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笹塚から代田橋まで、玉川上水跡を遡る。

笹塚駅から代田橋まで、玉川上水の跡を歩いてみました。流れとは逆のコースです。
笹塚駅南口を出て少し南に行くと橋があります。
●第三号橋です。
右に見えるのが三号橋
笹塚のあたりは、窪地が多く、玉川上水水路は笹塚駅前で大きく南に向かって流路を変えます。
第三号橋から玉川上水はそれまでの暗渠から開渠となって進みます。
200mほど進むと笹塚橋に至り、再び暗渠に潜ることになります。
●笹塚橋
右側が三田用水口
笹塚橋を越えると渋谷区から世田谷区に入ります。笹塚橋の右脇がかつての三田用水の分水口です。
ただ、笹塚橋が記録に表れるのは明治39年(1906)で、三田用水ができたのは、寛文4年(1664)ですので、正確には三田用水の分水口付近に笹塚橋が架けられたというべきでしょう。
●三田上水
玉川上水から分水された三田上水は、当初、三田、白金、北品川まで飲料水として給水され、その距離は10キロにも及びました。
寛文4年(1664)に、神田上水、玉川上水の続く青山上水、三田上水、千川上水といった上水ができたのですが、亨保7年(1722)には、神田上水と玉川上水を除いた、それらの上水は廃止されることになるが、それは、8代将軍吉宗の御用学者である室鳩巣が、当時頻発した江戸の火災の主因が、上水網による地脈の変化であると建白したことによるという説が良く言われます。実際には幕府の財政的な事情によるものだと言われています。
三田上水はその後、沿岸の人々の要請により、農業用灌漑用水として復活します。明治以降は、海軍火薬庫(現在の防衛省技術研究所)や恵比須ビールなどで利用されるも、昭和49年(1974)に、分水口は閉じられました。
●世田谷区の旧大原村と旧北沢村の境にある荻窪といった窪地・水田地帯がありました。玉川上水は、この荻窪を避けるため笹塚地区内に迂回して来てました。
そして、笹塚をもっと先の幡ヶ谷の方に行くと牛窪というところがあります。この牛窪は大きな窪地だったようです。そのため、玉川上水の水路は笹塚駅前で大きくUターンし、南に向かって流路を変えます。玉川上水は武蔵野のわずかな高低差を利用して水を流さなければならなかったので、いきなり低い土地に水路を造ってしまうと、あとがつづかなくなってしまうという事情があった。
現在、中野通りと甲州街道が交差する交差点南詰めに牛窪地蔵が祀られています。そこが、その昔は、牛が窪と呼ばれていましたた。牛が窪は雨乞い場でもあり、また、牛裂の刑を執行する刑場跡でもありました。牛窪地蔵が祀られたのは宝永・正徳年間の疫病を避けるためでした。
笹塚へ帰ります。
京王線下を南北に抜ける笹塚駅前の通路脇に、橋の親柱があります。
南ドンドン橋
●南ドンドン橋
京王線下を南北に抜ける笹塚駅前の通路脇に、撤去された橋の親柱が残り、「南ドンドン橋」とあります。水路は笹塚駅前で大きく南に向かって流路を変えるために、水が堤にあたり「ドンドン」と音が響いていたのでしょう。南ドンドン橋は笹塚駅の高架改修で撤去されました。
●第二号橋
少し行くと、再び、水路があります。
2号橋から
開渠部よりも堀割が深く、水の量も多いようです。台地を掘り下げる高さを調整し、上水が自然流下する勾配をつくっているのであろう。岸辺に樹木が茂り、細い緑道がつづいています。
王線笹塚駅付近、疑惑の弁天神社跡地。
右の方に幡ヶ谷分水が
この付近に、幡ヶ谷分水口があったと言われます。流れの左岸にあるのが、幡ヶ谷分水跡のようです。
分水は、この地より北上し、甲州街道に沿って西に向かい、代田村大原から自然の谷筋(荻窪)に流れ込み、、甲州街道を越えます。その先は、笹塚田圃の西端に達し、神田川支流笹塚川(和泉川)と合わさり、笹塚川(和泉川)の養水として機能しました。
分水は玉川上水とは逆方向に流れていたことから「逆さ川」とも呼ばれていました。
明治中期、幡ヶ谷村民は玉川上水新水路の建設で移転が必要になったとある弁天社を、幡ヶ谷分水取水口のすぐそばに移設しました。その際、弁天様にはつきものということで、境内に池が掘られました。すると偶然にも池から水が湧き出しました。これ幸いと、その水は幡ヶ谷分水に加えられた。としました。
実はこれ、夜影に乗じてこっそり、玉川上水から池をつなぐ穴を掘って、湧水に見せかけていたのでした。
現在弁天様は神田川笹塚支流の北側支流、氷川橋のあたりから50mほどの位置にある氷川神社に祀られています。どうやら元々此処にあったものを偽装のためにわざわざ笹塚へ移した、と言うのが真相のようです。大正時代に入り、取水制限が緩和されると再び此処へ弁天様は戻ったと言うことのようです。
「眼の前を流れる東京の大水道、玉川上水路。しかし、幡ヶ谷地区の農民達は井戸水生活を送りながらその豊富な水の流れる水路を前に指を加えて見ているしかありませんでした。都心部の食料源を支えているのは自分達である。が、その自分達はその豊かな水の恩恵を受けることが出来ず、しかも取水制限により水田のみならず生活用水にさえも不自由していた。苦肉の策として彼等が選んだのは"偽装"だったのです」
たこの吸い出し
そばに「たこの吸出し」看板を掲げる町田製薬があります。「たこの吸出し」は、大正初期から売り出されたおでき用の薬だそうです
●稲荷橋
稲荷橋の下
稲荷橋があります。昭和2年(1927)竣工。近くにお稲荷様の小祠があったということです。
その先は、世田谷区玉川上水緑道と呼ばれている緑道が続きます。
稲荷橋
●環七まで来ると、信号機がないので、道路を渡るためには、専用の地下道を抜けなくてはいけません。
この通路の所に、大原橋跡があったようです。見逃しました。
環七は昭和初期に計画され、昭和39年(1964)東京オリンピックを契機に整備が進展するも、最終的に貫通したのは昭和60年(1985)でした。
専用通路を抜けると、さらに世田谷区玉川上水緑道が続きます。
●向岸地蔵尊
向岸地蔵尊
公園の中に向岸地蔵尊が祀られています。地蔵尊の傍らの由来書によると「今から200年ほど昔、荏原郡北の里(現在の世田谷区大原)に生まれつき身体が曲がっている向岸という人がおり、自身の境涯を悲しんでいた。そこに、ある夜、とある高僧がお地蔵様となって現れ、今後、世のため日夜念仏を唱えれば救われる、と。お地蔵様の教えに従い念仏三昧の生活をはじめた向岸さんと、それを聞き知った人々が集まるようになり大きな講中となった。地蔵尊は、生前の徳を偲んで講中の人が建立したものである」
今日の散策の地図
●ゆずり橋
ゆずり橋
赤煉瓦のアーチ橋。ここは和田堀給水所からの配水管が渡る「玉川上水第一号橋」と呼ばれる橋でしたが、老朽化に伴い掛け替えるに際し、橋名を公募して。「譲り合いの精神」から「ゆずり橋」となりました。
ゆずり橋の案内

