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小泉八雲 オープンマインド「 樹木に魂が宿る」

NHK・Eテレ(教育)「100分de名著」で小泉八雲の『日本の面影』が取り上げられていました。
小泉八雲が日本に来たのは、明治23年(1890)です。
そのころの日本は西欧化一辺倒でした。どんどん「日本らしきもの」は消えて行っていました。その失われていく日本に心惹かれ、この『日本の面影』を著し、『怪談』を書きました。
番組で講師をつとめられた小泉八雲の研究者、池田雅之早稲田大学教授は、八雲がそうできた理由を、「アイルランド人の父とギリシア人の母の間で自らのアイデンティティを引き裂かれながらも、世界中を旅することを通じて、どんな土地にでも溶け込んでしまえる『オープンマインド(開かれた心)』を獲得するに至ったからではないか」と話されていました。
そして、新宿歴史博物館で開かれた講演会「小泉八雲を現代に活かす」で、島根県立大学短期大学部教授・小泉八雲曾孫の小泉凡氏も八雲の『オープンマイン(開かれた心)』の大切さを語られました。
「日本」をきちんとその「オープンマインド」で捕らえています。
現在は「グローバル化」が叫ばれ(これは、ほとんどアメリカになろうとしているようですが)、「オープンマインド」を持つことは大切になっています。
でも、よく考えると、日本が消えて消えていっているようで、「日本を深く知るために」小泉八雲に学ぶ必要があるように思います。小泉八雲は、これからますます、注目されるなければいかないと思いました。
例えば、「オープンマインド」に関して、八雲が書いた次のような文章があります。
樹木に魂が宿る―宇宙の真理
「木に少なくとも日本の木に魂があるということは、梅の花と桜の花を見たことのある者には不自然な幻想などと思えない。こうした信仰は、出雲でも他の地方でも広く行われている。仏教哲学とは一致しないが、ある意味で、「人間の用に立つべく創造されたもの」という西洋古来の正統的な樹木観と較べて、はるかに宇宙の真理に近い、という印象を与える」。
「日本の庭」『知られぬ日本の面影』(仙北谷晃一訳)より
自然との共生、そのこころを呼び覚まさないといけない、と思います。

『怪談』に「青柳ものがたり」があります。
能登の国に友忠という武士がいました。20歳の時に主君畑山義統(よしむね)の使者として京に向かいました。出発したのは、冬の寒い日でした。旅の途中、吹雪にあい、老夫婦の家に泊まらせてもらう事になりました。その家のそばには、大きな柳の木があり、家にはたいそう美しい娘がいました。 武士はその娘に一目ぼれをしてしまいます。名前は青柳(あおやぎ)と言いました。
友忠は老夫婦に頼みこんで、嫁にするということで、青と一緒に京に向かいことになりました。
京都に着くと、使いの相手である細川候に、美しい青柳は目をつけられてしまい、連れていかれてしまいました。
友忠は、死ぬ覚悟で、娘に思いを込めた漢詩を書いた手紙を出します。
その手紙を見た細川候は、友忠の青柳に対する気持ちと覚悟に感動し、青柳を友忠に返し結婚を許してくれました。
夫婦になった二人は幸せに暮らしていましたが、5年後のことです。突然青柳がにわかに苦しみだします。
そして告白しました。
「わたしは、人間ではございません。わたしの魂は、木の魂、心は木の心でございます。柳生(しょう)がわたしのいのちなのでございます。それをたれか、いまの今、私の元木を切り倒しています。わたしは死なねばなりません」
青柳は苦しみながら消えて亡くなってしまいます。
友忠は仏門に入り、老夫婦の家を訪ねますが、そこには、3本の柳の木切り株があるだけでした。友忠は、その柳の切り株のかたわらに、お経を刻んだ碑を建てました。
概略そんな筋立てです。
木が伐られて、それがどうしたちいったことは書いてありませんが、印象に残ります。
「100分de名著」で池田雅之氏は、『怪談』は八雲の自叙伝だということを話しておられました。
そして、自叙伝ということで言えば、この「青柳ものがたり」は、
東京、富久町に住んでいた時の自証院でのエピソードは思い出されます。
小泉八雲が、東京帝国大学文科の英文学講師とし東京に出てきたのは、明治29年(1896)のことです。住んだのは新宿区富久町でした。
現在、成女学園校門向かって右側に小泉八雲旧居跡の碑があります。
高台の小泉八雲旧居跡の碑
(碑のそばに近づけなくなっているのですが、少し無理して登って撮りました)
小泉八雲 旧居跡の碑(富久町)
ここから東京帝国大学まで人力車で通ったようです。
自然をこよなく愛した小泉八雲は、すぐ隣の自証院の風致を特に愛し、いつも自証院のあたりを散歩していました。
自証院
八雲が住み始めたころは、たくさんの木がありましたが、そのうちに、経済的な困難もあり、墓地は中野区上高田に移転、改葬が行われ、広大な寺域も樹木の伐採が行われます。そして、八雲は、木が伐られることに心を痛め、明治35年(1902)3月、5年間住みなれた富久町から、武蔵野の面影がまだ残る豊多摩郡大久保村大字西大久保(現・大久保1丁目)に居を移したのでした。
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大田南畝こと四方赤良

