本郷の大楠

 司馬遼太郎の『街道をゆく 本郷界隈』に「水道とクスノキがあります。
 「神田上水石樋」を見て、クスノキ、とその前にあった楠亭に行っています。
 しかし、実際は、司馬遼太郎はこの楠の所へな、最初と最後の2度も来ていて、裏の"仏蘭西料理"楠亭で食事をしています。
 司馬遼太郎は本郷の「クスノキ」を書きたかったようです。
本郷の大楠 全景
 樹齢600年を超える巨木です。写真で見ると、それほどには見えないのですが、行って見ると驚きです。それに、樹齢600年にしては、ぜんぜん年寄りじみていません。
本郷の大楠
 案内表記によると、高さ24メートル、幹の太さ9メートルとあります。
 一緒に行った人がメジャーを持っていたので、幹の太さを計ってみると、10メートルを超えていました。
 司馬遼太郎の『街道をゆく 37本郷界隈』は、「週刊朝日」1991年8月~92年2月にかけて連載されました。
 そこから、この楠と楠亭は有名になりました。
 それから25年ばかりもたっています。
 現在も楠亭というフランス料理の店が、三菱地所が開発したマンションの一階に入っていますが、司馬遼太郎の書いた楠亭ではありません。そのころは、広い庭を持つ西洋館のなかにあったそうです。
 司馬遼太郎の『街道をゆく 本郷界隈』には、この楠のあるあたりは、江戸幕府の旗本で四千石・弓組頭の甲斐庄(かいのしょう)氏の屋敷跡であったことが記されています。、 甲斐庄氏は南北朝の楠木正成の直系ではないが、末裔にあたり、徳川氏に取り立てられて、この大楠のある土地に屋敷に住みました。
 楠が取り持つ、なんとも言えない縁です。
 明治になって甲斐庄を楠と改名、明治期は屋敷を維持する。
 <あらたに所有した人は古屋敷をとりこわして、大正ふうの木造西洋館をたてた。このあたらしい持ちぬしは駒沢という人だったそうで(近所に住んでおられた上村明(あき)さんの話)、その後、いまの当主の中山弘二氏の父君がゆずられた。
 いまの当主の中山弘二氏は昭和初年うまれで、この家で育った人である。
 透きとおったような感じの紳士で、この西洋館を愛し、クスノキを大切にしてきた人で、ついに建物と木を保存するため、永年つとめてきた国鉄を退職して、
「楠亭(くすのきてい)」というフランス料理屋をはじめられた。>
 そういった場所です。
 赤煉瓦の塀とスダジイ
この楠の水道歴史館側の煉瓦の赤塀の中にあるシダジイもなかなかりっぱな木です。この木は以前火事があった時延焼を防いだ木だそうです。今は、建物と煉瓦の塀に挟まって苦しそうなので、なんとかしてあげたい気分です。
 そして、大楠の前の瀬川ビル奥には、初代東大工学部長古市公威邸があります。
 明治20年に建てられた近代和風建築(現・登録有形文化財)です。非公開で中はみられませんが、苔庭や茶室、あるいは能舞台もあるようです。小児科医の瀬川 昌世さんが大正12年(1923)家を相続しました。
 以前の戸建住宅はすっかり姿を消して中層マンションが多い地域となっていますが、楠、これからも元気でいてほしいと思いました。

水道橋 神田上懸樋(掛樋)跡

 東京都水道歴史館に行ってきました。2階は江戸時代を中心にした、「上水」の展示。1階は近代から現代の東京の水道の設備やしくみや展示され、それぞれに、大人も子どもも楽しめる展示になっています。
 今回は、東京都水道歴史館までの、「水道橋」のことを記しておきます。
 水道橋から東京都水道歴史館へは少し上り坂になっているのですが、神田川沿いに歩くと、神田上水の史跡が案内されていて、まず、実際を見るには、こちらから行くのが一番です。
 徳川家康が江戸に入ったのは、天正18年(1590)のことです。その時の最大の事業のひとつが上水道を設けたことです。
 まず、小石川から上水を引きました。それを命じられたのは、大久保藤五郎忠行です
 藤五郎は、小石川(現在の後楽園のあたり)の流れを利用し、この水を小さな堀割で駿河台方面へと流しました。
 そのごほうびに、「主人」という名前をいただきました。この「主人」は普通「もんど」といいますが、水が濁ってはよくない、と家康の指示で「もんと」と濁らず呼びました。 この人は、後に日本橋に菓子屋を出します。代々菓子屋を営んだようです。
 小石川の上水はあまりに小規模でした。江戸の街もどんどん大きくなってきます。
 三代将軍家光の頃には、江戸は数十万の人口を抱えるようになり、上水設備の拡張工事が行われるようになります。それで出来たのが、神田上水です。
  神田上水は、井の頭を出て、善福寺川、妙正寺川の水を集め、目白下関口に設けられた堰で取水して、堀割を伝って小石川の水戸屋敷へとまず導かれます。
  その後、地中の導水管へと導かれ、現在の水道橋近くあたりで掛樋となって神田川を渡り、日本橋、京橋、大手町地区に供水していました。
  関口に設けられた堰は、大洗堰と呼ばれます。上水の余水は江戸川となり、船河原橋(現在の飯田橋付近)より下流を神田川と呼びました。
 駅を出て現在の水道橋をわたります。昭和36年架橋の橋で、北詰欄干に「江戸名所図絵 お茶の水 水道橋」の絵図を彫った銅版が埋め込まれています。
現在の水道橋にある銅板

