太田道灌の「江古田原・沼袋合戦」の伝承
平成30年1月22日、東京は、積雪23㎝という大雪でした。次の次の日、哲学堂公園へ、調べたいことがあってでかけました。行ってみると、大雪で奥には行かれませんでした。それで、哲学堂の周りを歩いていたら、江古田公園に出たので、江古田原の古戦場を見てみようかなと歩きました。

現在の江古田公園の風景です。妙正寺川の向こう滑り台のある側に「史蹟 江古田、沼袋古戦場跡」の碑があったようですが、今回気がつきませんでした。
そんな程度に認識ですが、新青梅街道沿いの、太田道灌の伝説を少し記しておこうと思います。
そもそも、新青梅街道とは何だろうかと思います。西落合一丁目交差点(新宿区西落合・起点)から井草三丁目交差点(杉並区井草)までの街道のようです。基本的に始点から東村山市と東久留米市の市境まで西武新宿線と並行しています。もともとは、青梅街道のバイパスとして道路が建設されましたが、始点~北原交差点その混雑さにより、とてもバイパスとは言えません。でもこの道路の道は、古くからあったのだろうと思われます。
新青梅街道の基点の近くに自性院があります。弘法大師が日光に参詣する途中で観音さまを供養したのが始まりと伝えられる寺院です。
ここに、『猫地蔵』があります。この猫地蔵には、太田道灌が豊島泰継を破った1477年の江古田の合戦の時の伝承があります。
文明9年(1477)、豊嶋城主豊島左ヱ門尉と太田道灌とが合戦した有名な江古田原の戦いのおり、日暮れて、道に迷った道灌の前に一匹の黒猫が現れて、道灌をこのお寺に案内しました。そこで道灌は一夜をあかし危難を免れ、その後兵を率いて勢いを取り戻し、大勝利を得ます。これひとえに猫のおかげと感激して、この猫を大切に養い、死後丁重に葬った上、一体の地蔵尊を造って盛大な供養をし、この地蔵尊を自性院に奉納したというものです。

この自性院には、もう一つ、猫の地蔵があり、猫寺として有名です。この二つの猫地蔵は「猫地蔵堂」(上写真)に納められ、毎年2月3日の節分の日のみ開帳されています。なお、参道には、厳しい顔をした招き猫の像があります。

そもそも江古田原の合戦とはどういうものか、江古田原・沼袋合戦ともいわれるそのいきさつを少し。
文明8年(1476)に、山内上杉の家宰をめぐる後継者争いに敗れた長尾景春(かげはる)は上杉氏に対して反乱の兵をあげます。これが長尾景春の乱です。
豊島氏は、上杉の支配に対する在地の伝統武士の不満から反乱に参加しました。
太田道灌は扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)の家宰として江戸城を中心に勢力を伸ばし豊島氏の豊島郡支配を脅かしていました。
そこで、豊島氏も長尾氏に呼応。扇谷上杉の家宰太田道潅がこもる江戸城と扇谷上杉家の居城・川越城の分断を図ろうとします。豊島氏の動きに対し道潅は4月13日、豊島泰明のこもる平塚城を攻略します。
これに対して豊島泰経は石神井城・練馬城から援軍派遣。翌14日、江古田原・沼袋原で太田道灌の軍と戦闘。これが「江古田原・沼袋合戦」です。泰明は戦死、豊島軍は大敗となります。
新青梅街道には、この江古田の合戦の跡の伝承が残されています。

「葛ケ谷御霊神社」には、「豊島城との戦火において再三の焼打ちに逢い」とご由緒にあります。推定開戦地とされる「四ツ塚跡」。古くから「豊島塚」の1つといわれる「お経塚」「金塚」「古塚跡」「丸山塚・豊玉二百柱社」。道灌による江古田原合戦・戦勝祈願の伝説が残る「江古田氷川神社」、道灌の本陣になったと伝えられる「沼袋氷川神社・道灌杉跡」などなど。

