生麦事件
NHKの大河ドラマ「西郷どん」は「寺田屋事件」でした。
島津久光という人は、兄の斉彬と比較され、その評価はかなり低いです。
島津久光は、実は一度も藩主になったことはありません。しかし藩主の実父として薩摩藩の最高権力の座にあり、幕末にあって薩摩藩の影響力を強めるため、何度も上京しています。文久2年4月、文久3年3月、文久3年10月、慶応3年4月の4度です。
その最初の上京が、文久2年(1862)4月16日で、薩摩藩兵一千名を率いて、京都にのぼります。その上京の際、久光は有馬新七ら自藩の薩摩藩尊王派による倒幕の挙兵を聞き、粛正を命じます。その場所が、伏見の寺田屋でした。この事件を寺田屋事件と言います。
この4年後の慶応2年(1866)1月23日、薩長同盟の締結直後に寺田屋へ宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行所の捕り方が包囲、坂本龍馬を捕縛しようとした事件も寺田屋事件です
寺田屋は、坂本龍馬の常宿で彼の妻となるお龍が働いていた船宿でした。(龍馬の方は別称「寺田屋遭難」と区別して呼ばれています)。
この寺田屋は2度も、歴史的に大きな事件の舞台となったのです。
さて、ここから、歴史の流れか見てもっと大きな事件、生麦事件が、生麦村で起こります。

<事件当時の生麦村。東海道にそった集落の神奈川宿寄りのはずれ、リチャードソン遺体発見現場(落馬地点)近辺と見られています。F.ベアト撮影>
島津久光は、ここから、朝廷の勅使・大原重徳(おおはらしげとみ)に随従する形で江戸に下り、幕政改革を要求します。そこで、幕府は一橋慶喜を「将軍後見役」に、前越前藩主・松平春嶽を「政治総裁職」に任じさせることに成功しました。
成功に、意気揚々と江戸からの帰途、文久2年(1862年)8月21日に久光一行が神奈川宿の手前の生麦村に差し掛かったときに事件は起こりました。
横浜在住のイギリス人商人・ウィリアム・マーシャルと友人のウッドソープ・クラーク、チャールズ・リチャードソン、それに香港から旅行に来ていたマーガレット・ボロデール夫人の4人は、騎馬で東海道を東へ向かっていました。
当時、横浜には多くの外国人が集まって、許されていた横浜から川崎までの見学は流行していました。
生麦村で久光の行列に出会った彼らは、「馬から下りて道端によけよ」という随行者たちの言葉や手振りで、引き返した方がよいと判断したものの、緊張し、また慌ててもいて、馬を引き回すことが出来ず、行列の方へと進んでいってします。おそらく藩士たちが激しく騒ぎ立てたため馬も興奮したのでしょう。馬は横向きになって行列を妨げます。

刃傷発生現場
これを久光に対する無礼暴挙とみなした薩摩藩士たちが切りつけてきます 。一番切りつけられたのは、チャールズ・リチャードソンでした。

『生麦之発殺』(早川松山画)
とにかく4人は神奈川(横浜)方面へ騎乗のまま逃げすが、ボロデール夫人以外の3人はいずれも切りつけられていました。
そしてリチャードソンは現場から700メートルほど走ったところで力尽きて落馬し、追ってきた薩摩藩士たちに切りつけられ、海江田信義(かいえだのぶよし) によって、とどめを刺されます。