 大田南畝の話の続きで、狂歌の最盛期とも言える天明を取り上げ、大田南畝とその仲間たちぼ話を法政大学キャリアデザイン学部の小林ふみ子准教授から聞きました。
 いろいろな資料に基づくお話で、それをまとめることはできないので、そこから、少し調べたことで、 天明の四方赤良について少し記しておきます。
 狂歌は実は室町時代の頃からあるにはあったのですが、和歌の一部分のようなものだったといいます。
 歌を詠む人が、会合で会が終わったあと、お茶でも飲みながら、狂歌遊びでもしましょうか、などと、座興で、いわば余技として楽しむ程度でした。
 それが、江戸も後期になると、町人たちはことばの持つ面白さを取り入れ、洒落、地口、謎掛けなどを楽しむ風潮が出てきましす。そして、明和、安永、天明と、わずか十数年の間に「狂歌」が爆発的なブームになり、天明の頃、その頂点に達します。
 明和6年(1769)四ッ谷の須賀神社の近くに住んでいた、田安家の臣小島謙之つまり唐衣橘洲の家で、初の狂歌会が開かれました。
 「江戸にて、狂歌の会といふものを始めてせしは、四ツ谷忍原横町に住める小島橘洲なり。其時会せしものわずかに四、五人なりき」
 四方赤良は随筆集『奴師勞之』(文化15年)にその時の模様について、橘洲による『狂歌弄花集』序文の引用を添えて書き残しています。それによると、出席者は橘洲、赤良のほか、大根太木、飛塵馬蹄、大屋裏住、平秩東作ら、「おほよそ狂詠は、時の興によりてよむなるを、事がましくつどひをなして、詠む痴者こそをこなれ。我もいざしれ者の仲間いりせん」
 このときの出席者のうち大屋裏住は以前からの狂歌詠みで、20年以上の中断の後、天明調狂歌人の仲間入りをし、四方赤良の門人となりました。
 平秩東作は内藤新宿の煙草屋ですが儒者として立松懐之の名もある教養人です。
 大根太木は辻番請負。四方赤良の知人で、初狂歌会には彼に伴われてやってきました。 四方赤良と大根太木の名は宝暦頃より江戸に流行していた「鯛の味噌津で四方のあか、のみかけ山の寒鴉……大木の生際太いの根云々」という無意味な言葉からとられたと言われます。四方赤良については味噌のことと前回書きました。
 この唐衣橘洲の家での初の狂歌の集いのきっかけとなったのは、牛込加賀町に住む幕臣内山賀邸という歌人です。賀邸、内山淳時(なおとき)は儒者であり国学者でありまた当時江戸の代表的歌人の一人でもありました。この賀邸の弟子に唐衣橘洲、御手先与力の山崎景貫つまり朱樂管江、稲毛屋金右衛門こと平秩東作、といったやがて天明狂歌の担い手となる人たちが集まっていました。大田南畝もその門人の1人です。年齢から言って唐衣橘洲が中心的な存在でした。
 それから狂歌の会は頻繁に開かれます。
 もうひとつ、集まりとして、「宝合」があります。
 安永3年、牛込で「宝合」という、いわば戯れ遊びが行われました。
 宝物に擬したふざけた品物に、狂文または狂歌を添えて出品し、優劣を競うというものです。
 集まった人の名はみな狂名になっていて、狂歌同好者の集いであることが分かります。 この催しの主催者はいちおう酒上熟寝(市谷左内坂の名主島田左内)となっていますが、実のところは四方赤良だったと言われています。
 こういう風に、狂歌、宝合、多くの人が集う参加型の芸能遊びだったと言えます。
 天明狂歌壇を支えた狂歌師たちの名前をあげていきます。
唐衣橘洲(からごろもきつしう):小島謙之。「からころもきつつなれにしつましあれば    
はるばるきぬる旅をしぞ思ふ」のもじり。
朱楽菅公(あけらかんこう):あっけらかん。幕臣。山崎景貫。
宿屋飯盛(やどやのめしもり):日本橋小伝馬町で旅宿を営んでいた。石川雅望。
酒上不埒(さけのうへのふらち):駿河小島藩士。黄表紙では恋川春町。小石川春日町に住む。
浜辺黒人(はまべのくろひと):本芝三丁目の本屋。芝で海に近く色が黒く、歯まで黒く染めていたらしい。
花道つらね(はなみちのつらね):五代目市川団十郎。つらね(歌舞伎で、自分の名乗りや物の由来や
効能物尽くしなどを名調子で語る芸)。
門限面倒(もんげんめんどう):館林藩士。武家屋敷のうるさい門限をもじった。
鹿都部真顔(しかつべのまがお):しかつべらしい(堅苦しい、まじめくさった)。
江戸数寄屋橋外で汁粉屋を営 んだ。