今回立ち寄った北野天満宮も道灌の道灌が江古田原の合戦の戦勝祈願の伝説が残る神社の一つですが、江古田原付近には、合戦以前に道灌が建立した、または戦勝祈願を行ったとされる寺社が多数存在しているようです。

現在の江古田公園の風景です。妙正寺川の向こう滑り台のある側に「史蹟 江古田、沼袋古戦場跡」の碑があったようですが、今回気がつきませんでした。
そんな程度に認識ですが、新青梅街道沿いの、太田道灌の伝説を少し記しておこうと思います。
そもそも、新青梅街道とは何だろうかと思います。西落合一丁目交差点(新宿区西落合・起点)から井草三丁目交差点(杉並区井草)までの街道のようです。基本的に始点から東村山市と東久留米市の市境まで西武新宿線と並行しています。もともとは、青梅街道のバイパスとして道路が建設されましたが、始点~北原交差点その混雑さにより、とてもバイパスとは言えません。でもこの道路の道は、古くからあったのだろうと思われます。
新青梅街道の基点の近くに自性院があります。弘法大師が日光に参詣する途中で観音さまを供養したのが始まりと伝えられる寺院です。
ここに、『猫地蔵』があります。この猫地蔵には、太田道灌が豊島泰継を破った1477年の江古田の合戦の時の伝承があります。
文明9年(1477)、豊嶋城主豊島左ヱ門尉と太田道灌とが合戦した有名な江古田原の戦いのおり、日暮れて、道に迷った道灌の前に一匹の黒猫が現れて、道灌をこのお寺に案内しました。そこで道灌は一夜をあかし危難を免れ、その後兵を率いて勢いを取り戻し、大勝利を得ます。これひとえに猫のおかげと感激して、この猫を大切に養い、死後丁重に葬った上、一体の地蔵尊を造って盛大な供養をし、この地蔵尊を自性院に奉納したというものです。

この自性院には、もう一つ、猫の地蔵があり、猫寺として有名です。この二つの猫地蔵は「猫地蔵堂」(上写真)に納められ、毎年2月3日の節分の日のみ開帳されています。なお、参道には、厳しい顔をした招き猫の像があります。

そもそも江古田原の合戦とはどういうものか、江古田原・沼袋合戦ともいわれるそのいきさつを少し。
文明8年(1476)に、山内上杉の家宰をめぐる後継者争いに敗れた長尾景春(かげはる)は上杉氏に対して反乱の兵をあげます。これが長尾景春の乱です。
豊島氏は、上杉の支配に対する在地の伝統武士の不満から反乱に参加しました。
太田道灌は扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)の家宰として江戸城を中心に勢力を伸ばし豊島氏の豊島郡支配を脅かしていました。
そこで、豊島氏も長尾氏に呼応。扇谷上杉の家宰太田道潅がこもる江戸城と扇谷上杉家の居城・川越城の分断を図ろうとします。豊島氏の動きに対し道潅は4月13日、豊島泰明のこもる平塚城を攻略します。
これに対して豊島泰経は石神井城・練馬城から援軍派遣。翌14日、江古田原・沼袋原で太田道灌の軍と戦闘。これが「江古田原・沼袋合戦」です。泰明は戦死、豊島軍は大敗となります。
新青梅街道には、この江古田の合戦の跡の伝承が残されています。

「葛ケ谷御霊神社」には、「豊島城との戦火において再三の焼打ちに逢い」とご由緒にあります。推定開戦地とされる「四ツ塚跡」。古くから「豊島塚」の1つといわれる「お経塚」「金塚」「古塚跡」「丸山塚・豊玉二百柱社」。道灌による江古田原合戦・戦勝祈願の伝説が残る「江古田氷川神社」、道灌の本陣になったと伝えられる「沼袋氷川神社・道灌杉跡」などなど。

今回立ち寄った北野天満宮も道灌の道灌が江古田原の合戦の戦勝祈願の伝説が残る神社の一つですが、江古田原付近には、合戦以前に道灌が建立した、または戦勝祈願を行ったとされる寺社が多数存在しているようです。
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