碑には、事件当時の世情とこの地で非業の死を遂げた英国商人リチャードソンの死を悼む歌が記されています。橘樹郡区制の第三大区四小区の副戸長をしていた黒川荘三によって、明治16年(1885) に建てられたものです。
マーシャルとクラークはアメリカ領事館(本覚寺)へ逃げ込んで治療を受け、ボロデール夫人は横浜の居留地まで帰り着いて一部始終を報告しました。
これが、生麦事件の大まかな状況です。
そして、薩摩藩は生麦事件に対するイギリスの賠償要求を拒否したため、翌文久3年(1863年)7月に薩英戦争が起きます。薩摩藩はその戦いで、近代化の必要性を痛感し、攘夷(じょうい)論から開国論に転じ、これを機に開国、明治維新の流れができたと言われています。
島津久光という人は、兄の斉彬と比較され、その評価はかなり低いです。
島津久光は、実は一度も藩主になったことはありません。しかし藩主の実父として薩摩藩の最高権力の座にあり、幕末にあって薩摩藩の影響力を強めるため、何度も上京しています。文久2年4月、文久3年3月、文久3年10月、慶応3年4月の4度です。
その最初の上京が、文久2年(1862)4月16日で、薩摩藩兵一千名を率いて、京都にのぼります。その上京の際、久光は有馬新七ら自藩の薩摩藩尊王派による倒幕の挙兵を聞き、粛正を命じます。その場所が、伏見の寺田屋でした。この事件を寺田屋事件と言います。
この4年後の慶応2年(1866)1月23日、薩長同盟の締結直後に寺田屋へ宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行所の捕り方が包囲、坂本龍馬を捕縛しようとした事件も寺田屋事件です
寺田屋は、坂本龍馬の常宿で彼の妻となるお龍が働いていた船宿でした。(龍馬の方は別称「寺田屋遭難」と区別して呼ばれています)。
この寺田屋は2度も、歴史的に大きな事件の舞台となったのです。
さて、ここから、歴史の流れか見てもっと大きな事件、生麦事件が、生麦村で起こります。

<事件当時の生麦村。東海道にそった集落の神奈川宿寄りのはずれ、リチャードソン遺体発見現場(落馬地点)近辺と見られています。F.ベアト撮影>
島津久光は、ここから、朝廷の勅使・大原重徳(おおはらしげとみ)に随従する形で江戸に下り、幕政改革を要求します。そこで、幕府は一橋慶喜を「将軍後見役」に、前越前藩主・松平春嶽を「政治総裁職」に任じさせることに成功しました。
成功に、意気揚々と江戸からの帰途、文久2年(1862年)8月21日に久光一行が神奈川宿の手前の生麦村に差し掛かったときに事件は起こりました。
横浜在住のイギリス人商人・ウィリアム・マーシャルと友人のウッドソープ・クラーク、チャールズ・リチャードソン、それに香港から旅行に来ていたマーガレット・ボロデール夫人の4人は、騎馬で東海道を東へ向かっていました。
当時、横浜には多くの外国人が集まって、許されていた横浜から川崎までの見学は流行していました。
生麦村で久光の行列に出会った彼らは、「馬から下りて道端によけよ」という随行者たちの言葉や手振りで、引き返した方がよいと判断したものの、緊張し、また慌ててもいて、馬を引き回すことが出来ず、行列の方へと進んでいってします。おそらく藩士たちが激しく騒ぎ立てたため馬も興奮したのでしょう。馬は横向きになって行列を妨げます。

刃傷発生現場
これを久光に対する無礼暴挙とみなした薩摩藩士たちが切りつけてきます 。一番切りつけられたのは、チャールズ・リチャードソンでした。

『生麦之発殺』(早川松山画)
とにかく4人は神奈川(横浜)方面へ騎乗のまま逃げすが、ボロデール夫人以外の3人はいずれも切りつけられていました。
そしてリチャードソンは現場から700メートルほど走ったところで力尽きて落馬し、追ってきた薩摩藩士たちに切りつけられ、海江田信義(かいえだのぶよし) によって、とどめを刺されます。


碑には、事件当時の世情とこの地で非業の死を遂げた英国商人リチャードソンの死を悼む歌が記されています。橘樹郡区制の第三大区四小区の副戸長をしていた黒川荘三によって、明治16年(1885) に建てられたものです。
マーシャルとクラークはアメリカ領事館(本覚寺)へ逃げ込んで治療を受け、ボロデール夫人は横浜の居留地まで帰り着いて一部始終を報告しました。
これが、生麦事件の大まかな状況です。
そして、薩摩藩は生麦事件に対するイギリスの賠償要求を拒否したため、翌文久3年(1863年)7月に薩英戦争が起きます。薩摩藩はその戦いで、近代化の必要性を痛感し、攘夷(じょうい)論から開国論に転じ、これを機に開国、明治維新の流れができたと言われています。
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