満開、津山のお城山の桜。
岡山城、桜を中心に。

岡山城は、天守外壁に黒い下見板が張られていて、この黒い色から『烏城(うじょう)』と呼ばれています。昭和20年(1945)の空襲で焼失したことから、昭和41年(1966)に再建されました。
天下人となった豊臣秀吉に身内並みに厚遇されて大大名となった宇喜多秀家が、秀吉の指導を受けて築城し、8年の歳月を費やして建造され、慶長2年(1597)に完成しました。
旭川を城の東背後を流れるように改修し、天然の外堀に活用しています。
今回は、桜の花はどうかな。と思い、お城に行ってみました。
平成最後の桜、4月6日の日の写真です。
天守閣、後ろから見上げて。


天守に登る階段の桜です。

天守閣とその左側の白い櫓は「塩蔵」です

本丸の桜です。

山桜です。

不明門の桜です。

鶴ヶ城の塩蔵と天守閣からの風景
天守閣に入ります。まず塩蔵です。



天守に登って、東西南北見渡しました。
<縄張>
内濠を隔てて東側に二ノ丸、三ノ丸と続き、台地下の北側に北出丸、西側に西出丸があります。
三ノ丸以外の各門は枡形石垣門になっていました。主郭は、天守とそこから南と東に伸びる走長屋(多聞櫓)により区分けされていて、南東側の御殿等を配置した区域が本丸です。その北から西側をL字に取り囲む区域が帯郭となっています。
主郭の虎口は全て帯郭に接続しており、天守の下にある鉄門を経て本丸に至ります。
現在の縄張は、主郭の東、北、西の三方の虎口(桝形)の外側を馬出で防御し、その馬出の虎口も桝形とする防御プランであり、郭の構成はシンプルですが、相当に厳重な縄張りです。
天守閣から北面。 走長屋が見えます。


"天守閣から東側、本丸です。「会津絵ろうそくまつりり~ゆきほたる~」のしかけも見えます。


天守閣から南側 赤瓦の屋根

2011年3月、再建された天守閣の屋根を45年ぶりに葺き替え、それまでの黒瓦を赤にしました。赤瓦は会津松平藩の藩祖保科正之公時代の慶安元年(1648)頃に葺き替えられたことが記録されています。表面に釉薬を施して焼いた赤瓦は強度があり、会津の冬の厳しい寒さ、凍結にも耐えることができたようです。

天守閣から西側

天守閣から夕日




天守に登って、東西南北見渡しました。
<縄張>
内濠を隔てて東側に二ノ丸、三ノ丸と続き、台地下の北側に北出丸、西側に西出丸があります。
三ノ丸以外の各門は枡形石垣門になっていました。主郭は、天守とそこから南と東に伸びる走長屋(多聞櫓)により区分けされていて、南東側の御殿等を配置した区域が本丸です。その北から西側をL字に取り囲む区域が帯郭となっています。
主郭の虎口は全て帯郭に接続しており、天守の下にある鉄門を経て本丸に至ります。
現在の縄張は、主郭の東、北、西の三方の虎口(桝形)の外側を馬出で防御し、その馬出の虎口も桝形とする防御プランであり、郭の構成はシンプルですが、相当に厳重な縄張りです。
天守閣から北面。 走長屋が見えます。


"天守閣から東側、本丸です。「会津絵ろうそくまつりり~ゆきほたる~」のしかけも見えます。


天守閣から南側 赤瓦の屋根

2011年3月、再建された天守閣の屋根を45年ぶりに葺き替え、それまでの黒瓦を赤にしました。赤瓦は会津松平藩の藩祖保科正之公時代の慶安元年(1648)頃に葺き替えられたことが記録されています。表面に釉薬を施して焼いた赤瓦は強度があり、会津の冬の厳しい寒さ、凍結にも耐えることができたようです。