大田南畝像
四方赤良の歌、数首

山吹のはながみばかり金いれに
     みのひとつだになきぞかなしき (四方赤良)

世の中は色と酒とが敵なり
     どふぞ敵にめぐりあいたい (四方赤良)

わが禁酒破れ衣となりにけり
     さしてもらおうついでもらおう (四方赤良)

をやまんとすれども雨の足しげく
     又もふみこむ恋のぬかるみ (四方赤良)

「江戸城を歩く」の著者の講演を聞く

 『江戸城を歩く ヴィジュアル版 』(祥伝社)の著者、黒田涼氏の講演を聞いた。
 まず江戸歩きの楽しみについて話してくださって、まちあるきを趣味としているものには有益でした。
 江戸の街があって今の東京がある。
 江戸の歴史があって今の東京がある。
 江戸歩きでそれが理解できる。
 江戸の街区、道路が残る場所がたくさんある。
 江戸の遺構が残る場所がたくさんある。
 家のすぐ外に400年の歴史がある。
 ちょっと外を歩けば、それを体感できる。
 
まさにその通りだと思います。
 そして、「東京に眠る江戸の痕跡を歩く」ということで、スライドでいくつか紹介してくださいました。
 本には書いていない場所を見つけるというのが大事だなと思いました。
 行って見なければ気がつかない「痕跡」これを見つけることが大切です。
 『江戸城を歩く ヴィジュアル版 』にはそれが少し紹介されていますが、直接話を聞くと、「私はこれは江戸のものだと思うのです」という場所がたくさん出てきます。
 それと、古い写真を持っておられ、それと今に比較、興味がわきます。
 今日の話で、ブログも開いておられうとのことで、早速拝見しました。
 よく私が通っている四ッ谷の探索の所をここに載せさてもります。後で実際に歩いて、いろいろ確認します。
地下鉄四谷駅案内

