井隆の本からの紹介という形で分かりやすく書いてあります。
残念ながら、今回の旅では、乙女峠には行きませんでした。殿町の津和野カトリック教会(写真はその中)でその話を少しだけ聞きました。
教会の中
私は、津和野に行ってから、<神仏分離>のイデオロギーがこの津和野の人から出たと言うところに、引っかかっています。
大筋で書くと次のようです。
明治の新政府は、御一新を「王政復古」と規定し神祇官を太政官より上位に置いて、<祭政一致>という古代の幻想を政治に敷こうとしました。
この新政府の王政復古イデオロギーの準備と確立に加担したのが、実は津和野藩でした。
津和野藩には、これは見学した養老館という藩校があり、嘉永期から国学が重んじられていました。とくに幕末には大国隆正や福羽美静といった平田国学直流の門下生が教授となっていました。
そうした空気ができあがっていたなか、藩主の亀井茲監は「封内衰類ノ仏寺ヲ廃合シ、釈侶ノ還俗」を敢行し、総霊社を設立して葬祭を神社主導でとりしきることを決めた。これは全国にさきがけた祖霊社のモデルとなりました。
そうした津和野のグループが打ち出したのが、神仏分離で、実際に行われたのが廃仏毀釈という愚行で、キリスト教を邪教視する姿勢でした。
『津和野殺人事件』の背景になっている、36名もの殉教者を生んだ<乙女峠の切支丹殉難事件>もこの<祭政一致>の思想がなければ、起こらなかったことでしょう。
観光地としての美しくどこか懐かしい町並みの津和野の影に、一抹の幽愁が漂うのです。
『津和野殺人事件』の次の言葉も感慨深いです。
「津和野は過疎で困っているんです。以前は1万何千人いたのに、今は8千人しかいないのですから」「店があっても後継者がいないんですね。町を歩いていても、子どもの姿が少ないでしょう。若い夫婦がいないんです」
「でもいいところなのに」
「外からくるといいですけど、中にいるとやっぱ、田舎だから。それに、津和野はまじめな町だし」
これは、多くの町にあてはまります。私のふるさともまさにそんな感じです。
「観光」というのは何かな、とそれも考えてしまいます。
文庫本の表紙は、本に出てくる赤いトンネルこと、太鼓谷稲荷神社の鳥居です。これもまだ行ってません。

『平和へ』 キャサリン・スコールズ 作 上遠恵子 訳 田沼武能 写真

 『沈黙の春』『センス・オブ・ワンダー』のレイチェル・カーソンの翻訳で知られる、上遠恵子さんにお会いすることができました。
 いろいろとお話くださって、すてきな時間がもてました。
 中で、「大切に思っていることは、平和の心を持つことです」と話されました。
 一緒に行っていた人が、『平和へ』という絵本ですね、大事にしています、と言いました。
『平和へ』を図書館で借りてきました。本屋さんでは見つかりませんでした。
平和へ
 『平和へ』キャサリン・スコールズ 作 上遠恵子 訳 田沼武能 写真、岩崎書店発行です。絵ではなく、写真です。初版は、1995/04/30 でした。平成7年です。
 戦争とかが描かれるのでなく、「平和の心」が大切ということを語っています。
 細い道を車が両方から来て道をふさいでしまう。そんな時、前に進むことばかり考えていたら、動けないです。押し合いをすれば、それは戦争です。
 「そんなとき、どっちかが、うしろにさがって、道をゆずったら、
 うまく すれちがえるのではないかな。」

 うしろのさがる、そういうことを思うのが「平和の心」なのでしょう。
 
 ぼくは思うんだ。
 たくさんのほしいもののなかで いちばんたいせつなものは、
 「心のなか」の平和じゃないかって。
 いろいろな学問や宗教も、結局は、
 そういう「心のなか」の平和を教えてくれるものなんじゃないかな。

 戦争と戦争のあいだにあるのが 平和ではない。
 また、なんにも起こらない おだやかなことが 平和ともいえない。
 平和は、ぼくたちの 心のなかに生きていて、
 大きく成長していくものなんだ。
 ぼくたちは、それをたいせつに、じょうぶな木のように 育てていこう。

 平和は ぼくたちの足もとから、
 ぼくたちとともに 歩みはじめるのだから。


 その前に、平和はみんなのちがいをみとめること、ということも出てきます。
上遠さんは、キャサリン・スコールズさんが書いていないこともいくらか入っているのですのよ、とおっしゃっておられました。
深い、多くの人に読んでもらいたい絵本です。

 この絵本に感動していた日、「日本政府が、沖縄県の尖閣諸島を国有化した」ニュースがありました。中国や台湾は、「『購入』は違法で無効」と抗議です。領土問題、昔なら、即戦争だったでしょう。「平和」な解決、どうしたらできるのだろうと思います。「平和へ」でありたいです。