御茶の水 水道橋 神田上水懸樋(かけとい)
 神田上水の架桶(水路橋)の浮世絵で有名なのが、安藤広重の「東都名所 御茶之水之図」です。
広重 東都名所 御茶之水之図
 水道橋の架桶は本郷と猿楽町の間に架けられていたもので、現在の水道橋よりも下流に位置します。
 広重の絵の右手土手の中腹に描かれている家は神田上水の見守番屋です。ここでは、上水を流れてくる芥等を拾い上げるのを任務としていました。
 この「東都名所 御茶之水之図」は、東京都水道歴史館では模型になっていて、「もりやま」とても目立ちます。
 水道橋 神田上水掛樋模型
「もりやま」は、鰻の蒲焼店です。おそらく、江戸市民なら誰知らぬ人のない有名店だったのでしょう。
 そして、この模型の左下端に、本来は土の中にある石樋が見られるように作られています。
 神田上水掛樋模型と石樋の模型
 後楽園あたりから水道橋まで引かれていた「神田上水石樋」です。
 神田上水 石樋の跡
この「神田上水石樋」は、現在、東京都水道歴史館の裏側に復元されて見ることができます。現在、昨年の地震でどこかにヒビが入ったとかで水が流れていませんが、様子がわかります。
 実際に神田川を掛樋をわたった所には、ここがその場所ですよという大きな案内の石碑があります。
神田上水掛樋跡の碑
 ここを見て、東京都水道歴史館に行くか、帰りにここを見るか、とにかく近いので、ぜひ合わせて見学したいものです。

いずれがあやめ、かきつばた

「いずれがあやめ、かきつばた」という言葉があります。
 どれも素晴らしく優劣は付け難いという意味ですが、見分けがつけにくいという意味にも用いられます。
 違いのポイント、咲く場所
 あやめは畑のような乾燥地で栽培し、かきつばたは水辺などの湿地帯に、花菖蒲はその中間で畑地でも湿地でも栽培できます。
 違いのポイント2、花弁の元を見る。
 あやめは、 剣状の細い葉が縦に並んでいる様子が文目(あやめ)模様。 かきつばたが白の目型模様。花菖蒲が黄色の目型模様。
 ポイント3、花の大きさは、花菖蒲が大輪、あやめが小輪、かきつばたが中輪。

 あやめは山野の草地に生えます。5月ごろに径8cmほどの緑色の花を1~3個付ける。外花被片(前面に垂れ下がった花びら)には網目模様があります。
 
自然 カキツバタ2
 かきつばた(杜若)は、
 かきつばたの色(青紫)を染み出させ布などに書き付けた、つまり衣の染料に使われたことから「書付花」と呼ばれていたのがなまって、この名称がつきました。

 自然 ショウブ
菖蒲湯の菖蒲はサトイモ科で別物です。葉っぱがにているだけ。花も咲くことは咲くけどきれいな花ではなく、蒲(がま)の穂みたいな黄色い花です。
 
自然 キショウブ
 はなしょうぶ(花菖蒲)は、 葉が菖蒲に似ていて花を咲かせるからそう呼ばれます。
 (写真は、自然教育園の花です)
 万葉の頃はかきつばたが詠まれ、菖蒲というと葉菖蒲のことでした。