煉瓦から玉川上水
玉川上水は、ここでまた、幅2mほどの開渠として姿を現します。甲州街道から京王線・代田橋駅脇の線路を潜るまで、距離としては150m程度ですが、渓谷の風情を漂わせています。
玉川上水の流れ
●代田橋
代田橋の所
代田橋は旧水路が甲州街道を越えるところに架かっていた。『上水記』にも記載される古き橋は昭和12年(1937)、甲州街道の改修・拡張にともない姿を消しました。代田橋の袂には水番所があったということです。
玉川上水がこの地でクランク状に南に折れるのは、甲州街道を東に進んだところにある「荻窪」と呼ばれる北に開けた浅い谷戸を避けるためでした。
代田橋から振り返って
ところで、代田の地名の由来は、伝説の巨人・ダイダラポッチから、との説がある。ダイダラポッチの伝説は日本各地にあり、その足跡は水の涸れることのない肥沃な窪地となる、ということです。
柳田國男もその著書『ダイダラ坊の足跡』(昭和2年 1927)の中で、『ダイタの橋から東南へ五六町、その頃はまだ畠中であつた道路の左手に接して、長さ約百間もあるかと思ふ右片足の跡が一つ、爪先あがりに土深く踏みつけてある、と言つてもよいやうな窪地があった。内側は竹と杉若木の混植で、水が流れると見えて中央が薬研になつて居り、踵のところまで下るとわづかな平地に、小さな堂が建つてその傍に湧き水の池があつた。即ちもう人は忘れたかも知れないが、村の名のダイタは確かにこの足跡に基いたものである』と書いています。
代田村は江戸初期の開村で、北条氏の重臣吉良氏の家臣、清水・秋元・斉田・斉田・柳下・山田・大場の七人(代田七人衆)が帰農して開墾したのが始まりとのことです。
●最後に工事中の和田堀給水場の写真。
和田堀給水場

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目黒川の桜と「スターバックス リザーブ ロースタリー」

目黒に行ったので、目黒川沿いの桜を見物しながら、今話題の中目黒に、今年2月28日開店して「スターバックス リザーブ ロースタリー」へ行きました。
まずは、目黒駅側から中目黒への現在名代の桜名所の「目黒川さくらまつり」。
目黒川 ビル 桜