天守閣から西側

天守閣から夕日

会津鶴ヶ城
大内宿へ向かうバスの中から見た鶴ヶ城の濠と石垣です。



大内宿で雪まつりを見て、鶴ヶ城へ向かいました。今回は夕方に鶴ヶ城に入ったので、「城」はあまり観られませんでしたが、石垣と、天守閣からの見晴らしを残しておきます。


まず、鶴ヶ城の歴史から。
会津鶴ヶ城は至徳元年(1384)葦名直盛(あしな なおもり)が造った『東黒川館』が始まりとされます。後に会津領主の葦名盛氏が改築し、現在の城郭の原型を築きました。
当時の名前は『黒川城』でした。
文禄2年(1593)に、蒲生氏郷が本格的な天守閣を築城し、名前も『鶴ヶ城』と改められました。この時に積まれた石垣が400年以上経った今でも朽ちることなく、往時の姿を忍ばせています。
慶長16年(1611)に会津地方を大地震が襲い、石垣や天守閣は大きく傾いてしまいました。
その時に天守閣を改修し、西出丸・北出丸といった出丸を築き、ほぼ現在の姿の鶴ヶ城ができたのです。
その後寛永20年(1643)、保科正之が入り、以後会津松平家の居城となりました。
戊辰戦争で新政府軍の砲撃により外壁が破壊されましたが、天守そのものはなんとか倒壊しませんでしたが、明治7年(1874)建物はすべて解体されてしまいました。
現在の天守は昭和40年(1965)鉄筋コンクリートで外観復元されました。復元にあたっては当時の構図や資料をもとに造られたので、より本格的なものとなっています。
平成23年(2011)には、瓦が黒瓦から赤瓦に葺き替えされています。
駐車場から鶴ヶ城会館を抜け、北出丸を通って本丸へ向かいました。


石垣は、はり込接でしょうか、前の案内板は、枡形の説明でした。

天守閣が見えました。


歴史を眺めてきた石垣を見て歩くのが楽しいです。
城に石垣は付きものですが、築き方が時代によって違います。鶴ヶ城の石垣を年代的に見ると、一番古いのが天守閣の石垣で、蒲生氏郷が築いたものです。専門的には「野面(のづら)積み」という石の積み方で、自然石を組み合わせて積み上げます。傾斜が緩やかで、裾野が広いのが特徴で
さて、慶長16年(1611年)8月21日、会津盆地の西縁を震源とするマグニチュード6.9、震度6以上と推定される大地震が発生しました。民家2万戸が倒壊し、多数の死者も出る大惨事でした。七層の天守閣も傾きましたが、天守閣の石垣は持ちこたえたそうです。こんな粗い積み方で大丈夫だったのだろうかと思えますが、野面積は、地震に強いのです。

天守閣の入り口があります。この日は、左のお店のある所から入るようになっていました。



大内宿で雪まつりを見て、鶴ヶ城へ向かいました。今回は夕方に鶴ヶ城に入ったので、「城」はあまり観られませんでしたが、石垣と、天守閣からの見晴らしを残しておきます。


まず、鶴ヶ城の歴史から。
会津鶴ヶ城は至徳元年(1384)葦名直盛(あしな なおもり)が造った『東黒川館』が始まりとされます。後に会津領主の葦名盛氏が改築し、現在の城郭の原型を築きました。
当時の名前は『黒川城』でした。
文禄2年(1593)に、蒲生氏郷が本格的な天守閣を築城し、名前も『鶴ヶ城』と改められました。この時に積まれた石垣が400年以上経った今でも朽ちることなく、往時の姿を忍ばせています。
慶長16年(1611)に会津地方を大地震が襲い、石垣や天守閣は大きく傾いてしまいました。
その時に天守閣を改修し、西出丸・北出丸といった出丸を築き、ほぼ現在の姿の鶴ヶ城ができたのです。
その後寛永20年(1643)、保科正之が入り、以後会津松平家の居城となりました。
戊辰戦争で新政府軍の砲撃により外壁が破壊されましたが、天守そのものはなんとか倒壊しませんでしたが、明治7年(1874)建物はすべて解体されてしまいました。
現在の天守は昭和40年(1965)鉄筋コンクリートで外観復元されました。復元にあたっては当時の構図や資料をもとに造られたので、より本格的なものとなっています。
平成23年(2011)には、瓦が黒瓦から赤瓦に葺き替えされています。
駐車場から鶴ヶ城会館を抜け、北出丸を通って本丸へ向かいました。


石垣は、はり込接でしょうか、前の案内板は、枡形の説明でした。

天守閣が見えました。


歴史を眺めてきた石垣を見て歩くのが楽しいです。
城に石垣は付きものですが、築き方が時代によって違います。鶴ヶ城の石垣を年代的に見ると、一番古いのが天守閣の石垣で、蒲生氏郷が築いたものです。専門的には「野面(のづら)積み」という石の積み方で、自然石を組み合わせて積み上げます。傾斜が緩やかで、裾野が広いのが特徴で
さて、慶長16年(1611年)8月21日、会津盆地の西縁を震源とするマグニチュード6.9、震度6以上と推定される大地震が発生しました。民家2万戸が倒壊し、多数の死者も出る大惨事でした。七層の天守閣も傾きましたが、天守閣の石垣は持ちこたえたそうです。こんな粗い積み方で大丈夫だったのだろうかと思えますが、野面積は、地震に強いのです。

天守閣の入り口があります。この日は、左のお店のある所から入るようになっていました。