ウツギ 夏は来ぬ

ウツギは、空木とも書いて、幹の中が空洞になっているのでそう呼ばれます。別名ウノハナです。ウノハナと言えば、「夏は来ぬ」です。
  ♪卯の花の匂う垣根に   
   ほととぎす 早も来鳴きて
   忍音もらす  夏は来ぬ 「夏は来ぬ」) 佐々木信綱作詞
自然 ウツギ
 ウツギにはたくさんの種類があります。
 共通する特徴は、ほとんどが今の季節に花を咲かせ、低木かせいぜい亜高木であること。株葉は対生、楕円で先が尖っていることなどがあるようです。
 自然教育園で、3種のウツギを見ました。
 マルバウツギとウツギとコゴメウツギです。
自然 マルバウツギ
 マルバウツギとウツギは、ユキノシタ科。コゴメウツギは、バラ科です。
 本来の「ウツギ」というのは、ユキノシタ科のものです。 
 万葉集の歌から
 
  五月山(さつきやま) 卯の花月夜 ほととぎす
             聞けども飽かず また鳴かぬかも  
                    作者未詳 巻10の1953  
(五月の山を月が皓々と照らしている。月光が卯の花をぼうっと白く浮き立たせて実に美しい。ホトトギスの声が聞こえてきた。いくら聞いても飽きません。もう一度鳴いてほしいものだ)

  卯の花を腐す長雨(ながめ)の 水始(みずはな)に
             寄る木屑(こつみ)なす 寄らむ子もがも」 
                       大伴家持 巻19の4217 
 
(卯の花を痛める長雨で水かさが多くなった川、その流れの先に木の屑がいっぱい集まっている。このような木屑のように私のところに美しい女性が集まってくれたらいいのにな)

自然 コゴメウツギ
 コゴメウツギは小米空木と書きます。名の由来は「花序のようすが米が砕けた小米に見立てたことによる」ということです。
写真のウツギの花はもう少し先のようです。

「ちひろ美術館」ちひろと香月泰男 ― 母のまなざし、父のまなざし ―

 上井草にある「ちひろ美術館」に行ってきました。
 ちひろと香月泰男 ― 母のまなざし、父のまなざし ―を見たいと思ったのです。
 香月泰男の作品が好きで、最近、展覧会がないのが寂しいと思っていました(私が展覧会に気がついていないだけか
もしれませんが)。
 絵画も好きですが、廃材で作ったおもちゃが素敵です。
 香月泰男は「制作のほとんどのモチーフを追憶のなかと、家から2、3分の距離より望見されるものにしか求めていない」と言われます。そういった所にも惹かれます。
香月泰男が家族にあてたハガキ
 今回は、昭和17年(1933)、満州(現・中国東北部)のハイラルに配属され、終戦を迎えるまでの2年間、家族へ絵葉書を送り続けたというハガキが胸を打ちました。遠く離れて会うことのかなわない家族への想いが強く表れています。
 その展示にあわせて、いわさきちひろのスケッチが並べられていますが、息子や夫などが丁寧に描かれています。
 ちょうどいわさきちひろの息子の松本猛氏がギャラリートークをされて、思い出や作品にまつわるエピソードを語ってくださいました。母のように絵を描くことができなくて、絵画の道をあきらめたこととか、いわさきちひろが最後に完成させた絵本『戦火のなかの子どもたち』の構成は、松本猛氏がなされたとか、とてもはっきりした口調で話され、いいときに来たと思いました。
 いわさきちひろと香月泰男は、年齢差は7歳。ほぼ同時代です。面識はなかったとのことですが、 身近な草花や小さな生き物をモチーフにしているとか、第二次世界大戦が大きな転換点になったとか、共通する所が多いです。
 戦争の与えた影響は特に大きいです。
 いわさきちひろは、多くの犠牲を伴った戦争を体験し、以後、一番弱い立場の人々に心を寄せて絵を描く決心をしましました。
 香月泰男 は、戦後2年間、シベリアで、抑留者として生き、厳しい環境のなかで戦友たちの相次ぐ死に接します。そこで体感した想いを、帰国後、キャンバスに向けました。
、そうした、自分の体験と重ねながら、平和への想いを強く表現しています。
 二人を「母のまなざし、父のまなざし」で並べての展示、企画が素晴らしいと思いました。
プロフィール

Author:作州浪人
「隠居」と言った方が良い境遇にありますが、心の在り方としては「素浪人」でありたいと思っています。なお作州浪人はあの宮本武蔵にちなんでいます。郷里が近いのです。
 またバックに使わせてもらっている手拭いの模様、「鎌」に「輪っか」にひらがなの「ぬ」。「かまわぬ」といかにも江戸人の気っ風が感じられ、好きです。 

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