 四ッ谷に着くと麹町口ロータリーのところに、石垣があります。
 四ッ谷見付門の石垣です。
 現在は甲州街道がまっすぐに外堀を超えて麹町に続いていますが、江戸時代は、甲州街道は外堀で行き止まりになり、左に少し折れてから橋を渡り、四谷門を通ってまた右に曲がって甲州街道に続いていました。
 かつての門の写真が残っています。
 四谷見附の写真
土橋を登ると木橋の向こうに高麗門があります。
 今残っているのは、写真の左端のあたりです。
 これも防備上の理由です。
 もし街道がまっすぐ城内に続いていたら、門が破られると敵は街道を一直線に進むことができます。
 このように街道を屈曲させておけば、敵の侵攻スピードを鈍らせることができます。
 しかし馬車や自動車など、近代交通機関が通るようになるとこうした仕掛けは邪魔になり、街道をまっすぐ通る現在の橋が造られました。
 江戸時代の街道や堀、門の配置図が東京メトロ四ッ谷駅構内に掲げられています。
 また、四ッ谷は甲州街道の地下に埋設された玉川上水の水道管が渡る場所としても重要でした。
 先の写真の土橋の脇に、太い木の水道管が通され、四ッ谷門の下を経て城内に入り込んでいました。

 ブログはこのようで、本もほとんど同じですが、今日の話では、麹町側の駅広場に石垣のあった位置が模様で記されているとか。また駅の所に石垣の石が転がっているとか、上智大学の近くに紀州徳川の中屋敷の石垣の残骸らしきものがあるとか、隠れ痕跡がいろいろあるのだそうです。じっくり探しましょう。

浮世絵版画、摺りの実演会

 新宿区の下落合にあるアダチ伝統木版画技術保存財団の職人さんが、北斎の『神奈川沖浪裏( おきなみうら)』を摺りあげるところの実演を見学しました。
 北斎 神奈川沖浪裏
江戸時代に庶民の間で大流行した浮世絵は、当時最先端のメディアとしての役割を持ち、大量生産された、まさに版画による印刷物です。
 迅速に、大量にということで、あまり手間をかけずに制作する方法がとられました。それが、分業です。
 まず、下絵を描く絵師、その下絵を板に彫る彫師、そして板を用いて一色ずつ色をすり重ねていく摺師という3者によって制作されました。
 その中で、浮世絵の作者として名を出すのは北斎とか広重とか歌麿といった絵師です。
 今回の『神奈川沖浪裏』は、葛飾北斎の作品として認識しています。
 でも、葛飾北斎が描いたのは、線のみの下絵だけだったそうです。色つきの完成図ではないのです。
 完成図は北斎の頭の中にのみあり、下絵の段階ではアウトラインのみが描かれました。 色の指定は、全ての板が揃ったときに絵師が、版元などと相談しながら、色を決め、摺師に口頭で伝えたのだそうです。
 急ぐ場合には、版元が決める場合もあったようですが、本当に色を決めるのは摺師だったのでは、という気がします。
 だから、彫師、摺師の名前ももっと出ていいわけです。
 完全な作品として、最初に、絵師が描いていたら、とても間に合わないほど、たくさんの作品が制作されていました。
 浮世絵版画実演会1
実演を見ていて、ぼかしの所は、摺師が水を案配してぼかし(グラデーション)を出すのを知りました。彫る時にぼかし彫りとかいう技法があるのかと思っていたのですが、そうではないのです。
 また、錦絵というのは、4枚から7枚といった版によっての多色摺りです。一番大事なことは、「版のずれ」が出ないようにすることです。
 このずれを解消したのが、「見当(けんとう)」の開発でした。
 見当とは版木の右下に付けられた鍵型のマークのことで、作品部分と同様にわずか数センチの鍵型を版上に残すように彫り、摺師が版木を摺る時に紙を置く目安とするものです。
 摺師が毎回この見当に紙を正確に合わせて置くことによって、複数色の版をずれずに摺り重ねることが可能となり、きれいな多色摺りができるようになりました。この見当が完成したのは、明和年間(1764-1772)と言われています。
 浮世絵版画実演会 見当を調整中
今回の実演で、見当を修正する場面がありました。
 和紙や版木は気温や湿度などのより大きさが変化すので、摺師は摺りあがった作品にずれがあった場合、見当の位置を修正するのです。
 ちょっと見て、その見当を、またたく間に修正するのですから、さすがというほかありません。
浮世絵版画実演会  道具類はこんな感じ
 約1時間の実演。楽しかったです。
プロフィール

作州浪人

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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