目黒川 桜で歩く

目黒川さくら祭

まさに満開 目黒の桜

「スターバックス リザーブ ロースタリー」建物
「スターバックス リザーブ ロースタリー」は、カフェ、焙煎所、セミナールームを併設した体験型施設。人気で整理券が配られています。並んで、やっと入館することができます。しかしなかなか席が取れません。
壁の飾り
やっと席が取れたら、注文。ゆっくりコーヒーを味わいました。
ロースタリー 高さ約17mの桜が施された銅板のキャスク
自然と和が調和した空間では、4階まで届く高さ約17mの桜が施された銅板のキャスク(豆を貯蔵するタンク)が存在感を放ちます。
コーヒー豆が流れています。
普通のスタバの約15倍の広さを有する店内では焙煎工場を併設され、巨大な焙煎機から出てくる焙煎されたばかりの豆や、店内に張り巡らされた透明なチューブを通る前の様子を見る事ができます。
「ロースタリー」縁側
設計・建築を行った隈研吾氏は、太宰府天満宮表参道店に次ぐコラボレーションだそうです。店舗について「各階にあるテラスは“縁側”をイメージしました。これは新しい建築的なチャレンジとなりました。日本の感性を活かしたデザインで、自分でもびっくりするようなインテリアデザインを成し遂げたと思っています」と、記事にでていました。
世界で5番目、日本では初のロースタリー。日本の新たな名所(シンボル)となるように、「日本各地でみられる自然の美しさとの融合を空間デザインが取り入れている。天井まで延びる広がりあるガラス面と、あたたかな木のぬくもりを感じるテラス席は、まさに自然と調和している」ですが、とにかく大勢の人でなかなか実感はできませんでした。
落ち着いたら、もう一度行ってみたいと思っています。
ロースタリー縁側2


花見の名所「上野公園」

東京都内の桜スポットの中でも随一の人気を誇るのが、江戸時代から続く花見の名所「上野公園」です。約1200本というスケールは壮大で、歴史的建造物と桜のコラボレーションも楽しめます。
上野で一番混雑の場
上野が現在のような桜の名所としての道を歩み始めたのは江戸時代の初期。家康から家光までの徳川三代に仕え,徳川家の菩提寺として上野に寛永寺を建立した天台宗の僧,天海が上野の山の景観向上のため,奈良・吉野山から山桜の苗を取り寄せて山内に植えさせたのが最初とされています。
五重の塔と桜
この桜は一般にも開放されましたが,花の下での飲食禁止,鳴り物禁止,暮6つの鐘とともに門外へ退場しなければならないと定められており,現在の花見とは様相が全く異なったものであったようです。
山桜がすてき
その後8代将軍徳川吉宗が江戸の各地に桜を植え,花見を奨励したことで,現在に近い形の花見が庶民に広まりました。
江戸時代の末,1868年7月,旧幕府軍彰義隊と新政府軍との間で戦われた上野戦争により,焼失しました。その跡地は1873年に公園とされ,関東大震災,戦争など様々な困難を経つつも,地域の人々などの手によって桜は植え継がれ,現在の形にまで育成・整備されてきました。
第二次世界大戦後の物資難時代に上野の山に桜の木を1200本植えたり、つつじを1万株、八重桜300本と、これらは皆、地元の人たちが資金を出し合って上野の山へ植栽したのだそうです。

小松宮の像と桜。
小松の像と桜
清水観音堂と桜。
清水観音堂と桜
清水観音堂の裏の枝垂れ桜。
枝垂れサクラ
夜にはまだ時間がありますが、宴会真っ盛り。
お花の下で宴会

千鳥ヶ淵の桜の満開の桜見物

千鳥ヶ淵は江戸開府後の江戸城拡張の際、局沢川と呼ばれていた川を半蔵門と田安門の土橋で塞き止めて造られたお堀です。
千鳥ケ淵は「千鳥」の形をしているため名付けられたと言われています。
代官町通りを境に接する半蔵濠とはかつて繋がっていましたが、明治33年(1900)に道路建設のため埋め立てられ別々のお堀になってしまいました。(残念ながら「千鳥」の形は感じられません)。
千鳥ケ淵にはソメイヨシノが植栽され、都内でも有数の桜の名所となっています。
とにかく見事です。たくさん人が歩いていますが、桜は負けていません。
枝振りが面白い1

山のような皇居の桜も良い 2

むらさきはななと桜 3

千鳥ヶ淵が良い感じ 4

対面の桜の木の間隔がすてき 7

枝ののびる風情がすてき 6

田安門の方面

田安門からあちらの濠の桜
田安門から

大横川護岸桜見物

大横川(おおよこがわ)は、東京都墨田区・江東区を流れる運河です。
川沿いに桜の並木があり、開花の時期には「お江戸深川さくらまつり」が開催されて、昼夜を問わず大変賑わっているという情報がありました。桜見物にと出かけてみました。
門前仲町の駅を出て、進むと、「黒船橋」近辺は「お江戸深川さくらまつり」のイベントの1つである「お花見周遊船」の乗船所になっていて、船に乗るのを待っている人たちの列だとすぐにわかりました。
黒船橋から大横川
昔ながらの手漕ぎ舟で黒船橋から巴橋までの距離を往復します。ほんの30分ばかりの船旅ですが櫓漕ぎ舟での舟遊びですので江戸情緒に浸りながら桜見物を楽しむ事ができます。(乗船料は500円。来年は乗ってみよう)。
舟乗り場を見る

舟乗り場の旗

いろいろな舟が浮かぶ大横川

結婚式の和舟が行く

桜の下で 舟をこぐ

石島橋から見る
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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