御茶の水界隈 神田山 神田川、
お茶の水駅から神田駿河台界隈を歩いてみることにしました。
この数年で、特に聖口前、ニコライ堂あたりの風景がすっかり変わりました。
聖橋は、平成25年(2013)から「将来に貴重な遺産として残すべき重要な橋梁」ということで丁寧に「長寿命化工事」が行われています。いつになったら、終わるのだろうと思ったら、これまた2020年、オリンピックの年です。
駅もバリアフリーにするということなので、なかなか大変な工事です。
考えてみると、江戸時代、神田山を切り崩して造ったまちでした。

御茶の水の向かい、聖橋の下を流れる川は神田川です。実はこの神田川も自然の河川ではなく、人工的に掘られた川です。
高台である「駿河台」は元来、本郷・湯島台と地続きで、その南端に位置し、「神田山」と呼ばれていました。
江戸に幕府を開いた徳川家康は、新たな町づくりのため、この神田山を切り崩し、江戸城の南に広がる日比谷入江(現在の日比谷公園、新橋周辺)を埋め立てました。
しかし、埋め立てによって、それまで日比谷入江の方に流れ込んでいた平川(神田川のもとになった川)の流れがとどこおることになり、洪水が頻発するようになります。
そこで現在の飯田橋付近から隅田川まで、分流としての水路を確保し、あわせて江戸城の外濠の役目も果たす「神田川」が開削されたのです。こうしてこの界隈は、本郷・湯島台から切り離され、現在の駿河台が形成されました。
外濠としての神田川は、江戸城の外濠を作る際に、自然河川だった「平川」のを活かして造られました。もともと平川の自然な流れは、飯田橋を過ぎて、九段下(俎板橋近辺)、平川門あたりを通り日比谷入り江に注ぐというものであったようです。
この流れは、日本橋川という名の内濠として残されますが、新たに、飯田橋あたりから左右にこの水を流す外濠を掘削したのです。
東側へは、今の水道橋、御茶の水橋、昌平橋を越え、外神田、内神田を貫いて隅田川へ流し込みました。 西南側は、今の飯田橋から市ヶ谷、四谷、赤坂、溜池を経て、汐留で江戸湾に入る流れに繋いでいきました。
それで、現在神田川と呼ばれている川は、江戸川橋から飯田橋に来て、そこから人口の川になり、東にまわる外濠の役目を果たして、隅田川へ流れます。
こうしてこの界隈は、本郷・湯島台から切り離され、現在の駿河台が形成されました。
プラットホームから見る神田川は、都心に残された小さな渓谷のような風情を持っています。江戸時代、安政4年(1857)の広重の「江戸名所百景」第47景の「昌平橋聖堂神田川」にはその雰囲気がもっと残っています。
![広重 「昌平橋聖堂神田川]](http://blog-imgs-112.fc2.com/u/z/o/uzo800/20170702182335f91.jpg)
それは、ここらあたりが、神田山を切り崩しての造成工事でした人口のもので、その名残が感じられるのでしょう。
その後、家康が隠居して移り住んでいた駿府で没すると、旗本(駿河衆)たちは、江戸城に近くて、富士山が望めるこの地に居を構えていきました。それが、この町のはじまりで「神田駿河台」の地名の由来になりました
ついでながら、この駿河台に屋敷を構えた旗本たちは、神田川の上水でなく、自前の井戸を持っていたようです。神田川の岸辺からは先の大戦後も湧水が見られたそうで、こうした地下水脈が水源となっていたようです。

この数年で、特に聖口前、ニコライ堂あたりの風景がすっかり変わりました。
聖橋は、平成25年(2013)から「将来に貴重な遺産として残すべき重要な橋梁」ということで丁寧に「長寿命化工事」が行われています。いつになったら、終わるのだろうと思ったら、これまた2020年、オリンピックの年です。
駅もバリアフリーにするということなので、なかなか大変な工事です。
考えてみると、江戸時代、神田山を切り崩して造ったまちでした。

御茶の水の向かい、聖橋の下を流れる川は神田川です。実はこの神田川も自然の河川ではなく、人工的に掘られた川です。
高台である「駿河台」は元来、本郷・湯島台と地続きで、その南端に位置し、「神田山」と呼ばれていました。
江戸に幕府を開いた徳川家康は、新たな町づくりのため、この神田山を切り崩し、江戸城の南に広がる日比谷入江(現在の日比谷公園、新橋周辺)を埋め立てました。
しかし、埋め立てによって、それまで日比谷入江の方に流れ込んでいた平川(神田川のもとになった川)の流れがとどこおることになり、洪水が頻発するようになります。
そこで現在の飯田橋付近から隅田川まで、分流としての水路を確保し、あわせて江戸城の外濠の役目も果たす「神田川」が開削されたのです。こうしてこの界隈は、本郷・湯島台から切り離され、現在の駿河台が形成されました。
外濠としての神田川は、江戸城の外濠を作る際に、自然河川だった「平川」のを活かして造られました。もともと平川の自然な流れは、飯田橋を過ぎて、九段下(俎板橋近辺)、平川門あたりを通り日比谷入り江に注ぐというものであったようです。
この流れは、日本橋川という名の内濠として残されますが、新たに、飯田橋あたりから左右にこの水を流す外濠を掘削したのです。
東側へは、今の水道橋、御茶の水橋、昌平橋を越え、外神田、内神田を貫いて隅田川へ流し込みました。 西南側は、今の飯田橋から市ヶ谷、四谷、赤坂、溜池を経て、汐留で江戸湾に入る流れに繋いでいきました。
それで、現在神田川と呼ばれている川は、江戸川橋から飯田橋に来て、そこから人口の川になり、東にまわる外濠の役目を果たして、隅田川へ流れます。
こうしてこの界隈は、本郷・湯島台から切り離され、現在の駿河台が形成されました。
プラットホームから見る神田川は、都心に残された小さな渓谷のような風情を持っています。江戸時代、安政4年(1857)の広重の「江戸名所百景」第47景の「昌平橋聖堂神田川」にはその雰囲気がもっと残っています。
![広重 「昌平橋聖堂神田川]](http://blog-imgs-112.fc2.com/u/z/o/uzo800/20170702182335f91.jpg)
それは、ここらあたりが、神田山を切り崩しての造成工事でした人口のもので、その名残が感じられるのでしょう。
その後、家康が隠居して移り住んでいた駿府で没すると、旗本(駿河衆)たちは、江戸城に近くて、富士山が望めるこの地に居を構えていきました。それが、この町のはじまりで「神田駿河台」の地名の由来になりました
ついでながら、この駿河台に屋敷を構えた旗本たちは、神田川の上水でなく、自前の井戸を持っていたようです。神田川の岸辺からは先の大戦後も湧水が見られたそうで、こうした地下水脈が水源となっていたようです。

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