『センス・オブ・ワンダー(The Sense of Wonder)』

 レイチェル・カーソン日本協会理事長の上遠恵子(かみとお けいこ)さんにお会いできるかもしれないのでレイチェル・カーソンの『センス・オブ・ワンダー 』を読み返しました。
[センス・オブ・ワンダー
 この本の翻訳が上遠恵子さんです。
 レイチェル・カーソンは、歴史を動かした本と言われる『沈黙の春』を著した人です。
 1958年(昭和33年)の1月のことでした。友人であるオルガーからの一通の手紙が届きました。そこには、役所が殺虫剤DDTの散布をしてから、いつも家にやってきていたコマツグミがつぎつぎに死んでしまったということが書かれていました。
 この日から4年間、レイチェル・カーソンはいっさいの仕事を捨てて、農薬禍のデータを全米から集め、これを徹底分析して、人類の過剰技術問題に取り組んだのです。
 そして、この研究調査のプロセスのすべてを著したのが、『沈黙の春』(Silent Spring)です。出版は、1962年(昭和37年)でした。
この本は、世界中で農薬の使用を制限する法律の制定を促すと同時に、地球環境への人々の発想を大きく変えるきっかけとなりました。そして、今でも、環境に関心を持ったら、だれでも最初に読む本の1冊です。
 しかし、レイチェル・カーソンは、『沈黙の春』を書き終えたとき、癌を告知されていて、自分に残された時間がそれほど長くないことを知ります。
 そして最後の仕事として著したのが『センス・オブ・ワンダー(The Sense of Wonder)』だったのです。レイチェル・カーソンが残した遺言だ、と言われたりします。
 この本に描かれているは、レイチェル・カーソンが毎年、夏の数か月を過ごしたメーン州の海岸と森です。その美しい海岸と森を、彼女は彼女の姪の息子である幼いロジャーと探索し、雨を吸い込んだ地衣類の感触を楽しみ、星空を眺め、鳥の声や風の音に耳をすませました。その情景とそれら自然にふれたロジャーの反応などを、詩情豊かに描いています。
 センス・オブ・ワンダー(The Sense of Wonder)とは、レイチェル・カーソン自身の言葉によると「神秘さや不思議さに目を見はる感性」のことをいいます。
 「この感性は、やがて大人になると決まって到来する倦怠と幻滅、あるいは自然の源泉からの乖離や繰り返しにすぎない人工的快感に対する、つねに変わらぬ解毒剤になってくれるものである」そのセンス・オブ・ワンダーをもつことを、レイチェルはどうしても子供たちに、また子供たちをもつ親たちに知らせたかったのです。
 自然を見る目、そして感動する心が大切だということです。
 私自身のことを言えば、子どものころは引きこもりがちで家にいることが多く、花の名前も、樹木の名前も、昆虫の名前も知ろうとしないで大人になってしまいました。
それが、やっとこのころ目が覚め、自然のすばらしさに感動して「自然観察」に出かけています。しかし、常に名前を知らないコンプレックスはあります。その時、レイチェル・カーソンの次の言葉が、大変助けになっています。その言葉とは、「『知る』ことは『感じる』ことの半分も重要ではない」です。
 花の名前を覚えることは、あまり意味がない、覚えたらそれでお終いということになりがちです。名前を知ることよりも『感じる』=センス・オブ・ワンダー=「神秘さや不思議さに目を見はる感性」ことが大事だというのです。
 本当は、こういう感性、子どものころに育まなければいけないのですが、年をとってしまうともう子どもには帰れないので、まず『感じる』心を磨く努力をしています。
 もう少し引用します。
「『知る』ことは『感じる』ことの半分も重要ではないと固く信じています。子どもたちがであう事実のひとつひとつが、やがて知識や知恵を生みだす種子だとしたら、さまざまな情緒やゆたかな感受性は、この種子をはぐくむ肥沃な土壌です。幼い子ども時代は、この土壌を耕すときです。美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知なものにふれたときの感激、思いやり、憐れみ、賛嘆や愛情などのさまざまな形の感情がひとたびよびさまされると、次はその対象となるものについてもっとよく知りたいと思うようになります。そのようにして見つけだした知識は、しっかりと身につきます。消化する能力がまだそなわっていない子どもに、事実をうのみにさせるよりも、むしろ子どもが知りたがるような道を切りひらいてやることのほうがどんなにたいせつであるかわかりません。」
「センス・オブ・ワンダー」をもつことの大切さを、レイチェル・カーソンはどうしても子供たちに、そして、また子供たちをもつ親たちにも知らせたかったのです。
 私は親以上の年になってしまったのですが、センス・オブ・ワンダーを持ち続けたいと思います。
 この日本語版は、1996年(平成8年)に新潮社から発行さたものです。上遠恵子さんのすばらしい翻訳に加え、八ヶ岳に住む森本二太郎さんのカラー写真が添えられています。
 上遠恵子さんは、現在83歳だと思います。お会いできれば良いのですが
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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